才事記

本の国の王様

リチャード・ブース

創元社 2002

Richard Booth
My Kingdom of Books 1999
[訳]東眞理子

 イギリスの片田舎に、こういう「本の王国」があることを教えてくれたのは作曲家の三枝成彰である。そればかりか、三枝さんは宮城県白石の市長をぼくの仕事場に連れてきて、やや強引なほどに、よかったら松岡さんが白石を「本の町」にしてあげてほしいという仲人役までしてくれた。
 三枝さんはヘイ・オン・ワイの「本の王国」を訪れてびっくりしたようだ、こういう町おこしや村づくりもあったのかということにひどく感心したらしい。
 古書の町なのである。1962年のこと、リチャード・ブースがヘイ・オン・ワイの医者から「700ポンドで店を売りたい」と言ってきたことがすべての始まりだったらしい。ウェールズの端っこのヘイ・オン・ワイはブースの故郷ではないらしいが、由緒あるブース家はそこからそんなに遠くないところに一族の歴史をもっていた。
 この売りつけられた店をリチャード・ブースは1軒目の古書店にした。そうとうの本好きだったようだ。しかし、ここまではどうということもない。次にブースはヘイ城を買い、この一角にも古書店を開いた。そろそろブースの古書集めが本格的になる。ランナーとの接触も頻繁になる。ランナーとはある店(持ち主)の書籍を別の店(持ち主)に世話をする仲介業者のことをいう。世界中の古本バザーにも出かけた。

 こうなると、古本集めが壮絶な規模になっていく。10万冊、30万冊、50万冊の単位で古本がブースのもとに届けられるようになる。問題はそれをどのように展示するかである。
 ブースは倉庫を買い取り、中の9つの部屋をぶち抜き、「世界一長い書店」というキャッチフレーズで、そこに神学関係の本ばかりを並べた。本棚は父の友人のフランク・イングリッシュにすべてを任せた。イングリッシュはその後なんと40キロにおよぶ本棚を作りつづけたらしい。
ウェールズの観光局が乗ってきた。「古書の町」としてヘイ・オン・ワイを売り出そうというのである。マスメディアも使うことにした。「ミッドウェールズに本のラスベガス誕生」「ウェールズの谷間が読書家の理想郷になった」「古書の城に来てみませんか」。1976年には、独立放送テレビが毎日3分間の古本ニュースを流すようになった。
 ブースはさらに特徴をつくっていく。かつて日本の書物や版画本が陶器の包み紙に使われていたから、ヨーロッパに浮世絵ブームがおこったのである。ブースはアメリカの古本が二束三文で投げ出されることに目をつけ、ヘイ・オン・ワイの一角にアメリカ文化を移住させることを思いつく。こうして、ある一角が「本のアメリカ」になっていった。8万冊で“開国”された。
 そしてついにブースはヘイ・オン・ワイを独立国にすることを思いつく。1977年4月1日が独立記念日となり、リチャード・ブースは「リチャード書籍王」に就任した。その名称は「世界で最もたくさんの古本をもつ王」という意味である。

 リチャード・ブースの古書王国の経営はこれで終わったのではない。ヘイ・オン・ワイそのものの経済的自立を志す。すでにヘイの町からは八百屋・電気屋・洋品店・靴屋などが次々に姿を消していた。どこにでもおこっていた地方の衰退である。
 こんな町では古本ばかりがあっても真の王国にはなりきれない。リチャード書籍王は、ついに王国政治に乗り出した。その方針は簡単なもので、「住民の手に運命を委ねよ」「すぐれたものはすべて地元がつくっていく」という、この二つ。これは、「すべての民主主義は官僚政治につぶされる」というリチャード王の観察にもとづいていた。
 巨大な糸車をつくり、リチャード王はキャッチフレーズやスローガンを町中に走らせた。大仏再建のプロジェクトを任せられた勧進聖の重源が、一計を案じて京都の4隅から一輪車を発進させたことをおもわせる。
 むろん、反対もおこった。町議会は「今後いっさいリチャードのやることにかかわらない」という声明を出し、好意的だった新聞も「ヘイ・オン・ワイはリチャード・ブース王に屈するのか」と書きたてた。モレリというリチャードの方針にことごとく対立する強力なライバルも出現した。
 しかしリチャード王は屈しなかったのである。赤いライオンの紋章をあしらった緑と白の国旗をつくり、お菓子でつくった紙幣を発行し、切手をつくって本が送れるようにした。そして1978年には、「ヘイ王国、EECを脱退!」というトップ記事で飾られた新聞を発行。時の議会や役所をこっぴどくやっつける政治パンフレットも連打した。
 リチャード王は古書集めから王国自立の道を模索しはじめたのである。
 しかし、しだいにリチャード王は孤立していった。よくあることである。しかもリチャード王は思い余って総選挙に立候補した。これもよくあることである。与謝野鉄幹だって故郷の選挙に出たものだ。結果は無惨、サッチャー率いる保守党の前に落選してしまう。鉄幹も落選、与謝野晶子はそうした夫の体たらくに呆れ、自身で与謝野家の経済をきりもりしたものだ。リチャード王のばあいも同じこと、1984年、リチャード・ブースはついに破産を宣告される。けれども、それを救ったのが何度目かの夫人だった。

 ここで話が終わるなら、三枝さんはぼくをヘイ・オン・ワイに誘わなかった。
 傷心のリチャード王は、ついに在庫管理に手を焼いて、多くの安い古本をもっと容易に捌ける方法を考えついたのだ。それが「オネスティ・ブックショプ」のアイディアで、古城の庭園と城壁の外側にズラリと本棚を並べ、南京錠をつけた代金箱にお金を入れてくれれば好きな古本を持っていってよいという方法だった。
 この異様な光景が話題をよんだ。各国のカメラマンが押し寄せ、ヒッピーの一群が古本を読みながらキャンプを張ることを思いついてやってきた。
 しかしそんなことで経営が好転するわけではなかった。ただ、そんなとき、意外なことがおこってきた。リチャード王のベルギーの友人ノエル・アンスローが片田舎ルデュで「古書の村」をおこし、ヘイ・オン・ワイと姉妹都市関係を結んだのである。南フランスのモントリューという村も「古書の村」をつくりたいと言ってきた。やがてモントリューの12の書店のうち7店がカタリ派の古書をどっと並べるようになった。
 ノエルはスイスのバレー州の田舎にも古書村をつくった。さらにブルターニュのペシュレルという町も「古書の町」の名のりをあげた。リチャード王はそうした姉妹国にブース書店を開いていく。それだけではなかった。
 リチャード王は、こうして世界にひとつずつできあがっていく「本の王国」の“法皇”になったのだ。

 その後、「本の王国」はドイツにもアメリカにも生まれている。リチャード書籍王はそのたびに法皇よろしくその開拓者に手をさしのべる。そしてもっと意外なことがおこったのである。
 世界中に生まれようとする「本の王国」運動に賛同したり共感したりする者たちが、次々にヘイ・オン・ワイをめざして“巡礼”するようになったのだ。1998年の時点で、ヘイ・オン・ワイには年間100万人が訪れているという。いまヘイ・オン・ワイは30軒の古書店とたくさんの骨董屋と、そしてリチャード書籍王を戴くヘイ古書城で賑わっている。
 さて、ぼくはいったいどのように三枝さんの期待に応えたらいいのだろう。ぼくがこの数年準備してきたことは、電子ネットワークの中の「書物の都市」なのだ。