才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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149人の美しいセオリー

エッジ/ブロックマン

青土社 2014

John Brockman
The Explains Everything-Deep,Beautiful and Elegant Theories of the World Works 2013
編集:渡辺和貴
装幀:岡孝治

勇敢な科学者たちがわれわれにもたらしたこと、それは「世界」についての「見方」はどういうものであるかということである。ぼくがほぼ半世紀以上にわたって科学の成果と科学者の考え方に関心をもってきたのも、ひとえに編集的世界像のための「見方」を教えてもらうためだった。まとめて「見方のサイエンス」と呼んでいる。

 ぼくは科学一般ではなく、科学の基礎をつくろうとしてきた者、あるいは未知の科学に挑んだ者をリスペクトしてきた。それは「遊」9・10号(のちに『遊学』中公文庫)や『自然学曼陀羅』(工作舎)を書いたときから、いや少年時代に『キュリー夫人伝』や中谷宇吉郎(1夜)を読んだときから変わらない。
 科学者たちは、ニュートンが『プリンキピア』第3篇冒頭に告白していたように、何かの覗き穴や隙間から「世界」を見てきた。いったい「世界」がどういうものか、きっとこういうものだろうと決めたのは、神話と宗教と一部の哲学と科学だった。
 覗き穴や隙間はいろいろだ。そこから奇妙なかたちや意外な現象が見えてきた。
 顕微鏡の倍率によって見えるものが異なること、サルの種類の多さ、水道の蛇口を少しずつ開くと水流のねじりが変化すること、海底のブラックスモーカーが見せるもの、四則演算記号で始まった数学の予想をこえる展開、驚くべき昆虫の変態、二輪の自転車が倒れない理由、電磁気やモノポールの存在、光合成がはたしているとんでもない役割、遺伝子が情報を複製し誤植していたこと‥‥。さまざまな覗き穴と隙間から、さまざまな挑戦状が届いてきた。
 科学者はそうした挑戦に答えたのではない。せっせと挑戦状を書き、左見右見して問題をつくったのだ。
 そうした勇敢な科学者たちがわれわれにもたらしたこと、それは「世界」についての「見方」はどういうものであるかということである。ぼくがほぼ半世紀以上にわたって科学の成果と科学者の考え方に関心をもってきたのも、ひとえに編集的世界像のための「見方」を教えてもらうためだった。まとめて「見方のサイエンス」と呼んでいる。

 ジョン・ブロックマンは1981年に「リアリティ・クラブ」をつくり、かのジョセフ・プリーストリーが創設したルナ・ソサエティに匹敵する知的会合をいろいろな場や場面で開いてきた。1997年にクラブはオンラインになって「エッジ」(Edge)という名になった。
 ルールはひとつ。メンバーみんなでリベラルアーツのどの分野からでもいいから、さまざまな「推測」を提起していこうというものだ。そのため、毎年、スペキュラティブなお題が出された。たいへんスマートで、すこぶる編集工学っぽい方針だ。なんといっても「推測」を大事にしたところがいい。
 2012年のお題はハーバード大の認知心理学者スティーブン・ピンカーが提案した。「お気にいりの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何か」というものだ。ルールを問いたがるピンカーらしいありきたりなお題ではあるが、「エッジ」ではこの正面切った問いがモノを言う。本書はこのお題に各界の猛者たちが答えたものである。
 深遠で、かつエレガントで美しいという判断は、なまなかな推測では持ち出せない。通りいっぺんではエレガントで深遠なものは出てこない。ただし、お気にいりなものなら誰だってかなりある。2012年分は149人が回答を寄せた。
 それを長谷川真理子さんがたのしく訳した。ぼくはハセマリさんの考え方のファンなので、ハセマリさんの本や翻訳ものはたいてい読んでいる。だからこの本もすぐ読んだ。ハセマリさんは「こんなに知的に興奮して楽しんだ読書もまれである」とあとがきに書いていた。
 実際にはそんなものかよという回答もまじっているが、なかで気になったいくつかの応答を摘まんで紹介する。原書は回答順の掲載になっているのだろうが、ここではぼくの好みの順にした。

 お断りしておかなければならないことがある。千夜千冊では同じ著者や編者の本を採り上げないという方針なのだが、すでにジョン・ブロックマンについては1572夜で『2000年間で最大の発明は何か』(草思社)を採り上げた。だから、今夜はこのタブーを破ったと思われるかもしれない。
 しかし、実はそうではない。ジョン・ブロックマンはある時期から「ブロックマン」というパプリッシュ・コンポーネントとしてのエージェントになり、同時に「エッジ」というメンバーボードにもなっている。束になったのだ。それは一種の知的編集共同体なのである。それゆえ今夜の本書は、この知的編集共同体のメンバー一人ひとりが著者たちなのだ。
 こういう在り方はたいへんにすばらしい。ぼくも1975年ころにささやかな「ジャパン・ルナ・ソサエティ」を遊んだり、その後は「伝習座」や「連塾」や「纏組」を作動させたりもしたが、いずれも内々のものだった。できればそろそろ半ば公然の、もっとありていにいえば公私混同が平ちゃらの、ボードやキャビネットとともに在りたいと思うようになっている。
 まあ、どちらにしても、新春の今夜はハセマリさんが絶賛している「見方のサイエンス」を放射した本を紹介しないではいられない。

   *  *  *  *  *

 ジェイムス・J・オドンネル(ジョージタウン大学副学長/古典学)=プトレマイオスによる天体の説明がいい。つまり天動説の説明設計だ。その後の天文学はこのプトレマイオスの説明にすべてを負っている。

 バート・コスコ(南カリフォルニア大学/電気工学)=最も深遠な説明は、なぜ太陽がいまも輝き続けているのかということに関するものだ。太陽が水爆同様の熱核融合をしているということ、すべての存在についての考察はここから説明を始めなければならないだろう。

 アンドレイ・リンデ(スタンフォード大学/カオス理論)=「なぜ宇宙に謎が多いのか」ではなくて、「なぜ宇宙は理解可能なのか」ということについての説明が大切だ。実は、われわれが勝手に宇宙原理をつくって理解可能にしたのである。実際には理解不能だが存在可能な宇宙は、いくらだってある。とくにわれわれは、そろそろマルチバースの宇宙についての理解に向かうべきである。

 マックス・テグマーク(MIT/宇宙論)=アラン・グースのインフレーション理論が説明したこと。そこには、宇宙進化のシナリオはこれでいいのか、できれば無限という概念を葬り去るべきなのか、マルチバースな宇宙をどう語ればいいのか、という問いが含まれていた。

 ケヴィン・ケリー(元「ワイアード」編集長)=われわれがすべからく核融合の副産物であると認識すること。それが説明されるべきことだ。

 ニコラス・A・クリスタキス(ハーバード大学/物理学)=空が青い理由をみんなが挑んできた。そしてアリストテレス(291夜)、ダ・ヴィンチ(25夜)、ベーコン、ケプラー(377夜)、オイラーたちを悩ませてきたが、これをレイリー卿は「光の波長が気体分子の大きさと同じ次数であるとき、散乱光の強さは波長の4乗に反比例する」という説明で解いた。レイリー散乱の理論だ。青や紫の短波長の光は長波長の光よりも強く散乱するのである。

 フィリップ・キャンベル(「ネイチャー」編集長)=レイリー散乱についてレイリー卿の説明がすばらしい。

 ポール・サフォー(スタンフォード大学/技術予測)=ウェーゲナーのプレートテクトニクス理論の説明に王道がある。エレガントな説明というものは、古いパラダイムの接着剤を除去し、新しい理論が根を張るための場所をつくる。それはトマス・クーン的溶液なのである。

 アリン・アンダーソン(元「ニューサイエンティスト」編集長)=地球には、生命史や社会史をはるかに上回るディープタイムが蓄積されている。このことを最初に告げたのは地質学者ジェイムズ・ハットンの水成説だった。われわれはいまこそハットンの説明に耳を傾けるべきだ。

 スコット・サンプソン(科学コミュニケーター/古生物学)=なんといってもジェームズ・ラブロックとリン・マーギュリスが提起したガイア仮説がエレガントで美しい(414夜)。地球はガイアによってみごとなフィードバック・ループをつくってきたのである。しかし、ガイアが生命に似た生態系を形成しているかどうかは、まだわからない。

 カール・ジンマー(科学ジャーナリスト)=ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)が熱力学によって地球年齢を測れるとした説明はたいへん美しかったが、その説明をあてはめる地球モデルの解釈がまちがっていた。エレガントであることとその適用対象が正しかったかどうかは、別のことなのである。

 ダニエル・C・デネット(タフト大学/認知科学)=たとえば、なぜウミガメの一部は回遊するのかということを述べる説明を挙げたい。何に「なぜ」をつけるのかということで、説明の大半の仕組みが決まる。

 リー・スモーリン(ペリメーター研究所所長/物理学)=慣性の法則。慣性の法則こそ、なぜ私たちが地球の動きを知覚できないかを説明する唯一の法則だ。正確には次のようになる。「すべての自由な物体が相対的に停止しているか、もしくは一定の速度で直線運動しているように見える特別な観察者が存在する」。これらとガレリオの相対性原理とマッハ(157夜)の等価原理を組み合わせれば、アインシュタイン(570夜)の相対性理論の基本が組み上がる。

 ポール・スタインハート(プリンストン大学/物理学・天文学)=科学における真のエレガンスに出会えたのは、ヘルマン・ワイル(670夜)の『シンメトリー』を読んだときだった。ワイルは結晶を説明するのに群論がいかに使われるかを論じ、のちにユージン・ウィグナーが「自然科学に対する数学の非合理的な有効性」と名付けたものをみごとに説明してみせた。

 フランク・ウィルチェック(MIT/理論物理学)=対称性をめぐる説明。対称性は物理法則のなかで中心的な位置を占めている。今後、情報数学が発達していっても対称性の問題を避けるわけにはいかない。

 リサ・ランドール(ハーバード大学/物理学)=やはりヒッグズ機構(1506夜)を予測した南部陽一郎らの「対称性の自発的破れ」についての説明がたいへんに美しい。世界は対称性の破れによって創発してきたにちがいない。

 セス・ロイド(MIT/量子力学エンジニアリング)=空間の対称性を身体が実感できるためにする動きに、最も美しい説明が見えてくる。

 ローレンス・M・クラウス(アリゾナ州立大学/天文物理学)=マイケル・ファラデー(859夜)とジェームズ・クラーク・マックスウェルによる電気と磁気を統合する驚くべき説明。

 ニール・ガーシェンフェルド(MIT・CBA所長)=マックスウェルの電磁場方程式の説明で、カワースモア大学のマーク・ヒールドが「電力線は毛皮の輪ゴムのような性質をもつ」と言ったこと。

 ハイム・ハラーリ(ワイツマン科学研究所/理論物理学)=すべての物質は6つのタイプのクォークと6つのタイプのレプトンから成っているが、それらは混合角度というエレガントでない説明概念によってランダムに割りあてらられたとしか説明されていない。これを、二つの構成要素(リションとプライマリー)で説明するというのはどうだろう?

 ジョン・C・マザー(NASAゴダード宇宙センター/宇宙物理学)=物質宇宙が物語る基本法則は、3つのこと、すなわち自然の不安定性とエネルギーの流れとカオスを生み出していることを物語っている。

 ジェレミー・バーンシュタイン(スティーブンス技術研究所/物理学)=プランク時間についてのフリーマン・ダイソンの説明。ダイソンは量子の不確定性をつかって、プランク時間がブラックホールに呑み込まれてしまうことを予測した。

 ショーン・キャロル(カリフォルニア工科大学/理論物理学)=重力とはすべての物体がその中で運動する時空そのものの性質だというアインシュタインの説明。重力は時空の曲がり(曲率)だったのである。

 アントン・ツァイリンガー(ウィーン大学/物理学)=アインシュタインによる光量子仮説だろう。一般に光電効果の説明として知られるこの仮説は、想定されているよりずっと深い説明に及んでいる。

 フリーマン・ダイソン(プリンストン高等研究所/理論物理学)=一見すると互いに相容れない二つの宇宙像(ニュートン力学的宇宙像と量子力学的宇宙像)が併存しているということ。この二つの宇宙像を統一するにはグラヴィトン(重力子)という量子を発見しなければならない。LIGO(重力波検出装置)が発見するだろう重力波の発見がヒントになる。

 ピーター・アトキンス(368夜・オックスフォード大学名誉教授/物理化学)=物質とエネルギーには無秩序へと拡散する傾向があるという、熱力学の第二法則が最もエレガントだ。しかもこの法則からは拡散が秩序を生み出せるという説明ができる。私たちも、どこか別のところで無秩序を作り出すことによって、存在が可能になっている局所的なカオスの制限者なのである。

 レオナルド・サスキンド(スタンフォード理論物理学研究所長)=熱力学第二法則についてのボルツマンの説明。ボルツマンはエントロピーが絶対に減少しないという意味を最も説得力のある数式と文章で世界化した。

 ティモ・ハネイ(「デジタル・サイエンス」編集長)=リチャード・ファインマン(284夜)が1979年にオークランド大学でおこなった量子電磁気学(QED)に関する一連の講義。

 シン=トゥン・ヤウ(ハーバード大学/数学)=球面についての数学。しかし球面についての数学を探求すればするほど、球面が自然の一部なのか数学的な人工物なのかは、わからない。

 A・C・グレイリンク(オックスフォード大学/哲学)=バートランド・ラッセルの記述理論。論理の二価性をくずすことなく矛盾がはらむ二重性を説明できたのは、ラッセルが初めてだった。

 ブルース・フッド(ブリストル大学/認知科学)=どんな複雑なパターンも、複数の周波数とさまざまな振幅をもった重複するサイン曲線のシリーズで描写できる。このことをファーガス・キャンベルは説明して、例としてフーリエの定理が複雑な視覚パターンを分析するエレガントな方法であるばかりでなく、生物学的にも意味があることを示した。

 カルロ・ロヴェリ(マルセイユ大学/理論物理学)=ダーウィンの説明。目的因で支配されているかに見える現象が、有効な淘汰によって生み出されていることを証した。

 スーザン・ブラックモア(647夜/フリーライター/生理学・心理学)=当然、ダーウィンの進化論の説明であるべきだ。なぜダーウィン以前にこのことができなかったのか。おそらくみんなは「生き残るものは生き残る」「うまくいく考えはうまくいく」というトートロジーを恐れたからだ。ダーウィンはそれをみごとにエレガントにやってのけた。

 スコット・アトラン(パリ国立科学研究センター/人類学)=ウォーレスやダーウィンが生命としての人間が道徳的価値観をもった経緯を説明しようとするときが、最も美しい。

 デヴィッド・M・バス(テキサス大学/心理学)=性的対立はオスとメスの遺伝子の延命策から生じるとともに、配偶市場における騙しによってもおこる。男性と女性の不倫はこの市場の非対称性(いいかえれば資源的不誠実)がなくならないかぎりは、なくならない。人間の説明でこのような性的対立の説明ほどエレガントなものはない。

 ニコラス・ハンフリー(1595夜/ロンドン経済大学/言語学)=フランシス・クリックが、DNAは「カンマなしの暗号」を使ってタンパク質合成の指令をだしていると説明したことに見るエレガンス。

 マット・リドレー(1620夜/国際生命センター設立理事長)=「生命はデジタル信号である」というDNA二重螺旋についての、フランシス・クリックの認識と確信についての説明。生命の情報はデジタルで、線形で、二次元で、無限の組み合わせをもっていて、いくらでも自己複製できるのである。

 ジョナサン・ゴットシャル(文学者)=利き手の進化に関するシャルロット・フォリーとミッシェル・レイモンの仮説(いわゆるフォリー=レイモン仮説)。トマス・ハックスリーが「美しい仮説が醜い事実によって葬り去られるという科学の悲劇」について指摘したこと。

 アルマン・マリー・ルロワ(王立ロンドン大学/進化発生生物学)=変異と淘汰に関するジョージ・プライスのプライス方程式。この方程式は、ベートーベンが『クロイツェル・ソナタ』の楽譜にあとから加えた変異も、ウンベルト・エーコ(241夜)が『開かれた作品』で試みようとした非文芸的変異も、ブライアン・イーノがさまざまな作品の異なる変奏によって新たな作品が生まれるとした「生成音楽」も、説明できる。そこからは多層性淘汰という美しい原理が見えてくる。

 ジョン・トゥービー(カリフォルニア大学/進化心理学)=エントロピーが増大する系のなかで、生命が自己複製する物理系になりえた理由をめぐる議論。そこには、生物進化の謎を解くのにリバース・エンジニアリングの方法が使えるかどうかという問題がある。

 ヘレン・フィッシャー(ラトガース大学/生物人類学)=ダーウィンの進化論後で最も美しい説明力をもっているのは、おそらくエピジェネティクスの理論だろう。環境が遺伝子にはたらきかけて、スイッチを入れたり切ったりしているはずなのである。すでにベルベル人がどこで定住してきたかによって発現遺伝子が異なっていることが、ユーセフ・イダグドゥアーによって報告されている。

 トーマス・メッツィンガー(グーテンベルグ大学/哲学)=哲学は「オッカムの剃刀」をつかってできるかぎり単純な哲理に到達しようとしてきた。かくてエレガンスとは形式美のことになったのだが、哲学原理としての形式美は人間が発見したアイディアのなかで最も危険で破壊的なものでもあった。

 デヴィッド・ピッツァーロ(コーネル大学/心理学)=かのジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の中に用いられた、ある社会がなぜ他の社会よりも優位に立てたのかについての説明。このルーツは家畜化と栽培化にもとづいていた。

 ジャレド・ダイアモンド(1361夜・カリフォルニア大学/地理学)=アラン・ホジキンとアンドリュー・ハクスリーによる生体電気についての説明。電気は電荷を帯びた電子の移動だが、生体電気を生み出す電荷を帯びた粒子の運動は、電子ではなく正の電荷を帯びたイオンの運動だろうと推理した。

 リチャード・ドーキンス(1069夜/オックスフォード大学名誉教授/進化生物学)=ホーレス・バーロウが発見した感覚神経生理学としての「側方抑制」の法則。神経細胞はさまざまな刺激を受けとるたびに、すぐ隣の細胞に抑制信号をおくっている。冗長度をへらすためだ。感覚はつねにこうした情報伝達のためのフィルタリングを自動化している。このことがもっと広く適用されていることがわかってくれば、われわれは知覚のメカニズムをもっとエレガントに解けるはずだろう。

 スチュアート・ブランド(1456夜/元「ホールアース・カタログ」「WELL」編集長)=セウォール・ライトの集団遺伝学が提起した適応度地形の考え方を、ギャレット・ハーディンが『自然と人間の運命』のなかで説明したもの。生物も人間社会も、最適化ではなく適応度の獲得が重要なのである。

 デヴィッド・M・イーグルマン(ベイラー医科大学/神経科学)=脳のエレガントさはエレガントではないところにある。たとえば記憶や注意は海馬や前頭葉といった特定部位がうけもっているのではない。もっと複合的だ。そもそも左右の半球からして重複システムなのである。脳は「問題を解くのに複数の重複する方法はあるか」と問うシステムなのだ。

 ゲルト・ギーゲレンツァー(マックス・プランク人間発達研究所/心理学)=無意識なるものがどのように推論をしているかという問題。このヘルムホルツからラマチャンドランに及ぶ問題には、おそらく「錯視はどうしておこるか」という説明が必要になるだろう。

 ブライアン・イーノ(ミュージシャン・作曲家)=直感を美化することはやめたほうがいい。どんな判断にも予測可能性と不確定性がともなっている。かつてサンフランシスコのエクスプロラトリウムで見たAL(アーティフィシャル・ライフ)のシミュレーシヨンが生命のようなふるまいを見せたとき、私は直感よりも感じるべきものがあると知った。

 キース・デブリン(スタンフォード大学/言語学)=脳が言語文法をもつにいたったことの説明。①脳は感覚インプット刺激を運動反応に結び付けて進化した。②いくつかの生物で脳は複雑になって、刺激インプットと運動反応を中継する機能をもった。③こうした生物のなかで刺激と反応の自動的なつながりを超えることができる脳が出現した。④こうしてヒトにおいて、脳はオフラインで機能するようになった。感覚インプット刺激がなく、アウトプット反応がなくとも、有効なシミュレーションをするようになった。この④のところで言語文法が獲得されたのだ。おそらく75000年くらい前のことだったろう。

 アンディ・クラーク(エディンバラ大学/論理学)=構造化言語の繰り返し学習説が美しい。言語はそれ自体で一種の適応システムなのであって、そのため宿主である人間に合わせて形態と構造を変化させるのである。この点について、テレンス・ディーコンの『ヒトはいかにして人になったか:言語と脳の共進化』が美しい説明をしている。

 マーザリン・バナジ(ハーバード大学/社会倫理学)=われわれには合理性の限界があるということが、実はたいへんエレガントなことなのだ。心は説明する主体でもあるけれど、説明される対象なのである。

 アリソン・ゴプニック(カリフォルニア大学バークレー/心理学)=幼児や子供の行動を説明するための、(1)報酬と情動を司るだろう系、(2)報酬と情動を制御する抑制系、についての説明。

 テレンス・J・セジノウスキー(ソーク研究所/計算神経科学)=脳は時間差学習をしている。意思決定を司るのは大脳基底核である。そこのニューロンは皮質外套全体と大脳基底核にはたらいて、神経伝達物質ドーパミンを放出する。ドーパミンは報酬分子の名をもつが、それ以上に重要なのはこれらのニューロンには報酬を予測する機能があることだ。こうして、われわれの脳は時間差学習ができているのである。

 V・S・ラマチャンドラン(カリフォルニア大学サンディエゴ/神経科学)=DNAが遺伝暗号であるように、われわれのどこかにアナロジーのための神経暗号があるはずだ。フランシス・クリックとクリストフ・コッホの仮説にはその説明をする可能性がひそんでいる。

 エリック・J・トポル(スクリプス研究所/翻訳ゲノム学)=私が見るところ、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)やPET(ポジトロン放出断層撮影法)が見せるオピオイド薬物回路の姿が何か大事なことを説明している。

 クレイ・シャーキー(ニューヨーク大学/テレコミュニケーション)=ダン・スペルベルが1996年に出した理論における文化の説明。スペルベルによると、文化とは心的表象を公的にするもので、アイディアが表現体として非同期的な複製ネッワークになっていくことなのである。

 ユーゴー・メルシエ(ヌーシャル大学/認知科学)=ダン・スペルベルの「人間の行動を理解するにはメタ表象の理解が必須である」という説明。自分自身の表象を再利用して他者の表象を表象したり、表象の他の帰属を表象したりすることによって、どんどん表象を豊かにしていくことが、人間に最も固有な形質なのである。
 シモーヌ・シュナル(ケンブリッジ大学/社会心理学)=記号接地問題から推測できるのだが、脳はおそらくメタファー(隠喩)によって心をつくったのである。心は具体化されたメタファーである。

 ベンジャミン・K・バーゲン(カリフォルニア大学サンディエゴ/認知言語学)=ジョージ・レイコフとマーク・ジョンソンの『レトリックと人生』がもたらしたヒントが大きい。われわれの脳はメタフォリカルな傾向によって心をつくってきたのだろうということだ。

 リチャード・H・セイラー(シカゴ大学/行動経済学)=経済学というものは、選択肢が多いほうがいい結果が得られるという原理でできている。しかし、この原理はまちがっている。ある特定の行動にコミットメントしたほうがいい場合がかなりある。トマス・シェリングが「交渉についての考察」(1956)でエレガントな説明をしている。

 デヴィッド・クリスチャン(マッコーリー大学/歴史学)=新しい性質や特性がプロセスの途中にあらわれる創発性についての説明。

 ナシーム・ニコラス・タレブ(ニューヨーク大学/社会理論)=冗長度と過剰反応は同じ原理ではたらいている。ホルミシスとは、ごくわずかな有害物質やストレスが生体を刺激して状態を改善させることをいう。ところが組織の リスク管理ではこれがうまくはたらかない。組織はロバストネス(ストレスの悪影響を受けないような頑健性)ではなく、むしろ反脆弱性(アンチフラジリティ)をもつべきなのである。

 ロバート・クルツバン(ペンシルヴァニア大学/進化心理学)=多数の可動部分からなるシステムに人間が介入すると、システムの部分間の複雑な相互作用によって、予測していなかった想定外の結果がもたらされることが少なくない。社会学ではロバート・マートンが発見した法則だが、この想定外の結果を生み出すプロセスは、まるでループ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラスイッチのような単純なパートによって複雑な仕組みがつくられているマシン)のように、奇妙に感動的なのである。

 ティモシー・D・ウィルソン(ヴァージニア大学/心理学)=哲学者ギルバート・ライルおよび社会心理学者ダリル・ベムによる自己知覚理論。ここからつねに新たな心理療法が生まれていくに決まっている。

 ニコラス・G・カー(1586夜/ジャーナリスト)=平凡な大衆を作り出すレシピ、たとえばピーターの法則(1969年に教育学者ローレンス・J・ピーターが提案した)。実体とは失敗が具現化したものである、進化ではある系が適応的競争力の限界まで発展する、等々。

 パトリック・ベイトソン(ケンブリッジ大学/動物行動学)=これまでは危険視されてきた近親婚と優性の遺伝子をのこすと考えられてきた外婚だが、この近親婚と外婚という二つのバランスによる社会を生物学的に想定することができる。いまこそ、その可能性をさぐる説明が求められていよう。

 サイモン・バロン=コーエン(ケンブリッジ大学/心理学)=女性は灰白質と白質の量がピークに達するのが、男性より1年早い。胎児期のテストステロンとエストロゲンのバランスによるものだと考えられる。男と女は遺伝子以外の要因によって成長するものなのだ。

 シェリー・タークル(MIT/科学技術社会論)=幼児や子供にはしばらく手放せない毛布・ぬいぐるみ・人形・玩具というものがある。デヴィッド・ウィコニットはそれを「移行対象」と名付け、このことが成人社会にもたらす可能性について示唆した。ジョージ・ゲーソルズがそのことを強調している。

 アルヴィー・レイ・スミス(ピクサー共同経営者)=映像のなめらかさは画像がどのようなフレームの連続で動くかにかかっている。ピクサーが開発したモーションブラーは、従来のフィルムでもビデオでもコンピュータでもできなかった連続性を確立した。このことを示す標本化定理が美しい。

 スタニスラス・ドゥアンヌ(コレージュ・ド・フランス/神経科学)=科学の目標は「眼に見える複雑さを眼に見えないシンプルさに置き換えること」にある(ジャン・バティスト・ペランの言葉)、そのことを果たした最もエレガントな数学的発見は、ブラウン運動、ベイズの法則、チューリングマシンだった。

⊕ 知のトップランナー 149人の美しいセオリー ⊕

∈ 編者:ジョン・ブロックマン
∈ 訳者:長谷川眞理子
∈ 発行者:清水一人
∈ 発行所:青土社
∈ 印刷所:双分社印刷(本文)・方英社(カバー・表紙・扉)
∈ 製本所:小泉製本
∈ 装幀:岡孝治

∈∈ 発行:2014年12月19日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ 前書き(ジョン・ブロックマン)

∈ 自然淘汰による進化(スーザン・ブラックモア)
∈ 生命はディジタル暗号である(マット・リドレー)
∈ 冗長性の削減とパターン認識(リチャード・ドーキンス)
∈ 馬鹿馬鹿しさの威力(スコット・アトラン)
∈ 見かけ上の合目的性はどうやって生じるか(カルロ・ロヴェリ)
∈ 一夫一妻の遅すぎた凋落(オーブリー・デグレイ)
∈ 熱力学の第二法則に対するボルツマンの説明(レオナルド・サスキンド)
∈ 心の暗黒物質(ジョエル・ゴールド)
∈ 「天と地の間にはな…人智の及ばぬものがあるのだ」(アラン・アルダ)
∈ エッジの質問に対する、決心のつかない(したがって美しくはない)反応(レベッカ・ニューバーガー・ゴールドシュタイン)〔ほか〕

∈∈ 謝辞
∈∈ 訳者あとがき
∈∈ 索引

⊕ 著者略歴 ⊕
ジョン・ブロックマン
1941年生まれ。ニューヨーク在住の編集者・作家。科学サロンのウェブサイト「エッジ」を主宰する 。おもな編書に、『(意識)の進化論』(青土社)、『33人のサイバーエリート』(アスキー)、『2000年間で最大の発明は何か』(草思社)、『キュリアス・マインド』(幻冬舎)など。