才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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わが相対性理論

アルバート・アインシュタイン

白揚社 1973

Albert Einstein
Über die Spezielle und die Allgemeine Relativitätstheorie 1916
[訳]金子務

 ボルツマンは「優美にすることは靴屋と仕立屋にまかしておけばいい」と言った。これを踏襲してアインシュタインは本書では叙述をあえて優美にしなかったと「まえがき」で断っているのだが、そんなことはない。この本にはアインシュタインの持ち前の優美なセンスが行間に染み出していて、陶然となる。とくに「空間は物質によって制約されている」というメッセージを、断固たる口調でちょっとヒューモアを調味して記述している個所にさしかかるたび、陶然とする。
 37歳のときのアインシュタイン自身による相対性理論の解説である。最終エディションでは、こう書いている。「物理的対象は空間の内にあるのではなく、これらの対象は空間的に拡がっているのである。こうして“空虚な空間”という概念はその意味を失うはずである」。
 
 春秋社の「世界大思想全集」の第48巻に、マックス・プランク『エネルギー恒存の原理』『物理学的展望』とともに「アインスタイン『相対性理論』」が入っていた。昭和5年の石原純の訳である。最初の日本語訳だ。
 学生時代に読んだのだが、くらくらした。ついで矢野健太郎訳の『相対論の意味』(岩波書店)を英文とともに読みくらべたかと憶うが、これは途中で挫折した。さきほどその本を書架から取り出してみたら、ところどころに力んだボールペンによるマーキングと書き込みがあった。
 それからもアインシュタインを読むことは、あたかも熱すぎるお湯に浸かりたくなるようなもの、しばらく入っていると出たくなくなるといった読み耽りとなった。それでも『アインシュタイン選集』全3巻(共立出版)が刊行されるまでに、ぼくのアインシュタイン探索はノート5冊をぎっしり埋めた。
 きっとみんなそうだったろうが、ぼくも特殊相対性理論の理解から入って、一般相対性理論すなわち重力理論の汲めども尽きぬ魅力にジプシーの魔力のように取り憑かれていった。ロバチェフスキー空間、リーマン幾何学、ミンコフスキーの時空連続体モデル、ローレンツ変換式、マッハの原理、ガウスの曲率、宇宙定数λ、重力場方程式、シュワルツシルト半径、ブラックホール……。いま思い出すと、有名な「双子のパラドックス」などよりも、こうした厳密で大胆なフィジカル・イメージを相手に格闘していた自分がなんとも懐かしい。
 そのうちアインシュタインその人にも関心をもって、ずいぶんの数の評伝やらアインシュタイン論を読んだ。フィリップ・グラスの名曲《アインシュタイン・オン・ザ・ビーチ》など、何度聴いたことか。もはやホワイトヘッドやカッシーラーやガードナーのアインシュタインものを二度と読むことはないだろうものの、いつかアインシュタイン編集遊びなんぞを工夫してみたいとも思っている。子供たちに“物理親父アインシュタイン”のことを話してもみたい。
 
 アインシュタインの出発点は、高校生のときに「もし光と同じ速度で走ってみたとしたら、光はどんなふうに見えるのか」と考えたことにあった。ませた高校生だが、ませていない青少年ほどつまらない生きものはない。
 ませた高校生の疑問を大人になったアインシュタインがどのように再構成したかというと、次のようになる。第1に、光は電磁波の一種であって、光が進むというのは電場と磁場の振動が空間を伝わっていく現象だということを言う。第2に、その電磁波が横波だということまでは当時から知られていたのだから、電磁波が横波だということは、電場と磁場の振動の方向は光の進む方向と直交していると説明する。第3に、そこで光の進む方向に同じ速度で走ってみたとすると、電場と磁場はそれとは垂直になるので、電場と磁場の振動は止まっては見えないにちがいない。光速の列車から光を見てもやはり光は走って見えるはずである。ここまで話をしておく。
 しかし第4に、これはちょっとおかしいかもしれないというふうになる。時速200キロの列車から時速200キロの列車を見たら、止まっているように見えるはずであるからだ。では、なぜ光速度で走ったまま観察すると相手の光は止まって見えないのか。こうして第5に、ここから特殊相対性理論のための原理の探究と構築が始まり、このような順で「光の正体」とは何なのか、「光と空間の関係は何なのか」と問うたことが、相対性理論の基礎になったのだと言うのである。
 
 ガリレオにも相対性原理というものがあった。時速200キロで走る新幹線を時速100キロで走る車から見れば、新幹線は時速100キロに見える。これがガリレオの相対性原理で、速度の合成則を成立させている。しかし、アインシュタインがのちに定義したように、光速度は秒速30万キロで一定の速さをもっている。光速度一定である。このような光を光速で追いかける観測者が見ても、光の速度はやはり30万キロに見える。3マイナス3は、まだ3なのである。
 ここには新たな速度の合成則がある。このアインシュタインの合成則はいまでもかんたんに確認できる。加速器で2つの荷電粒子を衝突させると、光速に近い中性パイ中間子という素粒子をつくることができるのだが、この中性パイ中間子はすぐに2つの光に壊れる。中間子はほぼ光速で運動しているのだから、ここから放たれた光は速度が上乗せされて、秒速60万キロに近くなるはずなのだ。が、やはりその光は秒速30万キロになっている。
 ガリレオの相対性原理はニュートン力学を前提としている。その法則にあてはまらない現象があるということは、ニュートン力学ではない力学があてはまる物理世界があるということだった。アインシュタインの力学世界が予想外に巨きい顔をあらわした。新たな運動方程式の登場だった。
 
 特殊相対性理論は運動の速度が光の速度にくらべて無視できないほど大きくなる物理現象を扱っている。完全無欠と見えていたニュートン力学による運動の法則は、光の運動については成り立たない。
 光が走りまわっている世界近くの観測者にニュートン力学が成り立たないとすれば、宇宙空間にはそうした「世界」がいくらでもあるということになる。しかしアインシュタインはその「いくらでも」については、空間そのものの捉え方を変えなければ、これ以上の説明はつかないのではないかと考えた。空間には「世界」の性質が付着しているという考え方だ。
 まずユークリッド空間が破棄された。代わってロバチェフスキー空間やリーマン空間が導入された。それらの空間では光はまっすぐ進まない。平行線は交わるか、ないしは永遠に別れ別れになっていく。これは空間に曲率があるためである。しかし空間がそんなものだとしたら、時間も変わってくるのではないか。時間の捉え方も変えるべきなのではないか。

 エレベーターの箱の上下に鏡を取り付けて、その鏡を往復する光の運動単位を1とする。このエレベーターの箱を水平方向に移動して、この光の運動を箱の中と箱の外から観測すると、箱の中にいる観測者にはあいかわらず光は鏡を上下するだけだが、外の観測者には光は斜め上に進んで鏡に当たり、ついで斜め下に進んで床の鏡に向かうように見える。
 つまり外の観測者には光は長い距離を動くように見える。光の速度は一定なのだから、これは外の観測者にとって「時間が長くなって見える」ということになる。このことは、光速に近く走っている時計を止まっている観測者が覗けるとすると、時間がゆっくり進むということをあらわしている。有名なアインシュタインのウラシマ効果、いわゆる「遅れる時計」と「縮む時計」の話だ。
 時間が伸び縮みしているなら、空間のほうには歪み(曲率)がある。時間も従来の理論を逸脱するが、空間のほうも従来の幾何学では説明がつかない。宇宙的時空では時間も空間も従来のモデルでは扱えない。そこで導入されたのが、ミンコフスキーの四次元時空連続体モデルだった。

 19世紀の半ばくらいまで、光はエーテル(aether)の中を伝わって走っていると考えられていた。そう考えるようになったのは、デカルトが空間にはいくらでも細かく分割できる微細物質がつまっていて、あらゆる現象はその微細物質の渦のような運動で説明できると主張したからで、ロバート・フックがその微細物質を「エーテル」と名付けたことによる。
 これで光はエーテルの中を伝わる振動だというふうになったのだが、ホイヘンスはそれは波動体だろうと言い、ニュートンは粒子体だとみなした。ニュートンは『光学』を著して、光は微粒子の放射だと説明した。しばらくニュートン粒子説が大勢を占めていたのだが、19世紀になってヤングとフレネルが、光を横波と考えたほうが波の振幅によって偏光を説明できるし、複屈折や回折を説明できると言って波動説を提唱した。一方、コーシーはエーテルは他の物質によって引きずられているだろうという興味深い見解を持ち出し、エーテルに縦波が発生しないのは、エーテルに圧縮率のようなものがあるせいだ、その値は負になるはずだと言いだした。光が粒なのか波なのか、エーテルが粒なのか波なのか、議論はしだいにややこしくなっていった。
 ここに登場したのがマックスウェルで、光は電磁波の一種で、それは電磁場のしくみからも説明できることを明らかにした。電磁波が伝播する速さは誘電率と透磁率との関係式から導き出せるもので、それが光の速さ(光速度)と合致したのである。
 ただし、ちょっと厄介な問題があった。ニュートン力学の基準系はガリレオの相対性原理によって(すなわちガリレイ変換によって)説明がつくのだが、それに従えば光の速さはその光と同じ方向に進む観測者から遅く見え、逆方向に進む観測者からは速く見えるはずなのに、マックスウェルの方程式(電磁場方程式)ではそのことがうまく説明できないのである。辻褄をあわせるには、エーテルの運動を基準にした座標系を想定し、その座標系でマックスウェルの方程式が成立するというふうに考えるしかない。これはガリレオの相対性原理をうっちゃることになる。数学的にはガリレイ変換ではない方法を考えることになる。そこをどうするか。
 別の問題も出来していた。座標系をもつようなエーテルの性質の見当がつかない。空間に充満しているから流体であろうけれど、光を伝えるには連続的な伝播力をもたねばならず、天体に影響を与えないようにするには質量をゼロ近くにみなさざるをえない。そんなエーテルがほんとうに空間にあるのかという問題だ。
 このことに決着をつけるにはどうしても「エーテルの風」を測ってみるしかない。何をどう測ればいいのか。

 地球は太陽のまわりを秒速30キロほどで公転している。地球はエーテルの中を動いているのだから、地球から見れば「エーテルの風」が吹いていることは測れるはずである。地球の運動とエーテルの流れは強くなったり少なくなったりもするだろうし、季節や時間によっても異なるだろうから、いろいろの測定をする必要がある。
 こうして多くの物理学者たちが地球とエーテルの相対運動調査にとりくんだ。1887年、アルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーが精度の高い実験装置を工夫して世紀の決着に挑んだ。実験の結果は「エーテルの風は吹いていなかった」というものだった。デカルトの渦はここで完全否定されたのである。
 ただ、実験には説明できないずれが生じていた。干渉縞に関するずれなのだが、ここに2人の天才が登場して、このずれの説明とそこから導き出しうる仮説を唱え、このことがアインシュタインの特殊相対性理論を武装させたのである。
 ひとつは、ヘンドリック・ローレンツがみごとに解いてみせたことで、すべての物体は光速度に近い運動をすれば、その方向に向かって収縮をおこすはずで、干渉縞のずれもそのことで説明できるとした。有名な「ローレンツ短縮」という考え方で、これによって仮にエーテル座標系のようなものがあったとしても、ガリレイ変換ではその座標系は成立しないという展望をもたらした。アインシュタインは「ローレンツ変換」(Lorents transformation)をつかって理論構築にすすんだ。
 もうひとつは、エルンスト・マッハがエーテル仮説の全体像を力学的に引っくりかえしてしまったことである。こうして、特殊相対性理論はローレンツ変換したミンコフスキー時空連続体の中でカッコよく動くことになったのである。

 では、ここからは一般相対性理論の話になる。相対性理論とはいえ、中身はガラリと変わる。戦場は時空、相手は重力場だ。
 等速直線運動を基準系とした特殊相対性理論を加速度系に拡張したものが一般相対性理論である。「一般」というネーミングがわかりにくいかもしれないが、これは相対性理論という骨組みをジェネラルに(一般に)展開したいということで、その一般性をもっているのは宇宙全般なので、時空間と物質と重力の関係の一般化理論だといったほうがいい。だからこの理論の核心は、物質の質量が周囲の空間の性質を変えて重力場をつくるということにある。
 重力理論はもともとニュートンが確立していた。ニュートン力学では重力(引力)は波として伝わるのではなく、無限の速さで伝わるようになっている。したがって重力を信号に使えばどんな信号でも無限の速さで伝わる。どんな遠方であっても“時刻合わせ”ができる。そのためには宇宙のどこでも時間が一定でなければならない。
 特殊相対性理論はこのようなニュートンの絶対時間の考え方を採用しなかった。それなら、その重力と時間はどのように関係すると説明すればいいのか。そのとき重力と時空はどう関係するのか。特殊相対性理論のままではこれには応えられない。そこでアインシュタイン自身が10年をかけて、この思想に新たな解決を与えたのが一般相対性理論というものだった。本書もこのあたりのことをいちばん集中的に熱意を存分に注いで書いている。
 そこには「加速度と重力は似たようなものだ」という見方が導入された。マッハによる「等価原理」(equivalence principle)の援用だ。

 少年がエレベーターの中にいてリンゴを持っている。突然にエレベーターのワイヤーが切れ、少年はびっくりしてリンゴを放した。そういう状況を仮定する。これでエレベーターもリンゴも同じ加速度運動をする系が想定できたことになる。
 エレベーターの中にいる少年にはリンゴはどう見えるだろうか。エレベーターとともに自由落下するリンゴはあたかも止まっているごとく宙に浮いていると見えるはずである。少年がエレベーター落下という事実を知らなければ、少年は自分やリンゴにはたらいていた重力が突如として消えたと感じるにちがいない。いわば存在の裏地とでもいうものが奪われたと感じるにちがいない。
 この思考実験は、加速度運動によって重力を消してしまうことが可能だということを暗示する(これを利用したのが、宇宙飛行士の疑似体験で、高速で上昇したジェット機のエンジンを切って自由落下すると無重力が少しだけ生まれるという実験である)。ということは、ひょっとすると重力は「みかけ」の力かもしれないということになる。もしそうならば重力の運動方程式を、重力がはたらいていない時空での加速度運動として記述できることになる。が、はたしてそうなのか。
 そこで今度は自由落下するエレベーターで、少年が2つのリンゴを両手で同時に手放したとする。2つのリンゴはやはり宙に浮いたままだが、厳密に観測してみると2つのリンゴは少しずつではあるが、近づいていることがわかる。リンゴが地球の中心(重力中心)に向かって落下しているので、この方向のわずかなずれがあらわれたためだ。これは地球の重力の強さが一様でないためにおこる現象である。
 この「重力の強さと方向のずれ」にアインシュタインは着目して一般相対性理論という名の重力理論をつくりあげた。どのように? 「重力の強さと方向のずれ」は実は「時空間の歪み」であり、それはその時空にどのように物質が詰まっているのかということのあらわれだとみなしたのだ。
 
 空間の中に物質があるのではない。物質の詰まりぐあいそのものが空間なのである。その空間は空間として単独にはいない。空間は時間に連続し、重力の性質をつくっている。重力の分布こそが空間であって時間なのである。光はこれらの時空の性質に沿って動き、そして時空の特異点のなかで幽閉される。
 このように「時空間の曲がりぐあい」と「物質の詰まりぐあい」に、根底的な相対性があることを示したのが一般相対性理論のキモなのである。このキモは宇宙一般における重力場の特色をあらわすので、アインシュタインは数学に強い友人のマルセル・グロスマンの力を借りて(テンソル変換の工夫はグロスマンのヒントだ)、これを重力場方程式としてあらわした。いわゆる「アインシュタイン方程式」である。
 重力場方程式は左辺に「時空の曲がり具合」を示し、右辺に「物質のエネルギーと運動量」を示して、これを等号で結んだものである。図①のようになる。Gは重力定数、Rはスカラー曲率、cは光速度を、左辺のgμνが重力ポテンシャルをあらわす。説明すると図②のようになる。gμνは「ジー・ミュー・ニュー」と発音するので、物理屋たちは「ジー・ミュー・ニューの方程式」というふうに言う。方程式が完成するまでに11年かかっていた。
 図①、図②が示しているように、重力場方程式は、左辺が「時空の曲率」をあらわし、右辺が「物質分布」をあらわしている。右辺の物質分布の分布量によって、左辺の時空の曲率が決まり、逆に時空の曲率によって物質の詰まり具合が決まる、というふうになる。真空の時空なら右辺がゼロなのである。
 重力場方程式の出現は物理学の革命だった。ニュートン力学では説明できない驚くべき現象が次々に明らかになってきた。方程式の解からは、重力波が予告され、中性子星の構造やブラックホールの構造などが予告された。

 アルバート・アインシュタインはアシュケナージ系のユダヤ人である。ウルムに生まれてミュンヘンで育った。5歳のころまであまり言葉を喋らなかったようだが、直流電流による電気機器を製造していた父親から方位磁石をもらったとき、何かが急にめざめたと言っている。
 6、7歳からはヴァイオリンを習いはじめ、モーツァルトが好きになった。9歳のときにピタゴラスの定理を知って昂奮し、その証明の仕方に耽ったり、叔父からユークリッド幾何学の本をプレゼントされて、ずうっと独習で遊んでいたという。微積分にも天文学にも少年期にはまったようだ。ただ、統計や確率は苦手だったらしく、そのクセがのちの量子論の統計力学や確率振幅になじめない理由になったとおぼしい。
 父の電機工場はうまくいかない。子どもを残してイタリアのミラノに引っ越した。ギムナジウムでのアインシュタインはダダをこねていた。父からは電気工学に進むように言われていたので、1895年にチューリッヒのスイス連邦工科大学を受験するのだが、総合点に達せず合格が叶わなかったところ、数学と物理の点数が最高点だったため、翌年度の入学資格を得た。
 本人はこんな意外な展開にも、あまり歓んでいない。大学の授業はサボるし、恋人に夢中になるし、化学実験はまちがって爆発事故をおこしている。1900年の卒業後も教育資格を行使せず、大学の助手にもならず、保険の外交員、代理教員、家庭教師などで糊口をしのいで、好きな論文に向かうばかりだった。

 1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの特許庁の技術専門職につくと、俄然の集中と電光石火が始まった(グロスマンはのちのちまでアインシュタインの数学思考を補助しつづけた)。1905年は26歳だが、見ちがえるように滾っていた。「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関する5つの論文をたてつづけに発表した。大学に提出したものの、その意図は伝わらなかったのだが、幸いマックス・プランクがその考え方を支持した。プランクの加担は大きい。
 28歳のとき、かの「E=mc²」を思いついた。エネルギー(E)は質量(m)が光速(c)に近づくにつれ、いくらでも莫大になるという、「世界で最も恐ろしい関係式」だ。原子核反応のプロセスから導き出した。特殊相対性理論のための一連の論文のひとつ、「物体の慣性はその物体の含むエネルギーに依存するであろうか」で発表された。
 それにしても、この“1905年の奇跡”と称された若きアインシュタインの起爆は異様なほどの冴え方だ。その後、たくさんの評者たちがその発想と技法の起爆の秘密を解説しようとしてきたが、ぼくはこれは「マッハ的起爆」だったろうと思っている。互いに異なる現象のパラメーターを、ふいに出会わせて別様の可能性を言いあてるという、あのマッハ的な知覚物理的な魔術が火を噴いたのだ。
 ただ、マッハはこの起爆に向かわなかったのだから、アインシュタインだけが、そのコンティンジェンシーに突入できたのである。それがなぜできたのかと言われても、そこはアインシュタイン・オン・ザ・ビーチのみ知るところと言うしかない。

 このあとのアインシュタインは、ひたすら特殊相対性理論の一般化を考究しつづけたのだろうと思う。ここは起爆ではないし、マッハ的でもない。チューリッヒ大学の員外教授となり、プラハの大学の教授となり、1911年のソルベー会議に招かれもして、世界中の最高の科学頭脳と出会った。1914年からの第1次世界大戦の渦中で研鑽を続けたことも「深み」に向かわせたのであろう。ぼくはロマン・ロランと意気投合して、ベートーヴェンの秘密に向かい、「世界」とはどういうものかを交わしあったことも大きかったと想像する。
 ともかくも、こうして1916年に一般相対性理論が完成し、重力場方程式が告示されたのである。1919年、ケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの一団が皆既日食中に太陽の重力場で光が曲がる観測結果を成就させたこと(水星の近日点運動の立証)は、おそらく生涯最大の温かい栄誉だったのではないかと思う。
 アインシュタインがどうして量子力学と折りあいがつけられなかったのかといったことについては、今夜は介入しない。ボーアにもアインシュタインにも、シュレーディンガーにもボームにも、それぞれの重力場があったのだ。

 本書の第3部「全体としての世界の考察」で、アインシュタインは控えめだが、まことに示唆に富む1行を示している。それは「われわれは宇宙や世界について“箱”と“空虚”という考え方をもちすぎたのではないか」というものだ。
 たしかにそうである。相対性理論をちょっとでも理解したいのなら、世界を眺めるにあたって、まずは世界像にまつわる「箱」というイメージをなくしてしまうことだろう。それには、自分のアタマの中に浮かんでいるどのような形の箱であれ、それを構成している仕切りや厚みをできるだけ消してしまうことである。そしてその次に、その“仕切りのない箱”は実は別の理由でそこにさしかかっているように感じただけだと、あるいはそこに投影されているように感じただけだと、そしてひょっとすると別の仕切りがあったのだろうと思うことである。
 かつてぼくは、このように説明して若者たちに相対論的宇宙論の入口を覗いてもらおうとしたことがあったものだが、多くの諸君が“仕切りのない世界”や“厚みのない世界”に抵抗を示した。しかたなくガモフや一般科学書の説明に切り替えた。こういうことが多いので、相対性理論は数学から入ったほうがわかりやすいということになる。しかし、アインシュタインのメタフォリカルでフィジカルなイメージとの壮絶な闘いこそを、ほんとうは理解すべきなのである。