才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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近松浄瑠璃集

近松門左衛門

岩波書店 1959

 ウレイとギンがあると知って唸った。『遊』第1期6号をつくっていたころのこと、教えてくれたのは武智鉄二だった。西風がウレイ、東風がギンである。
 貞享元年(1684)に竹本義太夫が道頓堀川の戎橋南詰め東に竹本座を構え、元禄16年(1703)には豊竹若太夫が道頓堀に沿ってそれより東300メートルほどのところに豊竹座を建てた。それで竹本座の調子を西風とよび、豊竹座を東風とよんだ。その西風の特徴がウレイで、東風の特徴がギンなのだ。
 ウレイもギンも浄瑠璃の節付けによる語り方をいう。西風のウレイは古風で渋みがあって、東風のギンはやや派手になる。のちの『山城少掾聞書』によると、東でギンにもっていくところを西はウレイで落とす。西のほうはスネルのための勘所を大切にするんです、となる。
 このように浄瑠璃は太夫の語りと三味線がなければどんなノリもないのだが、しかし、その語りと三味線の前に、なんといってもまずは台本の文句章句があった。恐るべき文芸性があった。

 浄瑠璃は日本文芸ならびに日本芸能の最高峰のひとつである。加わるに語りを聞かせ、太棹が鳴り、人形遣いを見せるとなると、もはやこの峰を超えるものは他にない。おそらく頂点にある。
 いや、能の謡いもあるではないか、声明(しょうみょう)もあるではないかというかもしれないが、これらの特色はすでに浄瑠璃の中にみんな入っている。いや、清元や新内や小唄があるではないかというのなら、これはとんでもないこと、先に浄瑠璃があり豊後節があって、それがしだいに清元・新内になり小唄になった。なんといっても浄瑠璃がすべての母なのだ。

 浄瑠璃について褒めちぎりたいのは、それだけではない。これから話したいことは近松門左衛門がつくりあげた浄瑠璃の言葉と構成とその思想そのものだ。また、その浄瑠璃を確立した当初の近松にして、すでに絶品を究めてしまったということだ。
 これは連句の発句を自発させて俳句とした芭蕉において、最初が絶品となって後続が蕉風になったことと似て、新たに前人未踏に入った者にのみ添う輝きというものだ。
 では、わかりやすいところから、順に思う存分に褒めちぎりたい。

 近松は言葉の創成術において群を抜いていた。このことに、誰も異議をはさむまい。まず、例を出す。
 たとえば世の評判に辛口だった荻生徂徠にして、近松のすべてはこの一節に如実であると言わしめたのは、お初徳兵衛がいよいよ心中道行に入る『曾根崎心中』の終盤の道行文だった。二連ばかり引く。下之巻の冒頭である。

   この世の名残り 夜も名残り
   死ににゆく身をたとふれば
   あだしが原の道の霜
   一足ずつに消えてゆく
   夢の夢こそ あはれなれ

   あれ 数ふればあかつきの
   七つの時が六つ鳴りて
   のこる一つが今生の
   鐘のひびきの聞きおさめ
   寂滅為楽とひびく也

 近松を英語に移したドナルド・キーンは、これは日本語で綴られた最も美しい文だと言った。そうでもあろう。ここには、日本思想の根幹を滲ませてきた無常が波打っていて、さらに近松独自の「情」が潤んでいる
 それもそのはず、近松自身が『難波土産』のなかで、「道行なんどの風景をのぶる文句も情をこむるを肝要」と述べて、この道行文にありったけの「情」をこめていたことを自ら証言した。

 たしかに美しい。が、美文というだけではない。近松には構成の相待妙というものがあった。
 この道行文はまだまだ続くのだが、それが『曾根崎心中』全巻冒頭のお初観音廻りの道行文、「げにや安楽世界より 今この娑婆に示現して われらがための観世音 仰ぐも高し高き屋に云々」にぴったり対応しているのが、また美しくも、また絶妙、また相待妙なのである。
 お初が三十三所の観音廻りをする幕開きの文句と、お初と徳兵衛が深夜に堂島新地から梅田橋を渡り曾根崎天神の森まで及ぶ道行とは、互いに綾なす「情のトポロジー」としてつながっていた。
 こういうことができるのは近松だけである。それを美しい日本語にできるのは近松だけだった。そこに太夫のウレイと三味線のノリが寄せてくる。鏡花『日本橋』のお孝のセリフではないが、これで何かを感じないでは、これじゃ日本は暗夜(やみ)だわ、なのだ(第917夜)。
 もうひとつ、驚くべきことがある。この戯曲を近松が書いたのが、心中事件がおこってたった2、3週間ほどのことで、竹本座は事件発生からわずか1カ月で初日をあけたということだ。

 元禄16年(1703)4月、近松は大坂に来ていた。そこヘ竹本座の者から「町中で評判の曾根崎の森の心中だから、なんとかこれを題材に浄瑠璃を書いてほしい」と頼まれた。このとき竹本座は苦境に立っていた。
 竹田近江の芝居や出羽座のカラクリ人形芝居が大当たりしていて、加えてこの年は、冒頭に書いた豊竹座の開場が迫っていた。このままでは客の大半をそちらに取られかねない。竹本座としては捲土重来を画策する必要があった。そこで近松に頼みこんだのだ。
 近松、51歳である。

 あとでも説明するけれど、このころ近松はしばらく浄瑠璃から遠ざかっていて、京都に住んで歌舞伎台本に本腰を入れていた。
 わかりやすくいうのなら、近松は30代が浄瑠璃、40代が歌舞伎、また50代からは浄瑠璃台本を再開専念して、60代になって『国性爺合戦』『平家女護島』『心中天の網島』『女殺油地獄』というふうに円熟した傑作を問うたというのが、おおざっぱなガイドラインなのである。
 その50代の浄瑠璃再開にあたったのが、『曾根崎心中』だった。
 一段物とはいえ、それを2週間ばかりで書きあげ、それが荻生徂徠やドナルド・キーンをして最高の日本語だと絶賛させたのだから、これはやはりとんでもない才能だ。
 しかもこれは世話物。そんなものはそれまでの浄瑠璃にはなかったのである。浄瑠璃の時代的変遷を記録してたいそう便利な『今昔(いまむかし)操(あやつり)年代記』も、『曾根崎心中』は「世話事の最初」で、それなのに浄瑠璃としてめっぽう面白いし、これで竹本筑後掾(竹本義太夫のこと)の名声は日に日に大いに上がった、と書いた。

『曾根崎心中』 天満屋の場

『曾根崎心中』 天満屋の場

 世話とは世間話のことをいう。新聞でいえばニュースや三面記事、週刊誌なら事件やゴシップ。それまで浄瑠璃はそういうナマモノを扱っていなかった。
 浄瑠璃が得意としていたのは歴史や神話や伝承の世界なのである。他方、歌舞伎は生身の役者が演じるのだから、むしろリアルでアクチュアルな題材が好まれる。のちの忠臣蔵物などその代表だが、すでにこの時期でも歌舞伎は世話事・世話物を得意にしていた
 そこへ近松が心中事件という生々しい現実の事件をもちこんだ。それも人形に、世話物を語らせたのだ。よほどの自信がなければ書けることじゃない。いま、こんなふうに情死や殺人の社会事件を1カ月後にテレビドラマや舞台にあげられる者が、どこにいるだろう。一人もいないといっていい。それどころか、1年たっても数年たっても、誰も最近事件など扱わない。

 近松が、これを思い切って一段物としたことにも“革命”があった。
 浄瑠璃はふつうは五段で上演される。これを立(たて)浄瑠璃という。その立浄瑠璃の終わりに付録のように付け足すのが一段物の切(きり)浄瑠璃である。
 近松はそこに照準を定めたのである。しかし、いささか難問がある。竹本座のその月の興行は、立浄瑠璃に『日本王代記』をもってこようとしていた。神武天皇の東征記を題材にしたもので、この直後に生々しい心中事件がくっつくのでは、あまりに落差がありすぎる。
 ここで一閃、近松が放ってみせたのが、立浄瑠璃から切浄瑠璃に振り替わる「移りのあいだ」に、「三十三所観音廻りの道行」を導入するアイディアだった。これこそ近松必殺のインターフェース――

 三十三所廻りは大坂の市中の観音を廻るもので、西国三十三ケ所のダイジェストにあたる。そのスタートがいまの曾根崎警察署から東に行った大融寺になっていた。
 そこから天満、十番の玉造稲荷、谷町筋の和勝寺などをへて南に進み、生国魂神社付近で十八番・十九番をめぐり、そのあと四天王寺境内をまわって千日前・道頓堀を抜け、心斎橋筋の三十番の三津寺を参って、最後に三十三番の御霊神社におよぶというふうになっている。
 近松はこれを採りこんだ。
 ノルかソルかの博奕のようなものだった。が、大坂の町人たちなら観音廻りは知っている。人形遣いは、名人の辰松八郎兵衛。その八郎兵衛も口上書に「序に三十三所の観音廻りの道行がございます。おなじみの私が遣います」と打って出た。まさに背水の陣。太夫が竹本義太夫、ツレ語りに人気絶頂の竹本頼母、達人とよばれた竹沢権右衛門が相三味線。
 あとから見るとこれだけの顔が揃えば、本さえよければ当たらないわけがない。案の定、初日をあけてみると、押すな押すなの大入りだった。竹本座は借金を返してあまりあるロングランを記録する。

 ところで、今日の文楽ではこの観音廻りを省いて、お初が生国魂神社で徳兵衛を見かけるところから始まっている。これはいけません。これでは近松の本来はわかりません。
 しかしついでながら言っておくが、このことに胸を痛めていた人はいたものである。平成2年師走のことだったか、東京芸術劇場で吉田蓑助が初演通りにお初の観音廻りを見せた。ぼくは走って見にいったものだった。
 これで溜飲は下がった。さすがに蓑助である(第826夜『頭巾かぶって五十年』参照)。そこで蓑助は観音廻りだけを見せたのだ。

 というわけで、ついつい『曾根崎心中』の話ばかりになってしまったが、ここでいったん立ち戻って、近松の来し方行く末の、来し方のほうを見ておくことにする。
 なぜ近松は、新たな浄瑠璃というフォームとスタイルに大胆斬新な「作分」をもたらすことができたのか。話をそこに戻したい。

 近松門左衛門は越前福井の生まれである。いろいろ諸説が乱れてきたけれど、どうやらまちがいがない。承応2年(1653)だった。かつ、武門の生まれだった。ただし父親が浪人して、15歳ころに京都に移った。京都ははやくも人口30万の大都市になっている。
 そこでしばらく公家の名門に出入りした。正親町公通、阿野実藤、町尻兼量らに仕えた。武家に生まれて公家に仕えたのはめずらしく、ここで多くの学習をした。有職故実も、日本神話も、式楽能も、このころあらかた身につけた。加えて、経緯は詳(つまび)らかではないのだが、総合して察するに、この時期に嘉太夫(賀太夫=のちの宇治加賀掾)を知った。
 こうして近松23歳のときである。その嘉太夫が四条河原に宇治座を興したのだ。宇治は京都の宇治ではなくて、嘉太夫が出身した和歌山の宇治のことをいう。
 嘉(賀)太夫つまり加賀掾は、このときすでに謡曲をベースにして狂言・舞・平家語り・隆達節などをリミックスした「語りの音曲」を披露して、けっこうな評判をとっていた。あとでも説明するが、これはすでに浄瑠璃である。近松はこの先駆的浄瑠璃に大いなる関心を注いだようで、はやくもいくつかの台本を書いた。
 そこから7、8年の事歴がはっきりしないのだが(シェイクスピア同様に)、天和3年(1683)に宇治座で近松の『世継曽我』が上演されたことはわかっている。31歳だった。綱吉が五代将軍になっていた

 ここに彗星のごとくに登場するのが竹本義太夫(当時は清水五郎兵衛)である。義太夫は大坂天王寺村の農民出身だが、聞きしにまさる声の持ち主だった。とくに井上播磨掾に憧れきっていて、その高弟の清水理兵衛に入門して舞台に出ていた。
 この美声に目をつけたのが加賀掾で、宇治座でワキを語らせた。大抜擢だ。『今昔操年代記』は「まな板に釘や鎹(かすがい)を打ちこむような声」と書き、どんなに満員の会場でも声が届かないことがなく、言葉の綾がくまなく聞きとれると褒めそやしている。「表(おもて)嘉太夫、京(きょう)播磨」とも絶賛された。播磨掾譲りの硬めの調子にのせて、加賀掾の「よはよは、たよたよ」を表に生かしたということなのだろう。
 その後、宇治座は興行師だった竹庄こと竹屋庄兵衛が加賀掾とうまくいかなくなって、分派した。そこで竹庄は五郎兵衛を太夫にたてて一座を組み、京都を避けて西国に巡業し、実力をつけたうえで6年後に大坂に入った。
 京都を避けたのだ。これがその後に大坂の地に今日まで文楽が根付く第一歩となった出来事である。

 かくして竹庄は道頓堀に竹本座を興し、五郎兵衛も竹本義太夫を名のる。
 この竹本座開場にあたって採り上げられたのが近松の『世継曽我』だったのである。すでに宇治座が公演していたのに、それを欺くかのように同じ演目の再演で興行を打ったのだ。京に対するに大坂の反撃がここに始まったといってよい。
 このとき近松32歳、義太夫34歳。『世継曽我』は大ヒットして、子供までもが「さりとて恋はくせもの」なんていうセリフを口ずさんだ。

 近松の才能開花は『世継曽我』にあらわれた。けれども、これは再演ものだ。竹本座としてはオリジナルがほしかった。近松もそうしたい。
 ところがそこに、ちょっとした事件が挟まった。文芸・芸能史的にはなかなか劇的な出来事なので、まずこのことを説明しておかなくてはならない。
 竹本座開場の翌年の貞享2年(1685)正月、突如として宇治加賀掾が大坂に乗りこんだのだ。それも西鶴に書かせた『暦』をもっての殴りこみである。西鶴は2年前の『好色一代男』(第618夜)で評判をとって再販三版を重ねての人気上昇中、江戸版では菱川師宣の挿絵が入って浮世草子というニューメディア革命の先頭を切っていた。
 その西鶴と組むというのだから、これは加賀掾、必勝パターンだった。
 竹本座も黙っていない。これを迎え撃つに、近松の『賢女手習並新暦』をもって逆襲に出た。同じく暦を主題にもってきて、ぶつけたわけである。なぜ両座が暦を扱ったかということは、ちょっと歴史を睨まなければわからない。

 貞享2年正月から貞享暦が採用されたのだ。
 それまで日本では宣明暦が9世紀からずっと800年以上も使われていた。中国モードに従った暦。これを改暦して、やっと大和暦に踏み切ったのが貞享暦だった。渋川春海による。
 貞享暦の登場は日本OS史上の大事件である。改暦はジャコバン党もレーニンも革命直後に最初にとりくんだ事業であって、国政タイムテーブルの根本になる。しかも印刷発行権や販売権をめぐる利権がからまっている。
 西鶴はここに目をつけたのだが、竹本座も譲らない。同じく暦の舞台をぶっつけた。ただし、このときの近松が打った手は井上播磨掾の『賢女手習鑑』を手直しした代物にすぎず、中身だけでいうのなら、公平にみて西鶴のほうがずっと物語の質がよかったのだ。
 が、結果は逆だった。義太夫の声が上回ったのだ。観客動員の軍配は竹本座に上がった。宇治座はこれで大坂を捨て、京都に戻っていく。

 さあ、これで義太夫は大坂を根城に浄瑠璃の根本をつくれることになる。
 先にも言っておいたように、竹本座は『世継曽我』を上演していたものの、これはもともとが加賀掾のためのもの、だから“借物“だった。そこで義太夫は近松に初めて新作を依頼する。西鶴の腕に驚いた近松としては、ここはなんとしてでも浄瑠璃を至玉にしてみたい。以降、近松はずっと義太夫のための浄瑠璃作品を書くことにした。日本芸能史上、最も重要なコラボレーションのスタートだった
 こうしてついに近松の驚くべき才能の全貌が姿をあらわしたのだ。その最初の作品を『出世景清』という。
 浄瑠璃史では『出世景清』以前のものを古浄瑠璃とよび、これ以降を新浄瑠璃という。何が「新」なのかはおいおいわかるはずである。ともかくそれほどの画期的な作品の出現だったのだ。
 ぼくは近松が『出世景清』をこののち連打される義太夫のための戯曲の最初にもってきたことには、かなりの深謀遠慮があったと思っている。なぜなら、景清を浄瑠璃にするということは、万葉から近世に及んだ日本の文芸的編集文化の仕上げを意味するからだ。はっきりいえば、世阿弥と近松がここで結ばれたのである。近松が相手にしたかったのは、西鶴ではなく、世阿弥だったのだ。
 では、やや詳しく、説明しておきたい。

 景清は実在の平家の武将で、悪七兵衛景清として知られる。『平家物語』および『源平盛衰記』に初出する。この景清をめぐる史実と伝承が、その後さまざまな編集を得て、最後に近松によって最大結構となった。
 景清伝承はいろいろあるが、壇ノ浦で平家が滅亡したのちもひそかに生きのびて平家残党となり、挙兵などに加わって抵抗を見せるのだが功を奏せず、源氏に捕らえられると断食をして、ついに自決したというのが一般的なプロフィールになっている。ともかくも、曰く付きの人物だ。
 この伝承を幸若舞の『景清』は、景清が乞食に身をやつして頼朝の命を狙うが失敗して、梶原景時に追われて清水寺に逃げたという状況設定にした。ついで景清はここで妻の「あこわう」に裏切られて密告され、六波羅探題の追っ手を前にわが子を殺して逃げきり、熱田神宮の大宮司の娘のところに隠れる。このあと、景清が梶原景時の奸計にはめられた大宮司の安否を気遣ってあえて獄中に入り、そこで観音信仰にめざめたという話の結末にした。
 一方、おそらく京都でできあがったとおもわれる謡曲現在能の『大仏供養』は、これとは趣向が異なっている。清水観音に参籠していたシテの景清が頼朝の大仏供養の噂を聞いて捲土重来を期すのだが、ツレの母親が思いとどまるように諭すので、身の衰えを嘆きながらもなお復讐を誓うというふうになる。
 後半は、頼朝が大勢のワキツレ従えた大仏供養に、宮人に身をやつした後シテの景清が臨んだときは、装束の下に具足があらわれてワキツレと打ち合い、名刀「あざ丸」をかざすや春日の山の茂みに隠れていくという引ッ込みだ。同曲を金春流では『奈良詣』という。

 これに対して、世阿弥が書いたであろう謡曲の『景清』は、景清の娘の人丸をツレにして、いまは盲目となって日向の勾当(こうとう)となっている景清を訪れるという侘びた設定になっている。
 人丸の前で景清はそんな男は知らないと言いはるが、里人はあの乞食こそが景清だという。そこで人丸がふたたび景清を訪ねて親子の対面が成ると、景清は思いの堰を切って八島(屋島)の合戦での武勇を懐かしく語る。語り舞い終わった景清は元の乞食(かたい)に戻り、娘が去っていくのを見守って泣き伏すという現在能である。
 世阿弥は景清を落ちぶれて盲目となった乞食(かたい)とし、そこに底光りのするような「哀傷の花」ともいうべき銀色の余情(よせい)をもちこんだのだ。
 このほか、古浄瑠璃にも『かげきよ』があった。景清はまさに日本芸能史を代表するアンチヒーローなのである。

 さて、近松はどうしたか。これらのすべてを勘案して、まるでギリシア悲劇のように構想を膨らませ、それを場面ごとに深化させた。
 せめて筋書き段取りくらいは知っておいたほうがいい。ちょっとだけ案内したい。五段浄瑠璃である。初めてこの梗概を知る者は、きっとその最期に驚くことだろう。

 景清は熱田神宮の大宮司の娘の小野姫のもとに身を隠している。源頼朝が大仏殿を再興しようとしたとき、これを阻止して一矢を報いようと決意した。意気に感じた大宮司は、名刀「痣丸」をもたせて励ました。
 だが、儀式に潜伏した景清は正体を見破られて、名刀を操りながらも逃亡し、「此の景清が一念の、剣は岩を通さんものをと、躍り上がり飛び上がり、歯がみをなして行く雲の、月の都に上りける」というふうで、京に入って昔なじみの遊女の阿古屋のもとにかくまってもらうことになる。
 これが初段。近松の入念な仕立てはここからだ。
 すでに景清と阿古屋とのあいだには二人の子の弥石・弥若がいた。夫婦同然なのだが、ここで阿古屋が「悋気するではなけれども浮世狂ひも年による」と、景清と小野姫との仲を嫉妬して、兄の伊庭十蔵が六波羅探題に訴え出ようとする誘いに悩み、あげくに屈してしまう。そのため捕り手に囲まれた景清は必死の闘いのすえ、逃げのびる。
 ここまででまだ二段だが、はやくも近松の作劇編集が光っている。
 まずは阿古屋が現実感に富んでいて、生きた人物像になっている。夫同然の景清を自分では訴えられないが、小野姫を思うと心が乱れ、兄が訴え出ようとすることを止められない。このアンビバレンツな心理が微妙に語られている。阿古屋は「あこわう」の転用であるけれど、幸若舞の割り振りとはまったく異なって、近松はワキ役の阿古屋にこそ血と涙を通わせた。
 一方、景清が闘いで見せる豪放で超人的な動きには、リズミカルな文体をあて、手に汗握らせるとともに、阿古屋とその兄に裏切られた無念を強烈に印象づけている。この突っ込みこそ、近松なのである。そのため、この「超人の無念」がのちの恐るべき復讐の下地になるのだということが、観客にしだいに伝っていく。

 第三段。六波羅メンバーは逃げた景清をおびき寄せるために、熱田の大宮司を捕らえて牢に入れる。この父を追って小野姫が京へ向かっている。ここで浄瑠璃独壇場の「道行」になる。随所に地名を織りこみ、景色と心情を重ねて叙述して、文体を韻律に乗せていく。
 京にのぼった小野姫は、梶原景時親子に捕縛され、裸にされて梯子に縛りつけられる。水責め、首に縄をかけ、松の枝に掛けて引き上げ引き下げ、惨虐のかぎりをつくしての拷問である。説経節『さんせう太夫』や古浄瑠璃『牛若千人切』でも、こんなリアルな拷問はなかったものだ。近松用意周到の「残酷」のアイロニーというものだった。
 アイロニーというのは、姫はここで耐え、「武士の妻と成りこころ弱くてかなはじ」と、そこに意気地の深さを見せるのである。この意志が景清を動かし、不覚にも涙を流し、姫を助けようとして自ら縄につくことになる。九鬼周造を酔わせたプロットだ。
 こういう展開はかつてなかったものだった。日本の芸能はあえて人間の意思などあらわさない。すべては暗示的に察知させていた。それを近松はあえて暗示と察知をリアルな刀で彫塑して、そのぶんさらに筋立てを輻湊させながら、そこへ意気地をぶちこんだのである。
 かくして六波羅は小野姫を釈放、景清に千筋の縄をかけて引っ立てる。

 ここからが第四段「景清牢破り」の場面。二人の子を連れて阿古屋が景清を訪ねるのだが、景清は阿古屋の裏切りを許さない。
 阿古屋はどのように詫びても景清の心が動かないのを知ると(そこに景清の復讐心の強さがひそかに対比されているのだが)、もはやここまでと二児を守り刀で刺し貫いて(幸若舞では景清が殺害者だった)、自分もたちまち喉を突いて死ぬ。
 これは観客が唖然とするところ、近松はこの意外の極点へ物語を運んでおいて、そのとたん、いよいよ景清にひそんでいたドストエフスキー的ともいうべき分裂的人間性を次から次へと引き出していく。
 景清は阿古屋の二児を巻きこむ自害にさすがに驚き号泣するのだが、そこに通りかかった伊庭十蔵に口雑言を浴びせられると、突然に怒りを爆発させて超人的な力で牢を破り、十蔵を組み伏せて体を真っ二つに引き裂いてしまう。
 それで逃げるかと思うと、そうとはならない。景清は大宮司に災いが及ぶのを止めるため、また獄中に入って観音経を唱え、淡々と刑死を受け入れる。
 ふつうなら、ここでさしもの景清も深く観世音の功徳を観念して大往生でも遂げるところであろう。幸若舞や古浄瑠璃なら、そうしただろう。ところが、近松はここからさらに悲劇の愁嘆を深彫りしていったのだ。

 かくて第五段「巨椋堤」の段。頼朝が南都下向のために巨椋堤にさしかかると、獄門にかけられたはずの景清がまだ牢の中で生きているという報告をうける。
 怪しんだ頼朝が首をさらした三条縄手に行ってみると、なんと景清の首が清水観世音の首に替わり、後光を放っている。これで頼朝もさすがに景清の復讐心も去ったかと見て、日向国宮崎の庄を与えた。景清も頼朝に請われると、八島の武勇を語ってみせたりもする。ここは近松が尊崇してやまない世阿弥の『景清』だ。
 しかし、近松は話をこれで終わらせない。頼朝が座を立とうとしたとき、景清は腰の刀を抜いて飛びかかる。それが取り押さえられて平静に戻ると、今度は激情の変化も烈しく、涙をはらはらと落とし、「まことに人の習ひにて心に任せぬ人心、今より後も我と我が身をいさむるとも、君を拝む度毎によも此の所存は止み申さず」と語り上げる。ところがその直後、もはや自分の目が見えなければいいのだと言い放つと、差添をさっと抜き、両眼をあっというまにえぐり出して差し出したのである。
 これが終局だ。景清は両眼を穿たれたまま、日向に下ってしまう。

 史劇であって、悲劇。
こんな文芸や演劇は、かつて日本には一作もなかった。世阿弥の幽玄の芸術は、ここで複数の人間の性格に悲劇性をそれぞれ与えられて近松浄瑠璃として蘇える。
 ギリシア悲劇に匹敵するともいえるし、日本独自の人情を組み上げた未曾有の悲史劇でもあった。いまでもぼくは文楽の『出世景清』を見るたびに、その劇的展開に呑みこまれて夢中にさせられるだけでなく、劇場を出てきて夜風に吹かれてからも、深い性格悲劇の構造がこちらの心の奥に残響しつづけて、いま自分が見てきたものが魂のない木偶や人形だったとは思えない。

 『出世景清』とは、そんな大作だった。そんな大作であるのだが、近松はこれで満足はしなかった。
 翌年の貞享3年(1686)にも竹本座のために『遊君三世相』『佐々木先陣』『薩摩守忠度』を書いていずれもヒットさせ、そこに、これまた歴史的にはかつてないことをしてのけたのだ。

 これまで便宜的に台本とか本とよんできたが、浄瑠璃というものにはもともとは作者はなかったのである。
 浄瑠璃本は、作品の最初から最後までの全体を出版したものを「正本」というのだが、これは「間違いのない本」という意味で、それを保証しているのは作者ではなく、太夫なのである。歌舞伎の社会においても、台詞(せりふ)は作者が役者に「付ける」もの、作者が「書いた」ものではなかったのだった。
 それを近松は『佐々木先陣』で、“作者近松門左衛門”を明記した。当然、これは慣例破りだから反発がある。たとえば役者評判記『野郎立役舞台大鏡』は、すかさず「やめさせたいものは?」「近松の作者付け」というやりとりを載せ、近松の思い上がりを揶揄したものだ。
 しかし、近松は怯まない。このあと近松が坂田藤十郎と出会ってとりくむ歌舞伎の世界でも同じこと、近松は自分が作者であることを断固として明記した。ここではふれないが、近松は歌舞伎では藤十郎を得て、和事のために台詞を付けたのであって、もし藤十郎がいなければ、台本も変わっていたはずなのである。
 が、近松は押し返す。ついに藤十郎は近松を「読む」ことになったのだ。ここには日本の芸能は作者を誕生させることになる。

 元禄6年に西鶴が、翌7年に芭蕉が亡くなった。まだ元禄は始まったばかり。けれども元禄文化はここから近松一人がつくっていく。
 先にも書いたように、この近松40代は歌舞伎の時代である。ここでは藤十郎とのコラボレーションが過熱した。それが終わると、最初に書いたように元禄16年に『曾根崎心中』が大当たりして、近松はふたたび竹本座で浄瑠璃を書きつづけるという季節に入る。
 元禄16年は元禄の終わりだから、ここから先は宝永正徳享保に入るのだが、ここで竹本座は竹本義太夫(筑後掾)から竹田出雲に座本を変えた。
 近松も宝永3年(1706)に『用明天王職人鑑』を書いたあと、京都から大坂に移り住む。ついに座付作者となったのである。宝永元年には初代団十郎も横死しているから、近松が浄瑠璃に戻ったのは時宜を得ていたヨミだった。
 これで近松独壇場の円熟期がやってくる。べらぼうな超円熟期といっていい。
 上演順にいえば、『堀川波鼓』『心中重井筒』『傾城反魂香』、そして『冥途の飛脚』『夕霧阿波鳴渡』『国性爺合戦』となって、享保4年67歳からの『平家女護島』『心中天の網島』『女殺油地獄』という、信じがたいほどの傑作が、まるでこの世の終わりかというほどに連打され、声ふりしぼってシングアウトされ、終らぬコーダを続けたのだ。
 近松とは、ひょっとして景清のことだったかと思わせるような戯曲人生の打ち上げである。

 ところで、近松晩年の傑作三昧に入る前に、いまのうち、そもそも浄瑠璃というものがどういうものであったかについて、一言加えたい。
 戦国期、三河の浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語が流行した。琵琶法師や扇拍子の芸人たちによる語り芸である。これが浄瑠璃的なるもののルーツだった。十二段で語られることが多かったので、十二段草子といった。
 そこには、のちの浄瑠璃の特色がはっきり発生していた。登場人物が何人いようと一人で語ったということ、そのため表現者(語り部)は、物語の当事者とはまったく別の第三者でありえたこと、地の言葉と詞の言葉が混在して進行すること、そこで台詞と地語りを区別するには旋律や抑揚や節回しが必要だったということ、琉球から蛇皮線が伝わってこれが三味線に改良され、名人級の三味線音楽家が盲人を中心にぞくぞくと誕生してきたこと、そして、これらがことごとく人形劇に結びついたことである。

 語りが一人称になっていないことは、一人称を重視した世阿弥の謡曲との著しい違いであった。
 物語が人形によって演じられることは、観客からすると、語りや台詞を自分で人形から引き出して見聞するという想像力を試される。作者や太夫や三味線からすれば、その想像力を舞台いっぱいに用意するための技能が要求される。浄瑠璃は一座を舞台にそういう新たな効果をもたらした。
 しかも、人形遣いが今日に見るような3人遣いになったのは、近松が72歳で亡くなった享保19年(1734)に吉田文三郎が考案してからのことだから、近松と義太夫時代の浄瑠璃では、まだ人形はそれぞれ一人遣いであって、それほどリアルな“演技”をしていなかったと思われる。
 それにもかかわらず、その人形と太夫の演ずる人形浄瑠璃が圧倒的人気を博したのは、そこに用意されたすべての物語的で感情的・心理的で構造的な仕込みが、群を抜いて他を圧していたからである。
 近松は、いまのべたことの全点全部を徹底考慮して(たとえば三味線によって半間のリズムが生まれて“奇数の芸術”ともいうべき成果があらわれたことなど)、次々に重層的な作品を作り上げていったのであったろう。当時すでに「作者の氏神」とよばれていたのは当然だ。

 それでは、その後の近松作品の話をしておきたい。
 ぼくの好みも入るのだが、近松晩年を象徴するロマン主義と異国趣味の色濃い作品『国性爺合戦』と、現代文学もここまで心の綾を描けている作品は少ないだろう思われる『心中天の網島』を採り上げたい。周知のように2作はまったく対照的である。

 正徳5年(1715)、『国性爺合戦』が竹本座で上演された。五段浄瑠璃である。3年越し17カ月のロングラン。
 近松は舞台を中国にまで広げた。主人公は和藤内。明室の遺臣で清朝に抵抗した鄭成功がモデルである。父は中国人、母は日本人という長崎平戸生まれの混血児。近松は「和」でもない「唐」でもないという洒落で、和藤内と名付けたのであろう。
 以下、その概要をしるしておくが、その背後には、第460夜で話題にしておいた朱舜水にまつわる事情と同様の、日本近世史の謎を孕んだ深奥の問題が渦巻いていて、近松はつねにそのことを念頭にこれを書いただろうことを、あらかじめ指摘しておきたい。

 冒頭、明の王宮が韃靼の大軍に囲まれて瓦解して、皇帝が殺されることが告げられる。近松はこの異国存亡の危機の状況の只中に、最初の「悪と忠」の対比を提示する。
 敵に内通した明の悪臣に李蹈天、難を逃れて皇帝の遺児を守った忠臣に呉三桂。この対比をズバッとおいた。そのうえで、そこに第3の人物、皇帝の妹の栴檀皇女が一人で舟に乗って大海に彷徨い出るという謎を用意した。
 二段目は、肥前平戸の海岸に和藤内と妻の小睦が貝拾いをしているところへ、大蛤を鴫がつついて二つが争う。これは近松がこの物語全体に与えたメタファーの妙というもので、このあと和藤内はこれを思い出すたびに知略を思いつく。これは両雄を争わせてその虚を突くという軍法奥義で、観客は舞台の進行とともにこの奥義に心奪われる。
 そこへ見慣れぬ舟が漂着して栴檀皇女が異様な言葉を発する、「日本人、日本人、なむきゃらちょんのふとらやあ、ふとらやあ」。中国語である。近松はこういう言葉遊びも好きだった。和藤内はバイリンガルだから明室崩壊の危機を知る。そこで父の鄭芝竜(浄瑠璃では老一官)と別々に中国に渡る。
 和藤内は母を背負って未踏の唐土を進むのだが、巨大な虎と格闘して退治すると(ここに荒事の所作の多くが発芽した)、虎にまたがり大勢の現地人を部下として行進する。ここは、まさにジョセフ・キャンベルの英雄伝説(第704夜)の王道だ。行く先は、老一官が現地に残した娘が、いまは韃靼軍につながる甘輝将軍の妻の錦祥女となっているという「獅子が城」――。

 歴史上の事実では、鄭芝竜は中国福建省の生まれで、密貿易商人となって日本に来て、平戸川内浦の田川七左衛門の娘を娶って鄭成功をもうけたのが寛永元年(1624)である。
 鄭芝竜はその後に明室に招かれて福州(福建)の総兵官となり、安平(泉州の南)に城を築いて海賊を平定し、平国公になった。そこで平戸にいる田川母子を呼び寄せようとするのだが、7歳の鄭成功だけが中国入りをした。その鄭成功21歳のとき、明の皇帝毅宗崇禎帝が李自成によって北京に攻め寄せられ、首をくくって死んだ。
 明の将軍の呉三桂は満州軍の協力を頼んで北京を攻略し、明室復興のために立ち上がる。そして、鄭芝竜らを頼んで福州に隆武帝を擁立させて、これを守らせた。
 隆武帝は鄭成功の活動に感謝して国姓の「朱」を与えて朱成功を名のらせた。そこで世人は「国姓爺」と崇めたのである。

 話は戻って三段目。獅子が城。和藤内親子3人がやっと甘輝の居城に辿り着くと、さまざまな事情が絡んで入城がかなわない。そこで錦祥女が一計を案じて、事情がよいときは白粉を場外の堀に流し、困難があるときは紅を流すからと諭って、時機を待つ。
 そこへ紅が流される。
 このアイディアは秀抜このうえないもので、ぼくなどこの場面を見たくて父親にせがんで『国性爺』を文楽にも歌舞伎にも見に行かせてもらったものだった。とくに歌右衛門の「紅流し」が鮮やかで、いまでもその初見の場面が歌右衛門のおろおろとした震える声とともに記憶に残っている(このころは文楽がまったく理解できていなかった)。
 この「紅流し」は、錦祥女が自分の存在こそが事態を好転させない主因であろうことを知り、「九寸五分の懐剣、乳の下より肝先まで横に縫うて指し通し」という壮烈な自害をした結果の、血潮の紅なのである。
 じっと堀の水の流れを眺めていた和藤内は紅を見て、ただちに行動をおこし、ここからが豪快本格の人形荒事になる。城内で錦祥女が鮮血に染まって倒れているのを見ると、万感は胸に迫り、ここに明室再興を決意する。
 けれども、和藤内の母は、生(な)さぬ仲の娘を見殺しにしてしまったとあっては義理が立たないと言い、その場で自害してしまう。
 この自害は和藤内への激励にほかならない。近松浄瑠璃では、死は必ず「もうひとつの生」なのだ。かくして一同の行く手に沛然として、統一の敵たる韃靼王が浮上する。

 四段目の舞台は住吉神社前。小睦は夫の和藤内が唐土に渡って国性爺と改名し、数万の部下の将軍となったとの噂を聞いて勇み立つ。
 小睦はきっぱり男装をすると、住吉の松を相手に剣道に励み、心身に神威ともいうべきを感じて、栴檀皇女を伴っている。二人は明国めざして千賀の浦から船出する。このときの海上光景を織り込んだ「女の勇み」が、いわゆる「栴檀女道行」のエキゾチックな名場面になっている。
 一方、南京を逃れて山から山へと身を隠しながら密かに若君を養育していた呉三桂は、ある日に九仙山に入ってそこで碁を打つ二人の白髪の老翁に出会っている。老翁は、いま日本から国性爺が明室の味方となって戦闘を進めていると告げ、碁盤の上に戦況を映じてみせる。
 ここはギリシア神話さながらの、かつ、中国神仙道の幻想光景がいろいろ漂う場面になっていく。
 老翁が消えると、老一官、栴檀皇女、小睦が呉三桂を尋ねてきて、ここに再会が成立。一同喜びを分かちあうのだが、そこへ敵の大軍が攻めてきて、ここからは大カラクリ仕掛けの連続である。天の懸け橋が現れるわ、がんどう返しがあるわ、碁盤の盤上に次々に戦闘が見えるわで、きっと竹田出雲の関与であったろうが、近松は徹底してスペクタクルを見せて、前半の「女の勇み」に対するに「男の挑み」をふんだんに披露した。
 のちの滝沢馬琴の波瀾万丈の対比原理につながる“発明”だった。

『駱駝祥子』

『国性爺合戦』絵番付 四段目九仙山のスペクタクルシーン

 こうして終段、和藤内らは韃靼軍に逆襲をはたし、南京城総攻撃に向かって話が終わっていくのだが、近松がこの作品で見せた壮大なスケールとアジアを巻きこむ武士道発揚ともいうべき破天荒は、先にも書いたように、ぼくは近松の朱舜水論だと思っている。
 また、これが書かれた時期をみると、貝原益軒が『大和本草』を編集し、菱川師宣が「日本絵師・大和絵師・日本画工」などと名のり、いよいよ国学が台頭していたことなどとも符牒があっていて、近松の満を持しての日本主義ともいうべき掲揚だったことも見えてくる。
 最近出版されたばかりの近松9代目にあたる近松洋助の『近松門左衛門の真実』(中央公論新社)によると、近松は赤穂浪士とのつながりが濃く、そのとき「塩の道」を求めて九州松浦党と交流を深め、さらには琉球にまで渡っていたことになるらしい。これまた意想外でおもしろい。
 ちなみに実際の鄭成功のほうはどうなったかというと、反撃は功を奏せず、台湾に入ってオランダ軍と壮烈な戦闘をくりひろげて、39歳で客死した。それが寛文9年(1662)だった。
 近松は少年時代にこのニュースを聞いていた。国性爺の物語は徳川社会にひそむ東アジア動向の鍵を握る出来事だったのである。

 きりなく近松世界を案内したい気分になっていて、「千夜千冊」においては、これはまったく困ったことになってきた。これではいつまで書いていても終わらない。
 未練を断って、それでは『心中天の網島』の出色のところをいささかかいつまむことにするが、これは近松の世話物の22本目、しかも没する4年前の作品、構成細目には寸分のすきもなく、描写は大概も細部においてもほぼ完璧、ともかく洗練の極致を示していて、世話浄瑠璃の最高傑作なのである。
 その最高傑作をいろいろ角度を変えて述べたいのはやまやまだが、ここではただひとつ、「愛想」ということに絞って、万緑の夜のわが近松逍遥を締め切りたい。

 大坂天満の紙屋の主人治兵衛と曾根崎新地の紀伊国屋の遊女小春の心中の戯作化が、事実にもとづいていたかどうかは、はっきりしない。
 紀海音の『梅田心中』のヒントもあろうが、近松がさまざまな題材を渉猟しているのは若い日々からの常なので、トータルには虚実が絶妙に入りまじったのだろう。
 叶わぬ情実の恋ながら、治兵衛と小春の心の内を知った身内の者たちがあれこれ工夫するのに、事はいっこうに進捗せず、結局二人はともに髪を切ってこの世の縁を切り、小春は治兵衛に喉を刺してもらい、治兵衛は南無阿弥陀仏と水門の下に首を括って果てる。そういう話である。
 髪を切ったのは、二人が尼と法師となって、現世の柵(しがらみ)から抜けたことを意味するのだが、実はそうして果たした心中は、この世の者たちに悲嘆も苦悩も残していったのである。近松はそこを描こうとした。

 主題は当人たちの悲恋だけにあるのではない。勝手な恋愛の暴走が周囲をまきこんでいくという、当時の家族社会そのものが悲恋だということだ。
 そこを描出するために近松は、この心中に流れる男の情実を深く感得しているのは治兵衛の兄の孫右衛門であり、小春にひそむ女の情実を理解しているのは治兵衛の妻のおさんであるようにした。ここが、この作品をそのへんの不倫ドラマとは全く異なるものにした。

 浄瑠璃作品というものは、つねに場面ごとに切れて(段でも切れて)、そこがそれぞれ太夫と三味線の変奏で突起していかなければならないのだが、『心中天の網島』など、あまりにもこまやかな心理の綾と人間関係の糸で織られた作品だから、場面を『出世景清』や『国性爺』のようには際立させられないし、同じ心中物でも『曾根崎心中』のように、当人たちが奈落に向かう悲恋の道行で見せるというわけにもいかない。
 しかし近松はその困難にこそ挑み、この作品を最初からのっぴきならない苦界(くがい)の宿世(すくせ)に設定し、物語を開始させた。
 すでに近松は、男と女の恋愛の成立の過程などとっくに省いていた(ここがその後のメロドラマとは全く異なっている)。つねに男女の破局の一歩手前から描写を始めるようになっている。それが『天の網島』では最初から心中を逃れられない雁字搦めにしておいて、その搦め手をそのまま舞台にあげた。
 それなら、こんなに追いつめた設定で何がドラマトゥルギーになるかといえば、そこが「愛想」の問題なのである。

 愛想がいい、愛想がわるいとよく言う。関西では「えら、あいそがおまへんな」と行って、相手を詰ったり、相手に詫びたりもする。愛想をふりまくといえば、他人によい印象を与えるための振舞や顔付きのこと。お世辞のことも「愛想を言う」という。いまでは寿司屋やレストランなどで勘定をするときに「お愛想」などという。
 それが逆転して「愛想がつきる」といえば、相手の言動にあきれはて、すっかりいやになることをさす。そこで、もうあいつには愛想をつかしたというふうになる。これらの愛想のあれこれは、現代人にとってはとくに難しい心理感覚ではなくなっている。
 しかし浄瑠璃や歌舞伎では、相思相愛の間柄にありながら、相手のためを思って、あえて心にもない縁切りの仕草を見せることをこそ「愛想づかし」というのである。これは愛想が尽きたのではなく、本来の愛想に向かうための乾坤一擲なのだ。
 『心中天の網島』では小春の「愛想つかし」が根本のモチーフになっている。これは『生玉心中』にも見えていた。

 小春は治兵衛のほかの客はとりたくない。治兵衛となら死んでもいいと思っている。治兵衛は小春が別の男に愛嬌を見せていると思いこんでいる。小春はそれなら治兵衛に逢わないようにしていれば、この思いがずっと続いて壊れないものと思いこむ。
 小春は本心を隠したのである。それが本来の愛想であった。それを伝えるには、手立てはひとつ。愛想づかしをしてみせる。
 一方、治兵衛の女房のおさんは、治兵衛の不始末はおまえのせいだと母親から詰られる。夫の身勝手は女房の不始末と詰られる。そんなことは百も承知のおさんは、ひそかに小春に手紙を出して、なんとか夫との縁を切ってほしいと頼みこんでいた。
 それを小春は聞き分けた。ところが夫の治兵衛こそがだらしない。おさんは、このままで小春は一人で死んでしまうにちがいないと知った。
 そこでおさんは身銭を切って、小春の身請け金を用意する。おさんもまた、何が女の愛想かを知っていた。物語ではこれに加えて、治兵衛の兄の孫右衛門も愛想の本来を知る者として、舞台を鮮やかに染めあげていく。

 こうして、近松は互いに深まる「愛想」をめぐる葛藤をまことに精緻に、まことに纏綿と、大坂弁で縫いこんだ。小春治兵衛の「天の網島」への道行心中は、これらをまるごと背負ったままの心中だったのである。
 近松はそこまで用意周到の手を打って、最後の最後、「名残の橋づくし」へとさしかかる。それがまた鏡花やキーンや谷崎を唸らせた名文なのである。

 では、とくと堪能していただきたい。
 「走り書。謡の本は近衛流。野郎帽子は若紫。悪所狂ひの身の果ては、かくなりゆくと定まりし。釈迦の教へもあることか、見たし憂き身の因果経。明日は世上の言種(ことぐさ)に、紙屋治兵衛が心中と、あだ名散りゆく桜木に」と始まって、太棹がベーンベン。
 太夫がひときわ、「ころは~十月十五夜の~、月にも見えぬ~身の上は、心の闇の印かや~」と入ると、もはやなにもかもは愛想の果て、近松門左衛門円熟の極みの浄瑠璃になっていく。

  いま置く霜は明日消ゆる 
  はかなき譬(たとへ)のそれよりも
  先に消へゆく閨(ねや)の内
  いとしかはいと締めて寝し
  移り香もなんと流れの蜆川
  西に見て朝夕渡る この橋の天神橋はその昔
  菅丞相と申せし時 筑紫へ流され給ひしに
  君を慕ひて太宰府へ たつた一飛び梅田橋
  あと追ひ松の緑橋 別れを嘆き悲しみて
  跡に焦がるる桜橋‥‥
  もうこの道が冥途かと 見かはす顔も見えぬほど
  落つる涙に堀川の 橋も水にや浸るらん

 いやいや、もうこのへんの「橋も水にや浸るらん」で打ち止めにしておこう。これなら諸君を誘って心を攫(さら)い、一同揃って小屋劇場に駆けつければよかったのだ。
 なるほど近松は、そこまで「あんぢゃう」していたか。