アジア的身体
青峰社 1990
突然、殴られたような気がした。梁石日の『血と骨』を読んだときのことだ。
そのあと『夜の河を渡れ』を読み、これらにはぼくがまったく知らないことが書いてあることを告示されて、なんだか悲しい気分になった。
ごくひとつかみに言うと、1970年代の10年を通してぼくは自分自身の目と手で世界をそれなりに触知しながら仕事をしていた。『遊』をつくっていた10年である。いろいろ忸怩たるものはあるものの、ともかくも誰の手も借りずに企画をたて、ひとつずつ実行に移していた。これは掛け値なしである。そこに感応してくる者たちとともに、知覚できるもの、関心のおよぶもの、語りうるもの、交われるものに対して、できるかぎり複合コンペイトウのように知覚と観念の突起点を出しながら、その対象が口の中で溶けていくことをずうっと試みていたのだった。
それが1980年代に入って―それは『遊』をやめる前後からということになるのだが―、ぼくの複合コンペイトウが冒険を避けてきた多くの別世界と出会うことになっていく。
そして、自分が見てこなかったもの、相手の口に入らないですましてきたこと、ようするに食わず嫌いでいたことのすべてを、目をまるくして凝視することになる。これは、自分で自分に反撃を開始するといったネオフォビアな体験めいて、そのくせネオフォリアで新鮮な体験であった。が、目はしばしばするし、肩は凝るし、膝はがくがくするおもいもした。
このようなことはほぼ6、7年つづいて、これも一言でいえば、結局、自分の手元の辞書の語彙が足りなくなっていることを知ることになる。そこで一からやりなおし。そのためにやっと着手したのが、3年をかけた『情報の歴史』(NTT出版)という総合年表の編集である。すべてを出来事の順に並べなおしてみること、そして、それらにささやかでもいいから、ひとつひとつタグをつけ、リンクの行き先をしるしていくこと、『情報の歴史』の作業とはそういうものだった。
しかし、いくつかの洞窟探検が口をあけて残った。この虎口にはいつかは入っていかなければならない。
梁石日がぼくに突き付けたものは、ぼくが入らなかったそうした洞窟の数々である。
在日朝鮮人問題、ヒロシマ体験、中上健次の功罪、金史良や李良枝の文学の評価、被差別部落問題、日本の中の異邦人の実態、金芝河の評価、天皇とアジア、朴正煕政権と全斗煥時代によってつくられた韓国社会の意味、韓国民俗学の動向、日本的身体感覚の退嬰、セマウル運動の本質、金時鐘という文学、光州事件、日本のパチンコ業界疑惑キャンペーン、そして「アジア的身体性」とは何かという問題。
これらはいずれも本書が取り扱っている話題たちであり、いずれもぼくが面と向かって考えてこなかった問題群だった。優秀な英日同時通訳者で、かつてはブラックパンサー運動にも加わっていた友人の木幡和枝は、少しずつではあるが、彼女独自の同時代民族的直観のようなプリズムで、これらの一部をぼくと交わすことをしてくれてきたのだが、ぼく自身がみずからその洞窟を覗いたわけではなかった。
一方、梁石日はこれらの話題を1980年代の前半に抉(えぐ)るように扱っていた。本書はそのころの論文やエッセイを集めた一冊になっている。
それは思い返せば、日本が最も醜かった時期であった。バブリーであること、土建屋的国づくりの体質が露呈していたことは、どこの国にもおこることであるから目くじらを立てることはない。それよりも「経済大国」を自称したうえで、「生活大国」と言い出していた。本書の岡庭との対談のなかで梁石日も疑問を呈しているように、グルメブームという得体の知れない大ブームがおこってきた時期でもある。そのころスーザン・ソンタグを東京案内したことがあるが、彼女は世界でこんなにアグリーな都市はないと呆れていたものだ。
実は70年代の後半のこと、ぼくのところに一人の在日韓国の青年がころがりこんできたことがある。医者の卵だった。そして一緒に住んでもいいですかと言った。
そのころぼくは渋谷松濤の通称ブロックハウスというところにいて、妻のまりの・るうにいと数匹の猫とともに、何人かのスタッフや仲間と住んでいたので、この申し出をよろこんで受け入れた。彼はぼくの仕事場のスタッフの女性の新しい恋人だった。彼女はアメリカ領事の娘であった。
われわれは仕事のオフの時間がうまくあいさえすれば、いつも一緒に夕食をつくって食べた。食べながら、日本のテレビを見て何かを言いあった。当時の日本のテレビは、スーザン・ソンタグが見た日本そのものだった。食事がおわると、われわれは日本のB級センスを笑いながら議論した。
そうした日々が進んでいたころ、二人はそろそろ結婚したいとおもうようになってきていた。
ところが、ある日、彼の親戚の在日韓国人の連中がどっと押し寄せてきて、二人の結婚に猛烈に反対し、親族会議のようなものをブロックハウスで開いてしまったのである。闖入者であった。ぼくはなんとか介入しようとしたが、あっというまに蹴散らされた。激しい論争の声が部屋の外まで聞こえてきたが、ぼくも完全にその“血の剣幕”に呑まれていた。1週間後、その青年はブロックハウスを去っていき、残された恋人はいつまでも泣いていた。
このようなことは、二つ以上の国と二つ以上の民族の血をまたぐ出来事がいかに容易ならざるものを孕むかということを、しかもまた、それに対してまったく手をくだせなかった事件として、重たい課題を残響させた。
こうして80年代、ぼくはこっそりと食わず嫌いの洞窟を少しずつ体験する日々に入っていくわけなのである。梁石日の『夜の河を渡れ』に始まる一連の作品とエッセイ群は、こうした日々に躍りこんできた。
もうひとつエピソードを挟むことにする。
そうした80年代がおわるころ、ぼくは一人の陽気な在日韓国女性とめぐりあった。若くして死んでいった天才作家・李良枝のお姉さんである。そのころは大久保のアジア・ストリートで蟻の街のマリアのような活動をしていた。旦那はコロンビア出身の経済研究者だった。
彼女は旦那の力を借りながら、日本語と英語を含むアジア数ケ国の言葉で情報新聞を出していた。ボランティアである。ところが、ぼくは彼女が持ち出す大久保アジア・ストリートにおける現実問題に、ことごとく対応してあげられなかった。わずかに旦那の仕事に少々の支援ができただけだった。
何ということか。ぼくは洞窟をちゃんと覗いてこなかったのである。アジア的身体の意味を何ひとつ口に入れていなかったのだ。これでは冒頭に書いたように、梁石日の『血と骨』に殴られてもしかたがなかった。