佐々木正人
アフォーダンス
岩波書店 1994
ISBN:4000065122

 ここに一枚の紙がある。摘まむには紙のほうに手を伸ばして、親指と人差指をちょっと細める。その紙を折ったり引きちぎったりするには両手が必要だ。その紙が不要な紙ならくしゃくしゃ丸めて捨てたくなる。
 紙はわれわれに何かを与えているのである。イメージをもたらしているだけではない。われわれに動作を促しているのだ。その何かを与えているということを「アフォード」(afford)という。「~ができる」「~を与える」という意味だ。紙はわれわれにさまざまなアフォードをしているわけである。われわれが何をしなくとも紙はいろいろなアフォードの可能性をもっている。
 そのようなアフォードの可能性がいろいろあることを、この紙には「アフォーダンス」(affordance)があるということにする。そういう用語で、対象がもつアフォードの可能性をよぼうと決めたのはジェームス・ギブソンである。ギブソンのことはあとで話す。

 マイクにはそれを握らせるというアフォーダンスがある。椅子にもアフォーダンスがある。座ることを要請している。橋には渡ることのアフォーダンスや重量に耐えるというアフォーダンスがある。万年筆は持たれて紙と出会うことを、電気カミソリは顎にあてられることを待っている。アフォーダンスはいろいろなものにひそんでいる。冷蔵庫の把手から砂山の砂まで、書物から五線譜まで。
 道具だけがアフォーダンスをもっているのではない。大地は歩くことの、断崖は落ちることのアフォーダンスを、それぞれもっている。ありとあらゆるものにアフォーダンスがあるといっていいだろう。

 すべてのものがアフォーダンスをもっているということは、われわれはアフォーダンスのなかで知覚し、アフォーダンスのなかで動作をおこし、アフォーダンスのなかで活動しているということである。
 たとえば、どこかの応接間に案内されてソファに座るように促されたとする。われわれはそのとき咄嗟に、そのソファの高さや柔らかさを目測で判断して、自分の体をソファに対して背を向けつつ、ちょっと腰をかがめながら体をソファにアフォードされるように座る。そのとき背中や腰や太股はソファの恰好やソファの柔らかさに対応するようになっている。合わさっている。しかし、何度かそのような体験をするうちに、目測はしだいに省略されて、ソファのテクスチャーを感じただけで座りかたがわかるようになる。アフォーダンスは、経験によってさまざまに深化する。
 アフォーダンス理論で「マイクロスリップ」とよばれている興味深い動作変更の手続きがある。たとえばサラダを挟む用具を初めて持とうとしたとき、うまくその用具が扱えないと、ただちにそれを指先が持ち変える。誰もがしていることだ。自動販売機にコインを入れようとして入りにくければ、すぐにコインを持つ角度を変える。これがマイクロスリップで、すでに研究者によって「躊躇タイプ」「軌道変化タイプ」「接触タイプ」「手の変化タイプ」などに分類されている。
 このようにアフォーダンスは、われわれの日々の活動のさまざまな場面に介入している。活動だけではない。知覚そのもの、認知そのものにかかわっている。

 アフォーダンス理論は知覚や認知や運動をめぐる理論である。もともとはクルト・レヴィンやクルト・コフカのゲシュタルト心理学から派生した。
 われわれは音のつながりやまとまりを特定のメロディとして聞ける能力をもっている。その音のつながりやまとまりは移調して要素(音符)が変わっても、やはりメロディをもつ。それがゲシュタルトだ。そのゲシュタルトは知覚に残る。乱暴な字や子供の字が読めるのも、また盲人が点字を読めるのも、文字を構成する線や点のつながりやまとまりがゲシュタルトになっているからだった。
 レヴィンらは環境世界が知覚者にもたらしている意味のゲシュタルトや価値のゲシュタルトに関心をもって、これを「要求特性」(Aufforderungscharacter)というふうに抽出しようとした。クリスチャン・フォン・エーレンフェルスはそれを「ゲシュタルト質」と名付けた。このような特性や質は要素そのものがもっているものではない。知覚があらかじめもっているものでもない。要素と知覚の関係の「あいだ」に発生したものだ。そして積み重なっていく。
 たとえば二つの豆電球が適当な間隔で点滅をくりかえし、その速度がある程度の速さになると、われわれはそこに「光の移動」というゲシュタルトを感じる。電光ニュースがもっとわかりやすい例だろう。電光ニュースでは格子状の電球が特定の位置で次々に点滅しているだけなのだが、それが一定の速度になっているために、われわれはそこに実在していないはずの「光の文字の流れ」を感じる。

 ジェームス・ギブソンがプリンストン大学の哲学科に入ったとき、そこではドイツからアメリカにわたったゲシュタルト心理学が一挙に開花しつつあった。ハーバート・ラングフェルトやレオナード・カーマイケルがいた。
 かれらはドイツでマックス・ヴェルトハイマーやヴァルフガング・ケーラーのゲシュタルト心理学やエルンスト・マッハの知覚理論の強い影響をうけていた。ギブソンがプリンストンを出てスミス・カレッジの職に就くと、今度はそこにクルト・コフカがいた。
 ギブソンはゲシュタルト心理学の最前線にひとかたならぬ関心をもった。そこへ空軍の知覚研究プロジェクトに参加するように要請された。フライト・シミュレータによるパイロット訓練などで、どんなプログラムが必要かを調査研究開発するプロジェクトだった。ギブソンはそれらに従事するうちに、運動する知覚が感覚刺激だけで成立しているのではないことに気がついた。刺激のデータを集積しても、運動知覚の秘密は解けなかったのである。
 それよりも、パイロットが感知する「地面」のサーフェス感覚(面性)やテクスチャー感覚(きめ)のようなものが、運動知覚を支えているのではないかと思うようになった。また、そのようなサーフェスやテクスチャーが光の当たりぐあいや勾配の持ちかたによって、運動知覚者のコントロール感覚を制御していることを知った。
 ゲシュタルト心理学は「像」や「形」が網膜や脳にもたらしている刺激の影響を重視していたのだが、ギブソンは環境のなんらかの特性が知覚者に与えている「姿」や「変化」のほうを徹底して重視したのである。

キメの勾配

キメの勾配

 ギブソンが長年かかって確立した理論は、まとめて「生態学的心理学」とよばれた。環境のさまざまな特質がそのなかにいる動物や人間に与えているアフォーダンスを研究する。物が物を囲んでいることと、生きものが物に囲まれていることには、根本的な相違があるという観察と調査を前提にしている理論である。それは「包むもの」や「囲むもの」をめぐる包摂(inclusion)の理論でもあった。
 主著のひとつの『知覚システムとしての感覚』では、生物を包み囲んでいる状態を「ミディアム」と「サブスタンス」と「サーフェス」に分けて、「環境とはミディアムとサブスタンスを分けるサーフェスのレイアウトである」というような解釈をした。
 ミディアムは水や大気や草原や森林や都市のようなもので、多くの動物はそのなかで比較的自在に移動できるし、そこにいることによって何が離れているか、何が近づいているかが判断できる。サブスタンスはなんらかの堅さや構築があるもので、その中をてっとりばやく移動はできないかわりに、それらがどのような組み合わせでできているかを感じることができる。このミディアムとサブスタンスとの境い目がサーフェスになる。動物はこのサーフェスに敏感に対応していると思われた。
 多くの動物たち同様に、空軍のパイロットもこのサーフェスの見究めによって戦闘機の着陸を制御していた。われわれも同じだ。ソファのサーフェスだけで座り方が決められるし、街の模様によって歩き方を決められる。そうだとしたら、われわれはミディアムとサブスタンスを区分するサーフェスによって包み囲まれた環境のなかにいるとみなせるわけである。
 このような理論はやがて「生態光学」をつくりだす。対象における光の当たりぐあいなどが知覚に与える影響を研究した領域である。ギブソンは照明こそが「包み」と「囲み」をあらわしていると考えたのだ。藤本晴美さんに伝えたい話だ。

着陸時のパイロットの見え

着陸時のパイロットの見え
見えの変化から知覚者の移動が見える

見えの変化から知覚者の移動が見える

 アフォーダンス理論は、いま急速な進展を見せている。ゲシュタルト心理学や行動心理学に代わる理論として浮上しているのを筆頭に、ヴィスタ(景色)の認知をあきらかにするための研究分野、制御や訂正や変更をもたらす意識と行動の関係を追求する分野、さらには「知覚と行為の協応システム」に新たな視点を全面的にもたらそうという深度のあるシステム研究の分野もある。
 その範囲は驚異的に拡張しつつある。本書の著者の佐々木正人がそのほとんどの研究領域のすぐれた牽引者になっていることも、驚くべきことだ。佐々木が「情報はなぜナビゲーション可能なのか」という研究に入っていることも見逃せない。
 何かの動向を時々刻々の情報としてナビゲーションできるということは、その動向と知覚の「あいだ」にもともとナビゲーション・システム(あるいはメタナビゲーション・システム)ともいうべき何かがひそんでいたとも言えるのだが、もしそれを取り出すことができるなら、かなり重要な情報システム理論のモデルがそこに見えてくるだろうからである。

 ぼくがアフォーダンス理論に注目したのは、最初はグレゴリー・ベイトソンが、「ギブソンは自分と似たようなことを研究しているようだ」と『精神の生態学』に書いていたのが気になってからだった。
 このことは佐々木正人も気にとめた記述だったようで、そこでベイトソンはきこりが斧で木を伐っている場面を例示したのである。斧の一打ちはその前に木につけた切り目によって制御されている。ベイトソンは、このプロセスの自己修正性こそが精神の生態学というものだと断じた。
 ベイトソンは、主体としての「自己」が対象としての「木」を伐ったという従来の考え方を捨てなさいと言ったのだ。きこりが木を伐る行為にさえシステムのうねりというものがあって、そこでは自己と対象は一緒くたになっているのだし、精神性とシステム性だって切り離せないと言ったのだった。
 ギブソンの思想もこの延長にある。しかし、ギブソンはベイトソンのいう「精神」を「環境と知覚の連動性」にまで拡張して、そこに「変化するもの」と「不変なもの」とがあること、そこにアフォーダンスが測定できるいくつもの傾向があることを突きとめ、ベイトソンの先駆的な予見を科学理論にまで引っ張っていったのである。これによってわれわれは、たとえば、目隠しされて手にもったものの姿や堅さを特定しようとしたり、力を加えるとそれが壊れそうになるかどうかを判断したりするときの感覚を、新たなシステム理論のなかで取り扱えそうになってきたのだった。
 これは画期的なことである。われわれはいつも、コップに水が溢れそうになるとか、箸が折れそうだとか、自動車がもう少しで自分の前を通りすぎるとか、そのカステラがひからびつつあるとかということを感知して暮らしているのだが、そんなことは科学にもシステムにもとうてい関係がないとおもいこんでいたのだから。

 アフォーダンス理論が、いずれ言葉や行動をふくむ「意味」や「文脈」の問題に食い入っていくことは、そんなに遠くないかもしれない。認知言語学にとって、アフォーダンスは相性がいいはずだ。
 また、デザイン理論というものはこの20年にわたってろくな成果をもてなかったのであるが、それが「アフォーダンスのデザイン」として新たなセオリー・ビルディングに向かうことも予想される。考えてみれば、石器時代からバウハウスまで、能装束からTシャツまで、アフォーダンスが関与しなかったデザインというものなど、なかったのである。
 もっと大きな収穫があるとすれば、アフォーダンスが「価値」の問題と結びついていったときだろう。結局、すべての理論はわれわれにとって「価値とは何か」をめぐっているものだけれど、これまでは、環境と対象と道具と知覚とを一貫してつなげる価値がどのようにして説明できるのか、その理論を欠いてきた。アフォーダンス理論がそれを充当させるとはいいきれないのだが、そのような相互の価値観をつなげるコンシステンシーに有効な橋渡しをすることなら期待できるようにも思われる。
 いささか急いでアフォーダンス思想の周辺を走ったようだ。ギブソンや佐々木正人にアフォードされたためだろう。いつかまたゆっくりと考えたい。

附記¶1979年に亡くなったジェームス・ギブソンは、生涯に3冊しか著書をのこさなかった。『視覚世界の知覚』(未訳)、『知覚システムとしての感覚』(未訳)、『生態学的視覚論』(サイエンス社)である。ギブソンがどのような思想の系譜を踏襲しているかについては、トマス・ロンバードの『ギブソンの生態学的心理学』(勁草書房)という労作がある。佐々木正人を筆頭とするアフォーダンス関連書もしだいにふえている。代表的なものは佐々木正人『知性はどこに生まれるか』(講談社現代新書)、『知覚はおわらない』(青土社)、佐々木と三嶋博之のコンビによる編訳『アフォーダンスの構想』(東京大学出版会)および『アフォーダンスと行為』(金子書房)、三嶋の『エコロジカル・マインド』(NHK出版)など。アフォーダンス理論を広く心理学の流れのなかで位置づけたものとしてはエドワード・リード『アフォーダンスの心理学』(新曜社)、『魂から心へ』(青土社)がある。河本英夫が『オートポイエーシス2001』(新曜社)で佐々木と対談しているのもおもしろかった。ほかに本多啓が『アフォーダンスの認知意味論』(東京大学出版会)で「意味」や「文脈」に向かっている。

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