ホメーロス
オデュッセイアー
岩波文庫 1971
ISBN:4861810345
Homeros
Odysseia 紀元前9世紀前後?
[訳]呉茂一

 挿話1。およそ35年ほど前のことになるが、倉橋由美子さんを訪ねて高校生に読ませたい1冊を選んでもらいにいったとき、即座に、「それなら、やっぱりホメロスね」と言われたことが、いまなお耳の奥に残っている。ホメーロスではなくて、ホメロスだった。
 高校生のための解説原稿を書く必要もあって、慌てて読んだ。呉茂一・高津春繁訳の筑摩版世界古典文学全集だったのがよかったのか、初めてギリシア神話の流れにすうっと入っていけた。
 訳がよかったというのは、ここに採り上げた文庫版も同じく呉茂一の訳ではあるのだが、たとえば冒頭、「さればこの両人を闘争へと抗(あらが)いあわせたのはおん神か、レートとゼウスの神」となっているところ、筑摩版では「だが、いったい、神々のうちのどのかたが、この二人を向かいあわせて闘わせたのか。レートとゼウスの御子のアポロンである」というふうになっていて、なんとか筋が追えるようになっている。
 ホメーロスの叙事詩は、ギリシア神話の長短短律の六脚韻による「綴合」(てんごう)というものが命であるのだが、それを忠実に反映した邦訳は、初めて読む者には辛すぎる。やはり、最初は物語が掴めなくては話にならず、とはいえ意訳や翻案や抄訳では、そこに語り部ホメーロスがいなくなる。ぼくとしては、まあまあの出発だったのだ。「やっぱりホメロスね」は本当だった。

 挿話2。しばらくして、スタンリー・キューブリック(814夜)の『2001年宇宙の旅』の原題が“Space Odyssey”であることから(91夜)、ボーマン船長の宿命とオデュッセウスの帰還が重なって脳裏にこびりつくようになった。
 オデッセイとはギリシア語のオデュッセイアーの英語読みで、「オデュッセウスの、歌物語」のことである。
 それにしても、なぜ、キューブリックはオデュッセウスの歌物語を宇宙に運んだのか。それがなぜ、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』なのか。なぜ乗組員は行方知れずになって、ボーマン船長はまるで胎内回帰をするように幼児となり、かつ、老いた翁になったのか。
 謎も興味もつきなかったのだが、この相手はでかすぎた。どうもギリシア・ローマ・ヨーロッパの全知に関係がありそうなのだ。ちなみにこのころは、マリオ・カメリーニの『ユリシーズ』を捜し出して、カーク・ダグラス主演の映画を何度も見たものだ。
 余計なことだが、ごく最近公開されたヴォルフガング・ペーターゼンの『トロイ』では、ブラッド・ピットはアキレウスではなくて、オデュッセウスに扮するべきだった(プリアモスがピーター・オトゥールなのは、よかったけれど)。

 挿話3。それからまた10年ほどたったころ、ぼくはギリシア・ローマ神話の全貌に単身で立ち向かっていて、汗びっしょりで悪戦苦闘していた。模造紙一枚ぶんに黒赤青の細かい字で神話構造図をつくっていたのだ。オリュンポスの神々とティターン一族をめぐるノートは3冊くらいになっていたろうか。
 ぼくには、たえずこういう癖がある。『神曲』(913夜)も、『南総里見八犬伝』(998夜)も、『大菩薩峠』(688夜)も、ある時点にくるとたいてい図解したくなる。いや大作ばかりではない。ユダヤ教の歴史や「あはれ」の用例や地唄の変遷も図解する。そういう図解はしだいに溜まっていって、あるときそれらをしだいに付き合わせていくのが楽しみになっていく。
 しかしこのときは、ギリシア・ローマ神話全体に対する興味だったので、オデュッセウスの物語は浮き上がってはこなかった。

 挿話4。こうしてややあって、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に魅せられたとき、ついにオデュッセウスの物語構造を詳細に見ることになった。
 いまさらいうまでもないだろうが、ギリシア名オデュッセウスは、ラテン名がウリクセース(Ulixes)、英名・仏名・独名がユリシーズ(Ulysses)である。ロンドンに行ったとき、白地に“ULYSSES”と大書した大型車が走っていたのを見たことがあるが、引っ越し屋であった。なるほど、オデュッセウスの物語がもつひとつの本質である“移動”に肖(あやか)ったのであろう。
 ジョイスはとんでもないことを考えた。オデュッセウスを二人の人物に複相させて、同時にダブリンの町に出現させた。22歳の作家志望のスティーブン・ディーダラスと38歳のユダヤ人のレオポルド・ブルームである。二人はそれぞれオデュッセウス(=ユリシーズ)の顔をもっていて、6月16日のダブリンの町を動きまわる。ジョイスはオデュッセウスの物語を、たった一日に凝縮してみせた。
 おまけに『ユリシーズ』の章立ては、①テレマコス、②ネストルに始まって、③プロテウス、④カリュプソ、⑦アイオロス、⑪セイレーン、⑫キュクロプス、⑮キルケ、⑯エウマイオス、⑰イタケというふうに、順番こそ適当に入れ替えているが、まさに『オデュッセイアー』の物語の登場人物や出来事とそっくり照応されている。
 これは読めば読むほど、考えれば考えるほどに、病気になりそうな、一世一代前代未聞のオデュッセウスの読み替えなのである。

 しかしながら、このディーダラスとブルームという双頭の二人が、さてどこまでホメーロスの叙事詩を追想しているのか、それを感じ取るには、ジョイスはあまりに実験的で、ぼくからは、その、きっと符合や符牒がわかればぞくぞくとするであろうアクロバティックな対応が半分しか、いや3分の1くらいしか、見えてはこなかった。
 T・S・エリオットによると、『ユリシーズ』は細部になればなるほど『オデュッセイアー』との平行的対応を克明に再生させているというのだが、そこがもうひとつ掴めない。しかも正しくもエリオットは、『ユリシーズ』は「古いから凄い」と言っているだけに、これはいかにも悔しいことだった。
 秋成の奥に中国の白話や西行伝説を読み(447夜)、馬琴の奥に日本神話や中世伝説を読むというのなら(998夜)、これはまだしも日本語の観念連合性をもって深められないことはない。それがホメーロスとジョイスとなると、お手上げなのだ。これはジョイスはジョイスとして楽しみ、それとは別に『イーリアス』や『オデュッセイアー』を啄んでいくしかないと思った。

 挿話5。やがてぼくは日本文化に対する関心を深めていくのだが、それでもギリシア・ローマ・ルネサンスをどう見るかというのが、日本文化を解読するうえでの、つねに鏡像の過程になっていた(911夜)。
 そこで導きの糸となったのが、ひとつは西脇順三郎(784夜)が寄せたギリシア精神の表象の仕方と、もうひとつが晩年の呉茂一を囲んでつくられた季刊誌「饗宴」に集った高橋睦郎さん(344夜)や多田智満子さんの、ギリシア神話に寄せた日本語の実験だったのである。
 なにしろ高橋さんは22歳のときの処女詩集がミノタウロス幻想をめぐる『ミノ・あたしの雄牛』であり、多田さんには思索詩ともいうべき『オデュッセイアあるいは不在について』の連作がある。
 ぼくはこれらの詩作に助けられ、そうか、なるほど、日本語による思考にもホメーロスの六脚韻の秘密を嗅ぐことができる余地と隙間が穿たれているのか、という展望をもったものだった。

 こうして、挿話を5つほど集めれば、ぼくのささやかなオデュッセウス探検が東西をまたいで始まったということになるのだが、やはりのこと、この方面だけでも、入っていけばいくほど途方もない世界が待っていたわけで、いまだに、その2、3丁目をうろうろしているとしか思えない。
 そもそもギリシア・ローマ神話が広すぎるし、そこには幾重にもわたる知の複雑骨折が何層多岐にもおよぶ意表をつくっていて、しかも、これが一番厄介なのだが、神名やその事跡に出会うたび、そこから猛烈な勢いでギリシア語やラテン語やその後の英仏独語が放射状に発散し、その言葉のひとつずつが全欧文化史のありとあらゆる場面に突き刺さって、そこに独自の「概念の森」の変更が何段にもギアチェンジされていることが多すぎるのだ。
 そのプロセスにつきあわされるだけでも、目が眩む。いくらメモをとろうとも、まにあわない。
 そんなわけだから、ここはやっぱり倉橋さんが言ったように、高校生くらいのときにホメーロスを読んで、その香りと味に幼く接しておくような、そういう付き合いをしておくべきだったのだ。
 が、いまさらそんなことを言っても詮ないことで、ぼくはあいかわらずキューブリックやジョイスや高橋睦郎の勇敢を思い出しながら、オデュッセウスの旅を見る。

 さて、今夜は、ぼくにとっての「千夜千冊」終着の前夜でもある。オデュッセウスの航海とは較べるべくもないが、航海を終える者には、航海者のみが整えなければならない身支度というものもある。
 よくぞここまで無謀なことを、4年をかけて航行してきたものだとおもう。今夜にかぎってはまだ何の感慨もないけれど、それでも、あと2夜を過ぎると、そこがどこかの波止場か船着場なのだろうという程度の、なんだか見知らぬところへ来てしまったような、懐かしいところへ戻っていくのだろうなというような、そんな予感も騒ぐ。
 エリック・ホッファー(840夜)ではないが、波止場にこそ日録は残されるべきものなのだ。
 そこで、ぼくとして多少はそんな気分で、ホメーロスとその記録された叙事詩の周辺を見つめ、いくぶんは心を鎮めていきたいと、これらの電子文字をポツポツ打ち始めたのであった。
 ともかくも、ホメーロスのことから語ってみよう。なんといってもホメーロスこそは、「千夜千冊」が採り上げてきた999冊のなかで、最も古い
“著者” なのである。

 プラトン(799夜)は、「ギリシアを教育したのはホメーロスだった」と書いた。おそらく、ある時期のギリシア人にとっては『イーリアス』と『オデュッセイアー』が“聖書” だったのである。
 実際にも、ギリシア人がホメーロスを「ヘラスの教師」と呼んでいたことは、歴史学が証かした。ヘラスとは当時のギリシア人が母国のことをさしていた言葉で、自分たちのことはヘレネスだった。ギリシアという国名の語源にあたるグラエキー(Graeci)は、のちにローマ人が名付けた名称である。われわれも日本のことをJapan などとは呼んでいなかった。
 そのヘレネスたちは、ホメーロスをトロイア戦争から400年ほどあとの詩人だと考えていた。かれらはトロイア戦争をおよそ紀元前12世紀(前1159年ころ)の出来事とみなしていたから、そうであるとするとホメーロスの生存時期は前750年くらいになるのだが、最近の研究では前800年前後の人物だったということになっている。モーセよりは2~300年後であるが、ゾロアスターや老子・孔子やブッダよりも、2~300年前になる。

 プラトンの言葉は、ホメーロスがギリシア人でなかったことも告げている。これもいまだに確証がないことだが、おそらくは小アジアかイオニアか、エーゲ海に浮かぶ島の住人だったのであろう。
 ヘレネスたちはホメーロスという詩人がどういう人物であったかは知らなかった。そして、われわれもまたかれらと同様、ホメーロスについて、何も知ってはいない。ホメーロスとは男の名だった、それだけがホメーロスをめぐるたったひとつの確実な情報なのだ。
 いまだ『イーリアス』と『オデュッセイアー』が、ひょっとしたら別々の人物によって書き残された叙事詩であるかもしれないことも、否定はされてはいない。
 しかし、ホメーロスが吟誦詩人であったろうこと、その叙事詩がギリシア語で書かれた最古のものであること、それは“著書” であったこと、この三つが最も重要なことで、それだけで十分なのである。

 古代ギリシアでは、語り部のことをラプソードスといっていた。叙事詩吟誦者である。いまではラプソディなどというが、その語源にあたる。ラプソードスはルールをもっていた。記憶術と表現術のルールである。
 ホメーロスも吟誦詩人ラプソードスのルールをもっていた。たとえば「夜明け」はつねに「朝まだきに生まれる、薔薇色の指をした暁の女神が姿をあらわす」と形容されたのだし、「海」は「葡萄摘みができないところ」という詩句を伴ってしかあらわれない。女神アテナは「梟の目をした」であり、イタカの島は「海に囲まれた」と決まっていて、アキレウスは必ず「都市を攻めるアキレウス」なのである。
 これらは定型句(formula)であって、いわば枕詞や縁語のようなものでもあろうが、枕詞や縁語と決定的にちがうところは、たとえば「都市を攻めるアキレウス」は36もの異なるエピテトン(装飾的形容詞)があって、そのうちのどれを使うかが、行のなかの位置、そこで必要とされた統語法の形態で決まったということだ。
 『イーリアス』の冒頭の25行だけでも、20以上の定型表現の断片が駆使されている。

 だいたい『イーリアス』も『オデュッセイアー』も、詩の全体の3分の1が、2度以上用いられた詩行でできているのである。
 これはあきらかに、「記憶と表現のための鋳型」というものだ。この鋳型があれば、それをどのようにも組み合わせて、表現したい物語を作ることもできたし、再生することもできた。そして、そこには有効な繰り返しがあらわれた。
 ふつう、繰り返しの多い詩というものは、近代に向かうにしたがって蔑まれる傾向にある。陳腐だというふうに思われる。そのため16世紀になると、繰り返しをあまり用いなかったウェルギリウスのほうがホメーロスよりずっと上位の詩人だと評価されたものだった。
 しかし、本当はそうではなかったのだ。ホメーロスには鋳型と定型句こそが斬新だった。それは英雄詩を歌うには、そしてそれを創発させるには、どうしても必要な編集装置だったのである。

 吟誦詩人たちは、すべての詩句を丸暗記していて叙事詩を歌うのではない。その場で即興を交える。
 有名な話だが、1943年のこと、ミルマン・バリーの要望に応じて、セルビアの吟誦詩人が『オデュッセイアー』と同じほどの長さの詩を朗唱したことがある。この読み書きができない老人は、朗唱しながら、その場でみごとなストーリーをつくり、それでいて韻律と形式をほとんどはずさずに、それを叙事詩に仕上げた。マクルーハンも、このバリーの実験と研究を借りて『グーテンベルクの銀河系』を書いたものだった(70夜)。
 繰り返しや定型句は、その場の聴衆にとっても必要なのである。繰り返しや定型句をもたない語りなど、聴衆にはとうてい理解は不可能だったのだ。これはわかりやすくいうのなら、ヒットソングや歌舞伎や落語をおもしろがれる要素がそういうところでこそ支えられていることを思い合わせれば、いいだろう。テレビで大当たりするお笑い芸がほとんど繰り返しによってヒットしていることでも、想像がつく。
 しかし古代ギリシア時代では、そしてその後の中世の遍歴詩人のころまでは(970夜)、すべての吟誦は実はその一方で、すぐれて即興的であって、かつそこには、言葉の組み合わせと朗唱のルールの深化が積み重ねられていた。

 『オデュッセイアー』にも、吟誦詩人ヘミオスが「わたくしの歌は独りで憶えたもので、神がわたくしの心にあらゆる種類の歌の道を植え付けてくださった」という一節がある。
 また、パイアケス国王アルキノスの宮廷に、デモドコスというラプソードス(語り部)がいたことも語られている。
 その場面でオデュッセウスは、トロイア戦争の物語を語ったうえで、デモドコスに、「そなたに歌を教えたのはゼウスの娘なるムーサ(詩の女神)か、それともアポロンか」と言って、なぜ私がこんなことを訊くかというと、あまりにそなたがアカイア人の運命をみごとに歌うからだと言っている。
 そういう時代が紀元前9世紀には一種の絶頂を迎えていたこと、また、そのような記憶術や表現術のことを、叙事詩のなかに読み入れたホメーロスがいたということに、驚かざるをえない。
 わが国の例でいうのなら、いわば太安万侶が万葉仮名表記の苦心を、あのときより約1000年さかのぼって書きこんだということなのだ。

 ホメーロスがこのような表現の奇蹟をおこせた最大の理由は、そこにアルファベットが出現していたからである。
 ミュケナイ文明時代、ギリシアとカナンを結ぶ1300キロの海は交易上でつながっていた。エジプト、クレタ、ヒッタイト、アッシリアは情報交換をしていた。ついで「海の民」があらわれると、この交易はいったん衰退し、代わってカナン人がフェニキア人と名を変えてアルファベットの母型文字の一種を使い始めた。
 それがギリシア人の口と目と手によってほぼ移植されおわったころに、ホメーロスがそのアルファベットを使って、それまで口承されてきた物語を文字に移し替えることを思いついたのである。
 なんらの証拠もなく、ぼくはホメーロスは盲人であると思っているのだが、盲人だとすると(そうでなくとも)、この移し替えの作業は誰かの手を借りたことになる。
 きっとホメーロスは「ホメーロス語り部集団」のようなものをもっていたにちがいない。そして、その集団のなかで、ホメーロスが吟誦詩人から著作者に転出していったのである。そう、想像したほうが、いいだろう。こうしてホメーロスは、神話朗唱の職能性とアルファベットという書き文字能力をもった、世界最初の著作者となったのである。
 このとき、六歩格と、13から17音節からなる六脚韻による1行ルールが確立し(そのホメーロス集団のなかで)、おそらくは「アガメムノンとアキレウスの諍い」とか「オデュッセウスとキュクロプス」とかといった単位の物語クラスターが、ひとつずつゆっくりと、並列的に定着していったのだろうと思われる

 すでに、ウォルター・オングの画期的な一書『声の文化と文字の文化』(666夜)のところに、ふれておいたことがある。
 それは、「声としての言葉」(オラリティ)というものは、書くことによって生じる「文字としての言葉」(リテラシー)によって、退けられるのではなく、むしろ書くことによってその価値を高めるということだ。口と耳と目とはつながっていた。
 それだけでなく、文字をもって書くということは、その言葉を時間と空間のなかに配置することなのだ。そういうことをせずに、どうして世界に叙事詩や物語が類型をもって発生し、それらがその民族やその地域やその信仰にもとづいた神話世界に温かく包まれたであろう。
 まさにそうであったからこそ、ジェームス・フレーザーは『金枝篇』を書き、本居宣長(992夜)は『古事記伝』を書いて、そこに向かってさかのぼることができたのだ。
 古代ギリシアにおいては、これをおこしたのがホメーロスだったのである。そして、それを20世紀において大胆不敵に再現してみせたのが、口と耳と目をつねにつなげて『ユリシーズ』を仕上げたジェイムズ・ジョイスだったのだ。

 こういうことを、われわれはついつい「文学」という用語でよびすぎる。これは文学的な事件なのではなかったのだ。
 それに、これを「文学」という呼称でまとめたくなったとしても、その “literature”という言葉は、まさにアルファベット文字を意味する“litera”に由来するもので、まさにホメーロスはその“litera” が声や場面や勇気を再生させることに夢中になったというべきだったのである。
 いや、もっというなら、これまで使ってきた口承文芸とか吟誦詩人という用語すら、ホメーロスにあてはめるべきではなかった。ノースロップ・フライが『批評の解剖』のなかで、「エポス」という用語を提唱していたことがあったけれど、まだしもそのほうがいい。エポスはラテン語の“vox” (声)や英語の“voice”のように、まさに「声に出されたもの」(voicing)だったのだ。

 こうして、ホメーロスの叙事詩は、実は詩ですらなくて、オラリティが組み立てた「言葉の生態経済」による世界最初の音と文字と意味を連動させたリテラシーの開闢だったのである。
 そう思えばこれでやっと、ラプソードスの本来の意味も浮かび上がってくる。
 ラプソードスは「ラプソーデイン」(rhapsoidein 歌の綴合)をする者、すなわち「歌」(oide)を「縫い綴じる=綴合」(rhaptein)することができる者という意味だった。ホメーロスはその職人集団のリーダーだったのである。
 このとき、アルファベットが役立った。セム人がつくった最初のアルファベットは、子音文字といくつかの半母音文字でできていたのだが、ギリシア人はそこに母音文字を導入することで、オラリティとして頭の中に響いていた「縫い綴じ」のルールを、視覚的に文字に定着することができ、それをまた頭の中の響きと場面の再生に戻すことができるようになったのだ。
 かくてホメーロスはオデュッセウスの物語の定着を試みる。それは文学ではなく、ホメーロスには一人一人の顔さえ浮かぶ特定の聴衆のための物語だった。

 もはや、「オデュッセウスの、歌物語」としての『オデュッセイアー』がどのようなものであったのかを、あらためて話す必要もないように思われる。
 しかし、「それなら、やはりホメロスね」ということもある。物語のおおざっぱなことくらいは、伝えておいたほうがいいのだろう。そのかわり、ここから先はぼくの勝手な解釈も少々まじっていく。

 この物語は大きく前半部と後半部に分かれている。前半部が大部の『イーリアス』となり、後半部は半分くらいのその『オデュッセイアー』になった。『イーリアス』とは「イリオス(トロイアの古名)の歌物語」という意味である。
 ところが、ホメーロスはこの物語を順番には語らなかった。いろいろ組み替えて、語り部としての挿話や想起を交え、長きにわたる物語をわずか40日間ほどの出来事に濃縮さえしてみせたのだ。おそらくその技法の冴えこそが、ジョイスをして『ユリシーズ』を書かせたのだろうとおもうのだが、ただ、それではギリシア神話のなかのオデュッセウスはつながらない。『イーリアス』と『オデュッセイアー』のあいだにも、中断がある。
 そこでごくおおざっぱではあるが、オデュッセウスはこんな経験をした者だったということを、以下に綴合(てんごう)しておくことにする。

 まず、出自を問うておくべきだろうから、そこから入っていくが、オデュッセウスの父親は、はっきりしない。
 『イーリアス』では、イタケの王ラエルテスと、ヘルメスの孫娘でアウトリュコスの娘であるアンティクレアとのあいだに生まれた息子ということになっているものの、アンティクレアは結婚当時、すでにシシュポスとのあいだに子を宿していたという別の記録がある。このことはオデュッセウスの出生に謎をつきまとわせる。
 オデュッセウスの名前の由来も忌まわしい。乳母のエウリュクレイアが生後まだ2、3日の赤子を膝に抱いていたとき、義父アウトリュコスがそこにやってきて、むりやり付けた名がオデュッセウスだというのだが、それは「憎しみの犠牲になる」という意味だった。ギリシア語のオデュッセスタイは「嫌う」とか「腹をたてる」をあらわしている。さしずめ「悪太郎」といったところだろうか
 もうひとつ、オデュッセウスに与えられた「負号」がある。それも先に知っておいたほうがいい。膝もしくは太股にある傷である。アウトリュコスに唆されて、その山荘があるパルナッソス山に出向いたとき、猪の牙に抉(えぐ)られた。
 いわばスティグマ(聖痕)であるけれど、まだそういうものをカサにきて信仰を押し付けたり広めたりするような時代文化はなかった。

 オデュッセウスの青春はそうした「負」を背負っていながら、それをつねに遠国への冒険と故郷への帰還で埋めていくというかっこうをとる
 その旅でヘラクレスの弓を持ち帰り、トロイア戦争の英雄となり、キルケやカリュプソの愛をほしいままにしたのである。しばらく物語を追うことにする。

 父王ラエルテスが老齢となり、オデュッセウスは王位を譲られる。オデュッセウスも妻を求めなければならない年頃になった。
 オデュッセウスはかねがねスパルタ王イカリオスの娘ヘレネーの美貌にぞっこんだったので、結婚を申し込み、ついでに彼女の求婚者全員にヘレネーをめぐる相互扶助の誓いをたてさせた(これについてはあとでも説明する)。ところがヘレネーはオデュッセウスを選ばない。オデュッセウスはペネロペ(ペネロペイア)を妻とし、一人息子のテレマコスをもうけた。
 ジョイスの『ユリシーズ』は、この“テレマコス風味”から始まって、 “ペネロペ仕上げ”で終わっている。
 トロイア戦争が始まった。けれども出征の要請をうけたオデュッセウスは故郷のイタケを離れない。狂気を装って、砂を耕して塩を撒いた。これを見抜いたのはトロイア遠征隊の一人のパラメデスで、幼子のテレマコスを利用してオデュッセウスの狂言を見破った。
 こうしてオデュッセウスがギリシア軍の一員に加わることになる。ここからはまあまあ、ブラッド・ピットの『トロイ』と重なっていく。ただし、あの映画には、次のトロイア戦争の発端が描かれてはいない。それは次のような奇っ怪きわまりない発端だったのだ。

 トロイア戦争は、「林檎」から始まって「木馬」で終わった戦争なのである。その結末で残されたものは古都トロイアの炎上と、そして物語であった。
 さいわいわれわれは、林檎と木馬は目撃できなかったかわりに、その全貌を物語として読むことができる。それが『イーリアス』とその他のギリシア神話エピソード群である。
 そもそもの発端はばかばかしいことに、女の自尊心から始まっていた。
 当時、最強といわれ神々にも人気の高かったペレウスが、海神ポセイドンの抱擁を逃れた水精ムース(ミューズ)たちのなかの一人テティスと結婚したとき(実はゼウスもテティスに夢中だったのだが、プロメテウスに諌められてペレウスに譲ることにした)、その婚礼の場にエリスを招かなかったことが原因だった。
 婚礼の宴にはオリュンポスの神々が全員呼ばれていたのに、軍神アレスの双子の姉妹で、争いの女神だったエリスを招いておかなかったのだ。
 ところがエリスが、突然に宴席に姿をあらわし(こういう女はいまでもときどきいるが)、「最も美しい女へ」という文字を刻んだ黄金の林檎をテーブルの上に投げつけた。これで混乱がおこった。オリュンポスの女神たちはほとんど全員が美女揃いだったから、その「最も美しい女」は自分のことだと思いこみ、なかでもヘラ、アテナ、アプロディテがその美の座を争った。みんな、しょせんは白雪姫のお母さんなのである。

「美の審判」

「美の審判」
左からパリス、ヘルメス、三女神

 美の決着はつかず、神々は審判役をプリアモスのパリスに委ねた。パリスはトロイアの王子だった。
 最終予選に勝ち残った3人の女神は、ヘルメスに導かれてトロイアに行く。女神たちはパリスにそれぞれすばらしい贈り物をすると誓うのだが、パリスは迷う。そこへアプロディテが「あなたの一番お気に入りの女を贈るわね」と囁いた。これでパリスがぐらついた。男がぐらつくのは、これなのである。いい女がいい女を紹介するのに弱い。
 アプロディテは黄金の林檎を勝ち取り、パリスは人間界で一番美しいといわれたヘレネーを獲得する指名権を取った。
 これが有名な「トロイのヘレン」のエピソードである(ちなみにブラ・ピの映画ではダイアン・クルーガーが選ばれた。ぼくはなぜ999夜でこんなサービスしているんだろう?)。ともかくも、このヘレネーの美しさが1000艘もの船団を、10年にわたるトロイア戦争に駆り立てたのだ。

 実はヘレネーの母親はスパルタの王妃レダで、父親がゼウスなのである。
 レダというのは例の白鳥伝説になったレダのことで、白鳥に化けたゼウスに愛されて二つの卵を産み落としたことになっている。ひとつはゼウスを父親とする卵、もうひとつはスパルタ王テュンダレーオスを父親とする卵。めちゃくちゃな話だが、この二つの卵から一組ずつの双子が生まれ、その一人がヘレネーだった。ホメーロスはヘレネーの美しさを口をきわめて絶賛している。
 このためヘレネーには求婚者が目白押しだった。すでに前段に書いておいたように、オデュッセウスもヘレネーをほしがっていた。しかし、なかなか決着がつかなくて、オデュッセウスの発案で、求婚者たちは「誰がヘレネーを獲得しようとも恨まない、獲得者が被害をこうむったときはみんなが援助する」という誓いをたてあった。オデュッセウスはこうした計略に長けていた。
 これでいったんヘレネーはミュケナイの王子メネラオスを夫にするのだが、そこへ嬉々とした王子パリスがアプロディテに付き添われてやってきて、メネラオスの留守に口説き、ヘレネーとスパルタの財宝を奪ってトロイアに持っていってしまった。
 妻を奪われたメネラオスが怒りまくったのは当然である。ただちに兄のアガメムノンにトロイアへの遠征軍を組織するように訴える。戦士も募集した。このときその要請に応じないでイタケで狂気を装っていたのが、オデュッセウスだったのである。

 トロイアでギリシア軍の大将の一人となったオデュッセウスは、勇敢でもあり、巧妙でもあり、また外交的でもあった、忠実な友ディオメデスとともにトロイア市内に潜入して、守護神像パラディオンを盗み出した。狂言を見破ったパラメデスには裏切りの罪をきせて、まんまと復讐もとげた。
 しかし、オデュッセウスをトロイア戦争のなかで有名にさせたのは二つの計略の成功である。
 ひとつは、アキレウスを大将になるよう説き伏せた。アキレウスは出征すれば戦場で死ぬという予言を受けていたため、母親のテティスが息子を女装させてスキュロス島のリュコメデスイ王のもとに送り、そこで王の娘たちと一緒に住まわせていた。この噂を聞き付け、使者となってスキュロス島に潜りこんだのがオデュッセウスだった。
 商人に変装したオデュッセウスはリュコメデスの娘たちの前で装飾品と武器とを並べところ、一人、武器に目を輝かせた娘がいた。これがアキレウスであることを、オデュッセウスは一目で見抜く。このあたり、どこかヤマトタケルを想わせる。
 こうしてアキレウスは大将となって、総大将アガメムノンのもと、10万人の兵士を乗せた1000艘の船団をトロイアに向けて出奔させる。

 もうひとつは、あまりにも有名なことだが、オデュッセウスが巨大な木馬に勇士を隠して敵陣に運ぶというアイディアを提案したことである。
 すでにアキレウスが倒れ、ギリシア軍がほぼ完全に疲弊していたとき、この木馬の計略が浮上した。アポロンの神官ラオコーンやトロイアの王女カッサンドラは、これが敵の罠であることを見破ったのだが、そのとき海上から2匹の大蛇が出現し、ラオコーンと息子たちを絞め殺した。
 これを見たトロイア軍は木馬を畏怖し(木馬を物神化してしまったのだ)、木馬から繰り出したギリシア戦士たちに蹂躙され、ここにトロイアは炎上、男たちはすべて殺戮され、女たちがことごとく捕縛された。
 10年にわたったトロイア戦争が終わると、オデュッセウスは優れた戦士としてアキレウスの武器とヘカベを受け取った。哀れなヘカベはその後ギリシア人たちに石を投げられ、死んだ。

トロイア攻略

トロイア攻略

 なお、トロイアには唯一生き残った一家があった。アプロディテの息子アイネイーアスの一家である。
 アイネイーアスはアプロディテからトロイアが陥落するという予告をうけて、家族とともに故国を脱出、新たな地を求めた。そして漂着したところがのちのイタリアで、それがイタリア創国の起源神話になっている。
 ウェルギリウスの『アエネイーアス』はその叙事詩であって、ダンテの『神曲』はその踏襲だった。ホメーロスは、このアイネイーアスをトロイア側のヘクトルに次ぐ重要な武将として描いている。

 ここまでが『イーリアス』が叙事した物語にあたる。実際にはアガメムノンとアキレウスのあいだに諍いがおこったところ、アキレウスがいったん戦闘から身を引いたところから、叙事詩になっている。
 そして、この先の「オデュッセウスの帰還」を歌ったのが、いよいよ『オデュッセイアー』になるのだが、さきにも書いておいたように、この二つの叙事詩のあいだはつながっていない。ホメーロスならば適切につなげたであろうから、この両作品が別々のラプソードス(語り部)による記録ではないかと言われるのは、そこである。
 ジョイスの『ユリシーズ』は、これもさきほども書いたように「①テレマコス」から始まっている。これはオデュッセウスがイタケに残してきた息子のことで、ジョイスはこのテレマコスに青年スティーブン・ディーダラスをあてはめて、『オデュッセイアー』の物語のいっさいをダブリン市内の出来事に集約し、その出来事を1904年6月16日午前8時の、塔の中から始めた。
 スティーヴンは『若き芸術家の肖像』の主人公をもってきたもので、幼少からイエズス会の教育をうけたにもかかわらず、カトリックに対する信仰を失っている。つまりキリスト教なんかがなかった古代に引き戻されている。ジョイスのオデュッセウスも用意周到である。

 ようやくオデュッセウスは帰国の途についた、しかし、敵意を抱いたポセイドンがつねにこれを妨害した。
 『オデュッセイアー』は、オデュッセウスが目に見えぬポセイドンの憎悪と暴力に立ち向かうというかっこうをとりつつ、随所に幻想と怪奇と魔術を交えた物語を展開していく。それが、このあとの世界中のすべての航海記や冒険譚の原型ともなった。
 オデュッセウスの船団はつねに遭難と漂流と漂着にあう。航海はしょっぱなから嵐がおこり、船はキコン人の国トラキアに流された。キコン人は残忍の代名詞のようなもので、6人の従者を失う。怒ったオデュッセウスはキコン人を全滅させる。
 ついで一行はロトパゴイの住むリビュアに向かう。ロトパゴイというのはロトスという果実を食べる者という意味だが、これは万事を忘却させる果物である。不死と忘却が表裏一体のものであることは、中国にも日本にも語られてきたことである。日本にもタジマノモリ(田道間守)がトキジクノコノミを求めた話が残っている。
 かくてロトスを食べて心を奪われた従者たちを、オデュッセウスはむりやり引っ張って船に乗せなければならなかった。
 こうして、あのキュクロプスの国に逢着する。ホメーロスはこの国をシシリー島と同定していたようだが、むろん幻想の王国で、単眼神が住んでいた。柳田国男なら「鬼が島」あるいは「一つ目小僧」伝説とつなげるところだが、文化人類学でははやくから鉄産部族の集落だろうと考えられている。炎の中の鉄の溶鉱で目をやられ、赫ら顔になったという推察だ。日本ならタタラの一族ということになる。
 このキュクロプス国には残虐きわまりないなポリュペモスがいる。ポセイドンの息子だった。さっそくポリュペモスは部下たちをパクパク食ってしまうのだが、オデュッセウスはまたもや機略を用いてポリュペモスの目を突き、怪物が絶望したところを脱出する。これがポセイドンのさらなる憤怒を買った。
 ジョイスはこのキュクロプスを、なんとダブリンの市民一般にあてはめた。その市民に打ち克つには、さしずめ市民に「絶望」を食らわすしかないとでもいうように。

ポリュペモスの目を突くオデュッセウス

ポリュペモスの目を突くオデュッセウス ティバルティ画

 物語には「幸運」も適当に交じっている。風神アイオロスはオデュッセウスに味方をした。が、幸運というのは気まぐれで、一行の軽はずみな行動のため(航海にぴったりの西風の袋を貰ったのに、それを金袋と思って開けてしまった)、従者たちは海に投げ出された。のちのメーテルリンク(68夜)が、このモチーフをこそ数々の作品にした。
 やっと辿り着いたカンパニア沿岸では、巨人の食人族ライストリュゴンに追われ、逃げ出していく。ここではカーニバル(=カニバリズム=食人儀礼)とは何かという物語母型が提出されている。
 このときオデュッセウスの船を除いて、すべての船が沈んだ。残ったオデュッセウスの船はなんとかキルケの支配するアイアイエ島に漂着する。
 キルケは魔女であるが、オデュッセウスを愛した。そのため1年間におよぶ滞在になる。のみならずキルケとのあいだに息子テレゴノスをもうけた。
 一方、ジョイスのほうは、魔女キルケをメクレンバーグ通りの娼家の女主人ベラ・コーエンに配当させている。なるほどキルケは娼婦なのだ。ただ、このベラは息子をオックスフォードに送りこんだ。オデュッセウスとキルケのあいだの子を暗示する。
 キルケはオデュッセウスに、予言者テイレシアスの亡霊から助言を仰ぐよう、キムメリオス人の国に行かせた。キムメリオスは大地が囲む未知のオケアノス(大洋)の果てにあり、永遠の夜を支配する。日本神話ならば「夜食国」(よるのおすくに)や「根の国」にあたる。ここからが有名なオデュッセウスの「冥界下り」になっていく。
 オデュッセウスは死者の霊を呼び出し、海岸に溝を掘って牡羊と黒い牝羊を殺して犠牲とし、ハデスとペルセポネにそれを捧げた。犠牲の血が溝に流れこむと亡霊たちがそれを飲もうと群がってきたが、オデュッセウスは予言者テイレシアスがそれを飲むまで、守りきった。亡霊のなかにはさまざまな知り合いもいたのだが、断固として近づけなかったのである。
 テレイシアスはそこで、さまざまな予言をする。トリナキエ島のヘリオスの牛に触れてはならぬこと、触れればイタケへの帰還は不可能になること、おまえ一人だけが無事イタケに帰れるだろうこと、イタケでは妻のペネロペが苦境に立っていること、などである。

 こうしてまた、オデュッセウスは航海を続け、やがてセイレーンたちの死の誘惑に出会う。例のセイレーンの歌声を聞くと死ぬという挿話である。オデュッセウスは従者の耳を蜜蝋で塞ぐのだが、自分だけは歌声がどんなものか聞きたくて、盗み聞きをする。物語にはこうしたお茶目なオッデュセウスもしばしば顔を出す。
 ジョイスの『ユリシーズ』がセイレーンにあてたのは、酒場の女給の二人で、そのうえこの第2部第11章をセイレーンの歌声さながらの文体にした。こういうところがジョイスが20世紀のホメーロスに自身を擬していたという面目が躍如するところだった。
 トリエナキ島では従者たちが太陽神に捧げられた牛を食べてしまったため、ゼウスがおこした恐ろしい嵐に巻き込まれるという罰を受け、多くの部下が命を落とした。マストにつかまって9日間を漂流したオデュッセウスは、ようやくカリュプソの住む島に流れ着く。
 ニュムペのカリュプソは、7年にわたってオデュッセウスを引きとめるのだが、なんとかゼウスの命でやっと島を離れることができた。ジョイスはカリュプソをレオポルド・ブルームの登場にあてて用い、巧妙にもベッドの上に掛かっている「ニンフの水浴」で代用してみせた。

 しかし嵐との遭遇は続く。疲労困憊のすえ、パイアケス人の島に打ち上げられた。ここでオデュッセウスを迎えたのが、島の王アルキノオスと王妃アレテ、そして王女ナウシカアである。
 ジョイスは夜の8時になった第13章「ナウシカア」を、甚だエロティックに描いた。パティ・ディグナムの未亡人を訪ねたブルームは、いまはサンディマウント海岸に腰をおろしている。北国の夏なので夜8時とはいえ、まだ明るい。3人の女たちが子供を連れて遊んでいた。その一人、ガーティ・マクダウェルは他の二人からちょっと離れ、ブルームが自分をじっと見ていることに気づく。
 そこに花火が上がった。ガーティはそれを見るため振り仰ぐのにことよせて、スカートの奥の下着を見せて、ブルームの気を惹いた。ブルームはそれを見ながら手淫する。
 ジョイスはこの一連の描写を女性雑誌に連載されている軽薄な小説の文体で書いておいて、ガーティが足を引きずるところから(彼女は足が悪かったのだ)、ブルームの内的表白文体に切り替える。
 さらに自分が持っていた石鹸の匂いをガーティの香水が香ってきたものと錯覚して射精していくあたりを、遠くの司祭館で鳴る時計に交じらせていくという芸当をやってのけている。むろん、ガーティ・マクダウェルがナウシカアなのである。例の「風の谷」のナウシカだが、ギリシア神話やジェイムズ・ジョイスにおいては、成熟しきっている。
 ホメーロスのほうは、ここでついにオデュッセウスがイタケに帰る船を与えられるという語りに入っていく。思い返せば、すでにイタケを発って20年間が過ぎていた。

 イタケに戻ったオデュッセウスは、いくぶん浦島太郎の気分になっていた。彼を見分けられたのは、乳母のエウリュクレイアと飼い犬のアルゴスだけなのだ。しかし、これはもっけのさいわいだった。ここでオデュッセウスは女神アテナの知恵を借りる。
 オデュッセウスは豚飼いのエウマイオスと息子のテレマコスに正体をあかし、宮殿をのっとり、彼の財産を使いこんでいる100人あまりの求婚者たちを平らげる計画を練る。オデュッセウスが留守のあいだ、妻のペネロペはなんとかその有名な計略で、求婚者たちをかわしていた。父ラエルテスの死装束を織りあげるまで、すべてのことを待ってほしいといい、昼間はせっせと機を織り、夜中にこっそりその織物をほどくという計略である。
 けれどもそれも3年もたつと見破られ(よくもったとおもうが)、オデュッセウスは乞食に変装して宮殿に忍びこみ、祝宴のなかで開かれていた競技大会に参加する。競技は一連の輪に一本の矢を通すというもので、それができたのは変装したオデュッセウスだけだった。
 オデュッセウスはたちまち正体を見せて、並み居るライバルをことごとく射殺し、イタケの王位とペネロペの夫の座を取り戻す。女神アテナはオデュッセウスを助け、島に平和をもたらした。めでたし、めでたし――。

 『ユリシーズ』のほうも終盤の第3部である。すでにブルームはスティーブンを助ける関係になっていて、それゆえここでは、ブルームが豚飼いエウマイオスになり、スティーブンは息子のテレマコスを演じる。
 オデュッセウスがイタケで復讐を成就するプロットは、ブルームがスティーブンを伴って帰宅するところから、半地下に入って台所で温かいココアを飲み、二人が古代ヘブライ語や古代アイルランド語などの話題をかわすあたりに組みこまれる。もう午前2時になっていた。
 かくてスティーブンが物語詩を唄い、二人が庭で小便をしているときに彗星が現れる場面で、文体がきわめて衒学的になっていくことで、ホメーロスの絶技をジョイスが継承していることが最終的に暗示されるのだ。
 満を持して、ジョイスは言葉を乱れさせていく。曰く、近似的勃起、切望的注目、漸次的規律、試験的露出、無言的熟視‥漸次的消沈、切実的嫌悪、直後的勃起‥その沈黙的動作‥激昂の徴候‥‥消極的修正‥‥曲芸的跳躍‥‥‥いかなる姿勢で‥‥‥子宮内の胎児成人の姿勢で‥‥というふうに。
 こうして『ユリシーズ』は最終章の8つのパラグラフを、カンマもアポストロフィもなく、フルストップを僅か2カ所だけにつけた誘眠幻覚のような文体にして、終わる。めでたし、めでたし――か。

 すでに述べておいたように、ホメーロスの『オデュッセイアー』はオデュッセウスの10年に及んだ帰還を40日ほどに濃縮編集したものだった。
 ジョイスの『ユリシーズ』では、それがまた1日18時間に転移濃縮された。そこではオデュッセウスは二人の人物、22歳のスティーブン・ディーダラスと38歳のユダヤ人のレオポルド・ブルームに複相する。
 二人はそれぞれオデュッセウスの顔をもっていて、6月16日を終日、ダブリンの町を歩き回ったあげく、ブルームは午前3時にやっと妻のモリーのところへ戻るのだが、ディーダラスのほうはどうやら放浪を続けるようなのだ。
 いまようやく『千夜千冊』を終えつつあるぼくは、いったいどちらの赤坂オデュッセウスなのだろう?
 ホメーロス以降、多くの者がオデュッセウスの晩年を予想した。一説には、キルケとのあいだにもうけた息子に殺されたとも、一説には、海に誘われて穏やかな死を迎えたとも、そしてまた一説には、ついに行方は知れぬままだった、ともいう。

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