株式会社
クロノス選書・ランダムハウス講談社 2006
John Micklethwait & Adrian Wooldridge
The Company 2003
[訳]日置弘一郎・高尾義明/訳:鈴木泰雄
イスラム経済と複式簿記と東インド会社。
株式会社のルーツはさまざまだ。
しかし、資本主義の特色の大半は、
アダム・スミスではなく、
英米の株式会社がすべて用意した。
会社法もバブルも投資ブームも金融恐慌も、
労働組合も政治献金も規制緩和も、
テイクオーバーも株主主権も終身雇用も親方日の丸も、
コンプライアンスも四半期決算も金融工学も――。
なぜにこんなに似たような会社が
世界中に広まったのか。
いまではその理由を考える者もいなくなっている。
株式会社は唯一絶対の神のように世界社会のどこにでも君臨していて、さまざまな破綻を見せているにもかかわらず、ここには考えられうるかぎりの最も上質な経済組織があると思われている。しかもそれは現代最新の組織のありかただろうと確信されている。
むろん最新であった時期はあった。しかし、その後に今日に至った株式会社の形態と機能が最新のままであったかといえば、そんなことはない。たとえばピーター・ドラッカーの『会社という概念』(最新訳では『企業とは何か』ダイヤモンド社)が説明しようとしたものよりも、すでに後退していることはあきらかだ。ドラッカーは第二次世界大戦末期の絶頂期のGM(ゼネラルモーターズ社)を雛型にしてあれを書いたのだから、あとは推して知るべし。
また、今日の会社がかつてのものより後退していることに気がついている企業人がたとえいたとしても、今日の会社がコンプライアンスに縛られて、もはや後戻りのきかない自縄自縛の、如何ともしがたいものになっていて、その変更がしにくくなっているのも事実なのである。
会社という概念は長い歴史をもってきた。それも地域や民族や宗教や時代によって、いくつもの多様性をもってきた。そうだとすれば、まだまだ変化発展しうるはずだった。それが今日のような姿に収斂してしまったのである。なぜそうなってしまったのか、その経緯の一端を以下にかいつまんで紹介しておきたい。本書の性格上、ヨーロッパとアメリカを中心とした話にならざるをえないけれど。
紀元前3000年、メソポタミアでおこなわれていた商取引には、すでに物々交換ではない取引がおこっていた。シュメール人は財の所有関係を証明する契約を考案していたし、寺院の一部は銀行っぽい役割をはたしつつあった。
フェニキア人やアテネ人が投資と交易になんらかの関係をつけようとしていたことも、あきらかになっている。リスクの高い海上交易にはそれなりの取り決めが必要だったからだ。つづく古代ローマでは「ソキエタス」という株めいた権利を分有する組織が芽生え、職人や商人が集まって公認の組合「コレギア」「コルポラ」をつくってもいた。「ソキイ」とよばれた共同出資者も出現している。かれらはその運用を「マギステル」に委任した。
ローマの没落後、経済組織はさまざまな形態を試みる。中欧都市の「ギルド」、イスラムの「ムカーラダ」、地中海沿岸のフィレンツェやヴェネチアに発達した「コンパニア」などだ。なかでもコンパニアは1340年には確立していた複式簿記をイスラム経済圏から導入して、「バンコ」(銀行)に資金力を集中させ、やがてメディチ家のような資産家がさまざまなライセンス(使用権)を握るようになった。コンパニアとは「クム」(分ける)と「パニス」(パン)というラテン語を組み合わせたもので、「パンを分かちあう」という意味をもっていた。お察しの通り、ここからのちに「カンパニー」(会社)という英語が派生した。
他方、北ヨーロッパにも、たとえばドイツのマグナ・ソシエタスのような巨大貿易会社があり、バルセロナ・ジェノヴァ・パリなどに子会社を持ち繁栄した。さらには初期特許会社、さきほどのギルドなどが発生し、これがヨーロッパ各地の都市国家にも流れこんできた。ギルドというのはアングロ・サクソン語の「支払う」を語源するもので、統治者に相当額の金銭を寄付する見返りに、都市を囲む城壁内での商売を独占する権利をもっただけでなく、品質基準を制定し、構成員を教育し、公証人や仲買人を指名して、それなりの懲罰をつくった。ロンドンではギルドで7年間をおくれば自由市民になれるというルールもあった。

「権利の分有」のための「特許」(ライセンス)の発行が
初期経済組織をかたちづくった。
ひとまずこの程度の事例をあげるだけでも、ことほどさように、株式会社のルーツめいたものならヨーロッパの歴史のなかにいろいろ拾うことができる。いまでも古色蒼然とした施設が残っているコーポレーション・オブ・ロンドンは12世紀に設立され、現在でも3つの私立学校と4つの市場とシティの土地の4分の1を所有している。ヨーロッパで最も古い現存の民間会社は1136年設立のアバディーン・ハーバー・ボードとされていて、大陸にしぼると、1288年に最古の株式を発行したとされるストラ・エンソだろうという説もある。
かなり進歩的なしくみもけっこう早くから始まっている。たとえば最近の会社で「ピア・レヴュー」とよばれている同業者どうしの相互評価などは、いくつかのギルドのなかで定期的におこなわれていたし、それによってコンソーシアムの組み合わせが変化していくこともあった。
しかし本格的な株式会社の発端というなら、やはり東インド会社などの特許会社からである。国王から世界の特定地域と独占的な交易をする特許状を与えられ、政府と商人が共同で設立した。特許会社は公共部門と民間部門にまたがって、株式と有限責任という二つの特徴をもちはじめた。本書はここから記述が詳しくなっていく。
本書の著者の二人はイギリス人で、もともとは「エコノミスト」米国版の編集主幹と英国版のワシントン特派員だった。二人は、株式会社というその時代やその社会で独特の利益追求をもたらしてきた組織の形態と制度を、できるかぎり通時的かつ共時的につかまえようと試みている。フェルナン・ブローデルに始まったアナール派の膨大緻密な分析からすればまだまだちゃっちいものであるが、それでもツボは心得ている。(いずれブローデルの本など千夜千冊する)。
おおざっぱには二人は、株式会社という制度が4つの機能によって飛躍し、定着したと見た。第1には古代社会に始まった「共同出資」の制度。第2には中世に発生した「法人」の成立。これは教会財産を教会という法人格に帰属させたことが先駆例になった。第3には「有限責任」の制度化だ。出資者が出資の範囲だけの責任を負担すればすむという制度は、株式会社の基礎である。そして第4に、これらにもとづいて「準則主義」への移行が重なっていったというふうになる。本書では、イギリス・ヴィクトリア朝の会社法改正がその基礎になったと説明する。
本書の翻訳陣は監訳者に日置弘一郎と高尾義明が立った。一般読者にはあまりなじみがないかもしれないが、日置さんは「経営人類学」を提唱している。経営もひとつの社会であって、今日ではそこには文化体系との関連が急務になっていると説いている研究者だ。『経営学原理』(エコノミスト社)、『市場(いちば)の逆襲』(大修館書店)、などの著者がある。『市場(いちば)の逆襲』では「共生経営」という考え方を披露した。その日置さんには、以前ぼくと高橋秀元と木村久美子が第一法規で『日本の組織』全16巻を編集構成したときに、いろいろお世話になった。

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さて、東インド会社ほど化け物じみたものはない。2007年に刊行された羽田正の『東インド会社とアジアの海』(講談社)を読んだときも、大いに考えさせられた。40年近く前の本だが、永積昭の『オランダ東インド会社』(近藤出版社・いまは講談社学術文庫)、横井勝彦の『アジアの海の大英帝国』(講談社学術文庫)にも考えさせられた。イギリス人というもの、よくもこんなものを思いついたものだと思う。
イギリス東インド会社は1599年9月のこと、80人の商人がロンドン市長スティーブン・ソーンを議長とする集会を開き、エリザベス1世に東インドとの貿易をおこなう会社の設立を請願することで同意したのが発端だった。翌年、218人の出資メンバーによる会社に特許状が与えられ、この会社は「1航海1事業制」で、そのたびに株主を替えるシステムを採択した。それだけではなかった。イギリス東インド会社は強力な軍隊をもち、広大な海外植民地を支配し、世界一の行政事務能力を駆使して、平均150パーセントの利益を上げていった。


オランダ東インド会社、いわゆるVOCのほうは1602年に誕生し、すべての航海を21年間におよぶ計画のもとに組み立てた。この先導性がアムステルダム市場を活性化させ、株式をVOCのそばに開設した常設取引所で売買するようになった。いっときはチューリップ投機熱が大暴落し(1637)、早々に資本主義には“きまりの悪い弊害”がこびりついていることを露呈したが、VOC自体は40年間にわたってモルッカ諸島の香料貿易を独占し、成功を収めつづけた。そのためポルトガルはアジア交易から撤退して、さすがのイギリスも東南アジアを撤退してインドに集中せざるをえなくなったほどである。
有名な話だが、香料一点ばりのVOCはナツメグがわんさと採れるルン島ほしさに、北米の交易中心港だったニューアムステルダムを交換のために手放してしまったほどだった。これが今日のニューヨーク、つまりはマンハッタン島だ。
東インド会社に似た会社は各国各地につくられた。モスクワ会社、レバント会社、ハドソン湾会社、ヴァージニア会社、マサチューセッツ湾会社等々。いずれもしくみは似てはいるが、なかには外郭のシンジケート(事業家連合)のほうが資金調達をして、会社はこれを管理するだけというものもあった。

最初の株券を発行した
国が介入して会社を踊らせることも、早々におこっている。フランス政府とイギリス政府がミシシッピ会社と南海会社をつかったのは、その悪名高い例だった。
フランスもイギリスも、1689年から1714年の戦争で膨大な債務が累積したため、固定金利の元利均等払いの国債を利回りが低い株式と交換することで国債金利負担を軽減することが狙いだったのだが、裏目に出た。
こういうことをおこしたのは言わずと知れたジョン・ローだ。スコットランドの資産家の子であったローは、ロンドンで数学と女とギャンブルを学んでいるうちに、決闘で相手を殺したためアムステルダムに逃亡、そこで金融投機によってしこたま財産を手にした。資金が入れば捲土重来、国王から恩赦をもらうことと紙幣発行権をもらおうという野心を抱いてスコットランドに戻るのだが、恩赦が見込めず、紙幣発行計画を携えてフランスに渡った。
ここでローはルイ14世の実質後継者であるオルレアン公フィリップと知り合いになり(賭博場で)、発券銀行としてのバンク・ジェネラルを設立する許可をもらった。1716年のことだ。ローの魂胆はインフレと硬貨不足に悩むフランスに紙幣を導入して経済をたてなおし、自分も一獲千金を得ようというもの、オルレアン公はこの新銀行にさっそく100万ルーブルを預金し、あまつさえ収税官に対して財務省への送金を紙幣でおこなうように指示すると、さらに国民には納税を紙幣でするように呼びかけた。
こうして1718年暮れには、新銀行の資金量が1000万ルーブルを超え、同行をバンク・ロワイヤル(王立銀行)と改組すると、ローはフランスの通貨供給の決定権を握ってしまったのである。
それでもローは手を休めない。貿易会社コンパニ・ドクシダンを買収し、これを「ミシシッピ会社」というふうに改称して多額のフランス国債を同社の株式と交換する一方で、このミシシッピ会社を舞台に次々にほかの海外貿易会社を買収、ついには王立造幣局まで併合した。が、まだローの勢いはとまらない。1719年には国債の全額を同社の株式で交換する提案をすると、国王の徴税権すら莫大な対価で買い取ることを申し入れたのだ。
いずれも株式を大量に発行して資金を賄ったのだが、ローはそのたびに多額の配当を発表した。それこそ21世紀の金融市場を悪名高いものにしたサブプライム・ローンの証券や債券ではないが、投機熱をたくみに煽っていった。ローの株式に群がったヨーロッパの投資家は20万人にのぼったのだ。
かくて1720年、同社の発行紙幣の総額は26億ルーブルに、ミシシッピ会社の株価は1株1万ルーブルになった。さらにバブルが進むと、ローはコールオプションを売り出した。1000ルーブルの保証金を見返りに、株式を1万ルーブルで購入できる権利を6カ月間だけ投資家に与えるというものだ。しかし、このあたりでバブルははじけていった(当然、バブルは必ずはじけるものだ)。ミシシッピ株を売却する投資家が急増すると、財務総監となったローは資本流出をあの手この手で食いとめようとするのだが、もはや遅かった。紙幣は廃止、銀行は閉鎖。ローは偽造パスポートでこっそりブリッュセルに逃げた。


(額面100ポンドのもの、単位ポンド)
株価の急騰により、投機のためだけの内容不良な
「泡沫会社」の設立ブームが起きた
イギリスの南海会社がおこした南海バブル事件については、説明はいらないだろう。のちに首相となるロバート・ウォルポールは「決して忘れることも許されることもない南海泡沫事件」と呼んだ。
かくて株式会社というもの、そのしくみが確立してすぐに煮え湯を呑んだことになる。南海バブル事件を観察したアダム・スミスはただちに東インド会社のベンガルでの乱行ぶりを非難して、株式会社は所有者が経営する個人経営システムよりも非効率だと詰(なじ)った。
このためイギリスではしばらく株式会社よりもパートナーシップによる共同経営主義が流行するのだが、しかしパートナーシップ制は無限責任だったから、資金調達能力に限界があっただけでなく、重要な共同出資者や相続人が死亡すると、そのまま会社そのものの存続が危うくなることも多かった。チャールズ・ディケンズ(407夜)の『ドンビー父子』では、ドンビーは息子の死によって問題をかかえる。
ところが、独立したばかりのアメリカではまったくといっていいほど事情がちがっていた。新生アメリカは国家のシステムと会社のシステムが本質的に同じものだったので、新国家の根幹となるインフラは、銀行・運河・道路・市役所・教会・大学のいずれの設立も特許会社が請け負い、市民ともどもその完成を待ち望んだのだ。わかりやすい例だろうが、1785年設立のポトマック社はジョージ・ワシントンが社長で、トマス・ジェファーソンが取締役だったのである(大統領と総理大臣で会社をつくったようなものだ)。
以上のことが何を示しているかといえば、つまりはイギリスの失敗は、必ずしもアメリカの失敗ではなかったということである。そして、この英米のくいちがいこそ、その後もずっと続いた世界資本主義システムの跛行現象となっていく。

アメリカにおいて国家建設の土台となる
アメリカの独立と経済社会の構図『情報の歴史』NTT出版
19世紀に入ると、株式会社の設立に最初の“規制緩和”がおこる。今度はアメリカが先頭を切るのだが、そこには連邦制度があったため、またまたアメリカ式の奇妙な基準がつくられていくことになる。
そこに加えて鉄道をめぐる各州の政治家の利権が絡まった。企業の政治献金もおびただしい。「アメリカの自由」というもの、実はハナからこういうお国の事情でできていたわけだ。それはもとよりグローバル・スタンダードではなくて、最初からアメリカン・スタンダードだったのだ。
発案者のほうのイギリスはといえば、商法の自由化、団結禁止法の廃止、保護貿易的だった穀物法の廃止‥‥というような順の、どちらかといえばゆっくりとした規制緩和になった。イギリスはアメリカとちがって中世からの法治国家だったから、その法の撤廃や改良こそが緩和であったのだ。一方アメリカは、地元の裕福な社会をつくるための緩和政策それ自体が、その後のアメリカ式国際化のための身勝手なエンジンになった。くりかえすようだけれど、この英米のちがいこそ、その後の資本主義の凱歌がどこに動いていったかを暗示する。かくてアメリカン・カンパニーを代表する企業がいよいよ登場してくる。
1880年代、リチャード・シアーズはミネソタの小さな町で駅長をしていた。たいそう暇だったので、地元の農家をまわって木材と石炭の行商をしているうちに、あるときシカゴの会社から託送された腕時計の引き取りにトラブルが出て、シアーズは代わってその腕時計を購入し、鉄道沿線に転送して売ることを思いつく。
1887年のこと、ここに腕時計屋のアルヴァ・ローバックが加わって、二人は腕時計と宝石の通信販売に乗り出した。これがシアーズ・ローバックの発端だ。シアーズはライバルのモンゴメリー・ウォードのカタログで通信販売をするのだが、すぐに自分でもカタログをつくりだし、銃からストーブまであらゆるものを“情報販売”することを思いつく。
シアーズは商品のための宣伝文句をつくるのはうまかったけれど、経営能力はからっきしだった。それがアメリカの資本主義にとっては幸いに、有効にはたらいた。1901年にジュリアス・ローゼンワルドに組織運営を委ね、“専門経営者による経営”という機能を誕生させたのだ。マネジメントの誕生だ。アルフレッド・チャンドラーは「市場の見えざる手よりも、経営者の見える手が現代企業のモデルをつくったのだ」と、のちに褒めあげる。
1906年、ローゼンワルドは株式公開に踏み切ると、まずは商品機能のための検査室を設け、ついで円滑な受注処理が加速するように機械式配送システムを開発して、すべてを一貫した流れ作業にしていった(ローゼンワルドは従業員のための年金基金も創設した)。つまりはシアーズ・ローバックは、新しい輸送システムと通信システムと機械管理システムに、経営ノウハウを直結させたのだ。まさに新たな工場管理型会社の成立だった。この機械施設を若くして見学に行ったのがヘンリー・フォードなのである。

一貫した流れ作業のラインに乗り商品が生産される
この時代、鉄道会社がアメリカのすべてだった。1898年にはアメリカ全土の公開株の60パーセントが鉄道株で、ウォール街も投資家もほとんどは鉄道会社のために生きていた。初期の鉄道は互いにつながっていない箇所も少なくなく、このバラバラのシステムを何かでつなげば、一獲千金になるのは目に見えていた。
案の定、これで儲けたのがコーネリアス・ヴァンダービルトやJ・P・モルガンである。線路ではない。金(かね)が鉄道をつなげたのだ。こうしてかれらによって鉄道会社の規模はべらぼうに大きくなった。そのころアメリカの陸軍・海軍・海兵隊は全部あわせても4万人程度の要員であったのだが、ペンシルヴァニア鉄道は一社で11万人の従業員を誇っていた。

鉄道建設時のデヴィルズ・ゲート橋
シアーズ・ローバックの機械施設はすぐにアンドルー・カーネギーによって標準化された。ついでフォードがT型フォードの工場でフレデリック・テイラーのストップウォッチ思想をとりいれて、ベルトライン型の組立ラインに仕上げていった。チャップリンの『モダン・タイムス』で皮肉られることになった例の方式だ。
こうしてアメリカン・カンパニーは、大量生産と大量販売を組織にとりこんで、つまりは「マスプロダクト&マスセール」を打ち出した。自動車だけをマスプロダクト&マスセールしたのではない。タバコも朝食用シリアルもカメラも缶入りミルクも呑みこんで、大衆に供給された。これはヨーロッパに先駆けての総合型製造企業の登場だった。これらの企業は製造工程のできるだけ多くの部分を所有することを求め、フォードにあっては、なんと車のシートカバー用の羊毛のためのヒツジ牧場まで所有した。
この動向に輪をかけたのが企業合併だ。1910年までにアメリカの産業基盤の大半が約50のトラスト(企業合同)の傘下に入った。USスチール、GE、アメリカン・タバコ、AT&T、ユナイテッド・フルーツ、アメリカン・コットン、そしてスタンダード・オイルが合併につぐ合併でバカでかくなった。
ジョン・D・ロックフェラーはトラストだけではまだ足りなくて、スタンダード・オイルを多くの産業とのカルテル(企業連合)に持ち込み、傘下メンバー40社がスタンダード・オイル・トラストに変じるように仕掛けていった。もっともこの動きにはいったん待ったがかかる。反トラスト運動(のちにシャーマン反トラスト法)である。
けれども、ニュージャージー州がトラストを許容する州法を用意すると、多くの大企業はニュージャージーにちゃっかり移転して、そこで新たなアイディアをつくりだした。これが「持ち株会社」(ホールディング・カンパニー)というしくみの発案になっていく。GEを引き留めたいニューヨーク州も、同社を特別扱いをする特許状を発行せざるをえなくなる。
これに目をつけたのが鼻のきく金融業界だった。アメリカには中央銀行がない。そこで持ち株会社をうまく利用して、銀行の株式投資の禁止条項をすり抜けられるようにした。いわゆるモルガン商法である。ここには早くも株式プロモーターが暗躍していた。こうして持ち株会社と株式プロモーションを通して、カーネギーやロックフェラーやモルガンが肥大する。
ロックフェラーはこんなふうに放言した、「まわりの蕾(つぼみ)は小さいうちに摘みとるべきだ。ビジネスが邪悪だからそうするのではない。自然の法則と神の法則がそうさせるのだ」。自由主義経済とアメリカン・ビューティフルは、ここにおいて神と結びついてしまったのである。
アメリカの自由主義経済や自由資本主義は、いくつかのトラブルや悲劇をかかえはしたが、そんなことにおかまいなしに猛然と驀進していった。労働組合もできたけれど、その労働者の夢というのが結局は経営陣に加わることだったのだ。
なぜ、こんなに楽勝が続くのか。本書は3つの理由をあげている。第1には、大企業が政治をよく弁(わきま)えていた。上院には材木議員や鉱山議員などの族議員がちゃんといて、各州の代表などそっちのけで「百万長者クラブ」を操っていた。ここに広報アドバイザーや広告代理店がくっついた。
第2には、これらの大手は企業の社会的責任に対して大衆が拍手したくなる姿勢で示してみせていた。シアーズは従業員向けの厚生施設に年間1千万ドルを供出し、インターナショナル・ハーベスターは利益分配制度を導入し、カーネギーは3億5000ドル(いまなら30億ドル)の基金をもって、2800の図書館と7600台のオルガンを寄付してみせた。この他愛のない社会性にアメリカ人は弱かった。
第3に、これらの企業こそアメリカを豊かにし、偉大なフリができるようにしていた。アメリカの社会に社会主義がなぜ根付かないのかという質問をうけたヴェルナー・ゾンバルト(503夜)は吐き捨てるように、こう言ったらしい。「ローストビーフとアップルパイがゆきわたっている国で、革命が期待されるはずがない」。
イギリスはこういうアメリカに完全に遅れをとった。世界に冠たる大企業がほとんど生まれなかったのだ。それにも理由がある。(1)資本主義の先行国として初期資本主義の形態にこだわったこと、(2)小さな国だったので大企業がなくともやっていけたこと、そして(3)創業企業・同族企業・個人経営に誇りをもちすぎたこと、この3つが邪魔をした。
むろんユニリーバやインペリアル・タバコやICIやシェルなどの例外はあるけれど、そういう企業はあんまり敬服されてはいない。ドナルド・コールマンが「イギリスの会社でいまいましいのはジェントルマンとワーカーとの区別がありすぎることだ」と言ったように、つまりはイギリスは気取りすぎたのだ。
これに対して、ドイツは19世紀最大の工業国となっていた。それはアルフレート・クルップの化学・鉄鋼・機械を擁した大工場群と、フリードリッヒ・リストの国民経済学とに象徴されている。
ドイツでは最初の最初から「経済は国家と国民のため」であって、企業家のためのものではなかったのだ。だからカルテルもシンジケートも国家と国民のためならいくらでも認められていたし、商業銀行と投資銀行と投資信託を兼業するユニバーサルバンクが機能して、ドイツ銀行やドレスナー銀行を活躍させた。ドイツ全体の投資額の半分をユニバーサルバンクが提供できたのである。
そのうえドイツ独特のインテレッセン・ゲマインシャフト(利益共同体=IG)が、特許や規格などの協調をはかっていた。このゲマインシャフトでは構成会社はたいてい互いに株式を持ち合っている。たとえばIGファルベンは創業まもないバイエルやヘキストなどの化学会社を集めてIGをつくり、1925年に向かってゆるやかな統合をはたしていった。30年代には染料で98パーセント、フィルムで70パーセント、医薬品で50パーセントのシェアを確保した。
ドイツの株式会社こそ、先行イギリスとも爆発アメリカとも異なっている。そこにはいくつもの特徴があるけれど、著しいのは次の3点だ。(1)企業教育に熱心で、とくに科学学習と職能習得を重視した。これには大学研究機関や工科大学との連携も強かった。(2)経営陣が尊敬され、社会的にも官僚には譲らぬ力をもっていた。(3)労働者に対して社会民主主義あるいは国家社会主義にもとづくような配慮をした。たとえば1891年には「共同決定」という労働者の経営参加制度が、ビスマルクによって導入されている。
しかし、これらのドイツ式もナチスの台頭とヒトラーの戦争によって、その国家性ゆえにあっけなく巻き込まれることになった。いや、ヒトラーがそこを活用したわけだ。そこはルキノ・ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』が耽美的に描いた、あの出来事になっていく。けれども、いまはまた、このドイツ方式が復活しつつある。
英米と異なっていたのはドイツだけではない。日本の会社がやっぱり異質であった。本書には「武士が実業家になった」と書かれているけれど、そういうわけではない。秩禄処分の見返りにもらった補償金で会社をおこした者もいたが、むしろドイツ式に国家と官僚とともに日本の会社は鍛えられていった。
ただしドイツのように会社の“組織”が鍛えられたのではない。会社が勢力を傾注したくなるような“仕事”が、国や役人によって用意されたのだ。これは戦後の高度成長期や通産省全盛期まで続いた日本資本主義のありかただった。これで1886年のときは日本の糸の3分の2が輸入ものだったのに、1902年にはほぼすべてが国産化できた。第一次世界大戦のときには、世界の綿糸の輸出の4分の1を日本が占めた。
とくに国際的に目立ったのは、会社や工場の「電化」を強力に促進したことだ。1920年の時点で工場の動力源の半分が電気になっていた。このときアメリカは3分の1以下、イギリスは4分の1以下。この電化にあたるような日本得意の“一斉主義”は、戦後の「オートメーション」や「TQC」にもあらわれる。
こうした日本式仕事術に、さらに日本式コングロマリットというべき「財閥」が加わった。財閥は、株式の同族所有と番頭による能力主義経営という独自の方法を練りあげた。三菱は岩崎一族の2つの家系が経営権を交互に握り、三井は一族の5つの家系が所有権を分散させた。財閥はのちにGHQによって解体されるけれど、では、それで日本の企業力が低下していったかといえば、そうではなかった。財閥は「系列」としてくみなおされていったのだ。
時代は二つの大戦のほうに向かっていく。そのなかで、アメリカは軍需産業と石油産業を中心とする大企業が引っ張った。この国は建国このかた「孤立した共同体の寄せ集め」こそが本質だったにもかかわらず、二つの大戦のうちに「均質の国家と企業の共同体」になっていったのである。
なぜ大企業がこのような力をもちえたかといえば、集約すれば「事業部制組織」と「経営管理主義」が両輪となって、強力なカンパニーマン(会社人間)の集団を増産し、それらがつねに「意思決定とその行動化」によって貫かれたからだ。
事業部制を導入したのは、いまさら言うまでもないことだろうけれど、GMのアルフレッド・スローンだった。スローン自身がカンパニーマンのかたまりのような男なのである。彼はピエール・デュポンと組んで(GM株の37パーセントを所有)、ありとあらゆるものを価格ピラミッドに応じたシステムにしていった。一言でいえば「管理された分権化」を徹底した。
この「管理された分権化」はやがて流通メカニズムや消費者にまで浸透し、アメリカ人はスローンが言うとおりに、金持ちはキャデラックを、裕福だが控えめ派はオールズモビルを、働きざかりはビュイックを、中堅でプライドが高いのはポンティアックを、大衆はシボレーを好んで買った。


商品管理の経営思想は、検査、輸送、通信、の隅々に行き渡り
商品は“ライフスタイル”までもパッケージングしてゆく
たちまちコカコーラとP&Gがこの真似をして、これらのマーケティング戦略を「ブランド・マネジメント」へと発展していくと、そこへハーバード大学のビジネススクールが「経営のプロ」の養成を始め、そこにアーサー・リトルやジェームズ・マッキンゼーらの創業した「コンサルティング」が覆いかぶさっていった。
ちなみにハーバード・ビジネススクールにはシュンペーターを初代所長とするアントレプレナーシップ育成のための研究所も増設されたのだが(1948)、これはロックフェラー財団とカーネギー財団の抜け目ない寄付によっていた。
こうなればあとはカンパニーマンを、ピカピカの“アメリカ人間像”の理想に磨きあげるだけである。こちらのほうはトマス・ワトソンが立て直したIBMが引き受けた。ダークスーツと白いシャツを着たIBM社員は、強い酒は絶対に飲まず、創業者を称える社歌はどこででも歌い、トップレベルの成績を発揮した者だけが入れる100パーセントクラブの会員になることをめざしたのである。
この時期、アメリカ以外の他のどこの国でもたいして興味をもたれなかった「経営学」も勃興した。これは会社を褒めるための学問だった。
たとえばロナルド・コースは『企業の本質』(1937)で「市場の不完全性」に着目し、会社というのは一人が市場で費やす「取引コスト」をいちじるしく節減しているすばらしいものをもっていると説き、バーリとミーンズは「コーポレート・ガバナンス」(企業統治論)を強調して(1930年代)、まるで政府のように会社を運営できる可能性があることを予告した。これがのちの監督官庁やSEC(証券取引委員会)の新設につながった。
もっとも、このようなコーポレート・ガバナンスによって会社が発揮した社会性は、これまたアメリカらしい話だが、独占企業が中小企業を締め出さないようにするというよりも、小口投資家を保護するという流れを次から次へと生み出したにすぎなかったのである。
ドラッカーが書いた『産業人の未来』(1942)はスローンの目にとまった。スローンはドラッカーにGMを好きなように研究させるチャンスを与えることにしたのだが、その成果が今夜の冒頭でのべた『会社という概念』(1946)になったわけである。しかしこれもいま読むと、会社員を経営資源とみなすという先駆性はあったものの、「大きいことはいいことだ」と言っているにすぎないようなところもあった。
もっともドラッカーは次の『現代の経営』(1954)では、「経営戦略思考」なるものの可能性の開陳におよび、長期戦略はつねに短期的な達成目標に落としこむべきであることを謳い、60年代には「知識労働者」という概念を導入して、新たな会社像や経営者像を練りなおしていった(この本はアメリカよりも日本でよく読まれた)。
が、それでもドラッカーの経営思想はつねに、上級管理職たちによるエリート集団の必要性をことさらに説いたのだ。すかさずマッキンゼーらのコンサル屋がこれをとりいれたのは言うまでもない。SBU(戦略事業単位)がもてはやされるようになったのはこのときからだ。60年代のGE(ゼネラル・エレクトリック)には、独立した予算をもつ190の部門と43のSBUがあって、これをトップマネジメント集団が徹底的にコントロールするというシステムができあがっていた。
こうして経営資本主義とコングロマリット(多国籍企業)が、それまでの国家主導型の資本主義をほぼ完全に呑みこんで、アメリカ社会の前面に華々しく躍り出たのである。
カンパニーマンはオーガニゼーションマン(組織人間)と呼ばれることになり、ガルブレイスは『新しい産業国家』(1967)において、「アメリカは適度な善意による寡占企業によって運営されている」とみなした。
さすがに政府もこの圧倒的な進捗を見逃せない。P&Gのニール・マッケロイ、GMのチャールズ・ウィルソン、フォードのロバート・マクナマラはいずれも国防長官として鳴り物入りで次々に迎えられ、ベトナム戦争の遂行にマネジメントの手腕を発揮した。今日、新任大統領のオバマに苦い顔をさせているビッグスリーの愚かしいほどの凋落とはまさにくらべようのないほどの輝かしい時代だったのだ。1973年には、アメリカ製造業の上位200社のうち、15社がコングロマリットだったのである。
そういえばシアーズがシカゴに世界一の高さのビルを誇らしげにオープンさせたのも、この1973年のことだった。しかし、これが良きアメリカの絶頂だった。1285夜に詳しく紹介したが、中谷巌がハーバードに入った年でもある。
1973年以降、アメリカにはベトナム戦争の傷とオイル・ショックとドル・ショックがやってくる。それでどんな動揺がもたらされたのか、その後はどんな試行錯誤が続いたのか。そのことについては省きたい。一言、説明しておけば、この“変節”を見ていて新たな“転換”に着手したのは、むしろイギリスをはじめとする別の国だったということだ。
とくに1979年にマーガレット・サッチャーが政権をとると、彼女に特段の知恵をさずけたキース・ジョセフのシナリオにもとづいて、イギリスは「小さな政府」による「規制緩和」と「民営化」を連打した。北海の原油と天然ガスの政府持ち分がまず民間に譲渡され、ブリティッシュ・テレコム、英国ガス、英国航空、ブリティッシュ・スチールが相次いで民営化され、水道供給事業や配電事業が民間企業に移管され、イギリス国鉄も分割された。1992年までに、国有事業のなんと3分の2近くが民営化されたのである。
これをまねて、アメリカで規制緩和と民営化に最初に着手したのはジミー・カーターで、航空業界・鉄道・運送業の順に手をつけたのだが、これを本格化したのは知ってのとおりのロナルド・レーガンだ。説明するまでもないだろう。何十年にもわたってパートナーシップや共済組合方式をとっていたゴールドマン・サックスなどが株式会社化されたのも、まさにこのときだ。のちの小泉改革の郵政民営化はその踏襲にすぎない。
この、のちに「グローバリズム」とも「市場原理主義」とも、サッチャリズムともレーガノミクスとも名付けられた動向は、とめどもなく世界中を駆けめぐった。ヨーロッパ各国でもフォルクスワーゲン、ルフトハンザ、ルノー、エルフ・アキテーヌ、イタリア炭化水素公社が民営化され、ドイチェ・テレコムなどたちまち全欧最大の会社になった。日本の電電公社がNTTになって最大規模になったのも、同じ現象だ。すぐには成功しなかったけれど、ロシアの1992年も、エリツィンによる国有事業体の民営化が始まった年だった。ロシアでは一挙に18000社が「民」になったのだ。
しかし、こうなってくると、過去の栄光をもつ企業が好成績を維持しているなんてことは、よほどの努力がないかぎりはもはや難しい。次々に「官から民へ」の掛け声によって巨大企業が出現し、一方では規制緩和が広まってベンチャーやIT企業の急成長がおこっていったのだから、既存業界も業界再編成をせざるをえなくなってしまったのだ。
すでにIT産業という新たな一角から産業界を高速に変更しつつあったシリコンバレーの勇者たち、たとえばインテル、ヒューレッド・パッカード、アップル、マイクロソフト、シスコ、オラクル、イーベイ、ヤフーの急成長に対抗するには、銀行も保険会社もメーカーもサービス業もなりふりかまわずどんどん合併し、既存勢力の結集をはかるしかなかったのである。それが結局は、日本の例でいうのなら、三井住友銀行とか三菱東京UFJ銀行といったワケのわからない名前の結合組織になっていくしかなくなったわけである。つまりは大丸と松坂屋とが、伊勢丹と三越とが一緒くたになってしまったのだ。明治は遠くなりにけり。
いったい何が始まってしまったのか。ひとつには経営資本主義だけに陽が当たり、もうひとつには投資家や投資機関が荒稼ぎをしたと言うしかないだろう。1980年のウォール街の株式の機関投資家による保有は30パーセント前後だったのに、それが2000年には60パーセントを超えたのだ。
そこへもってきてデリバティブ(金融派生商品)が乱打され、精緻な金融工学はヘッジファンドのからくりを考案して、社会の生産力や製品の実態とはほとんど無関係な債券市場が巨大化していった。かくてカリフォルニアの公務員の退職年金でつくられた「カルパース」のような投資組織がとほうもない影響力をもち、フィリップスをさえ動かした。いや、かれらはイラン・イラク戦争さえ動かした。
それで何が出てきたかといえば、ファンドマネジャーたちが寵児になっただけである。かれらは4半期ごとの利益を稼ぐのが目的だったから、いくらだって株式を投げ売りしてよかったのだ。ニューヨーク証券取引所の出来高は、1962年の9億6000万株から1985年の275億株へ、さらに2000年の2600億株へと跳ね上がって、ピーター・リンチはどんな経営者よりもずっと有名になった。
いや、ファンドマネジャーが有名になっただけではなくて、マネーゲームがトランプのスートを変えるように経営者の首をすげ替えもした。GM、IBM、ウェスチングハウス、アメックス、コダックの解任劇はこうして日常茶飯事となった。
企業買収劇も日常茶飯事になった。ここにはもはやイギリスもアメリカも日本も韓国もない。ハンソン・トラストの買収は企業の買収ではなくて資金力の買収であり、ピケンズの買収は石油会社の買収を仕掛けて、それに失敗することでガルフの株価を上げればよかった。KKR(コールバーグ・クラビス・ロバーツ)はもっと巧妙だった。企業買収を目的とするファンドを生み出しさえすれば、ナビスコもベアトリス・フーズもセーフウェイもなんとでもなることを証明した。LBO(レバレッジド・バイアウト)の登場である。
かくて経営資本主義は金融資本主義とは見分けがつかなくなっていった。ジョージ・ブッシュがアメリカ初のMBAをもつ大統領になったときには、ついに政治と戦争と外交とビジネスの区別がつかなくなっていた。
いつ首をすげ替えられるかわからない経営者たちは、自分がトップの座にいるときだけのことを考えて、会社を一方ではよく見せかけて(監督官庁のために)、他方では自分と自分の周辺の高収入をはかる以外のことを考えなくなったし、LBOの仕掛け人たちはオファーの価格で相手をビンタしておいて、超高額の収入をファンドしていった。
それでも、金融トレーダーが支えるエンロンが2001年末に崩壊し、そのコンサルで巨額の利益をあげていたアーサー・アンダーセンが解体したとき、事態がかなり異常な「暴走する資本主義」(1275夜)に向かっているのはあきらかだったはずである。「会社は誰のものなのか」という議論は、アメリカでも日本でもおきた(937夜)。
だが、異常はとまらなかったのだ。ワールドコムの粉飾決算によって投資家が1750億ドルもの損失を被り、経営者バーナード・エバーズが会社を貯金箱のように私物化していたことがあきらかになっても、依然として異常は続いた。問題は「腐ったリンゴ」のような経営者のせいだとみなされたからだ。事実、ゼロックス、AOLタイムワーナー、タイコ、イムクローン、アデルフィアなどは、一握りの「腐ったリンゴ」たちによっておかしくなったのだと言われただけだった。しかし実は、問題は「腐った根っこ」のほうにあったわけである。
たしかに「腐ったリンゴ」をいくら断罪し、いくら取り替えても、「腐った根っこ」はなくならない。体質も変わらない。
ただこうなると、どのように企業を監督していくかということばかりが問われていった。企業は厳しく監査され、コンプライアンスを求められ、コカコーラがすぐにそうしたわけだが、ストックオプションまで費用計上するしかなくなっていく。適切な経理、多くの社外取締役、十分な企業年金ばかりが重視されていった。
けれども、この方向だけで「腐った根っこ」の土壌が回復するわけではなかった。それでもこの程度の改善ですむと思われていたのは、そこにはいまだ「市場には自浄作用がある」という神話が生きていて、政府も中央銀行も経済団体も、企業の体質改善をやっておけば、あとは健全な市場がわれわれを救ってくれると思っていたからだった。
こうしてやっと、そうでもなかったということがサブプライム・ローンの虚業化によって露呈し、リーマン・ブラザーズのクラッシュによってついに白日のもとに晒されたのは、ごく最近のことである。しかしながら、いささか遅すぎた。アメリカもイギリスもフランスも日本も、信じがたいほどの公的資金を導入してこの危機を回避しようとしているが、それでビッグスリーがよくなるわけはなく、市場さえ「腐った根っこ」を抜くわけにいかなくなっていたのである。
ざっと、こんなところだろうか。どんな感想をもったのか、とくにビジネスマン諸君から聞いてみたいものだ。ぼくがどう感じているかといえば、本書はこのような指摘をしているわけではないが、株式会社の将来は、社会と市場と組織の関係の根本的な問い直しからしか問えなくなっている。それには「意味の市場」を問いなおし、つなぎなおすしかなくなっている。そう、思っている。ただし、ノリーナ・ハーツが『巨大企業が民主主義を滅ぼす』(早川書房)と書いたようには、思わない。そんなこと、とっくの昔からおこっているからだ。
とりあえずはこの程度のことを付け加えて、今夜の株式会社物語をひとまずおえておく。そのうち、ブローデルの見方やミシェル・ボーの『資本主義の世界史』(藤原書店)や、ジョージ・リッツアの『マクドナルド化する世界』(早稲田大学出版部)やジョエル・ベイカンの『ザ・コーポレーション』(早川書房)など、案内したい。