才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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リヒテンベルクの雑記帳

ゲオルグ・クリストフ・リヒテンベルク

作品社 2018

Georg Christoph Lichtenberg
Schriften und Briefe 1764~1799
[訳]宮田 眞治
編集:増子信一 協力:シュテファン・ケプラー・田崎
装幀:山田和寛

リヒテンベルクの箴言は冴えている。なにもかもが冴えているわけではないが、ハッとさせられることが多い。短い片言節句だから冴えているのではない。その片言節句が懐中に抱く思想を、何度でも飛び出しナイフのように連打できるのである。何度でもその懐中の思想ナイフを持ち出せるのだ。

 ビリビリビリ‥。リヒテンベルク図形はぼくの青春図形である。科学雑誌や図鑑にガラスに生じた電気放電や植物の根っこや稲妻などのリヒテンベルク図形の写真がちょっとでもが載っていると、一枚破いて壁に貼ったり、きっちりハサミで切り取って手元の大判ノートにスクラップした。見るたびにどぎまぎした。
 ガラスや樹脂やエボナイトなどの非導電性の板の表面に、電気が通る鋭い針をあてると、みごとな放射状の放電パターンができる。これがリヒテンベルク図形だ。1777年にゲオルグ・クリストフ・リヒテンベルクがゲッティンゲンの実験室の中で発見した。静電誘導で高電圧の電気を発生するつもりで直径2メートルの巨大な電気盆をつくり、絶縁体の表面に高電圧点を放電したところ、劇的な放射状パターンが生じたのである。

リヒテンベルク図形のための放電実験

 チリチリチリ‥。リヒテンベルクはこの表面にさまざまな粉末材料をふりかけ、白紙にこれを押し付けることで図形像を転写させた。この転写の技術は今日のゼログラフィの基本原理にあたっていた。
 リヒテンベルク図形は電気の放電現象の転写だから、自然界では稲妻のパターンに代表されるけれど、そこには、エネルギーが一点突破して周囲に網状に拡がろうとする形状原理があらわれている。だからそれに似たパターンは自然界や生物界にはいろいろある。植物の葉脈、血管ネットワークの形状、脳の神経網、みんなリヒテンベルク図形に見えてくる。
 寺田寅彦(660夜)が「割れ目」に関心を寄せたのも、リヒテンベルク図形がトラ猫やシマウマの模様にもあてはまると思ったからだ。実際のリヒテンベルク図形にはフラクタルな相似性がひそむ。
 バリバリバリ‥‥。リヒテンベルク図形はのちに「遊」の相似律特集号を飾った。ぼくの相似律好みはリヒテンベルク図形から始まったのだ。

『遊』1001号 相似律 撮影:川本聖哉
1978年5月刊行。サブタイトルは「連想と類似ー観相学の凱歌のために」と題している。表紙の「遊」の字は全て正しくない。

上空4200Mから見たコロラド河の河口とリヒテンベルク図形
『遊』1001号より

海中に繁茂するコアシウミシダとリヒテンベルク図形
『遊』1001号より

サルの網膜上の神経線維・血管図とイラス火山の火口内側
『遊』1001号より

寺田寅彦が注目した「割れめ」
■左ページ
(上右)アスファルトの割れめ
(上左)象の尻尾
(下右)ショーウィンドウの強化ガラスの割れめ
(下左)蜘蛛の巣
■右ページ
(上右)木目のヒビ割れ
(上左)ガラスの割れめ
(下右)アルミニウム板に松脂を融し、それを冷やして得られる割れめ
(下左)張り氷の割れめ
『遊』1001号より

 ゲオルグ・リヒテンベルクは実験物理学を得意としたドイツの科学者だ。1775年にゲッティンゲン大学の物理学教授となると、ユニークな実験の取り組みと成果によって、たちまちその名声がヨーロッパに広まった。電池を発明したボルタ、数学者のガウス、銀河天文学のハーシェルが噂を聞き付けて、リヒテンベルクの講義を聴きにきたか、会いにきた。ゲーテ(970夜)やカントやレッシングとも交流した。
 1742年にダルムシュタットに生まれて1799年に57歳で病没したのだが、名物教授リヒテンベルクの死後、けっこうな分量のノートやメモが遺されているのが発見された。「控え帳」とか「雑記帳」と呼ばれる。本人は“SUdelbücher”と呼んでいた。簿記ノートといった意味だ。
 学生時代からのノートで、亡くなる直前までのメモや文章が残っている。Aが1765年からのもの、Lが最期の一冊だ。ノートは遺族たちが出版した。GとHのノートは紛失されたか、個人事情や関係実名が頻出するため伏せられた。
 この『雑記帳』がまことにおもしろい。おもしろいというより、啓発され、唸らされる。ショーペンハウアー(1164夜)、ニーチェ(1023夜)、トルストイ(580夜)、フロイト(895夜)、マッハ(157夜)、ヴィトゲンシュタイン(833夜)、ベンヤミン(908夜)らが注目して、昔から「ドイツ・アフォリズムの原点」と称賛されてきた。

ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク(1742-1799)

 時代は18世紀末、そうとうの激発時代だ。英仏七年戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、イギリス産業革命が打ち続き、思想史的には経験哲学からカントをへて、ヴォルテール(251夜)やルソー(663夜)の啓蒙主義が拡張していった時期、科学分野でもキャベンディッシュの電気力学、プリーストリーの酸素研究、ハーシェルの天王星発見、ラグランジュの解析力学、クーロンの法則などが踵を接した。
 リヒテンベルクはゲッティンゲン大学で研究するかたわら、出版人ディーテリヒと懇意になってその館に住んで(印刷所と書店を兼ねた館)、思索に耽り、文筆活動にも勤しんだ。『ゲッティンゲン懐中暦』という雑誌も編集していた。そうしたなか、リヒテンベルク図形と、死後出版されたノートが遺った。
 今回(2018年)、作品社から刊行された本書はその驚くべきノートの、科学実験関係や旅日記などの記述を除いた翻訳版である。これまで筑摩の「世界人生論全集」第12巻ドイツ篇に、国松孝二が『わが箴言』として部分訳したり、池内紀が『リヒテンベルク先生の控え帳』(平凡社ライブラリー)で編訳したりしてきたが、ここまでの全貌(それでもまだ半分以下だろうが)がお目見えするのは初めてだ。
 本書を編訳した宮田眞治は『雑記帳』のノートAからLの片言節句を「自然」「人間」「思考」「宗教」といったふうに主題別に大きく区分けして、その区分けとともにそのつど解説と稠密な注を付した。なにしろドイツ語の原著は1800ページ本が2冊組になるほどの厖大なもの、それを日本版で600ページほどに絞るのだってたいへんな作業だ。どのくらい編訳と解説に時間をかけたのか知らないが、たいへんな労作だ。年表もついている。すばらしい編集だった。お疲れさま。

雑記帖ノートの執筆時期一覧
『リヒテンベルクの雑記帳』p2-3

『リヒテンベルクの雑記帳』の原著
「Schriften und Briefe」

 リヒテンベルクはたんにノートを執ってきたのではない。アフォリズムになることを意識した。
 アフォリズム(Aphorismen)は箴言集とか格言集のこととされているが、たんなる寄せ集めのことではない。哲学史においてはフランシス・ベーコンが称揚した思想表現様式をさす。ベーコンは1620年に『ノヴム・オルガヌム』(新機関)を書いて、アリストテレス(291夜)からスコラ哲学に及んだ論法が硬直してしまったことに文句をつけて、新たな思想表現様式としてアフォリズムに可能性があることを示唆した。1605年の『学問の進歩』においても、アフォリズムは「諸学の神髄からつくられるもの」という見方を提起した。
 推論哲学的にいえば、アフォリズムは演繹的ではなく帰納的である。ベーコンも帰納法を好んだ。しかし、帰納的作業には数多くの事例が必要になる。科学的には観察記録が多ければ多いほどよく、思索的な帰納的作業をするなら、さまざまな自分の思索メモや観察メモや連想メモが大事になる。それらはたいてい「覚え書」(Bemerkungen)として残っていく。
 リヒテンベルクはこの「覚え書」の中に、演繹的な論理説明や哲学的成果を超える「何か」が芽生えていると思ったのだ。そこにアフォリズムならではの力が創発すると思ったのである。

 そんなふうにかなり意図的なアフォリズムなのだが、アフォリズムがどのように確立されてきたかということは、文学史でお茶を濁すように検討されてきただけである。パスカル(762夜)の『パンセ』、モンテーニュ(886夜)の『エセー』などが先行し、これがラ・ロシュフコーの『箴言集』(1664以降)などをへて、しだいに洗練されていったのである。しかし思想史的なアフォリズムの研究は、ほとんど深まっていない。
 それゆえアフォリズムをめぐる思想事情についてはあまり研究書がないのだが、あるとき加納武が『アフォリズムの誕生』(近代文藝社)で少し追いかけた。ぼくも教職をしていた帝塚山学院大学のドイツ文学者だ。加納はリヒテンベルクの『雑記帳』を素材に、それらがのちにニーチェの『人間的、あまりに人間的』などになっていった経緯などにもふれているのだが、そんなに詳しいわけではない。
 これは加納のせいではない。そもそもアフォリズムを議論するのが難しい。大胆で警告に富んだアフォリズムは要約不可能なのである。「すでに要約がおわっている」からだ。そのためどうやって紹介したらいいか、どのように議論していいか、案外の難問なのだ。
 ぼくはエミール・シオラン(23夜1480夜)のアフォリズムにぞっこんだったので、なんだかんだと感想は書いてきたけれど、アフォリズムという様式が何を旗幟鮮明にしているかということは、まだうまく触れられていない。ついついアフォリズムの紹介はアフォリズムを抜き出すのが一番だということになる。

近代思想のアフォリズム本

 というわけで今夜の千夜千冊も、ぼくが気にいった箇所にマーキングをしてあるところから、ごくごく一部を選んで提示するにとどめたい。順番は適当に変えてあるが、ときどき( )内にぼくのコメントを付した。それでは不満だろうから、もっと全容を実感したかったなら、ぜひ一冊まるごとを入手されたい。一家に一冊、リヒテンベルクなのである。グリグリグリ‥。

 K806 「私は考える」ということはできず、「稲妻が光る」と同じように「思考が生じる」と言うべきである。

 A123 ひょっとすると思考が世界のあらゆる運動の根拠なのかもしれない。

 A19 この世のどんな大いなる事象も、我々が気にも留めない別の事象によって生じる。

 A76 いい考えを読んだら、別の主題で似たようなことを考えたり言ったりできないか、試すことができる、そんなときは、別の主題にはこれに似たものが含まれているといわば仮定しているのだ。(→編集術のキホンだ)

 A34 どんな思考にも、それに関連して身体の諸部分がとる独自の配置があり、つねにこの諸部分に付随する。

 D468 メタファー的な言語は、恣意的ではあるが確定された語群から構築される一種の自然言語である。(→このことをIT屋が理解していない)

 F116 メタファーは新たな水路を掘る。一気に突き通ることもしばしばだ。

 A274 我々のメタファーを罵ることなかれ。一つの言語の強い特徴が薄れはじめるとき、メタファーはそれを再び鮮やかにし、全体に生命と体温を与える唯一の手段なのである。

 A276 表現は思想に対してだぶついている。これは本当か?

 リヒテンベルクの箴言は冴えている。なにもかもが冴えているわけではないが、ハッとさせられることが多い。短い片言節句だから冴えているのではない。その片言節句が懐中に抱く思想を、何度でも飛び出しナイフのように連打できるのである。何度でもその懐中の思想ナイフを持ち出せるのだ。
 これは教養から来ている。しかし教養から来てはいるのだが、その中身をプラトンやアリストテレスやデカルトやニュートンの論述まるごとでは語らない。リヒテンベルクが掴まえたエキスだけでナイフを使う。そのナイフは冗長を嫌い、ぐだくだしていないのだ。
 そうなったのは、おそらくリヒテンベルクに「機知」(Witz)と「想像力」(Phantasie)のはたらきについての深い洞察があったためだろうと思う。つまりは「類似性」の作用について圧倒的な確信をもっていたからだろう。リヒテンベルクは史上最初の「アナロジカル・シンキング」の持ち主となったのである。

本書のページのセイゴオ・マーキング①
 J1620 機知は発見者(ファインダー)であり、悟性は観察者である。

 D332 理解するのに多くの機知が求められる書き方は、特に多くの機知なしでもできる。

 D469 明晰さが拡大鏡だとすると、機知は縮小鏡である。(→編集はその両方をズーミングする)

 J2154 我々が自然のうちに見ているのは言葉ではなく、言葉の最初の数文字でしかない。いよいよ読もうとすると、明らかになるのは、新たないわゆる「言葉」も別の言葉の最初の数文字でしかないということだ。

 J1242 ベーコンのオルガノンはそもそも発見術的な梃子であるべきだ。

 K45 「存在する」という観念は、我々の思考から借りられてきたものであると、私にはいつも思える。

 J1646 私に強みがあるとすれば、類似性を発見し、それを用いて自分が完全に理解していることを判明する能力をもっていることだろう。(→ここまで類似性に科学的な強みを主張したのはリヒテンベルクが最初だった)

 F54 世界のしっぽである我々は、頭が何を企てているか知らない。(この比喩はリヒテンベルクを有名にした)

 J520 いま自分が精神病院にいないかどうか、本当にわかりはしない。(→この実感は21世紀にこそあてはまる)

 J850 リンネが動物界で行ったように、観念界においても「カオス」と呼べるような分類項目を作れるかもしれない。

 不確かなことやカオスっぽいことに注目していたことは、リヒテンベルクの理学的センスのよさを告げている。そのセンスは理科学と言葉との両方を使いきるという姿勢から出てきたものだと思う。

本書のページのセイゴオ・マーキング②

本書のページのセイゴオ・マーキング③
 K276 巧妙な考察の前に、まず自然な考察をする。いつも、何においても、とにかく簡単で自然な説明ができないかまず試してみること。

 D295 一つの命題を主張したら、ただちに、まだもっと実例があるのはどこかと考えよ。

 L886 新たな誤謬を発明すること。(→誤謬を避けるのではない。誤謬を発見するのでもない。誤謬を発明するのだ)

 A3 普遍記号を生み出すには、まず言語における秩序を捨象せねばならないはずである。(→これはライプニッツからウンベルト・エーコに及ぶ普遍言語学の要訣だ)

 I757 充足理由律は、たんに論理学的命題としては思考の必然的法則であり、そのかぎりで反論の余地はないが、それが客観的な、実在的な、形而上学的な根本命題であるかどうかは、別の問題である。

 I393 諸天体の運動を、自然におけるのと同じく正確に表現する時計を作ることができたら、世界は歯車で動いていなくとも、大きな貢献をしたことにならないだろうか。発明者自信、自分がこの中に入れたとは思えない多くのことを、この機械を通して発見するだろう。そして計算とはこうした機械仕掛けに似たものでないとしたら何か。それは計算機となる。(→チューリングマシンまで、もう少し)

 C157 パンチボウルを地球に喩えること。

 D244 我々の地球はひょっとすると雌かもしれない。(→この連想には驚いた。だとすると、文明はオスだったのである)

 E368 土星――なんというヒエログリフだ!

 J531 最終的にすべては一つの問いに帰着する。思考は運動から生まれるのか、それとも運動が思考から生まれるのか。

 当然ながら、リヒテンベルクはかなりの読書家だった。多読をへて、しだいに秀れた本をじっくり読みなおすというふうになっていった。
 戒めたのは、著者の思想をすぐに自分のものとくらべるような読み方だ。なぜそんな読み方になるのかといえば、読んだことの要約を怠るからなのだ。そう、リヒテンベルクは見ていた。ということは、リヒテンベルクは読むことと書くことをつなげていたのだ。

本書のページの中のセイゴオ・マーキング④
 E215 本は鏡である。

 H154 他人によって何百回も読まれた本を、あらためてまた読んでみるというのは、とてもいいことだ。というのも客体は同じでも、主体は別物なのだから。(→まあ、その通り)

 G208 とても多くのことについて考えるのは簡単ではないが、とても多くのことについて読むことはできる。(→これが読書の真骨頂)

 E317 「熟考する」とは「本に当たる」ことと別物なのか。「発明する」とは「変形する」以上のことか。(→ぼくの考え方がこれにかなり近い)

 K27 私はダヴィデの詩篇を読むのが大好きだ。これほどの人間の心が、ときに私のものと同じようであったことがそこから見てとれる。

 E326 ゲーテのものではなく、ゴートのもの(ゴシック)を読め。(→やったね。ゴシックがわからずしてドイツ思想はわからない)

 D159 ヤーコブ・ベーメの本は多くの人々にとって、自然という本と同じく有益でありうる。

 E70 バーク(エドマンド・バーク)が持っている議論の形式は、その演説にかぎっても、ゲーテが持っているシェイクスピアの形式よりはるかに完成されたものだ。(→同時代だが、さすがにバークを見落としていない)

 F7 読むことは借りること。それをもとに発明することは、返済することである。(→究極の読書論)

 J1057 毎日何かの描写をすること。風景や性格、人間の形姿、部屋や都市、家政の具合等々。

 I679 生き生きした語り口がなにより肝心なら、言おうとすることすべてを準備して、まずかみ砕いて説明できることはひたすら説明する、すなわちただ説明するために書くのがよい。それから、すべてをもう一度、今度は取り除くことに専念して書き直す。最初の作業は脱穀すること、二番目の作業は篩(ふるい)にかけることである。さて、さらに第三の作業が待っている。すなわち吹き分けることである。

 K197 ある対象について激烈に書くには、それについてよく理解していないことがほぼ必須である。

 G205 ドイツの学者は本を長いあいだ開いたままにしすぎであり、イギリスの学者は早々に閉じすぎである。

本書のページの中のセイゴオ・マーキング⑤

本書のページの中のセイゴオ・マーキング⑥

 リヒテンベルクは牧師の子である。父親はダルムシュタットの教区長であり、敬虔な子供時代をすごした。けれども聖書とスピノザ(842夜)は別格だったけれど、神学にはほとんど関心を向けていない。それどころかキリスト教の打ち立てるロジックには、つねに根底的な批判があったようだ。
 そこには「根拠ならざるものを根拠とする誤謬」(ファラキア・カウサエ)が根付きすぎていると感じていた。リヒテンベルクは「神」のことより「心」のことを考えてきたのではないかと思える。

 J944 原因という曖昧な観念の上に神なるものへの信仰を打ち立てたのは、まことに驚くべきことだ。(→20世紀になってこのことを考究したのがホワイトヘッドだ)

 J354 今日、最も役立ずな文書は、道徳に関するものだと思われる。

 J1099 主の名において炙り、主の名において燃やし、悪魔に委ねる。すべては主の名において。

 J369 カトリックの宗教を、神を貪る女と呼ぶこともできるだろう。(→これは捨てセリフに近い)

 L113 神様がカトリックだなどと諸君は信じているのか?

 K237 神学は1800年をもって完結したとみなし、神学者がさらなる発見をすることを禁止する、というのは悪くないのではあるまいか。

 L952 人間は神についての観念を目的に合わせて織るということができるのではあるまいか。

 K268 一人の愚者が多くの愚者を作るが、一人の賢者はごくわずかの賢者しか作らないような世界に、我々は生きている。

 K195 人間の精神が、すべては無であるということを見出し、直視しても心穏やかでいられるということだって考えられる。ただしそれは、人間精神が最高に努力しつつ、さまざまな段階をへてついにこの認識に到達した場合にかぎられる。(→たしかにブッダや如来って、そういう意味だった)

 C249 正義と皮剥ぎの間に区別はないのか。

 L298 人間にとって天国の発明ほど簡単なものは、おそらくなかった。(→浄土も地獄も、ね)

シリーズ『セイゴオ語録』(青幻舎)
「遊」編集長時代から今日まで、松岡が書き綴ってきたありとあらゆる著作やエッセイのなかから、独自の世界観や人生観や仕事観がうかがえる言葉を収集し再編集したセイゴオ版箴言集。『危ない言葉』、『切ない言葉』、『リスクな言葉』、『アートな言葉』の全4巻を刊行した。

リヒテンベルク図形を模したセイゴオ・マーキング
『危ない言葉』(青幻舎)p141より

⊕ リヒテンベルクの雑記帳 ⊕

∈ 著者:ゲオルグ・クリストフ・リヒテンベルク
∈ 装丁:山田和寛
∈ 編集:増子信一
∈ 翻訳:宮田眞治
∈ 発行者:和田肇
∈ 発行所:株式会社作品者
∈ 印刷・製本:中央製版印刷株式会社
∈∈ 発行:2018年6月5日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ はじめに 
∈  第一章 思考・認識・言語
∈  第二章 書くこと・読むこと
∈  第三章 人間とは
∈  第四章 〈私〉について
∈  第五章 宗教について
∈  第六章 政治について
∈  第七章 自然と自然科学をめぐって
∈∈ 〈概説〉
∈∈ 自然科学の方法論について
∈∈ 最後のノートから――『自然学提要』執筆計画を中心に
∈∈ 解説
∈∈ あとがき
∈∈ 年譜
∈∈ 人名索引

⊕ 著者略歴 ⊕

ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク(Tatsuji Nagataki)

1742年、牧師の家に生まれる。ゲッティンゲン大学で数学、天文学、自然学(フィズィーク)などを学ぶ。学生時代、上流階級出身イギリス人学生の家庭教師兼世話係を務めた縁で、イギリス王家とのつながりができる。1770年、ゲッティンゲン大学教授。1770年および1774‐75年のイギリス旅行―そこではキャプテン・クックの世界周航に同行したゲオルク・フォルスターなどとも親交を結んだ―を除いては、ほぼゲッティンゲンという小さな大学街で暮らす。実験自然学の教授として、講義ではさまざまな実験を披露し、学生以外にも多くの聴衆を集めた。科学者としては、放電現象に伴うリヒテンベルク図形の発見(1777年)で著名。同年より雑誌『ゲッティンゲン懐中暦』を編集、自らも多くの記事を執筆する。ユーモアに富んだ啓蒙的な記事は広く読まれた。1799年没。葬儀には500人以上の学生が参列したとされる。

宮田眞治(みやた・しんじ)
1964年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程中退。神戸大学文学部を経て、東京大学大学院人文社会系研究科教授。研究領域は近代ドイツ文学・思想。