才事記

アジア的身体

梁石日

青峰社 1990

 出会いがしらに、殴られたような気がした。梁石日の『血と骨』(幻冬舎)を読んだときのことだ。そのあと『夜の河を渡れ』(筑摩書房→徳間文庫ほか)をたずねると、ぼくがまったく知らないことが書いてあることを告示されて、なんだか悲しい気分になった。
 ごくひとつかみに言うと、1970年代の10年(昭和45年~54年)を通してぼくは自分自身の目と手で世界をそれなりに触知しながら仕事をしていた。「遊」をつくっていた10年である。いろいろ忸怩たるものはあるものの、ともかくも独自に企画をたて、ひとつずつ誌面で組み合わせて、新たな景色をつくろうとしていた。掛け値なしだった。そこに感応してくる者たちとともに、知覚できるもの、関心のおよぶもの、語りうるもの、交われるものに対して、できるかぎり複合コンペイトウのように知覚と観念の突起点を出しながら、その対象が口のなかで溶けていくことをずうっと試みていた。

 それが80年代に入って(昭和がおわりに近づいて)――それは「遊」をやめる前後からということになるのだが――、ぼくの複合コンペイトウが冒険を避けてきた多くの別世界と出会うことになっていく。そして、自分が見てこなかったもの、相手の口に入らないですましてきたこと、ようするに編集調理の対象から外していたことのすべてを、目をまるくして凝視することになる。またドローイングすることになる。
 たとえば細胞コミュニケーションの科学である。たとえば『建礼門院右京大夫集』(925夜)や『東関紀行』である。たとえば数々のゲイ文学である。たとえば複雑系の科学やミシェル・セール(1770夜)やイスラム哲学である。たとえばベンチャー企業の起業者たちとの出会い、またサブカルチャーに徹するアーティストたちとの交歓だ。
 これらのことは、自分で自分に反撃を開始するといったネオフォビア(新奇恐怖症)な体験めいて、そのくせネオフィリア(新奇嗜好症)で新鮮な体験であった。目はしばしばするし、肩は凝るし、膝はがくがくする思いもした。
 このようなことがほぼ6、7年つづいて、これも一言でいえば、結局、自分の手元の辞書の語彙が足りなくなっていることを知った。そこで1からやりなおし。そのためにやっと着手したのが3年をかけた『情報の歴史』(NTT出版)という総合年表の編集である。古今東西の出来事を順に並べなおしてみること、そして、それらにささやかでもいいから、ひとつひとつタグをつけ、リンクの行き先をしるしていくこと、緻密で饒舌な『情報の歴史』の作業とはそういうものだった。
 しかし、いくつかの洞窟探検が口をあけて残った。とくに近現代アジアだ。なかでも韓国の社会文化だ。この難関にいよいよ入っていかなければならない。
 
 梁石日がぼくに突き付けたものは、ぼくが入らなかった洞窟の数々だった。洞窟は一見すると、入口のかたちがすべて違っていて、中でつながっていそうだった。
 在日朝鮮人問題、ヒロシマ体験、中上健次(755夜)の功罪、金史良や李良枝の文学の評価、被差別部落問題、日本のなかの異邦人の実態、金芝河の評価、天皇とアジア、朴正煕政権と全斗煥時代によってつくられた韓国社会の意味、韓国民俗学の動向、日本的身体感覚の退嬰、セマウル運動の本質、金時鐘という文学、光州事件、日本のパチンコ業界疑惑キャンペーン、そして「アジア的身体性」とは何かという問題。
 いずれも本書が取り扱っている話題たちであり、いずれもぼくが面と向かって考えてこなかった問題群だ。いっとき金石範の大作『火山島』全七巻(文藝春秋)にゆさぶられたが、また振子が戻ってしまっていた。わずかに、優秀な英日同時通訳者で、かつてはブラックパンサー運動にも加わっていた友人の木幡和枝が少しずつではあるが、彼女独自の同時代民族的直観のようなプリズムで、金芝河の詩なども交えてこれらの一部をぼくと交わすことをしてくれてきたのだけれど、ぼく自身がみずからその洞窟を覗いたわけではなかった。
 一方、梁石日はこれらの話題を80年代に抉るように扱っていた。本書はそのころの論文やエッセイを集めた一冊になっている。
 それは思い返せば、昭和をほったらかしにしたまま衣替えをしようとしていた日本が最も醜かった時期であった。バブリーであること、土建屋的国づくりの体質が露呈していたことは、どこの国にもおこることであるから目くじらを立てずにいるとしても、それよりも「経済大国」を自称したうえで「生活大国」と言い出していたのがいかにも醜悪だった。本書の対談のなかで梁石日が疑問を呈しているように、DCブランド主義やグルメブームという得体の知れない大ブームがおこってきた時期でもある。そのころスーザン・ソンタグ(695夜)を東京案内したことがあるが、彼女は「世界でこんなにアグリーな都市はない」と呆れていた。
 
 「遊」の第2期から3期にかけての編集をしていたころ、ぼくのところに1人の在日韓国人の青年がころがりこんできたことがある。医者の卵だった。そして一緒に住んでもいいですかと言った。
 そのころぼくは渋谷の通称ブロックハウスというところにいて、家人のまりの・るうにいと数匹の猫とともに、何人かのスタッフや仲間と住んでいたので、この申し出をよろこんで受け入れた。彼はぼくの仕事場のスタッフの女性の新しい恋人だった。彼女はアメリカ領事の娘であった。
 われわれは仕事のオフの時間がうまくあいさえすれば、いつも一緒に夕食をつくって食べた。食べながら、日本のテレビを見て何かを言いあった。当時の日本のテレビは、ソンタグが見た日本そのものだった。バカ笑いがブラウン管からはみ出していた。食事がおわると、われわれは日本のB級センスを擁護するか、攻撃するかを議論した。
 そうした日々が進んでいたころ、2人はそろそろ結婚したいと言い出した。ところがある日、彼の親戚の在日韓国人の連中がどっと押し寄せてきて、2人の結婚に猛烈に反対し、親族会議のようなものをブロックハウスで開いてしまったのである。闖入者であった。ぼくはなんとか介入しようとしたが、あっというまに蹴散らされた。
 激しい論争の声が部屋の外まで聞こえてきたが、われわれは完全にその血の剣幕に呑まれていた。1週間後、その青年はブロックハウスを去っていき、残された恋人はいつまでも泣いていた。
 このようなことは、2つ以上の国と2つ以上の民族の血をまたぐ出来事がいかに容易ならざるものを孕むかということを、しかもまた、それに対してまったく手をくだせなかった事件として、重たい課題を残響させた。こうして80年代、ぼくはこっそりと食わず嫌いの洞窟を少しずつ体験する日々に入っていくわけなのである。梁石日の『夜の河を渡れ』に始まる一連の作品とエッセイ群は、こうした日々に躍りこんできた。
 
 もうひとつエピソードを挟む。そうした80年代がおわるころ、ぼくは1人の陽気な在日韓国人女性とめぐりあった。『由熙』を書き、若くして死んでいった天才作家・李良枝のお姉さんである。そのころは大久保のアジア・ストリートで蟻の街のマリアのような活動をしていた。旦那はコロンビア出身の経済研究者で、ぼくとは以前から仲良しだった。
 彼女は旦那のオーランド・カマーゴの力を借りながら、日本語と英語を含むアジア数ヵ国の言葉で情報新聞を出していた。アジア各国の文字がごっちゃに交じったペーパーだった。おそらく当時の日本では大久保でしか見られないものだったろう。アジア料理の湯気が立っていた。けれども、ぼくは彼女が持ち出す大久保アジア・ストリートにおけるいくつかの現実問題に対応してあげられなかった。わずかに旦那の仕事に少々の支援ができただけだった。
 洞窟をちゃんと覗けなかったのである。アジア的身体の意味を何ひとつ口に入れられなかったのだ。料理が熱すぎて火傷しそうだったのだ。これでは冒頭に書いたように、『血と骨』に殴られてもしかたがなかった。
 いったい「血」とは何なのであろうか。それは民族や国旗や言語の何にあたるものなのか。文学は血であって、血が文学でなければならない時は、どのようにわれわれを襲うのか。では「骨」とは何なのか。

 梁石日の両親は済州島から大阪に移ってきた。カマボコ製造に従事して、息子を産んだ。父は愛人をつくって妻子を捨てた。息子は定時制の高校に通いつつ内灘闘争に参加するようになり、このとき金時鐘から詩作を促されたようだ。
 詩は朝鮮総連系の同人誌「ヂンダレ」に掲載されたが、詩ではとうてい食えない。靴屋や鉄屑屋に勤めながら印刷屋をおこそうとしたが失敗し、仙台に逃げて喫茶店の雇われマスターになったものの、借金はふえるばかりだ。やむなく上京して新宿に寮のあるタクシー会社の運転手になった。この経験を綴った『タクシー狂躁曲』(筑摩書房→ちくま文庫・角川文庫)が評判になった。崔洋一が《月はどっちに出ている》という映画にした。在日コリアンを岸谷五朗が、フィリピン女性をルビー・モレノが演じて評判になった。これまでタブーがちだった虎口が開いた。崔洋一も在日コリアン2世だった。
 1998年に実父をモデルに、昭和の戦中戦後の強欲と好色にとりつかれた男の矜持と転落を描いた『血と骨』が山本周五郎賞に選ばれた。圧倒的な迫力をもつ畢生の力作だった(追記=この作品も崔洋一がビートたけしの主演で映画化した)。
 こうした梁石日の出現のいきさつを見てみると、かつて金子光晴(165夜)が「絶望すらできない」と抉ってみせた日本人には、たとえ「血」は描けてもそこに「骨」を累々と並べることはできなかったように思わざるをえない。中上健次を待って、やっと「ニッポンの血と骨」が突き動かされはじめたのだろうと思わざるをえない。
 そうだとしたら、そうなのである。われわれはまだ昭和に対して、「おい、月はどっちに出ている?」と尋ね切ってはいないのだ。