才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ネット・バカ
オートメーション・バカ

ニコラス・G・カー

青土社 2010・2014

Nicholas Carr
The Shallows-What the Internet Is Doing to Our Brains 2010The Glass Cage―Automation and Us 2014
[訳]篠儀直子
編集:菱沼達也・篠原一平 協力:松井領明・増子久美
装幀:竹中尚史

今夜は周到な炯眼ニコラス・カーの2冊をとりあげる。
邦題はつっけんどんな『ネット・バカ』(The Shallows)と
『オートメーション・バカ』(The Glass Cage)だが、
いったい何が「バカ」なのか。
インターネットを新たな社会だと感じていること?
電子読書でも本が読めると思っていること?
ルンバやドローンに掃除や監視を任せようとしていること?
そんな急場しのぎの話ではない。
技術文明に根本的な勘違いが出ているという話だ。
かなり編集工学的な解釈を加えることができる。

 2013年のTEDカンファレンスでのセルゲイ・ブリンのトークは、わざとらしかった。
 グーグル社の二人の創業者のうちで、いつも居心地が悪そうな顔付きを見せるこの男は(ジーンズを穿いたITベンチャーのトップたちはたいていそんな面倒くさそうな空気をつくるのが得意なのだが)、発表まもないグーグルグラスの宣伝をするのに、その引き合いに「スマートフォンを使うのって、ある種の去勢でしょ」と言ったのだ。ついで、「立ったままこの味気ないガラスをこすっていると、ほら、みんな孤立するばかりか、世界に対する感覚的なかかわりまで弱まってしまうよね」と付け加えた。
 スマホはいうまでもなく、グーグルがアンドロイド・システムで主流に押し上げたデバイスである。それを自嘲的に槍玉にあげて去勢扱いするという嫌味なジョークで(勝ち組がこの手の口調が好きなのだが)、グーグルグラスを使えば情報は向こうから適確にやってきて、めんどうなウェブ検索も必要がなくなる、いよいよグーグル社は「脳内への情報提供」の領域に入ってきた、と自慢したわけである。

 マーク・ザッカーバーグが「アイデンティティは一つだ」と言ったときは、ドン引きした。
 このパンアメリカンでこましゃくれた青年は、こう言った。「フェイスブックがもうちょっと広がれば、仕事仲間や同僚に対してと他の知り合いに対してとで違うイメージを見せる時代は、もうそろそろ終わりになるよ。アイデンティティを二つ以上もつことは、誠実さの欠如の実例だよ」。
 アイデンティティが二つ以上あると誠実に欠ける? 呆れた社会観である。かのエリク・エリクソン(アイデンティティの概念の提唱者)だって、呆れる。
 ぼくは個人のアイデンティティなんていくつもあると思ってきた。24人のビリー・ミリガン(218夜)のことではない。そもそもどんな人間だって、自分という自己は複合的なのだ。どんな個人にも社会的自己があれば医療的自己や経費的自己もあるし、記憶の自己、ふるさとの自己、音楽的才能の自己、トラウマの自己もある。自分なんていくらだって数えられるのだ。だから、イシス編集学校の冒頭に掲げている3つのお題のうちのひとつは、さあ、まずは「たくさんの自分」を挙げてみようというお題なのである。
 しかし、世界の趨勢はいつのまにか個人のID化で埋め尽くされ、そのマイナンバーには情報的な自己だけでなく、金銭的な自己もコミュニケーションする自己もGPSによる移動記録型の自己もぴったりくっつくようになった。アイデンティティなどと言いながら、すべて紐付きなのである。そんな「自己の歴史」など、かつてまったくなかったのに。

 2012年、イェール大学の建築学部で「ドローイングは死んだのか」というシンポジウムが開かれた。MITのアイヴァン・サザーランドが60年代後半に発案した Sketchpad が建築界では設計支援ソフトのCADとなり、いまでは建築家はCADシステムの中ばかりで建物をつくりだすようになったので、いったい建築家たちはコンピュータに頼ってしか設計ができなくなったのかという疑問がもたれているためだ。
 たしかにフランク・ゲーリーやザハ・ハディド(いま問題になっている国立競技場の設計者)やパトリック・シマッカー(ハディドの片腕だった)やベン・トラネルの、「運動する液体」「生きている柔らかい骨組」「光合成のように輝く波」「旋回する律動の屋根」などの、妙に有機っぽくて派手な設計所産を見ていると、これは簡単なコンセブトをCADが引き取ってやたらに複雑怪奇にしたとしか思えないようなことが少なくない。
 そんな巨匠をもちださずとも、いまやパラメトリック・デザイン(コンピュータ内の建築物に数値変数を与えてモデルを生成する設計手法)は大流行で、日本でも“ちびパラ”だらけなのである。この連中はスクリプティング(デジタル言語処理のひとつ)によるボロノイ分割ばかりをやりたがるのだが、実のところこんなことは日本の大工が木割りでずっとやってきたことだった。

 建築だけではない。エアバス社やボーイング社の飛行機設計はとっくにデジタル関数化されたフライ・バイ・ワイヤーシステムになっている。
 このシステムは、装填したソフトウェアを特定のフライト・エンベロープ(飛行包絡線)のパラメータで機体を保つようになっているので、ときおりパイロットの指示をコンピュータが却下してしまうのだ。それでも飛行機事故がおこれば、それはパイロットの責任にされる。
 何でもネット、何でも自動化なのである。まあ、家庭内でも何もかもがルンバ化し、社会環境では何もかもがドローン化しているわけだから、世間がこれを硬軟両方に迎えてしまったとしても責められない。
 けれども、これでは世界と人間と組織は「何かに接続されたままの未来」で縛られている、とも言えるのだ。

 以上のようなことがちょっとでも気になるのなら、ニコラス・カーの『ネット・バカ』と『オートメーション・バカ』を続けさまに読んだほうがいい。
 著者はダートマスやハーバードで英文学を専攻していながら、ICT技術をめぐる世の中の踏んだり蹴ったりの毀誉褒貶にけっこう鋭い解釈と警告をまとめてきたビジネス思想家である。
 最初に話題になった『クラウド化する世界』(翔泳社)では、グーグル・アマゾンの登場やクラウド時代の出現でビジネスモデルが大きな変更をうけるだろうことを示し、それに見合うだけの社会やユーザーや企業が適確な対応をしているのか、そのときに必要になるはずの文明観や文化論がちゃんと準備されているのか、そこを心配した。
 次の『ネット・バカ』では、スマホ片手のネットサーフィンとグーグル漬けであまり気をよくしすぎていると、ユーザーがおバカになってしまうのかどうかを検証した。ただしこの本の原題は“The Shallows”というもので、必ずしも「みんなネットでバカになる」などと書いているのではない。ネットに頼りすぎると「狭くなる」という心配を抉ってみせたのである。
 4年後刊行の『オートメーション・バカ』のほうは、世の中が飛行機や自動車がGPSや自動運行に頼りすぎ、設計者やアーティストがCADやCGに依存して、医療現場がコンピューティングされた数値データばかりを見ていると、しだいに身体知や社会知の編集力を失っていることを詰問した。
 ただしこちらも、いろいろのしくみがオートメーションになることをバカ呼ばわりしているのではない。もともとの英語の原題は“The Glass Cage”というもので、「そんな丸見えのガラスの檻ばかりを社会のあちこちにつくっていて、それでいいんですか」と書いたのだ。

 さてひるがえって、マーシャル・マクルーハン(70夜)が『メディア論』(1964)で何を言ったかというと、2つのことだった。「メディアはメッセージである」ということ、文明文化のもとにある大衆は新たなメディアが登場するたびに「そのメディアの形をした情報に囚われていく」ということだ。
 インターネットはこのマクルーハンの予告を、最も異常なスピードど異常な情報量によって世界中にふりまいた。ネットはネットというメディアの形をもってニュースも音楽も映像も、辞書も地図も商品も取り込んで万能メディアになった。
 ネット爆発については、当然、毀誉褒貶が乱舞した。「ワイアード」のクライブ・トンプソンは「シリコンメモリーによる完璧な記憶は思考にとっての絶大な恩恵になる」と言い、ヘザー・プリングルは「グーグルは世界中に散らばったものから誰でも利益を引き出す恩恵をもたらした」と声高に宣言した。これはどうみても「ネットは福音である」と言っているのと同じだった。

 あまりのネットの力の前に、ちょっと立ち止まった者たちもいた。オンラインブロガーのスコット・カーブはネットサーフィンやググってばかりいるうちに、自分がいつのまにかちゃんと本が読めなくなっていることに気が付いた。
 ブルース・フリードマンはスタッカート的性質が身についてしまって(クリックをするたびにスタッカートの拍子打ちのようになること)、もう『戦争と平和』が読めなくなっている自分に愕然としたという。デューク大学の英文学教授キャサリン・ヘイルは学生たちに本をまるこど一冊読ませられなくなった教室の現状に困りきった。
 まさにマクルーハンが予告した新メディアがもたらす症状だが、では、ここには実際には何がおこっているのかというとと、プラス現象もマイナス症状も入りくんでいて、実はわかりにくい。またふつうは、ネットもテレビやケータイと同じように、適当に使えばいいじゃないか、べつだん誰もグーグルの奴隷なんかになっているわけじゃない、とも思える。
 それならこのあたりのこと、いったいどう見ればいいのか。そこでニコラス・カーが一肌脱いで解説してみせたのだ。

 著者の執筆動機について一言。
 ニコラス・カーは英文学が専門でもっぱら数学や科学の知識を避けて暮らしてきたほうなので、コンピュータには懐疑心をもっていた。それが1986年にMACプラスを入手してみたら「パソコンいちころ」になっていた。
 エクセルを使い、ビル・アトキンソンのハイパーカードを使うようになると、コンピュータは「命じられたことだけをやる道具」ではないらしいと感じた。それでインターネットのリンク&クリックに溺れ、ヤフー、アマゾン、ストリーミング、ナップスター、グーグル、ipod、ウィキペディア、WiFi、USBメモリ、スマホのヘビーユーザーになることを次から次へと受け入れてみた。
 悪くない。これならおもしろいじゃないかと思った。その感覚はウェブ2・0が始まっても止まらない。オンラインでテキストを読むことも、ハイパーリンクと検索エンジンなどのおかげでそこそこの「ウェブ読み」ができるような気がした。すぐにマイスペース、フェイスブック、ディグのアカウントをとった。
 ところが、ところがである。そんなカーが2007年のいつかの時点で、急に自分の知的状態に何か重大な変化がおきているように感じたのだ。脳のはたらきがどこか変質しているようで、一つのことに数分程度しか集中できなくなっている。
 いったい何がおこっているのか。うっすら気が付いた。
 どうやら長い思索ができなくなっていたのだ。そのぶん自分がネット接続していたい「2・0男」になっていた。そんなふうに自分がなるとは思っていなかったので、カーは「以前の脳が恋しくなった」。こうして本書が書かれた。

 ニーチェ(1023夜)は頭痛や嘔吐に苦しんで書けなくなった1882年ごろ、デンマークのマリング・ハンセン製のライティングボールを購入して救われた。これは52個のキーで訓練を積みさえすれば1分間に800文字が打てるタイプライターの前身器械だった。ニーチェは確信したものだ、「執筆の道具はわれわれの思考に参加する」。
 ニーチェが死んだ年に『夢判断』を発表したフロイト(895夜)は、ウィーンで神経生理学を研究していて、脳の隙間にある接触境界(contact barriers)が感情や思考に大きな役割をもっていることをつきとめた。この接触境界とはシナプス(ニューロン・ネットワークの連結部)のことだった。
 フロイトはまだ知らなかったが、われわれの脳の1000億のは各シナプスのところで約1000本のニューロンとつながり、それらのシナプスにはそれぞれ小さな袋(シナプス胞)がついていて多様な神経伝達物質(ニューロトランスミッター)が用意されている。そこへニューロンから電気信号がやってくると、シナプス胞がドーパミンやセロトニンやアドレナリンなどの化学的分子言語を放出して、われわれの感情・判断・思考を律していたのである。

 ニーチェとフロイトは、情報処理には「可塑性」(plasticity)が重要だということに気がついたのだ。
 なにしろシナプスは1秒間に200回のスピードで反応しているのだから、ニューロン間連結はざっと100兆から1000兆ほどの”計算”をしていることになる。これだけ厖大な瞬間計算をしているということは、脳はよほど可塑的だということだ。
 そういう脳をつかい、そういう脳がはたらくように、われわれはいろいろサポーティブな道具をつくってきた。その道具には鉛筆・ノートからメガネ・望遠鏡まで、さらにはやタイプライターや蓄音機などの道具(メディア)があった。これらの認知的道具は、いわば「シナプス連結の外部化」だった。
 フロイト以降、脳の変幻自在な可塑性の魅力は、ウィリアム・ジェームズの『心理学の根本問題』(三笠書房)でも注目されて、われわれの心理は神経組織の可塑性に関連しているだろうことが予想された。脳科学者ペンフィールド(461夜)はただちに脳地図作成の試みに着手した。それから先は百花繚乱で、みんながこの問題に関心をもった。
 あれこれの野心的な実験や見当はずれの推理などをへて、やがてヴァーノン・マウントキャッスル(ジョン・ホプキンス大学神経学科の泰斗)からマイケル・マーゼニック(ウィスコンシン大学のサル脳研究者)につながるマッピング脳の研究につながり、さらには最近のジョゼフ・ルドゥの話題作『シナプスが人格をつくる』(みすず書房)にまで至った。

 いまでは、心の多様性を疑う者がいないように、脳の可塑性を疑う研究者はほとんどいない。どのくらい可塑なのかについての見解は分かれるが、とりあえずはハーバード大学で最前線の神経科学を推進しているアルヴァロ・バスカル=レオーネの次の言葉がわかりやすい。
 「われわれの脳は経験や行動に応じてたえず変化していて、感覚的インプット、運動行為、連想、報酬の信号、行動プラン、意識の変化などの一つ一つの進捗にともなって、回路を改訂しているのである」。
 シナプスは極小の編集マシンだったのである。脳はシナプス連結によって1000兆ほどの柔らかい組み合わせを“計算”していたのだ。レオーネはTMS(経頭蓋磁気刺激法 Transcranial Magnetic Simulation)の活用者だった。

 端的にいうのなら、脳(神経回路)は、自身を構成するゲノムによる制限から逃れることで、環境的な圧力や生理的な変化に応じてさまざまな経験に順応するようになっているわけなのだ。つまりはすぐれて編集的なのだ。
 いいかえれば、脳がすぐれているのは基本配線がすぐれているからではなく、そんなものがないような超編集回路になっているからなのである。
 いくつものエビデンスも報告されている。たとえば、神経生理学のエリック・カンデルは「シナプスの数は学習によって変化する」と報告し、マイケル・グリーンバーグは「神経系は思考の予測不可能性を反映するかのような即興的特質をもっている」と述べた。
 発達心理学のメアリアン・ウルフ(1477夜)は『プルーストとイカ』で「どの言語であっても読む行為や表語行為はきわめて特化された運動記憶能力にかかわっている」と書き、オランダの無意識研究所のアプ・ダイクステルホイスは「意識の中断が持続的な作業の目的の理解をたくみにカバーする」と言った。
 では、このような可塑的な脳のふるまいと、インターネットで「何かしたつもりになる」こととは、ひょっとすると似ているのだろうか。それとも脳とネットを較べようとすること自体がおかしいのか。

 われわれの脳にはもともと「アナロジー空間」のようなものを想定する能力が備わっている。わかりやすくいえば地図や略図を想定する能力だ。
 地図学者ヴィンセント・ヴァーガによると、人類の地図作成能力はジャン・ピアジェが示した子供の認知能力の発達段階と、だいたい対応して発展してきた。ヴァーガは「空間内での経験を空間の抽象化へと転換したプロセスこそ、人類の知的プロセスと思考モードの飛躍であった」と判断した。地図史のアーサー・ロビンソンも「現実の圧縮とアナロジー空間の構築とが結合したことこそ、われわれの知能の飛躍をつくりあげた」と述べた。ぼくも編集工学では「編集は”略図的原型”を媒介にして進んでいく」と考えてきた。
 われわれがアナロジー空間を活用しているなら、同じように「アナロジー時間」が動いていてもおかしくない。実際にもわれわれは何かの計画や行動をきっかりしたタイマーなんぞで測っているのではなくて、ごくごくおおざっぱな「段取り」でマネージしているほうが多い。
 料理のレシピを完遂するのに必要なのは、砂時計を何度もひっくりかえすことではなくて、おいしい「段取り」を手や目がおぼえることなのだ。あるいは、その料理を食べた連中が何度も「おいしい」と言ってくれることなのだ。

 おそらく脳は、このように仮想空間や仮想時間をイメージングすることが得意なのである。また、そのようにしたほうが報酬が多いということを感知できているはずだ。しかもそうすることは、われわれのニューロン・ネットワークにはしごくやりやすいことだった。
 脳は地図も時計ももっていはいない。長期記憶・短期記憶・エピソード記憶、サーカニュアルリズム・サーカディアンリズム、それに無数のクオリアがあるだけだ。
 ぼくは昭和28年の京都をそこそこ想い出すことができても、そのときの地図や時計を脳から引き出すことはできない。それには当時の写真や地図や記録や資料を組み合わせる必要がある。それによってアナロジカルな昭和29年のイメージを大雑把に抱くだけである。
 ところがコンピュータは入力した情報はすべてメモリーをする。そのメモリーは階層や分類やダンジョンを使ってアーカイブするのだが、それを「昭和29年の京都」として再生するには、別のソフトウェアをかませることになる。
 一方、今日のグーグル型のコンピュータ・ネットワークでは、そこにアクセスしたとたんに地図も年表も用意されていて(もっといろいろ充填されているが)、われわれはそこをうろつくアバターになる。たいへん便利だが、そのうち何が実空間で何がアナロジカル・エイジなのかの区別がつきにくくなる。
 カーが提起した問題は、コンピュータがそうしたアナロジー空間やアナロジー時間のあてはめを、ユーザーの意志にかかわりなくシステムの中で代行してしまうのは、さあ、どうしたものなのかということなのである。

 地図や段取り表やメモは、われわれが何かをしていくときのトークン(代用物)である。メアリアン・ウルフは、そのようなトークンは古代民族がそれぞれ工夫した「文字の出現」と「その読み」とともに発達してきたと見た。
 ウルフはシュメール人やエジプト人が楔形文字や象形文字を使い出したときに、われわれの神経回路に或る特別な“立体交差”がおこったとみなしたのだ。すなわち、読み書き能力が地図作成能力や段取り能力を支え、その後の知的能力のあらゆる媒介力になっていったというのだ。
 ニコラス・カーはそれに加えて、その能力の発達には「本」と「ページ」というフォーマットとそのボリュームが関与していたのではないか、「本」と「ページ」をめぐるリテラシーがその後の地図や時計や数字表記などの諸メディアをまたぐ変換可能性を開いていったのではないか、それが脳の可塑性とうまく対応したのではないかと考えた。さすがに英文学者である。ぼくもこの見解に加担する。
 シュメール人やエジプト人は文字だけを発明しただけではなかった。粘土板に番号(ノンブル)を振り、これらを束ねて分厚い本にし、われわれはそのページに刻まれた一行ずつを読むことで「理解の鋳型」を拡張していった。そのことでリテラット・ブレイン(読める脳)がアナロジカルな空間と時間を想定するリテラリー・ブレイン(読み書き脳)として定着できたのだ。
 その後、ミルマン・パリーやマクルーハンが言うように、グーテンベルクの活版印刷の飛躍的拡張とともに、古代以来の音読社会は近代的な黙読社会に転じていった。

 こうしてわれわれは、われわれ特有のアナロジー空間とアナロジー時間の中で、情報と自分とを泳がせてもいいのだというスキルを、「本」というページ・ボリュームの中で維持するようになった。そして「本」はわれわれの可塑的思考力のコンテクスチュアル・メタファーにもなったのである。
 このことはやがて、町中に文字トークンによる看板とサインをもたらし、商品棚に欲望トークンにもとづく分類をふやし、医療のカルテに医薬トークンによる個人の病跡を記せるようにした。これらは「本」のリアルタウンへの適用だった。それだけではない。18世紀になると、これらはすべて新聞や雑誌や広告というメディアのコンテンツともなっていった。

 ところがいまや、こういうことのすべてがコンピュータ・ネットワークのそこかしこにまるまる入るようになったのだ。万能計算原理とデジタル技術がそういうことをすべて可能にしてくれたと思い込んだ。
 そう思い込むのもむりはない。すでに音声は録音技術によって、画像や映像は写真技術や映画技術によって、それらの融合は無線技術や放送技術によって組み合わされ、レコードにもラジオにもテレビにも、またビデオやカセットデッキやレーザーディスクにもウォークマンにまでなったのである。それらが同じプロトコルでデジタル化できれば、こうした別々のメディアが統合できるのは当然だった。

 デジタル化はほぼ完璧に広がっていった。おまけにそこに加わってきたのが文字と言葉をオートマティックに操作するワードプロセッサーである。それはタイプライターの電子化ではなかった。活字に代わる電子フォントをコンピュータが用意してくれたのだ。
 これで、できないことなんて何もないと思うのは仕方ない。あとはこれらをネットワークがつなぎ、双方向にコミュニケーションができて、ネット上に情報の貯蔵庫がふえ、各自が自由にカット&ペーストができればよかった。障害があるとすれば、道具としての「軽薄短小」と「価格の低減」がおこるがどうかということだったが、これもシリコンチップの極小化と回路設計とプログラミング言語の工夫によってあっというまに解決していった。
 かくて2010年代を待たずして、「世界」は「ネット」と同義語になっていたのである。

 しかし、はたしてそうなのか。
 「本」はネットの中に入ったのだろうか。「本を読む」はネットの中でも同じように成立しているのだろうか。ネットはデジタル・リテラシーについて本気の工夫をしているのだろうか。ニコラス・カーはそこがかなりあやしいのではないかと言いだした。
 脳の可塑性は、そのままインターネットの可塑性とはつながらなかったのである。脳のシナプスとコンピュータのアルゴリズムのあいだにはもともとは「本のページ」があったはずなのである。そのリテラル・スキルの介在をちゃんと勘定に入れないと、グーグルやキンドルで文章や本を読んでいるうちに、ゲーテ(970夜)やドストエフスキー(950夜)が読めなくなってしまうのだ。

 ぼくはこういう事情をいろいろ聞かされていると、電子ネットワーク時代が到来するずっと前に、「本」や「ページ」に対するフェティッシュの摩滅とともに「本の活力」がうやむやになってしまっていたのではないかと、寂しくなってくる。
 活字や紙や活版印刷の押圧感覚や、本のページをめくるときの指の感覚や匂いや、書棚から本を手にとったときのあのずっしりした重さや、コンサイス辞書の薄手のインディアンペーパーの感触などは、とっくにどこかに行ってしまったのだ。これらは液晶でもCGでもARでも、とうてい再現できない。そうだとしたら、それらの喪失とともに「本読み」の本来のマニエリスムも廃ってしまったのである。
 このことは、ぼくのような「両頁(りょうけつ)主義者」(自分の思考の中に仮想のダブルページを置いておくこと)にとっては、とても耐えられないことではあるけれど、そんなことすら、活字が写植になり、活版がオフセットになり、さらに電子製版や電子印刷になっていくなかで、すっかりアクチュアリティを失ったのである。そうしてぼくのような者はセピア色の懐古主義者にさせられてしまうのだ。
 しかし断言しておくが、「本読み」の本当のスキルはかつて写本や活版によって本が編集製作されていたあの時期にこそ、獲得されたものだったのである。

 写本研究者ジョン・ゼンガーの『単語間のスペース』(Space between Words)によると、ヨーロッパ人が写本の文章を今日のように読めるようになったのは、10世紀から11世紀にかけてのことだったようだ。
 単語間にスペースをあけること、改行やインデント(1字下げ)をすること、タイプフェイスに変化を施すこと(ゴシック、イタリック、明朝体など)、大文字と小文字を区別すること、句読点を工夫することなどが、書き手のどんな文章でも読み手の適度な解釈にゆだねられてよいというリテラル・リーディングの基盤をつくったのである。
 これは、書き手と写し手と読み手のスキル連携こそが、今日の「読む」という基礎をつくってきたことを示す。

 そもそも本を読むということは、単語や文章を散漫に処理することでは成立しない。
 われわれの「読み」はテキストをアイスキャニングしているときの「注意のカーソル」の複雑な活動によって進行するのだけれど、そこでは文字、文字パターン、文意、書き手の意図、読み手の記憶、ページネーションの具合、本のタイトル、見出しの進行、自分の学習力などを、次々に立体的にコラージュあるいはエディティングしながら処理している。このエディティング・コラージュはミリ秒単位で進む。
 まるで飛んでくる3~4個(あるいは数十個)のピンポン玉を次々に打ち返しているようなものだが、それをやってのけている。この神経系のメカニズムは2008年にハワード・ヒューズ医学研究所のマヤ・パインらによってやっと発見された。次々に変化する風景を認知していくメカニズムの研究であきらかになったのだ。
 まとめて、ボトムアップ・エディティングとトップダウン・コントロールというしくみが連動しながら起動しているメカニズムだと解釈された。
 ぼくからすると遅きに失した発見ではあるが、注目すべきは、このボトムアップ・エディティングとトップダウン・コントロールが高速で相互に動くというメカニズムは、人類文化史における読書体験によってのみ人間に付与された能力だったということである。その能力が10世紀から11世紀くらいに確立し、そこに本の匂いや重さや指の感触が加わり、それらとともに「本読み」のスキルが獲得されていったのである。
 ロンドンのキングスカレッジのヴォーン・ベルは「この相対的に本がもたらしているものに集中できる能力は、われわれの心理発達史のなかでもとくに異様な発達だった」と述べた。

 持続的に注意力を集中すること自体は、古代のお母さんや猟師にも、細工師や幾何学者にもマスターされていただろう。しかし、他人が書いたテキストを高スピードで読むということは、たんなる集中行為ではない。
 ボトムアップ・エディティングは「地の文章」を読み分け、トップダウン・コントロールは「図の意図」を組み立てる。その両方の相互交差がほぼ同時におこってコンテクスチュアルな文意が読みとれる。そのような作業を読み手に可能なものにさせるために、書き手もこのしくみを発動させたのだった。
 ゼンガーによれば、書き手たちがこのようなしくみを心得えて文章を書くようになったのも10世紀をこえてからだった。まさに『ローランの歌』や『アーサー王伝説』や『源氏物語』が書かれた時期だ。

 書き手がボトムアップ・エディティングとトップダウン・コントロールを意識して文章を書き整えることは、いわゆる「推敲する」(polished, improved)に当たっている。その場かぎりのブログやツイッターの文章とはそこが違っている。
 これらの準備が進んできたうえに、グーテンベルクの活版印刷が普及した。活字が豊富なタイプフェイス(フォント)をもち、四つ折や八つ折の印刷製本技術が確立し、タイトルやヘッドラインの夥しい工夫が凝らされた。
 フランソワ・ラブレー(1533夜)は『ガルガンチュア物語』のチャプター・タイトルに、さっそくこう書いた。「これからは世の中の因果関係を知っている人間たちと、非常に博識な教師、大きな図書館が世界中に溢れていくだろう。プラトンやキケロ、あるいはパピニアヌスの時代でも、これからわれわれが遭遇するような学びやすい環境をもっていなかった」。

 こうして出版社と印刷業がふえ、大学が各地に生まれ、図書館が知の集積地のそばに出現することになったのである。知識の担い手と書物の拡充と教育の浸透は「読みの文化」とともに、それに促された「書きの文化」とともに確立していったのだ。
 つまり「本」がなければ世界は組み立てられず、世界は「本」のように多様になっていったのである。
 書物だけが多様になったのではない。世の中が書物っぽく、ページっぽくなっていったと見たほうがいいだろう。デイヴィッド・レヴィンに識字能力が書籍から電子に向かってどのように変化したかを追った『スクローリング・フォワード』(Scrolling Forward)という著書があるのだが、レヴィは「読みの文化史」からすれば、道路の標識、レストランのメニュー、テレビニュースの見出し、大学のシラバス、図解表示、買い物リスト、商品のラベル、取扱い説明などもすべて「本」になった、すべてが「本」を模倣していったと述べている。

 大学や図書館の林立と小説の流行も軌を一にしていた。小説家やエッセイストや学者たちこそ、読み手の「読み」を書き手の「書き」に推敲してみせた職能集団だったのである。
 ワシントン大学動的認知研究所は、脳スキャナーによって小説の読み方を研究して、「物語内で出会う新しい状況を読み手はつねにシミュレートし、テキストから把握された行動や感覚の詳細はつねに過去の経験からえられた個人的知識と統合されている」という結果を確認した。
 主任研究員ニコル・スピアは「このとき読み手がしていることは、現実世界で運転したり買い物をしたりしている注意の多様な統合のプロセスと似ていた」と報告した。

 カーはこうしたことを、次のようにまとめる。
 「本の読み手と書き手とは、つねに高度に共生的な関係にあり、その関係は知的で芸術的な交流の手段となっている。書き手の言葉は読み手の精神のなかで触媒としてはたらき、新たな洞察、連想、知覚、ときには啓示をも触発する。またそこに批判的な注意深い読み手が登場して、書き手の意欲とスキルが刺激されてきたのである。だからこそ作家はつねに新しい表現様式を思いつき。困難で厄介な思考の道を切り拓いて、ときには危険ですらある海図なき領域のパイオニアになってきた」。
 が、こうも問うべきだったのである。はたしてネットでもこんなことが試みられているだろうか。ネットはこれらすべての「なぞり」をしているだけではないのか、と。

 コンピュータは計算機である。計算ばかりする。その原理はアラン・チューリングの「チューリング・マシン」から始まった。チューリングは『計算機と知性』で「プログラム可能なコンピュータがなぜ重要かというと、スピードの問題をべつにすれば、多様な計算プロセスを実行するために新たな多種のマシンを設計する必要がなくなるからである」と書いた。
 その後、チューリング・マシンはデジタル・コンピュータとなって記憶容量とスピードとをべらぼうに上げていった。こうして入力可能な情報と注釈可能な知識のほぼすべてが処理し、伝達し、変換できるようになった。それとともにマシンは印刷機とも電話とも郵便局ともテレビともなった。
 ただしこのマシンが「本」になれたのかというと、そこはあやしかったのである。
 むろんタイトルや著者や発行元を検索するというだけなら、コンピュータはすでに立派な図書館(アーカイブ)になっている。クラウド化をすれば、世界中のすべての「本」をデータ化することも可能だろう。けれども「本」はデータ処理されるためのものなのかといえば、そうではない。それは「読み書き」の編集的世界史そのものだったから。

 文書の電子化がきわめて便利なものであることは疑いない。どんな会社でもどんな役所でも、ほぼすべての文書は電子化されることによって多くの業務や決断を支援する。
 まったく同様に「書物の電子化」が可能であるにもかかわらず、われわれはいまだ電子化された本によって「本を読む」という実感ができているとは思っていないとも言うべきだ。ページを読むということは、バックライトで照らされているピクセルフォントを見ることとは何かが決定的に違っているように感じるし、赤ペンや鉛筆でマーキングしたり余白に書き込こめないのは、なんだか「本に付き合っている」という感じがしない。
 珈琲を片手に本を読むこと、旅のあいまに文庫本に親しむあの寺田寅彦的感覚は、なかなかキンドルでは味わえない。

 キンドルがすばらしい機能をもっていることを過小評価するつもりはない。
 2007年にアマゾンが鳴り物入りで発表したこのガジェットは、最新のスクリーンテクノロジーととリーディング機能とキーパッドを備えているだけでなく、無線によるインターネット常時接続機能を内蔵していた。キンドルがあれば電子書籍が読めるだけではなく、デジタル新聞やデジタル雑誌が読め、グーグル検索ができ、MP3ファイルが聴けて、専用ブラウザーによって他のウェブサイトも閲覧できる。
 こんなことは、一冊の本を読んでいるときにはとてもできないことだ。とくに表示テキストにハイパーリンクを使えば、キンドルは本の中をハイパーテキストに変えることもできる。キンドル発売後まもなくして、「ニューズウィーク」のジェイコブ・ホイスバーグが「これは新たな文化革命だ」と称賛し、「ニューヨークタイムズ」のチャールズ・ダグラスが「書籍と読者の未来の関係を先取りした」と諸手を上げたのは当然だった。「ウォールストリート・ジャーナル」 のゴード・クロヴィッツは「これによって、われわれは注意の持続時間を取り戻し、専門家に頼ることなく言葉と意味を自在に拡大できるようになるだろう』と薔薇色の未来を描いたものだ。
 しかしカーは、こういう見方はあまりに希望的観測にすぎる、かれらはマクルーハンの指摘を理解していないと戒めた。マクルーハンの指摘とは「メディアの形式の変化は、そのメディアの内容の変化になる」というものだ。

 キンドルは何を置き忘れたのだろうか。
 作家のスティーブン・ジョンソンはキンドルの操作には何の障害を感じなかったし、電子テキストをスクロールするのにも何らの弊害を感じなかったが、読み進むうちに集中力が途切れたという感想をもった。
 政策研究所のクリスティン・ローゼンはディケンズ(407夜)の『ニコラス・ニックルビー』をキンドルで読んでいると少し散漫になったので、ついついハイパーリンクを辿ってディケンズのことや用語についてのウィキペディアを引いてマルチウィンドウ化していたところ、ふと気が付くとディケンズのテキストに戻って読む能力ががっくり落ちていたと述べた。
 かつてポスト・インダストリアル・ソサエティを描いて一世を風靡したダニエル・ベル(475夜)はもう少し別の感想をもった。電子書籍『ナポレオンのプロパガンダの誕生』を読むのにキーワード検索を入れたため時間はかかったが、それなりに満足できる読後を迎えられた。ところが数日後にその内容を思い出そうとしたら、さっぱり思い出せないのに驚いた。

 電子ブックリーダーに入った小説や評論は、おそらく同じテイストになってしまうのである。
 かつて『走れウサギ』のジョン・アップダイクは「本を読むことはエッジを感じて言葉を辿っていくことだ」と言っていた。そうだろうと思う。そのエッジは書き手にとっても読み手にとってもきわめて個性的なものなのである。ところが電子読書ではツルツルしすぎていて、そのエッジが掴めない。
 それなら、企業や役所で誰もが何の苦もなく電子化された文書が読めているのはなぜなのか。みんなそういうツルツル短文の電子文書を日々抵抗なく読んでいるし、アタマにも入るし、引用もできる。なぜ、そんなことができるのか。
 答えはかんたんだ。それらの文書は一冊の本や小説の作品にくらべて、きわめて短いものなのだ。また、その多くはメタファーやアナロジカルな表現を避けている。われわれは日常的にそういう電子文書に慣れているので、ついつい電子書籍にも同じ「読み」が効くと思っていたのだが、どうも問屋はそうは卸してくれなかったのだ。

 だったら、なんとか電子の「読み」を改善できないのだろうか。「本」を離れることはできないのだろうか。
 2009年、オライリー・メディア社が「モジュール構造」によるツイッター本を試みた。ティム・オライリーは、その特徴を次のように解説した。
 「オンライン・メディアが本の体裁、話法、構造にどんな影響を与えているかを調べたところ、電子メディアには昔ながらの本の構成原理とは異なる工夫が可能だと感じた。そこでわれわれは、それぞれのページを独立させ(せいぜい2~3ページのまとまりで)、その独立型のページをウェブのように読めるモデルを開発した」。本のマイクロコンテンツ化を試みたのだ。

 そういう試みはほかにもある。
 大手出版社のサイモン&シュスター社はバーチャルページにビデオを組みこんだ“VOOK”という、まったく新たなスタイルによる電子小説ソフトのモデルを発表した。テキストを直線的に読むのではない「読み」を想定していて、なかなかおもしろそうなアイディアだったのだが、その後の発展や評判はまだ入ってこない。何かがうまくいってないのだろう。
 別の発想をする開発者たちもいた。たとえば電子リーダーとSNSを合体させて、読書をチームスポーツのようなものにしてしまうという発想だ。そのチームあるいはチームどうしは、電子テキストをスキャンしながらチャットやバーチャルメモを交換するらしい。そういう試みにUSC(南カリフォルニア大学)のアネンバーグ・コミュニケーション研究所がとりくんでいる。
 研究プロジェクトの中心の「本の未来に関する研究機関」にいるベン・ヴァーシュボウは「これからの本は、ライブチャットの議論と、コメントと注釈を交換する時間差の議論との両方によって変革されていくのではないか」と、その展望を述べていた。
 似たようなことはケヴィン・ケリーの言う「オンラインによるカット&ペースト・パーティによる読書」にも暗示されていた。本はページ単位やさらにブロック単位に分割され、それらがリミックスされて別の本にエディティングされていくことによって新たな読書に代わるものになるだろうというものだ。ケイレブ・クレインはこれを「グループ読書状態」とも言った。

 こうした「本のマイクロ・コンテンツ化」とその「再編集化」という試みは、ぼくのような編集工学的な「読み」を当初から前提にしてきた者にとっては、とくにめずらしくはない。
 もともと多くの先駆的な書き手たちがこのようなカット&ペーストの方法で文章を書き、本をつくってきたのである。チューリッヒ・ダダのトリスタン・ツァラ(851夜)、ノイズ・ミュージックの未来派の旗手ルイジ・ルッソロ、カットアップ手法を駆使したウィリアム・バロウズ(822夜)たちは、そういう先駆者たちだった。野坂昭如(877夜)や町田康(725夜)の文章は、その逆用だ。
 クレインの言う「グループ読書状態」がつくられていくのは悪くない。悪くはないが、ぼくは以前から「共読」(きょうどく)こそが新たな読書スタイルを生むだろうと言ってきた。ぼくのように読み手であって書き手でもあるという仕事を両方続けてきた者からすると、そもそも「書く」ことはさまざまな共読(ともよみ)をすることであり、「読む」ということはさまざまな著者たちとの共書(ともがき)なのである。
 ただしそのためには、既存の「本読み」のしくみにもとづく歴史的共読状態がもっと多様に発見されなければならないと言うべきだった。

 読書というものは、ページの「めくり読み」であれオンラインの「おくり読み」であれ、そのコンテンツがもたらすイメージを外部に可視化しにくいままアタマの中に収納されて進む。
 そのため読書の達人はテキストを読みながら、その内容やイメージがどのように結像していったかというプロセスを(それをアップダイクのようにエッジと言ってもいいが)、アタマの中に空間的にも段取り的にも刻印することができる。むろん読みながら傍らのノートなどにメモをとってもいいけれど、そのメモの作り方がアタマの中のマッピングと対応していないとうまくない。
 そうしたことを電子的に補助するツールやソフトとして開発するのは、たしかに大いに可能性があることである。
 ところがここで、待ったがかかる。マクルーハンの指摘がモノを言う。新たなメディア・スタイルには新たなコンテンツ・スタイルが伴うはずなのだ。
 紙ページの「めくり読み」のためのコンテンツを、そのまま電子オンラインの「おくり読み」にしているだけでは、何もおこらない。それどころかゲーテやドストエフスキーがだんだん読めなくなっていく。電子メディアはそれにふさわしいコンテンツが生まれていくべきなのだ。
 それゆえ、以上のような試みには新たな「知のしくみ」を可能性が覗けるチャンスがあるだろうとともに、さまざまな根本的な問題も孕んでいると言わざるをえないわけである。

 ニコラス・カーは言及していないのだが、以上のような問題にはおそらく次のような検討が待っているのだろうと思う。
 第1には、こうした試みはそもそも言語の成り立ちや発展の方向にふさわしいものになっているのかということだ。文章というものは古代に言語がつくられ、村落での会話が成立し、その記録方法が発展するなかで定着してきたものだ。すなわち文章を読むということは、言葉や言語の歴史に内在していた編集力に応じてスキルアップしてきたものなのである。電子リーディングはそこをどう見るのかということが問われる。
 第2には、「本」は完成された”テキストの束”として読まれてきたのだが、これをプロセス・エンジニアリングするメディアに変えて読むには、もともとの書物時代の成立プロセスを活かすべきだろうということだ。
 「本」がつくられるプロセスとは、書き手が原稿を書いて、これをエディターがページネーションにして、ときにはさまざまな見出しを付け、それらに印刷と校正とデザイン行為と製本行為がくっついていくということである。目次・索引・あとがき・奥付も配慮される。これらのプロセスは、すでに出来上がったページを物理量として分割してマイクロコンテンツ化することでは、なかなか蘇ってはくれない。そこをどうするか。
 第3に、「本」を読む者は文字や単語や段落や登場人物を追っているとはかぎらない。「意味」「筋書き」「思想」「イメージ」「時代」「社会」を追う。それとともにそこに出入りする「表象」(symbol, figure, representation)を追う。また「感想」(feeling, impression, remarking)をもつ。これらすべての相互作用が「読書」というものである。
 たんにデジタルテキストを読むというならともかくも、これらの多様な組み合わせを電子リーディングのしくみに変換したいというのなら(つまりリバース・エンジニアリングしたいというなら)、以上のプロセスに代わる何かがリバースに、かつアブダクティブに、ふつうの言い方をするならまさに多元多層的に組み合わされる必要があるということだ。

 電子書籍やオンデマンド出版が騒がれるずっと以前から、実は「本の終焉」は何度も予想されてきた。
 1831年に詩人のアルフォカス・ラマルチーヌは「人間の思想は高速で世界に伝搬される。本は遅すぎる。今後の本はすべて新聞のようになるだろう」と予測した。1889年の「アトランティック・マンスリー」誌には、フィリップ・ヒューバートの「本や物語は近く出版という日の目を見なくなるかもしれない。それらはいずれ表音文字として聞き手にゆだねられていくだろう」という論評を掲載した。
 流行作家エドワード・ベラミーは「これからは目を閉じて読むメディアが出現するはずだ」と自慢した。グーグルグラスは『顧みれば』(ベラミーの傑作小説で、この小説から全米各地にベラミー・クラブが生まれていった)の頃すでに、空想されていたわけだ。
 でも、本はなくなりはしなかった。たしかに新聞もラジオもレコードも、またテレビやビデオテープもカセットレコーダーも大いに流行したのだが、そして印刷方法はさまざまに変化したのだが、本はまったくなくならなかったのである。
 なぜ、なくならなかったのか。そのことを考えてみることはとても重要だ。ただし、カーはそれには答えていなかった。

 一方、すでに述べたように、もしインターネットがわれわれに新たな時代の知性を充填させるとすれば、インターネットを使うことが「脳の可塑性」にとってそうとうに有効であることを立証する必要がある。
 脳はすこぶる反復的で、かつ集中的であり、また双方向的で依存性の高い刺激に加担する。おまけに神経回路は「陽性強化」を受けやすい。四書五経を素読するよりも、インターネットのほうが「陽性強化」は得意そうなのだ。
 そこでマイケル・マーゼニックは声を強めて「われわれはネットにさらされ続けることによって、脳を大規模に変えることができるはずだ」と豪語した。インターネットは「異なる脳」をつくりだすだろうとも言った。UCLAのゲーリー・スモールは、コンピュータやスマホや検索エンジンなどのデジタル・メディアの日常的使用は、しだいに古い神経回路を弱体化して、新たな脳細胞の変化と神経伝達物質の放出を誘発するだろうとさえ言った。
 しかし、これらはことごとく楽観にすぎ、ことごとく横着すぎる。もう少し「ページ読み」の機能特性を把握したうえで、大胆な工夫に向ったほうがいい。マンガというフォーマットが「コマ割り」や「吹き出し」を作り出したように、である。
 レイ・ブラッドベリ(110夜)の『華氏451度』ではないが、世の中から書物がなくなってからでは、われわれがわれわれ自身が獲得してきた才能を取り戻そうとしても、遅すぎるのだ。

 それではネット・オートメーションは、いったい何を得意としているのだろうか。PCのキーを叩き、マウスをドラッグし、左ボタンと右ボタンをクリックしてスクロール・ボールを回転させたからといって、われわれの脳はとくによろこぶわけではないはずだ。
 トラックパッド上で指先で線を引くように動かし、ブラックベリーやケータイ電話のキーパッド、またはシミュレートされたキーパッドを叩いてテキストを打ち出したからといって、書店から気にいりそうな一冊の本を選んで、そテキストに向かうような興奮があるかといえば、そんなことも保証されない。
 iPhone、iPod、iPadを回転させて横長のランドスケープや縦長のポートレートのモードを切り替えたからといって、またそこにあらわれたタッチセンサー式のスクリーン上の愛らしいアイコンと出会えたからといって、それが新時代の知性の舞台の開幕だと思えるかといえば、それもない。そんなことならとっくに電子ゲームに沸いた70年代にわくわくした興奮を感じたとき、そのユーザーはすばらしい読書人の一歩を踏み出していなけれはならなかった。
 ネットを日々操作するということは、クリックやスクロールのたびに何らかのコンテンツにタイピングやタッチの動作を通して出会っているということなのだから、もしもそのたびに出会うコンテンツが十分に編集されているのなら、電子ネットワークの中に昔ながらの本による学習に匹敵するだけの、もしくはもっと効率的な学習が可能にりそうな事態が出現していたって、おかしくなかったのである。だが、残念ながらそのようにはなってはいなかったのだ。

 さあ、これでだいたいの見当はついたと思う。「本を読む」ことと「ウェブページを読む」こととは、かなり異なる行為なのである。
 このことについての研究はまだ始まったばかりだが、ウルフは早々に「ウェブ読み」が「深い読み」(deep reading)をもたらなさいという実験結果を披露した。UCLAのゲーリー・スモールも「ウェブ読み」が脳の広範な各分野の刺激にわたって拡散しすぎているという実験結果を発表した。『ダメなものはタメになる』(翔泳社)で話題をとった啓発者スティーブン・ジョンソンも、「本を読む脳」と「ウェブページを読む脳」を比較して、前者がずっと脳を活性化させているという報告をした。
 これらはいいかえれば、ウェブはわれわれの脳に過剰なマルチタスクの負荷をかけすぎているということであった。多くのウェブユーザーはそんな加速的負荷には耐えられない。そこで誰もが「ちょっと見」で、ウェブ読みをすますようになっていったのである。ジェイコブ・ニールセンの視線追跡調査では、ほとんどのウェブページが10秒以下の「ちょっと見」ですまされているのだという。
 こうしたことを総合すると、「本を読む」ときの知覚行為に対して「ウェブページを読む」の場合の知覚行為は、あまりに高速広範多層に及びすぎていて、とうてい一人のユーザーの許容範囲に収まってはいないのだ。

 ネットはたしかに刺激的な「注意のカーソル」をダイナミックに動かしてくれるのであるが、結局はそれを分散させすぎるのである。当初はポルノサイトで特別の興奮を得たとしても、そのうちサイトをいじりまわしているうちに、いったい自分が何に興奮できるのか、その特別性がわからなくなってしまうのだ。
 アメリカ国立神経疾患研究所のジョーダン・グラフマンは、オンラインの刺激は脳のマルチタスク能力を刺激つづけるものの、そのマルチタスクをやりとげたいという意志をほとんど発動させなくなっていく、と警告した。
 ニコラス・カーはこう言っている、「われわれはメディアそのもの、点滅するスクリーンには強く集中する。けれどもそのメディアから速射砲のように発車される競合する情報や刺激のせいで、注意はほぼ拡散させられるのである」。
 しかしもうひとつ、インターネットがわれわれに負荷をかけているものがあった。このことも見逃せない。

 インターネットではユーザーはただちに社会的なIDをもつ。アバターであるにもかかわらず、実社会のIDをもつ。フェイスブックのようにそれを自慢の売り物にするメディアも少なくない。そのため、インターネット・ユーザーはつねに自意識を擽られるとともに、ネットの動向と賛否の情報とウィルスの危険にさらされる。
 ザッカーバーグはフェイスブックでアイデンティティは一つになると言ったけれど、そこでは思いのほかその自意識が邪魔をするわけだ。ウェブにアクセスすること自体が、自分でも思いもよらない「ネット自己」を肥大させ、意識させ、ときに増長させ、ときに落胆させてしまうのだ。
 もし、書棚から1冊の本をとって、それをちょっと読むのにいちいちIDによるアクセスをしないと読めなかったら、どうだったろう? 自由な読書の歓しみの大半が奪われていたにちがいない。本はIDがなくとも読める。このことを忘れてはいけない。

 本を読むとき、われわれはしばしば自由な中断をしている。このことにも恩寵を感じたほうがいいだろう。
 興味深い報告がある。オランダのラートボウト大学の無意識研究所のアブ・ダイクステルホイス所長が、持続と集中に関して興味深いことを指摘した。持続的注意のちょっとした中断が、その対象を思考している問題についての効果的な判断やヴィジョンをもたらしているというのである。
 この中断は「特定の知的目標が維持されているときに効果が出る」というもので、インターネットはこの知的目標の維持が支え切れないことが多く、そのわりにつねにクリックによる継続操作を要求されつづけるというのだ。

 いまや、ネットがつながったPCやスマホが1台ありさえすれば、どこにいようとも(充電のための電気もつながっている必要はあるが)、誰にだって孤立なんてないんだと思われるようになった。
 けれどもどうも、そうではなさそうなのである。『オートメーション・バカ』の第6章「世界とスクリーン」には、GPSを知ったイグルーリク島のイヌイット(エスキモー)の話が紹介されていて、その調査をしたオタワの人類学者クローディオ・アポータによると、しばらくするとイヌイットたちから空間知覚力が減退していったという報告があったと述べられていた。
 ドイツの認知心理学者のユリア・フランケンシュタインは、「ルートを探すのをテクノロジーに頼れば、それだけ認知地図を形成する能力が失われる」と報告した。ノルウェーのエドヴァルト・モーセルらは、脳には土地勘やナビゲーション能力を担当する場所細胞やグリッド細胞があるはずだと仮説して、それがどうやら海馬に見つかったと発表した。この細胞が作動してないと、記憶力のほうも低下していくらしい。
 さもありなん、だ。イヌイットは最先端のスマホとGPSを知ったがゆえに友達と会う必要がなくなり、かえって孤立してしまったのである。

 われわれの認知というものは、そもそもハイブリッドにできている。直線的な目的を達成するにも、知覚がハイブリッドに組み合わさっていかないと、その目的が達成できたことすら認知はされないのだ(cognitive hybridization)。
 ロボットが何もかもをやってしまうのはいいけれど、人間はその「何もかもかも」が認知できなくなってしまうのだ。
 全ネットや全オートメーションがわれわれに強要してくる問題は、総じてここにある。仮にドクター・アルゴリズムを完璧にインストールされている医療ロボットがいたとして、そのロボットが手術を完璧に遂行したかどうかは、どこかからは生身の医者が引き取らなければならないのだ。そうでないのなら、その医療ロボットがスキルを成功させたかどうかを、さらに観察するロボットが必要になり、その観察ロボの出来ばえを測定する見張りロボがさらに必要になる。
 これではシステムは、つねにカスケード故障(cascading failures)をおこさないためのカスケード地獄になっていく。
 かつて工学心理学者のリザン・ベインブリッジがみごとに言い当てた問題を紹介して、今夜の「二つのバカ」の話をおえることにする。ベインブリッジはこういうことを予言したのだ。

 たいていのシステム設計では、「生身の人間はまちがいを犯しやすい」という前提に立つ。これはハードウェア設計でもソフトウェア設計でも同じことだ。そこで、できるかぎり人間の関与を少なくしていく。最終的には画面や針の変化だけを見ていればすむようになる。
 ところが、どんな人間にとってもこの単純な役割を長時間続けることが一番不得意なのである。複雑なことは機械がみんな引き取って、人間には単純なジャッジばかりが残される。これが問題だったのである。こうして必ず事故がおこり、その現場担当者の責任が問われることになる。
 これは人間にわずかな労力しかもたせなかったシステムや機械の設計側の責任だ。いや、文明の責任だ。けれども、コンピュータシステムによる技術文明史というもの、決して機械に責任があったとは言いっこないだろう。
 今夜の2冊は、スマホに頼り、グーグル検索に身を任せすぎると、こういうことがおこりますよという警鐘だった。ただ、本気でこの警鐘を議論するには、AI(人工知能)をお化けにしたがっているASI(Artificial Super Intelligence 人工超知能)やAGI(Artificial Genreral Intelligence 人工汎用装置)の現状を検討する必要がありそうだ。だが、それにはもう少し面倒な議論があれこれ必要になるので、このあたりのことについては別の夜で千夜千冊したい。

⊕ 『ネット・バカ』 ⊕

 ∈ 著者:ニコラス・G・カー
 ∈ 訳者:篠儀 直子
 ∈ 発行者:清水 一人
 ∈ 発行所:青土社
 ∈ 装丁:竹中 尚史
 ∈ 印刷所:ディグ
 ∈ 製本所:小泉製本
 ⊂ 2010年7月30日発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈ プロローグ―番犬と泥棒
 ∈ 第1章 HALとわたし
 ∈ 第2章 生命の水路
 ∈∈ 脱線―脳について考えるときに脳が考えることについて
 ∈ 第3章 精神の道具
 ∈ 第4章 深まるページ
 ∈∈ 脱線―リー・ド・フォレストと驚異のオーディション
 ∈ 第5章 最も一般的な性質を持つメディア
 ∈ 第6章 本そのもののイメージ
 ∈ 第7章 ジャグラーの脳
 ∈∈ 脱線―IQスコアの浮力について
 ∈ 第8章 グーグルという協会
 ∈ 第9章 サーチ、メモリー
 ∈∈ 脱線―この本を書くことについて
 ∈ 第10章 わたしに似た物
 ∈∈ エピローグ―人間的要素
 ∈∈∈ 注
 ∈∈∈ もっと知りたい人のための文献一覧
 ∈∈∈ 訳者あとがき
 ∈∈∈ 索引

⊕ 『オートメーション・バカ』 ⊕

 ∈ 著者:ニコラス・G・カー
 ∈ 訳者:篠儀 直子
 ∈ 発行者:清水 一人
 ∈ 発行所:青土社
 ∈ 装丁:竹中 尚史
 ∈ 印刷所:双文社印刷(本文)
      方英社(カバー・扉・表紙)
 ∈ 製本所:小泉製本
 ⊂ 2014年12月25日発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈ はじめに―オペレータへの警告
 ∈ 第1章 乗客たち
 ∈ 第2章 門の脇のロボット
 ∈ 第3章 オートパイロットについて
 ∈ 第4章 脱生成効果
 ∈∈ 幕間―踊るネズミとともに
 ∈ 第5章 ホワイトカラー・コンピュータ
 ∈ 第6章 世界とスクリーン
 ∈ 第7章 人間のためのオートメーション
 ∈∈ 幕間―墓盗人とともに
 ∈ 第8章 あなたの内なるドローン
 ∈ 第9章 湿地の草をなぎ倒す愛
 ∈∈∈ 注
 ∈∈∈ 謝辞
 ∈∈∈ 訳者あとがき
 ∈∈∈ 索引

⊗ 著者略歴 ⊗

ニコラス・G・カー
著述家。『ガーディアン』紙などでコラムを連載するほか、多くの有力紙に論考を発表。テクノロジーを中心とした社会的、文化的、経済的問題を論じる。著書は多くの言語に翻訳され、日本の既刊書に『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』(ランダムハウス講談社)、『クラウド化する世界』(翔泳社)がある。