才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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あいだ

木村敏

弘文堂 1988

編集:重松英樹(弘文堂)・大山悦子(筑摩書房)
装幀:代田奨(弘文堂)・高麗隆彦(ちくま)

生命と人間のあいだ。記憶と表現のあいだ。
主体と客観。ノエシスとノエマ。
自分とそれ以外のもの。私と他者。
脳と心と体のあいだ。アナザーセルフ。
われわれはいつも、さまざまな「あいだ」にいる。
この「あいだ」とは何なのか。
「あいだ」は夾雑物なのか。隔てるものなのか、
近しいものなのか。それとも実は
われわれが「あいだ」そのものなのか。
木村敏さんに倣って、このことを考えてみたい。

 読書というものは、誰かのお世話になることだ。たいていは著者のお世話になるわけだが、実は編集者や翻訳家、書店や古本屋、図版作成者、デザイナー、写真家、解説者、書評者などのお世話にもなっている。
 映画を見ているときだって、スクリーンに入っていけるのは監督や役者や作曲家やコスチュームデザイナーの、とりわけカメラの恩恵を受けているからであるように、読書をするときもそうした援軍的職能の恩恵に浴するつもりでいると、案外、さまざまなことをたのしめる。ぼくは「目次の工夫」に、たいてい扶けられてきた。目次は本のカメラアングル一覧なのである。目次を読んでいなかったら、ぼくの読書量は5分の1に落ちていただろう。
 もっとも本というもの、出来のいいものばかりとはかぎらないので(世の中の5分の3はつまらない本だ)、本によってはときどき当方がお世話したくなる場合もあるけれど(笑)、まあ、これは同業の誼みとして赦すことにする。

 さて、ぼくはこれまで長らく木村敏さんの精神医学論やその哲学的思索のお世話になってきた。
 タイトルに惹かれて『時間と自己』(中公新書)を読んだのがきっかけで、そのあとはしばらく木村さんが訳したヴァイツゼッカー(756夜)の『ゲシュタルトクライス』(みすず書房)にはまり、ついで『人と人との間』『自己・あいだ・時間』『あいだ』(いずれも弘文堂)へ、そして『関係としての自己』(みすず書房)というふうに読んできた。
 これらのタイトルでもわかるように、木村さんの主題は「あいだ」にある。
 「あいだ」だなんて、なんともすばらしい眼目だ。これを言われたら「参った」だ。ただし、この「あいだ」、けっこう手強い。なぜかというと、この「あいだ」は物理的な空間や時間のことではない。渋谷と新宿の中間地点や区域のことでもない。何かのビトウィーンな間隔や隙間なのではない。自分にまつわる「あいだ」なのだ。つまりは無人称な「あいだ」ではないものなのだ。
 自分にまつわる「あいだ」ということは、自分や自己を成立させているものである。ふつう、自分や自己をつくっているのは自我(エゴ)や個我や自己意識や、エス(無意識・イド)やスーパーエゴのようなものだと思われてきた。それが「あいだ」こそ自分に関係があるという。

 いったい、そういう「あいだ」ってどういうものなのか。実体のあるものなのか。いや「もの」ではなく、おそらくそれは「こと」なのである。その「こと」が自己や自分というものにくっついている。
 というのも、精神病理学的に言うと、この「あいだ」に亀裂が入ったり、「あいだ」のどこかがツイストしていたり、そこに不鮮明な膜が陥入していたりすると、おおむね精神病とみなしてきたわけなのだ。ということは、そうした病いを治癒するには「あいだ」の回復が重要になるということだ。心の病いは「もの」がおかしくなるのではなく、「こと」がおかしくなる。
 それだけに、この「あいだ」はそんじょそこらの「わだかまり」では説明のつくものではなく、精神とか意識とか魂とか、本能とか気分とか無意識とかアラーヤ識とかと呼ばれてきた得体の知れない何かに絡みついている「こと」なのである。ただし、正体はたいへんわかりにくい。
 でも木村さんは、このような自己にまつわる「こと」としての「あいだ」に関心をもち、一貫してそこに探求の目を注いできた。そのため大好きなヴァイツゼッカーの思索を敷衍しながら、ドイツ仕込みの精神医学を駆使し、ときに西田幾多郎(1086夜)の哲学を借りつつ日本的な「あいだ」の感覚をもそこに読みとろうとしてきた人なのである。
 むろんこれだけでは、まだ何が何だかわからないだろうから、少し説明する。

ヴァイツゼッカー(左)と西田幾多郎(右)

 木村さんには、木村さんの「あいだ」論で前提にしているとても大事な仮説がある。それは、次のような仮説だ。
 「この地球上には、生命一般の根拠とでもいうべきものがあるはずであって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれという存在が行為的にも感覚的にも、この生命一般の根拠とのつながりを維持しているということにほかならない」。
 こういう仮説が前提になっている。この「生命一般の根拠」は個体の生命活動のいちいちにとらわれるものではない。したがって個々の生死には関知していない。一人ひとりの時々刻々の出来事や意識にも左右されていない。もっとディープで、かつディープなままにどこかに広がっているリゾームのように根をのばす根拠性だ。
 ヴァイツゼッカーは『ゲシュタルトクライス』でそれを「根拠関係」(Grundverhältnis)と呼ぶのだが、難しい定義はさておくとすると、「生死一般の根拠」はそれ自体としては対象にはなりえないもので、生命はこの根拠関係にかかわるけれど、その根拠自体は取り出せないものだということになる。
 つまり、われわれが「生きているな」「みんなのことを感じるな」「死にたくないな」というとき、そこには何か奥のほうからのなんらかの“原-関係力”のようなものとのつながりが作用しているはずで、それはおそらく生命活動にもとづく根拠関係との「かかわり」によるものなのだということだ。

 ヴァイツゼッカーがこの「かかわり」を「からみあい」と言っていたことは、756夜にも紹介した。「からみあい」は木村さんが「ゲシュタルトクライス」をわかりやすい日本語に移した言葉だった。
 このように、木村さんの言う「あいだ」は、生命一般の根拠関係との「かかわり」や「からみあい」のもとに成立している範囲のことなのである。そして、この範囲こそが自己を成立させている「あいだ」だったのである。

書・松岡正剛

 1509夜にトール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン』を紹介した。「私」は脳にだまされているのではないか、というセンセーショナルな仮説を提起したもので、ベンジャミン・リベットの一連の脳実験を援用していた。
 そのときも書いておいたのだが、ノーレットランダーシュが言いたかったことは、こういうことだった。
 「私」というものが「意識」によって形成されているとしても、その意識が示す感覚データはすでに脳による大幅な処理をうけている。感覚も知覚も、ナマなものではない。それらはすでに脳のネットワークがかなりの処理を加えたコンテクストの中におかれているのであって、そのカプセルの経験をそのまま意識が反映(あるいは射影)しているにすぎない。
 ところが、そういうふうになっているんですよということを、意識は「私」に教えてはくれない。たとえば、脳が「どんな情報を捨てたか」ということは意識にのぼってこない。採用した情報だけが意識にのぼる(そうでないものは「夢」などで混乱状態をさらけだす)。それゆえ「私」はその処理のプロセスがどんなふうになっているのか、知らないままにいる。
 意識は現実の世界についての二つのアプローチを一緒くたにして、「私」をだましているのだ。
 二つのアプローチとは、一方は「外界から感じる刺激にまつわるアプローチ」、他方は「そういう体験を説明するためにもつイメージに関するアプローチ」なのだが、意識はこれらを巧みに一緒くたにしてしまっている。そのため「私」は、つねにそのような一緒くたの操作を区別しない“ユーザーイリュージョン”の中にいつづける。
 それは、あたかもニュースキュスターの声はテレビの機械本体から聞こえているのに、「私」はそれがキャスターの口からいままさに発せられていると思いこめるようなものだ。

 ノーレットランダーシュはさらに大胆に推理した。「私」とは実は、このような“ユーザーイリュージョン”を成立させているシミュレーションとしての「私」なのではあるまいか。あるいはヴァーチャルな意図を演じる「私」なのではあるまいか。そこには、或る根本的なズレがかかわっているのではあるまいか、というふうに。
 またさらに、この「ズレ」がまわりまわって、「私」の意識にセルフ1とセルフ2のようなものをつくってしまったのだともみなした(セルフ1・2という言い方はティモシー・ゴールウェイの用語)。セルフ1は意思をもつ主体、セルフ2はその意思にかかわらず現実化している主体だ。
 たとえば、テニスでスマッシュを決めようとしているのがセルフ1、そんなスマッシュにならないほうを演じてしまっているのがセルフ2だ。そういうふうに言ってもいいだろう。ソチ・オリンピックでの浅田真央ちゃんは、このセルフ1とセルフ2のズレと葛藤にまさにもがいていた。
 ベンジャミン・リベットの実験では、セルフ1とセルフ2の「あいだ」は僅か0.2秒のズレなのだが、それがときに決定的なのである。真央ちゃんも、この0.2秒に泣いたのだ。

デンマークの科学評論家、トール・ノーレットランダーシュ

ベンジャミン・リベット(左)とティモシー・ゴールウェイ(右)

ベンジャミン・リベットが測定した意識の遅れ。
動作は0秒の時点で実行される。
(『ユーザー・イリュージョン』p.269より)

 だいたいはこういう仮説なのだが、木村さんの言う「あいだ」は、このズレをもっと大きく掴まえた。0.2秒を時間的にも空間的にも広げたのである。そこに生命の根拠関係もが動向していると捉えたのである。
 しかしながら、「あいだ」を大きく捉えると、そのぶん「私」や「自己」にまとわりつく「範囲」を実感しにくくもなる。なにしろセルフ1とセルフ2の矛盾と葛藤が生命の根拠関係にもおよんでいるのだから、これは精神医学の治療にあたっては、いささか大きすぎる。
 そこで木村さんは、この「あいだ」を多少なりとも実感できるものとして「祭り」を想定するようにした。そして、「私」や「自己」にからみつく心理的な「あいだ」には、祭りのアトサキに類する過集中や過放置が関与して、そこでの歪みが心の病いをつくっているのではないかと考えた。
 こうして、祭りをひとまず時間的に区分して、「祭りの前」(アンテ・フェストゥム)、「祭りの中」(イントラ・フェストゥム)、「祭りの後」(ポスト・フェストゥム)と分けた。そしてこの3つには何かの違いがあるのではないか、代表的な精神病はこの3つにおおまかに対応しているのではないかと仮説したのだった。
 いまではこの3つは、「祭りの前」が統合失調症的にあてはまり、「祭りの中」が癇癪症的で、「祭りの後」が憂鬱病的にあてはまるのではないかと解釈されている。

 祭りは、われわれを不思議な気分にさせる。そこに参入していることと、そこに参入させられているということが、からみあっている。
 ふだんは出会えないスペクタクルが眼前にあらわれ、そこに臨んだ者たちを別のところへ誘っていく。多くの祭りはなにがしかの歴史的背景をもっていて、ここでおこっていることは、ずっと以前から繰り返されていることだとも、思わせる。
 ぼくも、何度も祭りに臨んでいるときの奇妙な実感を味わってきた。楽しいのに哀しかったり、賑わっているのに寂しかったりした。友人たちが、ちょっとしたことで別人に感じられもした。祭りには多くの非日常的な要素が多層多様になっているので、「私」や「自己」にひそんでいたいろいろなことが多義に引き出され、拡張するようにも思えるのであろう。

 木村さん以外の精神医学者はあまり「祭り」に注目していなかったけれど(注目してきたのは文化人類学のほうだった)、たしかに「祭り」はうまく扱えば、精神の祝祭や意識の多義性の説明に使えるはずなのだ。
 グレゴリー・ベイトソン(446夜)がナヴェン族の祭儀を調査して、その異装的交換が部族内の片寄りを解消させる「相補的分裂生成」(シズモジェネシス)になっていると指摘したのは、有名な話だ。
 たしかに祭りには仮装や異装がともなうことが多く、そこに何らかのアルター・エゴやエクストラ・アバターの“編集”がすすむようになっているのであろう。 
 けれども、精神障害というものは、祭りのような儀式的でファナティックな集合力のなかで引き出されるものともいえる一方、個人の奥に向かおうとして生起されていくものでもある。
 ニーチェ(1023夜)ふうに言うのなら、ディオニソス的な情感が過集中や過放置によって歪むことも多かろうが、他方、アポロン的な理性の中から見いだせるものもあるはずだ。
 このようなときは、祭りに代わって何か別なメタファーが使えたほうがいい。 

ナヴェン族の祭りの様子

 木村さんは若い頃からピアノに堪能で、音楽にめっぽう明るい人である。学生時代には毎日新聞主催のコンクールで1位になったこともあった。息子の木村元さんも音楽出版社アルテスパブリッシングの代表を務める。
 そういう音楽派なので、木村さんは「あいだ」の説明としてしばしば音楽の例を持ち出すことがある。祭りが集合的個人のメタファーだとすると、音楽は個人的集合性のメタファーになりうるのではないか。そう考えて音楽にひそむ「あいだ」にも考察を向けた。
 木村さんは音楽の演奏という行為が、およそ3つの契機で成り立つとみなした。(A)瞬間瞬間の現在で音楽をつくりだしているという行為、(B)自分が演奏している音楽を聴いているという行為、(C)これから演奏する音や休止を先取り的に予期する行為。この3つだ。
 むろん3つはいろいろ重なりあい、組み合わさっている。しかしながら、この3つは(A)と(B・C)ではかなり異なるものなのではないか。(A)の行為は音楽の発露をめざすノエシス的な行為であり、音楽の発生が古代や幼児にさかのぼることを考えあわせると、おそらく生命の律動つまりは生命一般の根拠関係にかかわっているはずである。
 これに対して(B・C)はノエマ的な“意識されている音楽”の行為なのだ。(A)がセルフ1であるとすると、(B)と(C)はセルフ2に属する。

 意識をノエシスとノエマに分けるのは、フッサール現象学の常套手段である。ドイツ哲学に入りこむと、たいていこの振り分けに出会う。
 意識そのものの能動的な側面がノエシスで、その意識が何かについて意識している場合をノエマ的という。意識の作用そのものがノエシスで、意識の対象的側面がノエマだ。いずれもギリシア語の「ヌース」(精神・理性)から派生した。フッサールは意識の志向性を考究して、このような振り分けをした。
 で、木村さんは、音楽演奏はノエシスがノエマに投影しながら進んでいるとみなしたのである。これは独奏者においても合奏者においても、そうなっているのではないか。そのようにみなしたうえで、では音楽そのものがどこで“鳴っている”かといえば、木村さんはノエシスとノエマの「あいだ」で“鳴っている”とみなすしかないだろうと言うのだ。
 もっと端的にいうのなら、音楽はそれを意識したとたん、ゲシュタルトクライスになるということだ。「あいだ」になるということだ。音楽的なユーザーイリュージョンをつくるということだ。ということはピアニストたちも、0.2秒のズレと闘っているということなのだ。
 それはフッサールならば「間主観性」のあいだというものにあたるだろうし、西田幾多郎なら「行為的直観」のうしろにあたるものだということになる。

現象学の父、フッサール

 と、まあ、ずいぶんはしょって書いたので木村さんには申し訳ない案内になってしまったかもしれないが、ともかくはこんなふうに、ぼくは木村敏の本のお世話になってきたわけである。
 一度だけ、木村さんに原稿を依頼したことがあるが、それは磯崎新(898夜)さんと編集した「間(MA)」の東京展覧会のときだった。1978年にパリのルーブル装飾美術館で開催した「間(MA)」展を、20年ぶりに装いを変えて上野の芸大ミュージアムに“再生”させたときのパンフレット原稿だ。
 「木村さん、認識と表現の間(あいだ)について書いてください」とお願いした。よろこんで引き受けていただいた。『自己の居場所としての間』という原稿で、「世界や他人とのあいだに間をもつことは、自己の居場所をもつということだ」という主旨である。最終行には「あいだは自己の別名だ」となっていた。

「間―20年後の帰還―」展
(上)表紙 (下)木村敏寄稿『自己の居場所としての間』

 ところで、木村さんとともに「あいだ」を考えてきたということは、さまざまな副産物や副次路をもたらした。なかで意外だったのは、いつしかぼくに「あいだ」を前面に駆り立てる知的な講座やトークイベントがありうるだろうこと、また、その場合にはぼく自身が「あいだ」そのものを演じることを可能にさせるようでありたいと思わせるようになっていたことだ。
 そして10年前に、まさにそのような企画が立ち上がったのである。編集工学研究所による大胆きわまりない「ハイパーコーポレート・ユニバーシティ」というものだ。

 これは11年前に三菱商事の和光貴俊君や福元邦雄君、リクルートの佐野一郎君や工代将章君らがもちこんできた企業人のための塾で、40歳前後の各企業の現役ビジネスマンが松岡さんの話を聞きたがっている、とくに日本と世界の関係の話を聞きたがっている、それを受けてほしいというものだった。
 ぼくは最初はビジネスマンの塾を引き受ける筋合いはないと断っていたのだが、3度にわたる熱意にほだされ、主宰することにしたものだ。それが題して「ハイパーコーポレート・ユニバーシティ」(汎企大学)なのである。
 このとき、懸案だった「あいだ」を謳い文句にしよう、それを「AIDA」というふうに横文字で標記しようと言い出してみた。幹事の諸君は大賛成だった。以来、「アジアと日本のAIDA」「公と共と私のAIDA」「社会と情報のAIDA」などをテーマにしてきた。

ハイパーコーポレート・ユニバーシティ[AIDA]
各企業の幹部候補生を対象に年に1度開講される。松岡正剛が塾長。

第1期(2005.12.11-2006.4.15)
ゲスト:インテリアデザイナー・内田繁、邦楽家・西松布咏、ジャーナリスト・猪野健治

第2期(2006.11.25-2007.3.3)
ゲスト:元ラグビー日本代表監督・平尾誠二、構想日本代表・加藤秀樹、国際日本文化研究センター教授・川勝平太、能楽師・安田登

第3期(2007.10.13-2008.3.1)
ゲスト:元格闘家・前田日明、日本近世文化研究家・田中優子、舞踊家・花柳千寿文、邦楽家・西松布咏、建築家・隈研吾

第4期(2008.11.1-2009.3.7)
ゲスト:カオス理論研究者・合原一幸、政治学者・姜尚中、尺八演奏家・中村明一

第5期(2009.10.3-2010.3.13)
ゲスト:心理療法家・北西憲二、武道家・坪井香譲、経済学者・中谷巌

第6期(2010.10.2-2011.3.5)
ゲスト:評論家・松本健一、歴史地理学者・千田稔、古代文字書家・安東麟、枚岡神社宮司・中東弘、実業家・原丈人

第7期(2011.10.8-2012.3.3)
ゲスト:前参議院議員・鈴木寛、民俗学者・赤坂憲雄、作家・佐藤優

第8期(2012.10.6-2013.3.2)
ゲスト:社会学者・大澤真幸、外交ジャーナリスト・手嶋龍一、東洋文化研究家・アレックス・カ―、慶應義塾大学教授・金子郁容

 いま、第9期のハイパーコーポレート・ユニバーシティが終盤に向かっている。今期はずばり「脳と心と体のAIDA」をテーマにした。
 毎期、ぼくが1回目と最終回をソロで担当し、途中の4回分で格別なゲストを迎えるようになっているのだが、第9期は新潟大学の中田力(1312夜)さん、トヨタ名誉会長の張富士夫さん、アスリートの為末大さん、精神医の香山リカさんを招いた。為末さんとは広島で36人合宿をした。
 脳科学と複雑系のこと、カイゼンと組織と個人の問題、体から見た脳と心の編集関係、精神疾患と社会の関係などが熱く話題にされて、それぞれまことに充実していた。
 これらをまとめて3月1日にぼくがラストセッションで話すことになっている。なんとか「あいだとしての松岡正剛」を務めようと思っている。今夜は、そんなことも手伝って、木村敏さんの『あいだ』を紹介することにしたわけだ。
 

第9期ハイパーコーポレート・ユニバーシティのゲスト陣
左上から、中田力、張富士夫、為末大、香山リカ。

 

⊕あいだ⊕

∃ 著者:木村敏
∃ 発行者:鯉淵年祐
∃ 装幀:代田奨
∃ 出版社:弘文堂
∃ 出版年:1999
∃ 発行者:羽鳥好之
∃ 発行所:文藝春秋
⊂ 1998年11月20日 第一刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 一 はじめに
∈ 二 生命の根拠への関わり
∈ 三 主体と転機
∈ 四 音楽のノエシス面とノエマ面
∈ 五 合奏の構造
∈ 六 間主体性とメタノエシス性
∈ 七 主体の二重性
∈ 八 共通感覚と構想力
∈ 九 「あいだ」の時間性
∈ 十 アレクシシミアと構想力
∈ 十一 「あいだ」の生理学から対人関係論へ
∈ 十二 我と汝の「あいだ」
∈ 十三 もしもわたしがそこにいるならば
∈ 十四 絶対的他者の未知性
∈ 十五 こと・ことば・あいだ
∈ 十六 「あいだ」の病理としての分裂病
∈ 十七 ダブル・バインド再考
∈ 十八 「みずから」と「おのずから」
∈ あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

木村敏(きむら・びん)
日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授。元日本精神病理学会理事長。河合文化教育研究所所長。医学博士。