父の先見
日本の前衛絵画
美術出版社 1968
どんな時代にも前衛はいるものである。日本でいえば今様の遊女もバサラ者もカブキ者も前衛だった。既存の価値を壊し、新たな意匠をともなって急激に出現してきたものたちは、つねに前衛とよばれるにふさわしい。ぼくの青春時代ではオノヨーコや草間弥生、唐十郎や寺山修司、高松次郎や赤瀬川原平が前衛だった。そこには国内における特異性だけでなく、国際同時代的な目で見てもある程度の独自なスタイルやメッセージが発露していた。だからこそ日本の前衛というにもふさわしかった。
それに対して海外のアヴァンギャルドな活動をまねる前衛らしきものも前衛もどきもある。これもどんな時代にもいるもので、懐素をまねる書人にも八大山人を好む水墨山水にもあらわれた。かれらは意外に日本独自であろうとすることを誇示した。
20世紀の日本美術でも、つねに前衛は取沙汰されてきた。とくに構成主義や表現主義、あるいはダダやシュルレアリスムが入ってきたころは喧しい。しかし、その実情にはいささか複雑な事情があって、これこそが日本の前衛絵画だと太鼓判を捺せるものが際立たない。
北脇昇をKと名付けることからペンをおこした本書は、20世紀の半分を走りつづけた特異な画家北脇の思索と実験と挫折を縒り糸にして、そうした日本の前衛美術の動向の実像、とりわけ日本に根差したかどうかもさだかではないシュルレアリスムの動向を追って、読ませた。古賀春江や福沢一郎では乗れないなと思っていたぼくも、本書で初めて見えてきたことが多かった。1968年の刊行とほぼ同時に読んだのだとおもう。
近代日本と昭和前半の時代に、前衛美術があったことは否定できるはずはない。たとえば明治洋画壇が確立したのちのフューザン会や二科会の新人たちの動き、キュビズムやフォビズムが入ってきて触発された東郷青児や萬鉄五郎の活動にはそういう気概があったし、未来派美術協会・アクション・マヴォ・三科会・造形美術家協会も前衛美術の運動の萌芽たりうるものだった。
ふつう、日本の近現代の絵画運動がどのように語られているかというと、これを洋画にかぎっていうのなら、たとえば青木茂と酒井忠康が監修した「日本の近代美術」全12巻(大月書店)などの分配などがそのごく一般的な指標になろうかと思うのだが、参考のためにその作家たちの分類を示しておくと、次のようになっている。
第4巻
「新思潮の開花」萬鉄五郎・岸田劉生・坂本繁二郎・小杉未醒・中村彝・小出楢重・関根正二・村山槐太第7巻
「前衛芸術の実験」古賀春江・普門暁・村山知義・柳瀬正夢・神原泰・東郷青児・坂田一男・中原実第8巻
「日本からパリ・ニューヨークへ」佐伯祐三・藤田嗣治・岡鹿之助・北川民次・野田英夫・石垣栄太郎・清水登之第9巻
「1930年代の画家たち」前田寛治・長谷川利行・児島善三郎・鳥海青児・須田国太郎・海老原喜之助・安井曾太郎・梅原龍三郎第10巻
「不安と戦争の時代」三岸好太郎・福沢一郎・靉光・松本竣介・川口軌外・北脇昇・宮本三郎・山口薫
いくぶんプロレタリア美術を重視しているところはあるが、おおむねはこういう流れであった。その後に大家になった画家も数々いるが、だいたいはこの順で世間を騒がせた。なかに前衛や前衛もどきが交じっている。
しかし、ここが「前衛」だと美術史が認定しているのは第7巻の古賀春江から中原実までの短い季節なのである。そこから飛び火して第10巻の三岸好太郎や福沢一郎や北脇昇になる。なぜ日本の前衛絵画はこんなに跛行的になったのか。本書はその理由として、日本のシュルレアリスムの定着がきわめて甘かったことにも関係があると見た。詩人の活動が先行していたこともあると見た。
とくに昭和とともに動き出した詩人たちによる「前のめり」は、前衛のもつ独特な清新な気風に溢れて、あたかも芸術全般のリーダーをつとめるかの勢いだった。北園克衛・上田敏雄・上田保たちが「文芸耽美」にアラゴン、エリュアール、ブルトンの訳詩を載せたのが昭和元年(1925)である。2年後、北園らはいまでは伝説的な雑誌となってたまに復刻されることさえある「薔薇・魔術・学説」で(この雑誌はぼくがいっとき憧れていた)、日本の超現実主義宣言を放ち、同じ年の「詩と詩論」では北川冬彦がブルトンの「シュルレアリスム宣言」を訳して、北園・西脇順三郎・滝口修造・春山行夫がそれぞれ果敢なメッセージを加えていた。
けれどもそれが日本のシュルレアリスムのリーダーシップと呼べるものだったかというと、はなはだ心もとないものがある。北園らはアンドレ・ブルトンの役割など担う気がなかったからだった。当時の批評家の荒城季夫はそうした意図を見抜いたかのように、北園らの"遊び"をこんなふうに揶揄した。「しょせんはナンセンス文学にある無目的な放浪性の魅力と等しい精神の夢遊状態、精神のプロムナード、目的のない精神上のヴァカボンタージュであって、社会不安、思想的動揺期、爛熟した文化の上で指標を失った思想的放浪者にすぎない」。
なかなか手厳しいが(北園克衛をこのようなリトマス試験紙で見ることはまったく見当ちがいでもあるのだが)、これらはまだしも詩人たちの動きであって、美術家たちの動きはどうだったかというに、この「精神上のヴァカボンタージュ」の先頭を走るというのでも、それに呼応するというのでもなかったのである。
少なくとも画家の古賀春江や東郷青児や福沢一郎が呼応していたようには見えなかったのだ。三岸好太郎や川口軌外に日本のシュルレアリスム絵画があったかどうかといえば、疑問がのこるのだ(三岸は33歳で夭折しているので、もし生きていたらどうなっていたかはわからない)。
ともかくも、それらは新しいフォルマリスムの気分の主張と技法の踏襲ではあったろうけれど、それ以上のものではなかったと中村は書いている。
ヨーロッパのようにリアリズムの季節を十分に体験しなかった日本がシュルレアリスムに走ることは、滝口修造が本書の「序にかえて」で書いているのだが、あの滝口でさえ「当時の画家たちにシュルレアリストとしての徹底を期待することはかなり早くに断念しなければならなかった」のである。そのため滝口は、「この序文を書くことに心苦しさを蔽うことができない」とも書いた。
洋画が生まれてまだ数十年、それがすぐさま表現主義やシュルレアリスムがやってきたからといって、そこに飛びつこうとしても無理があったということなのだ。ぼくは必ずしもそのようには見ていないけれど、総じていえば、日本のシュルレアリスム運動は結局はヨーロッパン・アヴァンギャルドの浅薄な模倣でしかなかったということなのである。他のスタイルはともかくも、シュルレアリスムについては日本の画壇はこれを消化もできず、また乗り超えられもしなかったという印象なのだ。
では、北脇昇の画業や苦闘や実験は何だったのか、北脇とともに前衛絵画を描こうとした試みは何だったのかというのが本書のライトモチーフになっている。この難題をかかえて近現代史を書き抜けきった本書は、日本の前衛美術論にはきわめて稀な好著であった。
北脇昇は明治34年の生まれだから、まさに20世紀とともに生を受け、サンフランシスコ講和条約と日米安保が調印された1951年に51歳の思索と行動にまみれた生涯をおえた。そのうちの30年ほどのあいだ、北脇はつねに前衛に挑戦しつづけた。そして挫折した。中村義一に倣って北脇をKと呼ぶことにする。
Kは名古屋の生まれだが、活動の大半は京都を舞台にした。大正8年に京都の鹿子木孟郎の洋画塾に入って、昭和5年(1930)に津田青楓塾に入った。それが29歳のときである。プロレタリア美術が全盛に向かおうとしていた。ナップが昭和3年に結成されたばかりだったのだ。
津田は、もともとは四条派の竹川友広に手ほどきをうけ谷口喬橋の門に入った日本画家である。その後、明治40年に安井曾太郎とフランスに渡ってアカデミー・ジュリアンで3年をすごした。その津田が東山霊山に洋画塾を開いたのが大正14年、翌年には機関誌「フューザン」を創刊している。画室を鹿ケ谷と北白川にもち、学芸委員に和辻哲郎・成瀬無極・黒田重太郎を擁した。塾生には独立美術会の今井憲一、津田正豊・正周の兄弟、のちにKと美術文化協会のメンバーとなった下郷羊雄、陶芸家の近藤悠三ら、50名がいた。塾生は津田が二科会会員だったので、二科会入選をめざした。津田青楓の周辺は飛ぶ鳥を落とす勢いだったといってよい。
しかし津田はしだいにプロレタリア美術に接近していった。それが薨じて、昭和8年には神楽坂警察署に連行され、留置された。河上肇の逃亡を幇助したという罪名だった。津田画塾は解散した。
こうしてKが動き出すのである。すぐに独立美術京都研究所をつくり、昭和10年の京都市展に対しては、次のような過激な檄を飛ばすにいたっていた。「全京都美術界のヤンガーゼネレーションの鳥瞰図として期待された此の展覧会が、余りにも武陵桃源の安きにまどろむのならば、平安の都の空に防空警報も伝えようとする現実にひたすら惰眠をむさぼる京都美術界を、われわれの手で爆撃しなければならない」。
Kの変貌を押したのは津田の挫折と、左翼文化の鋭さと、当時さかんに美学的理論活動をおこなっていた中井正一の影響だった。Kは小牧源太郎とともにしきりに下鴨の中井宅を訪れている。中井は「委員会の論理」を標榜して、集団的社会性と芸術の関係をラディカルに主張し、ノイエ・ザ・ハリカイトを下敷きに機械の美学を持ち出した。
中井はドイツ美学を通して「美の集団的性格」を読みとったのである。この中井理論の影響下、Kはしだいに人工美学に挑み、その人工的社会感覚のもとに日本性や日本人の思索をくみこむような絵画を発表しはじめた。『独活』『章表』『鳥獣曼荼羅』『変生』『最も静かなる時』などである。いずれも寓意に富んだものばかりで、その特異な傾向は『空港』(1937)に結晶した。不気味な蝶をおもわせる楓の種子、植物の残骸、空中に浮遊する節穴のある木片といった象徴物を空間に配置して、飛行機と格納庫のイメージを暗示させつつ、そこに何事もおこりえないという静謐を描き出そうとしている。
が、そうした絵とともに、Kは仲間によびかけて浦島物語を集団的に連作しようではないかという実験にもとりくんでいく。また、数年後は小牧源太郎・吉加江清・小石原勉・原田潤とともに共同制作『鴨川風土記序説』にもとりくんだ。20号大のカンヴァス4枚を細いカンヴァスで挟んでつなぎ、ひとつの画面に集合しようとした試みだった。これではKが中井理論を正確にはうけとっていないと言われてもしょうがない。中井の「委員会の論理」を仲間とともに動けばよいと曲解したふしがある。
けれども、前進はとまらない。Kはつづいて「観相学」にとりくんで、横光利一の"四人称の設定"とも見まごう視覚を絵画で実現しようとした。「観相学シリーズ」と銘打たれたその作品群には、『暁相』『聚落形相』などといった、いまこそ話題を集めてもよいとおぼしい作品がある。
本書はこうしたKの決意とも変節ともとれる動向をつぶさに追いながら、しだいに「前衛」を喪失していった日本の美術界の行き詰まりを解きほぐしていく。とくに戦時中の美術界の混乱と左翼芸術論の行き詰まりについては、かなり冷静な判断をくだした。
こうして戦後になると、Kは図式主義ともいうべき徹底した図解美術と、科学主義とでもいいたくなるほど単純な宇宙線美学のようなものに傾いていく。それを絵画というのか、それをデザインとよんでいいのか、もはや誰も説明がつかないものになっていく。かくて、ぼくはけっこうおもしろいとみているのだが、一般にはまったく顧られない『秩序・混乱構造』『水仙の形態学』『雪舟のパラノイア図説』を発表して、もはやどんな絵画とも似つかぬ地平に一人降り立ってしまうのである。
むろんKにもKのまわりにも日本の前衛はすっかりなくなっていた。Kはたった一人になっていた。代わって戦後の前衛美術は、ここで言い出しては煩わしいが、日本美術会主催の「日本アンデパンダン展」と読売新聞社主催の「日本アンデパンダン展」という、二つの"アンパン"の噴出に託されていったのである。
Kは後姿の男と貝殻と道標だけを地平線の手前に描いたまことに暗示的な作品『クォ・ヴァディス』を残して、松田道雄の介護のかいもなく、死んだ。
いったいKとは何だったのか。日本の前衛絵画はどこから来て、どこへ行こうとしたのか。
中村義一は「クォ・ヴァディス」(何処へ行くのか)という問いを、ふたたび明治末期から昭和初期にひそんだ日本の前衛の黎明期に尋ねる。