才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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港の世界史

高見玄一郎

朝日新聞社 1989

装幀:中島かほる

北方四島、尖閣、竹島が問題になっている。
いずれも海域の問題だ。海の縫い目の問題だ。
そこで今夜は「海と港」に因んだ話をしたい。
いったい日本にとって海港とは何なのか。
それは世界の港湾とどこが違うのか。
なぜ、黒船の来航が日本を変え、
なぜまた五港開港が日本開国となったのか。
日本はシーレーンに弱すぎる歴史をもってきた。
では「海に強い歴史」とはどういうものだったのか。
今夜はそんなことを、青春期の雑談まじえて
ゆらゆら、くらくら、スケッチしてみた。

01 質問ゆらゆら。

 港の話をする前に、ちょっとだけ鳥の目で俯瞰した日本の話をしておく。次の質問に答えてほしい。かんたんな問いだ。「日本の国境は東西どこまでか」「どの都道府県がその国境に接しているのか」。
 北東は北海道、南西は沖縄県、なのではない。その答えはまちがっている。最南端は沖ノ鳥島で、最東端は南鳥島だ。どちらも東京都に属する。手元の地図を見るか、山田吉彦の『日本の国境』(新潮新書)などを読まれるといい。
 1カ月前のこと、小笠原で海底火山が噴火して、ちっぽけな新島が誕生した。これも東京都だ。マシュー・ペリーの黒船4隻は、浦賀に来る前にこの小笠原に立ち寄っていた。菅官房長官はその“新島発生”のときの会見で「少し日本がふえましたね」とニヤッと笑った。おっちょこちょい都知事だった石原慎太郎が尖閣諸島を地主から買収しようとしたのは、こうした東京の海域にも関係がある。
 野田首相は石原都知事と周囲の雑音に気圧されて、言わずもがなの尖閣諸島国有化を発表した。それからというもの、日本の西南シーレーンが物騒にもヤバくもなってきた。けれども林子平の『海国兵談』時代ではないのだから、やってきた船を片っ端からネズミ叩きするなんてこと、今の日本にはできはしない。

2013年11月20日小笠原諸島の西之島の南南東約500メートルの海上に、直径約200メートルの新たな島ができた。

02 ゆめゆめ海里。

 日本は海に囲まれている。だから、すべての国境は海里(カイリ)の単位であらわされる。
 国境は12海里のところにある。国有の島々の海岸から12海里までをそれぞれつなぎあわせた閉曲線の内側が「日本」なのだ。国連海洋法条約で決められている。1海里は1852メートルだから、12海里は約22キロ。これが領海含みの日本になる。
 海岸から200海里までは「排他的経済水域」という。排他的とはいかめしいが、そこはどの国の船も自由に航行できるけれど、魚貝類や天然資源を採るとなると、当事国の許可がいる。
 多島列島で、海岸線がやたらに長い日本は、この領海と排他的経済水域をあわせて、国土面積の12倍にあたる約447万キロ平方の広がりをもつ。これは世界第6位の面積になる。
 海の面積はやたらに広いのだが、陸地のように目印がないため、そのぶん海域は確定しづらく、たえず紛争のタネになる。そのためのべつ海上保安庁の船を巡らせ、自衛隊の哨戒機を飛ばして監視していなければならない。日本には長年にわたって、紛争の対象となりやすい区域がいろいろあるからだ。
 日ロ交渉がえんえん長引いている北方四島、最近とみに領有をめぐって議論が囂(かまびす)しい尖閣諸島、韓国大統領がよじのぼってみせた竹島などは、そのひとつにすぎない。間宮林蔵の探検はいま遠く、対馬や隠岐や佐渡の海域も、沖縄諸島のすべての海域が、漁場競争とともにすこぶるナイーブなのである。

日本の排他的経済水域

03 ほらほら公海。

 領海にも排他的経済水域にも含まれない海は「公海」である。いつごろ公海という見方が成立したかというと、16世紀にまでさかのぼる。
 大航海時代のなか、ポルトガルやスペインは船団を組んで地球上の未知の海域を制覇していった。当然、互いにぶつかる領域も少なくない。そこで両国は1493年にトルデシリャス条約を結んで、大西洋とインド洋に関する両国の領有権を主張した。
 しかしイギリスとオランダがこれに反発して、この条約の破棄を求めた。交渉はまったく進捗せず、結局はエリザベス女王を擁するイギリスが、1588年にイギリス・オランダ連合軍としてスペインの無敵艦隊アルマダを破り、トルデシリャス条約を事実上空洞化させた。
 さっそくオランダとイギリスはそれぞれ東インド会社をおこして(このあたりのことはあとで説明する)、海外交易の主権を握ろうとした。もうひとつ、プロテスタントに対抗したイエズス会の動向が複雑に絡んでここに加わるのだが、そしてこのことは近世日本にとってはとても重要な動向となるのだが、こちらの話は今夜は措いておく。
 ともかくもこういう時代背景のもと、機を見るに敏なフーゴー・グロティウスが『自由海論』(1609)を著して、母国オランダを擁護しつつも海洋自由論を展開した。世界には公海というものがあるじゃないかという主張だ。むろん反論もあった。代表的にはセルデンの『閉鎖海論』(1635)などだが、どちらの主張も当時の慣習法や国際法にはなりえなかった。
 18世紀になるとヨーロッパ諸国の国家的中央集権性が増してきて、近海の支配管理が急務になってきた。そこで19世紀にかけては沿岸国の秩序維持に必要な「狭い公海」と、先進列強が自由に競争しあう「広い公海」とを、そのまま二重に認める趨勢になっていった。ダブルスタンダードの容認だ。
 けれども列強たちは、当然ながら勝手にわがもの顔に取り合う「広い公海」で、互いに自由に争いあおうじゃないかというほうに傾いていく。

1890年のカルカッタ港風景

04 越境海賊国家そらそら。

 こうして列強中心に妥当な公海法が検討され、20世紀に入るとさまざまな議論が噴出し、なかなか共通ルールが決めがたくなった。3海里にする、6海里がいい、いや12海里だろうという論争、キャノン砲の着弾距離によって規定するべきだという戦時想定論争など、いっこうに収まらない。
 第二次大戦後はアメリカ大統領トルーマンが、それまでの公海にあたる海域を「保存水域」としてアメリカがこれを保存するという、いかにもアメリカっぽい身勝手を発表した。トルーマン宣言という。
 これらがやっと平均的に集約されて、ついには国連の海洋法が各国間で締結されていった。公海の細目規定もできた。現在はこの状態にある。それならこれで、「公海自由の原則」が確立したのだと思われたのだが、しかし、そんなことはなかった。
 こんなものは海賊にとってはどうにもなることだったのだ。事実、いまは海賊国家ソマリアの海域周辺をはじめ、多くの海域で「公海の自由」が妨げられている。いや、海賊行為はソマリアだけではない。かつてのヴァイキングや倭寇から大航海時代の植民地まで、20世紀のナチス・ドイツからブッシュのアメリカまで、ビンラディンのタリバンから最近の習近平中国まで、実はどんな国家も“裏の海賊国家”たらんとしているのだ。
 いや、いや、アントニオ・ネグリ(1029夜)のマルチチュードだって自由海賊主義なのだ。
 このあたりのこと、吉田一郎の『国マニア』(ちくま文庫)、松本仁一の『カラシニコフ』(朝日文庫)、NHK「アフリカ」プロジェクト編著の『アフリカ21世紀』(NHK出版)、そして高野秀行の一連の本、『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『世界のシワに夢を見ろ!』(小学館文庫)、傑作『謎の独立国家ソマリランド』(本の雑誌社)などを、読まれるといい。
 もっとはっきりいえば、国連公海法だけでは、いまや何も「侵犯」をとめられなくなっているとも言わなくてはならない。そもそも「空」がある。また「ウェブ」がある。イラン上空にもインターネットにも、見えないステルスとウィルスが侵攻しっぱなしなのである。海賊行為は国家と個人の根幹に巣くう本質的な問題なのだ。

ソマリア沖で中国船舶護衛につく中国艦隊

05 知られていない「日本のもと」。

 ところで、ほとんど知られていないだろうと思うのだけれど、ぼくは『日本のもと 海』(講談社)という本を監修したことがある。
 これは子供向けの全10巻のシリーズで、本屋で買うというより学校図書館が購入するらしい。田原総一朗が『日本のもと 政治』、宮崎哲弥が『日本のもと 憲法』、中沢新一が『日本のもと 神さま』、金田一秀穂が『日本のもと 日本語』、齋藤孝が『日本のもと 学校』、山根一眞が『日本のもと 技術』などを監修した。総ルビ付きだ。
 『日本のもと 海』は、漁業の話から遣唐使の話まで、国境の話から黒船による開港の話まで、海洋資源の話から汚れた海の話まで、いろいろ深い話もとりあげている。ぼくは企画から仕上げまで3度ほど話をしたけれど、またもちろんゲラにも目を通したけれど、執筆と編集には三橋俊明君が当たった。
 それにしても松岡正剛が「神さま」や「日本語」ではなく「海」を担当するとは、きっと意外に思われるだろう。松岡正剛といえば“京都の呉服屋の伜”ということで通っている。ところが、そうでもないのだ。編集執筆した三橋君とは、35年ほど前からの知り合いで、ぼくの「海好き」あるいは「海寄り」を知っていて、この企画を持ち込んだのである。
 ぼくは高校時代が始まる直前に横浜に越していた。だから青春期には港の香りをそれなりに浴びていたという経験があった。三橋君はそのこと、先刻承知だったのだ。それで「日本の海」を仕向けたのだ。
 以下、その話を雑談ふうにしておくことにする。

『日本のもと 海』(講談社)で監修を務めた。

06 ぼくのヨコハマよこよこ。

 父が何を血迷ったのか、突如として京都中京の町屋を捨てて、元町に呉服屋を出店するのだと言いだした。出店はみごとに失敗。当時の元町には京呉服などを買う日本人客もガイジンさんもいなかった。
 そんな事情で、わが家は横浜山手町の谷戸坂(やとざか)に越したのである。すでに朱雀高校に入ってドキドキしていたのに、突然、横浜から東京の知り合いの住所に寄留して、都立九段高校の編入試験を受けて千代田区に通うことになった。
 これで青春の生活のほうは、白いペンキで仕上げた安普請のへなちょこ洋館に住むことになった。京都の有職故実が出入りするクラシックな日々とは、およそ異なる簡易モダンへの突入だ。家主はゲラシモフという老ロシア人、ひとつ隣りにギリシア人とフィリピン人の混血一家が住んでいた。そこに姉妹がいて、姉のエンジェリカ・レリオはぼくの高校時代の唯一の外人ガールフレンドになるはずだったが、何もモーションをかけなかったので相手にされなかった。
 家の前はフランス山。その下はファンキーな演奏をいつもやっているバンドホテルだった。ペンキ家から2分のところに「港の見える丘」があって、そのころは草ぼうぼうのその空き地からは、きっとウィリアム・ターナー(1221夜)が描きたくなるような横浜港がまるごと一望できた。
 ぼくはその丘でいつも竹刀(しない)をもって素振りをし(九段高校では剣道は正課になっていた)、帰りは外人墓地をまわって、ときにはジャム臭いアメリカンスクール(セントジョセフ)の子供たちとカタコト英語で遊び、ときにはフェリス女学院の女生徒たちに見とれていた。
 これって、京都とはまるで異なる日々だった。

当時、横浜港をよく見に行った。(1961年、17歳)

07 もう少しだけ港ヨコハマ話。

 谷戸坂から下りると元町を左に見て、谷戸橋(やとばし)から市バスでよれよれ駅舎の桜木町へ。そこから汚れたワイン色の京浜東北線に乗って秋葉原で乗り換え、飯田橋で降りてフルーツパーラー田原屋と富士見町教会を右に見ながら九段高校に通うのが、ぼくの高校の日々だった。
 休日にはたいてい山手から下りて町に出掛けた。主には伊勢佐木町入口(馬車道)の有隣堂で本を眺めていたが、2カ月にいっぺんは山下公園から大桟橋に行って、黒ずんだ汽船や艀や貨物船やクレーンが立ち並ぶドックを眺めた。
 とくに海に憧れたのではないものの、南極探索船「宗谷」が繋留されたりして、見知らぬ動力体が気ぜわしく動いているのが、おもしろかった。ときどき3~5万トン級の豪華客船や偏平きわまりない漆黒の潜水艦が入港すると、見に行った。ヘボ俳句「薫風や宗谷は少し我に寄り」を詠んだりもした。
 本牧(ほんもく)にもしばしば足をのばした。元町から撤退した父がナイトクラブ「クリフサイド」の夜の蝶たちに着物を売っていたこともあって、ときにはその手伝いで外人文化とホステス文化が混合している現場を、何度も垣間見た。そんな甘酸っぱいヨコハマ体験の一端については『メルメ・カション』(894夜)にも少し触れておいたので、読まれたい。
 かつては京都から想像する横浜といえば、赤い靴をはいていた女の子が異人さんに連れられて船に乗って行った港のことだった。けれども実際に来てみると、それほど寂しくもなく、ロマンチックなものでもない。その逆にぼくの目には、ニコヨン、カンカン虫、船上生活者たちの生態が赤裸々に躍っていた。港につながる川にはボートハウスがびっしり並んでいて、そこから学校に通う子供たちが元気な笑い声を上げていた。
 中華街には華僑があふれ、日之出町では麻薬らしきものが行き交っていた。野毛の町には見世物も並んでいた。ヨコハマは、無知な松岡正剛が社会を知るにはもってこいだったのだ。

プラモデルにもなった南極探索船「宗谷」

08 わらわらわらわの編集感覚。

 いったいぼくの中における京都と横浜がどのように交じっているのか、あまり考えたことはないのだが、のちに極端に入り組んだなハイブリッド・エディティングが好きになったのは、この青春期の「京都から横浜へ」という劇的な対比に急激に襲われたことが大きく関与していたのだろう。ぼくのヨコハマは「17歳のための世界と日本」だったのだ。
 二つの光景はやっぱり異様な対比をもっていた。古都とハイカラ、王朝文化と港湾文化、着物と工業製品などという程度じゃない。高瀬川と大桟橋、部落差別と船上生活者、柊屋とバンドホテル、錦小路とユニオンスーパーマーケット、東山連峰とクリフサイド、霧笛と除夜の鐘、先斗町と中華街、祇園祭と横浜カーニバル、高倉押小路と桜木町。そういう対比だ。
 けれども「横浜に居て京都を想う」という青春はけっこう悪くなかったし、港がもたらす“かもめノスタルジー”が育まれたことも悪くなかった。ぼくには潜在的に「港」がひそんでいたのだろう。
 そう思ってふりかえってみれば、ミシシッピのハックルベリイ・フィン(611夜)からサンフランシスコの霧の中を襟を立ててうろつくフィリップ・マーロウ(26夜)まで、「佐渡おけさ」「波浮の港」から美空ひばりの「哀愁波止場」まで、若山牧水(589夜)がこの国の山河と海をわたっていく短歌からロレンス・ダレル(745夜)が地中海の4つの物語を紡いでみせた『アレキサンドリア・カルテット』まで、少年時代からぼくの好みの一端はけっこう「港まがい」を愉しんできたようなのでもあった。

(左)佐渡おけさ、(右)美空ひばりの「哀愁波止場」

エジプト、アレクサンドリアの港

09 真夏むらむら日本海しんしん。

 もうちょっと告白しよう。
 実は早稲田の2年の夏、ぼくはほぼ1カ月をかけて山陰から北九州、佐世保・雲仙・有明海・熊本をへて指宿・鹿児島・日南に入り、豊後水道を渡って四国を新居浜から松山をへて徳島まで、ずうっと貧乏旅行をしたことがあった。
 ほとんど港町で安宿に泊まり(ときに野宿して)、タダ同然の海の幸と白飯にありついていた。気がのれば簡易シュノーケルと足ヒレをつけて、近くの海にもぐった。素もぐりだ。バミューダ・ショーツ姿で、耳にはイヤリング、足にはペディキュアで。
 この旅は半分は見知らぬ町で本を読むためだった。行く先々で本屋に寄って数冊ずつ読んでは家に送り返していた。もう半分は日本列島の海と港を見ておきたかった。掟は3つだけ。海を感じる、その町の銭湯に入る、その町の本屋に出入りする。
 翌年は今度は日本海を北に行きたくて、信州諏訪からとろとろと福井に入り、そこから越前→越中→越後→出羽というふうに向かった。
 福井には古い親戚がいた。そこを起点に金沢をへて親不知に向かい、そこから懸案の良寛(1000夜)の出雲崎へ。国上・弥彦をたずね、柏崎・寺泊に続いて佐渡を堪能した。世阿弥(118夜)や北一輝(942夜)の佐渡にはずっと前から憧れていたので、ドンデン山の国民宿舎から何度も日本海をぐるりと一望していた。ちょうど北島三郎の『函館の女』がやたらに流れていた時期だ。

出雲崎漁港の全景

ドンデン山荘からの眺め
左手に真野湾、右手に加茂湖が見える。

10 背伸びして見る海峡を。

 その当時、日本の港町はどこへ行っても歌謡曲ぽくって、船と酒場と映画館とパチンコで活気もあったけれども、なんともいえない哀愁も漂っていた。
 1960年代の半ばから後半にかけての日本は、昭和35年代の後半で、まだ高度成長が津々浦々に向かって滲み出しきっていない時期なのである。テレビは昼の「アフタヌーンショー」や夜の「11PM」が始まったばかり、大学生たちが少年マガジンの「巨人の星」や「あしたのジョー」のジャパン・ニヒルな連載劇画に胸躍らせ、深夜放送の「オールナイトニッポン」に耳がかじりついていた頃だ。
 トヨタがカローラを発売し、ボーイング747が就航したのが、やっと1966年なのである。資生堂の前田美波里のポスターが盗まれたのもこの年だった。アメリカではローリングストーンズの「サティスファクション」とジミ・ヘンドリックスのギターが唸り、早くもベルベット・アンダーグラウンドのサウンドがグルーブしていたけれど、ぼくはそんなことを体に入れる準備ができていなかった。
 いったいこういう時期の日本の海と港を見て、ぼくが何をしたかったのかもわかってはいなかった。ただただこんな演歌に気が引かれていた。
 「背伸びして見る海峡を今日も汽笛が遠ざかる あなたにあげた夜を返して 港 港 函館 通り雨」「流す涙で割る酒はだました男の味がする あなたの影を引きずりながら 港 宮古 釜石 気仙沼」。
 1969年4月リリースの森進一『港町ブルース』だ。一般公募の歌詞になかにし礼が補作して、猪俣公章が曲を付けた。やたらに口ずさんだ。20年前くらいまではカラオケでもよく唄った。最近ではボーカロイド初音ミクの『港町ブルース』が変に一本調子を唄っていて、ちょっと笑ってしまったが。
 いま、全国の港町に「流す涙で割る酒はだました男の味がする」というような、倉本聡の映画の一場面のように懐かしむ風情は、ずいぶんなくなっているように思う。新幹線が走って瀬戸大橋ができ、クルマ社会になって高速がのび、ファミレスとコンビニがいっぱいふえて、ロードサイドで洋服も日曜大工用品も買えるようになったから、なのではない。ウェブやケータイが波及しているからでもない。
 ひとつには、3・11の大津波で痛ましい傷痕にさらされたことが日本の海浜部を“対策の浜辺”に変えた。ひとつには、マグロをはじめとした漁獲がグローバリズムの締付けにあっている。ひとつには、海の浪漫をうたう演歌そのものがめっきり衰弱した。ひとつには、日本の港湾のロジスティックスが著しく落ちている。いまや「港町ブルース」は大変なのである。

森進一『港町ブルース』

11 そろそろ港とは何かということ。

 というわけで、最初から本題とはずれる話ばかりになったけれど、今夜はめずらしくも港の話をしようと思うのだ。
 そういう気になった背景については、いささかきっかけがあった。先日(2013.11.24)のこと、新潟市内の白山神社と地続きの「りゅーとぴあ」能楽堂で、「世界は港で変わってきた」という話をし、続いて旧知の新潟市長の篠田昭さんとの対談で、新潟港の今後のありかたなどを交わしたのだが、この前後であらためて世界の「港都の変遷」というものを遠望できたからだった。
 日本の港は、いまかなりキツイ状態にある。造船力と運搬力は落ち、物流拠点の力も失ってきた。アジアにおける「ハブ」の力は、ほとんど中国・韓国・東南アジアに奪われている。上海・香港・釜山・高雄(カオシュン)・基隆(キールン)・シンガポールが、アジアのハブ(主要港湾)なのだ。
 このことは数字にズバリあらわれている。1990年の世界の港湾のコンテナ取扱い量は、①ニューヨーク、②ロッテルダム、③香港、④神戸、⑤高雄、⑥シンガポール、⑦サンファン(プエルトリコ)、⑧ロングビーチ、⑨ハンブルグ、⑩オークランド、⑪シアトル、⑫アントワープ、⑬横浜、⑭ブレーメン、⑮基隆、⑯釜山、⑰ロサンゼルス、⑱東京、という順だった。それからわずか20年後の2012年で、①上海、②シンガポール、③香港、④深セン、⑤釜山、⑥寧波、⑦広州、⑧青島、⑨ドバイ、⑩天津、となり、様相が一変した。
 東京は30位以下に、横浜・神戸は50位近くになった。まさに「失われた10年、20年」なのだ。
 そこへもってきて、尖閣・竹島などの領海ならびに排他的経済水域問題である。ロシアの南下もまたぞろ目立ってきた。これは「海」の問題であるとともに、「港」の問題でもあるのだけれど、そんなふうには決して思われてはいない。
 そんななか、日本海最大の運輸量を誇る新潟港がこのままではもたなくなっているのは目に見えている。横浜のように「みなとみらい」を歌ってコンベンションシティに転換すればいいのか、阪神大震災から立ち直った神戸のようにポートアイランド構想を拡張していけばいいのか。それとも「ゆるキャラ」でごまかすのか。篠田市長も悩んでいた。
 というあたりで、ひとまず青春話と現在実情から離れてみることにする。いったい「港」は日本の内と外で、どんなふうに歴史を動かしてきたのかという話にしてみたい。

「新潟湊之真景」安政6年(1859)/新潟市歴史博物館蔵

12 ミナトとヤマト。

 日本語のミナトという言葉は、古代の「水門」あるいは「水の戸」に発している。西宮付近の「務古水門」(むこのみなと)、石巻の旧称である「伊寺水門」(いしのみなと)にその用例がのこる。
 この「水門」に対してヤマトがあった。ヤマトは「山の門」だ。これらは二つでひとつなのだから、ヤマトを知るにはミナトを知るべきなのだ。
 そもそもニニギノミコトの一行が高天原から日向の地に降りたのは、天鳥船という水運力によってのことで、そのニニギがコノハナサクヤヒメと結ばれて生んだ子は、兄が海幸彦で弟が山幸彦なのである。先行していたのは水門型の海幸だった。それが山幸も塩椎神(しおつちのかみ)の助力を得て力をもつようになってからは山門型が勢力を広げた。
 同様に、イワレヒコの神武東征も、九州から瀬戸内海コースを東上して、紀の国のミナト「男の水門」や難波のミナトに「津」をおいて(難波津)、そのあとタカクラジ(高倉下)の協力をえて、時間をかけてヤマトに入った。日本の建国はミナトが先で、ヤマトが後なのである。タカクラジはその後は越後の野積のミナトに入って天香山命(アメノカグヤマノミコト)となり、弥彦神社の祭神となった。
 その後、ミナトに類する言葉は機能と規模に応じて「津」「泊」「湊」「渡」「浦」「潟」などの併称となり、規模や用途によって呼び替えられてきた。万葉集には「御津」(みつ)という表現もある。では、今日では誰もがこの字をつかう「港」という漢字表記はいつごろなのかというと、こちらは江戸時代でもあまり使われず、幕末安政の5港の開港要求をきっかけに、やっと一挙に一般化した。
 開港5港はどこか、まさか日本人なら知らないとは言わせない。函館・新潟・横浜・神戸・長崎、だ。「港町ブルース」はこの5港を含んだ歌詞がほしかった。

ねぶた祭での海幸彦・山幸彦

13 黒船どんどん。

 日本には昔からクニ境いやムラ替わりのゲートスペースを「関渡津泊」(かんとしんぱく)と言いならわしてきた。「渡」「津」「泊」はいずれも港まわり水まわりのリミナル・トポスのことで、難波も「浪速(なみはや)の渡」が発展したものだった。これに街道のゲートにあたる「関」が加わって「関渡津泊」という慣用語になったのだが、ということは「渡・津・泊」も実は関所だったということなのである。
 こうした日本の歴史をほったらかしにして、東インド艦隊司令長官のペリーの開国開港通告を、日本は唯々諾々と受け入れた。孝明天皇は反対したが、老中阿部正弘は諸公にお伺いをたてたうえ、許諾した。
 ペリーのアジアの海に対する戦略を実行に移すにあたっての事前調査は、そうとう万全だった。嘉永5年(1852)にアメリカ東海岸のノーフォーク港を出ると、ケープタウン、セイロン島、シンガポール、香港、上海をへて、まず悠然と琉球王国に寄って首里城に出向き、ここで通商開国を要求した。東洋人の反応、琉球人の反応はすべてチェック済みだったのだ。続いて小笠原諸島を周航して、ここからは「サスケハナ」「ミシシッピ」「サラトガ」「プリマス」の4隻で浦賀にやってきた。
 幕府はあわてふためき、とりあえずは国書を受け取って翌年の再見を約束すると、安政1年(1864)、ペリーは今度は7隻の軍艦を引き連れていきなり江戸湾まで入り込んで錨を降ろしてみせた。それまでのあいだ、阿部正弘が何をしたかといえば、江川太郎左衛門に品川に海上砲台を何台か設けさせただけだった。いわゆる「お台場」だ。
 かくて日米和親条約が結ばれて、下田と函館が開港され、片務的最恵国待遇を突き付けた。
 続いて中国寧波の領事だったタウンゼント・ハリスがピアース大統領から駐日領事に任命されて下田に常駐し、日米通商修好条約を結ばせた。このとき5港の開港が決まり、関税権を奪われた。
 以上のことは、はっきりいえば「港」というものが日本にはまったく理解できていなかったということだ。むろん海外の歴史にもとづいたカテゴリーを知らなくたってかまわないが、それなら日本流を押し通し、屈服する必要もなかったのである。けれども井伊直弼をはじめ、開明派たちはここで知ったかぶりをする。

ペリー艦隊随行画家ハイネが描いた「ペリーの横浜上陸」
(横浜開港資料館蔵)

14 ポート/ハーバー/ドック。

 ペリーとハリスが突き付けた開港とは、「世界は港によって同等につながっていく」という意味だ。同等などということなど、ありえないが、しかしそういう意味なのだ。港とはグローバル・ゲートということなのである。
 港は、英語では周知のようにポート(port)やハーバー(harbour)などと言う。ただ歴史的にみると、その由来と性格は必ずしも一様ではない。由来を見ると、ラテン系の「ポート」、ゲルマン系の「ハーバー」、アングロサクソン系の「ドック」(dock)に分かれる。
 そもそも西洋の港は、ホメロスが『イーリアス』『オデュッセイア』に語った出来事に示されているように、紀元前10世紀、エーゲ海の沿岸に「主権をもった港湾都市」が生まれていたあたりから、すでに本気のスタートを切っていた。そこでは船の所有とその労働力が共同的な経営で運用されていた。つまり港とは交易や通商のゲートであって、労働拠点であって、また最初の最初からマネジメントの対象だったのである。
 これを受け継いだのが古代ギリシアのポリスで、海外の植民都市建設にはこの港湾部隊が先頭を切った。ポリスは陸地から発想されたものではなく、“海港共同体の陸地化”による産物なのだ。
 ここから世界の港の歴史が、エーゲ海や地中海の東西南北に向かって海港都市群として散らばっていき、都市国家の時代、フェニキアの時代、さらには古代ローマ帝国の母市母港システムの時代をへて、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンチノープルに代表される東西交易型の国際的港湾都市の脈動史へとつながっていった。
 これらの変遷についてはあとで少々解説するけれど、この流れのどこかでポート、ハーバー、ドックが先進的海洋各国の歴史戦略的な意図にもとづいて分かれていったわけなのである。
 そこで、ここではポート(port)について述べておくけれど、これがなかなかのものなのだ。以下のこと、知れば知るほどペリーの意図が深くも広くもあったろうことが見えてくる。

15 ポートごんごん語源群。

 ポートはラテン語の“portus”を当初の語源として、そうとう多くの重要語を派生した。ポルタスはもともとは「はこぶ」という意味なのだが、英語の語彙の例をあげるだけでも、そこからかなり重要な用語と意味がつくられてきた。
 わかりやすくは export(輸出する)、import(輸入する)、transport(輸送する)、deport(追放する)、 passport(パスポート)がある。いずれも“port”が入っている。
 それだけではない。report(報告する)、rapport(親密にする)、support(支える) もポートなのである。ペリーが幕府に渡した国書はナショナルメッセージ・レポートであって、アメリカが支援(サポート)を与えるということでもあって、和親(ラポート)することだった。それはまさしくポート開港にふさわしかったのだ。
 ここまではまだ序の口だ。ポートからはさらに disport(遊ぶ)から sport(スポーツ)も派生した。サッカーも野球も、ピッチもダイヤモンドもゴールも、ポートをめぐる相互ゲームなのである。これら、どれもが港に擬したカテゴリーなのだ。むろんポーター(運搬人)もポータブル(携帯する)も港に由来する。
 最も興味深いのは、ひとつには import(輸入する)が important(重要な)にまでなったことだろう。輸入あるいは輸入品こそが、その港、その民族、その都市、その国家にとってインポータントなのだ。また、そのことを成立させる港が重要なのだ。開港とは港を開くだけではなく、その時代の最も重要な問題を開くことだったのだ。
 もうひとつには、opportune(時機が好都合)が opportunity(機会・好機)になったことだろう。オポチュニティはチャンスやオケージョンと似た言葉だが、opportunity とは“leading to the port”ということなのだ。いかに重大きわまりない事態と時機が「港」に由来していたことか。

16 日本には港湾世界史がとぼとぼ乏しい。

 さて、港についての話を書こうとすると、ぼくの不勉強のせいもあるだろうが、実はびったりした本が見つからない。
 やむなく、古代中世なら『エリュトゥーラ航海記』やヴァイキングの歴史やフェルナン・ブローデル(1363夜)らの『地中界』シリーズを、そうでなければ鄭和(ていわ)の記録や漁労や船の歴史についての本しか読んでこなかった。一番多いのは大航海時代にまつわる歴史だ。
 なかでも倭寇やバッカニーアなどの海賊の歴史はおもしろかったけれど、これらは港というより海上が舞台だ。あまり港のことはわからない。続く近世以降はダニエル・デフォー(1173夜)のような空想的航海記を追ってみたけれど、これらはあまりにファンタジックすぎる。
 近代史でもなかなか詳細が見えてはこなかった。へこたれてジョセフ・コンラッド(1070夜)の『闇の奥』『ナーシサス号の黒人』やポオ(972夜)の『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』、さらには海洋開発ものや造船事業の歴史、ときには海軍の歴史やブライアン・キャスリンの『無頼船長トラップ』などを読んで、つまりはいつしかジョニー・デップの『パイレーツ・オブ・カリビアン』や『ワンピース』のドタバタ興奮をいろいろごちゃまぜにし、お茶を濁してきた。
 どうも港の話に集約できないのだ。最近は日本にも海洋国家論がやっと浮上して、川勝平太(225夜)の本や東南アジアの海洋ネットワーク論なども出るようになったけれど、いっときは港湾文化論など、ないにひとしかった。
 ということで、今夜とりあげた高見玄一郎の『港の世界史』は、けっこうめずらしい本だったのである。

映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」
ジョニー・デップが大海賊ジャック・スパロウを演じる。 

海賊モンキー・D・ルフィが主人公の漫画「ONE PIECE」

17 どこどこが分岐点だったのか。

 話を戻して、いったい「ポート」「ハーバー」「ドック」がどのように分かれていったかというと、鍵はヴェネチアにある。ヴェネチアの勃興とそれに続いた大航海時代による各国勢力のめまぐるしい変遷に、ヨーロッパにおける「港の歴史」の基点と分点があった。ペリーの船もそこからやってきた。
 そのヴェネチアの港湾的通商力は、もとを辿ればビザンチウムからの継承だ。ビザンチウムは先行していた古代ローマ帝国がどのように港湾をつくったかということを継承した。その前は古代ギリシアの都市国家やエーゲ海や地中海やエジプトの古代文明期の“海の民”の活動ということになる。
 歴史順にいえば、古代地中海沿岸の諸動向→古代ギリシア→ヘレニズムの拡張→古代ローマ帝国→ヴェネチアの登場→大航海時代の変遷(ポルトガルとスペイン)→オランダの時代→7つの海を制したイギリス→新興アメリカ→ペリー来航というふうになる。この流れのどこかで「ポート」「ハーバー」「ドック」が分かれていったのだ。
 このことは言うまでもないけれど、東洋にはあてはまらない。アジアはそういうものではなかった。
 まずもって中国人と中国言語圏の範囲がでかすぎて、大陸内を河川で運行するほうが急務だったので、河川港のほうが海港よりもずっと早く発達したからだ。
 春秋時代の紀元前700年ころに、すでに黄河を渡るための芽津(マオチン)、盟津(モンチン)、棘津(チイチン)があった。今日、仰韶(ヤンシャオ)文化の遺跡が集中するところだ。しかも時代が進むにつれて、そこに大運河の開削が加わって、河川港としての城市が豊かに発達した。春秋戦国時代にして19座の城市があった。周の洛邑(洛陽)、斉の臨溜、晋の曲沃、楚の江陵、衛の瀑陽、呉の呉邑(蘇州)、越の会稽(紹興)などなど。
 つまり中国では「津」は中原(内陸)でできあがったのだ。それでも海に面していた呉・越・斉・燕などは、当然、航海技術や造船技術に長けていて、それぞれ「舟師」をもっていたのだが、その技術と交易力は海外に向けられるよりずっと長く、内陸交通に向けられた。
 アジアにおける海上ルートと港湾の発達は、一部は漢の、大半は隋と唐の時代になってからなのだ。ということで、今夜の話はヨーロッパが中心になる。

紹興酒で有名となった紹興の港

18 戻って古代ローマの港ロマン。

 イタリア半島の海岸線は想像するほど複雑ではない。南のナポリやソレントやサンタルチアを除いて、天然の良港もあまりない。そこで古代ローマ時代には港湾建設が重要になった。
 ローマ皇帝はまず母港をつくり、その付近に艀(はしけ)で行き来できる子港をつくった。外港だ。母市・子市の関係になる。子のひとつのプテオリは古代に築港された港で、早くから北アフリカ、シチリア、アレクサンドリアを往復していた。オスチアはカエサル(シーザー)とアウグストゥス帝が命じて築港された人工大港湾である(いまはフィミッチノ空港の下に埋もれたままになっている)。
 こうした母港(母市)と外港(連市)の二重多重のオペレーションによって、古代ローマ帝国は機能した。街道がローマの都市中心から四方八達したように、海と港のほうもセンター思想がはたらいたのだ。
 しかし、ここへ4世紀後半からゲルマン民族がドン河・ライン河・ドナウ河を越えて何度となく侵攻した。周知の通り、これは陸地からの侵入だ。そのためローマ帝国は衰退分裂して、内側から破れていった。残された外側の海洋性がどうなったかというと、東ローマ帝国のほうへ移っていった。ビザンチウムのほうへ展出していった。
 ここに浮上してきたのが、いまはイスタンブールとなった東西貿易港コンスタンティノープルだ。

イタリア南部のナポリにあったプテオリ港(現在のポッツオーリ)

19 東西をつなぐビザンチン。

 ビザンチウムの交易力は世界史上初めてのことだったが、なんといっても黒海と地中海とを結ぶコンスタンティノープルの“世界の臍”としてのグローバルな立港条件が図抜けていて、みごとなまでに東と西の経済文化を結んだ。
 おまけに9世紀になると中央アジアの争乱が続いたので、陸のシルクロードが分断されて、それに代わって本格的な海の時代がやってきた。ビザンチン皇帝たちはすかさず貨幣経済を著しく発達させた。商船は120トンから200トンくらいの一本マストで、ここに商人が乗り込んで地中海とシルクロードを水陸両用につないでいった。
 それでもビザンチンの栄華は長くはなかった。11世紀後半にセルジューク朝のトルコ民族の攻撃を受けて弱体化し、いったんはコムネノス王朝によって復活するのだが、その後、第4回十字軍の獰猛な軍隊がコンスタンティノープルの海港城壁が低いという弱点をついて海から攻めて、暴行・虐殺・略奪のかぎりを尽くしたため、あっけなく陥落してしまった。攻め込んだほうの十字軍はコンスタンティノープルを中心にラテン帝国を建てた。
 もっともそのラテン帝国も俄か仕立てで存立基盤が脆弱だったので、このあと述べるヴェネチアの海商たちがたくみにその力を梳(くしけず)り、これを牛耳っていくことになる。
 そうしたコンスタンティノープル昔日の栄華は、橘外男の『コンスタンチノープル』(中公文庫)や、最近の本ならウンベルト・エーコ(241夜)の『バウドリーノ』上下(岩波書店)に詳しい。

16世紀に描かれたイスタンブール

20 アダム・スミスのすみすみ観察。

 以上の流れをまとめると、大ローマ帝国が崩壊した、ヨーロッパは数百年にわたって民族移動の波状事態にさらされた、いわゆる暗黒時代になった、それに代わって海をまたぐ交易権力が次代の覇者になっていった、ということになる。
 そのくらい内陸ヨーロッパはへなちょこだったのだ。実際にも当時、繁栄していた大都市は平均人口20万人のコンスタンティノープルと(最盛期は30万から40万人)、やはり20万の人口を擁したイベリア半島のイスラミックなコルドバくらいのものだった(パリ8万人、ロンドン2万人)。ただし、この巨大2都市は“西洋”ではなかった。
 それでもフランク王国が三分され、フランス・カペー王朝やオットー1世の神聖ローマ帝国が分立しはじめた10世紀になると、ぼちぼちヨーロッパ各地に自由都市が誕生し、それが内陸的には「琥珀の道」や「小麦の道」などでつながっていく。それでも、それらはまだ民族移動で侵入したゲルマン系の力が強く、たとえば北イタリアのロンバルディアは金融力を発揮して、のちの銀行業務にあたる才知に長けた程度であった。いまロンドン・シティの金融を支えるロンバート街は、そのロンバルディアという名の名残りだ。
 アダム・スミスは『国富論』(岩波文庫)に、中世ヨーロッパの諸都市がどのように富を確保していったかを述べ、とりわけイタリア諸都市が貿易による富を蓄積した最初の例だったことを強調した。

ロンバルディアの港

21 ハンザはんはん自由都市。

 ヨーロッパ各地の自由都市は、ハンザ商人の活動によってアクチベイトされていた。活動の中心になったのはハンザ同盟だ。
 同盟を結んでいたのはハンブルク、リューベック、ドルトムント、ビスビー、リガなどの港湾型自由都市である。その外延地帯にブルージュ、ブレーメン、マルセイユ、ロンドン、ベルゲン、ノブゴロドが控えた。
 本書はハンブルクを例に、こうした自由都市の消長を綴っている。十字軍の遠征資金を拠出して、その見返りとして1189年に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世から多くの特権と自由を獲得できたこと、自己裁判力や河川漁業権を早くに入手できたこと、1241年にリューベックと防衛同盟を結べたこと、都市づくりにおいて要塞性を加味したことなどが、ハンブルクを強くさせたのだ。水辺に大規模な商品取引所を開設したのもハンブルクが最初だった。
 実は港を「ハーバー」と呼ぶようになったのは、このハンブルク的なるものの強みが影響している。ドイツ語ハーフェン(船着き場)がいつしか英語化してハーバーになった。アルスター・ハーフェンやビンネン・ハーフェンなどの船着き場が、しだいにゲルマン特有にハーバー化していったのである。
 しかし、さしものハンザ同盟都市のネットワークもヴェネチアの台頭には敵わなかった。

ハンブルクの港
完全な自治を許され貨幣製造権を得て、ハンザ同盟の成立へと至る。

22 ヴェネチアべんべんの制覇。

 ヴェネチアはアドリア海の北端ヴェネチア・ラグーンの小さな島嶼都市だった。なぜそんな小さな海港都市ヴェネチアが台頭できたかというと、二つのエンジンがほぼ同時に動いた。
 一つには、東ローマ帝国がゴート族からイタリアを取り戻そうとして、535年にベリサリウス海将による遠征軍を送った。このときラベンナとヴェネチア・ラグーンを配属させ、そうちのヴェネチアがビザンチン帝国の領土になったのだが、そのあと独立して自治都市として承認された。
 二つには、フランク王国のカール大帝(573夜)がビザンチウムとバグダッドとの直接交易をほしがっていたとき、ヴェネチアが首尾よくヨーロッパ諸国とビザンチウムとを結ぶ交易権を独占する約束をとりつけたのである。このちょっとした結び目によってビザンチン時代からヴェネチア時代に世界史が移動する。
 こうしてヴェネチアは幾つかの特権をもって交易経済舞台の中心に登場した。さっそくヴェネチアの商人たち、つまりは「ベニスの商人」たちは造船にとりくみ、交易による収入を巨大にするため、さまざまな商業機構の仕組みを考案した。
 なかでも「コレガンツァ」は投資に対する利益の配分を定めたもので、利益をほしがる投資家たちを巧みに海上ローンに誘導することになった。自治能力も高まってきた。まずは一人のドージェ(執政官)のもとに君主政治を確立させ、ついではドージェを廃してオリガルキーと呼ばれる大ギルド商人の複数ガバナンスの体制をとった。ここから「コンメンダ」や「コンパニア」が、つまりは会社の原型ができていく。
 商船は100トンから250トンの丸船と速力の出るガレー船の長船で、最盛期では330隻が行き交い、年間3000トンから5000トンの高価な商品を東西に動かした。レバント各地には通商デポとして幾つものヴェネチアン・クォーター(ヴェネチア人居住区)が設けられた。
 北東のダルマチアから攻撃を受けたのをきっかけに、したたかな海軍力も保持するようになった。十字軍に安全な航路を提供したのは、ヴェネチアの海軍力による。ラテン帝国が骨抜きになったのは、貸しをつくっていたヴェネチアのせいなのだ。

ヴェネチア
中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。

23 ここから交易資本主義?

 このようなヴェネチアによるアドリア海制覇と東西貿易掌握は、その後の港湾世界史にとっても、このあとの資本主義システムの誕生にとっても決定的な出来事になっていく。
 ヴェネチアの港湾的通商力は、大航海時代をへたのちにやがてアントワープやアムステルダムに移され、さらに海を渡ってロンドンに移植され、ここにおいて世界システムとしての資本主義モデルができあがったのだ。
 もっともこれはあくまでウォーラスティン(1364夜)らの西側の見方であって、この見方以外の歴史観がほかにもあることは言うまでもない。
 ひとつの見方は、13世紀のモンゴルの勃興と拡張にそのアジア的原型があっただろうこと、それはイスラム経済に連携していただろうことだ。もうひとつの見方は、ジャネット・アブー=ルゴド(1402夜)の『ヨーロッパ覇権以前』やアンドレ・フランク(1394夜)の『リオリエント』などで主張されていたので、ぼくも千夜千冊しておいたのだが、中国経済のそこかしこに流れてきた非アングロサクソン的なアジア型の国富論の系譜があっただろうということだ。
 だから西側主権的にいえば、ヴェネチア、アムステルダム、ロンドンが資本主義モデルをつくったということになるのだが、それはとりもなおさず「西型港湾資本主義」がその原理にあったということなのである。

アムステルダム
17世紀、世界を牽引するファイナンシャル・センターであり、アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所でもあった。

ロンドンの港
18世紀「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるもの全てがあるから。」(サミュエル・ジョンソン)と言われた。[63]

24 大航海時代が港の地図を変えた。

 大航海時代はポルトガルのエンリケ(ヘンリー)航海王が先頭を切った。アダム・スミスは「ヴェネチア人の大利潤がポルトガル人の貪欲心を誘ったのだろう」と書いている。
 エンリケ王子は1415年にジブラルタル海峡の向かい側のセウタを占領したあと、ザグレス岬に籠もって大計画を決意した。ここは、ポルトガル詩人カモンイスが「大陸の終わるところ、大海の始まるところ」とうたった場所だ。王子は大航海のための地理学・数学・航海術を学び、多くの船乗りや船大工を集め、まずはアフリカ西岸を探検することにした。
 ポルトガルは15世紀の100年をかけて、ムーア人がサハラを横断して象牙や砂金をもたらしてくるその航路をつきとめたくてしょうがなかった。そこでマディエラ諸島、カナリア諸島、アゾレス諸島、ヴァード岬諸島を次々に発見すると、ついではギニア、ロアンゴ、コンゴ、アンゴラを見いだして、ついには喜望峰まわりの海路をつくりあげたのである。カナリア諸島あたりまでの発見がエンリケ王子在世期の凱旋になる。
 1460年のエンリケの死後、ポルトガル王アルフォンソ5世は地理学者トスカネリに「どうしたらインドに行けるのかね」と訊いた。世界地図をつくりつつあったトスカネリは「閣下、大西洋を西に行かれるとよろしい」と答えた。
 しばらくアフリカ西海岸ばかりを探検していたポルトガルが「インドへの道」を発見したのは、トスカネリのヒントから35年後の、1497年にリスボンを出発したヴァスコ・ダ・ガマが4隻の船団でインドスタンの海岸に到着したときだった。

[左]トスカネリ
[右]トスカネリが描いた世界地図

[左]ヴァスコ・ダ・ガマ
[右]ヴァスコ・ダ・ガマの航路

25 ポートぽとぽとポルトガル。

 なぜポルトガルが新しい時代の寵児となりえたのだろうか。
 イベリア半島にはイスラム勢力が進出しつつあった。その最大の拠点が20万都市コルドバだ。カール・マルテル将軍によるトゥール・ポアチエの戦いこのかた、ヨーロッパはイスラム勢力の進出を食い止めることが至上命令だったのだ。
 そのため、各地でレコンキスタ(失地回復運動)がおこった。この運動が海洋国ポルトガルでは早期に稼働した。内陸部のカスティリア王国・アラゴン王国(のちのスペイン)の着手よりもざっと250年くらい早かったのだ。
 対抗すべきイギリスとフランスが百年戦争に象徴されるように、大陸間内部抗争に身を焦がしていたことも、ポルトガルには有利だった。カラベラ船という船体が長くて波の衝撃に耐えられる造船が発達したことも大きい。イベリア半島で群を抜く海洋性をもっていたことが、ポルトガルをして世界へ船出させたのだ。
 そもそもポルトガルという国名あるいは地名が、古代ローマ帝国の「テリトリウム・ポルッス・カレンセ」(ローマが軍隊を上陸させた港)に由来する。このラテン語の“Portus Calanse”は、英語でいえば“Port of Cale”だから、ポルトガルとはもともとが「ポートの国」だったのだ。これが先に述べたラテン系「ポート」語類につらなっていく。

20万都市コルドバの現在

26 ここからはスペインの急追。

 ポルトガルに出遅れたスペインは、太古においてはクロマニヨン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に定住した者たちをルーツとするらしい。
 それが地中海側のイベリア人、大西洋側のケルト人、ピレネー西部のバスク人などとして分住するようになった。その後はアンダルシアにもいくつもの部族が住み着いた。
 スペインの土地は古代ローマ時代は属洲ヒスパニアだった。ヒスパニアは各地がローマ街道で結ばれて、ローマ帝国の穀倉地帯になっていた。
 この状態がざっと500年くらい続いて、そこへ西ゴート族が進出して西ゴート王国をつくり、国王レカレド1世がそれまでのアリウス派の宗旨を衣替えして、カトリックに改宗した。以降、スペインは宗教的にはずっとカトリックが続く。
 こうして11世紀くらいからはナバラ王国、カスティリア王国、アラゴン王国などのカトリック系諸国が分立したのだが、とはいえ13世紀の段階でもカスティリアはまだ騎馬民族の末裔だった。
 わずかに北海岸のビルバオやビスケーなどの小港を通じて、ロバの背に乗せたブルゴス地方の羊毛を積み出し、フランドル地方に輸出している程度。やがて東海岸のムルシアおよびバレンシアを征服できると、やっとイタリアからの穀物を供給できるようになった。
 一方、北方のアラゴン王国がバルセロナを中心的な港湾にするようになると、そこからジェノヴァとの交易が始まった。そのころカスティリア王国もセルビアの港を取得した。騎馬系のカスティリア人は海は苦手だったが、ここでガリシアやバスクの諸港から職人や船乗りを集め、造船や航海の準備に当たらせた。

バルセロナ港
12世紀、アラゴン王国はバルセロナからアテネに至る地中海を支配するまでになった。

27 コロンブスのころころ卵。

 1469年、カスティリアのイザベル女王とアラゴンのフェルディナンドが結婚すると、ここにスペイン(エスパーニャ)王国が誕生する。ここから先はよく知られているように、イザベルの資金提供により、1492年にいよいよクリストファー・コロンブスがリオチントの港からサンタマリア号で船出した。3本マストの240トンのカラベラ船である。
 その後のスペインの快進撃は驚くべき野望に満ちていた。アメリゴ・ベスプッチ、デ・ソリス、マゼランらの探検的な遠洋航海が続き、バルボアがパナマを越えて太平洋に出たのが1513年のことだ。
 野望だけではない、殺戮も辞さなかった。バルボアがパナマを越えた時からわずか7年後には、かのヘルマン・コルテスがメキシコ征服を、1530年にはかのフランシスコ・ピサロがペルー征服を果たしている。
 今夜はスペインのインカ殺しの話はしないけれど、またそこにけっこう複雑な事情があったこともさておくけれど、ともかくもこれらによって、新大陸の銀は一挙にスペインに流れ込み、コロンブスの卵が割れ、その中身がスペイン語圏に散っていったのだ。

16世紀のスペイン・セビリア

[左]クリストファー・コロンブス
[右]サンタマリア号の模型

28 おらおらオランダ時代。

 16世紀がポルトガルとスペインの海洋主権時代なら、次の17世紀はオランダの港湾都市の席巻が世界をゆるがす番である。
 すでにネーデルランドはヨーロッパで最も産業の発達した地域になっていた。フランドルの毛織物がいちはやくマニファクチュア化されたからだ。ネーデルランドと北イタリアを除き、当時のヨーロッパ諸国はほとんどすべてが農業国だったのだ。
 1570年、オランダはフレボート(vleoboot)という新型商船を、1595年には重心が低く速力のあるフレーテを開発した。このイノベーションは運賃コストを半分近く引き下げたので、オランダはたちまち北海やバルチック海の主導権を握ることになった。アントワープやアムステルダムはスウェーデンの鉄や銅、北ドイツの穀物、ノルウェーの木材、ポルトガルの塩、北海のニシンなどを動かした。
 1594年、アムステルダムの9人の港湾商人が「遠い土地のための会社」を立ち上げた。2年後、この会社は3隻の船隊をジャワのバンタム港に送りこむ。249人の船員のうち帰国できたのはわずか89人だけだったが、かれらは失望もしなかったし、休みもしなかった。持ち帰った香料と香辛料にヨーロッパ中がとびついたのだ。
 これが1602年3月に連合東インド会社となったものの前身だ。
 連合東インド会社には、アムステルダム、ロッテルダム、ゼーラント、デルフトなど6都市の市議会が出資した。初期投資額が650万ギルダー。オランダ共和国政府はこの会社に対して、向こう21年間にわたる喜望峰・マゼラン海峡から西の太平洋・インド洋の交易独占権と戦闘権を与えた。
 これこそ最も初期の「株式会社」の誕生だ(1293夜)。株式会社は最初からグローバルだったのだ。海のグローバリズムである。
 オランダは新大陸の可能性にも賭けて、続いて西インド会社を設立した。1609年にヘンリー・ハドソンが発見したハドソン河の流域にニューネーデルランドを建設すると、2年後には港湾をまるごとかかえこんだニューアムステルダム建設に着手した。のちのニューヨークだ。今日なおニューヨーク金融の中心になっているウォール街は、オランダ人たちがこのときニューアムステルダムを防衛するために築いた防塞ウォールの跡である。
 ヨハン・ホイジンガは『レンブラントの世紀』に、こう書いている。「アムステルダムは正当にも自由貿易の推進者となって、しかもそれを中世的で保守的な慣習と一致させた。こうして世界貿易によって獲得された富はフランス・ルイ王朝型の重商主義をとびこえて、共和国を力強いものにしていった」。

マンハッタン島の先端に築かれたニューアムステルテルダムと城壁

現在のウォール街
ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を管轄していたオランダ西インド会社が、ニューイングランドに入植したイギリス人からの攻撃に備えて、木材などを利用して築いた防護壁(wall)に由来する。

29 いよいよイギリスに東インド会社。

 オランダはポルトガルの権益権を駆逐していった。造船力でも軍事力でも勝っていた。1605年にモルッカ諸島アンボイナのポルトガルの砦(フォート=ポート)を占領したのを皮切りに、次々に東南アジアの港湾を、とりわけマレー多島海をオランダ化していった。
 香料の島々をことごとく占拠した冒険的オランダ船は、1609年7月にはわが平戸にまで船足をのばした。オランダが平戸まで辿り着けたのは、その前に漂着していたリーフデ号の航路情報をいかしたからだった。ぼくは大学時代にここを訪ね、近松が綴った国姓爺の夢の跡にしばらく浸ったものだ(974夜)。
 このオランダの勢力に追いつけ追いこせを図ったのは、もはやポルトガルでもスペインでもない。オランダ船舶力に対抗できて、凌駕できるのはイギリスだけだった。その先頭と戦闘を切ったのは1600年に設立されたイギリス東インド会社だ。
 しかし当初のうちはイギリス東インド会社の猛者たちも、ジャワでもスマトラでもオランダ勢に跳ね返された。インドのムガール帝国のスラート港に入ったイギリス船は、オランダ勢とフランス勢と戦わざるをえなかった。それでも、喜望峰からマダガスカル島の西側からアフリカ東海岸のモザンビークやモンバサの港を北上して、まっすぐにインドのボンベイに入った商船隊は先取権をとった。イギリスはただちにマドラス港、カルカッタ港を利用した。
 イギリスの交易力はオランダよりもビジネスっぽい特色をもっていた。一方では各地の港を拠点に綿花や胡椒を輸入して、そこへイギリス製の綿製品を送りこむとともに、他方ではインド各地の物産を相互トレードさせる「カントリー・トレード」とよばれたビジネスに長けていた。巧妙なのである。
 オランダはアジアの珍品を持ち帰ることで強大になったのだが、イギリスは本国の技術を加えた加工製品をアジアに売ることに長けたのだ。「三角貿易」主義だ。このイギリス主義、すなわちアングロサクソン型ビジネスモデルこそ、資本主義をロンドンで確立させる特色になったものだった。

オランダ東インド会社の長崎出島商館

30 どんどんロンドン資本主義。

 すでに述べてきたように、ヴェネチアによって新たな時代を迎えた港湾交易力は、その後は大航海時代のポルトガルとスペインによって世界に広まり、それがオランダのアムステルダムに生まれた株式会社に向かって吸収されてきたのだが、これらをまとめて集大成したのは結局はロンドンだったのである。
 きっかけはエリザベス女王時代の1576年に、スペインがアントワープを封鎖したことで、その商業的センター機能を一挙にロンドンに移したことにある。
 この強引をやってのけたのは、アントワープ駐在の財務官だったトーマス・グレシャムだ。グレシャムはロンドンにロイヤル・エクスチェンジ(王立取引所)を設立すると、後世に名高い「グレシャムの法則」を唱導していった。
 グレシャムの財務論は金本位制の経済学の基礎といわれている。貨幣の額面価値と実質価値に乖離がおこっているとき、より実質価値の高い貨幣が流通から駆逐され、かえって実質価値の低い貨幣が流通するという、いわゆる「悪貨は良貨を駆逐する」というものだ。
 しかしこれはありていにいえば通貨主義の経済学で、つまりは金儲け主義の法則だった。のちにこの法則は商品市場にもあてはめられて、「逆選択の資本主義」あるいは「レモンの原理」などと呼ばれた。イギリスはこの方向に進んだのである。千夜千冊(1366夜)でも書いておいたけれど、資本主義のアングロサクソン・モデルの出発点とはそういうものなのだ。
 もっとも、ロンドンが近代資本主義の“親の総取り”になったのは、それだけが“勝因”であるわけではない。オランダやフランスの輸入型の東インド会社の交易を、本国加工の商品の輸出型にしていったこと、そのための技術力と労働力を安価にしていったこと、さらにはそこへ産業革命をかぶせられたこと、これらの複合力にもよっていた。
 そして、ここに特筆されるべきがロンドンの近代港湾システムの登場なのである。「ドック」システムの確立だった。

[左]トーマス・グレシャム
[右]ロンドンにある王立取引所

初期のドックシステム

31 どくどくドックが世界大に。

 本書の著者の高見玄一郎には『近代港湾の成立と発展』(東洋経済新報社)という著書がある。本書とともにロンドンがいかに近代港湾の原型をつくったかが強調されている。
 ロンドンはテムズ川とその河口とともにある。その北岸には古くから原住民の集落があり、そこをローマ人が占拠してからは城壁をめぐらせたミニ都市が形成された。タキトゥスの『歴史』には紀元61年に、ローマ商人たちがしばしばロンドンを訪れたという記録が紹介されている。
 410年、そのローマ人が引き上げたあと、ロンドンはしだいに対岸のノルマンディ、フランドル、スカンディナビアと交流し、多くの商人を呼び寄せるようになっていた。その後、サクソン人の侵入、ノルマン人の占拠、デーン人の侵入などがめまぐるしく続くのだが、ロンドンは「リセプタクル」(器)としてはそれらを平気でごちゃまぜに受け入れてきた。
 10世紀、「イースタン・リングス」(東方の国の者たち)と呼ばれたドイツのハンザ商人団がテムズ河口のダウゲートにやってきて、「スチールヤード・マーチャント」となって、ロンドン交易の中核部隊になった。
 他方、フランスのルーアンからは葡萄酒の商人たちがやってきて、ビリングスゲートを船着き場にした。他の国の連中は上流のクイーンハイズに落ち着いた。また別のノルマン人たちはノルマンタワーをつくって目印にした(これがのちのロンドン塔になる)。かれらはそれぞれ好きに船着き場をつくっていったのだ。
 やがて大航海時代になってアフリカ航路、東インド航路、アメリカ航路などが賑やかになると、ロンドンの3つのゲートやハイズは手狭まになってくる。ここにロンドン港をとびとびにつなぐか、統合するかの必要が出てきた。
 一方、ヘンリー7世に始まるチューダー朝はテムズ河畔の色とりどりの商人たちの定住を認め、これらの商業力を時の王権強化の一助に仕立てる政策をとった。いわゆるロンドンの「マーチャント・アドベンチュアラーズ」だ。
 かれらは正式なフェローシップを得て、自分たちの故郷と取引先をシンボライズした会社をつくった。フランス会社、ロシア会社、レバント会社、ヴァージニア会社、スペイン会社、マサチューセッツ湾会社、バーミューダ会社などなど。これらはのちにすべてが株式会社となっていく。
 こうしてエリザベス女王時代の東インド会社の設立とともに、ロンドンに新たな港湾システムが誕生していったのである。船着き場を整備して、その水準と作業量を飛躍させるべき「ドック」を連ねていったのだ。そうなったのは、ロンドン橋を低い石橋にしたため、上流の船着き場が使えなくなってしまったことも関係していた。
 ドック・システムは、関税を徴収する貨物の積み降ろしのためのリーガル・キイ、一般船舶を接岸して貨物の積み降ろしをするワーフ、これらを運営するドック・カンパニーから成り立っていた。
 もともとドックとは岸壁を切り込んで陸地に海水を引き込んだ掘り込み埠頭のことで、イギリス人がつくった言葉だ。だからそのドックでビジネスをする会社がドック・カンパニーになるのだが、そのうち港や港湾全体をドックと言うようにもなった。
 のちの話になるけれど、その後のドックは1855年のロイヤル・ビクトリア・ドック、1880年のロイヤル・アルバート・ドック、1921年のキングジョージ5世ドックというふうに、世に“ロイヤル・ドックス”と並び称された勢揃いも見せていく。
 こうしたロンドンの近代港湾システムが世界に冠たるものになっていくのは、1855年にビクトリア・ドックで蒸気船とグレートイースタン鉄道とが結び付いたときだった。

14世紀半ばに、英国ヨーク市に建てられたマーチャント・アドベンチャラーズ・ホール

32 かもめ、かもめ、笑っておくれ。

 そろそろ今夜の話を締めくくろうと思う。ずいぶんゆらゆらしすぎた港湾談義だったけれど、どこかで一度はしておきたかった話なのだ。
 港というもの、それ自体が世界史の入口と出口であって、世界史のなかのでの長きにわたるグローバリズムの代名詞だった。港は港自体が民族と都市と国家の最も過敏なコミュニケーションで、イン・ポータントな世界史なのである。今夜はそのことを猛スピードでかいつまんでおいた。
 近現代の港湾は、その後は豪華客船時代、軍事的戦艦時代、自動車社会と合体したフェリーボート時代、大型コンテナ時代などをへて、その機能を空輸力や陸送力に奪われていく。
 けれども、だからといってどんな国のどんな港も、このままグローバリズムの渦中にとりこまれなければならないなんてことは、ない。背伸びして見る海峡に、今日も汽笛が遠ざかるだけだって、かまわない。浅川マキが歌ったように、おいらが恋した女は港町のあばずれで、ドアを開けたままで着替えしているので、「かもめ、かもめ、笑っておくれ」だって、いい。
 われわれはいつまでたっても「内なる港」「外なる港」の“あいだ”にいる者なのである。今夜はいろいろゆらゆらスキップしたけれど、「関渡津泊」や「ポート、ハーバー、ドック」は、その形を変えてウェブ・ネットワークの“情報の港”に転移していると、そう、見たっていいわけだ。
 ところで、ぼくはいま「港区」に住んでいる。ときどき港区小中学生俳句大会をやっている。先日、その会場を覗いてみたら、こんな句が掛かっていた。「どこまでが空か海かと泳ぎだす」。 

 

⊕港の世界史⊕

∃ 著者:高見玄一郎(たかみ・げんいちろう)
∃ 装幀:中島かほる
∃ 発行者:八尋舜右
∃ 発行所:朝日新聞社
∃ 印刷:図書印刷
∃ 製本:清美堂製本
⊂ 1989年6月30日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈∈ プロローグ
∈ Ⅰ 古典古代
∈ Ⅱ 中国の古代水運と港湾
∈ Ⅲ 中世の谷間から
∈ Ⅳ 大航海の時代
∈ Ⅴ アムステルダムの貿易と海運
∈ Ⅵ インド・太平洋のライバルたち
∈ Ⅶ 偉大なるロンドン――近代港湾の成立
∈ Ⅷ アメリカにおける発展――現代への展開
∈∈ エピローグ

⊗ 著者略歴 ⊗

高見玄一郎(たかみ・げんいちろう)
1910年福岡県生まれ。1931年旧制浦和高等学校中退、日本国際問題調査会主査、京城日報社参事、論説委員。戦後は神奈川新聞社論説委員、横浜市立大学講師を経て、1965年港湾経済研究所を設立。1984年横浜港湾経済研究所と改称。日本港湾経済学会常任理事、米国NCITD名誉会員。