才事記

コルシア書店の仲間たち

須賀敦子

文芸春秋 1992

 舞台はミラノの小さな書店。コルシア・デイ・セルヴィ書店。サン・カルロ教会の物置を改造した小さな書店だ。そこは書店でもあったが、「聖と俗の垣根をとりはらおうとする新しい神学」の流れを受けつぐ共同体でもあった。須賀敦子をそこに連れていったのはローマ留学中に出会ったダヴィデ・マリア・トゥロルドという神父である。彼女は何も知らずに、書店に案内される。
 小柄な老女ツィア・テレーサがいた。イタリアで最も大きなタイヤ会社の経営者一族の出身で、未婚だった。そして、このカトリック左派ともいうべき神学運動共同体のパトロンでもあった。けれども、小柄なテレーサには「大きな人類愛」のようなものはあったようだが、この書店のもっているイデオロギーには関心がないらしい。やがてテレーサの2人の姪に会う。ニニはマジョーレ湖畔に領地をもつ夫を亡くした貴婦人、エレナは夫が会社重役で、7人の子供をかかえながらボランティア活動ばかりしている。
 ジョヴァンニはよく出自がわからない男で、噂ではレジスタンス時代の手紙をこつこつまとめた編集者らしい。フェデリーチ夫人は出資者の一人であるようだが、やはり何が目的で動いているのかは見えてこない。そのほか、カトリック司祭、弁護士、新聞記者、高校教師、ワルド派の牧師、ユダヤ教のラビ、学生たちも訪れてきた。そんな人々が何かの約束を守るかのように、この書店にうごめいていた。
 
 お互いが正体を説明しない動きのなかにいた。ダヴィデ神父がなかでもわかりにくかった。体躯もギリシア古典劇の英雄のように巨きくて、スクロォショという水が堰を切ったように流れる音をあらわすイタリア語の表現があるが、笑うと声がそのスクロォショのようになる。司祭でありながら詩人でもあって、イタリアではけっこう名が知られているという噂だが、政治運動の何かのカギを握っているようにも見える。
 カトリック左派の思想の淵源は13世紀のアッシジのフランチェスコまでさかのぼる。精神主義をそのままでおわらせずに現実の生活や社会に組み入れようというもので、1930年代のフランスで最高潮に達した。モーリアック、ベルナノス、エマニュエル・ムニエはその先導者たちであり、失意のキリストを描いたルオーもその一派だった。ダヴィデ神父はそれらの統括をしているようでいて、どうもそうでもなかった。須賀敦子が仲間の一人のペッピーノと婚約するというので周囲がびっくりしていたころには、ダヴィデは書店にはあまり足を運ばなくなってもいた。
 が、それに代わって、書店にはふらふらと新たな人物が訪れる。著者はその跡形のようなものを追うともなく追っていく。それが書店に来る人々がときどきひらくサロンでの出来事になっていく。たとえば銀行家のアンジェリーニ。モダンで広壮なアパートメントに住んでいて、あれこれの文化にやたらに造詣がある。その広間で著者はキリスト教民主党に近い経済学者や社会主義者の歴史家や歌手のジーノ・ネグリに出会う。たとえば弁護士のカッツァニーガ。彼の客間にはたくさん絵がかけられている。とくにジュルジョ・モランディの絵が目立っていた。
 フェデリーチ夫人のサロンは彼女がもっている4階建ての館の一角の、召し使いのサンティーナが飴色に磨きあげたフロアの上でひらかれる。みんな静かな声で淡々と話す会話は、しかしトーマス・マン(316夜)のことにさしかかるとちょっと熱を帯びる。若いステファノ・ミノーニだけは現代詩のことをしゃべるけれど、みんなは彼がもともとは化学の専攻だったことを知っていたので、その香気がふいに洩れるのを耳をすまして聞いている。こんな調子で古きミラノの熱い日々が織物の模様のように綴られていくのである。そんななか、著者の夫が死んでしまう。けれどもそのことを綴るペンは、ミラノでおこるいつもの出来事のひとつのようにけっして多くの文字を使わない。

 須賀敦子は『ミラノ 霧の風景』(白水社)を出したとき61歳になっていた。それまでに彼女が呼吸してきた瑞々しいガイコク感覚は、べつだん本を出さなくたって存分に周囲に放射されていたのだが、この一冊によってわれわれも須賀敦子の呼吸の奥にある言葉による再生感覚を知ることができ、彼女も翌年からたてつづけにその才能を本にする機会に恵まれた。
 そういう女性はいろいろなところにいるものだ。彼女たちは、すばらしい人生をおくりながらも一冊の本も書かないことが多いけれど、たいていはある領域の文化をみごとに動かしている。そういう女性がいなければ、その界隈の文化の花は咲かなかったであろうような、そんな役割を思わず知らず担っている女性たちである。ぼくはなぜか、そういう女性によく出会う。須賀敦子もそのような一人だった。
 阪神文化に育ち、聖心女子大から慶應大学院に進んだ須賀は1753年にパリに留学、5年後にはイタリアへ再留学したのちミラノに入った。31歳のころである。それから10年以上にわたってのミラノ暮らしがはじまる。そしてミラノの都心にある一軒の不思議な書店にまぎれこむ。本書は、そういう須賀が63歳のときに懐かしくも香ばしいミラノの日々を回想して綴った珠玉の一作だ。
 須賀は本書の最後にこう書いている。「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた」。そして、こう結んでいる。「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」と。

[追記]須賀敦子は1960年にジュセッペ・リッカ(みんなペッピーノと称んでいた)と結ばれて、ミラノに棲みはじめたのだが、7年後に死別した。コルシア書店に勤めたのは6年ほどだ。日本に戻ってからカルヴィーノ、タブッキ、サバなどを訳し、いくつかの大学でイタリア語を教えた。2014年、須賀敦子翻訳賞が設けられた。