才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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アジールの日本史

夏目琢史

同成社 2009

編集:山脇洋亮

いま、アジールが何かがわからなくなっている。
世の中に逃げ込む場所がなくなりつつある。
アジールはしだいに縮小してマンガ喫茶などとなり、
さらには内面化して鬱病に転化したりもする。
きっと修道院や禅林やコミューンや、
一揆やゲリラやテロルだって、
最初はアジールから発したのだ。
隠れ里や遊郭も縁切り寺もアジールだった。
聖俗貴賎の境界をつくっていた。
そこには「苦心」もあった。

 2009年1月6日、イスラエル軍はパレスチナ自治区を攻撃して、国連のパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の避難所となっている学校をあっというまに爆破した。40人以上の死者が出た。
 以前からイスラエルはガザを攻撃していた。1998年にはガザ空港が開港したが、2001年には破壊された。その後も攻撃は続き、2009年が明けてからはたった3日間で200人以上の死者が出た。すでに国際赤十字の救急車両も爆破されていた。しかし、国際的に認められた避難所(アジール)を爆破するだなんて世界中が予想していなかった。
 パレスチナ自治区そのものがアジールだったかもしれないが、仮にそれが複雑な政治折衝の鬼っ子だったとしても、避難民が殺される筋合いはなかった。もはや地球には僅かなアジールしか残っていない。

 戦国期や江戸時代、各地に駆込寺(かけこみでら)と称せられるところがあった。世間から睨まれたり咎められたりした武士や町人や犯罪者がそこに駆け込んだ。このとき「山林!」と叫んだという記録がいくつかのこっている。
 遠江(とおとうみ・今の浜松)の井伊谷の龍潭寺には家康の判物があって、そこにこんなふうな文言が書かれている。「悪党以下山林と号し走入るの処、住持に其の届なく寺中に於て成敗すべからざる事」。悪党たちが寺に駆け込むときに「山林!」と叫んでいたというのだ。
 山林と叫ぶのは、そこが仏教的に出家遁世をする先だということを暗示している。世間のごちゃごちゃやぐだぐだが、この寺に逃げ込めばこれで切れる、ついつい犯してしまった罪もこれで遠のく、そういう「山林!」なのだ。

 井伊谷の龍潭寺は井伊家の菩提寺である。そこに駆け込めばそれまでの因縁を断ち切れる、過去の柵(しがらみ)を免除されると思われていたわけだ。これを「無縁所」とも言った。アジールだったのである。
 のちの「井伊直虎置文」では、そのような悪さをしてきた「非法の輩」が駆け込んできたときの対処の仕方について述べていて、理非の決断が井伊家の旦那に任せられる場合と龍潭寺の住持が決めていい場合とがあることが明記されている。アジールではあったが、それを決定するにはいくつかのルールとロールの選択があったようなのだ。

 で、今夜は『アジールの日本史』である。こういう本、意外にもなかった。
 アジールの意味、アジールの規模や機能、アジールの変遷によって日本史の社会文化の見落とされた面を見るということは、網野善彦(87夜)の『無縁・公界・楽』をはじめ、少なからず多くの研究者が活用してきた視点だった。
 社会というもの、必ずしも支配層と被支配層には分かれていない。中世のような時代でも、表向きは権力の統制は津々浦々に及んでいたようでいて、実はそこには幾つもの「裏返り」のような関係があり、それなりの自立性や自律性が生きていた。
 たとえば、桑名では朝廷に牡蠣を献納することになっていた。むろんこの程度では、一地域がろくな政治経済的な意義など発揮できるはずがない。とくに近世に向かってはその意義は衰える。ところが戦国期以降も、桑名は朝廷への献納を理由に、領主に対して政治経済的支配を拒否することができた。網野はこれを「世俗的な社会権力とは無縁になりうる方法があった」と見て、そのような「無縁」によって形成された社会を「公界」(くがい)と呼んだ。
 網野の提言からは、日本中に「無縁」や「公界」があるように見えた。そういう報告や研究も次々に挙がってきた。しかしながらそれらはたいていは断片的で、アジールという視野から日本社会史の流れを見るまでには至っていなかったのである。
 いささか粗雑ではあるが、また、いくつもの綻びものこっているが、本書はそこをなんとか縫い合わせた。

 そもそもアジールにはあまりうまい定義がついてこなかった。聖域、自由領域、避難所、無縁所、縁切り、駆込寺、ときにはコミューン、サンクチュアリなどとも解釈されてはきたものの、ドイツ語(asyl)、英語(asylum)、フランス語(asile)でも、その基本意義が異なる。
 かつて阿部謹也はその理由を、「現在では政治亡命者や外交官、野戦病院や赤十字などで細々と生きながらえているにすぎない」からだとしたうえで、しかし古代・中世・近世ではアジールが大きな役割をはたしていたのは、そこに「避難所・フライウング・平和領域」という3つの意味がちゃんと交差していたからだと説明した。
 この阿部の説明はゆるすぎるとして批判をうけた。阿部は中世ヨーロッパの研究者としてアジールの可能性を広く解釈しようとしたのだが、それを「平和領域」とまでとらえたのがゆるかったようだ。たとえば島創平は「教会のアジールは必ずしも奴隷を保護するものではなく、その対象は自由身分の犯罪人や負債者であった」と訂正した。

 が、そのヨーロッパでも、アジールの意味は時代によって次々に変容してきたのである。
 今日の社会学では、難民キャンプから失業者保護センターにいたる多くの救済施設を現代的なアジールとみなすようになっている。実際にもアーヴィング・ゴフマン(1317夜)は『アサイラム』(誠信書房)のタイトルでアジール(アサイラム)論を一冊書いてはいるが、その内容は精神病棟とその強制収容性を綴ったものだった。

 一方、日本の民俗学では、アジールの定義を「世俗の権力から独立して、社会的な避難所としての特権を確保あるいは保証される場所」(日本民俗学辞典)としてきた。
 ここから多くの「縁切り」を引き受けてくれる寺院や橋や坂がアジールとみなされるようになった。歌謡曲やフォークソングやJポップの歌詞に出入りする「無縁橋」とか「無縁坂」という名前はこうして伝えられてきた。
 たしかに各地にのこる「縁結び」と「縁切り」の裏腹の習慣は、桜井徳太郎が指摘したように「縁の日本民俗」と言うにふさわしい。高梨公之はそれが道祖神「サエの神」の信仰と関連するとも説いた。実際にも、日本中にはプラスとマイナスの両方にかかわる「縁」が所在化されてきた。
 そのうちの悪縁を断つための「縁切り」スポットが次々にアジールとなっていったのは、世間から受けた「負」の刻印に対する配慮からだった。こう見るのが日本民俗学の立場である。

 縁切りスポットはかなりある。鎌倉東慶寺や太田の満徳寺は代表的な縁切り寺であって、そこに駆け込めば離縁が成立してもいた。徳川社会では「駆込寺」との異名もとった。
 金毘羅さんにも縁切り石がある。いっぱいの御神籤がくっついている。そのほか大阪の高津宮の「縁切り坂」、足利の門田稲荷の「縁切稲荷」、前橋の小石神社の「縁切り石」に類するスポットは、全国に数多い。川越の喜多院には盗っ人を免罪してくれる「どろぼう橋」などもある。
 これらはいずれも小さなアジールばかりだが、ときにはもっと広域のアジールもあったとおぼしい。宮本常一(239夜)の『忘れられた日本人』は平泉澄が対馬の風習にアジールを見たことに注目し、アジールは絶対不可侵のものとみなされたことを強調した。

 日本のアジール研究は、当初は平泉澄の『中世に於ける社寺と社会との関係』を嚆矢に、その後は網野善彦の『無縁・公界・楽』をきっかけに、笹本正治、藤木久志・保立道久らが無縁とテリトリー、あるいは無縁と無所有とを結びつけ、中世日本にひそむ非対称的で非均一な支配構造に切りこんだ。村井章介(1224夜)のマージナルマン(境界人)論や、赤坂憲雄(1412夜)の境界論や東北学もここから出ている。
 伊藤正敏が『寺社勢力の中世』(筑摩書房)や『無縁所の中世』(ちくま新書)などで、祇園社の不入権の成立を今日における無縁所の法的成立第1号とみて、これが成立した1070年2月20日をもって「中世の開幕」としたのは画期的だった。日本の中世はアジールの公認から始まったとみなしたのだ。

 このような解釈はこれはこれでまちがっているとは思えないが、それがやがて小和田哲男の「禅寺はアジールを利用したお家再興の舞台としての側面をもっていた」(『戦国武将を育てた禅僧たち』)などになってくると、いささか甘くなってくる。
 他方、島田征夫・昔農英明・小田博志らは「庇護権」の面からアジールに光をあてた。島田は庇護権を「宗教的庇護権・外交的庇護権・領土的庇護権・政治的庇護権」の4つに分け、とくに亡命権がドイツの憲法問題と絡んで国際的に重要だとみなした。
 いま、「ウィキリークス」のアサンジがロシアに亡命しているけれど、こういう亡命が成立しうるのも、もともとはアジールの庇護権から出たものだった。そもそも「ウィキリークス」が政治情報におけるアジールだったかもしれないが‥‥。

 むろん世界史的には、もっとさまざまなアジールの機能が出たり入ったりしてきた。旧約聖書には「逃れの町」が記載されているし、古代ギリシアの「アジュール」は「身柄保護特権」あるいは「差し押さえ免除特権」のことだった。
 続くキリスト教社会では、教会がそこに逃げ込んだ者を「神の所有」とみなし、これに害を加える者は聖物窃盗の罪にあたるという「聖域逃避」の意味あいを強めていった。だからこそヴィクトル・ユーゴー(962夜)は『レ・ミゼラブル』や『ノートルダム・ド・パリ』で、教会に逃げ込む意味あいを人間社会一般に本来ひそむべき特権として描こうとしたわけである。
 統治権力が及ばないところ、あるいは機能しにくいところ、そこがアジールとみなされたのだ。

「逃れの町(Cities of Refuge)」を描いた絵画
旧約聖書の民数記35章には、エジプトから上ってきたユダヤ民族が得るはずの領土において「ヨルダン川の東側に三つの町、カナン人の土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない」とある。

 このように、アジールを特権的な避難所ないしは勝手な自立的な王国ととらえれば、修道院から神社仏閣までがアジールの対象になる。もっと広くいうのなら無税地帯も難民キャンプも、海賊の巣窟も梁山泊も、もっと勝手なことをいうなら、遊郭やヤクザ一家もアジールだったろう。
 しかし、治外法権や特定の権利が与えられているところばかりがアジールではなかった。

 人間の気持ちのなかには、つねにアジール的なるものを求める意識が見え隠れしてきた。意識のアジールをもたない者など、いないと言っていいだろう。ぼくの子供時代は蒲団の中がアジールだった。
 想像力の中はアジールだらけなのである。だからこそ、まことに多くの文芸作品でアジールやアジールまがいが描かれてきたわけだ。スティーブンソン(155夜)の『ジーキル博士とハイド氏』では、殺人を犯したハイドに「ジーキルはいまや私にとっての避難の町である」と言わしめている。
 とくにマンガは天衣無縫のアジールを描く天才たちの場だ。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする妖怪マンガの舞台、つげ義春(921夜)のマンガの主人公が迷いこんだところ、宮崎駿の『となりのトトロ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』も、そうしたアジールを思いきって拡張した物語だった。いまや敵なしの長編連作マンガ(またアニメ)、尾田栄一郎の『ONE PIECE』などアジール万歳の凱歌の連続だ。

 むろん楚々としたアジールも悪くない。泉鏡花(917夜)はそういう叙情のアジールを抉るように綴ってみせた。中島敦(361夜)は異国のアジールを刻むように綴ってくれた。
 8年前、千夜千冊の1144夜ぶんを求龍堂で全7巻の全集に仕立てたとき、その第1巻を「遠くからとどく声」としたのだが、その150冊ほどの本の大半がなんらかの意味で叙情のアジールに絡んでいたものだ。
 ちなみにその第1巻「遠くからとどく声」は、1「銀色のぬりえ」、2「少年たちの行方」、3「リボンの恋」、4「声が出る絵本」、5「遠方からの返事」、6「時の連環記」、7「行きずりの日々」、8「歌が降ります」、9「ノスタルジアの風味」、10「忘れがたい町」、11「方舟みちあふち」というふうに構成してある。
 いまさら言うまでもなく、フォークナー(940夜)やマルケス(765夜)や中上健次(755夜)の多くの作品もハードコアなアジール小説である。ぼくの好みになるけれど、最近の日本文学では阿部和重の半分架空の「神町」を舞台にした『シンセミア』(朝日新聞社)が出色だった。

おばけにゃ 学校も しけんもなんにもない♪
(テーマ曲「ゲゲゲの鬼太郎」より)

 さて、著者の夏目はこうした多様なアジールの変容から、ひとつの共通定義を導いた。「アジールとは、犯罪者がひとたびその中に入り込むと、それ以上にその罪を責めることができなくなる空間である」というものだ。
 いささか限定しすぎているようだが、あえて犯罪者との関係に絞りこんだことを、夏目は自覚している。それは、アジールがたんなる「自由」や「解放」をもたらすものではなく、むしろ社会的な人間の本来の「苦」を自覚すべきところであったはずだという認識がはたらいているからだ。
 たしかに「苦」を伴わないアジールは、ゆるゆるすぎるだろう。だがアジールという境界をまたいでから新たな「苦」が始まるというわけでもない。ぼくはそこに「苦心」を持ち出してみればいいと思っている。 

 本来の「苦」とは、仏教やキリスト教をもちだすとキリがなくなるが、わかりやすくは無住が『沙石集』で本来の遁世(とんぜ)について次のように言っているところに近い。
 無住(1227〜1312)は、遁世というものは最初は世間から捨てられていると感じたり、実際に世間を捨てたいと思うところから始まるが、さらにそのような心をも捨てるというところに至らなければならないと述べている。夏目の言いたい「アジールにおける本来の苦」というものも、その「心も捨てる苦」というあたりのことをさしている。
 無住は「心を捨て、まめやかに(本当に)遁れる」には、「わづかの世、いやしき家を捨てずして、へつらひ苦しみて過ごし」ているようではダメなのだと断言したのだ。

 無住の思想には「苦心」というものが問われている。苦心という言葉は日常でも仕事でもしょっちゅうつかわれているが、仏教的な苦心は「たんなる努力」ではないし、「へつらう苦しみ」でもない。
 苦心は、本来の痛み(悼み・傷み)を伴うものなのだ。漱石(583夜)の『吾輩は猫である』には、こんなふうにある。「人間はわが身恐ろしい悪党であるという事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とはいえない。苦労人でないととうてい解脱はできない」と。

 アジールは「苦」を背負う。
 しかしながら、おそらく、このようにアジールを解釈することは、現実の日々で避難や隔離を余儀なくされている人たちには耐えられないことである。
 ぼくはこの2~3年ほど、ハンセン病(癩病)の動向と歴史を追ってきたけれど(1524夜参照)、強制的アジールがいかに癒しがたいスティグマを患者たちに刻印してきたかということを、目を覆うほどに告げられてきた。そんなところにいっときも居たくはない避難所なのだ。そこは「同種の負の寄せ集め」なのだ。それとも、あのような隔離のコロニー病棟や隔離の島はアジールではないと言うべきなのだろうか。
 もうひとつ、難問がある。
 いまでは政府や自治体だって失業者や病弱者のためのアジールづくりに奔走するようになった。つまりは、アジールは公然たるものになったのだ。こうなってきたとき、はたしてアジールはどのようなものに変質していくのかという問題だ。

 イスラムにはアジュール法があって、解釈はいろいろあるけれど、仮に自爆テロをしたとしてもその家族たちがイスラミック・アジュールによって保護されるという考え方がある。
 日本の政府や自治体やNPOがつくるのは「救済」であって、いわゆるアジールではない。こうした状況が浸透すると、どんな小さな犯罪でも犯罪は犯罪として裁かれる。そこへ逃げこめば情状酌量されるところなんて、用意されるはずがない。まして罪が免除されるはずがない。ぼくは神社仏閣の奥行のある応接に期待したいけれど、なかなか「かくまう」などということはしないであろう。となると、あとはせいぜい国外への「亡命」がのこるだけである。
 しかし、どんな者にも何かから逃れたいと思う気持ちが宿っている。浅田彰が『逃走論』(ちくま文庫)で暗示したのはそのことだった。

 では、そこで、いったいどうなるかということだ。
 都市部ならマンガ喫茶などに逃げ込みたくなるのだろう。これまでも何人かの犯罪者や逃亡者がしばしばマンガ喫茶にいたことが報じられてきた。
 けれどもいまや日本中に監視カメラが動いている。逃げきれることなどかなり不可能になっている。だから市民一般には「安全」や「安心」が保証されるともいうわけだが、それは見方を変えれば「外のアジール」が見当たらないということでもある。
 さあそうなってくると、どうなるか。逃げたい、許されたい、赦されたい者は、どうすればいいのか。
 おそらく「心の罪」や「何かの負」を感じた者は、その時点で「内のアジール」をさがすしかなくなっていく。それが鬱病をつくり、統合失調症を促進するということもある。そこで病院が擬似アジールの役割をはたすということもある。けれども、それも「回復」のためであって、むろん「隠匿」のためではない。

 こうして、アジールは世の中のどこにも見当たらないということになり、ひたすら「内のアジール」がどういうものかがひそかに追求されるということになる。
 「一人の人間が特定の空間・時間などにかかわることによって、持続的あるいは一時的に不可侵な存在となる」(ヘンスラー)ということは、もはや新たな哲学によってしかつくれなくなったのだ。
 おそらくは、ここに必要な「ゆるし」があるとすれば、それは「許」や「赦」ではなくて、「宥」なのである。「宥恕」なのである。「宥恕のアジール」なのである。「宥」(ゆう)は国や家や祠の中で「有」たらんとすることをあらわす。その「有」とは自身をもって何かを神に侑(すす)めることをいう。そういうことがしやすいところが「邑」であり、そのような様子が「遊」なのだ。

⊕ アジールの日本史 ⊕

∃ 著者:夏目琢史
∃ 発行者:山脇洋亮
∃ 印刷所:モリモト印刷(株)
∃ 製本所:協栄製本(株)
∃ 発行所:同成社(株)
⊂ 2009年7月30日発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 第一部 アジールとは何か
∈∈ 第一章 アジールの定義
∈∈ 第二章 アジールの「ソト」と「ウチ」
∈ 第二部 アジールの日本史
∈∈ 第一章 古代日本のアジール
∈∈ 第二章 日本中世はアジールの時代なのか?
∈∈ 第三章 日本的アジールの形式
∈∈ 第四章 近大社会の中のアジール
∈ 第三部 アジールに魅了された歴史家たち
∈∈ 第一章 平泉澄とアジール
∈∈ 第二章 アジールと網野善彦
∈∈ 第三章 アジールと阿部謹也
∈ 第四部 アジール論のゆくえ
∈∈ 第一章 幸福とアジールの史的考察
∈∈ 第二章 アジールと民俗
∈ 全国の縁切りスポット一覧
∈ あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

夏目 琢史(なつめ たくみ)
1985年、静岡県浜松市引佐町に生まれる。2008年、東京学芸大学教育学部卒業。 現在、一橋大学大学院社会学研究科修士課程在籍。財団法人 徳川記念財団研究員。
主要著作は、「戦後アジール論の再発見」(『日本社会史研究』66号、2006年)、「平泉澄と網野善彦」(阿部猛・田村貞雄編『明治期日本の光と影』同成社、2008年)、「関連人物解説・関連寺院解説」(『徳川将軍家ゆかりの女性』徳川記念財団、2008年)。