ほんほん

ひさびさ千夜、古代史番組、湖北めぐり

ほんほん51

◆この一カ月、千夜千冊を書きそこねていた。いくつか理由はあるが、それでノルマがはたせなかったという説明にはならない。階段の昇り降りがへたくそだったとか、散髪がどうにもうまくいかなかったとかいうのに似ている。ずっと前のことだが、急に俳句が詠めなくなったり、人前で話すとなんとも食い違うということがあったりしたが、そういうことに近かったのだろうと思う。ロシアのことを書いて取り戻すことにした。
◆関口宏・吉村武彦と一緒に『一番新しい古代史』という番組をやることになった。BS・TBSの毎週土曜日のお昼から放映される。3チームが次々に用意するフリップ上の古代史クロニクルを関口さんが入念に辿っていくのを、ところどころで吉村さんが解説を加え、ところどころでぼくが勝手なイメージをふくらませるというやりかたで進む。1時間番組だが、30分ほどのリハのあと、本番用をだいたい90分か100分を撮って、それをプロダクション・チームが多少の取捨選択をして、絵やキャプションを付けて仕上げる。おかげで事前に、吉村さんの著書を読むのが仕事になった。これは仁義でもある。さきほどは岩波新書の『聖徳太子』と『女帝の古代日本』を再読した。
◆古代史の本はキリなくある。記紀・風土記・六国史をはじめとする史書をべつにすると、多くは研究者たちのもので、ぼくは研究者ではないからこれまでバラバラに、かつ好きに読んできた。なかにはとんでもない仮説に走ったものも少なくないが、それらにもけっこう目を通した。数えたこともないけれど、500冊や1000冊はとっくに超えているだろう。さあ、それで通史的にはどうまとまったのかというと、まとまるわけがない。とくにぼくは古代史の流れよりも古代観念の渦のありかたに関心があるので、万葉の歌や折口の文章に耽るのが醍醐味になってきたから、その手の読書がそうとう多い。これは通史的にはなりえない。間歇泉のような息吹とのつきあいなのだ。
◆それでもふりかえってみると、やはり内藤湖南・津田左右吉・石母田正・井上光貞・直木孝次郎・西嶋定生・小林敏男というふうに発表順・テーマ別にアタマの中に並べなおして、定番史観を眺めてきたようにも思う。研究じみてつまらないように思われるかもしれないけれど、いろいろ読んでいくと、そうなるのだ。それがまた歴史観の錬磨には有効なのだ。しかし、こういう並べなおし読書だけでは何も飛躍がない。歴史は通史がまとまればそれでおもしろいというわけではなく、『鎌倉殿の13人』ではないけれど、自分なりの人物像やドラマ性もギャップも想定できて、かつ一挙に細部に入り込んだり、巨きく俯瞰もできるようにならなければ、歴史を展いているという実感がもてない。
◆こうして結局は、火焔土器の本、スサノオをめぐる本、司馬遷、三韓や加耶についての本、仏教的言説、貴族の日記、新井白石、頼山陽を読み、松本清張や黒岩重吾や山本七平や安彦良和の『ナジム』(徳間書店)にも目を走らせるということになったのである。日本の古代史、実はまだまだ謎が解けてはない。わかってきたのはせいぜい3割くらいだろう。番組がどのくらい光をあてられるかはわからないけれど、多少はご期待いただきたい。
◆近江ARSのメンバーの用意周到な仕立てのおかげで、久々に湖北をめぐった。長浜・菅浦・大音(おおと)・石道寺(しゃくどうじ)・木之本を訪れた。長浜はわが父松岡太十郎の故郷なのである。いまの体力からすると3日の行程は少しきついのだが、存分な準備とサポートによって、いろいろ深い体感をものすることができた。劈頭に願養寺(松岡家の菩提寺)と梨の木墓地(松岡家の墓)に参ったのが、ぼくに湖北のヌミノーゼを散らしてくれた。
◆湖北は汚れていなかった。50年前の白洲正子の感嘆がほぼ残っていた。雨模様の夕方に近江孤篷庵(禅寺・遠州流)で時を偲んだときに、そのことがしっかり伝わってきた。しかしその一方で湖北が何かに堪えているようにも感じて、そこに多少のお手伝いをしなければと思った。帰って和泉佳奈子にも話したことである。
◆「東洋経済」が「世界激震! 先を知るための読書案内」を特集した。「ウクライナ危機の行方がわかる」と銘打って、橋爪大三郎・岡部芳彦・斎藤幸平・佐藤優・羽場久美子・輿那覇潤・津上俊哉・鶴岡路人といった面々が顔をそろえて危機を乗り越えるための本を推薦しているのだが、かなり知られた本が多く、やや失望した。橋爪・佐藤『世界史の分岐点』(SBクリエイティブ)、ウォルター・シャイテル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済新報社)、輿那覇『平成史』(文藝春秋)、田中孝幸『13歳からの地政学』(東洋経済新報社)、六鹿茂夫『黒海地域の国際関係』(名古屋大学出版会)、ヨラム・パゾーニ『ナショナリズムの美徳』(東洋経済新報社)、福嶋亮太『ハロー、ユーラシア』(講談社)、イワン・クラステラ『アフター・ヨーロッパ』(岩波書店)、羽場『ヨーロッパの分断と統合』(中央公論新社)、秋山信将・高橋杉雄『「核の忘却」の終わり』(勁草書房)、橋爪『中国VSアメリカ』(河出書房新社)あたりがお薦めだろうか。ドゥーギンとプーチンの間を埋めるチャールズ・クローヴァーの『ユーラシアニズム』(NHK出版)が入っていないのは、どうしたことか。

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花嫁人形

蕗谷虹児

国書刊行会 1984

◆「金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」

 三傳。新潟新発田で蕗谷家が営んでいた廻船問屋の屋号だ。三傳は没落し、明治31年に虹児が生まれたころには街の小さな活版屋になっていた。廻船問屋から印刷屋へ。ここには蕗谷虹児がのちにめざめることになるメディアの夢がひそんでいた。
 母親の実家は有馬湯という湯屋で、明治末期にはそこそこの賑わいだった。そこから蕗谷傳松のところに嫁いできた母のエツは病弱で、酒呑みの父の家計がまわらなくなると姉の嫁ぎ先の髪結いを手伝ったりしていたのだが、虹児ほか3人の男児を育てながら虹児12歳のときに亡くなった。27歳の若さである。きれいなままだった。
 母が若くして死んでしまうことがどのようなことをもたらすのか、ぼくにはとうてい推り知れないが、蕗谷虹児にとっての少女の母型はこの「嫁いできて自分を生んで死んでいった美しいお母さん」にあったことは確実である。
 
◆「文金島田に髪結ひながら花嫁御寮はなぜ泣くのだらう」

 新潟には反骨覇気の気性をもつ文人や芸術家が育つ。大愚良寛や會津八一や、日本画家の小林古径や土田麦僊や横山操がそうだった。横山の《越路十景の内 蒲原落雁》など冬の越後を描いて絶品の水墨山水だった。
 蕗谷虹児がめぐりあったのも新潟を代表する画人の血液だ。尾竹越堂・竹坡・国観の三兄弟と出会い、そのうちの尾竹竹坡に日本画を習った。竹坡は尾竹三兄弟のうちでも最も激しい気性の持ち主で、すでに文展の新しいスターになっていたが、そのころ横山大観と激突して文展を去っていた。内弟子になった虹児はその孤立した竹坡のデスペレートな活動にまきこまれる。
 竹坡は大正4年に衆議院選挙に打って出て、落選。その後は絵の濫作に溺れる。5年ほどこうした混乱を内側で支えた虹児は下積みをあきらめて、父親が新聞社の仕事で行っていた樺太に渡る。ここで2年半にわたって放浪をしながら絵を描いた。そのころの樺太はロシアとも日本ともいえる“国”で、10代の最後の青春をこのようなエキゾチックだが、広く荒れ果てた厳寒をもつ“国”におくったことは、虹児にさらに新たな寂寞の物語因子とでもいうものを注入したようだ。
 やがて樺太から新発田に戻った21歳の虹児は決心を新たに上京し、竹坡門の先輩戸田海笛の紹介で日米図案社に入る。住み込みだ。今度はデザイナー修業である。デザイナー虹児の仕事は、いまなお多くが発掘されていないのだが、《アルルの女》のレコードジャケット、「現代叙情曲集」や南部修太郎の『鳥籠』の装幀などを見るかぎり、日本アールデコ風で、香りを重視する先駆的なデザインだった。
 
◆「あねさんごつこの花嫁人形は赤い鹿の子の振袖きてる」

 大正9年、虹児は竹久夢二を訪ねた。出会いは決定的だ。すぐに「少女画報」主筆の水谷まさるを紹介され、それがきっかけで挿画家としての活躍が始まっていく。虹児の雅号もこのときに生まれる。のちにライバルになるかもしれない虹児の才能を気前よくメディアに紹介した竹久夢二を、虹児はその後、生涯にわたって「夢二先生」として尊敬しつづけた。
 大正10年、吉屋信子が朝日新聞に『海の極みまで』(新潮社)を連載することになり、虹児は挿絵を担当した。翌年には「令女界」が創刊され、時代は一挙に少女文化の開花になっていく。鈴木三重吉の「赤い鳥」を筆頭にして、三木露風・北原白秋・西條八十・野口雨情らが率先した大正童少文化とも大正童心芸術運動ともいうべきムーブメントのなかで少年主義が先行していたのに対し、夢二・吉屋・高畠華宵・中原淳一らのいわゆる少女派がこの感覚を一挙に少女にもちこんだ。
 これを試みに「令嬢文化」とか「令女文化」とよぶといい。この感覚は少年主義が少年の魂に広く鬱屈したものや粗野なるものを含んだのにくらべると、どちらかといえば社会に晒されていない深窓の少女たちの感覚を引き出そうとしたもので、それこそ小林一三による宝塚少女歌劇団の登場および阪神文化の抬頭などと軌を一にしていた。その大正令女文化が蕗谷虹児のデビューとともに開花したのである。
 
◆「泣けば鹿の子の袂がきれる涙で鹿の子の赤い紅にじむ」

 かくて大正13年、「令女界」に『花嫁人形』が発表される。あの「金襴緞子の帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」というメッセージは、たちまち少女だけではなく大人の心も捉えた。作曲は杉山長谷夫があたった。
 一躍、虹児は寵児となった。『花嫁人形』もいくつかの詩や童謡とともにすぐに詩画集となって出版された。いま読んでもなかなか哀切に訴える詩歌が載っている。いくつか紹介しておこう。
 
  わたしはなんにも言へなんだ
  あの子もなんにも言はなんだ
  ふたりはだまって花つんだ……(『萌芽』)
 
  海辺にちらばる貝がらは
  みんなむかしは生きた貝
  みんなむかしは生きた貝
  銀色キシャゴやさくら貝
  象牙のやうなはまぐりも
  みんなむかしは生きた貝……(『松葉の十字架』)
 
  聞いたか 聞いたか 長崎の
  異人屋敷の不思議さを
  青い目玉で見えるとサ
  赤い髪の毛 ちぢれっ毛
  お鼻がこんなに高いとサ
  のっぽで緋羅紗の笠だとサ
  磔すがたの 神さまを
  毎日拝んで暮らすとサ
  聞いたか 聞いたか 長崎の
  異人屋敷の不思議さを……(『異人屋敷』)
 
◆「泣くに泣かれぬ花嫁人形は赤い鹿の子の千代紙衣裳」

 虹児は大正14年にパリに発った。歓送会の写真を見ると両側に竹久夢二と野口雨情がいる。このときがシンデレラボーイの絶頂である。パリでは藤田嗣治や東郷青児らとも交流し、何枚もの絵がサロンの美術展に入選し、さらに昭和4年には画廊ジヴィで個展も開いているのだが、もうひとつパッとしない。いや、パリでどんな絵を描いていたのか、資料が少なすぎてパリ時代の蕗谷虹児が立ち上がってこない。
 そんなふうに見ていたら、1991年に朝日新聞社が「蕗谷虹児展」を開いて、そこに《ベトエイユの風景》が飾ってあった。いままで白黒の写真でしか見たことがなかった作品だが、パリ郊外の一隅をふっくら胸に入れたような絵で、なんともいえない柔らかさがある。これと「令女界」に連載した「巴里流行通信」の絵がこの時期の作品では、ぼくが好きなものである。
 蕗谷虹児。いまはあらかた忘れ去られてしまった画家だ。先だって、帝塚山の女学生たちに美輪明宏のファンが多かったのでホワイトボードに「蕗谷虹児」と書いて、「ハイ、これはだれ?」と訊いてみたら一人として知らず、「先生、どう読むんですか」。フキヤコージ。美輪明宏が好きな挿画家だと言うと、今度、絵を見せてくださいと言う。あのね、少女漫画のルーツだよと言ってみたが、どうも遠すぎた。