父の先見
意識の進化と神秘主義
紀伊國屋書店 1978
Theodore Roszak
Unfinished Animal 1975
[訳]志村正雄
中国では「正名と狂言」という。名を正しくするための孔子のような正名の哲学に対して、あえて言を遊ばせるかに見える老子や荘子のような狂言の哲学がある。
いずれも中国哲学の源流となった。これに倣えば、「高次に向かう正気」というものがあるのなら「高次に向かう狂気」というものがあったってよいということになる。けれども、単に漠然と「高次の意識」というものを想定すると、これがけっこうワケのわからないことになりかねない。正気と狂気の区別さえつかなくなる。おまけにそこにドラッグが加わると、境界が飛ぶ。
境界というものは、それがあって、そこを跨ぐからこそ境界なのだが、そこがなくなっていく。だからふつうは境界は飛ばさない。飛ばせば狂気と判定されるのがオチだった。
しかしかつて、境界のない「漠然とした高揚と頽廃」がやたらに好まれたことがあった。アメリカの西海岸でのことである。本書はその顛末を書いた。むろんアメリカだけにおこった話ではなかったのだが。
英語の原題は『未完の動物』である。副題に「水瓶座の境界領域と意識の進化」というふうにある。邦題はここからアレンジしたらしい。
本書は、その未完の動物が「意識は進化するんだ」と言いつづけた「水瓶座の時代」(アクエリアン・エイジ)を謳歌した60年代から70年代にかけてのアメリカを扱っている。ジャーナリズムではまとめて「対抗文化の時代」(カウンターカルチャー)といわれるが、著者のセオドア・ローザクは当時のハヤリの「水瓶座の領域」という言葉をそのままつかった。
その「水瓶座の領域」にいったい何がどのようにおこったのかということは、実はいまだに適確な検討がされていない。スーザン・ソンタグの「キャンプ論」のようなものがない。本書は20年以上前に書かれたものであるが、「そのとき何がおころうとしていたのか」に関する、最初の過不足ない報告書になっている。
著者はこういうことを書かせるには一番ふさわしい歴史学者で、プリンストンやUCLAで教え、サンフランシスコに住んで実際に対抗文化の実態も見た。著者の視座は歴史学者らしいもので、これらのムーブメントがアウグスティヌスやピコ・デラ・ミランドラこのかた続いてきた「テルラ・インコグニタ」(未知の世界)への探検だというふうに位置づけている。
アメリカの対抗文化が「テルラ・インコグニタ」の範疇にあるというのはいいとして、著者はそれを「水瓶座のロマン主義」だとも規定したがっている。
ロマン主義? はたして、この時期の"アクエリアン革命"がロマン主義だったかどうか。ぼくはそれをロマン主義と呼ぶのにはいくつかの疑念があるのだが、ひとまずそのころ乱発された現象のアイテム一覧だけをみると、そうでも呼ばないととうていまとまりを欠く印象があったものだった。
たしかにそのころは「叡知」「秘儀」「顕現」といった言葉が氾濫していた。とくに宗教団体に属さない者も、カバラもエリアーデも知らない者も、まるでアイスクリームを食べるように、そうした呪能を暗示するような言葉を乱発していた。
そこにはまた、反体制思想、電子工学、ドラッグ、心理療法、クジラ学、バイオメカニクス、瞑想、有機農法、太極拳、ロック、神秘主義、タオイズム、幽体離脱、バイオフードバック、量子力学、エコロジー、タロット、サイバネティクス、行動心理学、身体アート、リビングシアターといった「意識を進化させそうなアイテム」が、ずらりと並んだものだった。
これらは当時のハヤリの言葉でいえばセパレートリアル(分別された現実感)であって、かつハイパートロフィ(異常発達)なもので、人間というものは活用できるものなら何でもつかって過度に熟していくことのほうがいいんだというカウンター思考によって駆動していた。
これらを推進させ、過度の説得を試みる人材もズラリと揃っていた。まずジェフリー・チュー、デヴィッド・ボーム、若手のフリッチョフ・カプラらの量子系の物理学者がいた。
それにグレゴリー・ベイトソン、R・D・レイン、エイブラハム・マズロー、ライアル・ワトソン、スタニスラフ・グロフ、アナ・ハルプリン、ジョン・C・リリーらの心理学者やシステム学者や生物学者や脳科学者が加わった。かれらはべつだん相談づくではなかったが、これらの内容をクロスさせるにはサンフランシスコのエサレン研究所が機能した。
一方、神秘主義がやたらに跋扈した。かつてのシュタイナー、マダム・ブラバツキー、グルジェフ、ルネ・ゲノン、デーン・ルディアらの著述や運動がことごとく復活して、"水瓶座のためのグノーシス"とでもいうものを背後から保証し、これにヒッピー・ムーブメントとともに拡張していたジェラール・アンコの無音未知教団、パリのエリファス・レヴィのグループ、アレスター・クロウリーの銀星教団などの"秘儀"が、まことしやかな噂のように伝えられていった。
とくにルネ・ゲノンの20世紀スフィーズムは駆け足のようにかれらのあいだを周回していた。70年代に入ってぼくのところ(工作舎)を訪れてきた若き精神医学者フェリックス・ガタリや、のちにビデオアートの王様になったビル・ビオラは、ぼくが呆れるほどスフィーズムの話をしたがった。
実践的な活動も一挙に開花した。針灸治療、ベジタリアン、太極拳、瞑想、マッサージ、薬草学、それにジョージ・レナードの『サイレント・パルス』やマイケル・マーフィの『王国のゴルフ』などによってスポーツそのものが霊的な目覚めとでもいいたくなるほどにアクチベイトされていったのである。
これらも互いに連絡をとりあっていたわけではない。それぞれはセパレート・リアルなのである。が、エサレン研究所が相互をつないだように、ここでは最初は『グノスティカ』、ついでは『サイコロジー・トゥディ』、さらには『オムニ』といった雑誌がこれらの撹拌を徹底していった。
もうひとつ、これらを撹拌し、連携させるものがあった。それが1969年以来連打されていった「意識の祭」である。本書には次のような記録が紹介されている。
サンフランシスコでの「天上連接」「意識連携フェスティバル」「秋分フェスティバル」「宇宙ミサと祝祭」、バークレーでの「個人的自律のための統合に関する自由参加シンポジウム」「ダールマ・フェスティバル」「祝祭銀河狂想祭」、デイヴィスでの「ホールアース・フェスティバル」、ソノマの「シナジェティック・シンポジウム」、サンホゼ「第1回心霊科学芸術祭」、サンタ・クルス「秋分の治療祭」など。
これらの集会は、もっと小さな規模ならば、どこででも開催されていた。当時、ぼくのところにさえ100くらいの招待状がしょっちゅう届いた。いまそれらのプログラムはすべて散逸してしまっているが、ロックグループが参加することもあれば、イリン神父、ユリ・ゲラー、フィンバー・ドーラン、さらにネイティブ・インディアンが参加することもあった。
本書はこうした一連の「統合」を肯定も否定もしていない。それよりも、それぞれの接合がそのつど何と呼ばれてきたかを淡々と紹介する。たとえば「ピーク・モメント」「フラッシュ・バック」、たとえば「最高値」「乱調科学」(ワイルド・サイエンス)。
しばしば対抗文化派が好んでつかった用語「統合」は、心理学者ロバート・オーンスタインの『意識の統合の心理』やアイダ・ロルフが考案した「ロルフィング」によって提唱された構造的統合法などによって広まった用語である。
が、これらがすべて70年代に生じたロマン主義とか新ロマン主義というふうに一括りできるかというと、これはあやしい。リヒテンベルクもノヴァーリスもホフマンもいないし、ロマン主義に特有の民族の記憶に対する期待や言語の練成がない。また様式の格闘もない。だからローザクには悪いが、ロマン主義とはいえないように思える。
むしろロマン主義などというより、ハイパー復古主義とか宇宙意識主義とかカジュアルな超越主義といったほうがいい。
なぜならば、ここにはギョとするものも交じっていて、どこか犯罪的なエロティシズムと隣あっている。ロマン主義にはそういうものがなかった。水瓶座世代には、たとえば新聞王ハーストの娘パトリシア・ハーストが誘拐入隊した「共生体解放軍」(シンパニーズ・リベレーション・アーミー)やロマン・ポランスキーの恋人を巻きこんだマンソン・ファミリーの虐殺事件などがよくおこり、そこには「再生の心理学」を強調しすぎてしばしば精神ファシズムに陥ったり、ルイス・マンフォードが「病理の楽天主義」と呼び、ライト・ミルズが「気違いリアリズム」とからかったものに突入していくような、抑制のない超越大好き傾向が目立つのだ。
もっともその一方で、意識の進化を確信した水瓶座の世代は、意外な先駆性を次々に発揮してもいった。クジラやイルカへの愛、オルターナティブ・テクノロジーの提案、ニューラル・ネットワークの重視、1チップ・コンピュータの開発、東洋思想やケルト思想の発掘などは、かれらの夢中によってこそ促進したものだったし、マース・カニングハムやモーリス・ベジャールの舞踊、Tレックスやピンク・フロイドやルー・リードの音楽、ケネス・アンガーやナムジュン・パイクやウッディ・アレンの映像、アンディ・ウォーホルやローリー・アンダーソンのアートパフォーマンスは、ほとんどかれらによって支えられてきた。
実はアメリカに手芸と民芸の復活をもたらしたのも、かれらの熱中によるものだった。そういうところは、かれらは技術のヨミの勘が冴えていたし、アートの未来を予知する能力に長けていたし、そのくせその姿勢はつねにカジュアル(普段着)であることに徹することができたのだ。ただ、意識だけが先走りしていた。
それにしても、アメリカの水瓶座の世代はなぜこんなにも走ったのか。自分たちを『イージーライダー』として位置づけ、そこから「高次への正気」と「高次への狂気」をとりまぜて『いちご白書』を言挙げしたくなったのは、なぜなのか。
ローザクは、そこには、それまでの社会が決して用意しなかった「コンセンサスの中心」があったのではないかとみなし、そこに封印を解かれた八つの提示があったと推理した。すなわち、
②方便(ウパーヤ)を求めたこと、
③超個人的主観を拡張したこと、
④普遍性を持ち出すことの可能性を信じたこと、
⑤全体性を語ることが好きだったこと、
⑥有機体説を復権させようとしたこと、
⑦ありふれたものに啓示を感じてもいいと思ったこと、
⑧生活には新たな「冨」があると思ったこと、
という推理だ。
このローザックの推理は当たっている。温かい理解者になろうともしている。
しかし、必ずしも新しい推理ではない。なぜなら、それらはいずれも大乗仏教や中世の地中海ユダヤ人やラファエロ前派らがやりつくしたことの"解凍"にすぎないようにも見えるからである。つまり、水瓶座の世代はこれほどの理解者を得ても、なおその特徴が過去の遺産の「統合」にしか見えないという、そういう特徴の中に泳ぎすぎたのである。
おそらくかれらはあまりに並列処理に流れすぎて、「編集のフォーマット」を欠いたままになっていたのではなかったか。同時代を日本で送った者として、このことをぼくも自戒している。