シルヴィア・ビーチ
シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店
河出書房新社 1974
Sylvia Beach
Shakespeare and Company
[訳]中山末喜

 書物のカバーには書物の歴史が刻まれている。本書のカバーには一枚のモノクローム写真が掲げられ、それをモスグリーンとライトグリーンの枠が囲んでいる。
 デザインはそれだけで、あとは黒で「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」という標題と、「シルヴィア・ビーチ中山末喜訳」という文字が同Q数で並んでいる。「カンパニー」ではなく「カンパニイ」と音引きが「イ」になっているのが特徴といえば特徴だが、それも楚々としたものだ。
 しかし、その一枚のモノクローム写真こそは、本書のすべてを物語る。そこには書棚が天井まで届いていそうな書店の一部と、額に入ったシェイクスピアの肖像写真、そして3人の人物が机をはさんで写っている。一人の横を向いた女性はこの書店の主人であるシルヴィア・ビーチ。アメリカ人だがパリで書店を開いた。もう一人の女性はフランス人のアンドリアンヌ・モニエ。彼女はシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の向かい側で小さな灰色の書店をやっていたが、ビーチを助けてこの書店を盛り上げた。
 そしてもう一人がジェイムズ・ジョイス。かの『ユリシーズ』は1922年にこの無名の書店から発行されたのである。

 本書のような本は、読むだけでたのしい。そんな時代のそんな人々と交わったこともないのに、まるでその時代のその街のその書店の椅子に坐っているような気分にさせてくれる。
 著者がシルヴィア・ビーチその人であり、その言葉がやさしく、奇を衒っていないのもよい。翻訳がですます調であるのも、この本にふさわしい。むろん話が時の流れに沿っていて、ビーチがちょこちょこと書店を始める準備とともに進行するのも、微笑ましい。彼女は家具と書棚と事務用品のすべてをこつこつと骨董品で集めたのだった。
 開店は1919年1月19日。すなわち、ぼくが「千夜千冊」でこの本をとりあげている、今日だった。

 当時のパリでは、まだ書物は売るより貸し出すほうが気楽な文化だったようである。
 そこでビーチも貸出文庫を用意した。モニエがアメリカ式とよんだその貸出し方法は、カードに頼るなどというものではなく、どれだけ本が欠けているのかを利用者が発見するというものだった。在庫システムにこだわっているアマゾン・ドットコムやbk1などのオンライン書店ではとうてい真似ができない方式である。
 しかし、このパリで一番小さな書店は、すぐにパリで一番有名な書店になっていく。
 まず、アメリカ人がパリを訪れて最初に寄るのがこの書店になった。“パリのアメリカ人”がブームであったせいもある。次にアンドレ・ジッドやアンドレ・モロワが会員になり、さらにエズラ・パウンド夫妻が来店し、ついでガートルド・スタインとアリス・B・トクラスが冷やかしに立ち寄るようになってからというものは、まるでヨーロッパ中の文学者がこの書店の存在を知るようになったかの“文化”になっていく。そうして開店1年後がジェイムズ・ジョイスとの出会いだったのである。

 ジョイスは書店に入ってきてホイットマンとポオの写真を眺め、次にはブレイクの2枚の絵を覗きこみ、最後にオスカー・ワイルドの2枚の写真を凝視しつづけて、それがおわると心地よい肘掛け椅子にゆっくり腰をおろしたらしい。
 それからは、ジョイスはこの書店でヘミングウェイに、フィッツジェラルドに、T・S・エリオットに出会っていく。なにしろジョイスは毎日、シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店に通ってきたのだった。
 このあと、ジョイスの『ユリシーズ』刊行という大冒険が静かにおこり、書店はオデオン座に通じる小さな通りに引っ越した。そして、書店の小さな空間はますます繁盛きわまりないいささか懐かしい“紙製の芸術倶楽部”になったのだ。

 なぜシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店はパリの文化サロンになったのか。
 ビーチが文学者たちを夢見るほどに好きだったということが大ききかったのだろう。その趣味が写真やオトグラフやリトグラフのようなオブジェ感覚と通じあっていたのも、人気をよんだ。それに、本書を読んでいるかぎりはあまり理屈を言わない知性派だったようにも見える。おまけに、青年ヘミングウェイがそうだったようであるが、書店で一銭も落とさないで入り浸る連中を許しつづけたことも、この手の店が愛される独得の雰囲気をつくっていた。その彼女と書店の不即不離の関係が居心地をよくさせたのだろう。ぼくはふと、ワタリウムの和多利志津子さんやニキ・ド・サンファール美術館の増田静江さんを思い出した。
 もっともビーチには頑固なところもあった。『ユリシーズ』が話題になると、それを好色文学とみた当時の風潮に煽られて、書店に『ファニー・ヒル』などの好色本を求める客がふえたらしいのだが、ビーチは『チャタレイ夫人の恋人』さえ入荷しなかった。ぼくはD・H・ロレンスが好きな読者だが、ビーチはロレンスを評価しなかった。
 また、『ユリシーズ』の成功は原稿を持ち込む連中を急増させたようだが、これにもビーチは断じて甘い顔を見せてはいない。アレスター・クロウリーが原稿を持ち込んだというのは意外だったが、これも不気味だといって断っている。

 このほか本書にはポール・ヴァレリーとの交流やジュール・ロマンやレイモンド・リノシエとの日々が、まるで抽斗をあけるとオルゴールが聞こえてくるように、奏でられている。
 書店はこんな調子なのだから、むろん財政危機にも陥っているのだが、こうした危機もジッドをはじめたとした連中があたかも国家存亡の危機を救うかのごとく救済した。が、ほんとうの国家存亡の危機であるナチス・ドイツのパリ侵攻後はついに命脈を断たれて、閉店した。1941年のことらしい。
 ぼくはロジェ・カイヨワミシェル・フーコーに会うために最初にパリに行ったとき、オデオン通り12番地を訪れてみた。いったいどこがシェイクスピア・アンド・カンパニイ書店の跡であるのかわからなかったが、そこにはいまでもビーチとモニエとジョイスがお茶を飲んでいるような気がした。

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