ブレーズ・パスカル
パンセ|上・下
新潮文庫 1953
ISBN:4102019014
Blaise Pascal
Pensees 1670
[訳]津田穣

1)読みちがえ

 パスカルの円錐曲線論は美しい。その中にアポロニウスがいる。16歳のときの習作だということを大目に見ないようにしても、美しい。プロバビリティ(確率)の数学について語るパスカルはフェルマーそのものだ。そこではパスカルはパスカルではなく、一連の数式列にさえなっている。
 パスカルの原理や計算機製作は、そのままパスカルが科学に邁進していたらもっと複雑なものになっていただろうものの、パスカルはそこで「科学的中断」をした。この中断を大半の数学史家や科学史家たちは、なぜパスカルほどの溢れた才能が解答も証明もない宗教談義のために「宗教的回心」したのか、まったくもって口惜しいという態度をとってきた
 さもあろうが、その「中断」と「回心」こそがパスカルが数学史から見ても思想史から見ても、歴史上まったくもってどんな類型にもあてはまらないパスカル自身になりえた理由なのである。
 だいいち、その「中断」と「回心」がなければ、ヴォルテールが『哲学書簡』にまるまる1章ぶん「パスカル氏の『パンセ』について」を割くことにはならなかったろうし、キリスト教思想史がパスカルを大きく位置づけることもなかったし、ニーチェが121回もパスカルの名を持ち出しはしなかった。

 そうなると、アポロニウスであってフェルマーであって「賭けの数学者」であったパスカルは、同時に、アウグスティヌスとモンテーニュとジャンセニウス(ヤンセン)の後継者パスカルとなっていったということになる。そう、成ったのだ。
 そういうパスカルを、まずシャトーブリヤンが19世紀ふうにまとめあげ、ついでニーチェ、ヴァレリールフェーブルが20世紀ふうに蘇らせた。いや、それだけではない。たとえば野上弥生子の『道標』では、クリスチャンの佐野と高校生の慎吾が熱く『パンセ』賛歌を語っていたし、ミシェル・セールはいつもまるで『新パンセ』のようにパスカルを散らし書きしてみせた。これは浪漫としてのパスカルだ。
 だからアウグスティヌス、モンテーニュ、ニーチェ、ヴァレリー、ルフェーブル、野上弥生子、セールを読まずには、パスカルは伝わらない。そう、ずうっと思っていたのだが、おやおや、どうもそうではなかったのだ。

2)比べ読み

 パスカルについて書こうとすることが、こんなにも気分を澄ませるとは思わなかった。いや、まだ何も書いてないが、久々に読んでいるうちに、そうか、『パンセ』はこう読めばよかったかと思えるようになり、そのように感じることで気分がやけに澄んできた。
 たとえば『パンセ』〔317〕には「敬意とは面倒なことをしてみなさい、ということなのである」とある。また〔271〕には「知恵は、われわれを幼な心に向かわせる」とある。
 まさに、その通りなのだ。よくぞ「面倒なこと」や「幼な心」に精神の本来が宿っていると言ってくれたではないか。
 そうなのだ。たったこの二つの章句だけでも、『パンセ』を読む気分がぐんと澄んでくる。しかもひどいことに、かつてのぼくはそういうところに鳥が啄むようには嘴(くちばし)を当ててみなかったのだ。

 数日前のこと、いつもは何冊かを持って行くのに、前田陽一訳と津田穣訳の『パンセ』だけを鞄に入れて新幹線に乗った。その日の目的地ATRに行くには、京都で降りて近鉄奈良線に乗り換え「高の原」で降りる。そのあいだずっと二つの『パンセ』を読み比べていた。
 新幹線の小さな折り出しテーブルの上に前田訳(中公版)と津田訳(文庫版)を重ねるように置いて、次々に見開き単位で“比べ読み”をしていくのは、あまりにも腕さえ伸ばせぬ狭苦しい作業だったけれど、それがかえってよかったのか、隣のオネントムめいた紳士が静かに熟睡していたのがよかったのか、予想以上に濃密な時間となった。この、ちょっとした忘我の状態のせいで、京都に着くまでに7割がたの点検を了えられた。
 文庫版には20年ほど前の赤いボールペンのマーキングが、中公版「世界の名著」のほうには10年ほど前の青いマーキングと書き込みがあったから、今更ながらの超高速な集中になったのだろう。欄外の参考写真を見てほしい。
 なお、『パンセ』にはいくつもエディションがあって、それぞれ断章番号が異なっている。ここではブロンシュヴィック版にもとづいた。こうした『パンセ』のエディションを読み比べることも、パスカルの読み方なのである。

3)時代読み

 パスカルを読むには一つの条件を除けば、できるだけその日の心境で読むのがよいというふうに、いまのぼくには思える。そのほうが身に染んでくる。なぜならそこにはパスカルの「聖編集過程」とでもいうべきものが手にとるように見えてくるからだ。
 これがぼくの『パンセ』についての最新の“判定”だ。それについてはあとで述べる。
 では、一つの条件というのが何かというと、パスカルが送った時代の状況と周辺の事情をちょっとだけ知っておくということだ。その話を先にしておこう。
 たとえば、パリに出たパスカルに30歳以上年上のデカルトが会いたがって、デカルトは病弱だったパスカルの健康を心配していくつかのヒントを出し、パスカルはデカルトのトリチェリの真空管実験に関する解釈の誤りを指摘したというようなこと、パスカルが国王ルイ13世に特許を求めた四則演算のための「計算機」は、当時の通貨の数え方に寄与するための実用に富んだものであったこと、その後パスカルは妹のジャクリーヌに続いてポール・ロワイヤル修道院に出入りして、ジャンセニスムの立場からイエズス会への論争を引き受けたこと、こういうことはパスカルの思想や精神に深々と関係している事情であるからだ。

 こうした時代の符牒の中に、どのようにパスカルがいたかといえば、パスカルが1623年に生まれた翌年、リシリューが宰相になっていて、14歳のときにデカルトが『方法叙説』を書いていた。日本は寛永年間。島原の乱がおこっていた。
 つまりパスカルは、フランスがイギリスに対抗してルイ王朝による「太陽の帝国」を築こうとしていた時期に、一方ではガリレオ・ケプラー・デカルトからトリチェリ・フェルマー・ヘルモントに科学思考が移っていく過渡期を体験し、他方では、メルセンヌが主宰した科学アカデミーからも一定の評価を得た科学者として信頼されつつも、エギョン夫人のサロンなどに出入りしてルイ王朝の宮廷とも縁をもちながら、結局はポール・ロワイヤルでの思索を深めて、信仰問題に関する発言に傾いていった。こういうことになる。
 ようするにパスカルはかなり恵まれた環境にいて、一方では実証科学の台頭を前にその実証の方法に自分のほうが長けていることを感じ、他方では精神や信仰を問題にするには別の実証の方法が必要だろうということを察知していたということだ。
 ただし、青年パスカルはそうとうに生まれついての病弱だった。眼性偏頭痛だったという“診断”もある。いったいそういうパトグラフィ(病跡学)によってどれほどの思想診断ができるのか、岩井寛さんや中井久夫さんの業績に惹かれてきたぼくとしては、判断に困るところだが、きっとパスカルは自身の頭痛の種を「隠者」への憧れで解消したかったのではないかとおもう。
 そしてこの間に、有名な「回心」が2度おこったのである。

4)回心回読

 パスカルの最初の「回心」は、父親の事故につながっている。科学をもっぱら尊び、理性と信仰を分けるように子供を教育してきた父親が、あるとき水で滑って大腿骨を折った。
 このとき兄弟の医師が3カ月にわたって邸内に宿泊して治療に当たったのであるが、その兄弟がポール・ロワイヤル修道院の運動をくむ熱心な信仰者だった。23歳になっていたパスカルはこの兄弟医師の話にたいそう関心をもち、妹のジャクリーヌを説得、パスカルとジャクリーヌがそろって父親に対して信仰のすばらしさを打ち明けた。子が親を変えたのだ。
 ここにパスカル一家が熱心な“聖家族”になる契機が生まれたのだが、これが最初の「回心」だった。すでにこのときに、パスカルの「科学的中断」は決行されつつあった。

 もうひとつの決定的な「回心」は1654年の11月23日におこる。実はパスカルの死後、その胴衣の縫い込みから一枚の紙切れが発見された。
 いまは『メモリアル』と称されているその紙切れは、パスカルがこの日にイエス・キリストに向かって信仰の決意をしたことが清楚に綴られていた。そこには「‥アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者および識者の神ならず。確実、感情、歓喜、平穏。イエス・キリストの神。わが神、すなわち汝らの神。汝の神はわが神とならん‥」その他の言葉が、最後のアーメンに至るまで、丹念な文字で書いてある。
 まさにこの夜こそが、ヴァレリーの「精神の島」の発見に匹敵する一夜であったにちがいない。かくてこれ以降、青年パスカルはポール・ロワイヤルの立場において思索をし、言葉を紡ぐようになっていく。『パンセ』はここから先のパスカルの「聖編集過程」ばかりを伝えてくれる。
 ただし、ポール・ロワイヤルの立場がちょっと面倒くさい。

5)読み信じる

 ポール・ロワイヤルの立場とは、一言でいえばアウグスティヌスの恩寵論に立つということである。当時はオランダのジャンセニウス(ヤンセン)の遺著『アウグスティヌス』を踏襲することを意味していた。これがいわゆるジャンセニスム(ヤンセニスム)にあたる。
 そのころのポール・ロワイヤル修道院にはサン・シラン神父がいて、指導的立場にあった。シランはジャンセニウスの信仰上の朋友で、清貧・純潔・悔悟・厳粛を信条とする隠者のような日々を営んでいた。ところがこれは前教皇のイノケンティウス10世からは異端視されていたもので、宰相リシリューからも睨まれていた。
 そこにカルヴァンの宗教改革に反対しつづけて、カトリック・ラディカルな運動を展開してきたイエズス会が恩寵よりも意志を重視して、ポール・ロワイヤルの立場にも批判を加えた。
 さあ、意志か、恩寵か。イエズス会とジャンセニスムはしだいに対立を深める。
 文筆力があって、かつ論証力に富んでいたパスカルが応援を頼まれたのはこのころのことである。パスカルはさっそく書簡形式に託して、ポール・ロワイヤルの立場に立って論陣を張った。これが有名な『プロヴァンシアル』書簡集になる。そしてこの立場にもとづいて、38歳で死ぬまでに綴られていた冥想録が『パンセ』だったのである。
 しかし、その冥想録は冥想録という様式と思想が先に前提されたのではなく、パスカルが“仮初めの隠者”になっていく過程がそのまま投影して生まれてきたものだった。しかもその過程は肉体の修行によるものではなかった。そうではなくて、パスカルは言葉による修行を創ったのだ。

6)編集されつつ読む

 ぼくが『パンセ』を読んで澄んだ気分になったというのは、キリスト者パスカルの精神そのものに対してというよりも、その精神によって「言葉のパフォーマンス」を鮮明に確立していったプロセスが読み取れるところにあった。
 いやいや、パスカルはポール・ロワイヤルの立場に立ったから、これらの「言葉のパフォーマンス」ができたのである。そう言ったほうがいい。ところがしかし、そうやって産み落とされた精神の言葉には、そのような立場を離れて自立する言葉そのものの方法的世界観が芽生えていたのである。
 まずは次の一連の断章を読んでみられたい。断章番号の順序と言葉づかいを変えておいたので、ぼくがこれから何を言いたくなっているか、わかりやすくなっているとおもう。

〔49〕

〔23〕

〔22〕

〔19〕

ある場面ではパリを「パリ」とよばなければならないし
ほかのある場面では「王国の首都」とよばなければならない。
言葉はいろいろに配列され、いろいろの意味をとる。また意味はいろいろに配列されて異なる効果を生む。
同じ思考でも配置を換えるなら別のメッセージになるはずなのである。同じ言葉でも、並べ方を変えるなら、別の思想を構成するはずなのだ。
著作を拵えていて一番あとに気がつくことは、何を一番初めに置いたらよいかを知らなければならないということである。

 これはまさしく「編集工学」である。いや、これはやや早まったかな。「編集的精神幾何学」とでもいうべきものである。それもまことに過不足のない言い方になっている。
 パスカルはこのように、言葉の配列によって次々に意味の相貌が変わっていくことを注視して、そこにはきっと言葉にひそむ「ねじまわしの進む力」と「鉤の引く力」があるはずだ、というふうに捉えた〔55〕。そしてそれをつねに「見抜くこと」をマスターしないかぎりは、どんな言葉をたくさん読もうとも、またいたずらに言葉を連ねようとも、何の力ももたないと考えた。
 しかも恐るべきことに、〔45〕では「言葉(国語)は、文字が文字に変わるのではなく、言葉が言葉に変わる符牒なのである」と喝破した。パスカルは「馬車が倒れた」と書くか、あるいは「馬車が覆された」と書くかでは、「水が流れる」と「水を注ぐ」とでは、何か根本的なことが変化するのだと見抜いたのだ〔53〕。これは、やっぱり編集術なのだ。
 さらにはこれは、パスカルによって初めてあきらかにされた、まさに国語文化の問題でもあった。しかもこのことは、そこに神やポール・ロワイヤルの立場がなくたって、十全に成立していることなのである。
 パスカルは精神を編集するためには、実は言葉の幾何学をどのように創るかということに、こうして超接近していたわけだった。

 ただし、ここでちょっと注意書きをする必要がある。それは幾何学という言葉の取り扱い方だ。
 ぼくは『パンセ』の精神の全体を「幾何学精神」と言ってもよいとは思っているが、これはパスカル自身がやんわりと拒否をしていた。そういう事情があったのだ。
 『パンセ』の冒頭では実は「幾何学の精神」に対して「繊細の精神」があることが謳われて、パスカルは幾何学だけではこれから綴る思索の論証には至れまいと踏んだのである。幾何学が役に立たないとは言ってはいない。そうではなくて、精神の論証には幾何学や科学ではなく、言葉による論証が必要だと考えた。しかも、その言葉は『聖書』を除けば、これからパスカル自身が創っていく言葉づかいによってのみ生じるものなのだ。
 それも何でもよいというわけではなかった。いったんは実証の予定をたてて、それで見えてこないところから直観に入りなおし、そこで神と交わり、そこから紡げる言葉に従おうということだった。これが「繊細の精神」である。
 だからパスカル自身は、幾何学の方法によって使える言葉ではあらわせない何かを「繊細」という言葉であらわしたかったのだ。そういう注意書きである。

 しかしそうだとしたらなおさらのこと、ぼくはその試みをむしろ「繊細編集による幾何学が生む言葉のパフォーマンス」とよんでみたいのだ。
 いや、そう言ってしまうには神が抜けてしまうのだが、パスカルからぼくが感じるものは、ポール・ロワイヤルの立場で招じた神との交わりをたとえ抜きにしても、存分に伝わってくる。ただし、パスカルはちゃんと神を扱った。ここでは省略するが、パスカルは編集幾何学をもって神と信仰を巡っていく。とりわけ第2章「神なき人間の惨めさ」、第4章「信仰の手段について」、第8章「キリスト教の基礎」、第11章「預言」は、まさしく「聖なる編集幾何学」の様相である。気分が澄まないはずがなかった。

7)弱く読む

 これであらかたの案内をしたつもりだが、実はぼくにとって『パンセ』が澄んでいる理由は、もうひとつある。それはパスカルがつねに「弱さ」ということを、すなわちフラジリティに言及しつづけていることである。
 まず有名な「人間は考える葦である」をめぐった箇所を見てもらえば、パスカルの言いたかったフラジリティの意味がよく見えてくる。原文は次のようになっている。

〔347〕 人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。
これを押し潰すのに宇宙全体が武装する必要はない。 一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
しかし宇宙がこれを押し潰すとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。
なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙が自分よりずっと勝っていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 ここに決然と宣言されているのは、人間がもともと本来的にもっている「弱さ」であり、その「弱さ」のもつ小さな偉大さというものなのである。
 パスカルはとっくに「弱さ」や「小ささ」が大きな自然や巨大な宇宙に匹敵することを知っていた。それは人間の思考を媒介するかぎり、強弱と代償が逆転するものなのである。〔198〕にはこういうふうにある。「人間の小さなことがらに対する敏感さと、大きなことがらに対する無感覚とは、奇妙な入れ替りを示している」。
 うーん、すばらしい。まずは「小さなことがらに対する敏感」だ。うん、うん。シャープペンシルの芯やプチトマトや惚れた女の唇の端である。次に「大きなことがらに対する無感覚」だ。住んでいる町の全体、イラク戦争、仏教の全貌。たしかにこういうものには鈍感だ。しかし、それがときどき入れ替わる。
 こういうパスカルに、これまではほとんど注目されてはこなかった。これまでパスカルは「認識の残酷性」があるとさえ言われ、ときには「一貫した思考をしない思想者」というふうに、敬意はもたれていたものの、その本質が掴めないままに評価されてきた。
 けれども、もうそういう読み方はやめなさい。「入れ替わる」ということそのものがパスカルの思想の構造なのである。位相幾何学なのである。

 最初にあげた『パンセ』〔317〕の、「敬意とは面倒なことをしてみなさい、ということなのである」をふたたび思い出してもらいたい。「面倒なこと」は「窮屈な思い」という訳もある。
 この意味がわかるだろうか。ぼくはこの一行のすべてにパスカルが立っていると思われる。また〔271〕を思い出してもらいたい。「知恵は、われわれを幼な心に向かわせる」なのだ。「知恵はわれわれを幼児へおくる」「知恵はわれわれを幼年におくる」とも訳される。これは「マタイ伝」で「もし汝らひるがえりて幼な子のごとくならずば、天国に入るを得じ」とあるより、ずっとパスカル的である。
 パスカルにはこの思想があったのだ。敬意から面倒へ、その面倒の引き受けが、その瞬間に他者を敬意に巻き込んでいく。成熟した知恵をもちたいと思っている。その思いがふいに幼児の一点への集約をもたらした。その瞬間に何かが入れ替わっての、知恵の到来なのである。
 なぜ、このようなパスカルをぼくは見ていなかったのだろう。なぜパスカルをこんなふうに読ませない哲学史があったのだろう。それはパスカルが書いていたことが「定めなさ」ということであることに気がつかなかったからである。
 〔203〕にこんなふうに、ある。「つまらぬものの魅力のために、一週間しか生命がないかのようにして、行動してみるべきなのである」。そして〔204〕に言う、「もし一週間の生涯なら、百年をも捧げるべきなのだ」。

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