才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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クジラの文化、竜の文明

日中比較文化論

大沢昇

集広舎 2015

編集:別府大悟・宇野道子 協力:武信彰・関根謙
装幀:designPOOL

先だって(2018・5・9)中国の首相李克強と韓国の大統領文在寅が来日して、2年半ぶりの日中韓首脳会談が開かれた。北朝鮮対応をめぐったようだが、李克強はそのまま残って安倍首相とともに北海道を訪れ、「私が来たのだから、これで日中関係は正常な位置に戻ったと思っていい。でも日本はもう少し歴史認識をちゃんとしておきなさい」と御宣託を垂れた。

 先だって(二〇一八年五月のこと)中国の首相李克強と韓国の大統領文在寅が来日して、二年半ぶりの日中韓首脳会談が開かれた。北朝鮮対応をめぐったようだが、李克強はそのまま残って安倍首相とともに揃って北海道を訪れ、「私が来たのだから、これで日中関係は正常な位置に戻ったと思っていい。でも日本はもう少し歴史認識をちゃんとしておきなさい」と御宣託を垂れた。
 野田政権が尖閣諸島の国有化を発表して以来、日中関係はうまくいっていない。習近平は一帯一路構想や南シナ海開発や朝鮮半島事情や軍備強化には熱心だが、日本のことなど歯牙にもかけていないという態度をとっているし、両国の世論もほとんど交じっていない。中国メディアが日本を称賛することはめったになく、数年前に新華社通信が「日本の改竄文化は恥の文化を上回った」と報じて話題になったほどなのである。
 中国側は、ずっと以前から「日本は恩を仇で返す連中だ」「日本人は学ぶことではすぐれていても、感謝することは劣っている」と思いこんでいる。この思い込みは根深い。李素楨の『日中文化比較研究』(文化書房博文社)、尚会鵬の『日中文化DNA解読』(日本僑報社)、李国棟の『日中文化の源流』(白帝社)などをめくってみると、そういう感情が相互の歴史の中にあるのではなく、日中戦争以降に根付いたことがわかる。
 それがこの一〇〇年ほどで世代伝播した。だから、若者たちの仲もよくない。中国を代表するポータルサイト「百度」にはあいかわらず「小日本」(シャオリーペン)や「日本鬼子」(リーペングィズ)という言葉が躍り、日本の「2ちゃんねる」には「シナチョン」「ニーヤ」「シナポコペン」「チャンコロ」がひきもきらない。ただし、両者のバッティング・マシーンは異なっている。中国の若者が近現代史の感情にもとづいたものから出ているのに対し、日本の若者は中国から打ち出されたボールに反撥する。

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2018年5月9日に行われた日中韓首脳会談の様子

 中韓日をめぐる東アジアの民族間感情は、長らく不安定のままである。日本人が中国に親しみを感じる度合も、改革開放直後は八〇パーセント近かったのが、二〇〇五年には三〇パーセントに落ちて、二〇一四年の日中共同世論調査では九三パーセントの日本人が中国の印象を悪く感じていた。前年調査では中国人の九二パーセントが「日本の印象が悪い」と回答していたのだから、これはあきらかにお互いに嫌いあっている。
 それでもここ十年ほどの中国人旅行客の日本爆買は増加する一方で、家電ジャパンや食品ジャパンだけは「買い」なのである。二〇一五年二月の春節だけで四五万人の団体中国客が来て、あっというまに六六億元(一一四〇億円)を落していった。炊飯器・魔法瓶・ウォシュレット・セラミック包丁が「四宝」らしく、飛ぶように売れた。ちょっとした薬品や日用品も人気があるらしく、「熱さまシート」「のどぬ〜るスプレー」の小林製薬の株価が一挙に上がった。
 もっとも「爆買」のきっかけは日本政府が仕込んだ免税措置で免税店が急増したせいだったし、団体旅行も一時的なブームなのだろう。二〇一六年にはオーストラリア人やベトナム人に買い物額の一人単価を抜かれたばかりだ。観光庁は躍起になって中国客の関心を日本の観光資源に向けさせようとしている。ちなみに「爆買」は中国語の発音(ピン音)ではバオマイという。

 どうして日中は揺れ動くのか、いったい日中関係はどうなっているのかなどと深刻に憂えるべきではない。見方を巨きくしたほうがいい。古来このかた文物はひっきりなしに交易交換されてきたわけで、正倉院や遣唐使のころから、禅や水墨画や茶道具のころから、近代における中華街の誕生や中華料理ブームのころから、その関係は変わっていないのだ。
 そもそも日本は中国の「稲と鉄と漢字」によって弥生を迎えたのである。貰いものはそれ以来、ずっと続いている。そういうところは変わってはいないのだが、日中の風土感覚や政治意識にはかなりの相違があった。皇帝と天皇とはそうとう異なっているし、易姓革命や科挙をもつ中国の国家制度と、公家と武家をバランスしてきた日本では、ガバナンスのとり方も違う。現代中国の共産党による管理支配ではなおさらだ。
 生活様式やアディクション(嗜癖)もそうとう異なっている。中国語と日本語は似ていないし、中国の壁で囲まれた「四合院」の住宅建築と「軒」や「縁側」をもつ日本家屋では、内外への対処感覚が違う。中華料理と和食は「作り」も「味」も正反対に近く、庭の趣向も、中国の巨大な園林と日本の枯山水や小庭はくらべようがない。
 それなのに中国と日本はいまなお同じ漢字文化圏にある。そこを見るべきだ。中国ではこれを「同文同種」という。漢字だけではなく、仏教文化圏としても儒教文化圏としても共通するものが多い。そこはやっぱり一衣帯水なのである。
 しかしながら「同文同種」は共通していながらも、漢字も仏教も儒教も、中国流と日本流とではそうとう別なスタイルとなって歩んできた。日本の禅宗や浄土宗は中国仏教からみるとかなり変貌したし、儒教儒学も仁斎や徂徠以降はひたすら和儒になっている。漢字文化でも、日本は音読みに対して訓読みを勝手に加え、あまつさえそこから平仮名・カタカナという独自の表音文字をつくった。中国人には信じられない発明だった。
 もっとも中国のほうの漢字もいまや簡体字ばかりになってしまって、日本人には勘でしか読めなくなった。日中の社会文化のプロトコルは別ものになっているのだ。

簡略化が進む「簡体字」

 日中の相違をめぐる状況は歴史を通してさまざまに露出してきているのに、安倍政権はバカのひとつおぼえのように、中国との戦略的互恵関係を築きたいと言う。何が互恵関係なのか、何が戦略的なのか、何を努力するのか、ほとんど見えてこない。
 こういうときに考えてみたほうがいいのは、日中関係には最低でも四種類の歴史的な見方があって、それぞれが対比的で、裏腹で相反的になっているのだから、そこをいかそうということである。四種の関係とは「中国人が見る中国」「中国から見た日本」「日本人が見る日本」「日本から見た中国」というものだ。加えて「海外が見た中国観および日本観」も、勘定に入れたい。4+1で見るというやりかただ。
 周知のように、日中の社会文化プロトコルは歴史的にも現状においても、かなりの相違がある。それゆえ戦略的互恵関係というのなら、この4+1を下敷きにしてそれぞれ中身とスタイルを交差させ、そこを襷掛けするようなつもりの「日中社会文化マトリクス」めいたものを組み立てていくべきである。ヨーロッパ諸国が数百年をかけて相互解釈をしてきたような、そういう日中相互解釈の試みを重ねていくことだ。
 なかで「中国人が見る中国」と「中国から見た日本」は、中国の歴史的現在をもっと知らなければ見当がつかない。これについては、かつての五山僧や江戸儒学者たちのように、謙虚かつ貪欲に中国側から文化プロトコルや社会プロトコルを学ぶべきだろう。
 もうひとつの「日本人が見る日本」と「日本から見た中国」についても、そんなことは楽勝だなどとはゆめゆめ思わないことだ。日本論も中国論もタカをくくった議論や自信過剰な議論が多すぎる。
 こういうときにほしいのは巨視力なのである。細かい説明は日本人の好みだが、漢字・仏教・儒教文化圏の中でそれぞれが好きに相対化をおしすすめてきた中国と日本を今日的に比較するには、うまくない。そこに陥ると「月餅と饅頭」「襟の合わせ方」「ザーサイと野沢菜」「飲みほす干杯/口をつける乾杯」というふうに重箱の隅をつつくようになっていく。むしろケープをがばっと羽織ったり、雨傘をぱかっと開いたりするようなつもりで、大ざっぱな見方をしてみるのがいい。とくに日本をどう大ざっぱに見立てるかが、案外、大胆な視野をもたらしてくれる。

「日本から見た中国」を探究し続けている中国雑誌「知日」
2011年の創刊以来、「猫」「断捨離」「暴走族」「太宰治」「鉄道」などユニークな切り口で日本を紹介し、毎号平均5万冊を売り上げる人気雑誌として注目されている。「日本から見た中国」を探究し続けている。

 日本をクジラに譬えたのは梅棹忠夫だった。海の中ではクジラは魚と同じ世界にいるが、魚ではない。見かけの形態が似ているのは平行進化によるコンバージェンス(収束)によるもので、機構も生理もちがう。日本人はいつしか海の中に入ったクジラみたいなものなのだから、自分はもともと海にいた魚だなんて思わないほうがいい。魚の自慢もしないほうがいい。そこが西洋文明と日本文明の似て非なるところだ。梅棹は『日本とは何か』(NHKブックス)で、そんなふうに説明した。
 いかにも梅棹らしい比喩で、日本が欧米そっくりのグローバリズムにうかうかと陥ることを戒めたくて、文明を生態比較的に見るにはこのくらいの大きな見方が必要だと言ったのである。それを言うのにクジラを持ち出した。スピルバーグがアメリカを象徴するのに巨大トラックや鮫のジョーズを持ち出したようなものだ。
 詳しいエビデンスをもってそんなふうに言ったのではない。哺乳類であって海の魚まがいであることをデュアルにまっとうしているところが、梅棹のクジラ日本説なのである。なにより大ざっぱなところがいい。
 それなら、このような見方で日本と中国を交差させると、どうなるか。本書はそこを承けた。日本がクジラだとしたら中国は竜だろうと見て、日中を比較しながらあれこれを縫った。「クジラの文化/竜の文明」とはそういうことだ。

歌川国芳「宮本武蔵と大鯨と鯨涛」
(Public Domain)

 たしかに中国は竜の国である。しばしば皇帝は「竜の化身」と言われ、皇帝が着る服は「竜袍」とされてきた。中国の最初の王朝の「夏」は朝廷で二匹の竜を飼っていたと司馬遷は書いた。夏王朝では竜がトーテムだったのである。秦の始皇帝も「祖龍」と呼ばれた。漢の劉邦には龍が母に覆いかぶさって生まれたという伝承がある。紫禁城はいまもって竜だらけだ。
 風土からしても竜(龍)だろう。中国全土には龍脈が這いまわっていて、風水用語ではその各所に龍穴が穿たれ、竜脳・分竜・起竜・注竜たちが伏している。崑崙山にそうした竜たちの竜源があるという伝説はいまなお流布している。中国は大地まるごとが龍なのだ。龍の頭上に「博山」という肉の盛り上がりがあり、そこに「尺水」という水が湛えられているというのも、風水からの転用だった。
 中国にとって龍は霊獣である。とくにそれぞれの足に五爪があるのが尊ばれた。漢民族のアイデンティティを「龍的傳人」(竜の子孫)と言うこともある。中野美代子の『龍の住むランドスケープ』(福武書店)がもっと詳しいことを案内しているし、龍がどのように殷周青銅器の文様や甲骨象形文字の図像になってきたかということについては、林巳奈夫の『龍の話』(中公新書)が詳しい。

陳容画「九龍図巻」(南宋)
(ボストン美術館蔵、Public Domain)

 

風水図
陰陽五行をもとに、環境と人間の相関関係を表した羅盤。(Public Domain)

紫禁城
明清朝の旧王宮である歴史的建造物。(CC BY 2.0)

 だから中国が「竜の文明」らしいことはそれなりによくわかる。だが、中国を竜としたうえで日本をクジラだというふうに切り返すとなると、梅棹説は日中を比較するために言い出したことではなかったろうから、ここは著者が責任をとっていく必要がある。書店でタイトルの『クジラの文化、竜の文明』を見たときはおもしろそうに見えたが、本書の中身を読むまではその責任をどうとっているのか、心配だった。
 そうしたら、著者は「勇魚とり」をしてきた日本人がクジラの身のすべての部位をあますところなく使いきって食用や鯨油や釣糸などにしてきたこと、ペリーがまさにその鯨油を求めて浦賀に来航してきたことが日本を変えてしまったこと、日本文化が和漢の併用、天皇と幕府の併用、和魂洋才の歴史をもってきたことなどを挙げて、こうしたことからしても日本はやはりクジラだったのではないかというふうに説明していた。
 まあまあ、だ。少しこじつけっぽいけれど、日本は天皇と幕府の両方を戴いた水陸両用のデュアル・スタンダードなので、そこが哺乳類であって魚まがいともなったクジラめいているのではないか、そう見てもいいのではないかと説明したわけだ。責任をとったほどではなかったけれど、そう言われてみれば日本は「両生類」というより「勇魚」と言いたくなる。
 だったら日本の捕鯨の技能と文化、鯨尺の効用、山東京伝ふうの目くじらなど、もっとあれこれを持ち出してもよかったが、著者はそこまでは手を広げなかった。あくまで日中比較が関心事なのである。

紀州熊野浦捕鯨図屛風
太地浦・鯨陸揚げの場面。(和歌山県立博物館蔵、CC BY 3.0)

 ここから話はだんだん狭くなる。たとえば、「竜の中国」と「クジラの日本」を比較すると何が特徴的に浮き出てくるのかというと、本書はまず「火と水」をあげる。火の中国料理、水の日本料理というミメロギアだ。
 中国料理が火を使いまくるのは誰でも知っている。料理法からして火偏の漢字がずらりと並ぶ。「炒」は少量の油で炒める、「爆」は強火で一気に炒める、「煎」は油をひいて両面を焼く、「煮」は水で煮る、「炸」は油で揚げる、「燴」はあんかけにする、「涮」はさっと湯に通す、「煨」はとろ火で煮込む、「烤」は直火で焼くことである。
 日本料理も火をつかうのは当然だが、すべては「火加減」であって、ここまで自立させてはいない。火は加減するものなのだ。ついでながら塩も味も加減する(塩加減・味加減)。中国では「強」か「弱」か「無」だけである。日本では「ちょっと炙る」とか「さっと湯がく」いう妙味が好まれることも少なくないけれど、中国ではこんなまどろっこしいことはめったにしない。
 このような違いは調理場の包丁使いにもあらわれる。中国の包丁さばきは、薄切りの「片」、ぶつ切りの「塊」、輪切りの「断」、賽の目切りの「丁」、千切りの「絲」、蛇腹切りの「竜」、拍子木切りの「条」などとなっていて、ざくざくしているのだ。ざくざくしていてもそれを油を入れた中華鍋に一気に入れて火にかけるのだから、それでいい。ぼくは学生時代に六本木の北京飯店と香妃園に出入りしていたのだが(従業員の夏季旅行にもついていった)、そのダイナミックな廚房の気迫に圧倒されっぱなしだったこと、忘れられない。
 かたや日本料理といえば、うんと繊細だ。「火加減」とともに「塩加減」や「ダシ(出汁)加減」の文化になっている。水を選ぶし、煮立たせ方や素材の入れ時にも微妙な案配がある。水の切り方、含ませ方にも気を配る。水の中の豆腐を掬うなどという芸当もある。こちらはクジラというよりアユの文化だ。

 ついで本書は建物を比較した。中国の「石造り」には、日本の「木作り」が比せられる。象徴的には天壇と伊勢神宮である。
 天壇は瑠璃の瓦と大理石で、白亜の大理石を三段に積んだ圓丘の中心には円形石の「天心石」がある。伊勢は木作りであるだけでなく、遷宮のたびに建て替えられる。中心には真柱のほかに何もない。中国は永遠で、日本は千代に八千代に、なのである。中国はエターナル(真)、日本はエフェメラル(仮)なのだ。
 このことは「土の壁」で囲む中国家屋ともっぱら「木と紙」に頼った日本家屋の対比にも投影している。中国の四合院式の一般的な住宅は、中央の院子(中庭)を囲んで東西南北に房子(家屋)があり、たいていは北側の房子が正房になる。左右の家屋は廂房だ。これらが頑丈な土壁によって、大きく高く囲まれる。外敵や害虫を防ぐためである。家は必ず内なる家であって、家以外のすべてが外なのだ。
 これに対して日本の住宅のさかいには軒や庇や縁側があるが、ここで内と外とを切断しない。軒も庇も縁側も、内と外とをあわせもつリミナルな帯になる。家と家とは木々や生け垣で分けられる程度で、仮に板塀があっても薄くて低い。すべては、なんとなく見え隠れする。覗こうと思えば覗ける。このことは寝殿式でも数寄屋でも変わらない。建造物は透けている。
 日中の空間仕切り感覚のちがいは門扉・板戸と障子・襖のちがいにもあらわれる。日本の家屋のインテリアは四季に応じて変化する。障子や襖がちょっとあいていて、それで「おーい、お茶」なのだ。どう見ても日本の基本は「間の文化」であって、オズヤス(小津安二郎)なのだ。
 家族の住み方も異なっている。日中ともに大家族の住宅があるけれど、たとえば岐阜の白川郷の合掌造りと福建省の客家の土楼では、構造も構成も習慣も趣旨もちがっている。合掌づくりの家は三階や四階はカイコを飼うためのもの、暮らしと働きが一緒になっているのだが、客家の土楼は一〇〇人近くが集住し、ときに五〇〇人をこえることがある。一族総集住だ。これは匈奴や五胡十六国などの遊牧騎馬団につねに襲われていたせいで、守勢社会がつくった空間的知恵だった。
 日本の親類縁者はこんなふうにはならない。同じ村や町に暮らしていても、ほぼ適当に散って住む。日本列島や日本社会は外敵の侵入を受けなかったからである。できれば「ばらばらに住んで、近所を愉しむ」でいたいのだ。そのかわり、ちょっとしたことで差別的な分住をした。

北京市にある世界遺産「天壇」
明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な祭壇。瑠璃の瓦と大理石で、白亜の大理石を3段に積んでいる。(Public Domain)

中国山西省晋中市平遥県の古い城郭都市「平遥古城」の城壁
平遥の城壁は明の洪武三年(1370年)に築かれ、石と土レンガによって建設されている。(CC BY-SA 2.1 es)

 このほか本書には、①中国は「色の衣服」を尊び、日本が「柄の着物」を好んだこと、②中国は「殺される皇帝」の歴史によって、日本は「譲る天皇」の歴史によって変遷してきたこと、③中国が「原則を強いる社会」だとすれば、日本は「空気を読む社会」であろうことなどが言及されている。このへんはその通りだろうと思う一方、一言加えたくもなった。
 ①はやや気がつきにくい特徴の比較だ。もちろん日中ともに色も柄も使うのだが、梅棹流に大ざっぱに見ると、たしかにこうなる。もう少し突っ込んでいえば、中国は「色面の文化」で、日本は「柄色の文化」(色柄ではない)なのである。
 ②も大ざっぱには当たっている。ただ、なぜ中国の為政者は殺戮され屠られるのか、日本の天皇は権力をもっていないから譲位がおこるのか、そこを今後はもっと考えていったほうがいい。また、日中のリーダーシップの比較についてはかなり徹底したほうがいいだろう。ぼくは遊芸や芸能の「家元」について考えてみるとおもしろいのではないかと思っている。
 ③はよく言われることだから解説不要だろうが、逆のことを議論すべきなのである。日本のことをいえば、日本で原則を強いるとどうなるかということだ。コンプライアンスによってどこまで日本社会が活きたものになるのかは、ここにかかっていく。おそらくうまくいかないだろう。そこには障子や襖の開け閉めがないし、軒や縁側がない。

京劇の郵便切手
京劇の隈取りはさまざまな「色面」で色分けされ、キャラが識別される。赤は忠義を表し、三国志なら関羽、白は陰険・狡猾で曹操。このように顔の色で役の立ち位置が分かるようになっている。(Public Domain)

 著者の大沢昇は東京外大の中国語学科の出身者である。シンガポールでPANA通信に在籍したのち小学館の仕事などをして、その後は中国分析総合センターの代表になったジャーナリスティックな研究者だ。『中国はどこへ』(三一書房)、『中国怪奇物語』全五巻(汐文社)、『現代中国』(新曜社)などの著書がある。日本語と中国語と英語を対応させた『プログレッシブ・トライリンガル』なども編集した。
 版元についても一言、案内しておく。集広舎は中国文化やアジア文化にまつわる書籍の出版を手掛けている。母体は一九六九年に福岡で創業した中国書店だ。王力雄『黄禍』、アイ・ウェイ・ウェイについての『艾未未読本』、仁欽『現代中国の民族政策と民族問題』、張宏傑『中国国民性の歴史的変遷』、相田洋『中国妖怪・鬼神図譜』、白圡悟『振武館物語』、喜多由浩『満洲文化物語』、ダライ・ラマ『声明』、中原一博『チベットの焼身抗議』、アジャ・リンポチェ『回想録』などを刊行している。
 かなり懐に入りこんでいるものばかりなので、売れているのかどうか心配だ。それで多少の応援するつもりもあって、今夜は本書をとりあげた。

集広舎のウェブサイト
http://www.shukousha.com/

 ところで、本書の感想を綴るあいまに、少々ウェブの日中比較についての発言を見ていたら、宮崎産業経営大学を首席で卒業した中国留学生がおもしろいことを書いていた。西安の出身だ。
 アルバイトの店で「お三階へどうぞ」と言ったら笑われたが、自分はベテラン店員が「お二階へどうぞ」と言っているのを聞いたのでそう言ったのに、なぜ三階には「お」が付かないのかがわからない。尋ねても説明がなかった。それだけではなかった。お魚、お刺身とは言うが、お鯛、おマグロとは言わない。お野菜、おネギ、おダイコンと言うが、おホウレン草、おカボチャにはならない。お醤油、お味噌、お砂糖はあっても、お胡椒、お唐辛子はない。この微妙な丁寧語(敬語)の使い方にほとほと悩まされたというのだ。
 どうしてくれるのかと言わんばかりだが、これは答えを言っておいてあげたい。実はルールはない。なんと、ほぼ慣習によるものだけなのだ。せいぜい京都の言葉づかいや東京の山の手の言葉づかいが広まったにすぎない。だから申し訳ないけれど、丸暗記してもらうしかない。ちなみに「お二階」があって「お三階」がないのは、当時の料理屋や宿屋に三階建てがほとんどなかったからである。
 こんなことも書いてあった。教授が講義の中で「この説は正しい」と言ったあと、「と言ってもいい」と続け、さらに「のではなかろう」と加え、次に力強く「なかろうか」と「か」を言い添えたとき、自分のアタマが真っ白になった、と。
 これは弁解の余地がない。その教授だけではなく、日本人の表現の多くがこうした継ぎたし話法や婉曲話法になっている。だから、ふつうはその場の意図を文脈的に判断するしかないのだが、それが「真偽」に関しても使われてしまうのは、この教授を含めてヨーロッパの合理そのものにさえ習熟していないということである。迷わせてごめんね、と言うしかない。
 
 日中の接近と離反。日本海の不安定。日中間ビジネスの暗礁。歴史認識のなすりあい。つまりは竜とクジラのすれちがい。これからますます厄介なことになっていくだろう。
 今夜はまったくふれなかったが、ここに韓国や台湾が入るのだ。東南アジアやフィリピンやモンゴルが加わるのである。しかもお節介なことに、これらすべてにアメリカが噛んでくる。いったい日本はどんなふうに、どんな発言をしていくのか。戦略的互恵関係などですませられるはずもない。
 数日前、九二歳のマハティールがマレーシアの首相を引き受けた。「ルック・イースト」政策で世界とアジアを唸らせた東南アジアを代表する政治家だ。そのニュースを知って、ますますアジアの政治経済と社会文化に関するコミュニケーションには、各国それぞれの新たな断裂が深くなってきていると思わざるをえなくなった。クジラと竜くらいでは、役者が少なすぎるのだ。麒麟も孫悟空もキョンシーも、鵺もゴジラも初音ミクも、どんどん出てきたほうがいい。

⊕ クジラの文化、竜の文化 ⊕

∈ 著者:大沢昇
∈ 発行者:川端幸夫
∈ 発行所:集広舎
∈ 制作:図書出版 花乱社
∈ 印刷・製本:モリモト印刷株式会社

∈∈ 発行:2015年11月20日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 序章 「支那」と「小日本」互いの誤解の始まり

∈  第1章 「顔」と「国の形」
∈  第2章 「水の文化」と「火の文明」
∈  第3章 どちらも「現世主義」だが……
∈  第4章 明るい競争社会の裏側
∈  第5章 「クジラの文化」と「竜の文明」

∈∈ もっと知るために-参考図書一覧
∈∈ あとがき

⊕ 著者略歴 ⊕
大沢昇
1952年、東京都生まれ。1974~75年、シンガポールに在住してPANA通信に勤務、76年、東京外国語大学外国語学部中国語学科を卒業。小学館に入社し「週刊ポスト」編集部や外国語編集部などで働く。2013年に退社。現在は、大正大学客員教授、獨協大学国際教養学部講師、慶應義塾大学講師、中国分析・総合センター代表。
著書に『中国はどこへ─ポスト鄧小平を読む』(三一書房)、『中国の性愛テクノロジー』(青弓社)、『中国怪奇物語』全5巻(汐文社)、『現代中国─複眼で読み解くその政治・経済・文化・歴史』(新曜社)、『編集者になろう! 』(青弓社)、共著に『世界の長編文学』(新曜社)他