ほんほん

拾読と老軽ニュース

ほんほん53

◆拾読(しゅうどく)という読み方がある。拾い読み(ピックアップ・リーディング)のことだ。パラパラとページをめくるイメージがあるかもしれないが、そうとはかぎらない。アタマの中のエンジンの「読みモード」スイッチを「早送り」にする。だから速読なのではない。意味の読み取りはノーマルスピードのままなのだ。だから映画のビデオを早送りで見るのとは違う。あれでは会話が聞き取れない。拾読は文字が見えている。
◆最近の拾い読み、いくつか。デイビッド・バリー『動物たちのナビゲーションの謎を解く』(インターシフト)。動物がGPSを持っているのではなく、GPSが分化して動物になったのだ。真木太一編『日本の風』(朝倉書店)。農業気象学のベテランが50をこえる風の意味を「見える」ものにした。風の工学だ。エンツォ・トラヴェルソ『一人称の過去』(未来社)。歴史が「私」の語りによって創造的な可能性を孕みつつも、政治的な曖昧度を広げすぎて一人称の力を失っていく問題を扱った。『全体主義』や『ヨーロッパの内戦』などの歴史学者が歴史語りの人称を問うたのである。鵜飼秀徳『仏教の大東亜戦争』(文春新書)。耳が痛い仏教関係者もいるかもしれないが、この「殺生とは何か」を通らなければ仏教力は浮上しない。
◆また、いくつか。ポール・フルネル『編集者とタブレット』(東京創元社)。紙の本が好きなら必読だ。久しぶりにナンシー関のシリーズ(角川文庫)。『何をいまさら』『何の因果で』『何が何だか』『何もそこまで』など。鬱憤抜きのためにはもってこいである。ぼくは拾読はたいていリクライニングチェアでしているのだが、ナンシー関はそこでは女王さまである。ラニ・シン編『ハリー・スミスは語る』(カンパニー社)。後藤護君が送ってくれた一冊で、黒魔術っぽいけれど、平岡正明っぽい。拾い読みしてすぐに、そうか宇川直宏がずっと以前に話していたあれかと思い出した。野嶋剛『新中国論』(平凡社新書)。香港と台湾を嬲(なぶ)る習近平の意図をまとめたものだが、抉ってはいない。山極寿一『人間社会、ここがおかしい』(毎日文庫)。例によってゴリラが人間を見破っていく。
◆ナンシー関や山極寿一ではないが、何かがおかしいはずなのに、何かがヘンなはずなのに、その原因や正体かがわからないことは多い。科学はそこから始まるのだけれど、このところ「おかしいぞ」が多すぎて、これは文明のせいだとか現在日本のせいだなどと大ざっぱになってきて、まずい。
◆最近のニュース。湊部屋の逸ノ城が優勝したのに盛り上らない。それでいいのか。安倍晋三元首相が応援演説中に銃撃され即死。狙撃犯は母が貢いだ旧統一教会を恨んでの犯行だったようだが、世論のオピニオンは「民主主義への挑戦だ」と言う。それでいいのか。参院選は自民圧勝。維新に中条きよし、れいわに水道橋博士、参政党に神谷宗弊、N党にガーシー。何に向かうのか。コロナまたまた感染爆発して第7波、わが周辺にもちらほら感染者や濃厚接触者が出てきたが、ぼくはいまだマスク着用頻度がきわめて低い。ぼくはこれでいいのか。
◆ロシアとウクライナの歴史と現状について、先だって佐藤優さんに『情報の歴史21』を使いながら本楼で話してもらった。グラゴール文字文化とキリル文化の話、ガリツィア(紅ルーシ)のナショナリズムとイエズス会の話、マイダン革命の奥のウクライナ民族主義者ステパン・バンデラの話などに聞きいった。話は読書指南にもなっていて、防衛研究所の『ウクライナ戦争の衝撃』(インターブックス)よりも、エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書)、副島隆彦『プーチンを罠にはめ、策略に陥れた英米ディープステイト』(秀和システム)を読んだほうがいい、あの戦争の背景思想を知りたければ片山杜秀の『皇国史観』(文春新書)に書いてあることを読んだほうがいいと薦めていた。佐藤さんの話は「謎」が組み合わさるようになっていて、あいかわらず愉快だ。
◆最近のぼくの「老軽(ローカル)ニュース」少々。弁当一人前が一度で平らげられない。残して夜中に半分を食べる。メガネのフレームを太めの黒縁にした。気分転換だ。遠近と近々を誂えた。BS「一番新しい古代史」が終了。やたらに評判がよかったらしい。おしっこが一日10回以上になった。ガマンも効かないので、会合などで何食わぬ顔で立つための「芸」が必要になってきた。早く喋れず、声も響かない。息継ぎと発話のタイミングもずれる。それに座布団がないと、どこに坐ってもお尻が痛い。数年前から痩せているせいだ。そろそろ人前に我が身を晒せないのである。でもタバコは着々ふえている。それはそれ、寝床に入ると黒猫ナカグロがゆっくりくっついて寝る。爺さんどうしの二人寝である。
◆15離が始まって半分まで来た。離学衆も指南陣もいい。37期の花伝所がおわった。これまでになく充実している。新しい世代の活躍も目立ってきた。イシス編集学校が「ぼく」の代わりなのだ。これはコレクティブ・ブレインの創発なのだろうか、やっとの人麻呂代作集団の出現なのだろうか、面影編集一座の旗揚げなのだろうか。とりあえずは、こう言っておく。「師範代、出番ですよ」。

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聖少女

倉橋由美子

新潮社 1965

 今日のあまたの現代小説、なかでも村上春樹吉本ばなな江国香織に代表され、それがくりかえし踏襲され、換骨奪胎され、稀釈もされている小説群の最初の母型は、倉橋由美子の『聖少女』にあったのではないかと、ぼくはひそかに思っている。
 しかし今夜は、そのことについては書かない。その程度のことなら、『聖少女』を読んでみればすぐわかるはずのことである。そのかわり、ぼく自身がずっと倉橋由美子を偏愛してきた理由をいくつかに絞って書いておく。

 大学2年か3年のときだったから、もう40年ほども前のことになるが、『聖少女』を読んだときの衝撃といったら、なかった。どぎまぎし、たじろぎ、そして慌てた。
 いろいろな衝撃だったけれど、その感想を大別すれば二つになる。ひとつには、こういう小説がありえたのかと思った。こういう小説というのは、男女の関係を奔放な文体と告白で克明に綴っていることそのものが、実は文面上もフィクション(擬態)であったということを、作家倉橋由美子がもうひとつ裏側からフィクション(擬構造)しているということだった。これについては、あとでもうすこし詳しく説明する。
 もうひとつは、「いま、血を流しているところなのよ、パパ」などというふうに唐突に始まる小説など、当時はまったく初めてで、しかもそういうことを若い女流作家が書くということも初めてで、そういう書きっぷりを含めて、ここまで「少女であろうとする女の感覚の正体」を突きつけられたことに、ただただ青年松岡正剛が周章狼狽したということだ。これについても書きたいことはあれこれあるけれど、今夜はやめておく。なんだか、松岡正剛の男性的幼児性の大半が露呈しそうであるからだ(バレてるか)。

 倉橋由美子が明治大学在学中に書いた『パルタイ』を「文学界」で読んだとき、ぼくはちょうど早稲田への進学を決めていた。
 早稲田には「学生運動」という“エクササイズ”をするために入りに行ったようなものだったから(あわよくばプルーストを読むためでもあったが)、『パルタイ』を文学として読んだというより、なるほど、時の共産党神話はこのような学生の意識や行動によって崩壊していくのかという読みかたしかできなかった。だからこのときは倉橋由美子の社会派としての問題意識だけしか読めなかった。ちなみにパルタイとは日本共産党の蔑称である。
 それが次の『蛇』では男が妊娠する話となり、『暗い旅』では二人称でも物語が成立するというふうになっていって、ちょうどアンチロマンやアンチテアトロを対岸の冒険として読んでいた目が、たちまち倉橋由美子のもうひとつの鬼才ぶりに吸い寄せられていったのだった。安部公房でもない、井上光晴でもない、別役実でもない、まして大江健三郎でもない新たな才能を見せられた。これは凄いぞと思った。そしてその次が『聖少女』だったのである。

 この作品はさっきも書いたように、綴られていく情報そのものが擬態を含んでいて、読みおわるまでどの記述や告白ややりとりが“物語内事実”であるかどうか、わからないようになっている。
 物語は、未記という少女(といっても22歳だが)に出会った「ぼく」の記述と未記のノートが交錯しながら進む。未記は横須賀街道で交通事故にあって同乗していた母を一瞬にして失い、自分も頭を負傷する。記憶の一部も損傷され、失われたらしい。やがて「ぼく」は未記が記憶だけでなく「自己」のどこかを破壊されたのだろうことに気がつく。そこに入院中の未記から分厚いノートが届く。日記のようである。その冒頭が「いま、血を流しているところなのよ、パパ」なのだ。さらに「なぜ、だれのために? パパのために、そしてパパを愛したためにです」と続いていく。パパが誰であるかは、はっきりしない。
 読者は、このノートからしか未記の過去の日々を知ることはできない。そこには「あたし」(未記)とパパのほかに母親やMという少女も出てくる。フランス人とアメリカ人にフランス語や英語を習っていることや、ルイ・マルの『恋人たち』を見たりしていることなども綿々と綴られている。未記とMの関係もあやしい。
 けれども、そこに書いてあることが事実であるかどうかはわからない。「ぼく」は未記が勝手な嘘を書いたのではないかと疑うのだが、そこへまたもう一冊のノートが登場する。ここには事故をおこしたのちの未記の身辺と心情が綴られていた‥‥。

 話はこのように進んでいくのだが、なんといっても未記のノートがおもしろい。そこにはまさに「聖少女」がいる。高野文子や大島弓子はここにいた。
 しかし物語のほうは、「ぼく」と未記の現実の日々もしるされていく。二人の睦みあいや絡みあい、ポール・オースターや村上春樹をとっくに先取りしていたかのような会話も多い。「ぼく」の周辺のコミュニティ(「ぼく」は学生運動家なのである)のこともしるされていく。そこにノートも挿入される。そして最後には、実は「ぼく」がこれらのすべてを小説として書いたのかもしれないというような一行も出てくる。

 すべてが虚実皮膜といえば、そう見えるのだが、倉橋由美子の文体はとびきりのアクチュアリティをもっていて、どの場面にもどの会話にもどの知識にも、手を抜かない。読者は完全に騙される。
 小説がフィクションであることは当たり前であるけれど、それを登場人物が「嘘」をまじえて作意しているのだから、この物語を作品化しつつある作家は二重の擬似構造を仕掛けたということになる。
 今日ならばさしずめ「メタフィクション」という便利な呼称で説明できそうなこの二重性あるいは多重性は、しかし倉橋由美子にとってはどうでもいいこと、あるいは至極当然のことであるようだった。
 この作家は、国家や社会やイデオロギーや恋愛や、そして物語そのものが、そのような「表象としての擬態」でしかないことを見抜いていて、その擬似構造そのものをつかって、むしろそんな擬態にはかかわりなく「愛」や「国」や「物語」の本来を直截に、われわれの魂の隙間に放りこもうとしていた。そう、読めた。
 このことを説明するには、ずっとあとになって発表された『大人のための残酷童話』(1984)を例にしたほうがわかりやすいかもしれない。「一寸法師の恋」「白雪姫」「虫になったザムザの話」「猿蟹戦争」「かぐや姫」「魔法の豆の木」など、世に有名な童話や伝説や名作を素材に、これを料理したものである。評判になった。
 たとえば、「白雪姫」はこうなっている。縮めて書いておく。

 昔、ある国のお妃(きさき)に、雪のように美しい女の子が生まれました。白雪姫と名付けられ、ますます美しくなりましたが、お母様は病気がちで亡くなってしまいます。亡くなる前に小さな瓶を渡して、「危ないことがあったら、この薬を顔や手足に塗りなさい。危険が去ったら森の泉で洗い落としなさい」。
 王様はまもなく新しい妃を迎えました。白雪姫にとっては継母です。継母はいつも魔法の鏡を見ては「世界で一番美しいのは誰?」と尋ねては、「一番美しいのは女王様です」という答えを聞いては悦に入ってました。ところが、白雪姫が成長するにつれ、鏡はだんだん「白雪姫のほうが美しいかもしれない」と迷いはじめます。
 継母は森番の男に白雪姫を殺してその心臓と肝臓を証拠にもってくるように命じました。森番はさっそく白雪姫に襲いかかるのですが、白雪姫が泣いて嘆願し「なんでもするから」と言うので、森番は遠慮なく犯してしまいました。そして猪を殺してその心臓と肝臓を持ち帰りました。犯された白雪姫は森をさまよっているうちに、一軒の小さな家を見つけます。入ってみると7人分の小さな食器が机に並んでいます。山に入って金鉱や鉱脈を掘っている小人たちでした。白雪姫は頼みこんで、ここに暮らすことにしました。ひとつ条件がありました。小人たちの夜のお相手をしてあげることです。

 さて、継母は自信たっぷりに鏡に聞きました。けれども鏡は「森の白雪姫のほうがずっと美しい」と答えるではありませんか。継母は怒り狂って計画を練ります。
 最初は物売りの老婆に変装して毒の口紅を売り、次は若い下着売りに変装して肌が爛れる下着を売るのですが、そのたびに小人たちが助けてしまいます。ついに百姓女に変装して毒リンゴを買わせると、白雪姫はたちまち喉をつまらせ、体中がおかしくなってしまいました。小人たちが手を尽くしても治りません。

『大人のための残酷童話』より、横たわる白雪姫と小人

『大人のための残酷童話』より、横たわる白雪姫と小人

 そこへある国の王子様が通りかかって、白雪姫の不幸な話を聞き、自分が女王を懲らしめてくると言いました。
 けれども王子はお城に行って女王の色香に参ってしまい、あまつさえ女王が王を亡きものにしたいという頼みを聞いて王を殺してしまいます。こうして二人はめでたく結ばれました。
 言い忘れましたが、白雪姫のほうはお母様から渡された瓶を思い出して、それをいっしょうけんめい塗ったのですが、かえって体中が青黒くなってしまいました。それでも白雪姫は小人たちの子供をたくさん生んでなかよく暮らしたということです‥‥。

 ざっとこんなふうなのだ。解説は必要ないだろう。ここには「本歌取り」があるだけではなく、それを翻弄し、逆転させ、本質を外側に放り出すという仕掛けが組まれている。
 倉橋由美子自身は『大人のための残酷童話』を、「描写を通じて情に訴えるという要素をすっかり棄てて、論理によって想像力を作動させることを狙っている」と解説していた。強烈で、物事に動じていない魂胆である。
 これでおわかりのように、この作家は描写によって登場人物の心理を伝えることなど(たいへんそれもうまいのだが)、どうでもいいことなのだ。それよりも小説という様式をつかって、読者の「素の想像力」に直截に何かを投げこもうとしている。そのために、物語をいつも「読むこと」と重ねすぎないようにしているわけなのである。これでは読者が(ぼくが)どぎまぎするのは当然だったのだ。
 とくに感じるのは、倉橋由美子が「本歌」を普遍的にとらえていて、ギリシア悲劇も童話もフランス革命もアメリカの歴史も「本歌」だとみなしているということである。だから、この作家が「本歌取り」をするときは、とんでもない魂胆で刃向かっているということなのである。
 しかし、これだけのことで倉橋由美子を褒めるのは、まだ足りないような気もする。この作家にはもっと大掛かりな思想があるとも感じる。それをここでは言い当てるようなことはしないけれど、一言だけ暗示しておけば、それこそ「少女のオントロジー」が最大限に凝縮された文学思想になったということではないかということだ。

附記¶長編『聖少女』の先行作品には『私の心はパパのもの』がある。そのほかの代表作として『スミヤキストQの冒険』『夢の浮橋』『シュンポシオン』『アマノン国往還記』など。いずれも傑作である。ぼくは『城の中の城』がいまなお気になっていて、ここに描かれた日本におけるキリスト者たちの偽善についての論議、とくにその本質がキリスト教そのものにあるのではないかという指摘にはぐさっときた。短編の名手でもある。70年代までの作品の大半は『倉橋由美子全作品』全8巻(新潮社)に入っている。