三枝博音
日本の思想文化
中公文庫 1978
はたして日本には
ヨーロッパに伍する思想がなかったのか。
自然哲学や科学思想はなかったのか。
もし、そうであるなら、その理由はどこにあるか。
「日本という方法」にとって、
この問題を避けて通るわけにはいかない。
では、空海は? 三浦梅園は? 福沢諭吉は?
この難問を最初に
一手に引き受けたのが、三枝博音だった。

 帆足万里は文化7年(1810)に『窮理通』によって、日本に初めて本格的な天文・暦学・光学・分子学をもたらした。万里の直前に、前野良沢、三浦梅園、脇蘭室がいた。
 その万里が芭蕉に傾倒していたということを、ぼくは知らなかった。三枝博音(さいぐさ・ひろと)によって教えられた。選んでいる句がおもしろい。江戸の日本科学の先人がこういう句を選ぶのだ。
   一寸きて 泥とりおとす燕かな
   赤き実はひとつもなくて 秋淋し
   行く秋や まといて枯るる もののつる
   春の水 岸根 岸根の 深さかな
 これはまさに寺田寅彦(660夜)だ。こういうことが帆足万里にできて、いまの科学者になく、そして三枝博音にあったのである。三枝はこんなことを言っていた人だった。「アインシュタインの著述こそ最高の文学なんですよ」。
 こんなことも書いている。日本には和算の関孝和の登場までは、いわゆる算術や数学がなかったと言われてきたが、そんなことはない。実は「稽古」というものが日本の数学的通用だったのである。そんなことはすでに海保青陵が『稽古談』に示している!

 この本はいっとき大いに考えさせられた一冊である。いや、いまもって甚だ気になっている。
 ぼくは『三枝博音著作集』全12巻を30年前に入手して、手元近くの書棚に飾り(そのとき『岡倉天心全集』と『南方熊楠全集』を一緒に入手した)、折りにふれてあれこれを読んでいた。「日本」を感じてきたのは子供のころからの感覚的な体感であり、「日本」と交わってきたのは空海(750夜)西行(753夜)芭蕉(991夜)近松(974夜)の作品からであったが、「日本」を考えるようになったのは三枝博音の著作集からだった。
 が、せっかく三枝が日本を思想の水準に引き上げてくれていたのに、ぼくはそれをまるごとは咀嚼しなかった。嚥下しなかった。中江藤樹や山片蟠桃や三浦梅園(993夜)や鎌田柳泓を導かれて、その原典のほうに、その周辺のほうに入っていった。いわば三枝を、日本思想のすばらしい水先案内人としてばかり読んでしまったのだ。
 それが「日本文化」のところが構成編集されて一冊になっていたのを知って、あらためて考えさせられたのだ。いまでは、三枝こそが日本思想の本格的発見者だったろうと確信できる。

 三枝のことについては「鎌倉アカデミア」の紹介をかねて、766夜に、またそのほかの視点で335夜に、764夜993夜に書いたことがある。
 あらためて経歴を言っておくと、この哲学史家は明治25年(1892)に広島の浄土真宗の寺に生まれ、旧制中学卒業後は、うら若い青年僧として郷里の檀家衆から嘱望されていた。のちに三枝の親友となる科学史家の岡邦雄が、この体験は三枝を考えるうえでまことに象徴的だとのべた。
 その後、熊本に出て五高に入り、さらに東大の西洋哲学科でリッカルト、フッサール、ディルタイにとりくむのだが、その一方で、仏教学を高楠順次郎に、医学史を富士川游に、科学哲学や日本哲学を桑木厳翼や井上哲次郎に学んでいた。若くしてかなり多彩だ。
 やがて昭和7年(1932)に戸坂潤・岡邦雄らと唯物論研究会を組んだことは、その後の「唯研」のうわさの広まりからいっても影響力からいっても、三枝の画期をしるしているのだが、それを三枝はマルクス主義一般に広げるのではなく(それにもとりくんだが)、あえて日本哲学史、日本科学技術史に絞りこんでいった。とくに日本の技術史に初めて本格的な光をあてたことと、『日本哲学全書』(昭和12年完結)を編集したことは、日本の思想編集史上の金字塔のひとつであった。
 なかでも三枝が切り開いた技術史や技術哲学は、当時の日本が産業技術や化学技術や機械技術によって一挙に世界の水準に達しようとしていたこともあって、日本独自の技術がありうるのかどうか問われていたので、大いに脚光を浴びることになった。そのころの技術論は、ヨーロッパ流の「体系説」か「適用説」しかなかったのである。日本の科学技術史を「開物」の歴史としてとらえたのも、「工」を「たくみ」と読ませたのも、世界技術史と比較してみせたのも、三枝が最初だった。
 このあと三枝は、その社会主義的活動が睨まれて拘留された。唯研を辞した三枝は、一方でファシズムと対抗するとともに(だからしばしば“ヒューマニズムの思想家”とも言われる)、他方では新たな研究にとりくんでいった。それが「日本思想」だった。

 三枝博音は昭和12年と17年(増補改訂版)に1冊の本を世に問うた。本書『日本の思想文化』である。両方とも第一書房から出版された。
 この時期に留意してもらいたい。まことに危険な時期なのだ。日本の民族的優秀性などを持ち出せば、そのまま国粋主義やナショナリストとうけとられても仕方がない。青江舜二郎が『著作集』の月報で「三枝さんのえらさ」として書いていたことなのだが、当時は、昭和3年から吹き荒れた「左翼狩り」によって、日本の大半の進歩的知識人は弾圧されるか、逼塞するか、沈黙を守ったのである。しかしその渦中で、三枝は圧倒的な論証力によって、「世界のなかの日本思想の独自性」をあえて言及してみせたのだった。
 一貫した論考なのではない。本書は、「日本文化の特質」「日本文化と思想性」「日本の知的文化」「日本人の自然解釈」といったいくつかの論文を集成したものであるが、それでも初めて「日本的なもの」とは何かを問うた画期的な論考だった。それまで、唯物史観をもって日本人の思想性を議論したものは皆無だったのだ。
 こう書いてある。「学問は、その根源にかえって真理をつかもうとするならば、それがギリシアにおいてであろうと、ドイツにおいてであろうと、日本においてであろうと、変わりはない」。
 世界で共有されるべき日本の思想とは何か。三枝の論点はそこにあった。いくつかの視点と論点をかいつまんでおく。

 明治5年に加藤弘之が、日本には学術がなかったと書いた。「異域ノ言語文章、我ト脈理ヲ同ジウセザル、恐クハ漢梵ノ比ニアラザルベシ。況ヤ其説ク処、概略学科術芸ニ係ルヲ以テ、紀事史乗トハ、其難易亦自ヲ異ルヲヤ、且ツ学科術芸ノ旨タル、絶テ皇漢ひとノ言ハザル所ニテ、歌人独リ発明論説スル者巨多なり」。
 日本には「紀事史乗」はあったが、「学科術芸」はなかったというのだ。また同じころ、福沢諭吉は『文明論之概略』(412夜)で、日本には私徳があっても公徳がなく、私智はあっても公智がないとした。社会科学もないというのだ。
 三枝はこれを否定しはしない。なるほど、日本思想史や日本表現史には、あきらかに論理的訓練の欠如があるとみた。それが万葉古今以来の抽象力の欠如となったのだし、また、合理的な観察による自然主義的な思考が薄弱であったため、それが近代においてなお自然哲学の欠如につながった。親鸞(397夜)道元(550夜)の「自然」は「自然法爾」(じねんほうに)であって、その意味は「如来ノ真説」に従うということだった。
 たしかに日本は、ヨーロッパの近代科学がもたらした成果の大半を生み出しえなかった。アルキメデスやユークリッドもいないし、ニュートンもホイエンスもいない。幾何学や論理学のようなものもほとんど発達しなかった。真理は、日本においては仏説や孔子や老荘の教えにあったのであって、それらはほとんど検証しようのないものだった。それは真如であっても、合理ではなかった。
 それだけではなく、日本人は近世以降も「市民社会的教養」を培ってもこなかった。サン・シモンやコントのような社会思想もつくれなかった。空海から梅岩(807夜)にいたるまで、「社会指導の思想」がなかったわけではないけれど、それらがのちのちの日本社会の規範となるほどのものではなかったのだ。多くは宗派や学派や商売のなかに落ち着いてしまった。
 つまりそこからは「思想の権威」が生まれなかったのだ。荻生徂徠ですら、その学問に権威はなく、たんに「先王之教」だけが提示されたにすぎない。
 しかし三枝は、これらをもって日本に思想がなかったとは言えないとした。「日本に近代科学やその前提のための真理探究がなかったのは事実であるが、それをもって日本に学問や思想がなかったとは、断じて言うべきではない」という一貫した立場をとった。
 こうして、空海や最澄や道元が、中江藤樹や貝原益軒や荻生徂徠が、三浦梅園や本居宣長や富士谷御杖が秘める日本思想を、三枝は次々に取り出していったのである。
 三枝はそこにはヨーロッパの学問とは異なる「連関の思想」があると見た。むしろ、自然を分析せずに観照したことが、また思想の権威を確立しなかったことが、かえって日本の思想文化の独自性を生んだとみなしたのだ。
 まさに「連関の思想」や「関係の思想」こそ日本思想の特色なのである。けれども、これだけを指摘したのでは、まだ何の説明にもならないとも言わなければなるまい。これだけでは、日本には日本なりの独自の思想がありましたという、いわゆる“日本特殊論”で終わってしまう。
 が、三枝はここから実に多彩な思想的論証に乗り出した。

 三枝が注目したこと、そのひとつは、日本の思想者や表現者は、存外に「思想の条件」を満たしているのではないかということだった。思想の条件とは、「自然」と「歴史」という二つの根源にふれようとすることである。
 そんな大それたことを、日本人は思索してきたのであろうか。大それたわけではなかった。アリストテレスやベーコンのようなことは、日本ではまったくおきてはいない。体系には挑んでいない。しかし、そのかわり、眼前の出来事や変化に「自然と歴史」が生成され、編集されていた。
 たとえば、『万葉集』に「経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず少女らが織れる紅葉に霜な降りそね」という歌がある。この歌には、自然と歴史を現在においてとらえて、そこに世界(小さな世界ではあるが)の軸を感得しようとしている傾向が見られる。これはそのまま道元などにもあてはまることで、とくに「山水経」では、朕兆未萌の自己が過去と未来を「山」の存在によってとらえるということを成功させている。
 また、三浦梅園の自然哲学(条理学)には、その冒頭で「天」(テン)と「神」(シン)というものが措定されているのだが、これはハイデガー(916夜)が「一」をザインとみなし、「他」をツァイトとみなしたのに匹敵して、みごとに自然と歴史の両方に思想の軸をおいている例だった。

 むろん三枝は、日本人の思想や表現が自然や歴史を抽象化できなかったことを、認めている。空海が「即身」をついに抽象化できず、日蓮が「安国」を一般化できず、仁斎(1198夜)が「古」や「邇」の日本化をはたしえなかったことを、ちゃんと見てはいる。
 しかしそれ以上に、「もののあはれ」と「ばさら」とが、「無常」と「威稜」(いつ)とが同時に認識されていたことに注目した。
 このことは、昭和初期に発表されたグンデルトの日本論『日本文学史』や『日本宗教史』が、日本人が「花」というばあいと、ドイツ人が「花」というばあい、日本人の「花」はその花そのものにおいて、ドイツ人の抽象的思弁や自然哲学思考に届いているという指摘をしたのだが、そのような見方にもつながっていた。
 日本人は、カントのようにもヘーゲルのようにも思索を構築的に展開できなかったのではあるけれど、そのかわりに「花」や「傘」や「かぶりもの」において、そのいっさいの思索のプロセスを陶冶してみせたのである。
 そこを中江藤樹は、思索を「窮索」と名付けつつ、窮索は「至善ノ能慮ラ任セズ、智ヲ用ヒ穿鑿スルコトナリ」と言った。鎌田柳泓は一種の「知の普遍性」を考察した思想家であるが、その『理学秘訣』には、条理というものは「一個の印板」に揚写されるものだという見方が披露されていて、カントやヘーゲルに代わる「日本という方法」が暗示されていた。柳泓は「うつし」という見方を万物窮理に適用したのであろう。こういう見方は、三枝以前、誰もできなかったものだった。

 三枝博音は、初めて「日本的なもの」という言い方を日本思想史の俎上にとりあげた人だった。三枝は、この言い方には「日本的思想」「日本的精神」「日本的気質」といった言葉ではあらわせないものが含まれている、と言って、これを現代思想におけるきわめて新しい問題提起だとみなした。
 ただ、それを「世界に誇るべきもの」と同一視することの“浮誇的”な危険も指摘した。三枝が「日本的なもの」をとりあげたのは、この議論をしているのが、昭和10年代半ばであったことと関係している。国体思想やウルトラ・ナショナリズムと紛れることを警戒したのである。
 しかし三枝は、「日本的なもの」を本気で吟味することに、基本的にはまったく怯まなかった。むしろ日本人が日本の「文化」を問題にするには、この説明しがたい「日本的なもの」に突入していく以外にはないだろうという展望をもった。
 そこで三枝が注目したのは、日本文化には「動的なもの」が欠かせないということだった。水を汲む、五穀を作る、魚を採る、蓑笠をつける、お膳を運ぶ、箸を使う。こういうことを無視しては「日本的なるもの」の説明に介入できないと見た。
 なぜなら、日本は大陸文化や半島文化から数々の文物をとりいれたのであるが、それを日本の風土と生活のなかで変化させ、四季を通じて反芻できるものにしたとたん、「日本的なもの」を発揮したからだ。ということは、日本人は何かを作るというとき、それをどう動かすかということを、そこに含ませていたということになる。
 このことは日本語の言葉づかいにもあらわれる。たとえば何かを食べるにあたって、日本人は「食べる」「食う」「食らう」「食する」「召し上がる」「かきこむ」「ぱくつく」「食事をする」というふうに多様な表現をする。これは、しばしば日本文化の「併列性」とか「重畳性」と言われるもので、なぜそういうことになるかといえば、時と場合によってそこでおこる現象を言い分けるという習慣にもとづいていたからだった。
 これを別の見方でいえば、日本人は「時」や「時間」そのものを深く考察しなかったかわりに、「時がたつ」「時が変化する」ということに思惟を傾けていたということになる。三枝はそれを「気語をつかう日本文化」とも「気文化」とも言った。ぼくの言葉でいえば、それが「うつろひの文化」というもの。

 こういうようなことを左見右見(とみこうみ)考えながら、三枝は俳諧や南画を例にして、「日本的なもの」が「何かの双方がのっぴきならないところ」にさしかかることをもって表現されてきたのではないかという、たいへん興味深い見方を披露した。
 高村光太郎が「南画鑑賞」という雑誌に発言した文章がのこっている。高村はそこで、「真面目になった、のっぴきならぬ、おしつまった精神」こそが南画になりうると言った。互いが棒を押し合って、それがギリギリの均衡になる直前に、双方がおしつまる「ところ」がある。その「ところ」に南画が生まれるというのだ。大雅や蕪村(850夜)や玉堂のことだ。
 三枝は、この「双方おしつまったところ」にたいそう注目した。息をひそめた。そしてそれが、武蔵(443夜)柳生(829夜)の剣でいうなら、まさに「懸待一如」というところだということに気がついた。

 このことについて、ちょっと寄り道をしておきたいことがある。
 実は、3日前の12月22日の土曜日、ぼくは「連塾」絆走祭の第四祭「浮世の赤坂草紙」をナビゲートして、1時から8時までの約7時間を赤坂草月ホールに催していた。
 そのステージでぼくがお相手をしたのは、内田繁、しりあがり寿、清水博、西松布咏、浅葉克己、植田いつ子、井上鑑の各氏各マレビトだったのだが、なかで清水博さん(1060夜)との対話で、新たな生命科学においては「相互誘導合致」(induced fit)が重要な見方になりうること、「鍵と鍵穴」が一緒になって「境界」をつくるということ、その境界では二領域性(デュアル・ドメイン)の時間がはたらいていること、その時間は「過去からやってくる時間」と「未来からおってくる時間」の「懸待一如の現在」をめざしているだろうことなどを、まことに気分よく、かつ高速に交わしたものだった。
 そのときもみごとな解説がなされたのだが(たった30分ほどではあったものの)、清水さんがこの話をもって、「日本的なもの」による科学の可能性に一歩も二歩も分け入っていることはあきらかだった。
 これは科学思想界ではたいへんめずらしい冒険で、かつて誰も成功していないほど危うい思想なのでもあるが、しかしぼくが見るに、最近の清水さんのこの仮説はついに大きな「私智」から「公智」への転換をなしとげつつあるように思われた。

連塾第四祭「赤坂の浮世草子」より
上から内田繁さん、しりあがり寿さん、
清水博さん、西松布咏さん

 いよいよ科学は「モノの科学」から「コトの科学」に向かわざるをえなくなっている。カオス理論や複雑系の理論は、そのための提案だ。それにもかかわらず、多くの科学者は「コトの科学」のための論理を発見しきってはいない。
 清水さんはそのヒントが日本文化のありかたにひそんでいると見て、たとえば天台の『摩訶止観』にいう一念三千を、親鸞の大乗思想(他者思想)を、たとえば柳生新陰流の「懸待一如」を、たとえば清沢満之(1025夜)の「二項同体」を、たとえば西田幾多郎(1086夜)の「絶対矛盾的自己同一」を、たとえば曾我量深の「分水嶺の本願」を、持ち出した。
 それは、日本人の科学が福沢諭吉の「私智から公智へ」向かっていくための仮説でもあった。それはまた、山片蟠桃が「虚智から実智へ」の思想の必要性を説いたことに呼応するものでもあった。
 詳しいことはまた別の機会にのべることにするが、清水さんとステージでそのようなことを交わしているとき、ぼくはアタマのなかでは、三枝博音の「双方おしつまったところに日本文化の精髄が出る」を、あたかも再来する蜃気楼のように思い出していたのだった。
 三枝も、こう書いていたのだ。日本文化に「気」「器」「虚」が動いていることを解説したうえで、こう書いた。「空いている処をふさぐ。ふさいだものをとりはらう。この取り換えの敏捷さは、まさに日本人独特の才能であろう。空きのあること、透きのあること、いつでもそこへ物が持ち込める可能性! その意味での気と器と虚を、日本人はうまく使う」。
 ついでながら、この日の「浮世の赤坂草紙」は、まるごとすべて、とてもよかった。ぼく自身がナビゲーションをやっていて「まるごと、よかった」もないけれど、やっていてなお「よかった」と感じられた。そうとう極上だった。それは内田・しりあがり・清水と続いた最初の3人とのコラボレーションにおいて、すでに確証されていた。それが最後の井上鑑の演奏まで続いた。草月ホールに来ていただいた諸姉諸兄には、なぜこの日の出来事が極上になりえたのか、よくよく思い返していただきたい。
 またちなみに、実は「草紙」についても三枝にはちょっとした論考があって(『著作集』第6巻)、「草紙」という感覚こそ日本の試作がモンテーニュパスカルの「エッセ」に匹敵しうることをのべている。

連塾第四祭「赤坂の浮世草子」より
上から浅葉克己さん、植田いつ子さん、井上鑑さん

 では、また話を本書に戻すことにすると、本書は梅園の条理学の説明や仏教や神道や儒教の解説にも、けっこうページをさいている。
 ただ、それらのことは『三枝博音著作集』にはもっと詳しいので、いまはそれを省いて、ここでは最後に、ぼくが本書からうけたもうひとつの影響を紹介しておくことにする。それは「型」ということだ。
 日本の遊芸文化や芸能文化に「型」があることは、いまさら言うまでもない。歌や茶や花、能・狂言・歌舞伎、そのほか、さまざまな有職故実や作法や武道など、多くの領域の動向が「型」をもってきた。それゆえ、「型の文化」をもって日本文化の代名詞とする主張は、これまでゴマンとあった。
 しかし、「型」は遊芸や芸能にあるばかりではない。兵法にも作庭にも、菓子にも料理にも、言葉づかいにも自然観照にも動いてきた。いや、日本人のコミュニケーションの癖や思想の癖にもあらわれてきた。とくに三枝は、日本思想に通底しているであろう「型」の潜在を指摘した。
 ふつう、このような「型」がスタティックなものと受け取られると、たいへん保守的なものと解釈されるし、まして思想に型があるという見方は、よほど注意しないとフォーマリズムになりかねない。が、三枝はそこを突破した。

 三枝が日本思想に見いだした「型」は主に3つあった。
 第1の型は、外国文化の輸入の日本化によって生じた型である。最澄の天台教学、林羅山の宋儒学、仁斎・徂徠の日本儒学は、その典型だ。ぼくはここに道風の書、道元の禅、三阿弥や雪舟の水墨画、五山僧の漢詩なども加えたい。
 第2の型は、「表現の真相を心の領域に入れる」という型だ。型は自立しているのではなく、それを「心」が受け取っているという、そういう型だ。ここには西行から芭蕉までが、『万葉集』から『梁塵秘抄』までが、空海から近松までが、そして藤樹から梅岩までがすっぽり入る。説明はいらないだろう。花鳥風月とは何か、無心・有心・幽玄とは何かということにもあたる。これを徳川儒学は「心学」というふうに一括した。
 第3の型が、三枝が新たに強調した型だった。三枝の説明そのままにいえば、これは「人の世をかくかくにあらせたいという理想の自然的根拠を考える」という型をいう。
 この型は、第1の型や第2の型が十分に爛熟し、波及しきったのちにあらわれるもので、したがって徳川中期からしだいに濃厚になってくる型である。三枝はその先駆者を貝原益軒に発見し、その形成者たちを皆川淇園・山片蟠桃・海保青陵におき、その確立者を安藤昌益や三浦梅園に、また本居宣長や富士谷御杖に見た。
 これらの思想家たちがどのような思想内容をもっていたかは、今夜は略しておく。すでに「千夜千冊」にとりあげてきたものもあるし、これからあらためてとりあげたいものもある。とくに益軒の『慎思録』、蟠桃の『夢の代』、昌益の『自然真営道』、御杖の『神人弁』はとりあげたい。
 それはともかく、この第3の型がもっている日本思想文化上の意義はきわめて大きい。「人の世をかくかくにあらせたいという理想の自然的根拠を考える」ということは、ヨーロッパでいえば自然神学に始まって市民的理想社会論などの思想史が想定されるのであるが、日本では、自然神学は信長の天道感覚や羅山の神君論になり、市民主義は四海臣民主義に向かっていった。したがって、ここには尊王攘夷思想や水戸イデオロギー日本陽明学神道思想なども入るということであって、そうなると、この思想の系譜は日本の神話にも国体にも改革開明にもかかわっていたということになる。が、三枝に言わせれば、それも「型」だったのである。
 こうして、これらと益軒・梅園・昌益とをどのように比較検討して新たな日本思想史にするかということが、三枝以降に待望されたのであるが、しかしながら、いまのいままで、このような視点をダイナミックに駆使した「第3の型」の日本思想史というものは、ほとんど研究されてこなかった。いまなお、三枝博音の先駆的指摘が燦然と輝くばかりなのである。

 とりあえず、以上のことを強調しておきたかった。三枝の研究活動や著述活動は以上のことにはとどまらないが、日本文化についての「思想の条件」はそろったろう。
 もっとも三枝は、日本思想の「型の研究」をその後、深めようとはしなかった。おそらくは、本書以降、日本の宿命が戦争の泥濘に突入していったからであろう。けれども三枝は、「型」は「型」そのままに、その「型」の発展や応用や適用がどのようにおこっているかを、つねに日本の思想文化の深化として発言しつづけた。
 たとえば、「生存」に「いきていること」とルビをふり、「生活」に「いきてゆくこと」というルビをふり、日本人は「生活の仕様」によって芸術や芸能の型をつくっていったと考えた。「いきている」のではなく、「いきてゆく」ための型が日本なのだと見た。
 これはやはり、いまなお三枝にしか指摘しえないことであると、ぼくには思われる。そして、その芸術や芸能の「つくりかた」はギリシアやヨーロッパのそれとは異なって、「思うこと」が「想われること」になるように仕向けられていったのだと説明した。そしてさらに、「思うこと」と「想われること」の関係を潰してしまわないことに、日本の思想文化の真骨頂があらわれていくのだと喝破した。
 これはまさに「日本という方法」を一言で言い当てている。「思う―想う」の型である。こうしたことを、三枝はさまざまな現象や類例や思想例をとらえては、発言し、著述していったのである。
 かくして、「日本という方法」に関するあらかたの基礎準備は三枝が了えてくれていたと言うべきだろう。ともかく、諸君も、そう思ってほしい。そのことは、三枝を読んだことがなくとも、中央公論社の『三枝博音著作集』全12巻の構成を見てもらえれば、よくわかるはずである。日本の思想文化が「日本という方法」に向かっていくための踏み台は、ここに大半充填されている。
 構成は次のようになっている。とくとご覧いただきたい。ちなみに『著作集』の編集は林達夫(336夜)吉田光邦(401夜)・飯田賢一の3人による。申し分のない3人だった。

 1巻「認識論」
ディルタイ論、資本主義の分析、プラグマティズムについての批評、志向と直観など。
 2巻「論理の哲学」
ヘーゲル弁証法についての論考を含む。
 3巻「日本の思想 I」
日本における哲学的観念論の変遷を追っている。日本の唯物論者として、貝原益軒・荻生徂徠・太宰春台・富永仲基・三浦梅園・皆川淇園をあげ、唯物論に近づいた思想者として鎌田柳泓・山片蟠桃・安藤昌益をあげた。また近代の先駆者として、福沢諭吉・森有礼・中江兆民・幸徳秋水・内村鑑三・井上哲次郎・井上円了・河上肇・戸坂潤をピックアップした。ぼくは『著作集』のなかでは、当初はこの巻と5巻に埋没した。
 4巻「日本の思想 II」
弁証法に関するさまざまな論考。日本宗教思想史(とくに空海・最澄・円仁・得一・栄西・道元・浄土真宗・陰陽道)。富士川游についての、めったに聞けない話もたっぷり収録されている。
 5巻「三浦梅園・日本文化論」
梅園についてのすべてはこの1巻にことごとく集約されている。それと本書の内容、および富士谷御杖論(これは見逃せない)。
 6巻「文学論」
文学をフィジカとメタフィジカで論ずる「小説と論理」、梅園と鴎外の比較、デカルトと啄木の比較、日本文学における「気」の問題、ヴィーコについてなど。
 7巻「人間論」
文化が危機に瀕することへの警告。ブルジョア主義批判。女性と技術の関係(これはジェンダー論としても先駆的)。ベーコン・ディルタイ・ハイデガーの比較。生活美学論。
 8巻「哲学・技術」
哲学史入門(ベーコン、デカルト、スピノザ、ライプニッツと進み、そこからロック、バークリー、ヒューム、コンディヤック、ラ・メトリと展開する)。形而上学批判(シェーマ主義の問題を扱った)。フィヒテ論、フォイエルバッハ論、マルクス論。
 9巻「技術と技術家」
日本では珍しい技術史をまとめている。「技術家列伝」には欧米からグーテンベルク、ダ・ヴィンチ、アグリコラ、ジーメンス、ノーベル、ライト兄弟ら27人が、日本からは平賀源内・伊能忠敬・佐久間象山・鍋島直正・高峰譲吉・小花冬吉・豊田佐吉・池貝正太郎・岸敬二郎など22人がとりあげられている。
 10巻「技術の歴史 I」
日本人の知性と技術がどのように結び合わさってきたのかを、初めて通史的にも、個別的にも論じた瞠目の1巻。
 11巻「技術の歴史 II」
技術史の研究全般。とくに『デ・レ・メタリカ』と『天工開物』の比較。『日本化学古典全書』の解説のすべて。
 12巻「日本と西欧・雑纂」
この巻は本書(第5巻)と併せて読みたい。とくに「西欧化日本の研究」、富士谷御杖についてのエッセイ、ハーン・ロチ・ベルツ・フェノロサの日本論についての論評は、見逃せない。

三枝博音著作集』全12巻+別巻

附記¶三枝博音は昭和38年(1963)、横浜市鶴見の生麦待ちあたりの横須賀線の列車事故、いわゆる鶴見事故で亡くなった。追悼葬儀がただちに横浜市立大学でおこなわれたのは、三枝が長らく学長の座にいたからだった。日玉浩史クン、三浦梅園を発見したのは三枝博音だったのだよ。

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