清水博
生命を捉えなおす
中公新書 1978・1990
ISBN:4121905032

 この一冊が与えた衝撃は機関銃放射のようだった。ぼくが34歳のとき、1978年である。いくつも理由があるが、一番の衝撃は「情報の動的秩序のふるまい」によって「生命」を捉えようとしていたことである。いまでこそこのような見方は生命論や生命情報論や自己組織化論の主流のひとつになっているが、当時はこんな見方をする科学者はほとんどいなかった。いったい清水博とは何者かと思った。こんな日本人の科学者がいることに誇りを感じた。
 生命の維持を情報で捉えるというだけなら、遺伝情報によって生命シテスムを解く分子生物学がすでに大手を振っていた。情報としての生命活動の一端を遺伝子という要素で捉えようとする試みだ。しかし「生きているという状態」を要素から組み上げて解釈するのではなくて、グローバルに捉えるにはどうすればいいかという問題意識はそのころはまだ少なかったし、ましてそこにひそむグローバルな性質を「情報の動的秩序のふるまい」から捉えようとする試みは、一部の先駆者たちを除いてほとんどなかったといってよい。
 加うるに、それを「自分という意識がなぜこの宇宙に生を背景に暮らしているのか」という疑問に挑むために解こうとしているという科学者は、かなり少なかった。あるとするなら、それは1944年にエルヴィン・シュレディンガーが『生命とは何か』で問いかけて以来、心ある科学者のなかに去来していた問題意識にすぎなかったろう。

 清水博がそのような問題意識で「バイオ・ホロニクス」(のちに生命関係学と名付けられた)にとりくんでいることに真っ先に注目したのは、ぼくの近辺では村上陽一郎と十川治江だった。ぼくは二人に促されて東大薬学部の研究室に清水さんを訪ねた。
 挨拶もそこそこに、きわめて独創的な見解を次から次へと披露してくれた。今日の科学の現状に対する苦言も多かった。ぼくにはそんな知識はなかったのに、プリゴジンの散逸構造論の欠陥にも言及した。とくに興味深かったのはリミットサイクルが生み出すリズム振動子の研究の現状とセルモーター(細胞エンジンのモデル)の研究についての説明で、ぼくは久しぶりに“科学の最前線”が目の前で立ち上がっていく興奮をおぼえたものだ。
 清水さんもぼくの拙い話に関心をもったようだった。しばらくすると東大で話をしてくれと言ってきた。てっきり学生に話すのかと思っていたのだが、他の大学や大きな研究機関からよばれた研究者がずらりと集まっていた。さあ困ったぞと逡巡していると、「松岡さんの編集の話が聞きたいのだ」という。冷や汗をかきながら黒板の前に立ち、自己編集化のモデルの話をした。そこで出会ったのがカオス研究にとりくんでいる津田一郎である。
 その後、世界で初めての「複雑性」に関する国際会議が日本で開かれたときも、ぼくは清水さんによばれて発言者になった。以来、清水さんとはいくつもの場面で出会い、協力をお願いしたり、多少のお手伝いもしてきた。東大退官ののち、金沢工業大学で「場の研究所」を立ち上げられてからはいささか交流が遠のいたのだが、清水さんの研究がさらに場所の科学を深めていることも、東洋思想武芸の真髄に交差していったことも、刻々伝わってきていた。清水さんは哲人科学者の道を究めつつあるようだった。しかし、ぼくの衝撃はやはり本書を最初に読んだときの弾痕に、いまなお刻まれている。

 本書は1978年に初版が出て話題をさらい、その後、約20年をへて増補されて第2部が加わった。ここではその増補版のほうをとりあげることにするが、さきほど久々に読んでみて、当時、ぼくが何に衝撃をおぼえたかがあらためて絞れた。また、なぜ機関銃放射のような印象をもったかということも納得した。
 機関銃的だったのは清水さんの論旨が科学としての情報生命論に徹するだけでなく、旧来の科学に注文をつけつつ、人間の意識の動向や社会のありかたをのべつ議論のなかにくみこんでいるためで、その量たるや、かつてシュレディンガーが『生命とは何か』にヴェータンダ哲学についてふれたどころの比ではなかったせいだった。しかも例証にひっぱりだされているのが、社会のなかの人間の行動なのである。これは「情報」という概念をわかりやすく理解させるための方便としてつかわれているのだが、読んでいると科学論と社会論が交互に繰り出されて、まるで機関銃を右へ左へ放射されているという印象なのである。
 何に衝撃を覚えたかというほうははっきりしている。「動的秩序は自己生成する」ということ、そこには「非平衡非線形の現象」があらわれているということ、「リズム振動が形態形成をしている」ということ、そこには「場の情報」がはたらいているということ、それらの動向には「関係子がかかわっている」ということ、絞ればこの5つだった。
 その後、清水さんは『生命に情報を読む』『生命知としての場の論理』『生命と場所』をはじめ、本書の発展にあたるさまざまな仮説を提出したが、それらの著作の原点のほとんどは本書に萌芽する。

 意外におもわれるかもしれないが、われわれが宇宙のなかで生きているということを記述する科学は、まだないといってよい。「生きている状態」を科学的に記述するには物質の組み合わせをどれほど正確に記述してみても、そこから生命活動は出てこないからである。まして脳のふるまいや意識の活動は出てこない。
 生体を構成してる元素や分子はほとんどわかっているけれど、それをどういじくりまわしても生体の特質をあらわさない。遺伝子の自己複製能力や受精と発生分化のしくみの大半がわかったとしても、そうやって生まれた生命体が自分の内に複製されている情報と、生命活動を始めてこのかた自分の外からとりいれている情報をどのように“擦り合わせている”のかも、まったくわかっていない。
 それよりなにより、いったい物質の組み合わせでしかないはずの生命体が、いつ「生きているもの」になったのかが、まったくわからない。生命の発現は原子が一定のしくみでくみあわさると、アミノ酸やヌクレオチドといった低分子ができ、そこに原子にはない分子独特の性質があらわれることからはじまるのであるが、この段階は構成原子の種類によって変わってしまうのでグローバルな性質が発揮されているとはいいがたい。ところがこれらが100個から1000個へ集合を加えていくうちに、そうした細部の要素に直接に依存しないグローバルな性質が少しあらわれてきて、やがて高分子となった状態に脂質分子が加わるころには、オルガネラ(細胞小器官)としての特異な前兆を発揮しはじめる。
 何が、どこで、どのようにおこったのか。「情報」を主語にするにも、分子生物学の成果だけではほとんど説明がつかない。物質のふるまいを無視して「生きている状態」を語ることもできない。では、どう考えればいいか。本書の出発点はここにあった。

 本書で清水さんが最初に着手するのは、まずは「生きている状態」の“共通分母”をさがすということだった。そのうえで、遺伝子-ゲノム-オルガネラ-細胞-器官-個体-生物社会-生態系といったそれぞれの段階に、何かが「生きている状態」を一貫して共通させている秘密があるのではないかという思考にたつ科学を提案しようとする。
 これは、生命活動には固有の段階をまたいだグローバルな性質があることを仮定した見方である。つまり、生命を「生きている状態」にさせているのは、これらのそれぞれの段階のローカルな構成要素に依存しないグローバルな性質があるのではないかという見方だ。
 観察するかぎりは、遺伝子-ゲノム-オルガネラ-細胞-器官-個体-生物社会-生態系は、それぞれ「生きている」か「死んでいる」か、そのどちらかにしかいない。しかも、生きていても死んでいてもそれぞれの構成要素はほとんど変わらない。つまり、個々の要素の性質をいくら加え合わせても「生きている」という性質は絶対に出てこない。ということは、この系、すなわち生体系は「非線形」であろうということになる。
 非線形というのは、原因と結果のあいだに足し算が成り立たないような性質をいう。たとえば、aとbという原因がそれぞれ単独にはたらいたときにあらわれる結果をそれぞれAとBしたとき、原因a+bがA+Bという結果になるのが線形性で、A+B+XやCというまったく変わった結果になるのが非線形である。そこで本書の第1の前提は、生命現象はこういう非線形的な性質を本来的にもっているのではないかということになる。

 グローバルな状態をつくっている系には、いくつかの共通の性質がある。そのひとつは非線形ということだが、もうひとつは「相転移」をおこしているということである。その系では「相」が劇的に変わっていく。
 たとえば氷と水と水蒸気は成分は同じでも、まったく異なる「相」をつくっている。層状に流れていた雲がいつのまにかウロコ雲になっているのも、水道の蛇口を少しずつあけていくと、水が糸状から急にねじり状になり、さらに棒状になって、そのうえで突然にバッと開いていくのも、「相」が変わったせいだった。逆に、コーヒーにミルクを垂らしたばかりのときはまだミルクをスプーンで引き上げることは不可能ではないかもしれないが、これがいったん交ざってしまったらミルクは二度と引き上げられない。こうした「相」の変化はあるところを境にして不連続におこる。劇的でもある。それが相転移である。
 おそらく生命現象もこういう相転移をおこしているのではないか。これが第2の前提になる。

 相転移をおこしている系には何がおこっているのかといえば、構成要素の変化では説明しきれない何かがそこに発現していると考えざるをえない。
 
このことを最初に考えたのは反磁性や超伝導体を研究したレフ・ダヴッイドヴィッチ・ランダウで、ランダウはその発生している何かを「秩序」とよんだ。たとえば磁石が強い磁力を発現するのは、構成要素が変わったからではなくて構成要素間の関係が変化したからである。原子磁石の並び方が変わったからなのである。ということは相転移では無秩序なものから秩序のある状態が形成されているということになる。そうならば、生命はまさしくこのような「秩序をつくっている系」なのではないか。これが本書の第3の前提になる。
 では、なぜこのようなことが生命現象で可能になっているのか。こうした現象はいまのところ太陽系では地球にしかおこっていないと考えられる。つまり太陽から適度に離れた系でしかおこらなかった現象である。ということは、「相転移によって秩序をつくる非線形な生命系」の動向には、どこかで「熱の問題」がかかわっているはずなのである。

 この世の物質現象には「エネルギー保存則」というものが必ずあてはまっている。机の上のボールには位置エネルギーがあり、それが落ちれば落下エネルギーが、ころころ転がって止まるには摩擦エネルギーなどがかかわって、これらは総じてエネルギーの値を保存する。
 振り子の運動は、こうした位置エネルギーと運動エネルギーと摩擦エネルギーで説明がつく。振り子がいずれ止まるのは振り子を固定している箇所に摩擦がはたらくからで、摩擦がはたらくたびに振り子の運動は少しずつ弱められて停止する。ある系の位置エネルギーはできるだけ小さい値をとろうとするからである。
 これをいいかえると、摩擦がおきるたびに熱が少しずつ発生するために、振り子のエネルギーがしだいに熱エネルギーに変わっていったというふうに(熱エネルギーに向かって逃げていったというふうに)見ることができる。つまり、振り子の運動を正確に記述するには、振り子の運動そのものをちゃんと観測するとともに、その振り子がどのような環境条件におかれているかを記述しておかなければならないということだ。
 とくに振り子がどのような熱エネルギーをもっているかということが重要である。これを熱力学では、系がどのような熱源との関係にあるかというふうにあらわす。
 ここで地球を一個の大きな振り子と考えると、地球は宇宙的な熱源から適度に離れた位置で運動しているのだろうとみなせる。ということは、太陽系第3惑星に生命が誕生したということは、この太陽・地球系がもたらす熱力学的な系としての特質も生命現象に関与していると考えることができるということだ。

 自然界は力学系で動いている。マクロな物体はニュートン力学の法則にしたがっている。物体を構成している原子や分子のふるまいは量子力学の法則にしたがっている。ニュートン力学(古典力学)は量子力学の一部にすぎない。こうした力学系では力は系のポテンシャル・エネルギーを仕事のエネルギーに変えていくようにはたらく。
 原子や分子からできている系には、その内部エネルギーを最小にしようとしている力がはたらいている。内部エネルギーを最小にするには、エネルギーを熱エネルギーに負担させておくのが効率的にいい。振り子が停止するのは振り子の内部エネルギーが摩擦を通した熱エネルギーに転化したからである。紅茶がさめるとどうなるかというと、紅茶が茶碗の温度とともに室温とまるっきり同じになるというのが結末だが、これは紅茶が内部エネルギーを最小にして外部(室内)の熱源と同じ状態に落ち着いたからだった。こういう状態を「熱力学的平衡」という。
 多くの要素からできている系が熱源に接しているとき、基本的にどういうことがおこっているかというと、一方では系から熱源に向かって内部エネルギーが熱として流れ出すのだが、他方では系が熱源から熱エネルギーをもらうということもおこっている。このやりとりが平衡になれば、この系は安定するが、そこにはもはや内部エネルギーの活動はなくなっている。つまり不活性になる。
 しかし、「生きている状態」とはこのような熱力学的平衡にはないはずである。そんなことになっていれば生命たちはたちまち“熱死”してしまう。いや、生命はそんなところからは生まれない。言い方をかえれば、熱力学的平衡とはエントロピーが増大していった結果をあらわすわけだから、生命現象はこのエントロピーの増大をどこかで食い止めていることをしているはずだと考えられる。エントロピーは「秩序のなさかげん」をあらわしている尺度をあらわしているので、生命現象はこの「秩序のなさかげん」を「秩序のありかげん」に変えていると見られる。これは生命が熱力学的非平衡系であることを暗示する。
 ということは、生命系は「相転移によって秩序をつくる非線形な熱力学的非平衡系」であろうということになる。が、これではまだ正確ではない。生命は熱力学的非平衡系の「開放系」なのである。

ゲーデルが1931年に発表した論文のなかで採用したゲーデル数天皇のイメージの拡張

「閉鎖系」と「開放系」

 地球には太陽からのべつまくなく輻射エネルギー(熱)が注ぎこんでいる。もしそれだけがおこっているなら生命は誕生しなかった。ところが地球の各所は夜になるとこの熱を宇宙空間に放出している。すなわち地球は、太陽という熱源と宇宙空間の絶対零度(摂氏マイナス270度)という二つの熱源のあいだに運動しつづけている「開放系」にあたっていた。
 このような「熱力学的非平衡開放系」は熱力学的には不安定である。地球全体でいうのなら昼夜で値が異なるし、季節によっても値を変える。しかしながらここからがいよいよ重要な推理になるのだが、むしろこの不安定であることが生命現象という秩序形成にあずかったとも推理できる。本書はここから「動的秩序の形成」という清水さん得意の段になっていく。
 
清水さんはヘルマン・ハーケンのレーザー研究による「協同現象理論」を借りて、次のような説明をする。

 化学レーザーは、化学反応のエネルギーをつかってレーザー光という秩序の高い光を自動的なつくりだす装置である。蛍光灯などにくらべて格段に秩序が高い。そこでは、化学的エネルギーによって系の中に不安定な状態をおこし、その不安定が秩序を生むにあたって微視的な「協同」がおこるようになっている。
 蛍光灯であれレーザー光であれ、光を出すもともとは分子(原子)にある。分子の振動である。分子には基底状態と励起状態があって、基底状態にある分子に余分のエネルギーを吸収させると、分子が励起状態へ遷移する。この励起した分子がもとの基底状態に戻るときに光(光子)を放出する。
 この光の放出に二通りがある。ひとつは自然放出で、分子が周囲の熱源と接触していることでおこる。もうひとつは誘導放出で、外から与えられた光によって誘導されて光を出す。このばあいは外から入ってきた光と同じ位相の光が出る。レーザー発光はこちらでおこる。
 化学レーザーでは、まずレーザーの中の分子に外からエネルギーを与えて励起状態をつくる。これをポンピングという。ポンピングされた分子はすぐにもとの基底状態に戻ろうとして弱い光を出す。これでは何もおこらない。そこで、このポンピングの速度をどんどん上げていくと、装置の中の励起の分子数のほうが基底の分子数より多いという頭でっかちの不安定な分布ができて、ある点(閾値)までくると急に光が強くなる。つまり閾値よりポンピング速度が大きいと、放出される光が位相をそろえて出てくる。これがレーザー発光である。
 位相がそろってレーザー発光になったということは、位相がまちまちのエントロピーが大きい状態が、ある時点でエントロピーの小さい秩序を生んだということを意味している。相転移がおこったのだ。つまり化学レーザーという系にエントロピーの増大に反するかのような秩序形成がおこったということになる。清水さんはこれが「動的秩序の形成」のひとつの例だという。
 そこにはなんらかの理由で協同(シナジー)という現象がおこっている。そうだとすれば、動的秩序はこの協同現象と関係があるようなのだ。ハーケンはこれをシナジェティックスとよんだのであるが、本書はこのあと、同様なことが実は筋肉の収縮の動きにもおこっているという詳細な例をあげて、説明する。

 これでだいたいの前提は用意できた。生命現象はどこかに不安定な頭でっかちをつくるはたらきがあって、それを協同活用して秩序をつくっているにちがいない。のちにこの不安定さのことは「ゆらぎ」と総称されるようになった。またここでは省略するが、「リミットサイクル」や「カオス」とよばれるようにもなった。
 しかし、このような動的秩序がオルガネラから生態系を貫いてつくられる主たる作用は何によっているのかというと、どうも従来の科学概念でそれを説明するのに無理がある。ここには「情報」という概念の導入が必要なのではないか。清水さんは本書の後半で、いよいよ「情報」という視点によって動的秩序の形成を読み解く仮説にとりかかる。ざっとまとめると、次のようなことになる。

 生命現象に出現しているのはおそらく動的秩序というものである。それは系に流入してきた自由エネルギーが一定の閾値をこえたときに初めて出現するらしい。自由エネルギーとはヘルムホルツが規定した概念で、熱力学系において内部エネルギーとエントロピーと温度であらわされるものをいう。
 そのように自由エネルギーの変化によって動的秩序があらわれる系は、たえまないエントロピーの増大の渦中のなかの開放系になっている。これはイリヤ・プリゴジンが「散逸構造」とよんだものにほぼ等しい。正確にいえば「非平衡開放系の構造」である。そこには必ず、系あるいはその一部を不安定にする「ゆらぎ」がおこっている。これを数学的にあらわすと必ず非線形になる。その「ゆらぎ」が系の内部でなんらかの協同作用を促している。
 こうしたことは物理化学現象でもしばしばおこっている。化学レーザーはそのひとつの例だった。しかし、物理化学現象の多くが熱力学的には「平衡に近い非平衡」でおこっているのに対して、地球上におこった生命現象は徹底して“非平衡のなかの非平衡”あるいは“正真正銘の非平衡”とでもいうべき「非線形非平衡の開放系」におこっている。もしそうだとすれば(まさにそうなのだが)、ここにはこうした「ゆらぎ」をいかせるエネルギーやエントロピーとは別の何かが動いていると考えたほうがよい。
 かつてシュレディンガーはそれを「負のエントロピー」と名付けたものだった。それを一歩も二歩も進めてよびかえると、その何かとは、それこそがおそらくは「情報」というべきものなのである。

 情報とは、「右へ行くか左へ行くか」とか「AかBか」の決定をまだ判別しないでいる状態から、その一つを選択して指定する状態に突き進んでいく動向を含んだものをいう。粗視の状態から微視の状態へ進んでいくこと、そこに情報が関与する。
 たとえば学校の記念写真を見たらわが子の姿があまりに小さくてわからない。そこで眼鏡をかけてみたら目鼻立ちがはっきり見えた。このとき写真がぼけているのは情報が区別できない状態、すなわちエントロピーが大きいことをあらわしている。眼鏡をかけることはその状態から情報をもらうことに当たっている。いいかえれば眼鏡をかけることによって情報が前に進んだことになる。さらにいかえれば眼鏡をかけることで写真にひそむ「負のエントロピー」を食べたということになる。
 このように考えてみると、生命活動は「情報をうまく発現できるような系」になっているというふうにいうことができる。情報の力は情報をやりとりすることの効果が有効に発現できるときに発揮される。生命系はおそらくそのような情報が発現し、それが動的秩序につながるようになるように自己組織化されたしくみなのである。

 かくて本書は、情報が「ゆらぎ」を含む動的秩序をつかって自己組織化をおこしていくときには、生命現象のそれぞれの段階の情報が「関係子」としてはたらいているのだという仮説にたどりつく。
 関係子はアーサー・ケストラーの「ホロン」(全体子)からヒントをえた新しい概念であるが、それはたんに“全体を知る部分的要素”というのではなくて、清水さんはその場その場の情報を「場の情報」として感知するものだとみなした。関係子は、つねに生きた状態が関与する「場」のセマンティック・ボーダーをとりしきるものと定義されている。この関係子が「場の情報」を動的秩序に向かわせているらしい。ラフにまとめれば、こういう仮説になったのだ。
 ここから先、本書は関係子のふるまいが「場の情報」をもとにして「意味」を創出しているという展望まで加えている。詳しいことは省略するが、「意味」のひとつにはリズム(リズム振動)がある。そのリズムには「引きこみ」がおこっていて、まさに相転移や協同現象が立ち上がっていくのが認められたのである。清水さんの生命を捉えなおす試みは、かくして「生命のセマンティックス」という前人未踏にまで辿り着く‥‥。

 勝手な案内はこのくらいにしておこう。清水さんは勝手な案内を一番嫌う人なのだ。正確なことは本書にあたってもらうにしくはない。ぼくとしては、1978年の弾痕をここにちょっぴり再現しておいたというにとどめたい。ただし、ちょっとだけだが、清水さんがこのような仮説に辿り着いた経緯の一端を、ぼくが知るかぎのことで補足しておこうとおもう。
 1950年代のこと、清水さんは東大薬学部の痩身の学生だった。このときバナールの『歴史における科学』、エンゲルスの『反デューリング論』、ディラックの『量子力学』、ボルツマンの『自伝』の4冊に大きな影響をうけたという。すばらしい4冊である。
 清水さんはやがてこれらを通して「生命」というものに強い興味をおぼえていく。当時はまだタンパク質分子の二次構造に関する研究がやっと活発になりはじめたころで、DNAの二重螺旋理論も生まれつつあったばかり、タンパク質分子自身が鋳型になって生体内でタンパク分子を合成しているという説が信じられていた状況だった。けれども清水さんは、この鋳型説というものが自分がイメージしている生命のダイナミックな構造とどうしても一致しないことに気がつき、それを知るには細胞代謝の動的イメージを生きたままで研究できる生物物理学的な統計理論による方法が必要だと痛感した。
 こうして大学院で分子の統計力学的描像を研究する日々がはじまったのであるが、そこに、一方で清水さんが研究をすすめていた核磁気緩和理論に関心をもったハーバード大学から声がかかり、ハーバードとスタンフォードで2年をおくることになる。アメリカでの学究生活はかなり刺激的だったようだ。とくにアメリカ人が日常生活の思考の論理性をそのまま科学に発展させてしまう能力に富んでいることにショックをうけた。
 やがて九州大学に赴任することになった清水さんは、おりからの大学紛争に遭遇する。持ち前の気質からなのか、清水さんはその渦中に飛びこみ、大学と学生が激突する矛盾を一身に受けるようになる。研究は放置され、大学とも学生とも溝が深まるなか、ついに一人の学生が自殺した。生命を探求しようとしていた研究者にとって、この事態がもたらした意味は大きかった。
 
清水さんはしばらく沈潜ののち、迷妄を払うかのように本格的な生命探求に没入する。連日連夜、顕微鏡で生命現象を覗きはじめたのである。オルガネラに発現する「生きている状態」の研究がこうして火ぶたを切って落とされた。やがて、『生命を捉えなおす』という構想がふくらみ、その実証に立ち向かう日々が始まった‥‥。今夜は、あえて一人の日本の科学者の草莽の日々を紹介したと思われたい。

附記¶清水さんには、『生命に情報を読む』(三田出版会)、『生命と場所』(NTT出版)、『生命知としての場の論理』(中公新書)、『競争から共創へ』(岩波書店)などのほか、「ヒューマン・サイエンス」シリーズ全5巻(中山書店)の責任編集をはじめ、数多くの著作や構成監修の成果がある。ぼく自身が清水さんの影響をうけて出版編集にかかわったものとして『情報と文化』『解釈の冒険』(NTT出版)などもある。いずれも興味深い。こうした清水さんの独創的な研究や仮説や姿勢に惹かれた人々も数多く、ぼくが知るだけでも中村雄二郎、石井威望、村上陽一郎、野中郁次郎をはじめ、企業経営者から技術者にいたるまで広範な影響をもたらしてきた。むしろそうした清水さんの独創を位置づける試みが少ないのが、日本の科学思想の風土として気になるところである。なお、「関係子」という用語はぼくが進呈した。そのことについては本書の「あとがき」でものべられている。

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