才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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女の一生

ギイ・ド・モーパッサン

新潮文庫 1951

Guy de Maupassant
Une Vie 1883
[訳]斎藤昌三

 聖人カレンダーには「一八一九」と金文字が記されていた。ジャンヌは鉛筆でカレンダーのうちの最初の四段を消し、五月二日のところまで黒々と線を引っぱった。五月二日は昨日のこと、ジャンヌが五年間をすごした修道院の寄宿舎を出た日にあたる。
 ジャンヌは背が高く、ブロンドの髪、薔薇色の肌、陶器オランダ人形のような青い目、左の小鼻と顎の右側に小さなホクロをつけて、笑えばまわりが陽気になるほどの声をもっていた。以前は三一もの農場をもっていた父親の男爵シモン゠ジャックは、一人娘のジャンヌに屋敷のひとつをあげるつもりで、ノルマンディ特有の白い石造りの、二階には廊下をはさんで十室も部屋のある家にジャンヌを連れてきた。この宏壮な建物の一階右奥がジャンヌの部屋だった。
 ジャンヌは四隅に蝋光りのする大きな鳥がいるベッドを見て狂喜した。その夜は窓の外の月光が照らす庭さえ夢か神話のようで、いよいよ自分に幸福の予兆があることを思うと、ほとんど寝付かれなかった。あとは、いい人に出会いさえすればいい。
 
 ジャンヌはその夜のことほどおぞましく感じたことはなかった。子爵ジュリアンは男に嫌われるほどの美男子ではあったが、その毛深い脚がベッドの脇からさしこまれたとき、思わず飛び上がり、ついでその毛むくじゃらの手が乳房を揉みしだくのを耐えているうちに、それまでのすべての陶酔の夢があたふたと形をなくした幻影となって消えていくのを知った。
 そして、鼾をかいて傍らで眠っている夫の顔を見て、これが侮辱というものであることがはっきり了解できた。おぞましさの発動だった。
 束の間の歓喜がないわけではなかった。コルシカ島への新婚旅行で、紅い花崗岩の絶壁に囲まれた入江に着いたときのことである。ジャンヌはなんだか溢れるような感動をおぼえ、涙をこらえることができなかった。夫はといえばこういうときの女の涙の意味がまったくわからず、ただ胴に手をまわし唇を求めてくるだけだった。それを押しのけているうちに、ジャンヌは霊感のようなものをおぼえ、清水を口に含んで夫の口に移していた。
 その夜、ジャンヌの予想に反して歓喜がやってきた。それは夫によるものではないらしい。自分の体のなかの反応なのだ。二ヵ月にわたった旅行から帰ってみると、もうジャンヌにはすることがなくなっていた。夫のジュリアンも役柄を終えた役者のごとく、ただの素顔の男になっていた。
 
 雪が降り積もる夜のこと、ジャンヌは凍え死ぬのではないかというほど震えていた。暖炉に薪をくべ、何枚も着物を重ねてみたものの、とても生きた心地がしない。
 小間使いのロザリーを呼ぼうと呼鈴を押しても、いつまでも応答がない。きっとこのまま死んでしまうのではないかという恐怖にかられたジャンヌは、仕方なく夫の部屋に行くことにした。そこで、消えかけた暖炉の明かりに仄暗く見えたのは、夫の頭と並んでいるロザリーの頭であった。気が動顛したジャンヌは家を飛び出し、裸足のまま雪の上を走り続ける。
 熱病に罹ったらしいジャンヌを母親と医者は慰めた。ジャンヌは熱病の原因を知るべきではなかった。医者はジャンヌが妊娠していることを静かに告げた。一方、司祭の立ち会いのもとに訊問された小間使いのロザリーは、旦那さまのジュリアンがずっと以前から自分を求め続けていたことを白状した。やっとの思いでジャンヌは訊いた。「わたしたちが旅行から帰ってからも、おまえは夫と関係したの?」。ロザリーは俯いたまま答えた、「お帰りになった晩にいらっしゃいました」。ロザリーの産んだ子の父親がジュリアンであることも明かされた。
 やがてフールヴィル伯爵夫妻がしばしば遊びにくるようになり、ジャンヌも気を紛らわすことができるようになった。それとともに、青白く美しい夫人とジュリアンがしばしば馬の遠乗りを愉しむようにした。ある日、伯爵がやってきて「家内はここにいますでしょうな」とジャンヌに言った。「いいえ、今日はずっとお見かけしておりません」と答えると、伯爵が唸った、「何ということを。あなたのご主人だ」。
 熊のように大きな体躯の持ち主の伯爵は丘の上の羊飼いの車輪付き移動小屋をめざして駆け上がり、そこに二頭の馬がつながれているのを発見した。伯爵は馬の手綱を抜き身の短刀で切ると、そっと中を覗き、しばしののち閂をしっかり閉めたうえで移動小屋を一気に動かし、急斜面の谷底に突き落とした。付近の農家の連中が駆けつけてみると、大破した小屋の中には血まみれの男と女の死体があった。
 
 それでもジャンヌはわが子が生まれると、人が変わった。息子ポールを熱狂的に愛したのである。どんな危険もポールに近づけようとせず、どんなささいなことでもポールを庇った。
 ポールはほとんど勉学をしなかった。何度も落第し、なんとか最上級のクラスに進めたときは、すでに二十歳にもなっていた。金髪でみかけは立派なポールには口髭が似合っていて、それがジャンヌの自慢であった。そんなときみすぼらしい老人がやってきて、一枚の紙切れを見せた。ポールがお金を工面してほしがっているらしい。ジャンヌと男爵はさっそく学校へ行ってみたが、もうずっと学校には来ていないという。
 ポールは情婦の家で発見された。屋敷に連れ戻されたポールは、それでも何かというと行方をくらまし、今度はロンドンから一万五〇〇〇フランを送ってほしいと手紙をよこしてきた。ジャンヌは息子の言うとおりのことをする。気がつくと、ジャンヌの美しい髪は真っ白になっていた。
 そのうちジュリアンの財産相続が決まり、ポールは十二万フランの遺産を得た。息子は増長し、金を湯水のごとく浪費して、またまたジャンヌに八万五〇〇〇フランの無心をしてきた。男爵は土地を抵当にして金を工面し、ポールはそれを元手に汽船会社をつくった。三ヵ月後、会社は二三万フランの負債をかかえて破産した。
 ジャンヌと男爵は残る屋敷と農園を抵当に入れ、ポールの前進を妨げないようにした。なぜ自分はこんなことばかりしつづけているのか、ジャンヌはもはや人並みの判断力を失っていた。その事務手続きをしている最中、男爵は脳溢血で倒れ、ジャンヌが駆けつける前に息を引き取った。
 その日、ジャンヌは屋敷を片付け、荷物を積み込み、街道に面した小さな家に引っ越した。陰鬱な物思いにふけるばかりのジャンヌは、あるとき屋根裏部屋で昔のカレンダーを見つけた。「一八一九」としるされている。あの年のことだ。そこには、ジャンヌが寄宿舎を出た日まで線を引いた聖人カレンダーがそのままにあった。ジャンヌの目には涙がいっぱい溢れてきた。
 ふいにジャンヌは自分がこれまで生きてきた日々を、もう一度見たいと思った。それしかあるまいと感じた。そして恐ろしいことを始めた。カレンダーを一日ごとに壁にピンで留め、このとき何があったかをひとつずつ思い出しはじめたのである。
 
 ギイ・ド・モーパッサンは一八五〇年にノルマンディ地方で生まれた。父との仲に破綻がおとずれた母はギイと弟を連れて別荘に入り、ここで文学教育を施した。
 実際のモーパッサンの文学の師は母の友人で名付け親でもあったフローベールだ。パリに出てからの七年間、モーパッサンが書いた作品のすべてがフローベールの目を通っている。紅葉と鏡花の関係に近い。
 フローベールが教えたことは、たとえば次のようなことだった。「もしも一つの独創性をもっているなら、なによりもまずそれを引き出さなければならない。もしもっていないなら、なんとかしてその一つを手に入れなければならない」「燃えている火や野原の一本の木を描写するには、その火や木がほかのどんな火や木にも似ていないものになるまで、じっとその前に立っていなければならない」。
 一八七四年、フローベールからエミール・ゾラを紹介された。すでに名声も収入も得ていたゾラは、パリ郊外のメダンに別荘を買い求めてユイスマンス、セアール、エニック、モーパッサンたちを呼び、「メダンの夕べ」という文学サロンを開いた。このときのモーパッサンの最初の傑作が『脂肪の塊』(岩波文庫)である。一八七〇年の晋仏戦争に一兵卒として参加して、惨めな体験をしているのだが、その厭戦体験を描いた。
 それから十年間にわたってモーパッサンは男と女をめぐる小説を書きつづけ、フローベールとゾラが教えたことをさらに徹して没個性的な文体作法を完成させた。想像されているよりも文学理論で脇をかためてもいる。このことは『ピエールとジャン』(新潮文庫)の序文の小説論によくあらわれている。
 やがてモーパッサンに「心の病い」が忍び寄るようになっていた。怪奇小説『オルラ』を書いているうちに気がおかしくなると、やがてネルヴァルと同じ病気で、同じ病院で死んだ。なんと四二歳だった。

 二、三、感じてきたところを綴っておく。
 モーパッサンのデビューは偶然に乗りあわせた娼婦を描いた『脂肪の塊』だが、これは普仏戦争のあとに書かれたもので、日本でいえば幕末維新の時期にあたっている。ヨーロッパにおいて、フランスがフランスの、ドイツがドイツの「自決の感覚」をもつのは、普仏戦争のあとからで、ゾラやモーパッサンの作品群はこの戦争の「むなしさ」と表裏一体になっている。
 この時代はまた、空想社会主義の残響とアナルコサンジカリズムの労働者の動向とマルクスの共産主義とバクーニンのアナキズムが社会のそこかしこを「明日をも知らぬ思想戦線」に巻きこみ、小さな凱歌と挫折をくりかえしていた時期でもあって、これはナポレオン時代と第二帝政時代が生んだバルザックやスタンダールやユゴーとは、おのずと切迫するものが異なっていたということである。それにもかかわらず「女という作品」が十九世紀フランスの文芸にみごとに結実していったことは、ぼくが早稲田のフランス文学科でまっさきに実感したことだった。
 モーパッサンは短編が珠玉のようにすばらしい。その珠玉は傷がついていて、フラジャイルなのである。そこがいい。たとえば『初雪』(高山鉄男編訳『モーパッサン短編選』岩波文庫)という作品は、肺を患う若い妻がカンヌの海辺に療養に来ながらもさらに青ざめ、白い指を透かせているという描写のなかで、夫への復讐をしそこねたことを美しく悔やむという、なんとも切ないものになっていて、なるほど芥川は一部始終を倣ってみたくなっただろうなと思わせるのである。
 一八七四年に第一回印象派展が開かれ、モネの《印象・日の出》などが出品された。このときモーパッサンは二三歳で、その後は印象派とともに執筆が続いた。このことはユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』や『レ・ミゼラブル』が写真家ナダールがパリを撮り始めた時期と一緒だったということとともに、何かを同期させている。印象派の「湿潤」はモーパッサンの「湿感」に、どこかで共鳴しあっていた。