才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ダブリンの人びと

ジェイムズ・ジョイス

ちくま文庫 2008

James Joyce
Dubliners 1909~1914
[訳]米本義孝
編集:協力:秋国忠教
装幀:神田昇和

ジョイスは一言でいえば「ふしだらダンディ」である。そういう作家だ。ふしだらでダンディなのではなく、ふしだらがダンディなのだ。ぼく自身はそこが大いに気にいっているけれど、そのふしだらぶりは相当なものである。無定見ですらある。織田作の比ではない。そういうジョイスがなぜダブリナーズの面々にブンガクの酵母菌を見いだしたのか

 おおざっぱにいって、フランス文学には、バルザックのように都市の人間像を濃厚な物語にする伝統がある。ゾラはそこに「遺伝の血」を投入した。これらはボッカチオの『デカメロン』(河出文庫)以来の伝統だ。「レミニッセンス」(reminiscence)が活きていた。記憶が一定時期をすぎたほうが劇的に再生されることをいう。
 一方、イギリス文学には、巷間の人々が日々互いに語りあう様子を直截にブンガクする伝統がある。教戒師が相手にした人物の様子やコーヒーハウスでの噂話がそのままノヴェルズ(新奇なもの)になった。ディケンズにおいてはそれが『二都物語』(光文社古典新訳文庫)や『オリヴァー・ツイスト』(新潮文庫)に仕上がり、またホガースの風刺版画や「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」になった。これは中英語が確立したチョーサーの『カンタベリ物語』(ちくま文庫)このかたの伝統手法だろうと思う。フランスとイギリスではブンガク確立の方法がかなり違うのである。

 アイルランド文学はどうなのか。北海道ほどの面積のアイルランドには土着のケルト系アイルランド人(ほとんどがカトリック)と、イギリスから移植してきたアイルランド人(ほとんどがプロテスタント)がいる。ダブリンという町にはこれらがまじって、約四〇〇年にわたって英国軍が駐屯してきた。駐屯が解かれるのは一九二二年だ。
 公用語はアイルランド語だが、英語が日常的に使われている。ジョイスが生まれ育ったダブリンにはイギリス人の総督がいた。今日の香港のようなものだとみればいい。そういうダブリンの人々のことを、ジョイスは「用意周到に言葉をけちった文体」で書くことにした。これが『ダブリンの人びと』である。
 なぜそんなふうにしたのかはあとで少し説明するが、この感覚は織田作之助や久生十蘭などを除くと、日本の作家にはあまりない。たとえば有吉佐和子は故郷の紀州を書くにあたって、徹底して詳細を書きこんだ。何もけちらない。阿部和重の『シンセミア』(朝日新聞社→講談社文庫)は、阿部の故郷の山形県東根市神町を舞台に町と一族の歴史を克明に描いた話題作だが、けちった文体なんてとんでもなかった。

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ジェイムズ・ジョイス(1882–1941)

 ダブリンはジョイスの故国の首都であって故都なのだから、そこにうごめく人間像を描くのはむつかしくなかったろうが、「用意周到に言葉をけちった文体」でこれを決めこもうとしたところに、時代の方法文学が出来した。
 もちろん、それなりに時間もかけた。いくつかの短かめの作品、たとえば「姉妹」「イーヴリン」「下宿屋」「痛ましい事故」「死者たち」など十五の短編を書き、これらを総じてダブリンの精神誌として少年期・青年期・成年期・社会生活期の四つの相(フェーズ)に構成しなおして、その名もずばり“Dubliners”(ダブリナーズ)としてまとめた。

 今夜とりあげるにあたっては、あえて米本義孝が訳した『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)にした。
 翻訳は昭和八年の金星堂の永松定訳以来、結城英雄訳(岩波文庫)、飯島淳秀訳(角川文庫)などいろいろ出たし、うまさというなら安藤一郎訳の『ダブリン市民』(新潮文庫)、柳瀬尚紀訳の『ダブリナーズ』(新潮文庫)が捨てがたいのだが、米本訳は訳文は硬いけれども訳注が圧倒的に詳しく、ダブリンのことが浮き上がる。それで選んだ。
 ちなみに今夜の千夜千冊を『ユリシーズ』(集英社文庫)にしなかったのは、ホメーロスの『オデュッセイアー』(岩波文庫)のときに、オデュッセウスの長大な物語とレオポルド・ブルームの一日をできるだけ重ねて案内しておいたからだ。それで、割愛した。けっこう工夫して案内しておいたのでできれば参照してほしい(千夜千冊エディション『物語の函』所収)。

“Dubliners”(1914)

左:『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)、『ダブリン市民』(新潮文庫) 右:『ダブリナーズ』(新潮文庫)

 さて、ジョイスという男は一言でいえば「ふしだらダンディ」なのである。そういう作家なのだ。ふしだらでダンディなのではなく、ふしだらがダンディなのだ。そのふしだらぶりは相当なものである。無定見ですらある。織田作の比ではない。そういうジョイスがなぜダブリナーズの面々にブンガクの酵母菌を見いだしたのかを語るには、少々ジョイスの生い立ちを追っておく必要がある。
 明治十五年(一八八二)、ジョイスはダブリンの南のラスガーに生まれた。ここは富裕層が住んでいたところだが、中流カトリックのジョイス家はそのころすでに没落しつつあって、その十人兄弟の長男だったジェイムズは苦労して育った。苦労を買ってでたのではなく、巻き込まれてぐだぐだしたとおぼしい。ということは、小さなころから自堕落な目でダブリナーズを観察していたということだ。
 幼児のころに犬に噛まれたので生涯の犬嫌いになったようなのだが、犬を避けてこわごわ歩いたダブリンとはどんなものなのかと思うと、こういうことだけでもジョイスが見たダブリンやダブリナーズたちの相貌は、かなり変なものになる。

左:チャールズ・パーネル(1846-1891) 右:ティモシー・ヒリー(1855–1931)

6歳のジェイムズ・ジョイス(1888)

アイルランド全土の地図(ダブリンにセイゴオマーキング)
ジェイムズ・ジョイズ『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)に掲載

1890年代のダブリン
by trialsanderrors CC BY 2.0

 学校は全寮制に入った。学費が払えず退校し、自宅やカトリックスクールで学んだあと、イエズス会の学校をへてダブリン大学で語学を専攻した。英語・フランス語・イタリア語を学び、イプセンの戯曲やウィリアム・イエーツの詩篇に親しんだ。語学の勘はすぐれていた。
 卒業してダブリンで何かをするかと思いきや、浪費癖で家計を困らせていた息子は、両親に追いたてられるようにパリに行かされた。表向きは医学免状をとることになっていたが、母親が癌に冒されて危篤になったのでやむなくダブリンに戻るまでの数ヵ月のあいだですら、ぐうたらな日々を送っていた。そのまま母親は亡くなるのだが、その臨終のとき枕元で祈りを捧げることを拒んだ。母親が嫌いだったからではなく、不可知論に徹したかったかららしい。この不可知論もジョイスなりのダンディズムのせいだ。どうにも「やりにくい子」なのである。
 母の死後、ジョイスは酒浸りになり、家計はいっそう苦しくなっていく。書評をしたり教師をしたり歌手のまねごとをしたりして、糊口を凌いだ。不可知論はとうてい暮らしの役にはたたない。

 食えない、鳴かず飛ばず、なんだか自尊心が許さない。そんな気分になっていた明治三七年(一九〇四)、ジョイスはまるで自己弁護をするかのように『芸術家の肖像』を書いて版元にもちこんだ。
 美学を意識したナラティブ・エッセイとでもいうもので、ジョイスの分身のスティーブン・ディーダラスを主人公にした。その後の『ユリシーズ』でも主要な登場人物になる男だ。ギリシア神話の工人ダイダロスをもじっている。
 自信作だったようだが、版元は言下に出版を断った。なんら理解できないし、退屈でリクツっぽい。やむなく改作して『スティーブン・ヒーロー』という小説仕立てにしたのだが、それでも食いつく版元はない。やけっぱちになったジョイスは、町で会ったノラ・バーナクルという若いメイドに気を惹かれ、気分がとろけていった。
 のちの傑作『ユリシーズ』は一九〇四年六月十六日という一日(明治三七年水無月)に『オデュッセイアー』のすべてを配当して現在文学にしてみせた方法文学作品だが、その一日というのがノラと出会って六日後、二人で一緒に歩いた六月十六日なのである。いまジョイス・ファンが集って騒ぐブルームズデイは、この日を記念する。
 だからノラとの出会いはのちの世界文学史にとってはそれなりに重要になるのだけれど(アンドレ・ブルトンがナジャに出会った日のように)、当時の本人にとっては逃避のようなもの、あいかわらず酒浸りの日々が続いた。ジョイスのダブリンは「酔いどれダブリン」だったのだ。これでは何がおこってもおかしくない。

『芸術家の肖像』の原著(1904)
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ノラ・バーナクル(左)とロンドンを歩くジョイス(中央)

ブルームの日のパフォーマーたち(デイビー・バーンズパブ)


ジョイスの小説『ユリシーズ』にちなんで、毎年6月16日が記念日となっており、ダブリンを中心に各地で祝う。

 ある日、フェニックス・パークで顔を合わせた男と口論になり、喧嘩になって逮捕された。ケガを負っていたので、父親の知人のアルフレッド・ハンターなる人物が身元を引き受けて、自宅においた。
 この人物は妻に浮気されているという噂のある人物で、ジョイスはおもしろがって、のちに『ユリシーズ』の狂言まわしにあたるレオポルド・ブルームのモデルの一人にした。同じく『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなった医学生とも、このころ会ってあやしげな会話を愉しんでいる。
 こんなふうにして、ダブリナーズたちは少しずつジョイスの記憶メモのポストイットになっていくのだが、かんじんのダブリンの町では本人が住みづらくなっていた。ノラを連れて大陸に逃げ、チューリッヒに腰掛けた。
 チューリッヒでは当てにしていたベルリッツの英語教師の仕事にありつけず、トリエステで校長の好意のもと教師となって、ここでなんだかんだの十年ほどをおくった。
 このトリエステ時代に『ダブリンの人びと』のいくつかの原稿が仕上がり、『スティーブン・ヒーロー』に再度の手を入れた『若き日の芸術家の肖像』(大澤正佳訳=岩波文庫・丸谷才一訳=新潮文庫)が仕上がっていった。そのうち、どんなダブリナーズを書くかということが、鮮明に見えてきた。遠いトリエステからダブリンの日々の記憶庫をひっくりかえすようにして光があてられ、その光があたった出来事や人物を「用意周到に言葉をけちった文体」で綴ることにしたのだ。
 ジョイスはこの光のことを「エピファニー」(epiphany)と名付けた。現象や人物の動向を観察するうちに、そこに潜んでいたスピリッツが露呈してくること、あるいは顕現してくることをいう。ミルチア・エリアーデが宗教的精神の顕現をエピファニーと名付けたものと同じであるが、ジョイスは登場人物にエピファニーがあらわれてくるようにするには、そこに光るものを絞るための「けちった文体」が必要だとみなしたのだ。そのように方法文学を仕上げることを「エピファニー文学」とさえみなした。「本質チラリズム文学」といえばいいだろうか。
 この方法は、プロが写真家たちが町の人物を撮るときに意識的につかっているものと同じだとぼくは見ている。ジョイスはそれを「文章の絞り」や「文体のシャッター速度」に託したのである。
 ところが、こんなに自信に満ちた作品だったのに、版元はその意図をいっこうに評価しなかった。すでに十二篇が書きおわっていたのだが、『ダブリンの人びと』はどこからも出版されなかったのだ。

左:『スティーブン・ヒーロー』(松柏社) 右:『若き日の芸術家の肖像』(新潮文庫)

 自分の作品が陽の目を見ないとなると、さすがのジョイスも放蕩三昧をくりかえしてはいられない。
 明治四二年(一九〇九)、勝手知ったるダブリンに帰省し、モーンセル社を版元に選んで『ダブリンの人びと』の出版契約を結び、ノラの家族に挨拶もして結婚の準備にとりかかり、身重のノラを扶けるための家事手伝いとして自分の妹を呼び寄せたりした。経済力もつけるため、ダブリン初の映画館をつくる計画にも着手した。
 ついに改心したのである。柄にも合わず、やることがてきぱきしてきた。「ふしだらダンディ」を棚上げしたかのようだ。ただ残念ながらまだまだツイてはいない。モーンセルとは条件が合わず契約がこじれ、三年ごしの出版計画は白紙に戻った。映画館をおこす会社もうまくはいかない。倒産してしまった。ジョイスはダブリンを離れ、もはや戻るまいと決めた。
 このあとふたたびチューリッヒに拠点を移したジョイスは、いまなお完成しない『ダブリンの人びと』のために書き加えていたレオポルド・ブルームに光をあてた短編を、まるで最後の逆襲を謀るかのように一気呵成の『ユリシーズ』として大幅に膨らませ、エピファニー文学の原点をホメーロスの『オデュッセイアー』に求めて、奔放自在な超複合的、超文芸的、超言語的な大作に仕上げることにしたわけである。これはたいそうな乾坤一擲だった。

 それでもあいかわらず出版には苦労するのだが、ここでエズラ・パウンドが後押しをした。大正三年(一九一四)、ついに『ダブリンの人びと』はロンドンの版元グラント・リチャーズから刊行された。『ユリシーズ』もシカゴの文芸誌「リトルレビュー」の連載にもちこめた。こちらもエズラ・パウンドの斡旋だった。パウンドは粋なはからいができた英語文化圏きっての文人だ。
 ここで第一次世界大戦が始まって、ヨーロッパは大混乱に陥った。『ユリシーズ』は中断した。パリに活路を求めたジョイスに、今度はT・S・エリオット、サミュエル・ベケット、ヴァレリー・ラルボーらが目をとめた。ただ『ユリシーズ』の出版はどこも引き受けない。言語と下意識の言語とホメーロスの言語が混濁するところが随所に仕込まれていたため、たいていの版元が躊躇ったのだ。
 もはやあきらめるしかないかと思えた矢先、セーヌ左岸でシェイクスピア&カンパニー書店を開いていたシルヴィア・ビーチが、これを引き受けた。堅実な予約出版だったのだが、見本が書店に並ぶと客が殺到した。シルヴィア・ビーチが何者であったかは、二一二夜を参照してほしい。たいした本好きだ。こうしてついに『ユリシーズ』が劇的な陽の目をみる。大正十一年(一九二二)になっていた。ジョイス四十歳。「ふしだらダンディ」は意気軒高である。
 たちまち「意識の流れ」を描いた前代未聞の構成小説として話題にもなり、嫌われもし、猥褻本扱いもされ、多くの後進の前衛作家たちをゆるがしもした。この年はエリオットの『荒地』(岩波文庫)も刊行された年でもあったので、ヨーロッパ文学はここにモダニズムの軌道を大きく転換させることになる。

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『ユリシーズ』の執筆当時の原稿
「キルケ」の章にあたる27ページ分。

“Ulysses”(1922)の初版のカバー(左)とシェイクスピアカンパニーによる宣伝広告(右)

『ユリシーズ』に読み耽るマリリン・モンロー
デクラン・カイバート『「ユリシーズ」と我ら』(水声社)より

左上:エズラ・パウンド(1885-1972)右上:T・S・エリオット(1888-1965) 左下:サミュエル・ベケット(1906-1989)右下:ヴァレリー・ラルボー(1881-1957)
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シェイクスピア&カンパニーのシルヴィア・ビーチ(1887-1962)
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シルヴィア・ビーチとジョイス

 ぼくは「意識の流れ」という観点でブンガクを見る見方には、あまり与しない。この用語はウィリアム・ジェイムズが提案したもので、「人間の意識は静的な部分の配列によって成立しているのではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものでできあがっている」という見方をいうのだが、これはあくまで心理学的な内語的心情の告知を前提にしたものだ。ジョイスがしたことは、そういう心理学効果を図ったものではない。もっと端的なことだった。
 むしろジョイスは「想像力とは記憶のことだ」と見切ったのである。いくつもの記憶は脈絡をもたないまま想起され再生されるものだが、そもそも想像力とはそういう断片的な記憶のコンビネーションなのではないか。人々が想像力をかきたてられるのも、そうした記憶の断片的な組み合わせによるせいなのではないか。そう見切ったのだ。
 それならば、そういう記憶を選びこみ、適確かつ有効に組み合わせていけば、ブンガクはまったく新たな相貌をもつことになるだろう。ジョイスはその実験場にダブリンを選び、その総体を医療カルテのように作り出したのだ。このことこそ「用意周到に言葉をけちった文体」が必要になった理由だった。

 ではジョイスはそういう算段で、何を描こうとしたのか。これについてはずばり言っておきたいのだが、ダブリンの「麻痺」(パラリシス)を描いたのである。その麻痺は、歴史が現在にもたらす麻痺であり、二十世紀の世界の麻痺であり、ヨーロッパの言語麻痺である。
 『ダブリンの人びと』を読むと、そのことが実にまざまざとわかる。キリスト教の役割の限界を描いた(「姉妹」「恩寵」)。欲望と憂さを描いた(「対応」「母親」)。詐欺と裏切りを描いた(「二人の伊達男」「痛ましい事故」)。また、アイルランドからの脱出が失敗すること(「イーヴリン」)、変質者が多いこと(「ある出会い」)、祝福と告知が紙一重であること(「レースのあとで」「死者たち」)を、描いた。
 それらはことごとくダブリンの街区や通りや店舗と絡んでいる。そしてダブリナーズの多くが麻痺寸前だったのである。ジョイスにとっては、それが当然だ。世界はとっくにおかしくなっていたのだ。ジョイスはそれらとともに、二十世紀ダブリンを攪乱するように動かしたかったのだ。
 そういうことがダブリンを知らないぼくにありありと伝わってくるには、今夜選んだ米本義孝訳のちくま文庫版がよかった。一章ごとにダブリンの町地図が掲示され、おびただしい訳注がジョイスの意図をあからさまにしてくれる。
 ジョイスを「意識の流れ」で読むのはやめたほうがいい。ブンガクは心理学ではなく言葉の病理学だ。イメージの細菌学だ。むろんプルーストをそういうふうに読むのもやめたほうがいい。二十世紀の初頭の方法文学は、こぞって「痛み」や「苦み」のブンガクだったのである。

ダブリンの町地図
『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)p72に掲載

ダブリン市内にあるジェイムズ・ジョイスの銅像
(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕『ダブリンの人びと』⊕

∈ 著者:ジェイムズ・ジョイス
∈ 発行:菊池明郎
∈ 発行所:株式会社筑摩書房
∈ 印刷所:中央精版印刷株式会社
∈ 製本所:中央精版印刷株式会社
∈ 装幀:神田昇和
∈ 発行:2008年2月10日

⊕ 目次情報 ⊕
∈ 姉妹
∈ ある出会い
∈ アラビー
∈ イーヴリン
∈ レースのあとで
∈ 二人の伊達男
∈ 下宿屋
∈ 小さな雲
∈ 対応
∈ 土
∈ 痛ましい事故
∈ 委員会室の蔦の日
∈ 母親
∈ 恩寵
∈ 死者たち

⊕ 著者略歴 ⊕
ジェイムズ・ジョイス
1882年生まれ。アイルランド出身の小説家。人間の内面をえぐる、独自の「内的告白」や「意識の流れ」の手法を生み出し、20世紀文学世界に革命的な新境地を開いた。母国を捨ててヨーロッパ各地をさまよいながら、終生故郷のダブリンとそこに住む人びとを描き続けた。

⊕ 訳者略歴 ⊕
米本 義孝(よねもと よしたか)
1941年生まれ。立命館大学大学院修士課程修了後、立命館大学、信州大学などを経て、安田女子大学教授を歴任。英文学専攻の文学博士。専門はジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオットの研究。ビートルズを学問的研究対象とし、その詩の世界について論文も発表している。