才事記

おそめ

石井妙子

洋泉社 2006

祇園と銀座の夜を貫いた
京女のはんなり芯棒。

 ぼくは酒を嗜まないので、居酒屋やバーやクラブのたぐいにはほとんど行かない。数年に一度、誘われて行くだけだ。それでも一滴も呑まない。えっ、ちょっとぐらいはいいでしょうと言われるが、絶対に遠慮する。これでは誘うほうもつまらないだろうから、二度目のお誘いはめったにない。
 こんなふうなので、居酒屋のおやじやバーのママやお店の別嬪さんたちとはほとんど知り合いがいない。一人、気にいっている水商売一族の娘が京都にいるのだが、この子はいまは某セーネンに首ったけで、その心は世の中からは見えないところにいる。
 かくてワイナリーから一杯呑み屋にいたるまで、酒房にはとんと縁が少ないのだが、二つの理由でぼくの周辺には大学時代のころまでは、バーやクラブのママたちが行き交っていた。ひとつは家が呉服屋だったせいだ。とくに父が横浜元町で店を失敗するまでは、京都や東京や横浜の名だたる店のマダムやホステスに松岡呉服店の着物が動きまわっていた。そこに「エスポワール」「おそめ」「クリフサイド」「眉」といったお店の名が煌めいていた。

 もうひとつは、ぼくが子供のころから花柳界に馴染んでいたことだ。祇園にも先斗町にも上七軒にも、しばしば連れられていた。
 早稲田のころは雛祭りに招かれたのをきっかけに(花柳界で雛祭りに招かれれば第一等なのである)、父が贔屓にしていた赤坂の「花千代」の姉妹とよく遊んだ。
 こうした華やいだ場がもたらす艶めくものは、ぼくの目の先をちらちら動く気配のようなものにすぎなかったのだが、それでも少年期の近くでその風情に接していたかどうかということは、何かの“格別な感覚”をぼくにもたらしていた。そんなことをかつて辻村ジュサブローさんと祇園のお茶屋「廣島家」で話しこんだことがある。そのときの話というのは、何枚も重ね着している女の着物の不思議と、その着物の袖や裾の“風”の不思議を感じたかどうかということが、その少年の将来を決めているようねえという、そんな他愛もない話だった。
 たしかに、着物は少年をおかしくさせる。しかしそうだとすると、ママやホステスの風情と、芸者・芸妓の風情はかなり異なるものであるのに、着物を纏った姿はどう違うのか。その違いを感じさせられる女性は、さてどのくらい、いらっしゃるものなのか。

 かつて上羽秀(うえば・ひで)という一筋な女(ひと)がいた。「月見草のような女(ひと)」だと言われてきた。京都と東京のバー「おそめ」のママである。客はみんな「おそめさん」と呼ぶ。
 祇園の芸妓(げいこ)から、木屋町のバー「おそめ」の開店へ、さらに銀座の高級クラブ「おそめ」のマダムになった。若いころから光り輝くような京女だと言われ、つねに川口松太郎、大佛次郎(458夜・第1巻)吉井勇(938夜・第6巻)、小津安二郎らの文人たちに絶賛された。十五世市村羽左衛門と連れ立って四条通りや河原町通りを歩こうものなら、すぐに人だかりがして、「日本一! ご両人!」の声がかかった。実際にも、日本一の綺麗な芸妓だと言われていた。けれども派手な着物は決して着なかった。
 そのころ何度も「おそめ」に遊んだ白洲次郎は、松八重(祇園のお茶屋)が「一流の唐津」なら、おそめは「織部の傑作だ」と言い、白洲正子は「平安絵巻から抜け出した白拍子かお巫女(みこ)」のようだと書いた。おそめのずっと後輩にあたるバー「姫」のマダム山口洋子は、「京人形というより、もの哀しげな博多人形」と綴っていた。
 織部で白拍子? 京人形より博多人形? これではよくわからぬ評判だが、おそめさんはまさにそのように、周囲の目をことごとく妖しくさせたということだろう。しかもおそめさんは、祇園の芸妓出身で、バーのマダムになった第1号なのである。

 京都木屋町大黒町。
 高瀬川にかかる三条小橋の近くに浪速組という屋号の炭問屋があって、おそめこと秀は、そこに生まれた。大正12年のことである。
 父は角田元義。母は京都の織屋の娘だった上羽よしゑ。祖父に元三郎がいて、息子の花嫁のよしゑを犯そうとしたほどの荒い気性の持ち主だったという。祖父も父も酒豪だった。そのせいか、秀も小さいころからお酒にめっぽう強かった。
 角田の家は安定しなかった。秀はいろいろ事情があって、母方の上羽を名のることになった。父は甲斐性なしで先斗町で遊ぶばかり、炭問屋浪速組はあっというまに没落していった。やむなく母はカフェの女給となった。時代は昭和になっている。
 そういうなか、きっといろいろのことを察知していたのであろう、秀は小学校を卒業する年頃になると、「うちは舞妓さんになりたい」と言い出した。祇園にするか先斗町にするか、上七軒がいいか宮川町がいいか五番町がいいかと迷ったあげく、母は秀を一人で東京新橋の花柳界に放り込むことにした。置屋に暮らす「仕込みっ子」である。

 東京の花柳界に京都の少女が放りこまれることはめずらしい。踊りの素養でもあれば半玉(京都なら舞妓)になれたけれど、東京の花柳界のしきたりでは、まずは藤間流のお師匠さんについてお稽古からしなければならない日々が待っている。
 秀は、そういう東京の日々をたった一人でおくったのだが、まったく寂しくはなかったらしい。おおいに楽しかった。袂の長い綺麗な着物が着られて、美しい華やぎに囲まれていることに堪能できる少女だったのである。最初から気っ風もよかった。「静かな愛想」ともいうべき特性を、はやくも発揮していた。
 ところが、母はそのように東京になじむ娘をほっとけなくなったらしく、京都に連れ戻した。14歳になっていた秀は、今度は祇園の屋形の「小勝」に入った。けれどもこの歳では、もう舞妓にはなれなくなっている。新橋とはちがって、祇園には祇園のしきたりがある。井上流を習いながら、見習茶屋の「玉川家」の芸妓として売り出されることになった。当時は富田家につぐ格式のお茶屋である。昭和13年(1938)、15歳の秀は島田を結い、黒紋付の引き着で見世出し(みせだし)をする。

 これが祇園の芸妓「そめ」の誕生だった。
 たちまち「おそめ」「おそめ」と呼ばれて、売れっ妓になった。西川布団の社長が贔屓を代表して「おそめを見る会」を開いた。この回は定期的に開かれたようだが、秀はそれでも謎のように微笑しているばかりだったという。何事にも動じない美人なのである。
 
昭和10年代に京大生としてお茶屋遊びをしていた武智鉄二(761夜・第6巻)は、そのころのことをのちに回顧して、こんなふうに書いている。学生は勝手に議論ばかりするような連中だったので、芸妓たちはさっさとお座敷を引きあげてしまうのだが、そんなときおそめさんだけは一人坐って退屈なお酌をくりかえし、たまには注がれる盃を呑みほして、いつまでもつきあってくれた。それでいて膝もくずさない酒豪ぶりは鮮やかな佇まいだった――というふうに。

昭和13年、祇園で芸妓に

 こういうおそめの半生(ほぼ生涯に近い)が、ついに一冊の丹念な伝記になったのが、本書である。
 今年の1月に出たばかりで、さっそく読んだ。こんなに詳しいものは、いままでなかった。すぐに感想を書こうと思っていたのだが、ついつい書きそびれていた。全集『千夜千冊』に入れたかったが、それはまにあわなかった。
 著者は1969年生まれの30代。白百合の国文科を卒業したあとは囲碁の観戦記などを書いていて、著書も『囲碁の力』一冊があるばかりの異色のフリーランス・ライターである。偶然に京都岡崎の「かふぇ・うえば」で老女のおそめさん(上羽秀)に出会ったのがきっかけで、それからは矢も盾もたまらず、じっくり5年をかけて仕上げたそうだ。
 本書がどの程度、正確なのかはわからないけれど、すこぶる興味深かった。ぼくの父が本書にドキュメントされている前半期の動向の近くにいたこともあって、いろいろ世事を感じるところもあった。父の知り合いの顔も何人も出てくる。ぼくの知り合いもいる。たとえば井沢屋さんだ。
 しかし、ぼく自身はおそめさんを知ってはいない。京都の御池鴨川べりに豪勢すぎる「おそめ会館」ができた昭和35年ころ、父に連れられて「息子のセイゴオですわ」と紹介されただけ、あとは噂や風の便りで聞こえてくることしか知ってはいない。

 話を戻して、祇園で人気が出た秀がそのまま順風満帆になっていったかというと、そうではなかった。そうとうな“いじめ”にあった。井上流の踊りもろくに踊れない。花柳章太郎の席では途中で踊りの手を忘れ、ぺたりと坐りこみ、「すんまへん。うち、なんやわからんようになってしもうて」と謝る始末だった。
 
 一方、秀は恋もした。相手は東京から遊びにきた能役者の梅若猶義だったようだが、成就しなかった。芸妓の身分で恋が叶うということはほとんどないといってよい。当時はとくに「水揚げ」と「身受け」が常識で、旦那が誰になるかはお茶屋と屋形の女将(おかみ)が差配する。ぼくの父にもお気にいりがいて、それを行きつけの先斗町の「初音」の女将に相談したところ、間髪入れずに「あんた、あの子はやめときやす」と言われたそうだ。
 秀には、おまえがほしいという旦那がすぐ名のり出てきた。松竹の大谷竹次郎・白井松次郎の弟にあたる白井家の当主である(名前は伏せておく)。木屋町大黒町の秀の生家の真向かいの屋敷の持ち主。秀はそんな“向かいのおやじ”に身受けされるなんてとんでもないことと思ったが、女将が承知してしまえば、そうはいかない。落籍(ひか)されて、白井が用意した木屋町仏光寺の家に移り住んだ。
 高瀬川と鴨川のあいだになる家。母のよしゑ、妹の掬子も一緒に住むようになった。

 毎日は退屈である。秀は井上流をやめ、尾上菊之丞の門で踊りを習いはじめ、好きな芝居には毎日でも通った。
 南座も映画館も演芸場も白井の持ち主なのだから、何ひとつ不自由はしない。お金も使いほうだい(秀の金ばなれは当時から有名だった)。若い曾我廼家明蝶に惚れて、届け物をしたりもした。うっかり者の明蝶もその気になって連れ立ったりしていたのだが、それが噂になり、明蝶が白井に「えらいことしました、すんまへん」と詫びを入れるという一件にまでなったこともあった。
 戦時中の秀のことは、あまり書いていない。慰問団に加えてもらったりしていたらしいが、よくわからない。かくて敗戦。祇園にも灯が戻ってきた。22歳になっていた。
 秀は、ああ、祇園に戻りたいと思う。白井は気晴らしにお座敷に出たらええやないかと言う。太っ腹なのである。そのくせ白井は仏光寺大黒町の家を改造してダンスホールをつくったりもした。秀は客のダンスに応じる芸妓ぶりも発揮した。

 ある日、俊藤浩滋(しゅんどう・こうじ)という男が秀を見染めて、ダンスを申し込んだ。7つ年上の危ない橋をわたってきた男である。賭場に何度も出入りもしていて、のちに山口組の傘下で最大の組をつくった菅谷正雄とはポン友の関係だった。のちのちには東映の任侠映画の大ブームをおこすプロデューサーとなった。
 
 これだけでピンとくるなら、本書も、ぼくの説明も、いらないだろうけれど、この俊藤浩滋が「おそめ」の歴史のすべてに君臨していったのである。なんといっても秀が惚れてしまった。旦那の白井に隠して、体も許した。のみならずそれを白井に打ち明け、納得させ、太っ腹の白井からは木屋町仏光寺の家と十分なお金を貰い、秀は俊藤との生活に走ることになった。母親は大反対だったが、秀は押し切った。
 子供も生んだ。高子という。俊藤には妻がいたが、秀はそれを知らぬまま高子を育て、カフェ「菊水」で女給をしながら着物を質草にして、何もしない俊藤に貢ぎつづけた。「菊水」には妹の掬子も呼んだ。
 秀にはやってみたいことがあったのである。それが家を改造して、小さなバー「おそめ」を開くことだった。「菊水」で女給をし、そこに妹を呼んだのはその準備だった。

バー「おそめ」開店当時

 昭和23年、25歳。「おそめ」が開店した。
 改装費は大野伴睦が工面した。洋酒類は西川布団の社長が引き受けた。カウンターに5、6人がかけられるだけのちっぽけな店だったが、大当たりした。川口松太郎、服部良一、吉井勇、朝日新聞大阪編集局長の門田勲、大佛次郎、映画の小津安二郎、川島雄三らが真っ先に常連になった。
 東京では戦前にカフェ「タイガー」の人気女給だった高崎雪子(通称・お夏)がバー「ルパン」を開いて、太宰治(507夜・第1巻)坂口安吾(873夜・第5巻)が常連になったのだが、京都ではまだそういうバーは「おそめ」だけだったはずである(木屋町六角に「有明」があったくらいのものだ)。先に紹介した白洲次郎と白洲正子は、舞台美術家の伊藤熹朔に連れられてその小さいが、独特の風情のあるカウンターを愛した。

左より小津安二郎、秀、大佛次郎

 木屋町の「おそめ」は繁盛しつづける。5、6年がたった。けれども売上げは俊藤が使うばかり、加えて俊藤の妻の百合子夫人が生活費を取りにくるようになっていた。母親はあいかわらず「あんた、俊藤と別れよし」と言いつづけたが、秀はなぜか聞こうとしない。
 それより秀は、「うちは東京に店を出したいねん」と思うようになっていた。祇王寺の庵主の智照尼に相談したり(瀬戸内寂聴『女徳』のモデル)、伊藤熹朔にツテを聞いたり、東京に“見学”しに行ったりしていた。そこへ喜朔の兄(ということは千田是也の兄)の伊藤道郎が銀座の物件を紹介した。銀座3丁目の文祥堂の裏手であった。日本の伝統文化を世界に紹介した伊藤道郎については、ぼくが以前から気になっていた人物だが、詳しくは第518夜の『鷹の井戸』を読まれたい。
 秀が関心を寄せた銀座では、京都とちがってバーが次々に産声をあげていた。有名なところでは、片岡としの「ブーケ」、瀬尾春の「らどんな」、お夏の「ルパン」、野中花の「セレナーデ」、小島愛子の「二十五時」などだろう。それになにより、川辺るみ子の「エスポワール」が大繁盛していた。ぼくの父がそこのホステスさんたちに着物を売っていた超高級バーである。

左より秀、智照尼、川口松太郎

 秀は怯まなかった。昭和30年(1955)7月、銀座に「おそめ」を開店させた。
 内装は「一力さんみたいな紅柄(べんがら)の色にしておくれやす」という秀の希望で、熹朔が無償で請け負い、紅柄格子に石畳の廊下があって暖簾がドアがわりに揺れるというふうに造作した。案内状は吉井勇が代表して書いた。連日大盛況となった。
 ここで、のちに美の妍を競うライバルと並び称されることになる川辺るみ子の眉が吊り上がった。「エスポワール」の客が奪われただけではない。川辺が惚れきっていた白洲次郎が「おそめ」にばかり行くようになってしまった。川辺がそれに気づいて、夜な夜な「おそめ」に乱入したという噂がとんだ。
 2年後、川口松太郎が『夜の蝶』を書いた。上羽秀と川辺るみ子をモデルにし(お菊とマチ)、あいだに白洲次郎をモデルにした男をおいて、二人が火の出るような競い合いをしたという小説である。すぐに山本富士子の主演で映画になった。ぼくも封切り直後に父と母とに連れられ、三条河原町の京宝で見た。
 川口の『夜の蝶』は、「おそめ」と「エスポワール」の二人のマダムを天下に知らせた。「銀座のマダム」「ホステス」「夜の蝶」「飛行機マダム」(秀は京都と東京の「おそめ」を飛行機で往復して掛け持っていた)が流行語になった。週刊誌もさかんに二人にインタビューをした。
 そこへ銀座のホステス坂本睦子の自殺があって、その愛人であった大岡昇平(960夜・第5巻)がその顛末を下敷きにした『花影』を書いた。追い打ちをかけるように、瀬戸内寂聴は『京まんだら』を書いて、秀と川口松太郎の関係を暗示した。世の中、銀座のホステスで回っているかのようなのだ。このころは多くの作家がモデル小説で競った時期でもあった。それが警戒されるようになったのは、三島由紀夫が『宴のあと』でプライバシー裁判をしてからである。

最後まで「おそめ」の常連客だった白洲次郎

 高度成長期の槌音が響く昭和30年代、「おそめ」と「エスポワール」は著名人の巣窟となっていた。上羽秀と川辺るみ子はマスコミの寵児であった。
 が、「おそめ」のほうが品のようなものが一段上だったようだ。高見順、伊藤整、田辺茂一、水上勉吉行淳之介、近藤啓太郎らが次から次へと押しかけた。「文壇バー」という言葉も流行語になった(ぼくは松本清張に連れていかれるまで、文壇バーのどこも知らなかった)。しかも「おそめ」は京都店ももっていた。山口淑子そっくりの行方(なめかた)悦子や長塚マサ子(のちに岩田専太郎と暮らす)といった美貌の片腕も秀を助けた。
 たちまち「おそめ」は狭すぎるものとなり、8丁目に引っ越した。バー「おそめ」はクラブ「おそめ」に発展していったのである。バンドも入るようになった。そして、このころから店の仕切りを俊藤がしている姿が目立つようになっていた。
 そこで秀はやめておけばよかったのかもしれない。けれども勢いはとまらない。昭和35年(1960)3月、秀は京都鴨川べりの御池通りに320坪の「おそめ会館」をオープンさせたのだ。1階に「ナイトクラブおそめ」、2階に「グリルおそめ」と「バーおそめ」。ナイトクラブはダンスホールとバンドステージが用意されていた。開店日は飛行機をチャーターし、「おそめ号」と名付けて東京の客が運ばれた。
 ぼくが父に連れられた「おそめ」はここだった。なんだか眩(まばゆ)く、大袈裟なものを感じた。

 こうなると、秀は銀座を留守にすることが多くなる。たちまち「エスポワール」が巻き返し、そこへ新たな参入が加わった。
 三好興産の三好淳之が手がける「ラ・モール」の進出である。「おそめ会館」オープンの翌月、三好はシャンデリアと大理石で装飾し、壁には梅原龍三郎・安井曾太郎・藤田嗣治の絵を飾り、ずらりと美女を揃えて「ラ・モール」を開店させた。マダムには花田美奈子が起用され、開店挨拶状がムーラン・ルージュの雰囲気とともにパリから届くというアイディアを披露した。
 それまでの銀座のバーやクラブのイメージを一新するフランス仕込みの爆弾のようなものだった。花田さんは、ぼくものちのちいろいろな面でお世話になったマダムである。その後はビアレストラン「ローゼンケラー」を筆頭に、銀座「マキシム」や六本木「パブ・カーディナル」や新宿「エル・フラメンコ」の開店をはじめ、数々のフードプランナーを手がけた。
 銀座は一気に乱世を迎えた。翌年には本間興業がクラブ「バイカウント」を開き、大阪からは「じゅん」が進出した。その年の11月、「おそめ」バッシングの開始を告げる事件がおこる。「おそめ」のバーテンダーがニセ洋酒を客にふるまっていたという事件である。
 新聞と週刊誌が一斉に書き立てた。秀は「糸ちゃん(バーテンダー)が帰ってきいひんとわからへん」と言って、お店にはやましいところは何もないと信じていた。実際にはそうだったのであろう。バーテンダー一人のフライングなのだろう。しかし「おそめ」バッシングは容赦がなかった。秀はさすがに失望しはじめる。
 こうして、銀座の主役はマダムからホステスの時代へと転換するか、「姫」の山口洋子や「眉」の井上みちこのように、新たな個性をつくるほうへと転じていった。客の主流も社用族に変じていった。日本列島改造時代だった。

 ナイトクラブと化していった「おそめ会館」には、アイ・ジョージ、鶴田浩二、雪村いずみ、松尾和子、美空ひばりが立った。パッケージで組み上がる芸能人の仕事もふえた。
 これらの興業はどこかで、山口組などとつながっていた。そういう芸能ニッポンの時代だった(ナベプロと「しゃぼん玉ホリデー」が懐かしい)。そして、こうした組み立てをいっさい準備したのが秀の内縁の夫であった俊藤浩滋なのである。俊藤は店の人事の大半を仕切り、そのうえでさらにとんでもない人物を迎えた。“京都の黒幕”といわれた山段芳春を顧問にしたのだ。亀井静香もアタマが上がらない大立者である。日本最後のフィクサーとよばれた三浦義一(児玉誉士夫の兄貴分)も出入りした。三浦は秀にはぞっこんで、財布を秀に渡すとみんなにチップを配らせて豪遊しまくっていた。
 俊藤はこうした人脈をいかし、プロ野球の東映フライヤーズが巨人の水原茂を引き抜く手助けをして(仲人に立ったのは野村證券の瀬川美能留社長)、しだいに東映映画の大川博社長のお気にいりになっていた。のちに社長になった岡田茂とも昵懇になっている。

 俊藤浩滋の満を持したような活動は、皮肉にも凋落しつつあった秀の最後のステージを用意した。本書はそのあたりの経緯も詳しく書いている。しかしぼくは、秀の半生記をそろそろ結んでしまいたい。最後まで書くのが忍びない。
 そのため、あっさり説明しておくが、俊藤浩滋は、かの藤純子の父親なのである。百合子夫人とのあいだの娘だった。藤純子は小さな頃から日本舞踊を習っていて、秀も発表会には着物を贈ったり、祝いを届けていた。娘が高校生になったとき、大川・岡田に気にいられて東映任侠映画やヤクザ映画の路線を猛進しつつあった俊藤は、藤純子のデビューをマキノ雅弘に委ねた。
 まさにそのころ、秀は銀座の「おそめ」を静かに守るだけになっていた。週刊誌は「おそめ二流バーに転落」と書いた。秀は家に戻ると、俊藤の世話をするほうに時間をさくようになっていた。俊藤は酒は嗜まず、飲食もほとんど家でとるタイプだったらしい。
 秀の母親のよしゑにずうっと非難されつづけた俊藤は、こうして「おそめ会館」が閉じていった昭和40年代、ついに秀を救う側に立ったのだ。いや、それを望んだのは秀だったというふうにも噂される。
 それからしばらくのちの昭和53年2月、銀座「おそめ」がひっそりと閉店した。30年におよんだ“おそめ伝説”の幕が下りたのだ。

 秀は家の人になった。気分を変えるためか、二人は京都岡崎に能舞台とエレベーターがついている豪邸を建てた。表札には「俊藤浩滋」と「上羽」が並んだ。
 その豪邸には俊藤の子供たちが出入りした。藤純子も南座に出るときは1カ月近くにわたって岡崎に逗留した。
 それからまたしばらくして、二人は結婚をした。入籍した。「なんで籍に入れなあかんの」と言っていた秀だったようだが、これは俊藤のたっての希望だったようだ。平成6年のこと、二人は夫婦になった。新郎は77歳、新婦は71歳である。7年後、俊藤が84歳で死んだ。喪主には俊藤秀と印刷されていた。
 娘の高子が岡崎の1階を改装して、「かふぇ・うえば」を開いた。母のためかどうかは、わからない。そこへある日、石井妙子が訪れ、老女上羽秀が「おそめ」であることを知った。
 本書はそこから書きおこされている。稀にみる京女の生涯である。ぼくの父はこう言っていた、「おそめさんみたいな人は、もう祇園にも出へんやろな」。母はこう言っていた、「おそめさんは男さんの観音さんやったろな」。

附記¶本書の巻末にのっている緻密な参考文献で、ぼくが読んだことがあるのは、小説と一般歴史書をべつにすると、依田義賢『京のおんな』(駸々堂出版)、佐野美津子『祇園・女の王国』(新潮社)、山本雅子『お茶屋遊びを知っといやすか』(廣済堂出版)、福富太郎『昭和キャバレー秘史』(文春文庫)、白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮社)、青柳恵介『風の男・白洲二郎』(新潮社)、マキノ雅弘『マキノ雅弘自伝』上下(平凡社)、俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』(講談社)あたり。読んでもいいなと思ったのは、津村節子『銀座・老舗の女』(東京書房)、野中花『昭和・奇人・変人・面白人』(青春出版社)、大下英治『銀座らどんな物語』(講談社)、金森幸男『銀座エスポワールの日々』(日本経済新聞社)、山口洋子『ザ・ラストワルツ-「姫」という酒場』(双葉社)、久世光彦『女神』(新潮社)など。