才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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知の考古学

ミシェル・フーコー

河出書房新社 1979

Michel Foucault
L'Archeologie du Savoir 1969
[訳]中村雄二郎

 ミシェル・フーコーの話に入る前に、手前味噌の話を少々しておきたい。なぜこんな話をするかということはすぐにわかる。後半でも関連してくる。
 編集工学研究所はいくつかのアーカイブをつくってきた。最初はプリントメディアのフルカラーの大冊『情報の歴史』(NTT出版)で、サブタイトルに「象形文字から人工知能まで」と銘打った。一万年の「情報」の変遷を綜合年表にしたものだ。これはのちに慶應大学の協力(金子郁容リーダー)でデジタルメディア化して「CRONOS」というデータベース・システムにした。
 その後、いくつかの試作をへて、まとまったものとしては京都の歴史文化の事象・図像・テキスト・詩歌などを多重多層の構造で貯蔵し、連想検索に工夫を凝らした京都デジタルアーカイブ「MIYAKO」をつくった。スタンフォード日本センター(今井賢一リーダー)とのコラボである。3×3の連想ボタンと「時の車」「四季床」「語り部」の機能などがついている。語り部は三人まで使えて、ユーザーもこの機能をつかえば、いろいろ長老や関係者にヒアリングしたものを自由に取り出せる。語り部が入ったアーカイブは世界初だった。
 いまは密教アーカイブ「KUKAI」のプロトタイプを仕上げている。こちらは真言僧のグループ密教21フォーラムとコラボした。知をマルチメディアライクに動かすことはなかなかおもしろい。
 ぼくがこうしたアーカイブづくりの仕事をするのは、「知の編集工学」の基礎には、知識や情報の集め方と分け方と引き合わせ方が必要であると確信できたからなのだが、そう確信するにあたっては、フーコーの方法が参考になった。
 
 フーコーが『知の考古学』で書いたことは、主として三つある。
 第一にはアルケオロジー(考古学)という方法とはどういうものであるべきかということだ。土に埋もれた考古学ではなく、フーコーは知に埋もれた考古学の確立をめざした。まさに「知の考古学」である。第二にはこのアルケオロジーにはアルシーブの使い方というものがあるはずで、アルシーブの奥にひそむ無意識的にさえ見える構造を取り出すことが重要であるということだった。フーコーは考古学者がそうするように、知の断片や破片を集めて、あるべき姿を再生してみせた。そして第三に、知を「言説の編成体」としてつかみ、その知を取り出せるようにしておくということである。
 フーコーがフランス語で「アルシーブ」といっているのがアーカイブにあたる。資料集成体あるいは「知の貯蔵庫」というものだ。歴史の研究者たちは、当然なことに膨大あるいは特定の歴史資料にいつも当たっている。
 しかしフーコーに言わせると、その当たり方は歴史の起源や因果関係を調べ、そこにたった一つのオーダーを探すというような作業に陥っていることが多い。そうではなく、それらの資料を縦横無尽に動きまわり、その資料と資料のあいだに沈みこんでいた社会や文化の動向に無意識的ともいうべき構造を見いだせるようにすることが、フーコーの「知の考古学」にとっては最も重要なことなのである。
 つまりは知識や情報の「集め方」「分け方」「引き合わせ方」である。それなら、その単位をどうするか。

 フーコーは知あるいは知的情報資料の最小単位として「エノンセ」(énoncér)に注目した。エノンセは「言表=発言行為」などと訳されているが、その資料がもともとどこで語られどのように記録されたかという、資料が出現し定着したときの状況を含む単位のことである。資料のトポグラフィックでコンテクスチュアルな状況をそのつど部分的に刻んだものといってよい。
 このエノンセがいつも歴史の中から出入りして見えてくれば、情報はたんなる個別の資料ではなく、その背景にリンクとノードをもった「言説編成体」(フォルマシオン・ディスクルーシブ)の動的関連力をもった部分として生きてくるはずだった。このことが「知の編集工学」の大きなヒントになった。
 言説編成体などというと、おおげさな名称のように見えるが、言説を形づくり、それを収めるための様式性や模式性のことだとおもえばよい。たとえば、「免疫は非自己によって自己をつくる」という科学者の言説があったとする。どこかでこの文章を読んで気にいった者がこの文章を自分の話や著述に引用した。それを聞いていたり読んだりした者が、また別の文脈の中でその文章を使う。それがまた次の文脈に組みこまれる。こうして、一つのエノンセは次々に新たなエノンセをえて、場合によってはまったく異なる文脈のなかに入っていく。
 いま、新たな者がこの最後の文脈のなかの「免疫はときに非自己によって自己という内なるシンボルをつくる」と変化した文章を読んだとき、その背景をすべて知ることは不可能であろう。歴史のなかの知識や情報というものはほぼこのように「なってしまった状態」にあると見るべきなのである。では、どうすれば歴史の中から当時のエノンセの動向を取り出せるのか。

 編集の仕事では、先行する知識や情報や現象を相手にすることが多い。ただし先行しているものは世の中に数かぎりなく待っている。学問の中にも溜まっている。そのため、いくつものフィルターをつかって対象情報を粗選りしたり、イメージサークルを絞ったり(広げたり)、大小の分類をしたりする。
 このとき、既存の分類にもとづいていると、新たな展望に至らない。「集め方」と「分け方」そのものに攪拌センスが必要になる。編集力は分類の組みなおしにかかっているのである。
 こうして知識や情報がニューマッピングされ、束ねられていくのだが、ここで止めてはいけない。新しいマッピングによって、それまでは既存の分類函にいた知的情報が新たに隣りあわせになったり、向かいあわせになったりする。この「引きあわせ方」に注目することこそ重要な編集なのである。マラルメの骰子が振られ、カイヨワのナナメが動き、ときにヴィトゲンシュタインの言語ゲームが進行して、ベンヤミンのパサージュの取り合わせが変化する。
 フーコーはこれらの作業を歴史の中でやってのけ、エノンセの取り合わせに解読すべき意図を見いだした。こんなふうに書いている。「形成=編成の諸規則の考古学的分岐は、画一的に同時的な一つの網ではなく、時間について中性的なさまざまな関係・枝脈・派生が存在する」。中村雄二郎の難しすぎる翻訳だが、ここで「中性的な関係が派生する」というところが、すこぶる編集的なのである。
 
 フーコーが『知の考古学』を書いたのは一九六九年だった。四三歳である。もともとフーコーは医者の息子だった。そこそこ医療は好きだったようだが、師範学校時代にマルクス主義者のルイ・アルチュセールの指導を受けた。
 それもあって二四歳でフランス共産党に入党し、リール大学で心理学担当の助手をへて精神疾患の研究にとりくんでいた。それからスウェーデンに飛んでウプサラ大学、ポーランドのワルシャワ大学をへて、その間の思索研究の成果を『精神疾患とパーソナリティ』(一九五四 ちくま学芸文庫)、および『狂気の歴史』(一九六一 新潮社)に著した。
 これらの活動をしているあいだずっと、フーコーは「狂気」という独得のエノンセがまきちらした記録をいったいどのように歴史としてとらえたらいいのかという問題に直面していた。資料の中で「狂気」がいろいろな使われ方をしていたのだ。そこでフーコーは、狂気の記録は記録の狂気かどうかということをずっと考えた。

 三六歳のときジル・ドゥルーズと知りあい、その引きもあってクレルモン・フェラン大学の心理学教授となった。
 ここでフーコーはこれまでの視点をちょっと変えて、『レーモン・ルーセル』(一九六三 法政大学出版局)では一人の奔放だが屈折した文学者の複雑なテキストからそこにひそむ構造をさぐり、『言葉と物』(一九六六 新潮社)では古典主義時代の「知」の構造化を試みた。そこへチュニス大学に転籍する話が入ってきた。
 大学を移ったちょうどそのとき、パリのカルチェ・ラタンに火が噴いた。五月革命である。学生たちと警官隊は激突し、大学は次々に封鎖された。学生を支援することを決意したフーコーは、紛争後に外務省からチュニス大学を放逐され、ヴァンセンヌ大学の哲学科に転職する。『知の考古学』を著したのはその直後の時期にあたっている。フーコーは仕切り直すことにする。エノンセを歴史の中から取り出す方法の解発に向かった。そして知的情報の「中性的派生」に気がついたのである。
 
 おそらくはエイズが原因で一九八四年に五八歳で死んだフーコーの思想をふりかえってみると、いっさいの「自己の領分」を見出そうとしない思想を貫いたことがよくわかる。
 フーコーは主体というものの「外」に立ちたかった思想家だったのである。べつの言い方をすれば虚偽の主体や権威の主体の介入を認めたがらなかった。近代以降の社会を呪縛しているのは主体の過剰な根拠化にほかならないことを見抜いていたのだ。
 まとめていえば、人間というものはおおむね次のような主体化の軸に頼りがちになると考えた。
(1)医学や人文科学のなかでの人間の主体化(これは「真理との関係」で主体化を強化した)
(2)狂気や病気や犯罪を排除しようとしておこなわれる主体化(いわば「権力との関係」における主体化だ)
(3)性的な欲望を通して試みられる主体化(すなわち「道徳との関係」における主体化とみなせよう)
 これらはいずれも、何かに隷属的になりたがる主体性である。では、こういう従属的主体をどうしたら「生の様式」に引き戻せるか。それも「知」をつかって、どうするか。フーコーはそれには、従来のものではない「思考の場」のようなものが必要だと考えた。のちに「エピステーメー」(知の枠組)とよばれたもので、あえて図式的にいえば「コード化された知」と「つねに反映的な知」とのあいだにリミナルに、かつ多岐的に広がる「場」のようなものだ。フーコーはこのエピステーメーに向かって知を解放したかったのだが、意外にも手こずっていく。

 エピステーメー(epistēmē)という用語は、古代ギリシアではドクサ(臆見)に対して学知的に切り込んでいく認識力のことをさしていた。ラテン語ではスキエンティア(scientia)という。スキエンティアは「サイエンス」(science)の語源になる。
 だからもともとのエピステーメーは学知的認識力一般のこと、ときには科学知のことだったのだが、フーコーはここに新たな知的冒険を加え、時代や領域研究に「思考の場」(思考の台座)をもたらす相互連関性を発見していくことがエピステーメーの真骨頂だとみなしたのである。
 そうだとすると、これは科学知や哲学知が安易に共通させたがってきた「合理」(ratio)などに代わる動的な知の枠組なのである。マラルメの骰子やヴィトゲンシュタインの言語ゲームやベンヤミンのパサージュやカイヨワの対角線が動いても、なおそこに見出せるエピステーメーである。
 エピステーメーの枠組を確定する試みは、ついに『言葉と物』で実験された。「人文科学の考古学」というサブタイトルがつく。ぼくがいちばんおもしろがった著作であるが、一般には『知の考古学』とともにたいていの読者が面食らう錯綜感があるらしい。

 『言葉と物』で主として抽出されたのは、十六世紀のルネサンス後期のエピステーメー(ドン・キホーテの悲劇の問題)、十七世紀後半からの古典主義のエピステーメー(ベラスケスの表象の問題)、十八世紀以降の近代のエピステーメー(科学からサドにおよぶ問題)である。
 フーコーはこれらの時代に特有なエピステーメーから、「類似」(適合の類似、模倣の類似、対比の類似、共感の類似)、「タブロー」(情報が一覧できる表)、「標識」(外徴・概念・関係であらわされるもの)といった特質をたくみに取り出して、これらを今日的につなぐにはどうすればよいかを明らかにしてみせた。
 すばらしい手際だった。たしかに「類似」と「図表」と「標識」の三つが揃えば、たいていの情報は知の枠組に取りこめるし、そのなかでの動的な関連も示すことができるはずだ。
 ただ、ひとつ難点があった。それは、これらのエピステーメーが歴史的にも主題的にも不連続でありながら、メタレベルあるいは方法的には連続しているということを、さてどのように説明しきればよいかということだ。
 いいかえれば、それらの知はわれわれがリンクを付したから関連したのか、そもそもリンクしていたのかの区別がつきにくい。ぼくの見方でいえば、その相互にわたる編集方法のしくみが突きとめにくかったのである。
 しかしフーコーは『言葉と物』では、この方法論的な気づきを禁欲したままに叙述をおえた。ぼくにはこの禁欲こそがおもしろかったのであるが、世評は冷たかった。たとえば映画監督ゴダールは、「ぼくがフーコーを好きになれないのは、この時代は人はこのように考え、ある時期からはこのように考えるようになるといったことばかりを言うからだ」と揶揄してみせた。矜持が高いフーコーにとって、こうした批判は我慢がならなかったようだ。
 かくてフーコーはその「方法」の提案に取り組むことを決意する。それが「知の考古学」という方法なのである。
 
 「知の考古学」には、編集工学的な方法と重なるところがいくつもある。似ていないところもいくつもある。すでにのべたように、知の構造にアルシーブ(アーカイブ)を下敷きにしようとしているところは共通する。
 そもそもフーコーは大の図書館好きで、知の構造は図書館や文書館によってこそ象徴されるべきだという見方をもっていた。この点では編集工学はフーコーと完全に一致する。「言説編成体」という掴まえ方にも近いものがある。編集工学ではしばしば「エディトリアル・オーケストレーション」という言葉をつかってきた。その言説編成体を構成する単位をエノンセやディスコースに見るのも、大筋は共通点があるのだが、ここには少し違いもある。
 編集工学では言説というより「情報」という掴まえ方をする。情報はむろん言説も含むけれど、そこには宇宙の熱力学的情報も自然の生態的情報も入ってくるし、仕草も調度の置きかたもメロディやリズムも入っている。しかも、その情報を認知しようとするときの手続きや道具性(さらに知に対するアフォーダンス)も知の構造の範囲に入る。そのほか、あれこれの見方の違いがあるのだが、それをこえて『知の考古学』こそはぼくに勇気をもたらした一冊だった。それは、一言でいえば「方法は思想である」ということ、そのことを声高らかに言ってもいいのだという勇気である。
 しかし、ぼくは「方法は思想である」を、フーコーに沿ってつくりはしなかった。ぼくはヨーロッパ人ではなく日本人であり、そうであるがゆえにフーコーの提案している方法があからさまな「ヨーロッパという方法」であることがよく見えた。ぼくはこれに対してあくまで「日本という方法」を思索したかった。
 
 フーコーの「知」は一から十までがヨーロッパの知で埋め尽くされている。フーコーはその知を「ヨーロッパという方法」としての知に変えようとした。その試みの大半は、その後のフーコー・ブームを見ればわかるように、大きな影響力をもった。
 実は「遊」第Ⅱ期を編集していたころに、さかんに「松岡さんの考え方はかなりフーコーに似ている。けれど、どこかが違う。その違いがうまく説明できない」と、各方面から言われていたことがあった。一番にそのことを言ってきたのは山口昌男さんと中村雄二郎さんだった。しかし、当時のぼくはフーコーをそれほど熱心に読もうとはしていなかった。それというのも、たいした理由ではないのだが、当時は「エピステーメー」という雑誌が登場してきて、それを「遊」と同じく杉浦康平がデザインをしていたのだが(「遊」は表紙まわりだけが杉浦さんだったが、「エピステーメー」は全面的に杉浦アトリエがデザインをしていた)、このような場面ではエピステーメー議論の本拠地であるフーコーやその周辺に、すぐ浮気をするわけにはいかなかったのである。
 もっとも、「遊」と「エピステーメー」がいつまでも対立構造のなかにあるのもつまらないと思って、あるとき二誌の合同編集号をつくって、表1から読むと「遊」、表4から読むと「エピステーメー」になるような、〝遊ピステーメー〟を編集制作してみようよと提案してみたのだが、杉浦さんはすぐに賛成したけれど、「エピステーメー」の中野幹隆君はまったく靡いてこなかった。
 そういう事情はともかくとして、その後、フーコーを読むようになったことと、ぼくが日本の歴史思想や芸術文化に深く分け入ることが一緒の時期になり、少しずつフーコーの方法とぼくの方法との違いが見えてきた。それはヨーロッパの歴史思想と日本の文化趣向の違いから来ていた。
 ヨーロッパは「神」と「理性」の確立を通して、すべての合理と不合理の知を渉猟してきた巨大な領域である。フーコーはそういうヨーロッパの歴史観を、新たな「方法」によって批判したかった。それに対して、知の構築をしそこねてきた日本にそのままフーコーの方法をあてはめられるかどうか。「遊」をつくりながら、ぼくはそのへんのことを模索していた。

 ふりかえって日本は古代から近世にいたるまで、「神」や「理性」を合理として確立してこなかった。神と仏は早くから神仏習合していたし、絶対王権は持続的に確立しない。自然科学や数学的な方法も開発してこなかった。日本は「知」を意識しないか、あるいは「知」を意識できないままに過ごしてきたのである。
 けれども、フーコーの言う「類似」や「図表」や「標識」については、それをこそ文化の方法として磨いてきた。エノンセも自在につかってきた。和歌や連歌での、枕詞、縁語、見立て、本歌取り、付句、去嫌い、歌合わせは、エノンセの継続的再編成そのものだ。そうだとすると、日本には、知の歴史の編集や脱構築のためにフーコーの方法がそのまま適用されるのではなく、日本そのものの方法、すなわち「日本という方法」をフーコー的に掬いとることのほうがよさそうなのである。ぼくは「遊」を編集しながら、「呼吸+歌謡曲」「タオ+北斗七星」「仏教する」「日本する」などでそんな試みのほうに向かっていった。
 いま、『知の考古学』を読んだころのことを思い出してみると、フーコーからヨーロッパを差っ引いて読もうとしていた自分が思い出される。
 
 ぼくがパリのフーコーの家を訪れたのは一九七八年のことである。スキンヘッドのフーコーは白いとっくりのセーターを着ていた。精悍で、笑顔がめちゃくちゃ魅力的だった。ただし通訳を頼んだS君のフランス語ではぼくの考え方がほとんど通じなかったため、当初予定していたインタビューはあきらめ、われわれは雑談に興じた。
 やがてフーコーはぼくを誘ってどこかへ遊びに行こうと言い出した。ぼくがどうしようかとまごまごしていると、フーコーは「みんな一緒なんだよ」と言って、別室に声をかけた。このとき記憶にまちがいがなければ別室から出てきた男ばかり数人のうちに、かの『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(集英社)のエルヴェ・ギベールが交じっていた。浅黒い褐色の男もいた。
 それで、威勢よくみんなで出掛けようということになったのだが、S君がその勢いに押されたのか、ヤバイと感じたのか、時間がないと言い出した。S君がいなければ雑談もできないぼくは、これで諦めた。もし、あのまま遊びに行っていたら、どうなっていたか。そこは当然にゲイの溜まり場のようなところだろうし、そこで何がおこっていてもおかしくなかっただろうから、ぼくのその後はどうなっていたかはわからない。

 この話をすると、みんながみんな「へえ、そうだったんですか。それは危なかったですね」と言う。そうなのかもしれない。しかしその一方で、このような局面がありうるという立場によって、すなわち「男たちの真の友情」とはどのようなものなのかという立場によってフーコーを見ることも、ますます重要になっているようにも思われた。
 フーコーは多くの男たちと「真の友情」を結んだのだったろう。たとえば教員試験仲間のジャン゠ポール・アロン、作曲家のジャン・バラケ、映画作家のエリック゠ミハエル・ニルソン、そしてロラン・バルトとも愛しあい、別れた。そのなかで若いエルヴェ・ギベールは、フーコーのそうした「真の友情」がときにそうとう乱れたものになっていたことを暴きもした。しかし、フーコーのそうしたゲイの日々はいまこそ読み替えられるべきである。
 フーコーの最後の大きな著作は『性の歴史』三部作(新潮社)となった。そこでは、一言でいえば「自己からの離脱」が謳われている。その三部作が綴られている最中の一九八〇年、ロラン・バルトが自動車事故で死に、師のルイ・アルチュセールが妻を絞殺して精神科病院に収容された。フーコーはそれらのことについても、自身のゲイの日々のことについても、なんら詳しいことを書かなかったけれど、四年後の死の直前に綴った『自己への配慮』(『性の歴史』Ⅲ)を読むと、そこからは深々と男のフラジリティともいうべきものが伝わってくる。
 最後に加えておきたいことがある。フーコーは自分の仕事のすべては「知の道具箱」をつくることだったと言っていたということだ。その道具を、みんなで使ってくれればそれでいいんだと思っていたということだ。そういうミシェル・フーコーがいまとなっては格別にいとおしい。せめてアーカイブ(アルシーブ)を継ぐばかりである。