父の先見
牡猫ムルの人生観
角川文庫 1989
Ernst Theodor Amadeaus Hoffmann
Lebensansicchren des Katers Murr 1817~1820
[訳]石丸静雄
編集:須藤隆
装幀:鈴木一誌
幼児のころに寝付きが悪かったのかどうか、おぼえていない。京都で生まれたけれど、昭和19年の1月末だったから(京都も空襲されると信じられていたから)、父は母とぼくを尾鷲(おわせ)に疎開させ(何もおぼえていない)、そのあと妹が生まれたので鵠沼に移って(ここは少し記憶がある。スイトピーがたくさん咲き乱れて風にゆれていた)、敗戦直後に日本橋芳町の松岡商店の2階に親子4人で店番さんとともに住んだ。隣りは伊香保湯という銭湯、裏は宝来屋という佃煮屋だった。
芳町の2階では、一匹の軍鶏(しゃも)が鋭い目で花籠の向こうを睨んでいる二つ折りの屏風が立てられ、それに見下ろされるように小さな布団が敷かれ、そこで寝た。風でガタピシと雨戸の音がするのが怖かったけれど、寝付きが悪かったかどうか。
すぐに高熱を出す体質だったらしく、そのたび母がゴロゴロした氷枕をもってきてくれるのだが、それが冷たくて布団にもぐりこんだ(西東三鬼の句のように)。ちゃんと水枕をしなさいと言われ、顔を出すと、今度は天井の節穴の模様に睨まれているようで落ち着かない。それでキュッと目をつむったのだけれど、うとうとしてくると天井がまわりはじめ、そこからキーンと張った金属めいた糸が少しずつ下りてくるので汗びっしょりになった。
その後、ぼくはひどく寝付きの悪い青年になったけれど(いまでも眠るのがへたくそだ)、ほんとうは子供時代のことをもっと思い出したいのに、それが叶わない。そんなとき、しばしばアマデウス・ホフマンの『砂男』が空中を走っていった。あれはとんでもない話だ。
ナタナエルはこんな手紙を幼ななじみのロタールに書いた。僕は小さい頃から母さんや婆やから世にも怖しい「砂男」なるものの話を聞かされてきた。眠らない子供の目玉をくりぬいてしまうという砂男だ。僕はきっと砂男はどこかにいるにちがいないと信じるようになった。
そのうち、父さんのところにたびたび訪れてくる老弁護士のコッペリウスこそが砂男だと思うようになった。いろいろとても不気味なのだ。ある日、コッペリウスが父さんのところへ来たとき、書斎で謎の爆発がおこって、父さんは焼け死に、コッペリウスは行方不明になった。あれからずいぶんたったけれど、いま僕の下宿先に晴雨計売りの男のコッポラが来るようになった。それがコッペリウスそっくりで、やっぱりとても不気味なのだ。いったいどうしたらいいだろう?
こういう手紙をロタールに送ったつもりだったのに、宛て名をまちがえて、この手紙はロタールの妹のクララのところへ届いてしまった。クララはびっくりして、ナタナエルに励ましの手紙を書いた。僕は改めてロタールに手紙を書いた。
こんなふうに、ホフマンの『砂男』は3通の手紙で話が進む。どうなることかと読者がやきもきしていると、後半に、あいかわらず暗示的ではあるものの事態の顛末が説明される。ここから文体が変わり(手紙でないから当然だが)、一人称の「僕」は三人称のナタナエルになる。
ナタナエルはいったん帰省していたのだが、どこか熱に浮かされるようなことを言い、ロタールやクララとのあいだで諍いがおこるようになっていた。ナタナエルはもともと夢うつつな男の子なのだ。あげくにちょっとした行き違いで、ロタールと決闘することにさえなるのだが、クララが止めに入って事なきをえた。
ナタナエルが下宿に戻ってみると、その住まいは火事で焼け落ちてしまっていた。やむなくスパランツァーニ教授の向かい側の家に引っ越した。そこへまたまた晴雨計売りのコッポラがあらわれ、望遠鏡を買わされた。
望遠鏡で向かいを見てみると、スパランツァーニ教授の娘のオリンピアが見える。びっくりするほどきれいだ。たちまち激しい恋情をおぼえた。意を決して教授の家で開かれたパーティにもぐりこみ、やっとの思いでオリンピアとダンスを踊る。教授も二人の関係に満足気だった。ナタナエルは意を決して指輪を渡すため再び教授の家に乗りこんでいく。こともあろうにスパランツァーニ教授とコッポラが言い争いをしながら小さなオリンピアを引っ張りあっている。ついにコッポラが力ずくでオリンピアを肩に担ぎあげて逃げ去ろうとする。よく見ると、なんとオリンピアの目が欠けている。驚くナタナエルに対して教授がオリンピアの目玉を投げ付けた。彼女は自動人形だったのである。ナタナエルは教授にとびかかってのどを締めながら「まわれ、まわれ」と言っていた。駆けつけた人々にとりおさえられて精神病院に入れられてしまう。
病が癒えたナタナエルは母親とロタールとクララとともに別荘に移ることになった。4人で買い物中に、クララが市庁舎の塔に目をつけ、ねえ、あそこに昇ろうよと言った。塔の上でナタナエルがポケットからコッポラの望遠鏡を出してクララの顔を凝視したかと思うと、いきなりクララに飛びかかって塔から投げ捨てようとした。すんでのところでロタールがクララを助け、ナタナエルは「まわれ、まわれ」と言いながら、塔から落ちて死んだ。
騒ぎを聞いて駆けつけた人ごみの中に、あの弁護士コッペリウス(砂男)の姿があった‥‥。
なんとも眩暈(目くらまし)に充ちた不思議な話だ。いくら読んでも、眠れない子の目をくりぬく砂男の得体は知れず、児童小説としてはそうとうに怖い(だから児童小説なんかじゃない)。晴雨計、望遠鏡、自動人形が出てくるので、どこか実験室の中の出来事のようで、風変わりな機械幻想にも富んでいる。
フロイト(895夜)がエッセイ『不気味なもの』に「目玉が奪われる」のはオイディプスの神話がよみがえっていると得意の分析をして、エディプス・コンプレックスやナルシティズムの現象例としてとりあげたのは有名だが、つまらない分析だった。そうじゃねえんだよと思っていたら、種村季弘がホフマンの『砂男』とフロイトの『無気味なもの』をカップリングして河出文庫に収め、もっとみごとな解説を施してみせた。
『砂男』でおこっていることは、カイヨワ(899夜)が重視した「遊び」の中のイリンクス(眩暈)の例としてもピカイチだろう。ナタナエルが呪文のように「まわれ、まわれ」と言っているのは、少年が両手を広げてヒコーキになって校庭をぐるぐる回って遊びつづけ、少女がスカートをひるがえして一心不乱にくるくる一人スピンしていることとつながっている。ホフマンは「めまい文学」の鬼才だったのだ。
実は、ぼくが芳町の2階で足と爪を踏ん張った軍鶏のもとで高熱に魘(うな)されたあとは、天井から下りてきた金属の糸がピンピンになって、そのままプツンと切れるかどうかというとき、ぼくが寝ている布団が畳ごとぐるぐる回りはじめ、ぼくはそこまでおぼえているまま、あとは目をさますまで寝入ってしまっていたのだった。
砂男がどうして砂男(Sandmann)とよばれているかということも、付け加えておかなければならない。この怪物は眠らない子の目に砂をかけ、その目玉を取り出してしまうのである。
砂男はその目玉から血を吸って生きているらしく、そうだとするとこれはギリシア神話に出没する「ストリックス」や中世の「吸血鬼」のヴァージョンなのである。ストリックスは揺り籠にいる子を襲ってその柔らかな肉を食べ、血を吸うという怪鳥である。それがゲルマンの森の風土の中で、砂男に変化したのだろう。ホフマンは子供のころからこうした伝説や伝承を聞かされていたのであろう。
しかしそれを一筋縄のメルヘンとせず、そこに機械人形や光学幻想を加えたのがドイツ後期ロマン派の旗手ホフマンの、さすがに異様な手際だった。
というわけで、今夜は令和の年の瀬にホフマンを思い出すことにした。ぼくはドイツ・ロマン派はノヴァーリス(132夜)から入って、ティークやジャン・パウルやアルニムにぞんぶん遊ばせてもらってきたけれど、実のところその才能で言ったらホフマンにこそ参っていた。そのホフマンをこんな年の、こんな寒い夜の、こんな押し詰まった千夜千冊で思い出そうというのは、数日前から右目が真っ赤になってしまったからだ。しばらく前から罹っていた虹彩炎に、なぜか結膜下出血が重なってしまったらしい。これはホフマンに近づいたと思うしかない。
エルンスト・テオドール・ホフマンはアマデウス・ホフマン、すなわち「お化けのホフマン」と呼ばれた。いや、自分で好んでアマデウスを名のった男であった。敬愛してやまないモーツァルトに肖(あやか)ったのである。
46歳の短い生涯であったが、その多彩奇才の表現力はなぜか老ゲーテ(970夜)や同時代のヘーゲル(1780夜)に嫌われ、ハイネ(268夜)に褒められ、のちには後期ロマン派の代表作家として、バルザック(1568夜)、ジョルジュ・サンド、リラダン(953夜)、プーシキン(353夜)、デュマ(1220夜)、ドストエフスキー(950夜)、ネルヴァル(1222夜)、モーパッサン(558夜)、ボードレール(773夜)に絶賛された。
この通信簿は悪くない。とくにプーシキンとリラダンが兜を脱いだところが上々だ。砂男コッペリウスと機械人形オリンピアの唐突な邂逅にしてやられたのであろう。
ホフマンは1776年にケーニヒスベルクの法律家の家の末っ子に生まれた。父親はさっさと家出をしたので、母と伯父に育てられ、家業の法律とともに音楽・絵画・文芸作品・詩作に夢中になった。
ケーニヒスベルクはカントの町で、ジングシュピール(歌芝居)の町である。町の音楽アイドルはバッハ(1523夜)の息子のフィリップ・エマヌーエルで、みんながひそひそ話をしながら憧れていた。ホフマンはクリスティアン・ポドビエルスキーというオルガン奏者からピアノを教わった。父バッハ(つまり大バッハ)を崇拝するセンセイで、教え方がうまかったのか、ホフマン少年は妙に音楽の才能にめざめた。そのせいか早くから作曲が得意になった(と、自負していた)。
ポドビエルスキーのことはあとで紹介するが、『牡猫(おすねこ)ムルの人生観』の主人公の一人の魔術師アブラハム・リスコフのモデルになっているほどの(分身めいたモデルなのだが)、ホフマンにとってはとても重大なセンセイである。
むろん本はたくさん読んだ。ケーニヒスベルクには何軒もの書店やライブビリオテーク(私設の有料図書館)があって、町のレスルセ(娯楽施設)やワインシュトゥーペ(ブドウ酒呑み屋)にはたいてい新聞や雑誌がおいてあった。
ホフマン少年は十代になるとスウィフト(324夜)、ロレンス・スターンを好み、それに当時の文芸青少年はみんなそうだったのだが、ゲーテ、シラー、ジャン・パウルにぞっこんになった。シラーの『見霊者』がお気にいりだったようだ。さもありなんだ。
ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生活と意見』に惹かれたのは、漱石(583夜)の趣味とまったく同じで、その漱石が『吾輩は猫である』をホフマンの牡猫ムルからアイディアをいただいたという説がずっとあったのだけれど、これは漱石自身が「連載途中で知った」と否定(弁解?)しているし、真相はまだよくわかっていない。ぼくは、むしろ漱石はホフマンのムルを知っていながら、『吾輩猫』をあんなにも日本流に韜晦させたところをうんと褒めたいのだが、本人はまわりに言われるのはいやだったのだろう。ま、実人生というものは、そういうものだ。
司法試験に合格し、ケーニヒスベルクの陪席判事になった。そのとたん人妻に恋慕して引っ越さざるをえなくなる。これはとてもよくあることで、いちいち納得しても、褒めても、むろん貶(けな)してもいられない。だいたいヨーロッパの文人は、ヴォルテール(251夜)やルソー(663夜)のころから、みんな人妻と不倫したのだ。啓蒙主義とは不倫主義のことである(人妻との不倫と思想との不倫だ)。
そんなこんなで何度か転地するうちに、法曹にも恋愛にも芸術にもまみれて、ポーゼン(現在のポーランド領ポズナン)に落ち着いたと思われたい。
そこには社交クラブがあって、政府顧問官のヨハン・シュヴァルツと親しくなると、二人でカンタータやオペラを創作したり、ワインに熱中したり、ポンス酒に凝ったりした。お化けのホフマンは「フェチの極みのホフマン」でもあったのである。
あまりに器用でもあった。だから作曲もあっというまに楽譜にしたし、本格的な絵は苦手だったけれど、風刺画などは実にうまく描いた。ただそのせいで風刺された連中がいつも怒りまくっていた。フェチに描きすぎるのだ。揄(から)かわれたほうはたまらない(実人生はそうしたものだ)。ほってはおけない。ホフマンに反撃の狼煙を上げる。そんな非難の砲火でポーゼンにいられなくなって(炎上されると困るから)、惚れたミーシャと結婚するとプロークやワルシャワに移ってしまった(実際は左遷されたのである)。
1803年に引っ越したプロークでは喜劇を書いたり、ヨハン・クリスティアン・ヴィークレブの『自然魔術』に読み耽って(これは知る人ぞ知るの曰く付きの本)、器用な手先で自動人形づくりに挑んだりした。
ワルシャワでは「音楽クラブ」の創設にかかわり、ニ短調のミサ曲やブレンターノの戯曲を下敷きにしたオペラ『招かれざる客』の作曲、イタリア語の習得、それにこのあと終生の友となるユリウス・ヒツィヒから教えられたシュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリス(132夜)らのロマン主義派や、これはホフマン自身の好みのカルデロンの作品に没頭した。
ヒツィヒが誘導してくれたロマン主義作家たちの魂と技法は、もともとその血潮を体中にどくどくさせていたホフマンをひどく悦ばせた。
1806年、ナポレオン軍がワルシャワを侵略、ベルリンで大陸封鎖令を発令すると、そのまま占拠した。プロイセンの政府機関は解体し、ホフマンはすべての仕事を失って家族とともに「音楽クラブ」の屋根裏部屋にごちゃごちゃになって住み、そのあとナポレオン軍がロシアに転戦しているすきに、ベルリンに逃れた(ぼくの幼年時代の疎開のようなものだ)。
むろん、食えない。なんとか食いぶちを求めているうちにバンベルク劇場の支配人に目をつけられ、音楽指揮者として採用された。ここから先のホフマンは次のドレスデンやライプツィヒでももっぱら音楽家としての名声を得るようになるのだが、それとともに、趣味で小説を書きつづけるようになる。何かが落ち着けば、何かをあやしくさせたくなるものなのだ。オペラ『ウンディーネ』、小説『磁気催眠術師』『自動人形』『黄金の壷』『悪魔の霊液』、そしてホフマンの同時代名声を高めた『カロ風幻想曲集』が生まれた。
何かのきっかけさえあれば、お化けのホフマンの才能はいくらでも迸(ほとばし)ったのである。ベルリンで出会ったシャミッソー、ティーク、フケー、デブリエントがもたらした刺激もそれぞれに大きく、『くるみ割り人形とねずみの王様』『夜景集』『ゼラピオン同人集』を次々にまとめると、飼いはじめた牡猫のムルがおもしろくてしょうがなくなったようで、長編『牡猫ムルの人生観』にとりかかったわけである。
この長編は1820年に完成したが、2年後、脊椎カリエスに罹り、46歳でもろくも他界した。もう少し「お化け」でいてほしかった。
『牡猫ムルの猫生観ならびに偶然の反故に含まれた楽長ヨハネス・クライスラーの断片的伝記』。これが略称「カーテル・ムル」(Kater Murr)の、邦題『牡猫ムルの人生観』の、原タイトルである。
長ったらしいのは当時のフモール(ユーモア)文学によくある手口だが(長ければ長いほど読者が戸惑うからだ)、ここにはこの作品の唐突とも摩訶不思議ともいえる二重構造が示されている。その話をしておきたい。
牡猫のムルは1810年代のドイツの某都市ジークハルツヴァイラーの屋根裏の暗がりで生まれた。すぐに表で遊ぶようになったが、母猫がどこかに行っているあいだに、通りすがった老婆がムルと数匹の子猫を近くの川に捨てた。ムルは溺れかかり、なんとか必死で橋桁にしがみついていたところ、そこへ魔術師のアブラハム・リスコフ(あのアブラハムだ)がずぶ濡れの子猫に気がつき、拾って帰ってムルと名付けた(さきほどウェブを覗いてみたら、日本には何軒かの「ムル」というペットショップがあった)。
ムルは魔術師の日々にすぐ慣れた。慣れるのは当たり前、そんなものじゃない。ご主人の机の上に前脚を折って坐り、アブラハムが声を出して本を読むのを聞き、文字を目で追ううちにドイツ語を習得したのだ。このことはムルに潜在していた才能をさらに引っ張り出した。天才猫は羽根ペンの使い方をマスターして自伝を書くようになったのである。
何かのきっかけでホフマンの友人がこのムルの原稿を目にし、ホフマンに渡した(そんなことアリかと思ってはいけない。ドイツ・ロマン派は何でもアリだ)。ホフマンはウンター・デン・リンデン通りの出版社デュムラーを紹介し、やがて見本刷りができあがった。それを見てホフマンは驚いた。自伝の活字は各所で別の文書で中断され、何度も紙継ぎされるようになっているのだ。その原因を調べてみると、ムルがインクの吸取り紙として、手元にあった本のページを破り取って使っていたことが判明した。『クライスラー伝』という本だった。
ホフマンはかねて『クライスラー伝』は読むべき価値のあるものだと思っていたので、中断箇所の始めと終わりに「反故」(Mak.BI.)、「ムル続き」(M.f.f.)という目印だけつけて、そのまま見本刷りの形式を残すことにした。
その結果、まったく異質な二つの自伝作品が交互断続的に構成される前代未聞の二重構造が出現することになった。それが『牡猫ムルの猫生観ならびに偶然の反故に含まれた楽長ヨハネス・クライスラーの断片的伝記』なのである。
というようなことが、『牡猫ムル』を読んでいくとわかるようになっているのだが、ぼくは砂男に続いて、またしてもまんまとやられたのだった。
猫が文字を書くのは、猫は長靴だって靴下だってはくわけだから、メルヘンや説話にありそうなことだけれど、その習得がご主人の「音読」のヒアリングと文字を追う目の動きとの合成から組み立てられていたというのは、なんともすばらしく、まことに編集工学的である。
もっとすばらしいのは、ムルが羽根ペンで原稿を綴っているそのときに、吸取り紙として別の本のページが使われていったということだ。これは愕然とするほどに卓抜なアイディアだ。
吸取り紙になったのが『クライスラー伝』だったというのも、憎かった。クライスラーというのはホフマンが『牡猫ムル』を書く10年前に書いた『クライスレリアーナ』という短編集に出てくる虚構の人物で、それ以外の何者でもない。しかも『クライスレリアーナ』にはクライスラーの伝記的なことなど、ほとんど出てこない。読者は『牡猫ムル』で初めて、その虚構のクライスラーの人生を読みながら、ムルの人生観を啄(ついば)むわけなのである。
こうして、世界文学史上にまったく類のない「二重小説」(Doppelroman)が誕生したのだった。ドッペル・ロマンはパラテキストということだ。
ムルの人生観については、びっくりするようなことは書かれていない。主人としての人間たちの相克、貴族を自負する犬たちの驕慢、市民的な猫たちの無責任が、独特のフモールをもってあたかも身分社会の投影のように描かれるばかりだ。まあ、アイロニーに走ったという程度のご意見だ。そこは、おそらくはホフマンの影響をなにがしか受けたとおぼしい漱石の『吾輩猫』と変わらない。漱石はむしろトリストラム・シャンディの意見のほうに左右されたにちがいない。
ただしムルがそのような人生観を述べるにあたって、たいてい「本の知識」と「現実の進行」とが対比されるところが独特である。ムルはやたらに「本のアーカイブ」に強いのだ。
それより驚かされるのは、ムルの日記に併行してあらわれるクライスラーの伝記のほうである。これがかなりの犯罪推理小説仕立てなのである。その舞台はイレネーウス侯の宮廷ジークハルツホーフと、そこから少し離れたカンツハイムのベネディクト会修道院になっている。
話はイレネーウス侯爵がジークハルツホーフを入念に建造するいきさつから始まり、そこに音楽監督クライスラーが招かれて侯爵の息女ヘドヴィガに音楽を教えるというふうに進んでいく。まるでバイエルン公国の月王のような話の始まりなのである。
そこに息女の結婚相手として、元ナポリ領主の次男ヘクトールがあらわれる。この男は婚約者として横暴にふるまいつつも、ヘドヴィガのお相手をつとめるユーリアを誘惑する。これは許せない。実はクライスラーはユーリアに恋心を抱いていたのだ。
そこでクライスラーは、ヘクトールの過去を知るアブラハムの助けを借りて、ヘクトールの過去犯罪を暴くためのミニアチュール(細密画)を活用して、ユーリアへの誘惑をやめさせようとするのだが、ヘクトールは部下をつかってクライスラーを射殺しようとする。ピストルが発射され、血痕のついたクライスラーの帽子だけが発見されたところで、第1巻が切れる(えっ、ここで話が切れるのという感じだ)。
第2巻が始まると、クライスラーは側頭部のかすり傷ですんでいて、それどころか抵抗のうえ刺客を刺し殺していたことがわかる。それで近くのベネディクト会修道院に身を隠し、しばらくは教会音楽の作曲に耽るのだった。
一方宮廷では、イレネーウス侯爵の愛人がユーリアの母のベンツォン夫人であることが知れ、夫人が娘の政略結婚をもくろんでいるという話が進行する。侯爵の跡継ぎのイグナッツの妃にしようというのである。クライスラーとユーリアに肩入れしているアブラハムは(この名は牡猫ムルを拾った魔術師と同じ名前になっている!)、ベンツォンの野望を知ってそんなことは娘の幸せにはならないと説くのだが、聞き入れられない。
そんなとき修道院に新たな僧がやってきた。ヘクトールの兄で、またまた過去に悪事をはたらいていたらしい。クライスラーはふたたびミニアチュールを用いて化けの皮を剥がそうとするのだが(こういう図形や図像が呪能を発揮するのはロマン派たちのお得意の手だ)、そこへアブラハムからの手紙が届いて、侯爵夫人の霊告日の祝賀行事には宮廷に戻るようにとある。小説では、ここに編者の添え書きが続いて、ムルが死んでしまったことを告げる。
なんとも奇怪なメタフィクショナルな進行であるが、ここでアブラハムとムルの意外な関係が急に読者にあかされる。実はアブラハムはクライスラーに霊告日に戻るように通告したのに、クライスラーは現れなかったのだ。立腹したアブラハムは魔術をつかって祝賀行事を大混乱に陥れ、その混乱がおさまった夕刻に自宅に戻る途中、橋のかたわらで溺れかかっていた子猫を見つけて連れ帰ったのだった。それがムルだった(ええーっ、それはずるいよと言いたい展開だ)。
以上の顛末を語ったアブラハムは、自分はこれから旅に出るのでムルをクライスラーに預けるのでよろしくというふうになる。いったいクライスラーがムルの世話をするのかどうかというところで、また話は中断されるのである。
このあとさらに事件の意外な真相が暴かれていくのだが、ここはさすがにネタバレになるのでこのくらいにしておくが、ともかくもこの「二重小説」(ドッペル・ロマン)は実に大胆不敵、まことに勝手気儘なのである。しかも、ムルよりもクライスラーの宿命のようなものがずっと気になるように構成されている。
まさに、ホフマンの狙いもそこにあったと目される。ホフマンは自分のことをクラブやサロンで自己紹介するときに、「あのクライスラーである私」と言っているほどだったのだ。
ざっと『砂男』と『牡猫ムル』を紹介してみたが、ここに切れぎれに躍如しているのは、ホフマンは「分身の文学」と「環の文学」を発明したということだろうと思う。
誰が何のための、どんな分身であるかを問うためのドッペルゲンガー(Doppeltgänger)の物語を思いつき、そのような分身自由な物語を成立させるための環(Kreis:クライス)の構造を用意すること、それがお化けのホフマンの文芸的編集魔術だったのである。
行く年来る年に向けての話は、これでおしまいだ。ぼくは血走った目にリンデロンを点眼し、眼医者の浜田センセイのところへ正月明けに通うことになる。たいへん粗相なお話でした。
ここで付録として、ドイツ・ロマン派の文芸動向についての、ごくかんたんな案内をしておく。除夜の鐘がわりです。
国書刊行会から刊行。造本を担当したのは杉浦康平氏と鈴木一誌氏。
「かれらの豊富な幻想は生きることにほかならなかった。かれらの文学ほど純粋で同時に雑駁なものは類が無い。かれらの幻想があくまで人間的だからだ。それがわたしたち後代人に幻想する力と静かに生きる喜びを与えてくれる」(日影丈吉の推薦の言葉より)
まずは当時のドイツの時代と場所と人物の符牒を少々ピンアップすると、1788年にヘーゲル(1708夜)とヘルダーリン(1200夜)とシェリングがチュービンゲン大学の付属神学校で同期になったのである。18歳前後の3人は「ヘン・カイ・パン」(一つですべて)を合言葉に、これからは「世界世代」の時代がやってくると確信した。
このうちのヘーゲルとシェリングがイエーナ大学に入ったころ、シュレーゲル兄弟やティークやヴァッケンローダーが集うイエーナ・サークルで、「美しいものは美しい」「昼よりは夜」「健康より病気」「解決よりは謎をのこす」「正常より異常」「でも心はきれいに」「生身より分身のほうがかっこいい」「芸術は芸術をめざす」「実利より夢を」といった約束ができあがったのだった。
ついで1798年に、シュレーゲル兄弟がそうした議論と表現と作品を出入りさせる雑誌「アテネウム」を創刊した。なかでヴァッケンローダーの『芸術を愛する一修道僧の心情の披瀝』が時代を画し、ここまでが前期ロマン主義である。
1806年、アイヒ・フォン・アルニムとブレンターノがハイデルベルクで童話集「少年の不思議な角笛」のシリーズ刊行をしはじめた。ナポレオンがドイツを蹂躙することが見えてきた時期、ドイツの夢見る夢男たちは、のちのグリム兄弟がそうだったように、ドイツの魂のための伝統を守り、発掘し、新たな仕立ての物語や詩にしていくことを誓う。アルニムは「隠者新聞」を創刊した。これが中期ロマン主義である。
こうして1814年から1830年あたりまで、ベルリンを中心にした後期ロマン主義が立ち上がる。ここに登場したのがホフマンであり、フケーの『ウンディーネ』やシャミッソーの『影をなくした男』やアイヒェンドルフの『予感と現在』だ。このあと、ドイツはこれらを「読む」ためのビーダーマイヤー時代になっていく。もっと詳しくは、たとえばアルベール・ベガンの『ロマン的魂と夢』(国文社)などを、どうぞ。名著です。
ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲンにある総合大学。1477年に創立された、ヨーロッパで最も古い大学に数えられる。ヨーロッパのヒューマニズムとドイツ観念論の発祥の地とされる。
ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノが収集したドイツの民衆歌謡の詩集。ドイツのマザー・グースとも呼ばれている。3巻からなり、1806年から1808年に出版された。
もうひとつおまけに、ホフマンは自分も分身音楽家だったわけだけれど、そのホフマンの原作や「お化けのホフマン」ぶりは、後世にいろいろの音楽作品や舞台作品になった。
有名なのはバレエ『くるみ割り人形』や『コッペリア』、そして『ホフマン物語』や『カルディヤック』だ。『くるみ割り人形』はホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』をデュマが翻案し、『ホフマン物語』は『大晦日の夜の冒険』『砂男』『クレスペル顧問官』の3作を編集翻案した。とてもよくできている。そして『コッペリア』が『砂男』のバレエ化なのである。
ロベルト・シューマンが『クライスレリアーナ』をピアノ曲集にしたことも言っておかなくてはいけなかった。きっと大晦日に聴くといいだろう。では、みなさんよいお年を。ドッペル、ケッケル、サッケル、アッケル!
ホフマンの『砂男』をモチーフに、台本をサン・レオンとシャルル・ニュイッテルが創作。『砂男』は人形に恋した男の狂気性を前面に押し出した物語だが、『コッペリア』はその狂気性を抑え、陽気で明るい喜劇として再構成されている。
ロベルト・シューマンが1838年に作曲した8曲からなるピアノ曲集で、ショパンに献呈された。ホフマンの書いた音楽評論集の題名から引用されている。シューマンはその中に登場する、クライスラーを自分自身、さらに恋人クララの姿にも重ね合わせた。ピアノ演奏はアルゼンチンの女性天才ピアニスト、マルタ・アルゲリッチ。
⊕ 牡猫ムルの人生観 ⊕
∈ 著者:E・T・A・ホフマン
∈ 翻訳:石丸 静雄
∈ 発行所:角川書店
∈∈ 発行:1989年6月5日
⊕ 著者・訳者略歴 ⊕
E・T・A・ホフマン
ドイツの作家、作曲家、音楽評論家、画家、法律家。文学、音楽、絵画と多彩な分野で才能を発揮したが、現在では主に後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られている。本名はエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマン(Ernst Theodor Wilhelm Hoffmann)であったが、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトにあやかってこの筆名を用いた。ケーニヒスベルクの法律家の家系に生まれ、自らも法律を学んで裁判官となるが、その傍らで芸術を愛好し詩作や作曲、絵画制作を行なっていた。1806年にナポレオンの進軍によって官職を失うとバンベルクで劇場監督の職に就き、舞台を手がける傍らで音楽雑誌に小説、音楽評論の寄稿を開始。1814年に判事に復職したのちも裁判官と作家との二重生活を送り、病に倒れるまで旺盛な作家活動を続けた。