父の先見
読経の世界
吉川弘文館 2001
中世には「能読」とよばれた人物が何人もいた。読書家のことではない。能読とは読経がうまい僧のことである。後鳥羽院の御読経衆の慶忠は「持経者」として名高く、『孔雀経』を読ませるとその妙音はなんとも優美であったと記録にのこる。エキゾチックな密教呪文の多い『孔雀経』にはキリキリキリ(希利)が10回くりかえされる有名な陀羅尼が入っていて、それが神楽歌にもとりいれられている。きっとそういう陀羅尼のところの唱え声で人を酔わせたのであったろう。
能読とはべつに「能声」という名人もいた。これは念仏名人のことで、迦陵頻伽のような声のことだというのだが、さて迦陵頻伽がどんな声で唏きながら天空を翔ていたのかはわからない。カストラートのようなのか、北島三郎やドミンゴのようなのか。また、「能説」という評価もあった。主として説経師に与えられた褒め言葉だ。これらは虎関師錬の『元亨釈書』ではまとめて「音芸」とよばれていた。
本書は、この能読・能声・能説をとりあげ、こうした「音芸」にひそむ仏教世界と人々とのかかわりを綴って、出色恰好の一書となっている。こういう本があったらいいのにと思っていたら、こういう本が出た。著者は日本文学と日本語史の研究者のようだが、よくぞここまで踏みこんで、読経という世界を浮上させた。いささか網羅的で脈絡が整っていないきらいはあるけれど、その領域の設定に感心した。日本文化の解読にはボーカリゼーションの変遷を見ることが欠かせない。日本文化にはたえず「声」が響いていたのである。
日本の歴史的なボーカリゼーションには、大別すると基本的には2つの「声」があった。ひとつは倭人がつかっていた言葉の音である。よく大和言葉といわれる。いまでも祝詞などにそのイントネーションやリズムが残響する。
もうひとつは中国の漢字を読む声だ。正式文書も経典も漢字だらけだった。それをどう読むか。どんな発音発声をしたか。この漢字の発音に漢音(北方中国語音)と呉音(南方中国語音)、および唐音(新たに流行しつつあった発音)のちがいがあったため、僧侶たちは読誦のボーカリゼーションを「漢音で読むか、呉音で読むか、それとも流行中のモードで読むか」の選択をしょっちゅう迫られた。聖武期から桓武期にわたる130年間はもっぱら漢音が奨励されている。
なぜこんなことが重要になったかというと、中国では帝王というものは正字正音を継承するもので、その中国の正音を日本もちゃんと模倣すべきだと考えられたからだ。しばしば孔子の正名、荘子の狂言とはいうが、この正名には正字正音をともなっていたのである。とくに桓武天皇はこの正音継承に熱心だった。これをわが国では正字を四書五経などの筆写で、正音を各種経典の読経で学んだ。
平安時代になると、大学寮の明経道(儒学)と紀伝道(史学)をまなぶ学生には漢音の誦習が義務づけられた。天台・華厳・三論・法相などの宗派が僧侶試験をするときは、経典読誦では一句半偈のボーカリゼーションを音博士がチェックをするという厳しさが要求された。
また、藤原氏の私学校にあたる勧学院でも試験が行われるようになると、そこでは引音で読むというような指導も始まった。引音は試験官の笏にあわせて伸ばしたり縮めたりして読む工夫である。ちなみに本書にはのべられていないけれど、この笏によって引音を長短させることによって読誦するという習慣こそ、のちの能などで確立する「間拍子」を準備していったのではないかと、ぼくは推理している。
このような日本のボーカリゼーションを強く牽引したのは、密教、とくに真言密教だった。第544夜の『五十音図の話』にも書いたことだ。密教の言語音韻をめぐる研究の歴史こそが、日本のボーカリゼーションのエンジン部分を設計し、和漢にまたがる「読み」のインターフェースを開発してきた“プロジェクトX”だったのである。密教は五十音図やいろは歌のみならず、日本のボーカリゼーションの巨きな幹と枝葉の両方をつくったのだ。
それゆえ真言密教にはいろいろ凝った読経が生まれた。ぼくの体験でいうと、高野山で最初に『理趣経』を読んでいるのを聞いたとき、この音楽性はなんと豊饒なんだろうと驚いたことがある。広沢僧正寛朝が《中曲理趣経》という曲をつくっていて、それが近世になってかなりとりこまれていったことをあとで知った。つまりそのころは密教社会には“経典作曲家”ともいうべき才能の持ち主がたくさんいたということなのだ。そのような作曲がいまも続いているかというと、おそらくおこなわれてはいない。ひたすら分派的伝統を継承しているだけである。
こうしてあれこれの苦労と工夫をへて確立してきた読経世界は、だいたいのところは次のようなシステムに収まった。
おおざっぱにいうと、読経には経典を見ながら読む「読」と、これを暗誦してしまう「誦」がある。ついで、読経を行法としてマスターするには、経典を最初から最後まで文字に即して読んでいく「真読」、次々に大部の経典を読みこなしていく「転読」、仏の諸相を観相しながら読む「心読」、さらにはそれらの経典の教えを実行する「身読」などを通過することが要求された。
この読経のレベルにそれぞれ読み方が対応する。律動や抑揚が加わっていく。たとえば「直読」は単調だが力強い。その直読にも2つの読みがあって、しばしば「雨滴曲」といわれるようにほぼ同じリズムで読経するばあいと、なんらかの節をつけていくばあいがある。これはよく「曲節」とよばれてきた。曲節では天台の「眠り節」、三井寺の「怒り節」などが有名だ。
初心者の読経は「いろは読み」である。修験にはよくあるのだが、経典の最初と中央と最後を7行・5行・3行で略読するのは「七五三読み」などともいった。羽黒修験では「逆さ経」といって、般若心経をさかさまに読む。
つまりは読経にも真行草があったのである。実際にも真読・行読・草読という言い方をしている宗派もあるし、時宗のように「念声一体」といって、どう読もうとも、ともかく思念と名号が一緒になるように読めばいいとするところもあった。むろん宗派によるちがいも多く、当時は「声ぶり」で宗旨がわかったほどだった。天台では行法を5段階に分け、その第2に「読誦品」をおき、浄土宗では浄土三部経を読むことそのものを「読誦正行」、そのほかを「雑行」と分けた。
中世社会では、各寺院のそこかしこがボーカル・ミュージカルの会場だったのである。アカペラとはかぎらない。さまざまな楽器や音具もとりこまれ、多くのばあいはパフォーマンスも伴った。
しかし、この時代は僧侶だけがボーカリゼーションを独占したのではなかった。貴族・庶民・職人・遊女たちもそれぞれに読経をたのしんだ。一条天皇の時代では、解斎の場でも管弦を用い、催馬楽・今様・朗詠をたのしんだだけでなく、「読経争い」「読経比べ」として経典読誦を遊びのように興じた。
こうして藤原公任のような朗詠名人・読経達人が公達のほうからも続々と輩出されてきたのである。公任と藤原行成と源為憲の3人が法華経を題材に詠みあい、漢詩を作りあい、書を交わしあった。きっと絶妙のものだったとおもわれる。
こうしたイベントは、そのうちしだいに「型」をつくっていった。『元亨釈書』はそのような音芸イベントがプログラム化されていて、「経師」による読経、「唄」による声明、「唱導」による説経、そして最後は「念仏」で締めくくられていたと報告している。「行」と「伎」はひとつだったのだ。本書はこの「経師」の名人系譜を何人にもわたって紹介する。
一方、本書にはふれられていないのだが、披講とか講式というボーカリゼーションの領域もあった。漢語調を歌うのを朗詠といったのに対し、和語による歌を披講といった。朗詠は多く楽器を伴ったが、披講はアカペラでよかった。藤原長家が後冷泉天皇から「歌仙正統」の称号をうけるのだが、この長家によって披講がおこり、その家系がのちに和歌の道を仕切ることになった御子左家に成長した。
読経の能読能声はこのままでは終わらない。浄土信仰が広まるにつれ法文歌が派生して、これが和讚となったし、これらの披講、和讚、法文歌を背景に、遊女たちが「今様」を流行させた。今様は能読能声のポップス化であり、すべての仏教歌謡のフュージョンだったのである。