アウグスティヌス
三位一体論
東京大学出版会 1975
Aurelius Augustinus
De Trinitate 421?
[訳]中沢宣夫

 アウグスティヌスはアフリカ人である。しかし聖アウグスティヌスは「ヨーロッパの教父」となった。アウグスティヌスは少なくとも9年にわたってのマニ教徒だった。しかし聖アウグスティヌスはラテン教父の中の最大の神学者となった。
 アウグスティヌスは回心をした。それ以前、マニ教とともに新プラトン主義こそがアウグスティヌスの哲学だった。ウラジミール・ナボコフは『ロリータ』を書いていたときに、そのアウグスティヌスをこそ読んでいた。
 バートランド・ラッセルは、アウグスティヌスが性に邪魔されたぶん神の国に近づいたと見た。ヴィトゲンシュタインはそうではなく、アウグスティヌスは性を回避したぶん、問題の当初に戻るという論理を忘れた神学者になったと見た。
 どちらも当たっていそうであるが、どちらも聖アウグスティヌスから遠のいている。たしかに『告白録』にアウグスティヌスは性の問題についてふれている。自慰に耽ったともとれる記述をのこしている。けれどもそれは父パトリキウスが観察した青年アウグスティヌスだった。しかも父親はキリスト教徒ではなかったのである。聖アウグスティヌスほど異端者の側に立って自分を見る力をもったキリスト者はいなかった。

 アウグスティヌスほど誤解され、アウグスティヌスほど神聖化されている哲人はヨーロッパにはいない。プラトンもオリゲネスもトマス・アクィナスもルターもロヨラも、アウグスティヌスにはかなわない。
 なぜならアウグスティヌスは自身が自身を誤解し、自身が自身を神聖化することを哲学したからである。
 たとえばアウグスティヌスは身体の作用を「原因の作用」とみるよりは「送信の作用」とみなしていた。今日ならこれはすばらしい認知学である。そして最初は、魂がその情報送信をうけもっていると考えていた。今日ならこの見方こそが脳科学者を悩ましている問題である。しかしアウグスティヌスはこれが誤解であって、アウグスティヌス自身の身体の過誤であり、知覚の過誤であり、さらには記憶の過誤だったと知った。
 やがてアウグスティヌスはそれが中継所にすぎないと理解した。真の送信者は神だったのである。その神をアウグスティヌスは実感した。送信された情報は福音だった。
 このようなことがアウグスティヌスにはしょっちゅうおこっている。そこに異端と正統を激しく往復しつづける独得の哲学の尽きない魅力がひそんでいる。しかしアウグスティヌスが「ヨーロッパの教父」と呼ばれてきた理由は、そういうことにはない。ヨーロッパがアウグスティヌスを称賛することになったのは、おそらくアウグスティヌスがアフリカの時代に生まれ、アフリカの前衛的な伝道社会に育ったからである。

 アウレリウス・アウグスティヌスは354年11月13日に北アフリカのヌミディアの小さな町タガステに生まれている。そこは帝政ローマの属州で、アウグスティヌス一家はベルベル族の一員だった。
 このことは、アウグスティヌスがギリシア語が話せなかったことや、ベルベル語とフェニキア語を一緒くたにしていたらしいことから推察される。
 しかしながら、この北アフリカに生まれ育ったことこそはアウグスティヌスの風土の思想となった。なぜなら、キリスト教神学の起源と前衛は、まさに小アジアとエジプトと、そして北アフリカとにあったからである。クレメンス、オリゲネス、ディオニソスはすべてアレクサンドリアの教師であった。とくに200年前後、北アフリカのテルトゥリアヌスが出現し、それから50年後くらいにカルタゴでキプリアヌスが司教活動し、4世紀にアンブロシウスとヒエロニムスが博学多才な活動をしていたことは、アウグスティヌスの
“前歴” になっている。
 北アフリカにはまた、オリエント支配を腹にもつローマ主義の帝国と、ヘレニズムこのかたの融合を胸にする都市国家と、原始キリスト教にひそむ魂をもつコミューンの、この三つの混在が目に見えていた。
 こうしたなかアウグスティヌスは好き勝手な言動を遊んでいた。とくにキケロに溺れ、『ホラテンシウス』を耽読した。哲学と言葉へのめざめはここに始まっている。やがて各地を訪れ、カルタゴでのマニ教と新プラトン主義への没頭が始まった。ついでローマにわたったアウグスティヌスはウェルギリウスにも堪能する。ミラノでは司教アンブロシウスに出会う。こうしたマニ教徒としての彷徨は9年に及んでいる。

 しかしマニ教はあまりにもその内側に多様性を欠いていた。マニその人が聖霊の座に坐りすぎていた。
 アウグスティヌスはアフリカの戦闘的多様性で育った精神の持ち主である。ドナトゥス派とローマ帝国との闘いを少年のころから知っていた。だからそうした精神の現場に戻ることこそがアウグスティヌスの最後の選択だった。
 こうして有名な「回心」(metanoia)が始まった。きっかけはアンブロシウスの後任司教シンプリキアヌスとの対話や哲人テオドルスの改宗だったようだが、アウグスティヌス自身が誤解からの脱出を決定したかったとみるべきだろう。それこそアウグスティヌスの
“conversion” なのである。顧みれば、これはすでにパウロにおいても転回していたことだった。アウグスティヌスは惧れることなく
“conversion” に向かっていく。

 こうしたアウグスティヌスの遍歴は『告白録』に詳しい。しかしアウグスティヌスにとっての真の転換は『ソリロキア』による瞑想の発見と『神の国』(De
civitate Dei)による “取り消し歌” の発見であったろう。
 ソリロキアは「一人で語りあう」という意味の、アウグスティヌスにとってはどうしても必要だった想像力による対話方法である。もうひとつの『神の国』は、アウグスティヌスが理想を自身に課するために、すでに犯してしまった思索と言動を取り消すための方法を保証する仮想の国のことだった。
 アウグスティヌスはこうして “conversion” の奥へ奥へと至っていく。なぜこれほどにアウグスティヌスが没頭し、転回し、前進できたのかといえば、おそらくアウグスティヌスが生涯文法学者でありつづけたからではないかとおもわれる。また、つねに記憶と時間の本体を見つめ、そこから自身を前方へ放り投げることによって想像力の空間を拡張し続けたからではないかとおもわれる。
 しかしそのことがアウグスティヌス神学にとってどのような意味をもったのかということについては、ここではふれる余裕がない。ここではアウグスティヌスに借りたひとつの問題だけを、以下にスケッチしてみたい。

 ぼくにとってキリスト教の三位一体論ほどわかりにくいものはない。今夜、アウグスティヌスの著述の一書を採り上げるにあたり、『告白録』でも『神の国』でもなく本書を選んだのは、そのぼくのわかりにくさを告白しておきたかったからである。
 三位一体とは「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」が一体であるということをさす。しかしながら、一体である神がなぜにまたこのように三位に分かれているのかを理解するのが難しい。高校時代から富士見町教会に通っていたぼくには、このことを得心するのが長らく苦痛だったほどである。
さすがにアウグスティヌスには苦痛などはなかったのかもしれないが、本書が約20年にわたって書き綴られていたこと、その執筆動機が友人や知人からニケーア宗教会議で定式化された三位一体の信仰の知解に関する困難を説いてほしいという要望にあったこと、そのため本書の記述ではつねに反論や誤解を打破しながら進むという方針を採らざるをえなかったことなどをおもうと、アウグスティヌスにして多少の苦難が伴ったのではないかと憶測させる。

 そもそも三位一体の考え方にはギリシア定式とラテン定式があるのがややこしい。
 ギリシア定式では、父なる神・子なる神・聖霊なる神それぞれが自存者(ヒュポスタシス)で、そのうえで一つの実体(ウーシア)として合致すると見る。ラテン定式ではちょっと違っていて、三位すなわち三つの位格(ペルソナ)それぞれに一つの本質があり、それで三位一体が成立していると見る。アウグスティヌスは後者に位置するが、まことに面倒な考え方であるというしかない。
 ひるがえって旧約聖書では、キリストの「受肉」(incarnation)などという考え方は芽生えていなかった。イエス・キリストなどいなかったから当たり前である。神はただ一つの絶対的な一者であった。ところがイエスが出現し、唯一の神に向かって「父よ」と呼びかけたのだ。この呼びかけは旧約にはなかった新約的関係である。おまけにそのイエスは十字架にかかって死を迎え、そして意外なことに復活をした。イエスの祈りを継承するのなら、そこに復活した「聖霊」(spiritus)を想定するしかなくなってくる。

 こうして新たな新訳信徒たちはイエスに倣って「父よ」と祈り、そこに同時に「主の祈り」というものを感じたわけである。
 そのうえ、神が父ならばイエスは子でなければならなかった。それなら聖霊は父からイエスによって派遣されたということになる。ヨハネ福音書には、この父・子・聖霊の三者が入り乱れる兆候が見えている。
 そこで教父哲学が登場して、神学的実験が昂じ整理したくなったのである。イエスはもともと先在する者(これが本来の意味のロゴス)として永遠の昔から神の独り子としていたのだが、時いたって受肉して、その受肉者イエスを通して父なる神が啓示されたのだというふうに。それとともに聖霊も父を根源とし、子を通して派遣されたのだというふうに。
 ここで「受肉」こそは新たな神学的思想がつくりあげた傑作概念であった。万物に先立って父なる神のもとに存在した独り子が人間となって地上に現れたことにより、救いが出来事になったということ、それが受肉なのである。一方、「聖霊」はすでにクムラン文書に芽生えていた観念で、新約聖書以降では「神の霊」、さらには積極的に「復活したキリストの霊」として解釈された。

 アウグスティヌス以前の教父たちは、ユダヤ教的一神論とギリシア的多神論およびグノーシス主義のあいだに立って、この三位一体の辻褄合わせに腐心した。
 しかしニケーア宗教会議は、まずは父と子の同一本質関係(ホモウーシオス)を定式にした。アウグスティヌスが説明を求められたのは、ここからである。
 かくてアウグスティヌスの格闘が始まった。本書第1巻、アウグスティヌスは正直に「父と子と聖霊が、三つなる神ではなく一つなる神であると聞けば、諸君はこのことに困惑するだろう」と言っている。第2巻、アウグスティヌスは聖書が父と子の同一性にふれていないこと、子と聖霊の関係が聖書に曖昧であるため、どうしても聖霊が従属的に見えることを引き受ける。そして被造物が父祖たちに姿をあらわしたのは、父においてなのか、子においてなのかを問うていく。
 第3巻と第4巻は、このような三位のペルソナが動くとき、天使はどんな役割をもったのかを問題にする。なぜなら、三位一体論とはまず「派遣」が問題になるからである。アウグスティヌスは子の受肉こそが派遣の起源になりうると説いた。
 こうして第5巻から第7巻まではアリウス派の議論への介入を通して論駁に徹しつつ、そこで三位一体の問題がわれわれがそれを考える知恵の問題に属しているのだという転換を用意する。そしてここからがアウグスティヌスの独壇場になる。それは苦渋にみちてはいたものの、それ以上に新哲学の香気を放っていた。

 第8巻、アウグスティヌスはついに「類比」という方法をもちだして、三位一体を問い求めることは「愛」を問い求めることに匹敵することなのだという論法に入っていく。
 そして第9巻、「愛」の三位一体にひそむ「似像」(imago)を分析しはじめる。それゆえ第10巻と第11巻では、アウグスティヌスの主題は「知と愛」である。そこではなんと「記憶」「知解力」「意志」が三位一体となる。それをさらに説明するために第12巻と第13巻があって、知識と知恵との峻別に分け入った。
 アウグスティヌスによれば、知識は「時間的なものにおける理性的な精神の職務」にあたるもの、知恵は「観想すべき永遠なるものに専念する精神の職務」なのである。こうして第14巻で、アウグスティヌスは人間の精神の解明こそが三位一体の解明にあたると宣言をし、もはや父と子と聖霊に関する旧パラダイムには戻らない。
 最終の第15巻、アウグスティヌスはこの『三位一体論』が新たなパラダイムとしての人間論であったことを証し、その追求がないかぎり神の論理は今後一歩も前進できないことを暗示する。

 なんとも三位一体論とは恐ろしいものである。これは小声でいうしかないが、こんなことはむろんまったくのデッチ上げであり、しかも最も神聖な論議を尽くした末の成果だったのである。アウグスティヌスはそれをいっさい引き受けたのだ。ぼくにはいまもって、一人でこのことの秘密を告白する勇気をもちえない。
 けれどもそこでふとおもうのは、これはとうてい神学では説きえないものなのではないかということである。もうすこしわかりやすくいえば、神学が論理をもって説明するには、すでにとっくに論理の範疇を超えてしまったのではないかということだ。
 だからこそアウグスティヌスの直系を自認するドンス・スコトゥスやルネ・デカルトにして、三位一体が三位一体を破壊してしまわないための別の神聖幾何学ともいうべきを、神の数学ではなく人の数学の証明をもって用意する必要があったのである。

 アウグスティヌスは比喩の人である。アウグスティヌスはロゴスの人である。アウグスティヌスは自身の提示した言葉を自身の記憶から消すために、新たな記憶を人々に提供してしまう人である。
 しかし、そのことを無限に受容しつづけていくことが、きっと中世における神学の開示そのものだったのであろう。

 さあ、明日、ぼくは「未詳倶楽部」の面々と長崎の大浦天主堂にいるだろう! 雑踏にまぎれ、天上を見上げ、たとえ一瞬でも聖アウグスティヌスを思いたい。

参考¶アウグスティヌスを読むことはひとつの修行に近いものがある。しかしこの修行はこちらを赤裸々にしてくれる爽快感がある。その意味だけからも、アウグスティヌスの読書を奨めたい。日本語では『アウグスティヌス著作集』全30巻(教文館)が圧倒的であるが、まずは『告白』『神の国』(岩波文庫・教文館)がいい。アウグスティヌス論もいくつも出ているが、古いところではクリストファー・ドーソンほかの『アウグスティヌス』(筑摩叢書)、ワルター・フォン・レーヴェニヒの『アウグスティヌス』(日本基督教団出版局)が、新しいところではギャリー・ウィルズの『アウグスティヌス』(岩波書店)が自在でおもしろい。

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