デイヴィッド・ロレンス
チャタレイ夫人の恋人
新潮文庫 1996
ISBN:4102070125
David Herbert Lawrence
Lady Chatterley's Lover 1928
[訳]伊藤整

 藤原猛先生がいた。京都初音中学校の国語の先生だ。難聴者で、いつも補聴器をつけていた。だから声が大きかった。のちに『難聴者の記録』という岩波新書を書いた。
 この藤原先生によって、ぼくの奥にもぞもぞしていたらしい文章が薫風を浴びてめざめていった。誰もがおぼえがあるように、先生は日記を書くことを生徒にすすめ、各自の日記を読んではその感想をときどき授業中に話した。ぼくの日記はそのつど大声の感想の対象になり、そのうち教室の後部の低い棚に“公開”された。先生は「松岡の日記はハイブンだ」と言った。
 ハイブンはさっぱり意味がわからなかったが、卒業後、あるとき先生の等持院の家に伺ったときに、聞いた。いや、聞いたのではない。そのころ先生はそうとうに失聴状態になっていたので、筆談で紙切れに「ハイブンって何ですか?」と書いた。先生は前よりも大きな声で、「ハイカイの文章だよ」と言った。またまたわからなくなったのだが、これは俳文ということだった。

 その先生の家に中学2年のときの同級生の滝泰子と2度目に伺ったとき、帰り際、「これ、松岡へのプレゼントだ」と言って2冊の本をくれた。伊藤整が初訳したときの小山書店版『チャタレイ夫人の恋人』上下本である。
 包装紙のようなカバーが丁寧にしてあって、裏表紙の裏(表3)に色褪せた新聞記事の切抜きが貼ってある。チャタレイ裁判の発行人有罪を告げる記事だった。藤原先生は大声で「なあ、松岡はこれを読んで、もっともっと自由になれ」と言った。
 2日前からこの2冊の“初版発禁本”を探しているのだが、見つからない。次の大掃除までには探したい。きっと古本屋では高値をよぶだろうあの2冊は、ぼくにとってはなんとも説明のつかない青春の突風のようなものだった。薫風から突風へ。でもその本が見つからないので、ここでは新潮文庫になった伊藤整本をもってきた。伊藤整が初版の削除部分を補訳している完訳版である。
 それにしても、なぜ藤原先生が『チャタレイ』を高校2年のぼくに贈ってくれたかは、いまもってわからない。ひょっとすると、磊落だがそそっかしい先生はぼくが滝泰子といつか結婚するとでも思われていたのだろうか。しかし先生の乾坤一擲のプレゼントの甲斐もなく、ぼくは彼女と交わることもなく、それどころか大学3年までを童貞のままの日々をすごしたのだ(あっ、言っちゃった)。
 さあ、こんな話を書いてしまったあとに、まるで医者の前で自分の肝臓の話をするかのようにD・H・ロレンスの作品に入っていくには、はてさていったいどうしたらいいのだろう? いま、困りながら次の一行を考えている。

 なんとなく遠いところから話すことにするが(すぐ近くに寄ってはいくが)、まずは映画『チャタレイ夫人の恋人』をあっさり断裁しておきたい。マルク・アレグレの映画(1955)も、シルヴィア・クリステル主演(なぜこの女優がコニーなのか)のジュスト・ジャカンの映画(1981)も、まったくつまらぬものだった。エロティックですらなかった。
 そもそも『チャタレイ夫人の恋人』は、どこにも興奮するような描写のない作品なのである。むろんぼくは高校時代に、胸おののくような高ぶりのまま、藤原先生に貰った2冊を“あぶな絵”だけを求めるようにパラパラとめくりつづけたものだった。たしかにコニーと森番メラーズが狂おしく交情する場面は何回も出てきたけれど、震える手でそのページを目で追ったところで、どうにも春情を催すような気分にはなれなかった。
 はたしてそのころのぼくの想像力が極端に乏しかったのかと、20年前くらいのことだったか、あのころの高校生に戻って該当箇所ばかりの数箇所を読んでみたのだが、やはりこれでは高校生も興奮できないとあらためて感じた。煽情的な表現など、何ひとつない。
 ロレンスも読者を煽情させたいなどとは思っていない。そんな意図はなかった。これはポルノグラフィでないことはむろん、よく言われるような「性の文学」でもなく、むしろ「甚愛文学」であり、「自由の文学」で、もっとはっきりいえば「反ピューリタニズムの文学」なのである。いつかはその観点からのレディ・チャタレイが映画化されることもあるだろう。そうすればアカデミー賞はまちがいない。
 ロレンスが、レディ・チャタレイとメラーズが交じりあうことに波状的なクライマックスをおいたのは、もちろんロレンスの社会観や哲学があってのことである。ロレンスはなぜ「性愛」を全面に出したかったのかといえば、いまからその話を書くが、その理由はロレンスの人生にすべてあらわれている。ロレンスは短い人生の異常な日々を通して、男と女の関係だけに社会と世界と宇宙の消息の燃焼をつきとめたのである。

『チャタレイ夫人の恋人』

『チャタレイ夫人の恋人』
本文より

 学生たちにD・H・ロレンスがどんな作家で、どんな人生を送ったかを聞いたことがある。『チャタレイ』を読んでいた学生はいたのだが、ロレンスについてはまったく知らなかった。大半の学生の意見は貴族的な作家だという印象なのだ。
 とんでもない、逆である。ロレンスが生まれ育ったのはイングランド中東の炭鉱町イーストウッドだった。父親は炭鉱夫の親方の一人で大酒呑み、とうてい満足な生活はできなかった。高校を出たロレンスはすぐに医療器具屋の事務員になっている。ただし、母親は優しく知的で、ロレンスを偏愛した
 ロレンスは肺炎になった。それで仕事を退いた。肺炎の青年が考えることは、ひとつだ。農場の娘ジェシーに惚れた。ジェシーはロレンスと母親が睦まじいのを嫉妬して、できれば精神的な交遊を求めたのだが、ロレンスはジェシーの体がほしかった。それがかなわずロレンスは他の女と遊ぶ。それで男のセックスの快感はわかったが、その高揚をぜひともジェシーにこそ求めたい。ジェシーはジェシーで、そういうロレンスに体も脚も開けない。ロレンスの母親への気持が抵抗感になる。
 このロレンスと母親とジェシーに渦巻く葛藤は、のちのロレンス出世作『白孔雀』と『息子と恋人』に再現されている。

 ロレンスは教えることは好きなようだった。だいたいセックスが好きな男は教えたがりなのである(だから教師というものは基本的には助平である)。そこで(そこでというのではないが)、ここからは学業に転じてノッティンガム大学に入って教員資格をとると、教鞭生活を始めた。
 ところが、ただひとつのきっかけが、ロレンスを文学者にしてしまった。すでに女性を心身ともに理想化する傾向のあったロレンスは、詩を女友達にこっそり贈るようなところがあったのだが、そういう詩を何度ももらっていたジェシーがそれらの詩を『イングリッシュ・レヴュー』に送付した。これを編集者のフォード・マドックス・ヘッファーが目にとめてその才能に驚き、かくてロレンスは文壇にデビューする。ロレンスの才能を知っていたのはジェシーだったのである。
 しかしここまでは、とくにロレンスの人生に不幸があったわけでも、異様があったわけでもない。けれども次にその話をするが、ただひとつの出来事がロレンスを放浪に追いこんだ。

 文筆生活が始まりかけたロレンスは、ノッティンガム大学の言語学教授の夫人フリーダに恋をした。ドイツ・バイエルンのリヒトホーフェン家出身のフリーダはロレンスの6歳の年上で、33歳。すでに3人の子の母だった。フリーダは夫には倦いていた。男はこういう女性にすぐ夢中になっていく。
 ロレンスは熱愛し、フリーダもこれに応えて、人目を盗むようにして溺れあった。これでは古い町では何かがおこる。世間の目を忍べなくなった二人はこっそり別々にドイツに旅立つと、そこで落ち合ってチロルからアルプスを越えてイタリアに入るという、まさに恋の逃避行をやってのけたのだ。1912年のことである。
 この人妻との大胆な逃亡がD・H・ロレンスの抵抗と逃避と燃焼を決定的に過熱させたのだ。それでも過熱のなかで夢中に綴った自伝的な『息子と恋人』が大評判になると、二人はやっとイギリスに戻り、ここで正式に結婚をする。
 離婚と結婚でようやく落ち着いたかに見えた二人だが、1915年に発表した『虹』(これは傑作だ)が風俗紊乱の廉で発禁となり、加えて第一次大戦下のため、フリーダがドイツ人だということでスパイの嫌疑をかけられた。二人は家宅捜査をうけたのち、退去を命ぜられる。こうしてロレンスの浪漫的世界放浪者とでもいうべき生涯は決定づけられる。学生は知らなかったのだが、ロレンスはどこにも、だれにも“定住”できなかった男なのである。

 実はロレンスには夢想癖がある。
女が好きな男で夢想癖がない男なんているはずはないのだが、そしてその夢想の大小によって男の甲斐性も男の値段も決まっているのだが、ロレンスの夢想癖は地上の理想郷を求めるものだったのである。
 ロレンスは、自身で「ラーナーニム」という小ぶりの楽園をつくりたかった。実際にも最初はそれを、コーンウォール地方の某所にしようとさえ考えた。いわばロレンスの『大菩薩峠』が始まったのだ。
 しかしそんな計画には誰も乗ってはこない。それにロレンスが考えた「ラーナーニム」はフーリエの「ファランジュ」有島武郎や武者小路実篤の「新しい村」とは異なって、社会的共同体構想ではなく、好きな男と女がひたすら愛しあって睦まじく住みあう「愛滴の村」だった。そこでは男たちは同志の関係であるべきで、女たちは好きな男と愛しあい、その男が同志をもてない男なら、これを捨てればよい。この男たちの同志的関係がどういうものかは、のちの『カンガルー』という作品で叙述されている。

 なぜロレンスがこんなことを夢想するようになったかということは、とくに詮索するには当たらない。
 ロレンスは、イギリスとヨーロッパがつくりあげたピューリタニズムの生活倫理とピューリタニズムの文学に背を向けたかったのである。禁欲に精神の真実のアリバイを求めようとするピューリタニズムに対し、ロレンスは「性」をもってこれを打倒したかった。そして「性」の容認をアリバイとする場所をつくりたかった。
 ロレンスによれば、人間にとっての最も貴重な能力は「想像力」なのである。その想像力の最も奥底にあって、かつ最も傷つきやすいかたちで表層で風波のごとく躇めらっているものがエロスとリビドーだ。ロレンスはこの想像力の振動子をこそ、理想の男女が交わしあうべきだと考えた。
 そんなことがいつもうまくおこるのだろうかとも思われるけれども、ロレンスは本気だった。『恋する女たち』に書いているように(小学校教師のアーシュラと絵の修行をしているグドルーンという姉妹の物語)、そのためには、女は“見かけだおしの男の空虚”とさっさと袂別し、男は“固定した趣味に迷いつづける女”をあっさり放擲することを、ロレンスは本気でしきりに勧めたのだ。
 こういうロレンスの“人生相談”を、かつてフェミニストたちは男の勝手な空想だとも非難した。しかし、女の想像力の本質にもエロスとリビドーがあるはずである。ロレンスはこの一点だけは生涯を通して譲らなかった。

 ロレンスの理想とはうらはらに、ロレンス夫婦のロンドンでの日々は鬱屈したままにある。ロレンスはついに決意して、「ラーナーニム」を“外”に求めて転々とすることにした。
 このあとのロレンスとフリーダが転々とした逃避行は、転地先だけを追っただけでも、その甘美でノーマッドな「普通社会での定住拒絶」の本質が見えてくる。フィレンツェ、カプリ島、バーデン・バーデン、シシリー島、サルジニア、セイロン、オーストラリア、アメリカ、ニューメキシコ、そしてメキシコである。まるで世界中に理想的なリゾートを求めたようなもの、ロレンスは「地球の歩き方」の先駆者だったのかとおもわれてくる。
 ここでいったんイギリスに戻り、1年もたたずにまたアメリカからメキシコのオアハカに入って、『翼のある蛇』を書いた。この有翼龍蛇とはロレンスとフリーダそのものである。ロレンスはしだいに男であって女であるような、それゆえ女であって男でもあるような、そういう両性具有の「あわい」に入っていく。
 こうして何度かの放浪遍歴のあと、フィレンツェ近くの村で書きあげたのが『チャタレイ夫人の恋人』なのである。
 冒頭、ロレンスは「現代は本質的に悲劇の時代である」と書き、コニー(コンスタンス)が結婚したクリフォード・チャタレイが炭鉱王であることを証かす。この設定は、ロレンスが少年期から見つづけていた自由とは反対の社会というものだ。しかしレディ・チャタレイにすべてを託したロレンスは、その2年後に南フランスの懐かしい村で死んだ。意外だろうが、まだ45歳だった。

 ざっとこんなところが、『チャタレイ夫人の恋人』が書かれた背景であって、そこに人を春情に走らせるポルノグラフィがない理由だが、それはそれとして、あいかわらず藤原先生がどうしてぼくにレディ・チャタレイを勧めたのかは、まだわからない。
 大声の「松岡、もっと自由になれ」はいまも耳に響いているけれど、そしてまさにいつもそうだ、そうだと思ってきたが、ぼくがレディ・チャタレイに出会えてきたのかどうかはまだわからないし、ぼくがD・H・ロレンスの日々を必要とする人生を追っているのかどうかも、よくわからない。
 いや、藤原先生は伊藤整の文学自由のための闘争をぼくに知らせたかったのかもしれない。いつまでも鳴海仙吉ではいるなよと言ってくれたのかもしれない。それともやはりぼくがいつか知ることになるだろうD・H・ロレンスのピューリタニズムとの格闘を匂わせたのか。
 そういえば先生は、ぼくが日記に書いた詩を褒めてくれたことがある。それは「鳥」というぼくが飼っていたメジロについての短い詩なのだが、その最後に、「右、下、ななめ、あっ、仰向いた」と書いた一行が、「なあ、松岡、ここがええんやで」と言ったのだ。いったい、先生はなぜここを褒めたのか。この公案はいまもって謎である。

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