デヴィッド・ボーム
全体性と内蔵秩序
青土社 1996
ISBN:4791754735
David Bohm
Wholeness and Implicate Order 1980
[訳]井上忠・伊藤笏康・佐野政博

 デヴィッド・ボーイもいいが、デヴィッド・ボームは同じくらい衝撃的だった。『現代物理学における因果性と偶然性』を読んだころ、ちょうどハイゼンベルクの『部分と全体』の翻案に夢中になっていたふんどし一丁の稲垣足穂翁から、「いま、松岡さんは物理学では何を読んでるんや」と訊かれたことがある。
 ふんどしから零れる萎びた一物に呆れながら(べつだん困りはしなかったが)、「以前はシュレディンガーでしたが、いまはボームですね」と答えた。足穂翁は「ふーん、ボーア(ニールス・ボーア)ともボルン(マックス・ボルン)ともちごうて、ボームなんか。ややこしいな」と笑った。ボームを御存知ではなかったようだ。まさにデヴィッド・ボーイが「ジギー・スターダスト」で乗りまくっているときだった。

 ボームは量子力学の大成者ではない。新たな数式の確立や物質運動の発見にも寄与していない。どちらかといえば異端に属する。量子力学の渦中にいて量子力学に注文を出し、量子力学と意識の関係に注目しつつあった。
 いまなら「量子脳」とか「量子コンピュータ」という概念も流通しつつあるが、当時は「量子と意識」などという組み合わせは異端もいいところだった。そういう意味では最初の量子哲学者といったほうがいい。だから、そういうボームに注目するのはそのころ"ニューエイジ・サイエンティスト"とよばれたおっちょこちょいの連中が多かった。カリフォルニア大学バークレーのフリッチョフ・カプラなどがその代表的な一人だった。
 そういうボームにおっちょこちょいのぼくも惹かれたのではあるけれど、その一方でちょっぴりだが、ボームに対しては重要な注文もあった。今夜はその注文を書きたいために、ボームの思想をさらっと案内する。注文は最後に一言加えるだけにするけれど、ぼくが何を言いたいかはそれで十分に伝わるだろう。デヴィッド・ボーイに「あそこはギターにまかせてもよかったね」と言いたい程度のことなので――。

 相対性理論と量子力学は世界に対する接近方法は異なるが、世界を分割不可能な全体として見ようとしていることでは一致している。物質と時間と空間が分かちがたいだけでなく、その光景を見ている観測者も世界の一部にくみこまれていると見る。ボームはこのことを「流動運動する分割不可能な全体性」とよんだ。
 ボームは部分と全体を分けたくない。断片的記述と世界的記述を分けたくないのだ。ボームにとっては断片化は世界観を中断し、ときには固定化するものなのである。だから部分と全体を分けたくない。分けたくないだけではなくて、そのあいだに間断なき「流動」(flowing)があると見たい。この流動は物質の運動であって、時間の流れであって、空間の継続でもあるが、ボームにとっては思考そのものの様式の問題で、かつまた言語の様式の問題でもあった。

「世界管(ワールド・チューブ)」 

「世界管(ワールド・チューブ)」 管の境界で示される領域を中心として、一つの構造が運動し発展してゆくきわめて複雑な過程を表現

 もともとボームはボーアのコペンハーゲン解釈に疑問をもっていた量子力学者だ。物質が「宇宙→天体→気象→物体→分子→原子→原子核→粒子→素粒子→‥」というふうに、どこまでも分割されて"質的無限性"をもつことにも疑問をもっていた。つまりボームは量子力学の現状になんらかの不満があったのだ。
 ぼくが『現代物理学における因果性と必然性』とともに関心を寄せた一冊に『量子力学は越えられるか』があった。1968年にケンブリッジでおこなわれたコロッキウムの記録なのだが、まとめ役のバスティン、論客のヴァイツゼッカー、ブーツストラップ理論のチューらとともにボームも参画していて、なんとか量子力学の新しいパラダイムに向かおうという姿勢を見せていた。
 その姿勢の根底には、物質の正体を「流動運動する分割不可能な全体性」として考えたいという見方がある。この見方はボームに一貫している。しかしそれには、ボーム自身が新たに挑戦しなければならない問題もあった。ボームは量子力学の限界を考えていたのではなく、量子力学を語る「言葉」に限界を感じていたからだ。

 ラテン語やギリシア語では、健康(health)と全体(hale)は同じ語源になる。神聖(holy)と全体(whole)も同じ語源だ。また、理論(theory)と劇場(theater)も同じ語源で(テオリアから派生した)、どちらも世界を見るためにある。ここまではいい。ようするに名詞はうまく選びさえすれば、実はつながっていく。
 けれども世界中の言語がほぼ採用している「主語-述語-目的語」という言述の様式(mode)となると、どうか。この構文の様式で語られていることは何でも正しいとされすぎてはいないのか。その意味は受け取るほうがちゃんと理解すればいいと考えられすぎてはいないだろうか。とくに他動詞をつかうときは、空間を隔てた客体に行為や作用をすることになる。思考を言語の様式が縛ってはいまいか。
 たとえば"It is rainning"というばあい、雨を降らせているのは主語の"it"ということになる。この"it"は何なのか。これでは雨と主語とをいったん分離してしまったのではないか。どうしても「主語-述語-目的語」にしたいなら、"Rain is going on"だろう。
 天気の話程度ならこれでもいいかもしれないけれど、しかし科学者が物理現象を語るときにもそうなっていることが少なくない。「素粒子は相互に作用をおよぼしあっている」というときも、科学はこの問題に立ち会っている。

 素粒子は、そもそも「宇宙の全体的な場の運動における相対的に不変な形式」というものである。だから「素粒子は相互作用している」のではなくて、「素粒子は互いに混じり合って相互浸透している継続的な運動である」と言ったほうがまだしも正確なのだ。もうすこし厳密にいえば、「素粒子は互いに混じり合って‥‥継続的な運動で‥‥そのような運動を見ている観測者にとってもそう見えるもの」と付け加えたほうがいい。
 が、こんなことでは理科の言葉を厳密につなげようとして、いたずらに複雑でまわりくどい表現を強いることになるだけだ。ボームは物質の運動の全体と主客を分けないで「流動」として捉えたい。それならそのような「流動」をあらわす言葉の様式があればいいはずだ。
 ぼくはこのボームの気持ちをとてもよく理解できたけれど、ボームが「流動」のための言葉の様式に挑戦するなどとは予想だにしていなかった。ところがこの科学者はそれに挑んだのだ。それを「レオモード」(流態)という。

 ボームが「レオモード」という言葉の様式に挑戦していたことは、1976年の『断片と全体』や1980年にコルドバで開かれた「科学と意識」というシンポジウムから伝わってきた。『断片と全体』はのちに工作舎で、コルドバのシンポジウムのほうは『科学と意識』シリーズ(たま出版)として竹本忠雄さんが監修して全5巻に翻訳刊行された。
 コルドバのシンポジウムはフランス語で"Science et Conscience"というタイトルがついている。「シアンス・エ・コンシアンス」は「知」をあらわすラテン語"scientia"を両含みしていてちょっと洒落ていた。ボームのほかにブライアン・ジョセフソン、ユベール・リーブス、ポール・ショシャール、カール・プリブラム、エミリオ・ガルシア=ゴメス、井筒俊彦、ジャン・ピエール・シュニッツラー、フリッチョフ・カプラ、キャスリーン・レインほか総勢100名近くのハイパージャンルの研究者たちが結集した。科学がついに意識をとりこもうとしたと騒がれて有名になったシンポジウムである。

 ボームのレオモード(rheomode)は、「主語-述語-目的語」の支配がおこす思考の断片化と分断化を脱するために、動詞変化を主要なモードとして記述できる方法を試みようとしたものだった。レオモードのことは『断片と全体』にも『科学と意識』にも、本書『全体性と内蔵秩序』にも自己解説されている。
 そのごく一部を紹介すれば、たとえば"relevant"(妥当)という言葉がある。科学ではしょっちゅう使う重要な用語だ。AとBの現象や状態が互いにレリバントであるかどうかは、ときに決定的な科学の成立を左右する。
 この言葉は"relevate"(妥当する)という動詞から派生しているので、"elevate"と同様、そこには「そこに注意を引き上げる」という意味をもつことができる。それならそこには"levate"(持ち上げる)が連続する。そうすると"relevate"はきっと、数式や思考によって示された特定の文脈にふたたび注意を入れこむという意味をもつだろう。ということは"relevation"といえば再帰的思考のモードになったことを示し、"irre-relevation"はそこから逸脱していくことを意味するはずだ‥‥。
 ざっとこんなふうに、ボームはもっぱら動詞を語根とする一連の言語構造そのものをつくっていけば、科学にとってかなり重大な、たとえば"relevant"に関する言述や議論を分断することなく進められると考えたのである。

 もうひとつ例を紹介する。
 いまは誰もが知っているビデオ(video)はラテン語の動詞"videre"から派生した言葉だ。映像になったものを見るという意味がある。そこでここに試みに"vidate"という動詞をつくってみる。これは"levate"(持ち上げる)の'-ate'に準じて、たんに見るというよりも、注意を持ち上げながら見ること、すなわち認識を喚起して見るという意味をもつ。
 そこでここから"revidate"を派生させて再認識や再試験する行為をあらわしてみると、たとえば"revidant"などという言葉が"relevant"に共鳴して、再認識・再試験してみると適合していたという一連の行為を切れ目なくあらわすことになろう。そうであるのなら"revidation"はそうした認識の継続状態に対応する物質運動状態であろうし、"irre-vidation"はその注意が逸れるような状態なのである。そして、ここは詳細を省略するが、たとえば"divide"(分割する)はこれら"video"群の認識を対象としても分断するということになるはずなのだ‥‥。

 認識や認知の分割をすることなく、数式を使うこともなく、対象についての思考を一貫した適切な言語によって進めたいという願望は、哲学者や認知科学者なら一度は抱くものだろう。しかしそれを量子力学者が試みるという例はあまりない。けれどもボームはそれを試みた。本書には不十分ながらも、そのことに挑戦した計画の一端が書いてある。
 こうしてボームは本書の表題ともなった「内蔵秩序」というものに向かっていったのだ。本書のテーマにあたるところだ。
 内蔵秩序という日本語訳が妥当かどうかはわからない。インプリケート・オーダー(implicate order)が元の用語で、これはエクスプリケート・オーダー(explicate order)に対比させられている。本書の訳者の井上忠はこちらには「顕前秩序」をあてた。内蔵秩序も顕前秩序もややわかりにくい。『科学と意識』を訳した竹本忠雄はインプリケート・オーダーを「暗在系」と、エクスプリケート・オーダーを「明在系」と訳した。こちらのほうがレオモードふうにはずっと洒落ているが、その後の日本での議論を見ているかぎり、まだ定着していないようだ。

 訳語はさておき、インプリケート・オーダーとは本来の流動的全体性が"implicit"で"enfolded"されている秩序ならぬ秩序のことを示す。包みこまれているため秩序が隠れたままになっている。これに対してエクスプリケート・オーダーは"unfolded"されて、いわば外部に巻き上がっている。
 たとえばテレビの電波は空気中ではインプリケート・オーダーとして伝播して、受像機で"unfolded"されてエクスプリケート・オーダーになる。コンピュータのデジタル信号も、脳における電気化学信号システムもおおむねそうなっている。ボームはもっと適切なメタファーとしてホログラフィを選んだ。レーザーによる結像ホログラムにはまったく明示的な像がなく、その情報のいっさいが隠されているのだが、そこにふたたびコヒーレントなレーザーが照射されることによって、それまで包みこまれていた情報が巻き上がってホログラフィとして顕在してくるという例だ。
 このようなメタファーをボームが選んだため、ボームの内蔵秩序論はしばしばホログラフィック・パラダイムとよばれた。これはカール・プリブラムが『脳と言語』で仮説したホログラフィ仮説とも対応していた。

被写体の構造全体と干渉模様との関連

被写体の構造全体と干渉模様との関連は、レーザー光で乾板を照射すると明らかになる。

 問題は世界を記述するにあたって、何をエクスプリケート・オーダーにして、何をインプリケート・オーダーにするかということだ。
 デカルトはすべてを明在系にするために、直交座標(デカルト座標)という思考方法と表示方法の直結を好んだ。ニュートンも同じ立場に立った。量子力学にはこれはあてはまらない。量子のふるまいは確率的な潜在性のうちにある。そもそもの動きはインプリケートされている。それをエクスプリケートさせると、波になったり粒子になったりする。
 さらに量子力学は、インプリケートされた量子のふるまいを観測しようとすると、本来のふるまいが記述できないことをあきらかにした。
 しかしボームは量子力学をもっと充実して語ろうとしているうちに、物質と意識の分断できない関係を記述することこそが重要で、そのためには何をすればいいのかというほうへ問題を発展させていったのだった。
物質と意識の分断できない関係を記述するとは、ハイゼンベルクの不確定性原理や観測の理論が要請する「観察者を含んだ物質の運動の全体性」を記述するということにあたる。

 ここに一個の種子があるとして、これを土に撒いたときに、科学者はこの種子がもつ将来的全体像をどのように語ればいいのか。物理学というものはラプラスの魔をこえて、1個の粒子の過去・現在・未来を次々に記述できるようにすることを目標にしてきた。また、それがニュートン力学において果たせると確認してきた。しかし量子力学と相対性理論はこれをゆさぶって壊してしまったのである。
 1個の種子を前にしたときも同じである。科学者はおそらく、種子には包みこまれたインプリケート・オーダーがあり、それがやがて枝を伸ばし葉を繁らせてエクスプリケート・オーダーになっていくと説明するしかないのではないか。そのことを連続的に表現できる一連の数式と一連の言葉を用意するしかないのではないか。だとしたらそれにとりくむべきである。これがボームの立場なのだ。

 もっとわかやすくボームの考え方を圧縮しよう。ボームは、電子とか素粒子とかと名付けているものは、インプリケート・オーダーとエクスプリケート・オーダーの交点の産物だと言いたいのである。量子力学が証かしたことはそのことだったと言いたいのだ。
 ボーム自身はこう書いた、「量子の文脈では、われわれに知覚できる世界の諸相を支配する秩序は、さらに包括的なインプリケート・オーダーから生じるものでなければならない」。そしてすぐに、こう付け加えた、「そのインプリケート・オーダーのなかではあらゆる現象を定義してはいけないのである」と。ボームを補足するのなら、インプリケート・オーダーはそれ自身において自律的に情報を編集している自己編集体そのものなのだということだろう。そして、その自己編集体から何かを"explicit"に取り出そうとしたとたん、それはインプリケート・オーダーではなくてエクスプリケート・オーダーになるということなのだ。
 しかしでは、それは断片を嫌って思考を連続的な「流動」にしたことによって生じた考え方なんですか、それはデヴィッド・ボームにしてはちょっと慌てすぎた結論だったのではないですか――というのが、ぼくが冒頭に書いておいたボームに対する注文である。

 ぼくは量子力学にふさわしい自然言語というものがあるとしても、それをすべての部分や断片を全体の秩序にくみこんだものとしてあらわそうとするのは無理があるとおもうのである。むしろ部分や断片のための言語をのこしたままに全体を記述するほうが、量子力学らしいとおもうのだ。
 科学が言語と無縁でありつづけるわけにはいかない。科学者が言語の様式に挑戦することは、今後も必要なことである。それはゲーデルの定理ヴィトゲンシュタインの後期哲学でもあきらかになったことだった。そこを挑戦したボームの勇気は希有だった。
 しかしながら、言語は言語できわめて不備なものなのでもある。科学の不備を言語で補うには限界がある。逆に、言語には言語の成り立ちと機能性において、科学とは異なる有効なところもある。それは、「言語は言語で埋め尽くせないようになっている」ということだ。
 言語の本質には断片と全体に整合性をもたないという不思議が隠れているということなのだ。言語はその内側に、全体に連ならない断片性をかかえもっているというところが言語のおもしろさなのである。
 それゆえ、科学の譜面はすべてが言語の歌にはならないし、すべてを歌にすることがかえって科学の誤りになることもあるわけなのだ。デヴィッド・ボーイになぞらえていえば、そこは歌にまかせないで、ギターやドラムにまかせるべきこともあったということになる。

附記¶デヴィッド・ボームの翻訳著書は以下の通り。『量子論』(みすず書房)、『現代物理学における因果性と偶然性』(東京図書)、『断片と全体』(工作舎)、そして本書。ボームが参加しているものはテッド・バスティン編『量子力学は越えられるか』(東京図書)、ボームほか『波と粒子』(ダイヤモンド社)、ケン・ウィルバー編『空像としての世界』(青土社)、「科学と意識」シリーズノ『量子力学と意識の役割』『科学と意識・結論』(たま出版)など。また、ここに書いた「科学と言語の移行関係」については、最近は「脳科学と言語」を追求する領域や認知科学の発展によって、ボームの時代よりもある程度進んだ成果が得られつつあるのだが、まだまだ科学の本質と言語の本質のあいだにひそむ溝には気がつかれていない。

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