才事記

マダム・エドワルダ

ジョルジュ・バタイユ

角川文庫 1979 1988

Georges Bataille
Madame Edwarda 1937
[訳]生田耕作

 バタイユは過激な西欧批判者の西欧者である。なぜバタイユがそうであるのかは、容易には説明できない。
 ぼくはフランス文学科の室淳介が翻訳中だったバタイユに学生時代に出会ったのだが、それ以来、バタイユほどぼくを引き寄せ、バタイユほどぼくを遠ざける思想者はいなかった。

 いろいろの符牒は、ある。しかし、その符牒は互いに矛盾しあっている。
 たとえばバタイユが生まれたとき、父親は梅毒を患って全盲状態で、かつ半身不随だった。そこでバタイユは不在の父を透視しつづけた“眼球の父”になった。第一次世界大戦勃発直後、17歳のバタイユは入信して敬虔なカトリック教徒になったが、27歳のときはすっかり信仰を捨てた。バタイユは棄教者であり、背教者なのである。
 青年バタイユはパリの古文書学校にいたし、パリ国立図書館の司書でもある書物フェティッシュだった。けれどもそのころ耽読したのはニーチェと、ニーチェが死んだ年に『夢分析』を書いたフロイトだった。バタイユはまた気の早いシュルレアリストであって、ブルトン批判者でもあったが、そのシュルレアリストであったころ、ほとんど精神分析医の手にかかっていた分裂者でもあった。
 バタイユは反スターリニストでもある。実際にも1936年に結社「コントル・アタック」(反撃)を結成した。が、それが挫折すると、今度は一転して“神が不在の宗教”の創製にむかって、「無頭人」(アセファル)という秘密結社をつくった。バタイユは誰もが手をつけない組織のオルガナイザーだったのである。そのひとつ「社会学研究会」にはロジェ・カイヨワとミシェル・レリスが参加した。
 これだけの符牒でもそうとうに手に負えないのだが、ここまではまだ本気のバタイユは出てこない。
 バタイユは結婚してからもっと過激な矛盾を演じていくことになる。結婚相手は11歳年下で、6年で離婚。こんなことはどうでもよいことではあるが、離婚した相手のシルヴィアがその後に誰に走ったかということを知ると、ほっておけない。彼女はバタイユを捨ててなんとジャック・ラカンと結婚したのだった。その前後に書いた処女小説が醜悪で悲惨な父親を描いたグロテスクな『眼球譚』である。その眼球は何も見てない。

 バタイユを変えたのは友人のモーリス・ブランショだった。そのころのバタイユは自分で「内的体験」と称していた神秘的な瞑想体験に耽っていた。ブランショはその内的体験そのものが権威であると指摘した。
 ここからバタイユは「非-知の哲学」「機会の意志」というものの編集に賭けていく。「非-知」は“non-savoir”の訳である。ニーチェがヒントになったが、バタイユの思索はニーチェの超越のためのものでもあった。『内的体験』『有罪者』が連打され、西欧の人間哲学が長きにわたって看過してきた偶然性や瞬間性に、無用性や無意味に向かい、その奇跡的な回復を企てた。
 バタイユが捨てたのは西欧の基礎を支えてきたラテン語とキリスト教である。この二つが西欧の「理性」を構築している以上、これを破壊することがバタイユの任務となった。逆に、ラテン語世界とキリスト教世界にいる者から見れば、バタイユこそがおぞましい反逆者であった。

 ブランショとの邂逅以来、バタイユは西欧理性に対抗するものとして、最初のうちはマルクスの影響もあって「低い唯物論」とか「低い物質」という用語をつかう。「低い物質」とは、人間と自然界の底辺にひそむ非理性的な力のことである(酒井健)。バタイユはこれ以降、つねに理性と対立する者となっていく。有罪者となっていく。
 理性に対立してどうするかといえば、バタイユは消費する。生産ではなく消費だった。それを「蕩尽」として称揚した。これはのちに『呪われた部分』のサブタイトルに象徴された「普遍経済学」の試みの第一歩でもあった。

 しかし、理性との対立、生産との対立を企画したバタイユは、そのことを論証する推論の行方というものにも否定項をもたらそうとした。『内的体験』に、こう書いている。
 「私が導入した思考の仕方においてたいせつなものは、けっして断言なのではない。自分が語ることを私はたしかに信じてはいる。けれども私は、自分のなかに、断言がもう少し先のところで消滅することを欲している運動があることを知っている。万が一、思想史のなかに私の位置を設ける必要がでてくるとしたら、それは、私が人間の生における“推論的現実の消滅”の諸効果を見極めたこと、そしてこれらの効果の記述からきえゆく光を引き出したことによるだろう」(酒井健訳)。
 新しい理論を構築すると言っているにもかかわらず(たとえば普遍経済学といったような)、その断言が推論に向かわずに消滅するだなんて、まさにバタイユは理性をからかっているか、あるいは本人が葛藤自体のなかにあるにちがいない。そこがバタイユをわかりにくくさせている。
 ともかくも、こうしてバタイユはぼくを惹きつけ、そして遠ざけてきた。少なくとも、その思想の意味は、である。しかしながら、バタイユについては以上の議論とは別に、ぼくがひたすら純粋に容認しているところがある。それがバタイユのエロティシズムというものだ。

 そこで、本書である。
 本書にはいくつかのバタイユ作品と論文が収録されているが、なかで最も初期の作品は『眼球譚』(Histoire de I'oeil)である。よく知られているように、これがロード・オーシュの匿名で発表されたバタイユの処女作にあたっている。すでに書いておいたように、これは父親の苛酷なイメージを露出したものだった。
 ぼくはこの初版本をピエール・ド・マンディアルグにせがんで見せてもらった。マンディアルグの書斎はすばらしい書棚が波打っていて、その隣にはボナ・マンディアルグのアトリエが続いている。その部屋の片隅にはロートレアモンの言葉通りの、解剖台の上にミシンと蝙蝠傘が実際に組み立てられたオブジェが置かれていた。
 そんな部屋ではぼくでなくともついついバタイユの初版本が見たくもなろうというもので、マンディアルグも東洋の片隅の三島由紀夫の国からやってきた日本人の希望に応え、うんうんと言って取り出してきてくれた(実はもっといろいろの本を見せてもらったのだが、それはマンディアルグの項目で説明することにする)。
 で、その『眼球譚』の初版本(1928)には、アンドレ・マッソンのリトグラフィが7、8枚内装されていた。
 マンディアルグはそれを感心して見るぼくを尻目に、フッフッと笑い、「セイゴオ、再版本にはもっといい版画がついているんだ」と言って、それも取ってきてくれた。そこにはハンス・ベルメールの銅版画が5、6枚ついていた。

 表題の『マダム・エドワルダ』については、よくフランス文芸にはロマン・ノワールの伝統があり、それにバタイユが調理を加えたということになっているが、ロマン・ノワールを暗黒小説と訳してしまっては元も子もないように、バタイユの小説をロマン・ノワールと見ても、何にもならない。
 この作品はジョルジュ・バタイユのエロスはタナトスであるという神髄を最も短くあらわしている。なぜなら、これはまさしくポルノグラフィそのものであるからだ。
 話の筋はかんたんで、町の片隅で男が娼婦マダム・エドワルドの股間を覗く。男は欲情したままに、娼婦が女陰を自分の指で開きながら「ほらね、あたしは神様よ」と言うので絶顛にのぼりつめようとするのに、のぼりつめられずに、ふとヘーゲルの絶対知を思い出す。たったこれだけである。のぼりつめたのはバタイユではなく、マダム・エドワルドのほうだったのである。
 本書に収録されたシンポジウム『エロティシズムと死の誘惑』にでも言及されているように、バタイユのエロスはロマン・ノワールではない。禁制を破り、おのれをその只中に拡張するところの、まさにアナキズムなのである。このことは、ほんとうにそうかなとおもうほど逆説めくのだが、バタイユはエロスから自由なんかは生まれないと考えている有罪者なのである。

¶ジョルジュ・バタイユの著作はほぼ翻訳された。清水徹・出口裕弘が編集した『バタイユの世界』(青土社)も刊行されて、そこではコジェーヴ、レリス、バルトフーコー、デリダ、クロソウスキー、ソレルスらのバタイユ論が読めるだけではなく、いくつかの未紹介論文も訳出された。ノン・サヴォワールについての議論がさらに立体的に読みとれる。また、パリ大学から帰ってきたばかりの精鋭・酒井健の『バタイユ』(現代思潮社)や、わかりやすい『バタイユ入門』(ちくま新書)といった、最近の視点による研究や案内も出ている。ぼくは1967年に出口裕弘が訳し、中西夏之が装丁した『有罪者』(現代思潮社)からバタイユに入ったのかとおもうが、残念ながら誰ともバタイユについて交わしてこなかった(いや、いま思い出したが、20年前に栗本慎一郎と経済人類学と普遍経済学を比べて議論したことがあった)。いつか誰かとバタイユ問題を交わしたい。なぜならぼくには、ニーチェやバタイユの「力」がいささか強すぎるのではないかという、ちょっとした疑問があるからだ。