才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ショッキング・ピンクを生んだ女

エルザ・スキャパレリ

ブルース・インターアクションズ 2008

Elsa Schiaparelli
Shocking Life 1954
[訳]長澤均

[訳者]赤塚きょう子

編集:岩崎梓
装幀:パピエ・コレ

いまやっとスキャパレリが復活しつつある。
ポール・ポワレに見いだされたスキャパレリは、
少女のころからとても特異な才能の持ち主だった。
長じては、時代を一変するファッションを連打した。
そのひとつがショッキング・ピンクや
ファスナー・ドレスや海老の夜会服の登場だ。
ダリとは靴のような帽子を、コクトーとは
抽斗のついたトロンプ・ルイユ・コートをつくった。
本書は、稀にみる文才によって綴られた自伝だ。
世界大戦下の欧米のめまぐるしい日々が
めずらしいエピソード群によって
鮮やかに描写されている。
こんな女に、ぜひ会ってみたかった。

◆――私ことスキャップことエルザ・スキャパレリは、五次元のような存在である。笑いと涙が相反しているし、悲しみや喪失は快く受け入れるが、幸せはどう扱っていいのかわからない。

 7つ歳上のココ・シャネル(440夜)が同時代のデザイナーで一番嫉妬し、一番ライバル視したのはエルザ・スキャパレリだった。素っ頓狂なのに繊細で、とびきりシュールなのにハイパーロマンチック、ようするに大胆かつエレガントなのだ。
 しかし、シャネル・ブランドはシャネル亡きあともカール・ラガーフェルドが維持発展させて今日に至ったが、スキャパレリのブランドは僅かに香水と小物がライセンスとして残っただけだった。そのせいか、スキャパレリの一世を風靡したぶっちぎり感覚と比類のないアートセンスとハイブローな人生がうっかり忘れられていて、日本のお粗末なファッション史ではその記述すら省かれてきたか、ほんの数行ふれられてきた程度だった。
 これはとんでもない欠損だ。スキャパレリやその背後にいたポール・ポワレの周辺のことがわからないでは、ヨーロッパ・ファッションは語れない。
 いまこそ思い出したい。スキャパレリは1927年にパリのウニベルシテ20番地にブティックを開店して「ディスプレイNo1」を発表し、ヴァンドール広場でメゾンを設けてから50年代半ばまで、世界で最も異色で尖がったデザイナーだったのだ。クチュリエだったのだ。アーティストだったのだ。

エルザ・スキャパレリは1934年8月の「TIME」の表紙を飾った。

「ボウノット・スウェター」
錯視の効果を利用し、ボウタイをしているように見せた。
スキャパレリによる初期の作品。(1927)

◆――私は新しい香水「ル・ロワ・ソレイユ」を発表した。贅沢なボトルはダリのデザインで、金色の太陽と貝殻の形になっている。

 女優メイ・ウェストのボディラインをもとに香水「ショッキング」(1936)をそのボトルとともに驚かせたのがスキャパレリだった。すぐさま「ショッキング・ピンク」の衝撃がモード界にもアート界にも広がった。
 ずっとのちにジャン・ポール・ゴルチェがこのコンセプトに痺れて「もどき」してみせた。磯崎新(898夜)はメイ・ウェストならぬマリリン・モンローのボディラインを組み合わせた「モンロー定規」を発表した。

 スキャパレリはつねにセンセーショナルだった。そういう時代だったのだ。ヴィクトル・マグリットの小説エッセイ『ラ・ギャルソンヌ』(1922)は、男社会に頼らずに短髪・シャツ・知性をもって生き抜くヒロインを描き、実際にもキキやナンシー・キュナード(794夜)やゼルダ・フィッツジェラルドたちは、そんな奔放で知的な日々をパリの随所で見せびらかしていた。
 何かをしたいなら、国籍や男女や職業や年齢を誰もが超えるべきだったのだ。たとえばジャン・パトゥは、ウィンブルドンを5年にわたって制したスザンヌ・ランランのテニスウェアをデザインして、プリーツスカート・ノースリーブカーディガン・ヘッドバンドを一挙に流行させていた。スキャパレリもおとなしくなんて、していられない。
 こうして、そのイヴニングコートはジャン・コクトー(912夜)の絵をもとにトロンプ・ルイユされ、ダリ(121夜)とはポケットが抽斗のような「デスクスーツ」(1936)や靴のような帽子「シューハット」(1937)をつくって、世を唖然とさせた。

 これらはいまや伝説になっている有名なアヴァンギャルド・コラボの話だが、そのほか旅客機ブームの到来を機敏にとりいれた「エアロプレーン」(1934)、ジッパーを強調した「ファスナー・ドレス」(1935)、新聞紙面をプリントした「ニュース・ファッション」(1935)などが次々に喝采を浴びたのだった。
 きっとシャネルはこんなふうに“過剰”と“新規”を演出するスキャパレリに対して気概をたぎらせ、あえて“省略”や“定番”を意図したシックなモードに徹したのであったろう。
 しかしスキャパレリは実はシックにも強かった。オートクチュールの刺繍をメゾン・ルサージュとともに世に送りだし、ルネ・クレールの「ムーラン・ルージュ」、マルセル・カルネの「北ホテル」、ロベール・ブレッソンの「ブローニュの森の貴婦人」といった、いまでは懐かしいフランス名作映画で、シックきわまりないコスチュームを見せてもいたのだ。

ダリとのコラボレーションによる「デスク・スーツ」
ダリの絵画作品(右)がイメージの元になっている。
(1936)

「履く帽子」を表現した「シューハット」
ダリとのコラボレーション。
(1937)

「ファスナードレス」部分アップ。
(1935)

イラストレーターのカール・エリクソンによってフランス版『ヴォーグ』誌1936年10月号で描かれたイブニング・コート(1936年冬)

◆――ポール・ポワレの才能は何をやってもとどまるところがない。ファッション界のレオナルド・ダ・ヴィンチ的な存在だった。度を越した気前のよさと尽きることのない熱狂の持ち主で、つねに安っぽい広告を嫌っていた。

 スキャパレリは1973年に亡くなった。翌年、「ヴォーグ」の名編集長だったダイアナ・ヴリーランドはすかさず“Inventive Clothes 1909-1939”をメトロポリタン美術館に展覧して、スキャパレリの作品をどどっと展示した。その様子はアーヴィング・ペンによる写真集となって1977年に刊行された。
 が、当時の自分の不明を恥じるばかりだが、ぼくはこのあたりのスキャパレリ復活劇のことをまったく知らなかった。

 ぼくがファッションの革命性に関心をもったのは未来派のフォルトナート・デペロのデザインを見たのが最初だったのだが、デペロはいわゆるファッションデザイナーではなかった。
 その後、マドレーヌ・ヴィオネのバイアスカットにすっかりぞっこんになり、エレガンスとはかくも深いものかと感心して、そのあとやっとポール・ポワレを知って見方を広げた。
 ポワレは早くも1906年に「ローラ・モンテス」をもって女性のウェストの呪縛を追放していた。1911年には「キュロットスカート」や「ハーレムパンツ」によってジェンダーを超え、さらには各国の民族文化の色と形に関心をもって「孔子コート」や裾広がりチュニック「ソルベ」を発表すると、多くのアーティストやイラストレーターが触発されていった。
 そうか、その後のケンゾーもジョン・ガリアーノもアレキサンダー・マックイーンも、つまりはポワレだったのかと了解できた。小夜子ちゃん(山口小夜子)にそのことを言うと、「ほんと、そうなのよ、ポワレなのよ」と何度も頷いた。
 そういうポワレがスキャパレリの才能を見いだしたわけだ。これでぼくもピンときた。どうりで異能なモードデザイナーが出現したわけだ。ぼくはときどき小夜子からヒントをもらいながら、スキャパレリの時代を覗くようになった。 
 とくにパルマー・ホワイトの“Elsa Schiaparelli : Empress of Paris Fashion”(1986)と、リチャード・マーティンの“Fashion and Surrealism”(1987)を見たときは、何度も溜息が出た。ホワイトのものは1994年にパルコ出版から翻訳刊行された。 

脱コルセットを成し遂げ、女性解放者として
知られるポール・ポワレ(右)

ポール・ポワレによる衣装。
イラスト:ポール・イリブ
(1925年ごろ)

◆――自分自身を知らない女性が多すぎる。知ろうとすべきである。たいていの女性が色のことを知ってはいない。忠告をもらうべきである。女性と二人で買い物をしてはいけません。

 それでも日本では、スキャパレリのことはあいかわらず知られていない。ひょっとすると、今年(2013)の7月にクリスチャン・ラクロワがミュゼ・デコラティフのサロンに60年ぶりにスキャパレリのブティックを擬似再現したことも、知られていないのかもしれない。
 ラクロワは1938年にスキャパレリが発表した「サーカス・コレクション」を99体のスケッチとして展示し、メゾン・ルサージュの手掛けた刺繍まで見せたのだ。ウェブにはいろいろ出ているので、見られたい。
 こんなふうにスキャパレリが復活してきたのは、2006年にイタリアの皮革ブランド「トッズ」のCEOディエゴ・デッラ・ヴァッレが彼女の商標権とアーカイブを購入したからだった。
 ちなみに最近の報道では、ヴェルサーチやホルストンにいたマルコ・ザザーニがスキャパレリ・ブランドのクリエイティブ・ディレクターに就いて、2014年からオートクチュールとプレタポルテを発表することになったという。よし、よし、これはたのしみだ。

 というわけで、今夜は積年のエルザ・スキャパレリ本人の自伝『ショッキング』(原題)をとりあげることにした。1954年に書かれた早すぎる自伝だが、この年はスキャパレリがメゾンを閉鎖して引退した年であり、まことに対照的なことに、それまでスイスに隠棲していたシャネルがパリのオートクチュール界に復帰した年だった。
 本書はすこぶる奔放に綴られている。どのくらい自分で書いたのかはわからないが、文章もたいへんおもしろい。随所に独特のイマジネーションが跳ねている。ダリやデヴィッド・ボウイを翻弄したアマンダ・リア(121夜)を思い出した。ぜひ、女性諸君に読んでもらいたい。

ラクロワは、スキャパレリが発表した「サーカス・コレクション」をオマージュし、新たに99体ものスケッチを描いた。

2013年7月に行われた13-14パリオートクチュールコレクションでプレゼンテーションされたラクロワによる「エルザ・スキャパレリ」のコレクション。

◆――私は不器量な女の子だった。目がとても大きくて半分飢えているように見えた。「おまえは不細工だが、お姉さんは美しい」と言って育てられたせいか、ほんとうにそうなのだと信じて、自分で自分を美しくする方法を考えだした。

 エルザ・スキャパレリは1890年9月のローマに生まれた。父親はオリエント学やエジプト学を専門とする考古学者で、王立図書館の館長でもあった。鱈の料理だけはほしがったが、びっくりするほど控えめだった。
 母はマルタ島の山羊の乳で育った。たいへん厳しく、またたいへん呑気だった。いとこのエルネスト・スキャパレリはエジプト学者だった。伯父のジョヴァンニ・スキャパレリの名は天文学ファンなら知らない者はいない。
 ぼくは高校時代までスキャパレリといえば、このミラノの天文台長で、例の「火星の運河」の発見者のことしか知らなかった。

 そんな名うての一家に生まれたエルザはズールー族の乳母に育てられ、不細工な器量を補うために黒いベルベットの襟のついたタータンチェックの服を着せられると、動物園のサルの気分にさせられたと感じるような、そんな少女だった。伯父は「おまえの頬には大熊座がいるよ」と言った。
 幼い頃は屋根裏部屋で空想しているのが好きだった。ローマで一番のルッケージ修道院に送りこまれると、しだいに水の上を歩いたというイエスの伝説に惹きつけられ、カテキズム(教理問答)に夢中になった。
 父親が大学を辞め、一家はサンタ・マリア・マッジョーレ広場の家に移った。屋根裏部屋も庭もない日々にエルザはふくれっ面だったが、父親がチュニジアに連れて行ってくれたので機嫌をなおした。白いローブを風になびかせて近寄ってくるアラブ人だけにはぞっこんなのだ。

スキャパレリが生まれた場所
ローマ、コルシーニ宮殿

エルザ・スキャパレリ 1932年

◆――当時、若い娘たちは何も教えてもらえなかった。教えるべきではないと親たちが考えていたからである。私はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の懴悔室にとびこんでみたが、神父が奇妙で恐ろしい質問をしたので、大事にしていた秘密の気持ちが傷つけられたような気がして、そこから逃げ出した。

 少女エルザは変わった詩を書くようになった。ミラノの出版元のクィンティエーリが注目して女神の名をとった『アレトゥーサ』という詩集にした(1911)。新聞がこぞって採り上げた。両親にはこんなことは寝耳に水だったので、エルザをさっそくスイスの修道院に送った。
 ここでおかしな発見をした。心はすっかり神様に惹かれているのに、宗教の規律には従えないという自分の発見だ。

 男たちとの出会いも続いた。何かの用で家にやってきた不恰好なロシア人がしばらく滞在して、エルザに結婚してほしいと言ったのだ。
 するりとその申し込みを抜けると、そのロシア人は僻地に行ったまま、優しくも美しい手紙を次から次へと送ってきた。それから自分が持っている大事なものもすべて送ってきた。彼はその後、謎めいた死を遂げた。
 一方で、多感なエルザは若い画家に夢中になっていた。ローマにいるその画家のアトリエに行ってポートワインを飲み、何時間も松の木陰に座った。家の者たちは妖しいロマンスを嗅ぎ付け、画家が身分のよくない女とすでに婚約中であることをつきとめた。エルザはこの未発の恋のための真実を求めて画家の実家を訪れた。ドアからその女が出てきた。気がおかしくなったエルザはそのまま画家の家を去ると、ただやみくもに歩いた。涙が頬を流れた。
 満員のバスに乗った。すぐそばに花束を持った男がいて、「悲しそうですね、この花が幸運をもたらしますように」と言った。なぜか薔薇を一本差し出した。たちまちエルザは恋に落ちた。こういうところがエルザなのである。
 しかしまたしても家がエルザの恋を邪魔した。この瞬間から、愛人を集めることにした。ただし、藤色が好きな男だけを。

ジャン・コクトーとのコラボレーションによるジャケット。
背中に造花のアップリケと女性の横顔が刺繍されている。
(1937)

ジャン・コクトーとのコラボレーションによるジャケット。

◆――まだ大学に入れる年齢になっていなかったが、私は父のつてでローマ大学にもぐりこんで、哲学の講義を受けた。ポシュエやスピノザ(842夜)や、アウグスティヌス(733夜)の『告白』を読んだ。『告白』は何年ものあいだ、私の祈祷書になった。

 エルザは姉の友人の手伝いのためにロンドンに行くことにした。途中、いったんパリに赴いたのだが、パリの風情はすぐに「ここは自分が住む将来の地になる」と感じさせた。
 次にアルベルト・ルンブローゾと知り合ってパリの舞踏会に行ったとき、自分がこういう「一瞬の絢爛」に有頂天になれることを知った。内なるデザイナーの芽生えだった。

 ロンドンに着くと、裕福な友人の家ではすることもなく、エルザは街中を歩きまわった。こうして1914年、無名の男の神智学講義を聴きに行っているうちに、ふとこの男はハンサムだということに気がついた。ブルターニュとポーランドの血を引くこの男は、ウイリアム・ド・ケルロル伯爵と言った。講義が終わって二人は話した。翌朝、二人は婚約してしまった。
 才気溢れる若い女性がオカルティックなものにふらふら惹かれることはよくあることで、エルザもまったくそうだったのだが、これまたよくあることで、すぐに夫に失望した。そこで気晴らしにニースやリヴィエラに遊びに出掛けた。このとき第一次世界大戦が始まった。
 戦争は国民の気持ちを高揚させ、生活を質素にさせる。これは「始末」をつけたくなるということだ。それは「美」にもあらわれる。

 エルザは夫が仕事でニューヨークに行ったので、付いていくことにした。ラテンクォーターのブルブートホテルなどでの急場のホテル暮らしであったが、たちまちお金が底をついてきた。
 夫はだらしなく、アメリカに対抗する気力をちっとももっていなかった。ほとんど裸同然のイサドラ・ダンカンが夫をものにしようとしていたが、そんなことはどうでもよかった。そのうち夫は行方知れずとなった。
 エルザは身ごもっていた女の子を生んだ。ゴーゴーという愛称で呼んだ(本書にはしばしばゴーゴーの話が出てくる。そうとう溺愛したようだ)。エルザは一人で仕事を見つけなければならない。フランシス・ピカビア夫人やブランチ・ヘイズがゴーゴーを預かってくれた。
 でも仕事は見つからない。1920年、グリニッジ・ヴィレッジを足場にしてみたがさっぱりだった。ブランチ・ヘイズの提案でいよいよパリに行くことにした。

スキャパレリと娘のゴーゴー(1938年)

1936年に発売を開始した香水「ショッキング」

◆――唯一の、そして最もすばらしい学校とは、騒がしくて人間だらけで、誰もが口ごもらないような生き生きとした仕事場である。誰もが床に落ちたピンを拾いたくなるような仕事場である。私はそこでクチュリエの第一歩を踏み出した。

 パリでも生活費は自分で稼がなければならない。ふとしたきっかけで、アンティーク商人がエルザの見立てセンスを買ってくれたので、骨董店まわりやオークションまわりをして糊口をしのいだ。
 そんなとき、お金持ちのガールフレンドとサントノ通りのオートクチュールの小さなメゾンを訪れた。友人が試着しているあいだ、夢見心地で裏地が青のクレープ・デ・シンの黒ベルベットのコートを体にあてようとしたら、「お似合いですよ」と声がかかった。「お金も、着る機会もないの」と言うと、「お気にめしたのなら、どうぞそのままお持ち帰りください」とその声は言った。
 ポール・ポワレだった。その後、スキャパレリに多大のインスピレーションと支援と勇気をもたらした張本人だ。フレデリック・ウォルト亡きあとの1920年代以降のファッション界のすべての領域に影響を与えたレオナルド・ダ・ヴィンチだ。この先、パリ・モードはポワレ、ジャンヌ・ランバン、シャネル、ジャン・パトゥが並び立つ。
 ポワレはしばらくしてシャンゼリゼの大きなメゾンを開き、友人とエルザを真夜中のパーティに招いた。花火が上がり、女たちは着飾り、夢がはちきれていた。

ランバンによるファッション画(1922)
ジャンヌが娘のために作ったドレスが話題を呼び、ランバンは親子服、レディースファッションのブランドへと成長した。

ジャン・パトゥによる女性用スポーツウェア(1926)

 エルザはもう一人の大事な人物とも出会った。室内装飾に革命をもたらしたジャン・ミシェル・フランクだ。質素と贅沢を組み合わせるセンスは、フランクから学んだ。
 いよいよエルザは動き出す。1928年のドゥ・ラ・ペ通り4番地の屋根裏部屋を皮切りに、洋服作りを始めた。
 エルザのやり方は何かのインスピレーションに出会えば、すぐにそれを試してみるという方法だった。日本ではこれを「当意即妙」とか「行き当たりばったり」と言う。茶の湯なら「取り合わせ」だ。エルザの場合はたとえば、アルメニア人の農婦が着ているセーターに目を奪われるとそれに似たものをつくり、リンドバーグやアメリア・イアハートに感心したときは飛行服(エアロプレーン)をつくった。
 イタリアからガブ・デ・ロビラント伯爵夫人がやってきたので、二人はサンジェルマン大通りに住むことにした。フランクがオレンジ色の巨大カウチと緑色の肘掛け椅子を提供してくれた。

ジャン・ミシェル・フランク

ジャン・ミシェル・フランクが内装を手がけたエルメスのレザールーム

スキャパレリらしいダイナミックさを見せている豪華なイヴニング・ケープ(1938年)

◆――ヨーロッパはムッソリーニのエチオピア戦争の行方に固唾をのんでいた。世界は王国か共和国か独裁国に分断されていた。しかし、どんな世界の本質も、どんな洋服の片隅にもあらわれるものだ。私は軍服を見ながら、夜会服にファスナーを付けた。 

 エルザは自分の部屋をお気に入りに仕立てると、そこからお店のイメージを連想していった。部屋をボートの中のようにして、色とりどりのスカーフ、ベルト、セーターを乱雑に置き、内装をバスクの海岸地図で埋めた。
 自分でかぶるための小さなニットの帽子は、建物の中で見た空気チューブそっくりにした。この帽子は女優のアイナ・クレアがかぶったので爆発的に流行し、アメリカでは「マッド・キャップ」と呼ばれた。
 ツイードの生地を買いにロンドンに行くときにこれがいいと思って自分でつくったキュロットスカートは、そのまま人気商品になった。テニスプレイヤーのリリー・アルバレスが穿いてくれた。
 ロンドンのアッパー・グローヴナー通り36番地に出店したのも、こういう勢いのせいだった。

テニスプレイヤーのリリー・アルバレス

 こうしてあれこれの準備が整い、充分にそのブランド名も知られていた1935年、ヴァンドーム広場21番地にメゾン「エルザ・スキャパレリ」が鳴り物入りで開店した。
 予想通り、またたくまに評判になった。夜会用スカート、デート用ブラウス、街着のセーターなどを「すぐに持ち帰れる」ようにしたからでもあった。パリ中のクチュリエたちがスキャパレリを真似た。
 香水もつくった。フランクが金色の鳥籠をデザインしてくれたので、そこに入れて売った。ベッティーナ・ジョーンズはウィンドウを“だらしなく”ディスプレーしてくれた。木製のマネキンを店頭ショーウィンドウのシンボルにした。「金髪のパスカル」と名付けた。これも評判になったので、ちゃっかり「パスカリーヌ」という伴侶もつくった。
 エルザは未来派やシュルレアリスムの異才たちとも果敢に交じっていった。コクトー、ダリ、マン・レイ(74夜)、マルセル・ヴェルテス、キース・ヴァン・ドンゲン、セシル・ビートン、フランシス・ピカビア、マルセル・デュシャン(57夜)たちがその突飛な勇気と交流した。ポワレや伯爵夫人たちが良き媒介者になってくれた。
 とくにクリスチャン・ベラールのイラストレーションとホルスト・P・ホルストの写真とは息がぴったり合った。ぼくは“ベベ”ことベラールの闊達自在なファッション・イラストレーションこそこの時代の象徴だと思っている。ベラールは舞台美術家としてもサイコーだ。

ホルスト・P・ホルストによるスキャパレリの写真

クリスチャン・ベラールとのコラボレーション衣装(原画)。

ダリとのコラボレーションによる「ロブスター・ドレス」
ウォリス・シンプソンが1937年出版のヴォーグで着た。
(1937)

ダリとのコラボレーションによる「スケルトン・ドレス」
黒いシルククレープ地に、キルティングで肋骨や背骨を
かたどった立体的な装飾を施した。
(1938)

スキャパレリを着たウォリス・シンプソン 
(ヴォーグ 1937年6月1日)

◆――パリがすぐに襲撃されると知らされたので、従業員の多くを避難させなければならなかった。役に立たないガスマスクをつけて街を巡回させられもした。あんなものはハンドバッグにしていたほうが役に立つ。

 時代は戦争に突入していた。本書のエルザはその渦中での自分の動向と感想をてきぱきと綴っている。
 エルザは「世界」をもっと体で知る必要があると思い、モスクワに行ってエカテリーナ2世以来のスラブ・ファッションに目を凝らし、赤軍兵士の軍服を観察し、スターリンの悍ましい正体を見抜いた。
 ミュンヘンやベルリンでは、少年がヒトラー・ユーゲントという「美少年」になる経緯を発見し、ハウス・ファーターラントではナイトクラブがファシズムによって強烈な美に変貌する魔法の秘密を会得した。けれども、あるときムッソリーニから招待されたときは、「興味ありません」と断った。その直後から、エルザはイタリア入国を拒否された。

 エルザは精いっぱい「世界」を覗きまくった。マドリードではたくさんの海軍将校たちの決断に出会い、リスボンではやはりのことエル・グレコやゴヤこそが生きていた。
 アメリカでは講演がてらに42都市をまわり、アメリカ人の好きな「自由」がどの程度の深度をもっているのかを肌で感じ、カナダではフランスがどのように歪められているのかを測定した。
 大統領夫人が迎えてくれたペルーでは、アキレパからクスコまでの信じがたい列車に乗って、この文化をいったいどのように欧米が処置するのか気になり、美しい風土に守られたアルゼンチンでは、中途半端に西洋化した商店街をひけらかしているブエノスアイレスが悲しかった。
 けれども、なにもかもがパリ占領で「別の現実世界」になっていった。みんなが悲惨だった。そんなとき、ドイツ軍が「パリのクチュール組織のベルリン移転」を命じた。組合長だったリュシアン・ルロンはこれに断固として抵抗して、この企みを阻止してみせた。エルザはいたく感動した。
 そうしたなか、エルザがフランスの本質をちょっぴり見抜いていることにぼくは感心した。彼女はフランスは自国を誇りにしていないことを感じ、“言論の自由”というとてつもなく浮薄なものに憧れているにすぎないのではないかと言うのだ。これって、今日の日本にあてはまる。

スキャパレリによるファッション画。

ニューヨークのメトロポリタン美術館にて展覧会「Schiaparelli and Prada: Impossible Conversations」が開催され、多くの著名人が来場した。(2012年)

◆――私はファンタジーを取り戻させなければならないと決意した。実用と気品が一緒にならなければならない。特別にデザインしたコンステレーション・バッグに嫁入り衣裳一式が入るセットにとりくんだ。

 世界大戦はいつ終わるか知れなかった。エルザはプリンストンに仮寓しながらアメリカ赤十字の学校に入り、やけどの治療法、骨折した脚の処置法、傷の止血法を学んだ。すべてが新しい言語のようで、身に滲みていった。
 やってみると病院のベッドメーキングひとつ、看護婦の衣裳ひとつがファッションだった。エルザはハッとした。「死」や「病気」にファッションが介入していなかったことを思い知らされた。

 1944年6月4日、連合軍がついにノルマンディに上陸したニュースをラジオで聞いた。この端的なニュースは自由主義社会の世界中を目覚めさせた。こんな体験は初めてだった。急に周辺が元気になってきた。
 かくて1945年のある日、こんなニュースが新聞を飾っていた。「ケルンが陥落。デトロイトでストライキ。フランク・シナトラ再び兵役不適格者に。スキャパレリがファッションで色彩を強調」。
 エルザはヴァンドーム広場に戻り、メゾン再建に向かう。素材もまち針も縫い針も不足していた。
 なんとかファンタジーを蘇生しなければならなかった。それには決断が必要だ。エルザは愛人を3人ほど隠せそうな渦を巻いたターバンやコウノトリの巣のような帽子を夢想しつつもこれを封印し、すべての女性服から虚飾を捨てさせるためのデザインにとりくんだ。戦争の傷痕はシンプルなシルエットに戻って回復させなければならなかったのだ。

 こうして戦後のエルザ・スキャパレリの伝説がふたたび世界に伝わっていったのである。
 しかしそれらを1954年まで連打すると、エルザはすっぱり仕事から手を引いた。どうしてそうしたかは、謎のままだ。メゾンは閉ざされ、エルザは本書を綴った。
 時代がエルザを置き去りにしたのだろうか。あるいはそうかもしれない。
 1947年のクリスチャン・ディオールのニュールック、クリストバル・バレンシアガのサックドレス、ユベール・ド・ジバンシィのベッチーナブラウスは、たしかにエルザの“戦闘力”から遠のいていくものだった。ぼくは1954年にビリー・ワイルダーが『麗しのサブリナ』を公開し、そのヒロインのオードリー・ヘップバーンをジバンシィがデザインしたとき、エルザは覚悟したのだと思っている。

クリスチャン・ディオールのニュールック

バレンシアガのサックドレス (1957)

ユベール・ド・ジバンシィのベッチーナブラウス

『麗しのサブリナ』のジバンシィのドレス

 1973年11月13日、エルザ・スキャパレリは死んだ。オマール海老のドレス、骸骨セーター、昆虫ブローチを残して。みんな、みんな、その後の流行になったものばかりだった。

スキャパレリのイヴニング・ドレス
(1952 神戸ファッション美術館蔵)

スキャパレリは、昆虫や植物などのジュエリーも手がけ、世の中を驚かせた。

「スキャパレリ」のPRポスター
イラスト:マルセル・ヴェルテス
(1940年代)

 

⊕ショッキング・ピンクを生んだ女⊕

∃ 著者:エルザ・スキャパレリ
∃ 訳者:赤塚きょう子
∃ 監修:長澤均
∃ 編集・装幀:パピエ・コレ
∃ 発行者:案納俊昭
∃ 発行所:ブルース・インターアクションズ
∃ 印刷・製本:日経印刷
⊂ 2008年7月1日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ Foreword
∈ Chapter1 エルザ誕生
∈ Chapter2 恋愛と結婚
∈ Chapter3 ニューヨークでの生活
∈ Chapter4 クチュリエへの扉
∈ Chapter5 ヴァンドーム広場
∈ Chapter6 イタリアの暗雲
∈ Chapter7 ロシア探訪
∈ Chapter8 香水・ショッキング
∈ Chapter9 舞踏会と宣戦布告
∈ Chapter10 パリ占領
∈ Chapter11 アメリカ講演旅行
∈ Chapter12 フランス支援
∈ Chapter13 プリンストンでの生活
∈ Chapter14 終戦~パリ解放
∈ Chapter15 ヴァンドーム広場の再建
∈ Chapter16 ヨット・クルーズとマハメットの家
∈ Chapter17 盗難事件
∈ Chapter18 舞台衣裳
∈ Chapter19 テキサスからブラジルへ
∈ Chapter20 デザイナーになっていなかったら?
∈ Epilogue
∈ 解説

⊗ 著者略歴 ⊗

エルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)
1890-1973年。イタリア・ローマに生まれの、女性ファッション・デザイナー。父はオリエント学者、伯父のジョヴァンニ・スキャパレリは高名な天文学者、母も貴族出身という裕福な家庭に育つ。孤児院で育ち、苦労して成功したココ・シャネルと同時代に活躍し、1930~1940年代に最も精力的に創作活動を行ったクチュリエール。その個性的なデザインはイタリアやフランスだけではなくアメリカでも人気となり、一躍ファッションの中心人物となった。