G・W・F・ヘーゲル
精神現象学
作品社 1998
G.W.F.Hegel
Phnomenologie des Geistes 1807・1832
[訳]長谷川宏
編集:高木有 校正:大西寿男 装幀:菊地信義
ぼくは早稲田時代はマルクスに惚れぼれしながらも、それでもヘーゲルが達しようとした世界観に至る方法を、いつかどこかで再解釈してみたいと思ったのである。それは読み手としての自由をまっとうしたかったからだった。

【わが前哨戦1964】 
 今夜の千夜千冊は長谷川宏さんの新訳で話題になったヘーゲルの『精神現象学』を採り上げるけれど、話はうんとさかのぼって、ぼくが早稲田の1年の秋の、いささか苦い話から始めたい。
 マルクス(789夜)の『ヘーゲル批判』(新潮社「マルエン選集」第1巻)の読み合わせ会に出た。城塚登訳の「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」と日高晋訳の「ヘーゲル法哲学批判」のところの共読だ。当時の革マル派の拠点のひとつであった早稲田大学新聞会の主催で、のちに宝島社をおこした鈴木(石井)慎二のすすめで参加した。慎二さんはぼくが九段高校で新聞部にいたときの3年生で、そのころから多弁多論派のジャーナリスティックな先輩だった。その後も何かと面倒をみようとしてくれていたが、それが「オルグ」だということは、しばらくあとでわかった。
 読み合わせをしてみると、マルクスの言葉づかいの切れ味と逆説的な言いまわしでヘーゲルが木っ端微塵の仕打ちを受けているのが快感で、だからマルクスの言い分にはそこそこ入りこめたのだが、ただ少し変な気分にもなっていた。これでは肝心のヘーゲルのことがさっぱりわからない。ヘーゲルのことが少しくらいは見えないと、マルクスの狙いがいまひとつ掴めない。

 高田馬場の古本屋でヘーゲルを物色した。棚から本を手にしつつ一瞥一感、マルクスはこんな途方もない分厚い相手を一撃で倒す気になったのかとびっくりした。何から入ったらいいのかわからなかったけれど、樫山欽四郎訳の『精神現象学』にした。
 初めて読むヘーゲルはかなり樫山訳の苦虫をつぶした用語づかいのせいもあって、そうとうに執拗な中身だったが、それにもかかわらず構想の全容に何かが漲っているのが伝わってきて、みっちりとした絨毯の模様を読むようで新鮮だったのである。オリンピックで東京中が工事中の1964年の寒い一月のことだった。

『ヘーゲル批判』(新潮社「マルエン選集」第1巻)
大学時代の現物

『ヘーゲル批判』に書き込まれた大学時代のマーキング
濃いめの鉛筆で線が引かれ、余白には「論理学は精神の貨幣である。」と書かれている。

【1意識、2自己意識、3理性、4絶対知】
 しばらく鞄の中の『精神現象学』を持ち歩いて出入りさせていたので、あるとき新聞会の先輩から「なんだヘーゲルなんか読んでるのか。逆立ちするぞ」と揶揄された。
 「いやー、でもマルクスだってヘーゲルを読んだんだから、やっぱり一応はぼくも‥‥」とかなんとか説明しようとしたと思うのだが、すかさず「だからお前は歴史主義なんだよ」と一蹴された。逆立ちとか歴史主義という用語がピンとこなかったけれど、ケチがついた。それでも『精神現象学』を鉛筆なめなめ読み切ったはずだ。
 1「意識」、2「自己意識」、3「理性」、4「絶対知」という構成である。半分以上は退屈で、残りの半分はうねうねした説明に参ったが、まさに意識→自己意識→理性→絶対知の順に読み手が絨毯模様の中で絶対知に向かうようになるはずだという意図には惹かれた。
 とくに2「自己意識」の最後に「頭蓋論」という一節が出てきて、生物が進化してヒトになり、そこで自己意識が脳にまで昇りつめたのだが、そこで転回をおこすべきだというところに、関心が向いた。『精神現象学』は頭蓋論のところで折り返されていたのである。ドイツの観念哲学は折り返すのかと思った。

ヘーゲル『精神現象学』樫山欽四郎訳(世界の大思想12、河出書房)
『ヘーゲル批判』と同じく大学時代の現物。

【ヘーゲル哲学は転回をおこしているのか】 
 人間は進化のあげく巨大で濃密な脳神経系を得た。それが言葉や道具を発明させ、家族や国家や文学や建物や音楽をつくりだしもした。
 もしも生命史を通した「意識あるいは精神の歴史」というものがあるとするなら、その発端は「物質が情報高分子になって光合成とDNAを操るようになったこと」にあり、その現在は「脳が自己と意識をもって全物質史と全生命史と全文明史を眺めていること」にある。
 ヘーゲルの時代は18世紀晩期から19世紀前半にかけての時期だから、遺伝子のことも光合成のことも脳のこともほとんど見えてはいない。つまり「情報」についてはまったくなんらの展望ができていなかった。けれどもヘーゲルは、この長大な「物質が精神に変じてきた歴史」のプロセスに、自分自身が属していることをもって、その変遷を自覚するにはどうすればいいかについて、考えたのだろうと思う。そして、「自分の脳」が「物質の歴史」を「精神の歴史」に読み替えているのだろうと確信したのだろう。
 こうしたひらめきにもとづいて『精神現象学』という執筆プランができあがった。そのプランは、人間の頭蓋の中に「脳」という「意識によって世界を観察する力」(理性や知性)が成熟し、そこから転回がおこって、その理性や知性が世界の変遷の真相を求めて精神をフルに燃焼させ、すべてをひっさげたうえで絶対知に向かうのではないかというものだ。
 発表刊行したのは1807年のことである。この1807年がどんな年だったかということは、あとでふれる。

【ヘーゲルとマルクスの分岐点】 
 ヘーゲルのプランは、「精神が経験する学」をヘーゲル自身の脳が追走してみせるというものだった。物質の歴史がその頂点を脳に求めて展開してきたのだとするなら、この追走は可能だと思われたのだ。ヘーゲルはこういう追走によって学問体系を確立したかったのである。追走学である。
 ぼくは、なるほど、そういう見方があったのかと得心したが、それとともにマルクスがヘーゲルに文句をつけた決定的なところも、そうかそうか、なるほどそこか、ということが見えてきた。ヘーゲルは、精神が現象知にとらわれているからいつまでも迷いが生じるので、現象知から絶対知に進みなさい、そのほうが歴史は新しく展く方向になる、思索も自由になると主張しているのだが、マルクスはそれはおかしい、話は逆だと見た。
 ヘーゲルは精神が現象知にとらわれている時点で、現象のほうに価値観の本質が移動させてしまっているのだから、そこから絶対知に進んだのだが、マルクスはそうではなく、そういう迷いの精神(意識)をつくってきた物質の歴史の方に目を転じなければいけないと見えたのである。そうだとするなら、「精神が経験する学」を追走するのではなく、新たな「物質が経験する学」を立ち上げるべきだろうと主張したのだった。
 マルクスの見方では、人間と社会の歴史は精神を狭隘なものにしてきた歴史であって、それは「物質の歴史」がそのように向かい、意識や精神を物象化してきたのである。そうであるなら、われわれが立ち向かうべきはむしろ「物質が経験する学」であって、それは「後方への旅」になるはずだというのだ。
 マルクスはこのようなヘーゲルに対する批判をもって、いわゆる史的唯物論の確立に向かっていった。「物質的に歴史を見ることによる既存の価値観の転倒」という体系の確立に向かっていった。

【半分ヘーゲル、半分マルクス】 
 正直に言うが、当時のぼくはマルクスが「唯心から唯物へ」と大きく転換していくラディカルな手立てのほう(後方への旅)に惚れぼれしていた。そのため、ヘーゲルが精神の高みや絶対知を標榜して、そこに居座ろうとしているというか、高みの見物をしているというか、そんな「上から目線」のままにいることがいまひとつ納得できなかったので、マルクスのヘーゲル批判にはそれなりに得心できた。
 ところが他方では、実はマルクスが精神や意識は労働によって「疎外されている」とみなしていることについては、それがどこでどうして「物質がおこしていること」になるのか、そこがわからなかった。
 それからというもの、半分ヘーゲル、半分マルクスという日々をおくることになる。まあ、これはぼくが史的唯物論を理解できていなかったということなのだろうけれど、いまから思えば、ずいぶん中途半端なことだった。
 ではこの先はマルクスを離れて(のちにもう一度戻るが)、ヘーゲルの生涯と著作をめぐりつつ、『精神現象学』がもたらしたものが何だったか、マルクスのほうからではなく、カント、フィヒテ、ヘーゲルというふうに進捗してきたドイツ観念哲学のほうから眺めておく。

ウィーン体制下のドイツ地図
19世紀初頭、知識人たちはまだ存在しない「ドイツ人」全体を念頭において、ドイツ国民の意識を喚起しようとした。
『哲学の歴史 7―理性の劇場・カントとドイツ観念論』(中央公論新社)口絵より

【18世紀末の3人の青春】
 ヘーゲルのフルネームはゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲルという。1770年8月にシュトゥトガルトの主税局で書記官をしていた親父のもとに長男として生まれた。母親は家庭教育に熱心で、ヘーゲルは3歳でドイツ語学校に、5歳でラテン語学校に、7歳からはギムナジウムに通った。両親はヴィルヘルムと呼んでいた。
 1770年はカントが『感性界と叡知界の形式と原理について』やヘルダーの『言語起源論』が上梓された年で、当時はゲーテ(970夜)の『若きウェルテルの悩み』やレッシングの『賢者ナターン』が話題になって、ドイツ人の眠りがゆっくりと覚めつつあった時期にあたる。
 しかし隣りのフランスではディドロ(180夜)の『ダランベールの夢』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』第1巻が、イギリスではヒュームの著作群やアダム・スミスの『国富論』が登場し、アメリカでは独立戦争が始まっていた。
 イギリス経験論と大陸合理論と新大陸アメリカ主義とが蠢動していたのである。目覚めつつあったとはいえ、ドイツは分国状態で遅れていた。
 1788年、18歳のヘーゲルはシュトゥットガルトのギムナジウムの浪漫を了えて、南ドイツのテュービンゲン大学の付属神学校に入る。30人の新入生の中にのちに詩人となったフリードリッヒ・ヘルダーリン(1200夜)がいて、2年後にフリードリッヒ・シェリングが入学してきた。ヘーゲルとヘルダーリンが同い歳で(ベートーベンも同い歳)、シェリングはすこしおませで、4歳年下だった。
 この1788年というのはカントの『実践理性批判』第1版が発表された年だから、哲学史にとっては象徴的な年である。
 3人のフリードリッヒは大いに仲良しで、寄宿舎の同じ部屋で何度も話しこんだり、一緒に校庭近くの森に「自由の樹」を植えたりした。有名な話だが、ヘーゲルはヘルダーリンの雑記帳に「ヘン・カイ・パン」(hen kai pan)と書き込んだ。ギリシア語で「一つですべて」と言う意味だ。クセノファネスが言い出したことで、その後は中世神学の汎神論のテーゼになったものだが、いかにも青年ヘーゲルの気概があらわれている。

イマヌエル・カント『純粋理性批判』
1781年に刊行され,哲学史上,一時期を画した。大陸の合理論とイギリスの経験論の欠陥が洞察され,経験から独立した認識能力の批判,すなわち純粋理性能力の意味と限界が批判された。

エバーハルト・カール大学テュービンゲン
ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲンにある総合大学。1477年に創立された、ヨーロッパで最も古い大学に数えられる。ヨーロッパのヒューマニズムとドイツ観念論の発祥の地とされる。

ヘルダーリンとシェリング
ヘルダーリンはテュービンゲン大学卒業後、書簡体小説『ヒュペーリオン』や多数の賛歌、頌歌を含む詩を執筆したが、30代で統合失調症を患い、人生の半分を塔の中で過ごした。生前は大きな名声は得られなかったが、ロマン主義、象徴主義の詩人によって読み継がれ、ニーチェ、ハイデッガーら思想家にも強い影響を与えた。シェリングはスピノザ、カント、フィヒテに学び、自我と自然との相互浸透にもとづく〈自我哲学〉および自然哲学,主客の根源的同一性を原理とする〈同一哲学〉、さらにはベーメ、バーダーの影響のもと、やや神秘主義的な歴史哲学を説いた。

【フィヒテはカントを超えている】
 時代はドタンバタンと動いていた。そのうち神学校でも、1789年のバスチーユ解放とともに狼煙をあげたフランス革命の話で持ちきりになった。フランスの新聞やパンフレットを読みあさる学生サークルもできた。学生たちのあいだに神学校に対する不満が募り、理性による神学問答に対する疑問が交わされるようになっていた。
 そんなとき、天才肌のシェリングが「フィヒテはカントを超えている」と告げた。ヘーゲルはギョッとし、その指摘を補うものが自分にないことを感じる。
 慌ててフィヒテ(380夜)の「知識学」に関する論文群(のちの『知識学の基礎』)を読み、そこに知識ではなくて「知識学という束」が世界史を展望してきたという構想があったことに腰を抜かした。さらにさかのぼってカントの『純粋理性批判』やその後の三部作を比較しながら読んで、神や自然や歴史に対する人間の理性や知性がどういうはたらきをもったのか、もちうるのか、大いに考えこんでいく。くらべるべくもないが、ぼくがマルクスからヘーゲルに戻ってみたようなものだ。
 三人のフリードリッヒは神学校の内外で、こういうことをのべつ交わしていたのだと思う。だから三人の熱い交際の渦中からこそ、このあとのヘーゲル哲学のエスキースが生まれたと言っていい。ヘーゲルはマルクスが言うほどに独断的でもなく、独創的でもなかったのである。

【ワイマールのゲーテとイエーナ大学】 
 当時の神学校はそこを出れば牧師補の資格がとれた。けれどもヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングともにその道には進まず、それぞれあちこちの都市で家庭教師をする。
 24歳になったヘーゲルはベルンの町で家庭教師をしながら『イエスの生涯』や『キリスト教の実定性』などの神学論文を書いた。「実定」というのは、キリスト教は人間の内なる自然から生じたものではなく、人間を超えたところで作成されたので、それは実定的なことだったと見たのである。
 1796年のクリスマスのとき、シュトゥットガルトに帰郷したヘーゲルは妹の友達のエンデルに惹かれた。しかし翌年にフランクフルトでヘルダーリンに再会したとき、みんながこの年に出版されたゲーテの『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』のすばらしさを語っていたのにハッとした。ヘーゲルもさっそく新たにシンクレア、ツヴィリングとの友誼のサークルでゲーテをめぐる識論に口角泡をとばすのだが、まだまだロマンチックな考えに憧れていた時期だし、1799年に父親が亡くなってそれなりの財産を相続したので、あいかわらず本格的に焦るものはなかったようである。
 ただ「フィヒテはカントを超えている」というシェリングの言葉だけはあいからず気になっている。おまけに、早熟で天才肌のシェリングは弱冠23歳でイエーナ大学の教授になった。これは羨ましい。
 1801年、そのシェリングを頼ってイエーナに移ったヘーゲルは、自分も大学教授の資格をとりたいと思う。『惑星の軌道に関する哲学的論文』を書いて提出したところ、査定を通った。このころ大半の哲学の学徒はラテン語で惑星軌道論を書いてみせるのが登竜門で、ニュートンの天体的世界観をどう見るかが哲学の基礎問題とみなされていたからだ。
 シェリングはヘーゲルをワイマールのゲーテのところに連れていった。当時は定番の儀式のような「ゲーテ参り」だ。ゲーテは1775年冬からは、18歳のカール・アウグスト公からの招聘でワイマール公国に移っていた(しばしば各地を遊学するが、のちに永住した)。すでにゲーテの活動、研究、文学作品の数々はドイツ人の最高の理性と情熱の結晶として、各方面から崇敬されていたのだ。シェリングとヘーゲルが連れ立って訪れたときも、ゲーテは二人に鉱物学会や植物学会の集いに出入りすることを勧めている。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ドイツを代表する文豪であり、ドイツ文学の古典主義時代を築いた。「若きウェルテルの悩み」を25歳の時に発表し、ヨーロッパで高い評価を獲得。その後、ワイマール公国(現:ドイツ・テューリンゲン州)の宮廷顧問など政治家としても活躍した。また自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している。
(ヨーゼフ・カール・シュティーラー画、1828年)

『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』
すぐれた資質をもちながら確固たる意志に欠ける情熱的な青年ウィルヘルムの内面的な成長を描く。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』との2部から成り、ドイツ文学の主流をなす教養小説の頂点に立つ作品。

針鉄鉱(ゲータイト)
ゲーテは20代半ばのころ、ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学んで以来、生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んでいる。針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなんであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者たちによって1806年に名づけられた。

ゲーテの色彩環
晩年のゲーテは光学の研究に力を注ぎ、20年をかけた大著『色彩論』が1810年に発表されたた。ゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考え、ニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は科学者にほとんど省みられなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している。

ワイマールのゲーテの書斎

イエーナ大学
1558年創立。シラー,フィヒテ,シェリング,シュレーゲル兄弟,ヘーゲル,ティークら,18世紀後半~19世紀初めのドイツの代表的思想家・文学者がこの大学で講じた。東独に属しフリードリヒ・シラー大学と改称。

【ドイツ観念論の沸騰期間】 
 ゲーテとドイツ観念哲学の流れについて一言説明しておく。ごくごく大ざっぱにいうと、のちのち「カント→フィヒテ→シェリング→ヘーゲル」と展開していったドイツ哲学の流れを、西洋哲学史では「ドイツ観念論」と一括りに呼んできた。
 ドイツ観念論の系譜だなんて、いかにも太くて厚い哲学の季節のように思われるが、実際には短期的に集中した。その期間は1781年のカント『純粋理性批判』から1821年のヘーゲル『法哲学』までの、わずか40年間ほどの沸騰だった。あれほど有名になったドイツ観念論ではあるが、その正味は40年ほどの異様なフィーバーだったのだ。
 これに対して、1770年から1830年までの60年間のドイツの精神潮流は、ずうっと「ゲーテの時代」だった。わかりやすくいえば『若きウェルテルの悩み』から『ファウスト』までの60年間だ。ヘーゲルにはそういう同時代の息吹を読み取る才能がなかったようだが、こういうことにすぐピンとくるのはシェリングだ。シェリングはそのへんにも長けていたので「ゲーテ参り」もしてみせたし、ワイマール公国の現状も見せておいたのだろう。
 そんなことも手伝って、ヘーゲルはシェリングに感心したまま処女論文の中身を決めた。『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』というものだ。今日のヘーゲリアンによって「差異論文」と称されている論文だ。年下の親友シェリングの思想の凄さを称えたのである。この論文はフィヒテを媒介にしてシェリングを優位を際立たせ、そのうえでヘーゲル自身の橋頭保をつくろうとしたものだった。そしてこの直後、ヘーゲルは『精神現象学』の構想にとりかかることになる。
 ちなみにシェリングはというと、イエーナ大学教授をしていたウィルヘルム・シュレーゲル(シュレーゲル兄弟の兄、その後のドイツ・ロマン主義の旗手)の奥さんカロリーネと親密な関係になっていた。あきらかに不倫だが、啓蒙主義時代とドイツ観念論時代は、思想家の大半が不倫をしていた。不倫をしないと思想が武者ぶるいしないのだ。シェリングはカロリーネを連れてイエーナを去り、ワルツブルク大学に移った。このことは、このあとのヘーゲルとシェリングの分岐を暗示した。

イエーナとワイマール(ヴァイマル)を擁するテューリンゲン州の地図
ワイマールは、18世紀末から19世紀初頭にかけて花開いたドイツ古典主義の中心地として栄えた町。ゲーテやシラーの旧宅や、歴史ある城や教会が保存されている。イエーナは、ワイマールから列車で15分ほどの距離に位置する。フリードリヒ・シラー大学イエーナ(通称:イエーナ大学)を擁する歴史の古い大学町であり、思想史および文学史上、初期ドイツ観念論また初期ドイツ・ロマン主義の活動拠点として重要な場所。右の写真はドイツにおけるテューリンゲン州の位置。

【ナポレオンのイエーナ侵攻とドイツ人】 
 フランス革命の衝撃以上に、ドイツおよびドイツ人にとって、またフィヒテやヘーゲルにとって決定的だったのは、ナポレオンの登場とドイツへの侵攻である。
 1799年にクーデタによってフランス陸軍の指揮権を握ったナポレオンは、その後は破竹の進撃で、1806年6月にライン同盟を結成すると、10月にはイエーナでプロイセン軍を破って進駐してきた。イエーナ大学も閉鎖される。ヘーゲルはイエーナに進軍してきたナポレオンの馬上の姿を見て、「皇帝――この世界霊が、示威のために馬で街を通り抜けていくところを、私は見ました」と書いている。
 ナポレオンその人が「世界霊」すなわち「世界史的個人」と見えたのである。同様の感想を同い歳のベートーベンも感じ、交響曲第3番《英雄》を作曲した(あとでナポレオンの凋落を知ってタイトルを取り消した)。
 このナポレオンの侵攻に対して、慄然としてドイツ人の魂の高揚を訴えた者がいた。フィヒテである。ベルリン科学アカデミーでの連続講演は『ドイツ国民に告ぐ』(390夜)として、いまなおドイツ人の血と魂を滾らせている。さきほどもふれたけれど、フィヒテはこのなかでも「知識学」の必要を強く訴え、その全貌をもってドイツ人が教育されるべきだと説いていた。
 プロイセン国王だったウィルヘルム3世もドイツ人に哲学の火を燃やすことに使命を感じ、1810年にベルリン大学を創立させ、学長(統轄者)にウィルヘルム・フンボルトを迎えた。フンボルトは大学が国民精神の養成と拠点なるべきことを訴えた。ナポレオンの侵攻によって、目覚めきれていなかったドイツ人に火が点いた。
 こうして「カント以降のドイツ哲学」としてのドイツ観念論と、ゲーテに依拠しつつもドイツ的魂を夢想するドイツ・ロマン主義の勃興が、ここに唸りを上げていくことになる。

イエーナに侵攻してきたナポレオンを見上げるヘーゲル
へーゲルがイエーナで『精神現象学』を書き終えようとしている時に、ナポレオンが市街を占領。ヘーゲルは原稿を抱いて逃げようとしたところ、馬上のナポレオンを目撃した。ヘーゲルはナポレオンに崇高の念をもち、「世界精神が馬に乗って通る」と表現した。

イエーナ近郊にて。左からシラー、ヴィルヘルム・フンボルト、アレクサンダー・フンボルト、ゲーテ(アドルフ・ミュラー画、1797年頃)

【精神現象学を仕上げる】 
 閉鎖したイエーナ大学の再開を待ちつつも、ヘーゲルはいったんニュルンベルクのギムナジウムでの校長を引き受けたりしながら、自分の構想の基台となるべき『精神現象学』をもとにして、そのまわりを論理学、形而上学、歴史哲学、法学、美学などでかためていこうとしていた。37歳前後のことだ。
 『精神現象学』は、その正式な書名を『「学問の体系」第1部「精神現象学」』という。ナポレオンの侵攻が目前に迫っていたり、フランス軍が占拠を果たしていた時期なので、ヘーゲル研究者によってかなり一挙に草稿を書いたのだろうと見られている。が、実際には「学問の体系」のタイトルにあたる書物は完成せず、第2部としてのテキストも成立しなかった。ヘーゲルはあくまで「学問の体系」の理想形を提示したかったのだ。
 このことは冒頭の矜持に如実にあらわれている。「われわれの時代が誕生の時代であり、新しい時期への移行の時代であることを知るのは、むずかしいことではない。精神はみずからがこれまで生き考えてきた世界に決別し、それを過去のうちに葬りさり、変革の作業にとりかかっている。(中略)これはなにか新しいものが近づきつつある前兆である。(中略)全体の外観を変えることのないこうした緩慢な破壊作用が、突如として日の出によって断ち切られ、新しい世界像が稲妻のように打ち立てられるのである」(長谷川宏訳)。
 新しい世界像を突如として打ち立てる宣言をすること、それが『精神現象学』の狙いだったのだ。
 ヘーゲルは何を構想して、何を書きえたのか。その狙いは何だったのか。それはたとえば、アリストテレス(291夜)のフィシカ(自然学)とメタフィシカ(形而上学)に代わるものなのか、あるいはライプニッツ(994夜)やデカルトやカントに代わるものなのか。それともフィヒテの知識学の体系に代わるものなのか。少々、問題の対象領域を分けながら説明しておくことにする。

原著『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes)
1807年に出版。カントの認識と物自体との不一致という思想を超克し、ドイツ観念論の先行者であるフィヒテ、シェリングも批判した上で、ヘーゲル独自の理論を打ち立てた初めての著書である。難解をもって知られ、多くの哲学者に影響を与えた。

【ヘーゲルが初期に立てた構想】 
 まず、自然(Natur)についてのヘーゲル以前の考え方である。ヨーロッパ哲学において、自然はもっぱらギリシア語の「ピュシス」を原型にしてきた。この言葉はピュオー(生育する)という動詞から派生したもので、生命活動に意図を見るという立場にもとづいている。
 ローマ時代になるとナトゥーラというラテン語も自然を意味するようになるが(ネイチャーの語源)、こちらも「生む」という意味から派生したもので、スコラ神学ではナトゥーラ・ナトゥラータを「所産的自然」と捉え、これをつくった神をナトゥーラ・ナトゥランス、すなわち「能産的自然」と捉えた。
 神を能産的自然とみなす考え方はスピノザ(842夜)に濃厚で、ドイツでは主にゲーテに多く開花していったと、ぼくは思っている。ゲーテの植物学や形態学はとみに能産的自然の多様なあらわれをめざしている。
 しかし、自然には人間も含まれる。そういう自然から分かれて自立していったかに見える人間という存在の系譜は何なのかといえば、それは「自然の隠れたプラン」だろうと見たのが、カントだった。
 カントは、自然を目的のある体系だとみなすのは反省的判断力によるもので、自然自体にはそういう判断力はなく、人間の理性や知性が自然に判断力を加えて文明をつくつていったとみなしたのである。
 ヘーゲルはこの見方を踏襲する。それなら、その人間に生じた意識とか自己意識はどのように説明すればいいのか。アリストテレスからカントにいたるまで、そこは突っ込んではいない。そこでヘーゲルはそこに精神現象学の起爆点をおいた。

【意識から理性へ】 
 『精神現象学』の構成は先にもふれたように、A「意識」、B「自己意識」、C「理性」というふうに進む。そしてC「理性」がさらに「精神」「宗教」「絶対知」というふうに分かれていく。これらは理性が精神という恰好をとって期待されるべき到達域(絶対知)に向かって進むレベル(レイヤーあるいはプロセス)をあらわしていた。どのように、こういうふうに進むと見たのか。
 A「意識」のレベルとは、世界に対して自覚のない状態のことで、カントもこのレベルについては言及していて「他律的」だとみなした。ヘーゲルはこういう意識は「即自的」(an sich)だと見た。世界の状態に自分の状態そのままに依存している意識なのである。
 次のB「自己意識」では自己主張が始まる。ときに自分が世界の主役であることを証明しようともする。他者に対して自己意識の優位をあらわす。そういう自己意識を、ヘーゲルは「対自的」(Für sich)だと見た。他者が意識されての自己なのである。
 それがC「理性」になると、なんとかして世界の本質に達しようとするものになる。ヘーゲルは、理性とは「自分こそがすべてにいきわたっているという意識の確信である」と述べている。
 この確信は「人倫」(Sittlichket)と名付けられた。人として守るべき道徳のことで、個人的道徳性(Moralität)に比較される。人倫は儒学用語なので、長谷川さんの訳では柔らかく「共同体精神」というふうになる。
 こんなふうな文章になっている。「自己意識が理性になるとともに、これまでの他なる存在との否定的関係が肯定的な関係へと転化する。(略)理性とは、おのれが全存在をつらぬいている、という意識の確信である」と。

【観察する理性】
 ヘーゲルは「精神とは人倫的な現実」のことだと書いたのである。そうだとすれば、人間が理性の原理に従って社会や世界を建設しようとすれば、それは世界の法則に逆らうものではなく、「われわれ」の世界像の本来に向かうものになるはずだ。
 この理性は「観察する理性」である。理性はこれまでの歴史のなかで理論という形をもって発揮されてきた「観察する理性」でもあった。どのように発揮されてきたのかといえば、ヘーゲルはそれが「精神」の現象としてあらわれ、ギリシア哲学とかライプニッツの思想とか啓蒙思想とかになってきたとみなした。「観察する理性」はそのすべてではないが、各時代の哲学者たちによって理論理性として議論されてきた。
 ヘーゲルとしては、そうした「精神の歴史」をいったん歴史的に回顧する必要があると見たい。そのうえで次の段階に進む必要があるとしたい。こういう意図だったので、この回顧のプロセスが「意識の経験を追走する」という『精神現象学』独特の記述法になっていったのだった。

【理性から絶対知へ】 
 一方、一人ずつの人間にとっては、精神の現象は感性の段階から始まり(つまり感覚や知覚の段階から始まり)、しだいに知性に及んでいくというふうにもいえる。幼児や子供の発達をみれば、このことはすぐに了解できる。
 この場合、プリミティブな感性は実体(Substanz)をそのままリンゴを見るように捉えるのだが、そのうち主体が実体を捉えたというふうになっていく。そうするとリンゴは果実や植物として深まり、そのありかたも多様になる。一般に「理解した」とか「わかった」というのは、そのことだ。
 このプロセスをヘーゲルはとくに重視した。ドイツ語の主体(Subjekt)はもともとは「下に投げられたもの、下に横たわるもの」を意味しているので、感性は主体を通して次の知性のほうへ導くバネになったともみなせる。知性は実体を分けて「分かる」状態にするのである。カントのいう判断力にあたる。
 けれども、なんであれ知性は分解してしまう傾向をもつものでもあるので、ここにはいたずらな抽象化もいろいろおこる。そこにはひからびた抽象や死んだ抽象も混じる。そこで理性がこれらの分裂や対立を統一していくという役割をもつ。これでは放っておけない。
 かくて理性はいよいよ真理をめざすことになる。真理をめざすということを、ヘーゲルは「絶対知」に向かうと捉えた。かつ、絶対知に向かうことで見いだされた真理は必ずや言語によってあらわされうると見た。ヘーゲルが真理を言語であらわしうるとみなしたことは、その後の近現代哲学の大前提になっていった。
 こうして、理性の特徴を描いた『精神現象学』は、ついで理性が宗教的なものになり、芸術的なものになりながら(自然宗教→芸術宗教→啓示宗教といった様相を見せながら)、ついには絶対知の領域に入っていくのである。
 「精神がその完全無欠な内容を、精神自身が形をとったものだと自覚し、こうして、概念(Begreifen)を実現するとともに、実現された概念をあくまで概念としてとらえるとき、それこそが精神の最終形態たる絶対知である」。「絶対知とは、自己を精神の形態として知る精神であり、概念的に思考する知である。(略」概念の地平において意識の前にすがたをあらわす精神こそが学問にほかならない」。

【絶対知に行方はあるのか】 
 絶対知がどういうものであるか、残念ながらヘーゲルは最終章になってそのことをうまく表現できてはいない。
 「精神みずからが大きな円を描いて完結を迎えているような知」とか、「自己によって捉えられることのない純粋な自己」とか、「精神が完成するということは、みずからが何であるかを、つまりはみずからの実体を完全に知るということなのだから、この知るということは精神がみずからの内に向かうということであり、そこでは精神はみずからの現実の存在を捨て去り、みずからの形態を記憶にゆだねるのである」とかと書いてはいるのだが、どうにもまどろっこしい。
 ぼくはこのあたりは、むしろ『華厳経』(1700夜)の法界論や海印三昧のほうがうまく言いあらわしているのではないかと、のちのち思ったものだ。華厳の蓮華蔵世界観は「事法界」と「理法界」を理事無礙法界から事事無礙法界にまで進捗されたのだった。「ヘン・カイ・パン」(一にしてすべて)というなら、こっちなのだ。
 ヘーゲルは『精神現象学』のプログラムによって、絶対知という自由に到達しうるとみなし、そこではどんな偶然も必然となされうると主張したのだが、だからその狙いの総体は一応は「自由の哲学」の確立をめざしたといえるのだが、残念ながら『精神現象学』で到達した世界観では、うまく「自由」を説明できなかったのである。「ヘン・カイ・パン」にならなかったのだ。
 もっとも、ヘーゲルにとってはその程度の不首尾はへいちゃらだったようだ。もともとのプランが『「学問の体系」第1部「精神現象学」』だったのである。まだ「出だし」だったのだ。だから不首尾すら感じていなかったかもしれない。ヘーゲルは第2部を解体して(組みなおして)、論理学や法哲学などの著述にあてていく。

【存在・本質・概念の論理学】 
 再開されるべきイエーナ大学で、ヘーゲルは新たな授業にとりかかる予定をしていた。予告のシラバスとしては書き上げたばかりの『精神現象学』にもとづいて、思弁哲学しての論理学と形而上学を新たに講義して、そこに自然哲学と精神哲学を含ませようというプランになっていた。
 実際にはイエーナでの授業はなく、大学を去ったヘーゲルは1808年から1816年までをニュルンベルクのギムナジウムの校長に赴任して、教育論の組み立てをしながら、予告していた『論理学』を著述することになる。
 結果、これは3部作(3冊分冊)になった。「存在論」→「本質論」→「概念論」である。
 存在論では、質と量のカテゴリーをつかって「存在-無-生成」のありかたを問い、これを「提言-否定-揚棄」という弁証法(Dialektik)に仕立てた。有名な「テーゼ→ジンテーゼ→アウフェーベン」のヘーゲル弁証法の最初の提案になった。
 弁証法用語として大流行した「アウフェーベン」(Aufheben)は、日本語では止揚とか揚棄とか、なかなかやっかいな訳語があてはめられてきたが、長谷川さんはこれは「捨てつつ持ち上げる」という意味なのだから、それがわかれば「捨てる」でもいいはずだと言う。『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)では、「種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得ることができる」というふうに考えるのが弁証法だと説明していた。
 次の本質論では、理性が展開していくときの「反省」のプロセスに注目して、事象(現象)が事象そのものの運動によって自分の内部で反転して自分のところに戻ってくるという可能性を示した。このプロセスは「反省」とも「反射」とも「反照」とも名付けられたのだが、途中の反省段階ではいったん「仮象」(シャイン)があらわれると見た。一種の「模倣」であり、「準え」である。これは興味深い仮説だ。仮象は「見えるとおりに準えられるだけでなく有るとおりに準えられる」というのである。
 これらは、アリストテレスからカントまで議論されてきた同一律・排中律・矛盾律・根拠律などの論理学的用法を、ヘーゲルなりに一新して自己と他者の関係にあてはめようとしたものだった。

【エンチクロペディに向かう】
 概念論は、以上の存在論と本質論で使われた諸々のカテゴリーを統一させ、論理が自己同一性を保つようになっていくにはどういうことを考えればいいかを議論した。
 ヘーゲルは、概念が自分で自己規定運動をして弁証法的に自己同一性を貫徹しうるはずだと見たのである。すなわち、最初に無規定な普遍があらわれ、次にその否定として規定された特殊があらわれ、そこから統一としての個別があらわれるとみなしたのだ。
 以上がヘーゲル論理学のごくごくおおざっぱな概要の概要だが、この論理学の3部作は、続いてこれらを駆使して思弁哲学と形而上学を内包できる『エンチクロペディ』に膨らんでいった。所属がハイデルベルク大学に移ってから講義されたので『ハイデルベルク・エンチクロペディ』とも呼ばれる。
 エンチクロペディとは文字通りはエンサイクロペディア(百科全書)ということであるが、ヘーゲルにとっては項目別に知識が網羅されていくことではなく、どの項目にもテーゼが孕み、そのテーゼが連鎖していくようになるべきだと思われた。明治初期に西周(にし・あまね)がエンサイクロペディア(エンチクロペディ)を「百学連環」と訳したのは有名だが、ヘーゲルはまさにテーゼ連打型の百学連環を試みたかったのである。長谷川さんはエンチクロペディを「総合哲学概説」と訳している。

ハイデルベルグの町並み
ライン川支流のネッカーの流れをへだて、古城のある美しい街を見下ろす。1816年、ヘーゲルはハイデルベルグ大学教授時代に、このあたりを散策し、思想体系の完成のための思索にふけったとされる。

ベルリン・フンボルト大学
1809年プロイセン国王フリードリヒ=ウィルヘルム3世の勅令により、フンボルトらが設立。初代学長はフィヒテ。大学の自治制度を実現し、近代の大学のモデルとされた。キャンパスには、ドイツを代表する文学者・思想家の名を彫刻した「本のオブジェ」が重ねられている(写真手前)。

【こうして法哲学へ】 
 1818年、ヘーゲルはハイデルベルク大学からベルリン大学に移った。ベルリン大学はフンボルトやフィヒテが創立にかかわった大学だ。ドイツの苦難を突破するための大学だ。
 そのベルリン大学で、ヘーゲルは『エンチクロペディ』を教科書にして「合理的自然学または自然哲学」の講義をおこない、ついで3年後、「世界史の哲学」にとりかかって、「自然法と国家学または法の哲学」の講義を計画した。
 ドイツ語の「法」(Recht)は「法であり権利であり正義である」という意味をもっているので、ここで法哲学と呼ばれているのは、法律のことだけではなく、道徳や人倫(共同体精神)を内包した世界思想あるいは世界観の基準をあらわわしていた。人倫には家族や市民社会も含まれていた。だからヘーゲルの法哲学は「自然法と国家学」という副題をもっていた。自由を実現するための基準、それが法哲学だったのだ。
 こうして、マルクスがこっぴどくやっつけたヘーゲル法哲学がいよいよテキスト化されたのである。マルクスは気にいらない。『ヘーゲル法哲学批判』(大月書店・岩波文庫)を書いた。ぼくが早稲田の読み合わせ会で出会った『ヘーゲル批判』の論文とは、この序文のところだった。

【マルクスによるヘーゲル批判】
 マルクスはこう書いた。ヘーゲルが哲学としているのは人間が外在化してきた精神の労働の成果のことである。ヘーゲルはその個々の契機を総括し、自分の哲学を真の哲学として上ることができると考えた。だからヘーゲルの哲学は絶対知に向かえた。しかし、そのような哲学は法哲学であれ歴史哲学であれ、自己意識が対象になったものにすぎない。これでは人間存在はすべて自己意識にすぎないということになる。
 「ヘーゲルの法哲学では止揚された私法は道徳に等しく、止揚された道徳は家族に等しく、止揚された家族は市民社会に等しく、止揚された市民社会は国家に等しく、止揚された国家は世界史に等しいとされる」。「しかし、ヘーゲルが哲学へと止揚する定在なるものは、現実的な宗教・国家・視線ではなく、すでに知識の対象となったものであり、法律学であり国家学であり自然科学なのである」。「一言でいえば、こうした哲学は、その哲学を現実化せずには、これを止揚できないのである」。
 ここでマルクスはドイツの国家や社会や法の実情を述べ、ヘーゲルの法哲学ではドイツは解放されえないことを強調し、それならどう考えるべきかと言って、「答えはこうである」と書く。「ラディカルな束縛をもった一つの階級を形成すること」、これなのだと言うのだ。
 この階級とは、「社会のあらゆる階層から自分を解放するとともに、社会の他のあらゆる階級を解放することなしには自分を解放することができないような、一言でいえば、人間性を完全に失ったものであり、したがって人間性を完全にとりもどすことによって自分自身を自由にすることができるような、そういう階層」を形成する階級のこと、すなわちプロレタリーアートであると結論づけるのである。
 かくて有名な宣言が下される。「哲学はプロレタリーアートを止揚することなしには現実化されえず、プロレタリーアートは哲学を現実化することなしには止揚されえない」。
 これではヘーゲルは処置なしだ。反論する余地もない。マルクスは最初からプロレタリーアートを持ち出すつもりで、ヘーゲルをやっつけたのだ。フェアでないのではない。マルクスのパンチアウトはヘーゲルを倒すには最も有効だったのだ。
 しかし他方、ぼくは早稲田時代はマルクスに惚れぼれしながらも、それでもヘーゲルが達しようとした世界観に至る方法を、いつかどこかで再解釈してみたいと思ったのである。それは読み手としての自由をまっとうしたかったからだった。けれども、その作業はいまなお果たせないままになっている。

ベルリン大学で講義するヘーゲル

【その後のヘーゲル解釈について】 
 ヘーゲルは劇症コレラによって1831年11月に亡くなった。61歳ちょっとの人生だ。
 ただちにヘーゲル学派が形成され、ゲオルグ・ガプラー(イエーナ大学→ベルリン大学)、カール・ダウン(ハイデルベルク大学)、ペーター・ファン・ゲートル(イエーナ大学→ライデン大学)、レオポルド・ヘニング(ベルリン大学)らが次々に登場した。カール・ローゼンクランツ(ベルリン大学→ハイデルベルク大学)は早くも1844年に『ヘーゲル伝』(みすず書房)を書いた。
 こうしたヘーゲル右派に対して、ヘーゲル左派として名のりを上げたのがフォイエルバッハとキルケゴールとマルクスだった。フォイエルバッハは唯物論の立場で人間学にとりくみ、そこからヘーゲルの神学的傾斜を批判した。キリスト教の神が人間から切り離されて人間性をむしり取ったことを痛烈に衝いた『キリスト教の本質』(岩波文庫など)は、マルクスとエンゲルスにかなり大きな影響を与えている。
 デンマークの青年ヘーゲル派にいたセーレン・キルケゴールは僅か42歳の生涯だったが、父ミカエルが篤実なクリスチャンで、かつ自分は「神の怒りを買った」と思っていたことに、少年期から疑問をもち、のちに『おそれとおののき』を綴った。ヘーゲルについては、ヘーゲルが「あれもこれも」だったことに対して「あれか、これか」を突き付けた。
 二律背反や矛盾律の只中にとびこみ、「不安」や「絶望」をこそ源泉とする哲学を思索したのだ。キルケゴールの『不安の概念』や『死に至る病』(白水社全集、岩波文庫など)はその後は実存哲学の黎明とうけとめられているが、人間の存在を無限者とみるか有限者とみるかという推論や、また「人間を自分自身を問題にする関係者」とみる見方において、つまり主体性の本質をどうみるかという見方において、現代思想のすべての源流になっている。
 マルクスはさまざまな文章でヘーゲル批判を敢行したが、『聖家族』では「ヘーゲルは世界を頭で立たせて、頭の中ですべての制限を解消させている」とも書いた。まさに頭蓋の中の追走学だと言ったのである。

【20世紀のへーゲリアンたち】
 20世紀になってからもヘーゲルをどう読むかという議論は継続されている。とくにカッシーラーとその門下のブルーメンベルク(1519夜)はヘーゲル哲学のエンジンを象徴や暗喩におきかえた。
 アレクサンドル・コジェーヴは1933年から6年にわたって『精神現象学』の講義をパリの高等研究実習院でおこなった。聴講生にはアンドレ・ブルトン(634夜)、ジョルジュ・バタイユ(145夜)、メルロ=ポンティ(123夜)、ジャック・ラカン(911夜)、レイモン・アロン、ロジェ・カイヨワ(899夜)がいた。コジェーヴの講義は『ヘーゲル読解入門』(国文社)になっている。

アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(国文社)

コジェーヴの講義をうけた思想家たち
左上からアンドレ・ブルトン、ジョルジュ・バタイユ、メルロ=ポンティ、ジャック・ラカン、レイモン・アロン、ロジェ・カイヨワ

 スラヴォイ・ジジェク(654夜)はヘーゲル哲学をラカンの鏡像理論によって読み、「実体は主体である」を導いた。
 そのほか、ジュディス・バトラーからマルクス・ガブリエルまでが、ぼくが見るに「ヘーゲルの傘」の中を出入りしているとおぼしい。新実在論のニューフェイスとして登場したガブリエルは、あらゆるものは存在するが、あらゆるものを規定する全体、つまり「世界」だけは存在しないという表明で話題になったけれど、これはヘーゲル学が絶対者や絶対知によって世界を律したところ、そこをスボッと抜き去ったのである。
 もうひとつ、大きく「ヘーゲルの傘」を感じるのは生命科学の分野であるのだが、こちらは話が広がりすぎるので、今夜の苦い話には入れないでおくことにする。
 ヘーゲルの新たな解釈については、今夜の訳者である長谷川宏の『ヘーゲルを読む』(河出書房新社)、『格闘する理性』(洋泉社)、『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)とともに、大橋良介の自在な一冊『絶対者のゆくえ』(ミネルヴァ書房)や寄川条路がまとめた『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房)などをぜひとも参照されるといいと思う。

ベルリンにあるヘーゲルの墓
ヘーゲルの生前の希望により、ベルリンのドローデン墓地に先に逝ったドイツ観念論の哲学者フィヒテ夫婦の墓の隣りに葬られている。

⊕ 精神現象学 ⊕

∈ 著者:G・W・F・ヘーゲル
∈ 訳者:長谷川宏
∈ 装幀:菊池信義
∈ 発行者:高木有
∈ 発行所:作品社
∈ 本文印刷:図書印刷
∈ 扉・帯等印刷:栗田印刷
∈ 製本所:小泉製本
∈∈ 発行:1998年3月10日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ まえがき
∈ はじめに
∈ A.意識
∈ Ⅰ.感覚的確信 ― 「目の前のこれ」と「思いこみ」
∈ Ⅱ.知覚 ― 物と錯覚
∈ Ⅲ.力と科学的思考 ― 現象界と超感覚的世界
∈ B.自己意識
∈ Ⅳ.自己確信の真理
∈ A.自己意識の自立性と非自立性 ― 支配と隷属
∈ B.自己意識の自由 ― ストア主義、懐疑主義、不幸な意識
∈ C.(AA)理性
∈ Ⅴ.理性の確信と真理
∈ A.観察する理性
∈ a.自然の観察
∈ b.純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察
∈ c.自己意識と身体の関係 ― 人相学と頭蓋論
∈ B.理性的な自己意識の自己実現
∈ a.快楽と必然性
∈ b.心の掟とうぬぼれの狂気
∈ c.徳性と世のならい
∈ C.絶対的な現実性を獲得した個人
∈ a.精神の動物王国とだまし ― 価値あるもの
∈ b.理性による掟の制定
∈ c.理性による掟の吟味
∈ (BB)精神
∈ Ⅵ.精神
∈ A.真の精神 ― 共同体精神
∈ a.共同の世界 ― 人間の掟と神の掟、男と女
∈ b.共同体にかかわる行動 ― 人間の知と神の知、責任と運命
∈ c.法の支配
∈ B.疎外された精神 ― 教養
∈ Ⅰ.疎外された精神の世界
∈ a.教養と、現実の教養世界
∈ b.信仰と純粋な洞察
∈ Ⅱ.啓蒙思想
∈ a.啓蒙思想と迷信とのたたかい
∈ b.啓蒙思想の真実
∈ Ⅲ.絶対の自由と死の恐怖
∈ C.自己を確信する精神 ― 道徳
∈ a.道徳的世界観
∈ b.すりかえ
∈ c.良心 ― 美しい魂、悪、悪のゆるし
∈ (CC)宗教
∈ Ⅶ.宗教
∈ A.自然宗教
∈ a.光の神
∈ b.植物と動物
∈ c.職人
∈ B.芸術宗教
∈ a.抽象的な芸術作品
∈ b.生きた芸術作品
∈ c.精神的な芸術作品
∈ C.啓示宗教
∈ (DD)絶対知
∈ Ⅷ.絶対知
∈ 詳細目次
∈ 人名索引
∈∈ 訳者あとがき

⊕ 著者略歴 ⊕

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)

1770年8月27日 - 1831年11月14日。ドイツの哲学者。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

⊕ 訳者略歴 ⊕

長谷川宏(Hiroshi Hasegawa)

1940年、島根県生まれ。1968年、東京大学文学部哲学科博士科修了。主要著書=『ヘーゲルの歴史意識』(紀伊國屋書店)、『格闘する理性』『同時代人サルトル』(河出書房新社)、『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)。主要訳書=フッサール『経験と判断』、ヘーゲル『哲学史講義』(河出書房新社)、ヘーゲル『歴史哲学講義』(岩波文庫)。

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