才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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生命の跳躍

ニック・レーン

みすず書房 2010

Nick Lane
Life Ascending―The Ten Great Invintions of Evolution 2009
[訳]斎藤隆央
装幀:市原加奈子 翻訳協力/田沢恭子・穴水由紀子

この15年間ほど、ミトコンドリアの秘密と
そのしくみが見えてくればくるほど、
生命の独自活動にひそむインタースコア性を
少しずつピックアップしたくなっていた。
いろいろ本を読み、絵も描いた。
こういう勝手な試行は、ぼくにはよくあることだ。
最近は、二冊のニック・レーンを読むうちに、
新たな編集的生命像の解釈可能性が浮かんできて、
ちょっとずつ妄想がふくらむことになった。
今夜は、その中間報告を話しておくことにした。

  松岡さん、あと一冊で1500夜ですね。

  うん。そろそろね。

  そろそろじゃないでしょう。もう、あと一冊ですよ。何を記念に選ぶんですか。

  記念? 決めてあるけど、それは内緒だ。

  ケチだなあ。

  そうか、ケチか。1500夜の本を予想してくれている読者ユーザーがずいぶんいるらしいんでね、ここはお楽しみということで勘弁してもらっている。スタッフからも口封じが出ているんだよ。ケチというよりフェチ

  フェチねえ。それだったら『源氏物語』(1569夜)とかカントとか。ひょっとするとエマニュエル・レヴィナスとかジャック・デリダだったりして。松岡さん、こういう人のこと書きそうなのにまだとりあげていないもんね。私としてはアナイス・ニンとか書いてほしい。

  みんな書きたいけど、1500夜はちょっと違うね。

  じゃあ、一夜前の今夜は何ですか。

  ミトコンドリアについての本というか、生命科学を問いなおすための本というか。

  あれっ、またミトコンドリアですか。瀬名(秀明)さんと太田成男さんの『ミトコンドリアと生きる』(1177夜)をばっちり書いたじゃないですか。

  べつに一冊だけじゃなくたっていいだろ? というか、ミトコンドリアを通した生命進化の謎の正体についてずっと書きたかったんでね。実はあれからいろいろ考えてきたことがあって、それは生命複合体とか編集的生命像というものなんだけれど、そういうことを考えるときにミトコンドリアをどう扱うかが気になってきた。そのうち少し見方を変えたくなってきた。そういうことがニック・レーンのものを2冊続けて読んでいるうちにピンときたんです。

  どういう本ですか。

  レーンの1冊目の邦題は『ミトコンドリアが進化を決めた』(みすず書房)という本です。原題が“Power,Sex,Suicide”というちょっと物騒なタイトルで、「生きる力」と「性の力」と「死の力」とが3つ並んでいる。タイトルとしてはうまいね。その3つの力の危うい関係を辛くもサブタイトルの「ミトコンドリアと生命の意味」(Mitochondria and the Meaning of Life)が支えている。いや、3つの力のパワーバランスをミトコンドリアが支えているというか、つなげているというタイトルだね。

  なるほど、3つの力をとりもつ闖入者ミトコンドリアなんて、ちょっとかっこいい。レーンっていうと?

  よく知らなかったんだけど、ロンドン大学の生化学者で、臓器移植や酸素フリーラジカルの研究が専門らしい。それがあるとき「ミトコンドリアが世界を支配している」ということに愕然として気づいたのだというんだね。ミトコンドリアがATPや有性生殖や多細胞生物の鍵を握っているのはもはやよく知られていることだけど、それだけじゃなく、レーンは「ミトコンドリアがなければ自然界に弱肉強食すらおこらなかっただろう」と言っている。

  ずいぶんミトコンドリアを持ち上げましたね。やっぱりマレビトが神になるんだ。

  うん、そう感じるよね。ミトコンドリアはたんなる寄生者じゃないというわけだ。でも、神じゃないよ。

  だったら、ご主人様?

  檀蜜か。ハハハハ、そうでもないだろうけど、ややそれに近い視点から、レーンはミトコンドリアによる新統一理論”とでもいうべき構想“を温めてきたらしい。本書がその初の報告書ということになる。原著は2005年のイギリスのブック・オブ・ザ・イヤーに選ばれたほど有名で、欧米では話題になったようだけれど、実はぼくのほうはそのすべてに納得できたわけではない。この本を読んでいて、むしろミトコンドリアを“主語”にしないほうが生命複合体のスコープが見えてくるんじゃないかと思ったんです。

ミトコンドリアの電子顕微鏡写真。
(『ミトコンドリアの新常識』NHK出版より)

ニワトリ小脳ミトコンドリオンの3Dトモグラムから
作製されたモデル。
(『新ミトコンドリア学』共立出版より)

  主語じゃなくて、述語にする? 松岡さんらしいですね。

  これは、ぼくのミトコンドリア生物学についての知見が足りないせいだろうけれど、でも、ミトコンドリアを支配者という“主語”にして生命の発露を考えるという見方には、いささか問題がある。ぼくにとってミトコンドリアについて何かを考えるということは、ミトコンドリアめいた「そこへさしかかる来歴」をもったものたちを、どのように編集するかということなんですよ。

  リン・マーギュリス(マーグリス 414夜)の「細胞内共生」(endosymbiosis)ではないような、何か新たな仮説を考えるんですか。

  いや、そうではなくて、そもそも
「共生」(symbiosis)って何かということを問いなおし、そこをむしろ「インタースコアのプロセス」として見るといいんじゃないかということです。化学的なインタースコア。情報化学的な、ね。
 一方、レーンは『ミトコンドリアが進化を決めた』が当たったあと、わりと大掛かりなテーマで次の『生命の跳躍』(Life Ascending)を書いて、38億年の生命進化史を決定付けた10の“発明”を解説したんですが、そちらのほうではややインタースコアな視点を入れていましたね。こちらは2、3年前に発表された。この2冊を読んでいるうちに、ぼくもいろいろ触発されたわけだ。

  へえ、どういう10個なんですか。

  これはけっこう本気なもので、まずは、(1)どうして最初の生命が一見かなり悪条件のブラックスモーカーやロストシティなどの熱水噴射孔のような、変なところに誕生したのかということですね。ぼくはこれは「非平衡」によるものだと思っています。次は(2)DNAが出現して生命体の複製ができるようになったことと、(3)シアノバクテリアなどによって地球に酸素圏ができて、植物たちによる酸素と炭酸ガスをつかう光合成が始まって、光エネルギーが化学エネルギーに変えられるようになったこと。このへんは言うまでもないでしょう。

  ええ、だいじょうぶ。

  それからこれも当然だけど、(4)核(nucleus)と細胞小器官(organelle)をもつ細胞が登場して、ミトコンドリアをとりこんだ真核細胞ができあがり、生命エネルギーの自家製の工場がつくれたことです。ATP工場だね。そして(5)が、生命体の多くがクローン生殖ではなくて「性」を媒介にした有性生殖(sexual reproduction)ができるようになったこと。この二つで、生命は進化を逆戻りしなくてすむようになったからね。オスとメスによる有性生殖はけっこうインタースコアっぽいよね。

真核生物(動物)の細胞の模式図
(『ミトコンドリアの新常識』NHK出版より)

ミトコンドリアの模式図
(『ミトコンドリアの新常識』NHK出版より)

  進化は逆戻りしなくとも、デボルーション(退化)もそれなりにあるわけですよね。

  部分的にはね。パンダの親指とかフラミンゴの菌とかわれわれの盲腸みたいなね。

  そうですよね。で、残りの5個は?

  (6)筋肉系が発達して運動するようになったこと、ようするに分子モーターを装着したこと、(7)視覚の機構ができてレンズ動物が世の中を仕切ったこと、(8)温血性の動物たちが有酸素型のスタミナをつけたこと。レーンはこれらを挙げていた。最初のレンズ動物が三葉虫だったことについては、リチャード・フォーティの『三葉虫の謎』(780夜)にも書いたし、目の進化論はアンドリュー・パーカーの『眼の誕生』(草思社)もおもしろい見方をしていたね。

  フォーティはおもしろいですね。

  では、Qちゃんにぼくのほうからお題を出すけれど、最後の2つは何だと思う?

  ムチャぶりだなあ。えーっと、そうですねえ、擬態とか利他行動?

  ほう、そりゃなかなかのお題の設定だね。擬態や文様も利他行動も棲み分けも、けっこうな難問だしね。感心しました。ロジェ・カイヨワ(899夜)や今西錦司さん(636夜)やE・O・ウィルソンだったらそう答えるかもね。でも、残念ながらブーッです。(9)神経系が進化して意識が発生してきたこと、(10)死をプログラミングしたこと。この二つです。

生命進化の系統樹。
(『ミトコンドリアはどこからきたか』(NHK出版)より)

  そう、きましたか。意識を入れたのはずるいけれど、なるほど、死のプログラム化の問題は大きいでしょうね。アポトーシス(apoptosis 細胞死のプログラム)ですね。でも、どうして生物は死ぬようになったんですかね。

  生殖と長寿をトレードオフすることが収支のうえでのメリットだったんだろうね。でも生物が死をプログラムしたのじゃない。個々の細胞が死ぬプログラムをもったわけだ。そのかわり種を存続させた。これはミトコンドリアをとりこんだときからの宿命でしょう。ま、この問題は大きすぎるのでいつか千夜千冊することとして(笑)、ともかくこういうわけで、ニック・レーンはミトコンドリアの主語力だけでなく、いろいろの生命ステージにおける“跳躍”に注目してはいるんだけど、さすがに各ステージの辻褄は合わせられなかった。でもね、これは辻褄を合わせて“新統一理論”にするよりも、“跳躍”(asending)をむしろ“編集”(editing)というふうにみて、それぞれをインタースコアして、そのインラクティビティの交差ぐあいを生命だとみなしたほうがいいと思うんだよ。

  わかるような気はするんですけど、もうちょっと、ちゃんと説明してください。

  ちゃんとしないところがいいんだけど(笑)。

  それでもいいです。

  それじゃ急ぎ足で大前提のところから話すとね、ぼくは生命の一番の特徴は「膜」(membrane)にあると思うんです。バイオメンブレン、つまり生体膜。その代表が細胞膜です。生体にはほかにも各種のオルガネラ(細胞小器官)を包む膜がある。これらが何をしているかというと、細胞の状態をホメオスタシス(恒常化)している。そうでないといつも動的事態が乱れてしまうからね。半透過性の膜があるから内側(生命)と外側(環境)が両立できるのだし、膜があるからこそ情報(栄養物・刺激)が出入りするわけです。福岡伸一君がいつも重視しているところだよね。

細胞小器官(オルガネラ)の構造と合成された
タンパク質の移動経路。
(『ミトコンドリア・ミステリー』講談社より)

  細胞膜ってどんなふうにできているんですか。

  膜は内層と外層になっていて、脂質とタンパク質が互いに流動的なモザイク状態をつくっています。つまり実は非対称なんだ。ここが重要だよね。とくに脂質は内と外とでフリップ・フロップになっている。回路的選択ネステッド。これ、コンピュータの基礎のフリップ・フロップ回路と同じ原理です。

  そうなんだ。それって気がつかなかった。

  そういう膜が核DNAやミトコンドリアDNAを包んでいる。すべてはここから始まるわけだ。で、話をスタートに戻すと、そもそも地球上のすべての生きものは、核をもってないバクテリア(細菌)のような「原核生物」(プルカリオート)と、核やリボソームやゴルジ体のような細胞小器官をいろいろもっている「真核細胞」(ユーカリオート)とでできている。これで生命体のほぼすべてが構成されているわけだよね。ここまではいいよね。

  はい。教科書どおり。

  このうち、地球に最初にあらわれたのは細胞膜をもった原核生物です。これがしだいに変化して次々に、といっても一千万年のオーダーだったろうけれど、3つのタイプをつくっていった。第1のタイプは細胞膜をうまくとりこんで、新たな二重膜で覆った核をつくった原始真核細胞だよね。この核の中にDNAがしっかり確保された。

  遺伝子の活動がスタートしていった。

  第2は葉緑体(クロロプラスト)の祖先となったタイプで、ここからは光合成(photosynthesis)がおこって、二酸化炭素と太陽光ブドウ糖と酸素をつくった。進化生物学の最初のところに登場する有名な海中のシアノバクテリアがほぼ最初の活動体で、地球に酸素がたまっていくのはこのときからだよね。同時に、太陽の光エネルギーのほうはブドウ糖としての化学エネルギーに変わっていきます。

  やっぱり光合成はえらい。

  ところが葉緑体がつくった酸素は、全元素のなかでもフッ素についで電子を引き付ける力が強かったので、周囲の物質と手当たりしだいに結合する。そういう恐ろしい酸素が生物体の中に入ると、生命活動に必要なDNAやタンパク質と酸化反応をおこして、生物体をぐちゃぐちゃにしてしまう。

  酸素は初期の生物にとって危険だったんですね。いまやフリーラジカル酸素は悪名高いですよね。

  そうだね。有害だった。というわけで、葉緑体の祖先は地球圏に酸素を初めて発生させたんだけれど、多くの生物を絶滅の危機に追いやるものでもあったわけです。しかしこのとき、この酸素をたくみに利用してブドウ糖を二酸化炭素と水に分解して、ブドウ糖の中にたくわえられていた化学エネルギーを、たくみにATP(アデノシン三リン酸)の化学エネルギーに変える作業をやってのけたものがいた。これがミトコンドリアで、この外部者ミトコンドリアをとりこんだのが第3のタイプの真核細胞だったわけだ。

  ミトコンドリアもえらい。

  ブドウ糖をATPの化学エネルギーに変えられるようにしたというのは、生物が酸素呼吸ができるようになれたということです。それがいわゆるTCA回路、つまりクエン酸回路だよね。このようなマジカルな作業をやってのけたのがほかならぬ外様(とざま)としてのミトコンドリアだった。けれどもミトコンドリアは真核細胞の中に入ることになって、細胞内共生したということになる。

  ミトコンドリアは酸素をどうしたんでしたっけ。

  水に変えた。でもミトコンドリアは有害な酸素を水に変えることができただけでなく、酸素呼吸ができるようにしたので、それによって莫大な生命エネルギーをまわしていく能力を獲得しつつあったわけです。そこで、これを“見ていた”原始真核細胞の一部の連中が、これを細胞内にとりこみ、有害酸素の処理をできるようにしたとともに、生命エネルギーの生産工場にした。そういう順番だ。

  細胞内共生説、万々歳じゃないですか。

  たしかにそう見えるよね。有害酸素で覆われた地球に、このあと真核生物がアメーバやゾウリムシのような単細胞生物として躍り出ていけたのは、ミトコンドリアを真核細胞がとりこんだからだろうね。

細菌などの原核細胞と、複雑な真核細胞との違い。(本書より)

  しかもミトコンドリアは、細胞の中の核DNAとはべつにミトコンドリアDNAをもった。

  そうだね。細胞には核があって、そのほかにリボソームやミトコンドリアやゴルジ体といったオルガネラ、つまり細胞小器官が装填されている。核は何をしているかというと、生物のマスタープランのための設計図を収録したDNAを厳重に保管する金庫のような役目をはたす。核を覆う核膜(nuclear membrane)がさっきのフリーラジカルな活性酸素やさまざまな化学物質との反応でDNAが傷つくのを未然にくいとめているわけだ。

  膜こそえらい。みんなえらいんだ。

  そう、なかでも膜こそわが命だね。で、あとは知るべしで、DNAの中にある遺伝子が、必要な遺伝情報だけをRNAによってコピー(転写)され、細胞質にはこばれていく。こういう動きをするDNAが核DNAです。ところがQちゃんも知っているように、ミトコンドリアにもDNAがあった(mtDNA)。1963年にストックホルム大学のマーギット・ナスが発見した。これは核DNAとかなり異なるもので、
いささか女っぽい

  女っぽいとまで言いますか。

  言いすぎか。

  松岡さん、ときどきフェミニンすぎるから。

核膜の構造。核膜は、細胞内にあるほかの膜(具体的には小胞体)とつながっており、そうした小胞が融合してできている。どんな細胞の外膜とも構造上の類似性がない点は、核が細胞内に棲みついた別の細胞から生じたのではないことを示唆している。(本書より)

無機物から生命へ。無機物から有機物へ、さらにRNAを中心とする生物世界が生まれ(RNA世界)そして最後にはDNAを遺伝情報の保管庫とするDNAの生物世界が誕生し繁栄した(DNA世界)。
(『ミトコンドリアはどこからきたか』NHKブックスより)

  ふーん、そうか。ま、いいでしょう。で、核DNAのほうはみんなが教科書の図で習った通りのDNAのはたらきをする。両親からそれぞれ1コピーずつの遺伝子を受け継がせるようになっている。だから細胞内には計2コピーしかないわけですが、ミトコンドリアDNAのほうは、なんと母性遺伝だけができるようになっていた。これは衝撃的だよね。マトリズム。だって父親からの遺伝子はいっさい伝わっていかないということだからね。

  あれって、ほんとうに実証されたんですか。

  奇人キャリー・マリス(72夜)が発明してノーベル賞をとったPCR法(DNA合成控訴連鎖反応法)が少量の標本から大量かつ高速にDNAを複製できるようにしてから、かなりテストされて、ほぼそうだろうということになったようだね。日本では『ミトコンドリア・ミステリー』(講談社ブルーバックス)を書いて出版文化賞をとられた林純一さんのチームが「ミトコンドリアDNAの完全母性遺伝性を確証した」と言ってますね。ただし、そのあとから何度か父親の遺伝子もあったという報告があって、けっこう揉めたんだけど、さらにもっと衝撃的なことがわかってきた。

  何がわかったんですか。

  ミトコンドリアは父親の精子のmDNAを消してしまう仕掛けをもっていたというんです。

  ひゃー、それは恐ろしい。ここにもアポトーシス(細胞プログラム死)が用意されていた。

  アポトーシスというより、受精卵が精子のmtDNAを排除するしくみをもっていたということらしい。

  排除かぁ。もっと恐いかも。

  さてさて、それで松岡さん、ここまでの話は何を暗示しているんですか。

  いろいろだね。大きくいえば、ダーウィンは進化の途中の“飛躍”を好まなかったけれど、実際にはいくつもの“飛躍”があったということです。それもまことに偶然におこって、生命体たちはその機会をみごとに活かしたのだろうということ、その偶然はもともとの単純なしくみに対してちょっと複雑なしくみが加わることでおこっただろうこと、それは生命がいつしかダブル・コンティンジェントなしくみになっていたからだということだろうね。だから、これは実は“飛躍”じゃなくてコンティンジェンシー(contingency)を解発させた“情報化学的な編集”だったのではないかということです。

  生命体そのものがダブル・コンティンジェントだったんですか。

  最初からではないですよ。途中からそうなった。ぼくはそうじゃないかと思っている。たとえば葉緑体は、かつてはかなりの自由生活型の細菌だったろうけれど、それでシアノバクテリアみたいなことをして酸素をぼんぼん放出していたんだろうけれど、あるときそれがすべての藻類と植物の共通祖先にまるまる呑みこまれたわけです。けれども、それがなんらかの理由で、この祖先の細胞が自分の食べた御馳走を消化しそこねたんでしょう。でもそのおかげで、植物は日光と水と二酸化炭素だけでエネルギーをまかなう自給自足システムを開発できたわけだよね。

  やっぱり光合成がえらい。

  で、これらのことは、ひとつには生命進化の連鎖にはいくつもの「空隙」(隙間)があったということを暗示しているとともに、それは次のインタースコア(interscore)がおこるための「カサネ・アワセ・キソイ・ソロイ」の踊り場だったということなんです。

  それって、これまでは「宿主と寄生」との関係だと説明されてきたことですよね。

  うん、そうだね。ぼくはそれをインタースコアだとみなしたほうがいいと思っているわけだ。

  インタースコアって相互に文脈や手続きをスコアリングしあうということですよね。

  そう、相互記譜状態になるということ。たとえば野球型の生命体があったとすると、その生命体が表裏でスコアを入れながら情報化学ゲームをしていたら、そこにテニス型の生命活動が割りこんできて、そのうちバットとボールで同じコートを“膜ネット”をはさんでゲームするようになったというようなことだね。

  はいはい、なるほど、そういうことですね。一方、ダブル・コンティンジェンシーというのは、その当体にいくつもの別様性が、少なくとも二つ以上の別様性が発現する可能性がひそんでいたということですね。

  うん、そうです。

ウーズの生物系統の3ドメイン説。
(『ミトコンドリアはどこからきたか』NHK出版より)

  そうすると、野球型の生命体にもテニス型の生命活動にもダブル・コンティンジェンシーがひそんでいたということですか。

  あるいは途中でどちらかのコンティンジェンシーがチームゲームを包んでいったということだね。

  そういう例ってあるんですか。

  けっこうあると思うよ。ミトコンドリアの例でいえば、ミトコンドリアの利点は何かというと、細胞という相手のグラウンドに入って自分の活動をするようになったということだよね。サッカーをするにはそのピッチに入らなければならず、野球をするには野球場にダイアモンドを描かなければならない。ミトコンドリアはそういう相手のピッチや野球場の生命ステージに入ってきた。しかしミトコンドリアにも細菌時代からのゲームルールがあったし、収支勘定があったわけです。つまりスコアリングのしくみがあった。でも、これをただごっちゃにしたのでは、何が何やらめちゃくちゃになる。野球もテニスも壊れてしまう。そこでミトコンドリアは2枚の膜をつくった。外膜と内膜でマトリックス(基質)と空隙をつくって、呼吸鎖とATPアーゼのスコアは内膜に入れた。マトリックスからは空隙にプロトンを汲み出すことをスコアリングするようにした。こうして二つの活動ゲームが進行できるようになった。

  はあはあ、なるほど、そうしているうちに“野球テニス”とか“サッカー野球”という新たな創発的なゲームが生じていったんですね。

  経済学用語ふうにいえば、トランザクション・コスト(内部取引コスト)を同一ピッチにロケーションすることになった両方の生命体の活動がアワセ・カサネしているうちに、きわめて効率の高い生体活動力を得たということだろうね。

  いろいろおもしろかったです。ところで、これが今夜の最後の質問ですが、松岡さんのそういう発想ってどこから出てくるんですか。

  はっはっは、妄想から出てくるんです。

  ちゃんと答えてください。

  何冊かの本を読んでいるうちに出てくるんだね。今夜はニック・レーンの2冊をもとにしたけれど、そのニック・レーン自身も、たとえば大好きなクリスチャン・ド・デューヴの『進化の特異現象』(一灯社)や、ジョン・メイナード・スミスの『進化する階層』(シュブリンガー・フェアラーク東京)、スティーブ・ジョーンズの『遺伝子:生老病死の設計図』(白揚社)、グラハム・ケアンズスミスの『生命の起源を解く七つの不思議』(岩波書店)といった本を気持ちをこめて読んでいて、むろん参考資料はその数百倍だろうけれど、そのコンテクストのあいだで思索しているわけです。だとしたら、われわれもその幾つかのあいだをレーンに沿って読むことは可能なんだね。

  読むだけで新たな発想が出てきますか。

  編集的であろうと思って読みさえすれば、誰だってある程度の創発的なクリエイティビティに達するでしょうね。ただしぼくのばあいは、今夜のミトコンドリア生物学や進化論の本とともに、ニクラス・ルーマン(1349夜)のダブル・コンティンジェンシーの本やイアン・ハッキング(1334夜)の『偶然を飼い馴らす』『知の歴史学』やリチャード・ローティ(1350夜)の『哲学と自然の鏡』『偶然・アイロニー・連帯』や、あるいはヨゼフ・ニーダムの『理解の鋳型』やハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』を同時に思い出しているんです。

  そうか、バックで異分野をまたいでいるから読んでいる渦中で編集できるんだ。

  そうだね。ほとんどどんな相手のテクストでもインタースコア状態になれるはずです。

  でも、それらを同時になんて思い出せますか。

  そう、そこだよね。同時にできないから、少しずつズレて注目コンテクストが編集的思考の途中に挟まってくるわけです。だからこそ、そのズレの模様ぐあいが妄想というか構想というか、新たな地と図の関係をつくっていくんです。そこが創発的編集が生まれるところなんだね。

  羨ましいな。ズレが生きるんだ。コツってあります?

  コツねぇ。ふだんの自分のクセを知るのがいいね。自分がどういうふうにゴハンを食べているか、どのような手続きやテンポで町を見ているか、そういう日常的な自分の言動のクセを使うといいと思う。誰にだって自分自身とゴハンと町とのインタースコア性があるわけだからね。その自分の体験的な交差手続きの感覚を忘れないで、そのままのテイストやアブダクションで、いま自分がさしかかっているところを読むんです。編集するんです。誰かと喋っているときに相手の気持ちを読むように、将棋の次の手を読むようにね。

  ふーん、そういうことですか。

  本って正しく読もうなんて思わないほうがいいんです。学者読みにとらわれないほうがいい。それに、ぼくにとっては学問的整合性なんて必要じゃないからね。こういう発想はダメ、そんな推理は受付けません、ということから解放されている。それより編集的なアブダクションが自在におこるほうがいいんだよ。

  整合性じゃなくて、セイゴオ性。

  そういうことかな。

  それって気楽で、やっぱり羨ましいーっ。で、あらためまして1500夜は何ですか。それからいつごろアップになるんですか。

  教えない。3月半ばくらいにしようかな。遅いかな。

⊕ 生命の跳躍 ⊕

著者:ニック・レーン
訳者:斎藤隆央
翻訳協力:田沢恭子 穴水由記子
発行所:株式会社 みすず書房
装幀者:市原加奈子
本文印刷所:萩原印刷
扉・表紙・カバー印刷所:栗田印刷
製本所:誠製本
2010年12月21日 第1刷発行
2012年11月2日 第6刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

はじめに 進化の10大発明
1|生命の誕生 —変転する地球から生まれた
2|DNA ―生命の暗号
3|光合成 ―太陽に呼び起こされて
4|複雑な細胞 ―運命の出会い
5|有性生殖 ―史上最大の賭け
6|運動 ―力と栄光
7|視覚 ―盲目の国から
8|温血性 ―エネルギーの壁を打ち破る
9|意識 ―人間の心のルーツ
10|死 ―不死には代償がある
エピローグ
謝辞
訳者あとがき
図版リスト
参考文献
索引

⊗ 著者略歴 ⊗

Nick Lane(ニック・レーン)
インペリアル・カレッジ・ロンドンで生化学を学んだのち、王立施療病院(Royal Free Hospital)で酵素フリーラジカルと移植臓器の代謝機能に関する研究をおこない、PhDを取得。その後ロンドンの医療関連マルチメディア企業の戦略部長を務め、現在は科学専門誌『Nature』等に寄稿する科学ライターとして活躍するとともに、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの遺伝・進化・環境部門にミトコンドリア研究コンソーティアムを立ち上げて研究を進めている。他の著書に『Power, Sex, Sucide: Mitocondoria and the Meaning of Life』Oxford University Press. 2005(斉藤隆央訳『ミトコンドリアが進化を決めた』みすず書房 2007)、『Oxgon: The Molecule that made the World』Oxford University Press. 2002(西田睦監訳、遠藤圭子訳『生と死の自然史—進化統べる酵素』東海大学出版会 2006)、共著書に『Life Ascending: The Ten Great Inventions of Evolution』Profile Books/W.W. Norton 2008がイギリス王立協会による2010年の科学書賞を受賞するなど、科学書作家として高い評価を得ている。

⊗ 訳者略歴 ⊗

斉藤隆央(さいとう・たかお)
翻訳者。1967年生まれ。東京大学工学部工業化学科卒業。化学メーカー勤務を経て、現在は翻訳業に専念。訳書に、スペンサー・ウェルズ『パンドラの種』(化学同人)、ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』『サイエンス・インポッシブル』『パラレルワールド』(以上NHK出版)、ピーター・アトキンス『ガリレオの指』、オリヴァー・サックス『タングステンおじさん』(以上早川書房)、アンドルー・ノール『生命 最初の30億年』、マット・リドレー(共訳)『やわらかな遺伝子』『ゲノムが語る23の物語』(以上紀伊国屋書店)、マーク・ヘンダーソン『人生に必要な遺伝50』(近代科学社)ほか多数。