石田梅岩
都鄙問答
岩波文庫 1935
ISBN:4003301110

 昨日につづいて京都に因んだ話をする。ただし、今晩はやや昔の話。徳川時代半ばに心学を興した石田梅岩をめぐる。お題は「遅咲きの香ばしさ」あるいは「手前の埒をどうあけるか」。

 車屋町の御池を上がる。
享保14年(1729)、その東側に梅岩が居宅をかまえた(約230年後、そこから東に4本進んだ高倉通りの御池を上がった柊町に、わが松岡一家と松岡商店が引っ越しました)。
 居宅をかまえたのは梅岩がいよいよ“都鄙問答”を始めた信号発信にあたっているのだが、それまでの梅岩の経歴についてはほとんどわかっていない。丹波に生まれて11歳のとき京都に出てきて、23歳から黒柳家という呉服屋に奉公に出て、20年近くをそこの番頭として勤めたことだけが知られる。
 だいたい23歳は奉公に出るにはあまりに遅い年齢で、そのうえまた20年も一家に留まるというのは(黒柳を辞したのは43歳である)、平然といえば平然、暢気といえばあまりに暢気であって、こういうところにスロースターターの梅岩の生き方の一端がすでにあらわれているのではあるが、しかし、そこには心に秘めた決意もあった。
 その決意というのが「遅咲き」を愛し、自分の「埒をあける」ということだった。

 そういう決意をしたには原因がある。梅岩は親のせいだか、環境のせいだかはわからないが、幼児からかなり変わった性格の持ち主だったらしい。
 梅岩の『語録』には、自分が幼年のころから周囲に嫌われていたことが述べられている。どうしても人に対して意地悪になってしまうらしい(こういう子供、けっこう多い)。15歳のころそれが悲しくなり、それをなんとか改めようとして時間がかかったと述べられている(でも、なかなか改められない)。
 この、「性格を変えたい」という思いがそのまま梅岩の思想の骨格にもなるところで、当時はこれを、孟子やヒュームではないが、まとめて「人性を見る」「人性に付き合う」といった。のちに梅岩はこれを「心ヲ知ル」、あるいはずばり「発明」とも言っている。自分自身を発明するということだ。

 よく「性格は変えられない」などという。他のことは変えられても、性格だけは変わらない。そう、思われている。しかしおそらくこれはまったくの誤りで、そんなことはない(梅岩もそう確信したようだが、ぼくもずっとそう思ってきた)。ただ、その前にすることがある。そう、梅岩は考えた。
 自分の性格の積層構造を知ることだ。雲母のように重なっている性格の地層をひとつひとつ知る。それも、呉服屋でいろいろの老若男女と出会いながら、ゆっくり確かめていく(そのため呉服屋に20年を送ったのだろう)。そして、いったいどの層に自分のふだんの悪癖が反射しているかを突きとめる。そのうえで、その使い慣れてしまった性格層を別の性格層での反射に変えてみる。そういうことをした。
 梅岩の「心学」とはまさにこのことで、それを梅岩は「手前ヲ埒アケル」と言った。

 自分という性(さが)をつくっているのは、年代を追って重なってきた自分の地層のようなものである。性層とでもいうべきか。
 その層を一枚ずつ手前に向かって剥がしていく。そうすると、そのどこかに卑しい性格層が見えてくる。そこでがっかりしていてはダメなのだ。そこをさらに埒をあけるように、進んでいく。そうするともっとナマな地層が見えてくる。そこを使うのだ。
 だから、別の性格に変えるといっても、別種の新規な人格に飛び移ろうとか、変身しようというのではなく、自分の奥にひそむであろう純粋な性層に反映している性格を、前のほうに取り出せるかどうかということなのだ。
 このように使い慣れた性格を剥がすこと、あるいは新たな性格を取り戻すことを、それが「手前の埒をあけていく」なのである。なぜ梅岩がそんなことに気づき、人性の発明を決意できたのかというと、それについてはちょっとした伏線がある。

 そのころの京都はかつての法華二十一ケ寺が隆盛を誇った安土桃山期とちがい、町には禅寺と浄土系の寺がふえ、町衆も法華門徒の力よりも禅と浄土の門徒の力が増していた。
 梅岩が通った黒柳家も本願寺門徒で深く宗祖を崇めていたが、梅岩はなぜか最初から神社に関心をもち、神道に注目していたようなのだ。これが伏線だ。
 もっともそのころの神道は“神儒一如”ともいうべきもので、木下順庵から山崎闇斎まで、神道的なるものと儒学的なるものはかなり重なっていた。これについては第796夜でも述べた。それゆえ梅岩の神社神道への傾倒もそういうものだったのかもしれないのだが、ぼくは必ずしもそうは思わない。
 周知のごとく、梅岩の心学は日本で初めて「商人が学べる学」を興した。主著『都鄙問答』には正直や倹約を重視した商人のための哲学が次から次へと披瀝されていて、最近も京セラの稲盛和夫さんが石門心学に傾倒して稲盛塾を各地で開いて評判になっているように、たしかに心学は今日のビジネスマンや商家にもよくよく適用する記述に富んでいる。
 しかし、『都鄙問答』にはそういう商人哲学とともに、梅岩が自分のねじくれた性格を突破するために、あえて神社信仰から心学に至ったプロセスも書いてある。そのほうを注目しておきたい。

 まず梅岩は、時の権力がいかにすばらしかろうと、たとえひどかろうと、それらにかかわりなく国土社会のどこかに位置しているとおぼしい「神」や「天」を畏敬することにした。
 そして梅岩はこれを毎朝、祈った。神棚の中心には天照皇大神宮が奉られてはいたが、同時に竈の神や産土神を敬っていたように、梅岩にとっての「神」や「天」は特定の神格ではなかった。遠大な神であればよかった。なぜなのか。

 そのような大いなる、また遠くなる「神」や「天」を自分の心に戴いておくことが、朝廷や徳川将軍や藩主やその他の為政者に対して阿(おもね)ることからの自由の保証だったのである。
 次に、そうすることによって、自分を含めた天の下に居並ぶ「人性」というものを平たく見えるようにした。これは福沢諭吉の先取りともいうべきで、人の下に人もなく人の上に人もないという思想の根幹をつくっていった。けれども、これだけではただの平等思想であろう。平等思想をもったからといって、性格は変わらない。
 そこでさらに梅岩は、人の一生のなかで自分で自分を卑下したり自分を高慢にしてきた自分の人生の流れを歴史に見立て、ここに鶴嘴を振るうことを決意した。それが「手前ヲ埒アケル」ということで、自分の過去に鶴嘴を振るう。ねじくれた層による自己反射の壁を砕くということだ。「埒」とは柵で囲われた場所のことをいうのだが、その「埒」をあけていく。そのように梅岩は考えて、それを実行に移したのである。
 実行というのは、自分との問答をしつづけて、そこにたまたま人が現れれば、その人とも問答をしつづけていくことをいう。この問答は、続ければ続けるほどに自身を反映するものとなる。実は『都鄙問答』の問答とはこのことをいう。
 こうして車屋町御池上るに、梅岩は講席を設けたわけである。遅咲きの45歳のときのこと、それがのちに「心学塾」とか「石門心学講舎」とよばれた。しかし、それはすこぶる香ばしかった。

 これでだいたいの見当がつくように、梅岩は「遠くの神」を心に設定することで「近くの心」を作り替え、それによってむしろ「遠くの心」を“発見”できたのである。
 そうだとすれば、今度は「近くの神」を人々の中に“発見”することが残された。それが梅岩には町人や商人だったのである。
 結局、「人性」とはこのことだった。自分と他者の関係が「天」や「神」を含めてどう交わりあっているのかということ。その関係がねじくれるかどうかが、自分の性格がねじくれているかどうかの証左なのである。投影なのである。

 この考え方はすぐさま弟子たちに伝播して、まずは手島堵庵が立ち上がり、梅岩の問答を記し、梅岩の哲学を敷延するという作業に向かった。ついでこれが広がって、中沢道二やその門下生たちに継承された。この段階で「心学講舎」は21舎になり、町人や商人のみならず武家にも浸透していった。このころから、梅岩は生前に一度も使ったことがなかったのだが、「心学」という言葉も広まっていった。みんながみんな、手前の埒の開削にとりくみはじめたのである。
 遅咲き、いいですね。
 それを梅岩は呉服屋にいるあいだにきっと決意した。呉服屋というのがミソで、そこはそのころの京都で最も人が出入りするところであって、最も流行が動くところで、かつ、人の思いが見えるところだったわけである。

 二つ、三つ、付け加えておこう。ひとつ、梅岩は生涯の独身だったということだ。ふたつ、石門心学舎が大坂に波及してそこから懐徳堂などが生まれていったということだ。
 みっつ、読んでみて『都鄙問答』で最もカッコいい言葉は「一モ舎テズ、一ニ泥マズ」だったということである。これは、「一も舎(す)てず、一に泥(なず)まず」と読む。自分が捨てられないものには馴染まず、自分が馴染めないものは捨ててしまうこと。心学とはこのことを言う。

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