才事記

存在の大いなる連鎖

アーサー・O・ラヴジョイ

晶文社 1975

Arthur O. Lovejoy
The Great Chain of Being 1936
[訳]内藤健二

 われわれはつねに「仮定」をしているものである。朝起きたときも、何かを喋っているときも、電話をかけようとするときも、何かを仮定している。
 それは予定ではない。あくまでアタマのなかで適当に考えている仮定である。その仮定は、いわば観念が独自に計画したものであって、まったく現実と関係しないこともあれば、ときに現実とつながることもある。
 そうだとすれば、そのような仮定をつくりだしてきた観念にも、「観念の歴史」(history of
ideas)というものがあってよい。すなわち世界や人間や習慣に関して、それぞれに仮定された観念の継続と断絶をめぐる歴史があってよいということになる。アーサー・ラヴジョイはおおむねそう考えて、「観念の歴史クラブ」というものを創設した。所はジョンズ・ホプキンス大学、時は20世紀で最も充実した1923年。協力者にジョージ・ボアスとギルバート・チナードがいた。
 本書はその宣言書にもあたるもので、ラヴジョイの1933年のハーバード大学における連続講義をもとに執筆された。

 本書はいちがいに要約することが困難なほど多岐の内容にわたっていて、ぼくがこれを最初に読んだときは(二度目以降は拾い読みばかり)、ほとんど恍惚気分になったほどだった。
 なぜ恍惚となったのか。いま思い出すと、次のようなことだったとおもわれる。
 まことに重要なことであるにもかかわらず、多くの人々がずっと勘違いしていることがある。それは、漠然としたものは影響力をもたないし、思考力を加速しないし、したがって思想にもならないと思っていることだ。つまり漠然としたものは明確な概念を形成していないし、その特徴が誰にもすぐにわかるものではない。したがって、漠然からは思想が生まれないと思いこんでいる。
しかし、これはたいへんな誤解なのである。実は漠然としたものこそが思想力を加速し、影響力をもって文化を形成していくものなのだ。
 本書は、この「漠然としたもの」を、しかも確実な言葉をつないで豊饒な説得力をもって展示したものだった。それで恍惚読書を体験できた。そういうことではなかったかとおもう。

 では「漠然としたもの」とは何かというと、むろん「なんとか主義」とか「なんとか思想」というものではない。またキリスト教とかカバラとかビザンティン様式というものでもない。
 それは第1には、「無意識の精神の習慣」のようなものである。これはフリードリッヒ・シュレーゲルがおもわず「もつれ」とよんだものに近いときさえある。
 第2に、それは風土的なものや生活習慣を含んでいるので、たぶんに関係動因的である。すなわち「類は類をよぶ」というたぐいのものなのだ。ふつうはこんなものは学問の対象とならないが、ラヴジョイはそこに目をつけた。
 第3に、観念の歴史を継続させた「漠然としたもの」は、さまざまな形而上学的な情念に対する感受性ともいうべきもので、しかもそこには「知られざるものは称賛さるべし」という作用がはたらくような、未知なるゆえに流行する観念を含んでいるということである。たとえば「あの世的な性質」といったことは、誰もが説明できないにもかかわらず、誰にもわかることなのだ。
 第4に、それはなにがしかの「意味」を人々に感じさせるものであって、だからといってその「意味」が何かに限定できないようなものである。
 「あの世的な性質」に比較していえば、たとえば「この世の侮蔑」というようなものにあたる。このことは、それを受けた者にとってはすぐにピンとくるものだし、他人にそれが及んでもすぐに人々にピンとくる。しかし、それがどういうものであるかは、誰にもはっきりしない。つまり、それは「意味の輪郭」だけで伝わっていく漠然とした観念なのだ。アルフレッド・ホワイトヘッドがとっくに指摘したように、大半の文学作品はこの第4の「意味」の継承にあずかってきた。
 第5に、これは解説無用であろうけれど、「美」とか「美しい感じ」というものがある。すべての芸術とはいわないが、多くの芸術やファッションや景観がもたらす漠然とした感興が、ここに属している。
 しかし、それ(美)が何であるかとか、何から構成されているかというふうには記号化されるべきではない。美はどういうものであれ、観念の歴史がつくったものなのだ。

 ラヴジョイがこのようなことを考えついたのは、プラトンとホワイトヘッドを正確に読んだからではないかとおもう。つまり、「神の創造力の行使には動機が希薄である」ということを本気で考えたからだろう。
 またラヴジョイは、多くの歴史上の観念がかなりの頻度で「反対の一致」(coincidentia oppositorum)によって生じてきたことをつぶさに観察することで、観念にも習慣や癖があることを確信したのであったろう。
 しかしいまおもえば、こうしたラヴジョイの指摘はもはや新たな常識になったというべきで、ワルター・ベンヤミンにもピエール・ブルデューにも存分に知れたことになっている。しかも本書のようにプラトン、ブルーノ、ケプラー、ライプニッツ、デカルト、パスカル、カントを並べ立てて、この貴重な観念史を説明する必要もないのではないかともおもわせる。それは、ベルグソンの『創造的進化』やミシェル・フーコーの『言葉と物』のような労作を、あれ以上は繰り返さなくともいいということに似ていよう。

 しかし、まったく逆のことも言っておかなくてはならない。
 すなわち、まだ歴史における観念というものが見えないという者や、またあるいは「漠然としたもの」こそが時代の思想や感覚をつくってきたことがわからない者には、アーサー・ラヴジョイの『存在の大いなる連鎖』こそがやはり最初のバイブルになるべきだということである。
 そういう諸君のために、ここでは次のラヴジョイの言葉を贈っておきたい。
 「因果関係において先行するものは、その結果よりも少ないものを含むことはできない」。「人間はみずからとは調和しえない存在なのである」。そうか、やっぱりラヴジョイは、ポストモダン思想しか知らない連中がみんなして読むべきものだった。