父の先見
ダブリンの人びと
ちくま文庫 2008
James Joyce
Dubliners 1909~1914
[訳]米本義孝
編集:協力:秋国忠教
装幀:神田昇和
おおざっぱにいって、フランス文学には、バルザックのように都市の人間像を濃厚な物語にする伝統がある。ゾラはそこに「遺伝の血」を投入した。これらはボッカチオの『デカメロン』(河出文庫)以来の伝統だ。「レミニッセンス」(reminiscence)が活きていた。記憶が一定時期をすぎたほうが劇的に再生されることをいう。
一方、イギリス文学には、巷間の人々が日々互いに語りあう様子を直截にブンガクする伝統がある。教戒師が相手にした人物の様子やコーヒーハウスでの噂話がそのままノヴェルズ(新奇なもの)になった。ディケンズにおいてはそれが『二都物語』(光文社古典新訳文庫)や『オリヴァー・ツイスト』(新潮文庫)に仕上がり、またホガースの風刺版画や「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」になった。これは中英語が確立したチョーサーの『カンタベリ物語』(ちくま文庫)このかたの伝統手法だろうと思う。フランスとイギリスではブンガク確立の方法がかなり違うのである。
アイルランド文学はどうなのか。北海道ほどの面積のアイルランドには土着のケルト系アイルランド人(ほとんどがカトリック)と、イギリスから移植してきたアイルランド人(ほとんどがプロテスタント)がいる。ダブリンという町にはこれらがまじって、約四〇〇年にわたって英国軍が駐屯してきた。駐屯が解かれるのは一九二二年だ。
公用語はアイルランド語だが、英語が日常的に使われている。ジョイスが生まれ育ったダブリンにはイギリス人の総督がいた。今日の香港のようなものだとみればいい。そういうダブリンの人々のことを、ジョイスは「用意周到に言葉をけちった文体」で書くことにした。これが『ダブリンの人びと』である。
なぜそんなふうにしたのかはあとで少し説明するが、この感覚は織田作之助や久生十蘭などを除くと、日本の作家にはあまりない。たとえば有吉佐和子は故郷の紀州を書くにあたって、徹底して詳細を書きこんだ。何もけちらない。阿部和重の『シンセミア』(朝日新聞社→講談社文庫)は、阿部の故郷の山形県東根市神町を舞台に町と一族の歴史を克明に描いた話題作だが、けちった文体なんてとんでもなかった。
ダブリンはジョイスの故国の首都であって故都なのだから、そこにうごめく人間像を描くのはむつかしくなかったろうが、「用意周到に言葉をけちった文体」でこれを決めこもうとしたところに、時代の方法文学が出来した。
もちろん、それなりに時間もかけた。いくつかの短かめの作品、たとえば「姉妹」「イーヴリン」「下宿屋」「痛ましい事故」「死者たち」など十五の短編を書き、これらを総じてダブリンの精神誌として少年期・青年期・成年期・社会生活期の四つの相(フェーズ)に構成しなおして、その名もずばり“Dubliners”(ダブリナーズ)としてまとめた。
今夜とりあげるにあたっては、あえて米本義孝が訳した『ダブリンの人びと』(ちくま文庫)にした。
翻訳は昭和八年の金星堂の永松定訳以来、結城英雄訳(岩波文庫)、飯島淳秀訳(角川文庫)などいろいろ出たし、うまさというなら安藤一郎訳の『ダブリン市民』(新潮文庫)、柳瀬尚紀訳の『ダブリナーズ』(新潮文庫)が捨てがたいのだが、米本訳は訳文は硬いけれども訳注が圧倒的に詳しく、ダブリンのことが浮き上がる。それで選んだ。
ちなみに今夜の千夜千冊を『ユリシーズ』(集英社文庫)にしなかったのは、ホメーロスの『オデュッセイアー』(岩波文庫)のときに、オデュッセウスの長大な物語とレオポルド・ブルームの一日をできるだけ重ねて案内しておいたからだ。それで、割愛した。けっこう工夫して案内しておいたのでできれば参照してほしい(千夜千冊エディション『物語の函』所収)。
さて、ジョイスという男は一言でいえば「ふしだらダンディ」なのである。そういう作家なのだ。ふしだらでダンディなのではなく、ふしだらがダンディなのだ。そのふしだらぶりは相当なものである。無定見ですらある。織田作の比ではない。そういうジョイスがなぜダブリナーズの面々にブンガクの酵母菌を見いだしたのかを語るには、少々ジョイスの生い立ちを追っておく必要がある。
明治十五年(一八八二)、ジョイスはダブリンの南のラスガーに生まれた。ここは富裕層が住んでいたところだが、中流カトリックのジョイス家はそのころすでに没落しつつあって、その十人兄弟の長男だったジェイムズは苦労して育った。苦労を買ってでたのではなく、巻き込まれてぐだぐだしたとおぼしい。ということは、小さなころから自堕落な目でダブリナーズを観察していたということだ。
幼児のころに犬に噛まれたので生涯の犬嫌いになったようなのだが、犬を避けてこわごわ歩いたダブリンとはどんなものなのかと思うと、こういうことだけでもジョイスが見たダブリンやダブリナーズたちの相貌は、かなり変なものになる。
by trialsanderrors CC BY 2.0
学校は全寮制に入った。学費が払えず退校し、自宅やカトリックスクールで学んだあと、イエズス会の学校をへてダブリン大学で語学を専攻した。英語・フランス語・イタリア語を学び、イプセンの戯曲やウィリアム・イエーツの詩篇に親しんだ。語学の勘はすぐれていた。
卒業してダブリンで何かをするかと思いきや、浪費癖で家計を困らせていた息子は、両親に追いたてられるようにパリに行かされた。表向きは医学免状をとることになっていたが、母親が癌に冒されて危篤になったのでやむなくダブリンに戻るまでの数ヵ月のあいだですら、ぐうたらな日々を送っていた。そのまま母親は亡くなるのだが、その臨終のとき枕元で祈りを捧げることを拒んだ。母親が嫌いだったからではなく、不可知論に徹したかったかららしい。この不可知論もジョイスなりのダンディズムのせいだ。どうにも「やりにくい子」なのである。
母の死後、ジョイスは酒浸りになり、家計はいっそう苦しくなっていく。書評をしたり教師をしたり歌手のまねごとをしたりして、糊口を凌いだ。不可知論はとうてい暮らしの役にはたたない。
食えない、鳴かず飛ばず、なんだか自尊心が許さない。そんな気分になっていた明治三七年(一九〇四)、ジョイスはまるで自己弁護をするかのように『芸術家の肖像』を書いて版元にもちこんだ。
美学を意識したナラティブ・エッセイとでもいうもので、ジョイスの分身のスティーブン・ディーダラスを主人公にした。その後の『ユリシーズ』でも主要な登場人物になる男だ。ギリシア神話の工人ダイダロスをもじっている。
自信作だったようだが、版元は言下に出版を断った。なんら理解できないし、退屈でリクツっぽい。やむなく改作して『スティーブン・ヒーロー』という小説仕立てにしたのだが、それでも食いつく版元はない。やけっぱちになったジョイスは、町で会ったノラ・バーナクルという若いメイドに気を惹かれ、気分がとろけていった。
のちの傑作『ユリシーズ』は一九〇四年六月十六日という一日(明治三七年水無月)に『オデュッセイアー』のすべてを配当して現在文学にしてみせた方法文学作品だが、その一日というのがノラと出会って六日後、二人で一緒に歩いた六月十六日なのである。いまジョイス・ファンが集って騒ぐブルームズデイは、この日を記念する。
だからノラとの出会いはのちの世界文学史にとってはそれなりに重要になるのだけれど(アンドレ・ブルトンがナジャに出会った日のように)、当時の本人にとっては逃避のようなもの、あいかわらず酒浸りの日々が続いた。ジョイスのダブリンは「酔いどれダブリン」だったのだ。これでは何がおこってもおかしくない。
ある日、フェニックス・パークで顔を合わせた男と口論になり、喧嘩になって逮捕された。ケガを負っていたので、父親の知人のアルフレッド・ハンターなる人物が身元を引き受けて、自宅においた。
この人物は妻に浮気されているという噂のある人物で、ジョイスはおもしろがって、のちに『ユリシーズ』の狂言まわしにあたるレオポルド・ブルームのモデルの一人にした。同じく『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなった医学生とも、このころ会ってあやしげな会話を愉しんでいる。
こんなふうにして、ダブリナーズたちは少しずつジョイスの記憶メモのポストイットになっていくのだが、かんじんのダブリンの町では本人が住みづらくなっていた。ノラを連れて大陸に逃げ、チューリッヒに腰掛けた。
チューリッヒでは当てにしていたベルリッツの英語教師の仕事にありつけず、トリエステで校長の好意のもと教師となって、ここでなんだかんだの十年ほどをおくった。
このトリエステ時代に『ダブリンの人びと』のいくつかの原稿が仕上がり、『スティーブン・ヒーロー』に再度の手を入れた『若き日の芸術家の肖像』(大澤正佳訳=岩波文庫・丸谷才一訳=新潮文庫)が仕上がっていった。そのうち、どんなダブリナーズを書くかということが、鮮明に見えてきた。遠いトリエステからダブリンの日々の記憶庫をひっくりかえすようにして光があてられ、その光があたった出来事や人物を「用意周到に言葉をけちった文体」で綴ることにしたのだ。
ジョイスはこの光のことを「エピファニー」(epiphany)と名付けた。現象や人物の動向を観察するうちに、そこに潜んでいたスピリッツが露呈してくること、あるいは顕現してくることをいう。ミルチア・エリアーデが宗教的精神の顕現をエピファニーと名付けたものと同じであるが、ジョイスは登場人物にエピファニーがあらわれてくるようにするには、そこに光るものを絞るための「けちった文体」が必要だとみなしたのだ。そのように方法文学を仕上げることを「エピファニー文学」とさえみなした。「本質チラリズム文学」といえばいいだろうか。
この方法は、プロが写真家たちが町の人物を撮るときに意識的につかっているものと同じだとぼくは見ている。ジョイスはそれを「文章の絞り」や「文体のシャッター速度」に託したのである。
ところが、こんなに自信に満ちた作品だったのに、版元はその意図をいっこうに評価しなかった。すでに十二篇が書きおわっていたのだが、『ダブリンの人びと』はどこからも出版されなかったのだ。
自分の作品が陽の目を見ないとなると、さすがのジョイスも放蕩三昧をくりかえしてはいられない。
明治四二年(一九〇九)、勝手知ったるダブリンに帰省し、モーンセル社を版元に選んで『ダブリンの人びと』の出版契約を結び、ノラの家族に挨拶もして結婚の準備にとりかかり、身重のノラを扶けるための家事手伝いとして自分の妹を呼び寄せたりした。経済力もつけるため、ダブリン初の映画館をつくる計画にも着手した。
ついに改心したのである。柄にも合わず、やることがてきぱきしてきた。「ふしだらダンディ」を棚上げしたかのようだ。ただ残念ながらまだまだツイてはいない。モーンセルとは条件が合わず契約がこじれ、三年ごしの出版計画は白紙に戻った。映画館をおこす会社もうまくはいかない。倒産してしまった。ジョイスはダブリンを離れ、もはや戻るまいと決めた。
このあとふたたびチューリッヒに拠点を移したジョイスは、いまなお完成しない『ダブリンの人びと』のために書き加えていたレオポルド・ブルームに光をあてた短編を、まるで最後の逆襲を謀るかのように一気呵成の『ユリシーズ』として大幅に膨らませ、エピファニー文学の原点をホメーロスの『オデュッセイアー』に求めて、奔放自在な超複合的、超文芸的、超言語的な大作に仕上げることにしたわけである。これはたいそうな乾坤一擲だった。
それでもあいかわらず出版には苦労するのだが、ここでエズラ・パウンドが後押しをした。大正三年(一九一四)、ついに『ダブリンの人びと』はロンドンの版元グラント・リチャーズから刊行された。『ユリシーズ』もシカゴの文芸誌「リトルレビュー」の連載にもちこめた。こちらもエズラ・パウンドの斡旋だった。パウンドは粋なはからいができた英語文化圏きっての文人だ。
ここで第一次世界大戦が始まって、ヨーロッパは大混乱に陥った。『ユリシーズ』は中断した。パリに活路を求めたジョイスに、今度はT・S・エリオット、サミュエル・ベケット、ヴァレリー・ラルボーらが目をとめた。ただ『ユリシーズ』の出版はどこも引き受けない。言語と下意識の言語とホメーロスの言語が混濁するところが随所に仕込まれていたため、たいていの版元が躊躇ったのだ。
もはやあきらめるしかないかと思えた矢先、セーヌ左岸でシェイクスピア&カンパニー書店を開いていたシルヴィア・ビーチが、これを引き受けた。堅実な予約出版だったのだが、見本が書店に並ぶと客が殺到した。シルヴィア・ビーチが何者であったかは、二一二夜を参照してほしい。たいした本好きだ。こうしてついに『ユリシーズ』が劇的な陽の目をみる。大正十一年(一九二二)になっていた。ジョイス四十歳。「ふしだらダンディ」は意気軒高である。
たちまち「意識の流れ」を描いた前代未聞の構成小説として話題にもなり、嫌われもし、猥褻本扱いもされ、多くの後進の前衛作家たちをゆるがしもした。この年はエリオットの『荒地』(岩波文庫)も刊行された年でもあったので、ヨーロッパ文学はここにモダニズムの軌道を大きく転換させることになる。
「キルケ」の章にあたる27ページ分。
ぼくは「意識の流れ」という観点でブンガクを見る見方には、あまり与しない。この用語はウィリアム・ジェイムズが提案したもので、「人間の意識は静的な部分の配列によって成立しているのではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものでできあがっている」という見方をいうのだが、これはあくまで心理学的な内語的心情の告知を前提にしたものだ。ジョイスがしたことは、そういう心理学効果を図ったものではない。もっと端的なことだった。
むしろジョイスは「想像力とは記憶のことだ」と見切ったのである。いくつもの記憶は脈絡をもたないまま想起され再生されるものだが、そもそも想像力とはそういう断片的な記憶のコンビネーションなのではないか。人々が想像力をかきたてられるのも、そうした記憶の断片的な組み合わせによるせいなのではないか。そう見切ったのだ。
それならば、そういう記憶を選びこみ、適確かつ有効に組み合わせていけば、ブンガクはまったく新たな相貌をもつことになるだろう。ジョイスはその実験場にダブリンを選び、その総体を医療カルテのように作り出したのだ。このことこそ「用意周到に言葉をけちった文体」が必要になった理由だった。
ではジョイスはそういう算段で、何を描こうとしたのか。これについてはずばり言っておきたいのだが、ダブリンの「麻痺」(パラリシス)を描いたのである。その麻痺は、歴史が現在にもたらす麻痺であり、二十世紀の世界の麻痺であり、ヨーロッパの言語麻痺である。
『ダブリンの人びと』を読むと、そのことが実にまざまざとわかる。キリスト教の役割の限界を描いた(「姉妹」「恩寵」)。欲望と憂さを描いた(「対応」「母親」)。詐欺と裏切りを描いた(「二人の伊達男」「痛ましい事故」)。また、アイルランドからの脱出が失敗すること(「イーヴリン」)、変質者が多いこと(「ある出会い」)、祝福と告知が紙一重であること(「レースのあとで」「死者たち」)を、描いた。
それらはことごとくダブリンの街区や通りや店舗と絡んでいる。そしてダブリナーズの多くが麻痺寸前だったのである。ジョイスにとっては、それが当然だ。世界はとっくにおかしくなっていたのだ。ジョイスはそれらとともに、二十世紀ダブリンを攪乱するように動かしたかったのだ。
そういうことがダブリンを知らないぼくにありありと伝わってくるには、今夜選んだ米本義孝訳のちくま文庫版がよかった。一章ごとにダブリンの町地図が掲示され、おびただしい訳注がジョイスの意図をあからさまにしてくれる。
ジョイスを「意識の流れ」で読むのはやめたほうがいい。ブンガクは心理学ではなく言葉の病理学だ。イメージの細菌学だ。むろんプルーストをそういうふうに読むのもやめたほうがいい。二十世紀の初頭の方法文学は、こぞって「痛み」や「苦み」のブンガクだったのである。
⊕『ダブリンの人びと』⊕
∈ 著者:ジェイムズ・ジョイス
∈ 発行:菊池明郎
∈ 発行所:株式会社筑摩書房
∈ 印刷所:中央精版印刷株式会社
∈ 製本所:中央精版印刷株式会社
∈ 装幀:神田昇和
∈ 発行:2008年2月10日
⊕ 目次情報 ⊕
∈ 姉妹
∈ ある出会い
∈ アラビー
∈ イーヴリン
∈ レースのあとで
∈ 二人の伊達男
∈ 下宿屋
∈ 小さな雲
∈ 対応
∈ 土
∈ 痛ましい事故
∈ 委員会室の蔦の日
∈ 母親
∈ 恩寵
∈ 死者たち
⊕ 著者略歴 ⊕
ジェイムズ・ジョイス
1882年生まれ。アイルランド出身の小説家。人間の内面をえぐる、独自の「内的告白」や「意識の流れ」の手法を生み出し、20世紀文学世界に革命的な新境地を開いた。母国を捨ててヨーロッパ各地をさまよいながら、終生故郷のダブリンとそこに住む人びとを描き続けた。
⊕ 訳者略歴 ⊕
米本 義孝(よねもと よしたか)
1941年生まれ。立命館大学大学院修士課程修了後、立命館大学、信州大学などを経て、安田女子大学教授を歴任。英文学専攻の文学博士。専門はジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオットの研究。ビートルズを学問的研究対象とし、その詩の世界について論文も発表している。