ジェイムズ・ジョイス
ダブリンの人びと
ちくま文庫 2008
James Joyce
Dubliners 1909~1914
[訳]米本義孝
編集:協力:秋国忠教 装幀:神田昇和
ジョイスは一言でいえば「ふしだらダンディ」である。そういう作家だ。ふしだらでダンディなのではなく、ふしだらがダンディなのだ。ぼく自身はそこが大いに気にいっているけれど、そのふしだらぶりは相当なものである。無定見ですらある。織田作の比ではない。そういうジョイスがなぜダブリナーズの面々にブンガクの酵母菌を見いだしたのか

 あまり作家との付き合いをしないのだけれど、仕事場の近所に柴崎友香さんがいて、芥川賞をとってしばらくしてから出会い、たまにイシス編集学校のみんなと話してもらっている。大阪出身の作家なので、阪大と京阪電車が共同企画した鉄道芸術祭「上方遊歩46景」プロジェクトのときも、町田康君とともに是非にと参加してもらった。慎ましくもどこかおもしろく、実はとんがった趣向の持ち主だ。
 柴崎さんの小説はさまざまな「町の人々」を描いて評判がいい。『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(河出文庫)、『その街の今は』(新潮文庫)、『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)というように、小説のタイトルに「町」や「街」がつく作品も多い。『公園に行かないか? 火曜日に』(新潮文庫)もその手の作品だ。
 日本の近現代文学には、街や町をまるごと描く傾向は、江戸の西鶴(618夜)や黄表紙や明治初期の一葉(638夜)や鏡花(917夜)をべつにすると、案外少なかったように思う。乱歩(599夜)や十蘭(1006夜)、あるいは川端(53夜)の『浅草紅団』(中公文庫)のように、ついつい都市幻想的になってしまうのだ。
 なかで織田作之助(403夜)の『わが町』や『夫婦善哉』(いずれも岩波文庫)が「町の人々」をたっぷり読ませた例外である。大阪のせいだろうか。柴崎さんの『その街の今は』はまさに、その織田作を記念した文学賞をとった。
 町の風情や気配や住人たちの出入りを描くには、少しはそこに住む必要があるかもしれない。柴崎さんもできれば47都道府県全部に住んでみたいと言っていた。影響を受けた10冊にも、漱石(583夜)の『草枕』やデニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』(白水社)とともに、ルー・リードの『ニューヨーク・ストーリー』(河出書房新社)や吉田健一(1183夜)の『東京の昔』(ちくま学芸文庫)が入っていた。好きなテレビ番組も「世界ふれあい街歩き」らしい。

ISISフェスタでの柴崎友香氏(2014年9月10日)
芥川賞を受賞したばかりの柴崎友香さんがイシス編集学校のイベントに登壇。短編とパノラマ写真を題材に物語を読み解くセッションや、物語マザーと小説の力について松岡と対談をおこなった。

 フランス文学にはバルザック(1568夜)のように、都市の人間像を濃厚な物語にしてきた伝統がある。ゾラ(707夜)はそこに「遺伝の血」まで投入した。ボッカチオ(1189夜)の『デカメロン』以来の伝統だ。いわゆる「レミニッセンス」が活きていた。
 一方、イギリス文学には、ディケンズ(407夜)のように、巷間の人々の日々をそのまま互いに語りあう様子を直截にブンガクする伝統がある。教戒師が相手にした人物の様子やコーヒーハウスでの噂話がそのままノヴェルズ(新奇なもの)になった。ディケンズにおいてはそれが『二都物語』(光文社古典新訳文庫)や『オリヴァー・ツイスト』(新潮文庫)に仕上がり、またホガースの風刺版画や「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」になった。これは中英語が確立したチョーサー(232夜)の『カンタベリー物語』(ちくま文庫)このかたの伝統手法だろうと思う。フランスとイギリスではブンガク確立の方法がかなり違うのである。
 アイルランドのジェイムズ・ジョイスはどうしたか。ダブリンにこだわった。
 北海道ほどの面積のアイルランドには土着のケルト系アイルランド人(ほとんどがカトリック)と、イギリスから移植してきたアイルランド人(ほとんどがプロテスタント)がいる。ダブリンという町はこれらがまじって、約400年にわたって英国軍が駐屯してきた。駐屯が解かれるのは1922年だ。
 公用語はアイルランド語ではなく英語。ジョイスが生まれ育ったダブリンにはイギリス人の総督がいた。今日の香港のようなものだとみればいい。外から統制されていたのだ。そういうダブリンの人々のことを、ジョイスは「用意周到に言葉をけちった文体」で書くことにした。
 なぜそんなふうにしたのかはあとで少し説明するが、この感覚は日本の作家にはまったくない。たとえば有吉佐和子(301夜)は故郷の紀州を書くにあたって、徹底して詳細を書きこんだ。現代作家でもおおむね同様だ。阿部和重の『シンセミア』上下(朝日新聞社→講談社文庫)は、阿部の故郷の山形県東根市神町を舞台に町と一族の歴史を克明に描いた話題作だが、けちった文体なんてとんでもなかったのである。

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ジェイムズ・ジョイス(1882–1941)

 ダブリンはジョイスの故国の首都であって故都なのだから、そこにうごめく人間像を描くのはむつかしくなかったろうが、「用意周到にけちった文体」でこれを決めこもうとしたところに、のちのち何度でも読みたくなるブンガクが出来(しゅったい)した。
 それなりに時間もかけた。いくつかの短かめの作品、すなわち「姉妹」「イーヴリン」「下宿屋」「痛ましい事故」「死者たち」など15の短編を書き、総じてダブリンの精神誌を描くべく少年期・青年期・成年期・社会生活期の4つの相(フェーズ)に構成しなおして、これをその名もずばり“Dubliners”(ダブリナーズ)としてまとめたのである。
 今夜とりあげるにあたっては、米本義孝が訳した『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)にした。翻訳は昭和8年の金星堂の永松定訳以来、結城英雄訳(岩波文庫)、飯島淳秀訳(角川文庫)などいろいろ出たし、うまさというなら安藤一郎訳の『ダブリン市民』(新潮文庫)、柳瀬尚紀訳の『ダブリナーズ』(新潮文庫)が捨てがたいのだが、米本訳は訳は堅いが、訳注が圧倒的に詳しく、ダブリンのことが浮き上がる。それで選んだ。
 ちなみに今夜の千夜千冊を『ユリシーズ』にしなかったのは、ホメロス(999夜)の『オデュッセイアー』のときに、オデュッセウスの長大な物語とレオポルド・ブルームの一日をでるだけ重ねて案内しておいたので、割愛することにした。できれば999夜を参照してほしい。

“Dubliners”(1914)

左:『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)、『ダブリン市民』(新潮文庫) 右:『ダブリナーズ』(新潮文庫)

 さて、ジョイスは一言でいえば「ふしだらダンディ」である。そういう作家だ。ふしだらでダンディなのではなく、ふしだらがダンディなのだ。ぼく自身はそこが大いに気にいっているけれど、そのふしだらぶりは相当なものである。無定見ですらある。織田作の比ではない。
 そういうジョイスがなぜダブリナーズの面々にブンガクの酵母菌を見いだしたのかを語るには、少々ジョイスの生い立ちを追っておく必要がある。

 明治15年(1882)、ジョイスはダブリンの南のラスガーに生まれた。ここは富裕層が住んでいたところだが、中流カトリックのジョイス家はそのころすでに没落しつつあって、その11人兄弟の長男だったジェイムズはけっこう苦労して育った。
 苦労を買ってでたのではなく、巻き込まれてぐだぐだしたとおぼしい。ということは、とても自堕落な目で、小さなころからダブリナーズを観察していたということだ。
 幼児のころに犬に噛まれたので生涯の犬嫌いになったようなのだが、犬を避けてこわごわ歩いたダブリンとはどんなものなのかと思うと、こういうことだけでもジョイスが見たダブリンやダブリナーズたちの相貌は、かなり偏ったものになるだろうと気がつく。
 町の生態とともに、当時の政体もカンケーがある。アイルランドは16世紀半ばに英国王がアイルランド王を兼任して以来、ずっとイギリスの政体の中にいた。ジョイスが育ったときの19世紀末のアイルランドでは“王冠なき国王”として君臨していたパーネルが死に、この国王を裏切っていたティモシー・ヒリーが失脚したばかりだった。
 そのため国王派だったジョイスの父親も立場を悪くしていた。このとき9歳のジョイスが「ヒーリーよ、お前もか」という詩を印刷してバチカンに送ったというのだから、そういうところはすでにして一言「難癖」をつけなければいられない「やりにくい子」だったようだ。

左:チャールズ・パーネル(1846-1891) 右:ティモシー・ヒリー(1855–1931)

6歳のジェイムズ・ジョイス(1888)

アイルランド全土の地図(ダブリンにセイゴオマーキング)
ジェイムズ・ジョイズ『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)に掲載

1890年代のダブリン
by trialsanderrors CC BY 2.0

 学校は全寮制に入った。学費が払えず退校し、自宅やカトリック・スクールで学んだあと、イエズス会の学校をへてダブリン大学で語学を専攻した。英語、フランス語、イタリア語を学び、イプセンの戯曲やウィリアム・バトラー・イエイツの詩篇に親しんだ。語学の勘はすぐれていた。
 卒業してダブリンで何かをするかと思いきや、浪費癖で家計を困らせていた息子は、両親に追いたてられるようにパリに行かされた。表向きは医学免状をとることになっていたが、母親が癌に冒されて危篤になったのでやむなくダブリンに戻るまでの数カ月のあいだですら、ぐうたらな日々を送っていた。そのまま母親は亡くなるのだが、その臨終のとき枕元で祈りを捧げることを拒んだ。母親が嫌いだったからではなく、不可知論に徹したかったからだ。この不可知論もジョイスなりのダンディズムのせいだ。どうにも「やりにくい子」なのである。
 母の死後、ジョイスは酒浸りになり、家計はいっそう苦しくなっていく。書評をしたり教師をしたり歌手のまねごとをして、糊口を凌いだ。不可知論はとうてい暮らしの役にはたたない。

 食えない、鳴かず飛ばず、なんだか自尊心が許さない。そんな気分になっていた明治37年(1904)、ジョイスはまるで自己弁護をするかのように『芸術家の肖像』(草稿)を書いて版元にもちこんだ。
 美学を意識したナラティブ・エッセイとでもいうもので、ジョイスの分身のスティーブン・ディーダラスを主人公にした。その後の『ユリシーズ』でも主要な登場人物になる男だ。ギリシア神話の工人ダイダロスをもじっている。
 自信作だったようだが、版元は言下に出版を断った。なんら理解できないし、退屈でリクツっぽいと感じたのだ。やむなく改作して『スティーブン・ヒーロー』という小説仕立てにしたのだが、それでも食いつく版元はない。だいぶんやけっぱちになったジョイスは、町で会ったノラ・バーナクルという若いメイドに気を惹かれ、気分がとろけていくほうに走った。
 のちの傑作『ユリシーズ』は1904年6月16日という1日(明治37年水無月)に『オデュッセイアー』のすべてを配当して現在文学にしてみせた驚くべきブンガクだが、その1日というのがノラと出会った6月16日なのである。いまジョイス・ファンが集って騒ぐブルームズデイは、この日を記念する。
 だからノラとの出会いはのちの文学史にとってはそれなりに重要になるのだけれど(アンドレ・ブルトンがナジャに出会った日のように)、当時の本人にとっては逃避のようなもの、あいかわらず酒浸りの日々が続いた。ジョイスのダブリンは「酔いどれダブリン」だったのだ。これではジョイスの作中で何がおこってもおかしくない。

『芸術家の肖像』の原著(1904)
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ノラ・バーナクル(左)とロンドンを歩くジョイス(中央)

ブルームの日のパフォーマーたち(デイビー・バーンズパブ)


ジョイスの小説『ユリシーズ』にちなんで、毎年6月16日が記念日となっており、ダブリンを中心に各地で祝う。

 ある日、フェニックス・パークで顔を合わせた男と口論になり、喧嘩になって逮捕された。ケガを負っていたので、父親の知人のアルフレッド・ハンターなる人物が身元を引き受けて、自宅においた。
 この人物は妻に浮気されているという噂の人物で、ジョイスはなぜかおもしろがって、のちに『ユリシーズ』の狂言まわしにあたるレオポルド・ブルームのモデルの一人にした。同じく『ユリシーズ』の登場人物バック・モリガンのモデルとなった医学生とも、このころ出会ってあやしげな会話を愉しんでいる。
 こんなふうにして、ダブリナーズたちは少しずつジョイスの記憶メモのポストイットになっていくのだが、かんじんのダブリンの町では本人が住みづらくなっていた。ノラを連れて大陸に逃げ、チューリッヒに腰掛けた。

 チューリッヒではベルリッツの英語教師の仕事にありつけた。ありついたとたんにトリエステに派遣され、校長の好意のもと、ここでなんだかんだの10年ほどをおくった。
 こうして、このトリエステ時代に『ダブリンの人びと』のいくつかの原稿が仕上がり、『スティーブン・ヒーロー』に再度の手を入れた『若き日の芸術家の肖像』(大澤正佳訳-波文庫・丸谷才一訳=新潮文庫)が仕上がっていった。どんなダブリナーズを書くかは、遠いトリエステからダブリンの日々の記憶庫をひっくりかえすようにして光があてられ、その光があたった出来事や人物を「用意周到に言葉をけちった文体」で綴ったのだ。
 ジョイスはこの光のことを「エピファニー」(epiphany)と名付けた。現象や人物の動向を観察するうちに、そこに潜んでいたスピリッツが露呈してくること、あるいは顕現してくることをいう。ミルチア・エリアーデ(1002夜)が宗教的精神の顕現をエピファニーと名付けたものと同じであるが、ジョイスは登場人物にエピファニーがあらわれてくるようにするには、そこに光るものを絞るための「けちった文体」が必要だとみなしたのだ。そのようにブンガク作品を仕上げることを「エピファニー文学」とさえみなした。
 この方法は、写真家が町の人物を撮るときに意識的につかっているものと同じだとぼくは見ている。ジョイスはそれを「文章の絞り」や「文体のシャッター速度」に託したのである。
 こんなに自信に満ちた作品だったのに、版元はその意図を評価しなかった。すでに12篇が書きおわっていたのだが、『ダブリンの人びと』はどこからも出版されなかったのだ。

左:『スティーブン・ヒーロー』(松柏社) 右:『若き日の芸術家の肖像』(新潮文庫)

 ここまで自分の作品が陽の目を見ないとなると、さすがのジョイスも放蕩三昧をくりかえしてはいられない。
 明治42年(1909)、勝手知ったるダブリンに戻り、モーンセル社を版元に選んで出版契約を結び、ノラの家族に挨拶もして結婚の準備にとりかかり、身重のノラを扶けるための家事手伝いとして自分の妹を呼び寄せたりした。経済力もつけるため、ダブリン初の映画館をつくる計画にも着手した。
 ついに改心したのである。柄にも合わず、やることがてきぱきしてきた。「ふしだらダンディ」を棚上げしたかのようなのだ。しかし、残念ながらまだまだツイてはいなかった。モーンセルとは条件が合わず契約がこじれ、3年ごしの出版計画は白紙に戻った。映画館をおこす会社もうまくはいかない。倒産してしまった。『ダブリンの人びと』難産のまま、ジョイスはダブリンを離れ、もはや戻るまいと決めた。
 このあとふたたびチューリッヒに拠点を移したジョイスは、いまなお完成しない『ダブリンの人びと』のために書き加えていたレオポルド・ブルームに光をあてた短編を、まるで最後の逆襲を謀るかのように一気呵成の『ユリシーズ』として大幅に膨らませ、エピファニーの原点をホメロスの『オデュッセイアー』に求めて、奔放自在な超複合的、超文芸的、超言語的な大作に仕上げることにした。これは乾坤一擲だった。

 それでもあいかわらず出版には苦労するのだが、ここでエズラ・パウンドが後押しをしてくれた。大正4年(1915)、ついに『ダブリンの人びと』はロンドンの版元グラント・リチャーズから刊行された。『ユリシーズ』もシカゴの文芸誌「リトルレビュー」の連載にもちこめた。こちらもエズラ・パウンドの斡旋だった。パウンドは粋なはからいができた英語文化圏きっての文人だった。

 ここで第一次世界大戦が始まって、ヨーロッパが大混乱に陥った。『ユリシーズ』は中断した。けれどもパリに活路を求めたジョイスに、今度はT・S・エリオット、サミュエル・ベケット(1067夜)、ヴァレリー・ラルボー(1169夜)らが目をとめた。
 ただ『ユリシーズ』の出版はどこも引き受けない。言語と下意識の言語とホメロスの言語が混濁するところが随所に仕込まれていたため、たいていの版元が躊めらったのだ。
 もはやあきらめるしかないかと思えた矢先、セーヌ左岸でシェイクスピア&カンパニー書店を開いていた美しくて知性に富んだシルヴィア・ビーチ(212夜)が、これを引き受けた。予約出版だったのだが、見本が書店に並ぶと、客が殺到した。こうしてついに『ユリシーズ』は劇的な陽の目をみる。大正11年(1922)になっていた。ジョイスは40歳。「ふしだらダンディ」が取り戻されていたはずだ。
 たちまち「意識の流れ」を描いた前代未聞の構成小説として、話題にもなり、嫌われもし、猥褻本扱いもされ、多くの後進の前衛作家たちをゆるがしもした。この年はT・Sエリオットの『荒地』(岩波文庫)も刊行された年でもあったので、ヨーロッパ文学はここにモダニズムの軌道を大きく転換させることになる。ビーチはサミュエル・ベケットの才能も発見する。

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『ユリシーズ』の執筆当時の原稿
「キルケ」の章にあたる27ページ分。

“Ulysses”(1922)の初版のカバー(左)とシェイクスピアカンパニーによる宣伝広告(右)

『ユリシーズ』に読み耽るマリリン・モンロー
デクラン・カイバート『「ユリシーズ」と我ら』(水声社)より

左上:エズラ・パウンド(1885-1972)右上:T・S・エリオット(1888-1965) 左下:サミュエル・ベケット(1906-1989)右下:ヴァレリー・ラルボー(1881-1957)
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シェイクスピア&カンパニーのシルヴィア・ビーチ(1887-1962)
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シルヴィア・ビーチとジョイス

 ぼくは「意識の流れ」という観点でブンガクを見る見方には、あまり与(くみ)しない。この用語はウィリアム・ジェイムズが提案したもので、あくまで心理学的な内語的心情の告知を前提にしたものだ。ジョイスがしたことは、そういう心理学効果を図ったものではない。もっと端的なことだった。
 ジョイスは「想像力とは記憶のことだ」と見切ったのである。いくつもの記憶は脈絡をもたないまま想起され再生されるものだが、そもそも想像力とはそういう断片的な記憶のコンビネーションなのではないか。人々が想像力をかきたてられるのも、そうした記憶の断片的な組み合わせによるせいなのではないか。そう見切ったのだ。
 それならば、そういう記憶を選びこみ、適確かつ有効に組み合わせていけば、ブンガクはまったく新たな相貌をもつことになるだろう。ジョイスはその実験にダブリンを選び、その総体を医療カルテのように作り出したのである。このことこそ「用意周到にけちった文体」が必要になった理由だった。

 ではジョイスはそういう算段で、何を描こうとしたのか。これについてはずばり言っておきたいのだが、ジョイスはダブリンの「麻痺」(パラリンス)を描いたのだ。その麻痺は、歴史が現在にもたらす麻痺であり、20世紀の世界の麻痺であり、ヨーロッパの言語麻痺である。
 『ダブリンの人びと』を読むと、そのことが実にまざまざとわかる。キリスト教の役割の限界を書いた(「姉妹」「恩寵」)。欲望と憂さを描いた(「対応」「母親」)。詐欺と裏切りを描いた(「二人の伊達男」「痛ましい事故」)。また、アイルランドからの脱出が失敗すること(「イーヴリン」)、変質者が多いこと(「ある出会い」)、祝福と告白が紙一重であること(「レースのあとで」「死者たち」)を、描いた。
 それらはことごとくダブリンの街区や通りや店舗と絡んでいるのである。そして麻痺寸前だったのである。そういうことがまざまざと伝わってくるには、今夜選んだ米本義孝訳のちくま文庫版がよかった。1章ごとにダブリンの町地図が掲示され、おびただしい訳注がジョイスの意図をあからさまにしてくれる。
 ジョイスを「意識の流れ」で読むのはやめたほうがいい。ブンガクは心理学ではなくむしろ言葉の病理学なのだ。むろんプルースト(935夜)をそういうふうに読むのもやめたほうがいい。ブンガクは、少なくとも20世紀の初頭の方法文学は、こぞって「痛み」や「苦み」のブンガクだったのである。

ダブリンの町地図
『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)p72に掲載

ダブリン市内にあるジェイムズ・ジョイスの銅像
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕『ダブリンの人びと』⊕

∈ 著者:ジェイムズ・ジョイス
∈ 発行:菊池明郎
∈ 発行所:株式会社筑摩書房
∈ 印刷所:中央精版印刷株式会社
∈ 製本所:中央精版印刷株式会社
∈ 装幀:神田昇和
∈ 発行:2008年2月10日

⊕ 目次情報 ⊕
∈ 姉妹
∈ ある出会い
∈ アラビー
∈ イーヴリン
∈ レースのあとで
∈ 二人の伊達男
∈ 下宿屋
∈ 小さな雲
∈ 対応
∈ 土
∈ 痛ましい事故
∈ 委員会室の蔦の日
∈ 母親
∈ 恩寵
∈ 死者たち

⊕ 著者略歴 ⊕
ジェイムズ・ジョイス
1882年生まれ。アイルランド出身の小説家。人間の内面をえぐる、独自の「内的告白」や「意識の流れ」の手法を生み出し、20世紀文学世界に革命的な新境地を開いた。母国を捨ててヨーロッパ各地をさまよいながら、終生故郷のダブリンとそこに住む人びとを描き続けた。

⊕ 訳者略歴 ⊕
米本 義孝(よねもと よしたか)
1941年生まれ。立命館大学大学院修士課程修了後、立命館大学、信州大学などを経て、安田女子大学教授を歴任。英文学専攻の文学博士。専門はジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオットの研究。ビートルズを学問的研究対象とし、その詩の世界について論文も発表している。

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