秋山邦晴・小野田勇・村上紀史郎ほか
文化の仕掛人
青土社 1985

 「TBS調査情報」という報告媒体のようなPR誌のような薄っぺらな情報誌があった。ときどき鋭い企画でメディア文化の現状や歴史を追いかけていて、ぼくもかつて「現代プロデューサー論」シリーズの第1回目に取り上げられたことがある。
 そのときの書き手は、いまオフィス・トゥーワンにいるプロデューサーの高村裕だった。高村さんは「ニュース・ステーション」をはじめとする久米宏の番組の大半をつくってきた辣腕である。なぜぼくが“プロデューサー”なのか、しかもシリーズ第1回目に登場するほどの“業績”があるのか、そこがよくわからなかったのだが、初対面の高村さんは鋭い目でぐっと睨むと、「だって松岡正剛こそは、われわれがその動向を注目するプロデューサーなんですよ。松岡正剛は、ほら、メディアを生める人でしょう」と言った。なんだかニワトリになったような気分だった。
 どうも買いかぶりだろうとは思ったが、そのようにメディア文化のさまざまな人物や現象を俎上にのせて解剖してみるというのが、そもそも「TBS調査情報」のおハコだったのだ。

 本書も、その「TBS調査情報」の「戦後文化――その磁場の透視図」というシリーズ企画をまとめたもので、戦後の日本に生まれて1960年代までの文化を牽引した“文化装置”とその先頭を走り抜いた群像を次々に取り上げている。
 ムーランルージュ新宿座、三木鶏郎の冗談工房、三枝博音の鎌倉アカデミア(鎌倉大学校)、吉行淳之介がデビューした「世代」、まったく新しい民衆の知を掘り起こした「思想の科学」、日本最初のデザイン学校となった桑沢デザイン研究所、志水楠男の南画廊、東宝から分かれた新東宝、伊達得男が冴えきった書肆ユリイカ、青林堂の「ガロ」、そして草月アートセンターである。この取り合わせが闇市の並びのようでおもしろい。

 それらを、関係者の座談と詳細なレポートと貴重な図版、それに註と年表を交えて浮上させているのだが、連載時よりかなりの補充も加わって、戦後の文化牽引者たちの動向を知らない世代にとってはもってこいのものになった。ただし、表題『文化の仕掛人』は一般的すぎていただけない。ここに登場する連中はもっと過激、もっとセクシー、もっとラディカルだった。
 ちょっとスケッチしてみる。

 天皇が人間宣言をした1946年(昭和21年)の初夏のことである。5月1日、ムーランルージュ(赤い風車)新宿座がオープンして、中江良夫作「栄養失調論・地上の星」を上演した。ここにはのちに森繁久弥が入ってくる。
 5月6日、鎌倉大学校が開校した。久枝武之助・飯塚友一郎のもと、三枝博音・服部之総・吉野秀雄・林達夫・高見順らの教授陣が鎌倉の光明寺を教室にしてハイレベルの授業を披露した。文学科・演劇科・産業科という学科設定が独創的で、畳の上での講義にも熱が入った。演劇科の第1期生が予科練帰りの前田武彦、幼年学校帰りのいずみ・たくである。
 ここはのち「鎌倉アカデミア」と名を変えて、三枝博音が「幾何学を学ばざる者、この門を入るべからず」の看板を揚げ、戦後私塾の風濤の先頭を切った。その校舎が大船に移り、重宗和伸らによって映画科が開設されたときの第1期生には、鈴木清順、十時敬介がいた。三枝から重宗まで。いつか、このあたりの事情と消息については詳しく話してみたい。

 つづいて5月半ば、上田辰之助が「思想の科学」と名付けた雑誌が創刊した。先駆社を母体に集まった同人は渡辺慧、武谷三男、都留重人、丸山真男鶴見俊輔、鶴見和子、武田清子たちである。創刊1万部を完売した。
 編集方針に、①ひとびとの哲学の研究、②コミュニケイションの研究、③記号論理学研究、④私たちがもっとはっきり考えられるためのさまざまのこころみ、とあるのが斬新である。いま、これだけの編集方針をもって知的メディアの創刊に踏み切れる者は、まずいまい。昨今のメディア派はたいていはどんよりしている。研ぎ澄ますこと、メディアとはそれしか方針はないはずなのに
 「思想の科学」グループの当初の親分格は渡辺慧だった。この、時間論をしきりに探求していた物理学者こそがすばらしかった。ぼくも会ったことがあるのだが、なんとも「人と論理と情報のエントロピー」を包む魅力をもっていた。グループやサロンやメディアをつくりたいのなら、こういう人を大事にすることだ。

 7月に入ると遠藤麒一郎を編集長とする「世代」が創刊される。学生の、学生による、学生のための総合誌というべきか。
 いいだもも、矢牧一宏、中野徹雄を中核に、吉行淳之介が娼婦を綴り、小川徹が映像を論じ、栗田勇が美学美術を揺さぶり、村松剛が文学を動かした。加藤周一・中村真一郎・福永武彦の『1946・文学的考察』も「世代」を舞台にしての成果だった。いずれもまだ少壮の青年である。
 本書にはいいだもも(飯田桃)による回顧をこえる“現在的”な回想クリティックが載っていて、これが読ませる。ぼくにはカミソリのような編集術の持ち主だった矢牧一宏の名も懐かしい。
 10月、東宝争議がおこり、11月には大河内伝次郎・長谷川一夫・原節子・入江たか子・高峰秀子・山田五十鈴らが「十人の旗の会」を結成、これに応じて100名近い俳優と450名をこえる監督や技術スタッフが外に出て、これらを背景に新東宝が誕生する。成瀬巳喜男『石中先生行状記』、稲垣浩『群盗南蛮船』、島耕二『銀座カンカン娘』、小津安二郎『宗方姉妹』、溝口健二『雪夫人絵図』、阿部豊『天の夕顔』などの名作はこうして“分離派”から生まれたものだった。
 しかし名作も大事だが、それ以上に、このときの技術スタッフが行動を共にして“同じ釜の飯”を食ったことが大きかった。日本のヌーベル・ヴァーグは東宝争議と新東宝がなければ出てこなかったろう。

 とりあえず戦後の第1年をスケッチしただけだが、ここからありとあらゆる前衛と教育活動とメディア文化が噴き出した。それを案内するのはあまりあることなので、以下、ぼくにとっていささか関係のある人物を、二、三とりあげたい。
 最初は、かの伊達得夫である。この人のことを知らない編集屋はいない。旧制福岡高校出身の伊達は「京大新聞」で編集イロハを心得て、途中満州で兵役を体験し、昭和22年に「書肆ユリイカ」を興した。最初は原口統三の『二十歳のエチュード』である。
 数日して安部公房がふらりと訪ねてきた。安部はそのころ共産党文化部の闘士で、「世紀の会」を世話してくれないかと言った。安部や関根弘の前衛文芸グループのことである。矢牧・いいだの「世代」からも発行元の申入れをうけていた伊達は、その両方を断るかわりに「現在」という同人誌を発行する。安部のほかに阿川弘之・島尾敏雄・三浦朱門・庄野潤三・安東次男らが同人になった。
 しかしこの連中の“政治”とソリが合わない伊達は、結局は自分がいちばん好きな一冊を本にする。それが稲垣足穂の『ヰタ・マキニカリス』なのである。ところがこれがまったく売れない。牧野信一の作品集もさっぱりだった。それなのに伊達は、さらに売れそうもない出版だけを本職とすることを決意した。
 詩集だった。山本太郎『歩行者の祈りの唄』、堀内幸枝『紫の時間』、大岡信『現代詩試論』、中村稔『無言歌』、飯島耕一『他人の空』、関根弘『狼がきた』、岩田宏『独裁』、吉岡実『僧侶』などという、戦後現代詩を切り裂いた名詩集をはじめ、『戦後詩人全集』全5巻も栗田勇が訳した『ロートレアモン全集』全3巻も、これらはみんな伊達得夫の仕事であった。
 いまや伊達得夫のような、無常のダンディズムと逆上のニヒリズムをかたちにしつづける編集者や出版人はほとんどいない。ときどきハッと思うのは、小さな画廊のギャラリストがつくる瀟洒な図録やリーフレットばかり‥‥。

 伊達得夫を訪れた安部公房の「世紀の会」は、その後は戦後史に有名な「夜の会」に吸収されつつ、草月アートシアターの活動につながっていく。
 嚆矢は1947年に、古沢岩美・福沢一郎・岡本太郎・村井正誠らが「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」をつくったことだろうか。翌年、「アヴァンギャルド芸術会」「夜の会」などがこれを拡張して、そこへ数寄屋橋画廊の山本孝とともに「東京画廊」を開設した志水楠男が登場し、新たな美術紹介の前衛シーンを拓いていった。とりわけアンフォルメルの日本導入だ。
 この動きはやがて志水が独立して「南画廊」を開き、フォートリエ展やティンゲリー展やジャスパー・ジョーンズ展を成功させてからは、さらに現代美術の見せ方の主流になっていく。
 こうして、現代美術とアヴァンギャルドと文芸とがしだいに混成されていくのだが、このアート・ムーブメントに加わったのがデザインと音楽とファッションだった。とくに桑沢デザイン研究所と草月会館の開設が大きい。ちょっと覗いておく。

 話がさかのぼるが、1933年に銀座に日本のデザイン教育の先駆となった「新建築工芸学院」が開校された。川喜田煉七郎の主宰によるもので、ここが日本のモダンデザインの“ノアの方舟”なのである。そこへ女子美の油絵科を卒業したばかりのオカッパが飛びこんだ。桑沢洋子だった。
 桑沢はこのバウハウス流の教育と感覚にたちまち魅了され、川喜田の紹介で「住宅」「建築工芸アイシーオール」などの編集を引き受け、堀口捨巳・谷口吉郎・吉田五十八・前川国男を取材する。これでオカッパ洋子の前途を誰も止めることができなくなっていく。桑沢は写真家の田村茂と結婚すると、今度は名取洋之助や渡辺義雄を通して「日本工房」「中央工房」「国際報道工芸」にかかわり、河野鷹思・山名文夫・亀倉雄策らのグラフッィクデザイナーと初めて交わった。さらに婦人画報社の前身にあたる東京社で「生活の新様式」の編集に参加すると、1942年には銀座に「桑沢服装工房」を設立してしまう。

 ここからのオカッパ洋子の勘がだんだん冴えてくる。まずデザインと写真とアートはつながるのだということ、ついでは「型」さえ押さえれば、デザインと服装と家具もつながるという勘だった。桑沢は豊口克平・蔵田周忠・松本政雄の「型而工房」によって発表されたユニット家具にも目を向けた。
 かくして戦後、土方梅子らと「服装文化クラブ」を、櫛田フキ・神近市子らと「婦人民主クラブ」を結成した桑沢は、服装を通した日本人のベーシックデザイン感覚を創成していく方法にめざめ、まずはKD技術研究会を開いてさまざまな方法の検討に入ると、1953年には“デザイン教室”の必要性を感じ、翌年にいよいよ桑沢デザイン研究所を青山に開設するにおよんだのである。
 勝見勝・剣持勇・朝倉摂らが協力し、真鍋一男・石元泰博・清家清・金子至・浜口ミホ・林雅子・渡辺力・原弘らが教鞭をとった。勝見は「リビングデザイン科」という造語をつくり、亀倉は卒業証書をデザインし、山城隆一はニューズレターを担当した。
 こうして渋谷のワシントンハイツの前に、増沢洵設計の鉄筋コンクリートの3階建校舎が出現したのが、1958年のことだった。さぞかし威容であったことだろう。けれども、ぼくも写真科で教えたことがあるこの校舎は、今月5月から取り壊されて、2年後には6階建に生まれ変わるという。

 1958年に桑沢デザイン研究所が渋谷に竣工した2カ月後、丹下健三設計の草月会館が赤坂表町に落成する。いまの総ガラス張りの草月会館の前身にあたる。
 同時に草月ホールがオープンし、世界に3台しかないというノバート・シュレジンガーのデザインによる朱色のベーゼンドルファー・ピアノが舞台を飾る。園田高弘がシェーンベルクや諸井誠を弾いた。
 この草月会館に伴って発足したのが、勅使河原宏の率いた草月アートセンターである。マネージャー格の井川宏三、のちにフィルムアート社をおこす奈良義巳、電子音楽機器のパイオニア奥山重之助の3人が勅使河原の懐刀となった。本書ではそのへんのこと、秋山邦晴がまことに詳細な資料付きレポートを寄せている。
 草月アートセンターが当時の前衛の牙城として八面六臂の活動を見せ、とくに大半の前衛音楽を日本のアートシーンに引きずりこんだ異様な功績には目を見張るものがある。早々に三保敬太郎・八木正生・武満徹が「モダンジャズの会」を催したのを皮切りに、黛敏郎・諸井誠が「アルス・ノヴァの会」を発表し、芥川也寸志と秋山邦晴が林光・松平頼暁・間宮芳生・三善晃らの「作曲家集団」を引きこんで、草月ホールはあっというまに前衛音楽の殿堂となっていった。
 そこへもってきて安部公房が前衛劇を、観世寿夫が前衛能を、ヨネヤマママコがパントマイムを、高橋悠治がピアノパフォーマンスを、久里洋二・真鍋博・柳原良平がアニメーションを持ちこんで、ここは世界有数の実験劇場ともなったのだった。

 とくに1962年のジョン・ケージの演奏会はいまなお語り草になっていて、ジョン・ケージ・ショック以前と以降とに日本のアートシーンを分けるほどである。
 実際にもその後の草月ホールでは、ジュネなどを見せた草月実験劇場、マース・カニングハム舞踊団の衝撃的な来日公演、一柳慧・高橋悠治・秋山邦晴の「ニューディレクション」、小杉武久の「オーガニック・ミュージック」、素っ裸になった小野洋子の作品発表会、具体詩展、「コレクティヴ・ミュージック」展、バウハウス東京展など、ここでは書ききれないほどの大胆な試みを惜し気もなく連打した。大学生になったばかりのぼくは、とくに高橋悠治と小野洋子に腰を抜かしたものだった。
 草月アートセンターは「SACジャーナル」という小冊子を編集制作もしていた。これがまたとびきりで、デザインは杉浦康平・神田昭夫が、記事は植草甚一・東野芳明・大岡信・中原佑介が、裏表紙には毎号、奈良原一高や和田誠たちがそれぞれ勝手なレコード・ジャケットを“発表”していた。それはそれは溜息の出るほどの小冊子なのである。武満徹の『吃音宣言』もここに連載されていたものである。

 どうやら、これではキリがなくなってきた。紹介はこのくらいで打ち切るが、このように書いていてやはり思うのは、1960年代文化の大半が1950年代の仕込みによっていたということ、すべての起爆は何度にもわたる下からの個々の連動によるモチベーションで動いていたということ、それに、ほとんどのアクティビティがコマーシャリズムや広告やその手の業界人を介入させていなかったということである。もうひとつ言うのなら、本書に登場する文化装置には消費者を対象としたものがまったくなかったということだ。
 その後、日本はくだらぬ相手をふやしたものである。池波正太郎が愕然とした若者市場だけではない。主婦市場、タレント市場、お笑い市場、グルメ市場、健康市場‥‥。これはひょっとすると取り返しがつかない泥沼である。もはやこういうときは「最小多様性」なるものをめざし、無数の「小あがり」を各地の縁側あたりに意匠させるしかないのではあるまいか。では諸君、連休は「なんたら市場」などに目もくれず、お忍びで、お偲びで。

コメントは受け付けていません。