アモス・エロン
エルサレム
記憶の戦場
法政大学出版局 1998
ISBN:4106004496
Amos Elon
JERUSALEM : City of Mirrors 1989
[訳]村田靖子
装幀:法政大学出版局 協力:市川裕

なぜ、エルサレムはこんなにも「危険」なのか。いや、エルサレムが危険なのではなく、エルサレムを安易に動かそうとすることが危険なのである。それはヨーロッパや中東にとって「永遠の変更」に手をつけることになるからだ。ぼくは中東情勢に詳しい者ではないけれど、今夜はアモス・エロンが「エルサレムは記憶の戦場」だと言って、まことにすばらしいエッセイに仕立てた1冊を座右において、エルサレムがどのような「世界」と「永遠」と「記憶」をもってきたのか、しばし振り返りたい。

 ドナルド・トランプは大統領になる前からアメリカ大使館のエルサレム移転を吹聴していた。就任してすぐにイスラエルのネタニヤフ首相と密談をした。狡猾をもって鳴るネタニヤフはむろん歓迎したはずだが、パレスチナ暫定政府のアッバス議長は苦い反応だ。
 コスタリカとエルサルバドルを除いて、エルサレムにはどの国の大使館もない。アメリカ大使館もたいていの大使館もテルアビブにある(日本の大使館もテルアビブだ)。テルアビブはイスラエルの首都のようだが、仮の首都である(こういうことはめずらしい)。エルサレムを首都とすることを、国際社会が認めていないからだ。そこへアメリカ大使館を移せばどうなるか。
 こういうことを主張すると吠え猿のようになるトランプが、はたしてイスラエルの外交政策に業を煮やしたのか、中東の象徴としてアメリカの力を見せつけようとしたいのか、パレスチナ暫定自治政府を潰そうというのか、その意図は他のトランプが吠えている思いつき同様、はっきりしない。
 エルサレムのニール・バラカト市長はトランプの声明ににんまりとして、フェイスブックに動画を上げ、アメリカ大使館移転賛成の署名運動を呼びかけた。これがエルサレムの市長かとがっかりさせられる(この10年ほど、世界の首長たちはどこか卑しい言動や表情をする。ぼくが最初にそれを感じたのはイギリスのトニー・ブレアのころからだ)。
 ヨルダンとパレスチナは当然の反応だが、こうした計画を阻止しようとしている。中東諸国やISはまだ何も表明していない。

ドナルド・トランプとイスラエルのネタニヤフ首相
トランプが大統領就任後、真っ先に招待したのがイスラエルのネタニヤフ首相。

ネタニヤフ首相のツイッター
当選時には「友人のドナルド・トランプ大統領」とトランプ氏の勝利を歓迎するビデオ映像を公開した。

エルサレム市長、ニル・バラカトのフェイスブック
「Israel welcomes trump」というサイトを立ち上げサポートを呼びかけている。

 トランプの軽挙妄動については、国連事務総長のグレテスも困っている。多くの良識派がそうであるように、グレテスはパレスチナ国家とイスラエルとの共生共存をめざすべきだと考えているからである。ヴァチカンのフランシス法王も控えめだが、同じ懸念を洩した。
 もっとも戦後アメリカの歴代大統領候補たちは、建前としてはイスラエルの首都がエルサレムであるべきこと、アメリカはいつでも大使館をエルサレムに移す用意があるということを、選挙中に言ってきた。けれども就任後、本気でエルサレムに手をつける大統領は一人もいなかったのだ。おっちょこちょいのトランプは、そこが素頓狂である。
 もし、ここに戦火が生じたらどうなるか。21世紀最大の「危険」が世界中に撒き散らされることになる。1991年の湾岸戦争で、イラクはイスラエルに39発のスカッドミサイルを打ち込んだけれど、すべてはテルアビブ周辺に狙いを限定していて、さすがにサダム・フセインもエルサレムには手を出さなかったのである。
 なぜ、エルサレムはこんなにも「危険」なのか。いや、エルサレムが危険なのではなく、エルサレムを安易に動かそうとすることが危険なのである。それはヨーロッパや中東にとって「永遠の変更」に手をつけることになるからだ。
 ぼくは中東情勢に詳しい者ではないけれど、今夜はアモス・エロンが「エルサレムは記憶の戦場」だと言って、まことにすばらしいエッセイに仕立てた1冊を座右において、エルサレムがどのような「世界」と「永遠」と「記憶」をもってきたのか、しばし振り返りたい。

アントニオ・グテレスと故アラファト氏(初代パレスチナ自治政府大統領)2009年
アントニオ・グテレスは2017年1月1日付けで第9代国連事務総長に就任。アメリカ大使館のエルサレム移転案に「重大な懸念」を抱いていると明言している。

アルフセイン・ミサイル開発を祝して作られた記念切手(イラク/1988年)

 エルサレムはユダヤ教とキリスト教とイスラム教という世界三大宗教の聖地である。のみならず僅か1キロ四方の城壁に囲まれた旧市街地(中心はオフェルの丘)は、いまもってユダヤ人地区、キリスト教徒地区、イスラム教徒(ムスリム)地区、アルメニア人地区などに分かれている。
 それらを縫って、ユダヤの「嘆きの壁」やイエスが十字架を背負ってよろめきながら歩いた「ビア・ドロローサ」やイスラムの「岩のドーム」が所狭しと競い合い、寄生しあっている。こんなところは世界のどこにもない。
 エルサレムとは何なのか。ウィリアム・ブレイク(742夜)は「エルサレムには内なる天国の門がある」と綴り、ハーマン・メルヴィル(300夜)は8日間にわたってエルサレムに滞在して、「ここは石の世界だ。神が石にいる」と感嘆した。石についてはボルヘス(552夜)も不思議なことを言っている。盲目になっていたボルヘスはエルサレムの町のそこかしこを手で触れて、「エルサレムの感触はピンク色に染まっている」と述べた。
 イスラエルの現代詩人で、ずっとエルサレムで暮らしてきたイェフダ・アミハイは「何か忘れたと誰もが思っているところ」、「地上で唯一、死者にも投票権のある都市」だと書いた。まことに言い得て妙である。

現在のエルサレム旧市街
1km四方の城壁に囲まれるエルサレム旧市街に3宗教の信徒32億人にとっての聖なる場所が集中する

ウィリアム・ブレイク『エルサレム(Jerusalem)』(1804年)カバーと図版
叙事詩と彩色印刷した100枚の図版からなる作品。ブレイクの預言書群のなかでも最大規模のもの。

ウィリアム・ブレイク『エルサレム(Jerusalem)』100枚目のラストシーン

「嘆きの壁」に触れるボルヘス

 西洋と中洋がつくりあげた「世界」に中心があるとすれば、それはエルサレムなのである。エルサレムは3000年前から「世界の臍」だった。
 そこはモーセが求めた「約束の地」であり、「ダビデの町」であって「ソロモンの宮殿」の聖地なのである。またイエスの弟子たちが集った「シオンの丘」であって、イエスが処刑された「ゴルゴダ」でもあった。ムスリムたちにとってはメッカ、メディナに次ぐ「第三の聖都」である。
 これらはいずれであれ輝かしい栄華であって、ユダヤ教の記憶であり、「世界の臍」としての矜持であったろう。その一方で、エルサレムは再三にわたって蹂躙され、破壊され、占拠され、そして放置されてきた。ローマ帝国はエルサレムを燃やし、十字軍はエルサレム奪還を合言葉にして異教徒を根絶やしにした。
 エルサレムには「守るもの」と「失うもの」とが、「往くべきもの」と「帰ってくるべきもの」とが等量にある。タキトゥスは「ユダヤ人のエルサレムは永遠に人類すべてを敵にまわして生きるつもりだ」と皮肉った。

ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」

キリスト教の聖地「ビア・ドロローサ」
イエスが十字架を背負いゴルゴダの丘まで歩いた道行。

イスラム教の聖地「岩のドーム」
ムハンマド昇天の故事もある神殿の丘に、691年に建てられた。現在はイスラム教徒以外は立入禁止。

 エルサレムの歴史は世界史上最も奇妙な「同質と異質が共存と反目を成立させてきたトポス」の物語なのだ。
 宗教都市だったというだけではない。政治都市であり呪術都市であり、多民族都市であって天国都市だった。いや、あそこは「世界」をあらわすヴァーチャル・シティでもあった。西方の人類の想像力の原郷だった。
 だからこういう町の栄枯盛衰を詳しく書けば書くほど、西洋と中洋が組み上げた「西の中心をめぐる秘密」がいかに異様なものであったかが微細に見えてくるのだが、おおざっぱな概観からもそれは充分に窺える。
 もちろんエルサレムの歴史にはエルサレムなりの順番がある。当初は、なんといってもユダヤの民の「憧憬」だった。

1487年に描かれた中世のエルサレム
当時のコンスタンツ(ドイツ)の市長がエルサレム巡礼した際に描かれた。

 ユダヤの歴史はアブラハムに始まる。創世記には、神がアブラハムに私が示す「約束の地」を求めて行きなさいと告げると、アブラハムとその一族が故郷のウル(イラク中央)を旅立って、ハラン(シリア北部)を経てカナーンに向かう経緯が述べられている。
 カナーンは「乳と蜜が流れるところ」と想像されてきた。実際は現在のパレスチナ(つまりは約束共同体イスラエル)のことをいう。
 あるときアブラハムに、神の声が聞こえた。神は「私を子々孫々にいたるまで唯一の神として崇めれば、カナーンのすべての地を得られるだろう」と告げた。これが聖書が記すアブラハムの「神との契約」だ。この契約を結んだ者のみがユダヤの民であり(つまりユダヤ人であり)、約束の地カナーンの民で、イスラエルの民なのである。
 ところがアブラハムの曾孫のヨセフの時代、この一族はなぜかエジプトに移住した(この理由がぼくにはどうしてもわからない。交易のためか奴隷として売られたのか、何かの婚姻関係が生じたか)。時期はエジプト第18王朝にあたる。そこではかなり意外なことがおこっていた。
 アメンホテプ4世が登場していて(のちにイクナトーンと名のったファラオーだ)、それまで雑多きわまりない多神を信仰していた宗教風土を劇的に一新していたのだ。イクナトーンが世界史上初の一神教をつくっていたのだ。

レンブラント『アブラハムとイサク』(1634年)
神にひとり子イサクを捧げようとするアブラハム。

アブラハムにはじまる家系図

左から、古代エジプト第18王朝の王・アメンホテプ4世と、后妃ネフェルティティの像
ネフェルティティは古代エジプト三大美女の一人と言われた。

 なにしろ初期エジプト以来のエジプト人の信仰対象は2000近くあったのだから、それらを統一したくなってもおかしくない。
 統一のコンセプトは「マート」というもので、マートは「世界の本質」をあらわしていた。イクナトーンはマートこそ一つの神として象徴できると考え、「アートン」という全知と王権を合わせたような神を想定して、一神教としてのアートン教を国の内外に知らしめた。歴史上初の唯一絶対神の誕生だ。
 そこにやってきたのがアブラハムの後裔たちだった。かれらはしばらくは厚遇されたようなのだが、やがて乱暴に扱われるようになった(奴隷のように扱われていたという説が多い)。これを見かねたのがモーセである。実在の人物だ(モーセも奴隷集団のリーダーだったかもしれない。エジプト王妃に寵愛されたという説もある)。
 紀元前13世紀半ば、モーセは一族の現状を見かね、ついに決起してイスラエルの民をエジプトから脱出させる(この経緯が「出エジプト記」になった)。脱出しただけでなく、アートン教に代わるヤーウェ(エホヴァ)による一神教を信奉した。その証しは「十戒」となった。

アメンホテプ4世と彼の家族が太陽神・アートンを信仰している姿
アメンホテプ4世が改名したイクナートンとは「アートン神にとって有用な者」の意味。

映画『エクソダス:神と王』より
映画ではクリスチャン・ベイル演じるモーセ(中央左)はエジプトの王家に養子として育った設定。しかし苦境に立たされている40万のヘブライの人々を救う信念からエジプト王ラムセスと袂を分かつ。

映画『十戒』よりモーセの海割りシーン

 エジプト脱出は成功したが、モーセらはシナイ半島で約40年近く流浪した。シナイに入った当時はその地に流行していたいささか異様なバール信仰(きっと性的解放感をともなう信仰だったと思われる)との闘いに苦労もしたようだが、モーセ自身はその後のことをヨシュアに委ねて倒れた。
 かくてヨシュアを大番頭にして、一族はシナイ半島をあとにするとようやくカナーンの地に入った(まだエルサレムにまでは届いていない)。こののち200年ほどのあいだにイスラエルの民はユダヤの民として十二支族を整え、新たにダビデを王として戴くことになる。

 ダビデがしたことはエルサレムの地の獲得である。なぜエルサレムをほしくなったのか、正確なことはわかっていない。
 アモス・エロンはその地に呪術の力が漲っていたからではないか、そうした文化と風土があったからではないかと言っている。トポフィリアを引き出す魅力があったのでもあろう。ぼくはエルサレムが地政学的な要衝で、南北イスラエルの境い目を衝いていたからだったと思う。
 ともかくもダビデは先王のサウルの暴政を退け、先住民のエプス人や海から侵入してきたペリシテ人を撃退して、エルサレムを攻略した。石をもって巨人ゴリアテを倒した青年ダビデの勇敢な逸話はこのときのものだ。のちにミケランジェロらによって彫塑となったり、絵画になった。
 33年間のダビデ王の支配によって、エルサレムは「ダビデの町」となった。中心はオフェルの丘だ。十戒を刻んだ「契約の箱」が幕屋の中に置かれ、「いと高き神」がイスラエルの神の座を占めた。
 ちなみに篭目型六角形の六芒星として知られる「ダビデの星」は、正式にはマゲン・ダヴィッド(ダビデの楯)というもので、このダビデの力を象徴したエンブレムになっている。「ダビデの楯」は第二次世界大戦後、国家となったイスラエルの国旗のど真ん中につかわれた。

ユダヤの祖・アブラハムとモーセの移動
アブラハムはメソポタミアから、モーセはエジプトからカナンを目指した。先行する2大文明からの離脱と開放が起こった。

ミケランジェロのダビデ像

オスマール・シンドラー『ダビデとゴリアテ』(1888年)

ユダヤ人の黄色のバッジ
ダビデの星マークはユダヤ人の印。第二次世界大戦期、ナチス・ドイツ占領地においては、ユダヤ人を識別するための標識として、黄色のダビデ星型紋様をつけることが義務付けられた。

イスラエル国旗

 ダビデのあとを子のソロモンが継いだ。「ソロモンの知恵」という常套句があるほど聡明だったというが、エジプトに臣下の礼をとってファラオーの娘を降嫁させるといった安全保障に長けているところからみると、外交的インテリジェンスの知恵に富んでいたのだろう。
 ソロモン王は「契約の箱」を安置する神殿(30×20×30メートル)や、13年をかけたというもっと大きな宮殿を建造した。その場所は「モリヤ」(聖域、神の丘)と呼ばれた。エルサレムを訪れたシバの女王はこれらの威容を見て「すっかり気を奪われた」。
 これまでアブラハム、モーセ、ヨシュアまで、ユダヤの民は天幕とともに移動することを主旨としたノーマッドな一族だった。ソロモンはこれを変えたのである。エルサレムに「常設の神殿」を設定した。これによってヤーウェに対する宗教儀礼がコンスタントになり、かつ民族一同の参画によっておこなわれるようになり、ユダヤ・カレンダーが確立した。ユダヤ的民族精神も初めて芽生えたにちがいない。
 こうしてエルサレムに「永遠の杭」が打ち込まれたのだ。モーセの契約の根拠がエルサレムになったのだ。
 しかしどんな組織的共同力もどこかで綻びがくる。分裂がおこる。紀元前923年、ソロモンが没すると王国は北の10支族による北イスラエル王国と、エルサレムを拠点とするユダ族たちのユダ王国に分かれた。北王国は前722年、アッシリアのサルゴン王によって滅ぼされた。北の10支族は「失われた民」となり、いまもってその消息はあきらかではない。

ダビデ王とソロモン王が征服したとされる領土

ギュスターヴ・ドレ『知者ソロモンの裁き』

紀元前10世紀にソロモン王が建設した神殿の再現図
紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊された。

ソロモン王が神殿で祈りを捧げている様子

ソロモン没後、北イスラエル王国と西ユダ王国に分裂
背景にはソロモンの野心的な大造営工事のため、強制労働や重税に苦しんでいた北イスラエルの10部族が半期を翻したことがあげられる。

 エルサレムはどうなったのか。前586年、新バビロニアの王ネブカドネザルの軍勢によって落とされた。ユダ王国は滅亡し、エルサレムは蹂躙され、神殿は破壊され、ユダヤの民の多くがバビロン(新バビロニアの首都)に強制移住させられた。いわゆる「バビロンの捕囚」だ。
 けれども、この捕囚こそはユダヤ教の現在につながるユダヤ人の「再帰と再起の魂」を植え付けたとおぼしい。実際にも、新バビロニアが前538年にペルシア帝国に滅ぼされると、バビロンのユダヤ人(15万人)の4分の1がエルサレムに帰還した。
 帰還したユダヤの民はさっそく神殿を再建する。これは「第二神殿」と呼ばれる。第一神殿とのちがいは、第二神殿には「契約の箱」が入っていなかったことである。行方不明のままだったのだ。このことはのちのちなんと多くの憶測と、でたらめな冒険譚やファンタジーやトンデモ本を生んだことか。ぼくは、この第二神殿のカラッポこそ、ヨーロッパの想像力の源泉になったのだと思っている。エルサレムの「永遠」と「危険」はカラッポが封印してしまったのだ。
 このあとエルサレムのユダヤ人は自治を許されるのだが、統轄者はペルシア帝国やアレクサンダー大王後のプトレマイオス朝やセレウコス朝であって、どこもエルサレムに根拠めいたものなど感じなかった。あげくは、前63年にローマ帝国によって属領化させられた。ローマ将軍ポンペイウスが、続いてはヘロデ王が君臨した。

バビロン捕囚

16世紀に描かれた「バビロンの空中庭園」
当時のバビロンは世界の政治、経済、文化の中心だった。ネブカドネザル2世は王妃のために宮殿の中に空中庭園を作った。後ろに描かれているのはバベルの塔。

豪華装飾写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』(15世紀)に描かれた契約の箱
契約の箱には十戒が刻まれた石板を収められている。

第二神殿の模型(イスラエル博物館)
ソロモンの第一神殿に代わって建設された第二神殿。ヘロデ王の下で大規模な拡張・再建が行われた。

 エルサレムの管轄者がくるくる代わっているとき、ユダヤの民のほうにも結束と分裂がおこっていた。
 新たな指導力を発揮したのはハスモン家だった。前167年、ハスモン家の三男マカビー(イェフダともいう)がシリアを拠点とするセレウコス朝の支配を撥ねのけ、エルサレムに進軍して神殿管理を試みた。やはりユダヤの民しかエルサレムに根拠を見いだせないのである。
 が、ここにも分裂がおこる。ハスモン家は内紛状態となり、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派に分かれ、ほかに熱心党やクムラン集団(174夜)などが動き出した。サドカイ派は祭司階級をかため、パリサイ派は律法を重視して政教分離をはかった。その後のユダヤ教の骨格をつくりあげた「ラビのユダヤ教」のルーツはパリサイ派にあった。
 エッセネ派とクムラン集団については、いまだ歴史研究が解明しきれていないのだが、おそらくはここから原始キリスト教団のプロトタイプが生まれ、クムランが想定した「メシア」(救世主)の思想と「義の教師」のモデルをへてナザレのイエスが登場してきたのではないかと思われる。
 これらのことはクムランが秘守していた「死海文書」の解読とともに、しだいに謎が解かれつつある。

死海文書(Dead Sea Scrolls)
1947年以降、死海の北西にある遺跡ヒルベト・クムラン周辺で発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなっており、「二十世紀最大の考古学的発見」ともいわれる。イスラエル博物館内の「死海写本館」に所蔵されている。

 ハスモン家が分裂している渦中、ローマ帝国のリーチコントロールがユダヤ一族とエルサレムに及んだ。とくにヘロデ王(とその父)のほぼ半世紀におよぶ支配は常軌を逸しているほどに暴虐的で残忍だった。
 ヘロデ王はユダヤにばかり残忍だったのではなく、自分の妻とその母親、二人の息子も処刑して、その悪名をクラーナハやゴヤやオスカー・ワイルド(40夜)やクリムトやビアズレーの『サロメ』として残している。実際には、ヘロデの息子でガリラヤ地方の領主だったアンティパスが、妻の連れ子のサロメとの約束をはたすために予言者ヨハネ(ヨカナーン)の首を斬ったというのが初期の伝承なのだが、いつしかアンティパスもヘロデのことと解釈されたのである。
 ヘロデはなぜかエルサレムについては拡充建設にいそしんだ。ヒトラーの例を持ち出すのはおおげさだが、ヘロデには古代ファシズムが芽生えていて、自身が支配したい土地は新たなストラクチャー(建造物)で列挙されるべきだと構想したのだろう。

ジャン・フーケ『ヘロデ大王のエルサレム占領』
ヘロデ大王(在位:前37年~前04年)はローマの承認のもとに王としてユダヤを統治した支配者。猜疑心が強く、身内を含む多くの人間を殺害した。

ルカス・クラーナハ(父)『洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ』(1530年代)
ドイツ・ルネサンスの巨匠クラーナハは斬首の絵画を多く残した。

オーブリー・ビアズリーによるオスカー・ワイルド『サロメ』の挿絵(1894)
19世紀末のデカダンスの時代、サロメはさまざまな画家によって描かれた。

ヘロデ大王の計画都市
ヘロデ大王は、計画都市の実現にすぐれた業績を残した。人工港湾都市カイサリア、大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)など。図はジェームズ・ティソ『エルサレムおよびヘロデ神殿の復元』。

 さて、ここからがユダヤの民の離散とイエス・キリストの登場という二重の出来事が重なってきて、けっこう微妙な話になっていく。
 かんたんな流れしか書かないが、まずは西暦紀元後の4年にヘロデが死んだ。ローマ帝国はエルサレムを含むユダヤ地方を直轄領にし、ヘロデが築いたローマ風都市カエサリアに総督府を置いた。ユダヤはこれに抵抗し、66年から8年間におよぶ第一次ユダヤ戦争をおこすのだが、ローマから派遣されたティトスの軍隊によって蹴散らされ、第二神殿は炎上してしまう。
 ユダヤの抵抗は紀元2世紀にもバル・コクバやラビ・アキバの指揮と奮闘によって第二次ユダヤ戦争になるのだが、これも壊滅的な結果におわった。ハドリアヌス帝時代のことだ。
 このとき以来、ユダヤの地は「パレスチナ」と呼ばれ、ダビデ・ソロモンの栄華を示すべきエルサレムに残ったのは、瓦礫の片割れたる「嘆きの壁」だけとなった(いわば原爆ドームのようなものだ見ればいいのだが、日本人はあのドームを「嘆きのドーム」にしなかった)。
 それよりなによりエルサレムの決定的荒廃は、神殿を失ったユダヤの民がこれ以降の「デイァスポーラ」(離散民)として各地を流浪することを強いたのである。
 こうしたなか、イエスが誕生する。ヘロデとは相前後してナザレに生まれ育ったイエスは、おそらくエッセネ派かクムラン集団と深く交わり(あるいはその一員の誰かの子として生まれ育ち)、メシア思想をもっていまだ破壊されていないエルサレムにやってきた。
 120名ほどの者たちがシオンの丘などに集まって、イエスの言葉に耳を傾けた。イエスは自分がユダヤ人のラビであると公言していた。

ティトゥスの凱旋門
「ユダヤ戦争」の勝利記念として建立された。ローマに現存する最古の凱旋門で、アーチの内側には隙間なくレリーフが施されている。(右)はアーチ内側にあるレリーフの1つで、ローマ軍が神殿から七本の腕のついた燭台(ユダヤ教のシンボルとなっている)を持ち出す様子が描かれている。

『テルマエ・ロマエ』もハドリアヌス帝の時代を描いている
ハドリアヌス帝の先王トラヤヌスの時代にローマは最大領土に。ハドリアヌスはローマ帝国の国境の安定化に努めた。

 イエスがエルサレムに入ったのは過越の祭(ペサハ)の直前である。早々に人気が出ていた若いイエスは、何の警戒もなく第二神殿のあたりで祭司長や律法学者と議論をする。クムランのディペートで鍛えられていたイエスの言説の前に、かれらはあきらかに劣勢になった。
 このままでは正統ユダヤの面子が台なしだった。祭司長たちはユダをこっそり買収して、イエスを貶める計画を練る。過越の祭の最初の夜、イエスは12人の弟子とともにセデル(祭の夜の食事)をするものの、これは「最後の晩餐」になった。
 事態の進捗を予感したイエスは、オリーブ山の麓にあったゲッセマネの園で長い祈りに入った。そこにユダに先導された祭司長らがやってきてイエスを捕らえ、祭司長の家に連れて行く。「神の子」であることを認めたイエスはただちに死刑となり、ローマ総督ピラトに引き渡された。ビラトは少し迷うのだが、祭司長らが煽った群衆が「イエスを十字架にかけよ」と騒ぐ。
 イエスは刺のある茨の冠をかぶせられ、ゴルゴダの丘まで十字架を背負って歩いた。いま「ビア・ドロローサ」としてその道がのこる。

十字架を背負って歩くイエス・キリストと現在のビア・ドロローサ
映画『パッション』(原題:The Passion of the Christ/2004・米)より。イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を描く。現在も毎週金曜日午後3時から約一時間にわたって、修道士が十字架を担ぎ更新する儀礼が行われる。

 処刑は2人の罪人とともにおこなわれた。イエスの四肢は十字架に打ち付けられ、鈍い槍で突き刺されて絶命した(これでセイント・クロスがアレゴリカルな象徴になった)。
 遺体はその日のうちに埋葬されたはずだったが、2日後にイエスを慕っていたマグダラのマリア(1295夜)らが墓に詣でたときは、なぜか忽然と消えていた。このときが「キリスト復活」が信じられていく瞬間だった。
 そしてまたこのとき、それまでは同根だったはずのユダヤ教とキリスト教が別れていったのである。とくにローマ帝国が313年にキリスト教を公認してからは、あるいはパウロらによって新約聖書が編集されてからは、ディアスポーラ状態のユダヤ教に代わってキリスト教がヨーロッパに染み出していった。

 蹂躙されたエルサレムはどうなったのか。一人の貴婦人によってキリスト教の聖地になったのだ。この貴婦人はローマ皇帝コンスタンティヌスの母后のヘレナである。
 ヘレナはイエス・キリストの足跡が荒れほうだいになっていることに心を痛め、せめてゴルゴダの丘の場所を特定したいと思い、326年にエルサレムを訪れると3本の十字架の跡、埋葬された墓の跡があることを確かめた。
 ゴルゴダに当たる聖墳墓教会、ゲッセマネに当たる諸国民の教会、茨の冠をかぶった行為に当たる鞭打ち教会、復活後40日で昇天した事跡に当たる昇天教会などが、いまもエルサレムを飾っている。
 しかし歴史の中のエルサレムは、第二次ユダヤ戦争がおわった135年にすっかり様相を変えていた。皇帝ハドリアヌスが廃墟のようなエルサレムの上に、まったく新しいローマ風の都市「アエリア・カピトリーナ」をかぶせるようにつくってしまっていたからだ(第14代皇帝ハドリアヌスの建築構想は、ブリタンニアの長城や別荘ティヴォリの「ヴィッラ・アドリアーナ」とともにきわめて大胆なものだ。ローマ式パンテオンを夢想したのであったろう)。
 ヘレナはそういうエルサレムを訪れたのである。よくぞイエスの遺物を探し出したものだと思う。

アエリア・カピトリナ
ローマ皇帝ハドリアヌスの治世に、ユダヤの痕跡を一掃する目的でローマ様式に再建された植民市。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ作『十字架の発見と検証』(所蔵:サンフランチェスコ教会)
ユダの告白によって、コンスタンティヌス帝の母ヘレナはウェヌスの神殿を打ち壊し、3本の聖遺物を発見する(左)。死んだ若者に十字架を触れさせ蘇らせたことによって、3本のうちどれがキリストがはりつけにあった十字架なのかが判明する。(右)。

聖墳墓教会
コンスタンティヌスの母ヘレナが326年にエルサレムを訪れ、当時ヴィーナス神殿があった地で聖十字架などの聖遺物を発見し、その地をゴルゴタとした。聖墳墓教会は神殿を取り壊して建てられたもの。教会の中の小さな聖堂がイエスの墓とされている。

 この先、エルサレムはさらに強烈に変容する。イスラム勢力とキリスト教勢力がエルサレムをめぐって激突したからだ。
 ざっとおさらいをするだけにとどめるが、第1には、イスラム社会がメッカ、メディナに次いでエルサレムを「聖なる都」とみなした。これはそうとう大きな認定事件である。ユダヤの民でもキリスト教徒でもない異教徒がエルサレムに永遠の根拠を見いだしたのだ。
 見いだしただけではない。638年にイスラム軍が入り、その後にウマイヤ朝の第5代カリフのアブデル・マリクが壮麗な「岩のドーム」を建設した。「ウマル・モスク」ともいわれる。
 その後のカリフたちもマドラサ(大学のようなもの)やハンマーム(スチーム風呂)をつくっていったため、エルサレムはすっかりイスラミック・モードで賑わった。10世紀の地理学者ムカダシは当時のエルサレムを「外国人を見かけない日はない」と書いた。
 第2に、十字軍がエルサレムをめちゃくちゃにした。1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は「聖地エルサレムの奪還」を期して十字軍への参画を呼びかけ、各地からの軍団をコンスタンチノープルに集結させた。そこから小アジア半島を通ってレバノンの海岸地帯をへてパレスチナに入ろうというのだ。
 十字軍の目的はイスラム勢力からエルサレムを奪還しようというものだが、このイスラム勢力とはセルジュク朝のことである。しかし、1099年にエルサレムを包囲した十字軍が40日間でやったことは、ただの暴虐だった。ムスリムは手あたりしだい殺され、ユダヤ人はシナゴーグごと焼かれた。カトリック派以外のキリスト教徒も、ギリシア教会・アルメニア教会・グルジア教会・コブト教会の司祭すべてが追放された。
 こうした十字軍が1187年までの88年間、エルサレムを我がもの顔で牛耳ったのである。キリスト教社会からは「エルサレム王国」と言われる。「岩のドーム」もてっぺんに十字架が立ち、中身はすっかりキリスト教の祭壇に入れ替えられた。
 十字軍は知ってのように第9次にわたって執拗に組織化されたが、エルサレム以外のイスラ拠点を攻略することも多く、アルビジョア十字軍のようにキリスト教の異端を攻撃することもあった。つまりは叩きたいものを叩くこと、それが十字軍の使命だったのだ。

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃
1099年、十字軍によりエルサレム王国が建国された。

アクサー・モスク
金の屋根がトレードマークのウマル・モスクに対して銀のドームと言われるアクサー・モスクもウマイヤ朝時代に祈りの場として誕生した。アクサーとはアラビア語で「僻遠」の意味。

 第3に、第3回十字軍のとき、アイユーブ朝の英雄サラディン(サラーフッディーン)が登場して十字軍を撃退すると、再び「イスラム化したエルサレム」が誕生した。こちらは「第二次エルサレム王国」という。15年間続いた(サラディンはもともとはクルド人だった)。
 サラディンは兵隊たちに虐殺と破壊を禁止した。「啓典の民」として、キリスト教徒に対してもルールを守れば寛容に扱ったのだ。ぼくは高校時代にサラディンにちょっぴりあこがれたことがあるのだが(なんだか島原の乱の天草四郎時貞のように思えたのだ)、そのとき以来、本来はイスラムこそは寛容な宗教で、キリスト教がたえず異常な苛烈をかかえているのだというふうに思うようになっている。
 第4に、16世紀になるとオスマン朝(オスマントルコ帝国)のセリム1世とその子のスレイマン大帝によるエルサレム経営が始まった。
 オスマントルコはなんとしてもヨーロッパに進出したかったのだが、ウィーン攻略のところでいつも失敗していた。そこで方向を転じて、シリアやパレスチナを領有することにした。城壁を再建造営し、岩のドームを修復した。
 このあと、オスマントルコの消長とともに、残念ながらエルサレムはしだいにたんなる地方都市に成り下がっていく。たとえばナポレオンは1799年にエジプト遠征の帰りにエルサレムを通過するのだが、そこは何でもほしがるナポレオンさえ手に入れたくなるような町ではなく、目もくれなかった。それから半世紀ほどのち、マーク・トウェイン(611夜)がエルサレム巡礼の旅に訪れた。しかし、こんなふうに旅日記に書いている。
 「ぼろ、みじめさ、汚れ。これらこそ三日月の旗よりはっきりとイスラムの支配を示している。癩病患者、不具者、めくら、馬鹿がどこへ行っても目につく。エルサレムは痛ましく、陰気で、生命の躍動が感じられない。私はこんなところに住みたくない」。

ヒッティーンの戦い(1187年)
エルサレム王国と アイユーブ朝のサラディン率いるイスラム勢力の間に起こった戦い。この戦いに勝利したサラディンは進軍を継続して同年10月に聖地エルサレムの奪回に成功した。

オスマン帝国の最大版図

 さて、本書はエルサレムをめぐる数ある本のなかでも、ぼくが見るに最も知的で、鋭い香りのするエッセイだ。エルサレムの歴史を書いているのではない。歴史をナマスのように切り刻んで、独特の視点でエルサレムをガラスの破片の組み合わせのようにして、そのうえでユダヤとイスラエルとパレスチナとエルサレムの光と闇をクリスタルビームのように照射した。
 とくに、第2章「聖なる都」、第3章「諍いの都」、第4章「憑かれた者の都」は、どぎまぎするような抉られたアフォーダンスをもって綴られている。そこではエルサレムについての展開はたいていアイロニーに富んでいる。そのすべてを受けての第8章「現在のない都」は、読む者の胸を衝く。翻訳の村田靖子の日本語も凝結力があって、美しい。索引も充実している。
 著者のアモス・エロンは1926年にウィーンに生まれたが、シオニストの両親とともにイギリスが委任統治していたパレスチナに移住した。移民になったのだ。エルサレムのヘブライ大学で法律を学ぶと、ケンブリッジに行って歴史を専攻し、イスラエルの大手新聞社の記者をへて論説委員になった。
 エロンはたちまちイスラエルを代表する現代知識人となり、数々の論説とともに『敵意の狭間で』『ヘルツェル伝記』『血塗られた潮流』『イスラエル人』などを執筆した(いずれも未訳)。その筆鋒はかなり鋭く、しばしばイスラエル政府や親米派に刃をつきつけた。
 日本語に翻訳されたものとしては、本書のほかに『ドイツに生きたユダヤ人の歴史』(明石書店)がある。晩年はイタリアのトスカーナに居宅を移して、全ヨーロッパ史をユダヤの視点で総点検していたようだ。エドワード・ギボンに傾倒した著者の「歴史の語り部」としての才能が大いに生きたにちがいない。

アモス・エロンと著作
左上から時計回りに『ドイツに生きたユダヤ人の歴史』『敵意の狭間で』『イスラエル人』『血塗られた潮流』

 アモス・エロンの両親がシオニストであったように、近現代のエルサレム=パレスチナ=イスラエルを語るには、シオニズムの役割をまずもって見抜いておく必要がある。しかしシオニズムが見えたとしても、今日のエルサレム=パレスチナ=イスラエル問題は容易には解けない。
 ここには「世界中の問題」が集参しているからだ。つまりこの問題は「世界」を解くことであるからだ。
 シオニズムとは「ユダヤ人の国家をユダヤ人のためにユダヤ人がつくる」という運動のことをいう(シオニズムというネーミングはエルサレムの別名になっていた「シオンの丘」に因んだ)。テオドール・ヘルツェルがこの構想をもったときは、ユダヤ国家を実現する場所はウガンダのような暮らしやすいところも計画に上がっていたのだが、ヘルツェルの著書『ユダヤ人国家』を受けた賛同者たちは「ユダヤ人の国家をユダヤ人のためにユダヤ人の土地にユダヤ人がつくる」というふうに決断した。シオニズムはエルサレム=パレスチナ=イスラエルの地をめざしたのである。
 しかし、そこは何重もの勝手な鍵がかかっているところなのである。とくにオスマントルコが領土にしてからは、むりやり鍵をこじあけねばならなくなっていた。どうすればいいか。列強は第一次世界大戦をおこしたのだ。

 20世紀初頭、ヨーロッパの前近代の「世界史」を代表していたのはハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国である。中東で前近代の力をもって「世界大」になっていたのはオスマントルコ帝国である。
 欧米列強にとって、20世紀が現代になるためには、この二つの前近代の「世界」の解体が必要だった。ヨーロッパの現代史がここに始まった(もうひとつはアフリカ分割だ。ぼくなりの見方を『国家と「私」の行方』に詳しく書いておいた)
 第一次世界大戦は、ドイツとオーストリアを軸とする同盟国と、フランス・ロシア・イギリスを軸とする連合国の対決となった。列強のシナリオ通りというわけではなかったが(ロシアの介入などが事態を複雑にした)、ヨーロッパのほうの地図は変わりそうだった。
 問題はオスマン帝国をどうするかということだったが、すぐにイギリスが攻略に乗り出した。その作戦は密約と陰謀と欺瞞に満ちていた。主に3つの作戦を発動する。
 第一には、強力な軍事力をもつオスマン帝国を牽制するために、アラブ人を扇動する。イギリスはメッカの太守フサイン・イブン・アリをそそのかし、戦争後のアラブ人の独立を条件にオスマン帝国に反乱をおこすように仕向けた。
 カイロの高等弁務官ヘンリー・マクマホンはこの件に関する10通の書簡を送り、その中で反乱のお礼としてフサインが当主であるハシム家がアラブ王国をつくれるようにすると約束した。「フサイン・マクマホン協定」である。
 アラブの反乱にあたっては、「アラビアのロレンス」ことトマス・エドワード、ロレンス(1160夜)が、太守フサインの三男ファイサルと示し合わせアラブの砂漠の民と共闘したことになっているが(ロレンスの自著『知恵の七柱』)、真相はまだわかっていない。
 第二に、イギリスはフランスと組んで、戦争後のオスマン帝国の領土を両国で分割当統治する密約を結んだ。トルコ南部からレバノン、シリアにまたがる地域をフランスが統治して、パレスチナからヨルダン、イラク、ペルシア湾岸の地域をイギリスが統治しようというものだ。二人の外交官、イギリスのマーク・サイクスとフランスのジョルジュ・ピコの秘密協定なので「サイクス・ピコ協定」という。これでイギリスはパレスチナ方面の戦後シナリオを確保した。

映画『アラビアのロレンス』
実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史戦争映画。ピーター・オトゥールがイギリスとアラブのあいだに揺れるロレンスを演じた。

 第三に、イギリスはそのパレスチナに対して「ユダヤ人国家の建設をわれわれは大いに支持します」という意志を、なんと外務大臣アーサー・バルフォアが第2代ロスチャイルド男爵への書簡にして示した。
 実際の書面では「ユダヤ国家」ではなくユダヤ人の居住地としての「ナショナルホーム」づくりに尽力するとなってはいるものの、これはシオニズム運動をイギリスが応援し、そこにロスチャイルドの資金が供与されるという計画をあらわしていた。「バルフォア宣言」として知られる。
 この3つはイギリスの三枚舌だった(ぼくは『国家と「私」の行方』でこの三枚舌のみならず、いかにイギリスがアフリカ分割と中東問題で「まちがい」を犯したかということをくどいほど告発しておいた)。
 しかし、この相互に矛盾するような密約の絡み具合は、第一次世界大戦が連合国側の勝利におわったと同時に次々に成果をもたらした。オスマントルコは見る影もなく解体して、しばらくして共和制に移行した。分捕り作戦のほうは、イギリスがシリアの南半分をトランス・ヨルダン王国とパレスチナに分けて統治し、イラクを委任統治するようにした。フランスはシリアの北半分をシリアとレバノンに分けて統治した。
 かくてエルサレムにイギリスのアレンビー将軍が入場し、ここに30年にわたる委任統治が始まったのである。そこはもう「ダビデの町」でも「シオンの丘」でもなかった。

バルフォア宣言
「パレスチナにおけるユダヤ民族のための民族の郷土(ナショナル・ホーム)の設立を好意をもって見ており、この目標の達成を促進するよう最善の努力を払う」とした。これを受けて、英国政府は「この目的達成を保証するために全力を尽くし、必要な手段と方法について世界シオニスト機構と討議する」ということになっていた。

サイクス・ピコ協定
連合国側で大戦後のオスマン帝国における勢力分割について秘密裏に交渉が行われた。シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とし、シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリス、海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡両岸地域をロシアの勢力範囲とした。イギリスはこれに加え、対トルコ戦協力を条件にアラブ人居住地区の独立支持を約束するフサイン・マクマホン協定を結んでいた。

 アモス・エロンは、第二次世界大戦がユダヤ社会に恐怖をもたらしたこと、すなわちナチス・ドイツによる反ユダヤ主義が席巻したことについて、あまり触れていない。ナチスの反ユダヤ主義はエルサレムやパレスチナに特有のものではなかったからだ。
 エロンが重視しているのは、大戦中および大戦後を通してユダヤ人とアラブ人が、またユダヤ人の中の二つのコミュニティが深刻な対立関係に入っていったことだ。
 パレスチナにつくられたユダヤ人社会は、ディアスポーラ型のユダヤ人社会と区別して「イシューブ」と呼ばれていた。これは「イスラエルの地に住みついているユダヤ人たちの社会」といった意味で、シオニズムが強調していたディアスポーラ型の拠点の拡張ではなかった。このちがいはやがてパレスチナのユダヤ人に二つのコミュニティをもたらし、その宥和を困難にさせた。
 ユダヤ人とアラブ人が対立するのは、もとより予想されていたことだ。とくにユダヤ人がイシューブによって住居地域を確実にユダヤ・コミュニティにしていくと、アラブ人は自分たちの生活の土地が奪われていくと思い始めた。シオニズムの波及もアラブ人に警戒感を抱かせた。
 1936年から3年におよんだ「アラブの大蜂起」は、シオニズムに対する徹底抗戦となった。エルサレムのムフティ(イスラム教大法官)で、最高イスラム評議会議長のハッジ・アミン・アル・フセイニーの指導によって大規模なゼネストが敢行されたのである。
 調停にのりだした調査委員会(通称ピール委員会)はさまざまな調査と斡旋のうえ、これはパレスチナを二つに分割してアラブ人地区とユダヤ人地区をつくるしかないと踏んだ。しかし、この対立がイギリスを巻き込んでその無能ぶりを露呈させたことこそ、現代史の皮肉だった。
 終戦後、ユダヤ人過激組織に「民族軍事機構」が生まれ、イギリスをパレスチナから追い出そうというテロを活動が始まると、ついにイギリスはお手上げ状態となり、委任統治を放棄するしかなくなっていった(このときの煽動者がリクード党の党首で、のちにイスラエル首相となったメナヘム・ペギンだ。こういうところがパレスチナが凄いところなのである)。

アラブの大蜂起(パレスチナ独立戦争 1936-1939)
イギリスの公式の記録によると、イギリス軍と警察は戦闘で2000人以上のアラブ人を殺害し、108人を処刑し、961人がイギリスの言う「ギャング・テロ行為」で殺害された。

武装列車に乗るイギリス兵と2人のパレスチナ人捕虜

メナヘム・ベギン(1978年当時)
ペギンはのちにイスラエル首相となり、エジプト・イスラエル平和条約を取り決めノーベル平和賞を受賞する。

 1947年11月、万策尽きたイギリスが逃げるように撤退し、国連がパレスチナの解決を引き受けると、悪名高い「国連パレスチナ分割決議」が国連総会で採択された。ユダヤ人国家とアラブ人国家に分割しようというものだ。
 当時、パレスチナの全人口は約190万人で、そのうちの70パーセントがアラブ人、残り30パーセントがユダヤ人だった。しかし決議はパレスチナ全土の55パーセントをユダヤ人国家の領土とし、アラブ人国家には45パーセントを割り当てた。
 この決議案を押しまくったのはアメリカである。大統領選挙を控えていたこともあって、アメリカ国内のユダヤ人の歓心を買うためだった。ブッシュやトランプだけではない、アメリカ大統領選挙というもの、たいていはこの手の票田の駆け引きを国際舞台のディールに悪用してきた。
 一方、国連決議の演出をつくりだしたのは国際シオニストたちのロビー活動のなせるところだった。
 何はともあれ、ここについにイスラエルは独立国家のスタートを切ったのである。モーセ以来の「約束の地イスラエル」の宿願は1948年5月14日をもって世界承認され、ユダヤ人のための国家が国際法のもと実現したのだ(アメリカとソ連がすぐに承認をした)。
 だが、こんなことをアラブ側が受け入れるはずはなかった。イスラエル独立の直後、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトなどの周辺アラブ諸国がパレスチナに侵攻した。激突は避けられない。こうして第一次中東戦争が勃発した。この戦争をアラブ側は「パレスチナ戦争」と呼び、ユダヤ側は「イスラエル独立戦争」と名付けた。
 戦況はイスラエル優勢に進み、第一次中東戦争は国連の停戦決議によって終結した。イスラエルは国連分割決議をはるかに上回る領土を獲得した。エルサレムも、旧市街地を含む東地区がヨルダン領に、西地区がイスラエル領になった。地理が分割されただけでなく、住民も隔絶された。戦火から避難した70万人に近いパレスチナ人はイスラエルが帰還を拒否したため、すべて難民になった。
 このあとパレスチナ難民問題はその救済措置および人権問題とともに、つねに国際社会の盲点をあらわしていく。

国連パレスチナ分割決議の分割案(1947)
パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家(オレンジ色)とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議が採択された(図はグリーンがユダヤ国家、オレンジがアラブ国家を表す)。

当時のアラブ人代表者たち
委任統治政府に対して、ユダヤ人は対等の関係と見て自己の要求を突きつけ、攻撃的だったのに比べ、アラブ人代表は穏健な態度で礼儀を重んじる姿勢を示した。

第一中東戦争(1948〜1949年)
アラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差があった。

イスラエル独立宣言の原本

 第二次中東戦争以降のエルサレムの現代史は「世界」の核心的な超難問ばかりになる。何重にもネステッドにもなったパンドラの箱から(いや、契約の箱なのだろう)、予想のつかない事態が次々に起爆していったのだ。
 アモス・エロンは「エルサレムには破壊力を秘めた記憶が充満しすぎている」と書いている。そのため、「エルサレムに関する妥協はあちこちで境界線をうごかすだけではすまず、どんな抗争もその全体にかかわるものになっていく」とも書いた。きっとそうなのだろうと、つくづく感じる。
 1956年のナセルによるスエズ運河国有化宣言を発端とした第二次中東戦争は、イギリスとフランスがイスラエルを巻き込んでエジプトと激戦状態になり、結果、エルサレムは分断されて北・東・南をアラブが支配した。ユダヤ人は「嘆きの壁」に行けず、パレスチナ人「神殿の丘」に行けない。それでもイスラエルはこのときエルサレムを首都とした。
 エルサレムとスエズ運河が関係したのだ。中東の新たなエースとしてエジプトが登場してきたのは意外だった。どこの外交官も予想もつかないことだった。しかもナセルは巧みにソ連を引き込んだのだ。ぼくに数カ月に一度は御宣託をたれる父が「ナセルはおもろいなあ。これからの世界はナセルと毛沢東やな」と言っていたことが、いまだに耳にのこっている。

スエズ運河国有宣言の記念切手(1956年7月26日)とエジプトの独立を目指したガマール・アブドゥル=ナセル
ナセルは1952年に王政を倒してエジプト革命を成功させ、エジプト共和国を樹立した。1956年から大統領として独裁的実権を握り、スエズ運河国有化などを実行、第2次中東戦争を戦った。

スエズ危機(1956)
エジプトのナセル大統領が宣言したスエズ運河の国有化に対し、英、仏、イスラエルが、エジプトに侵攻し、スエズ危機に発展した。写真は地中海側の英艦隊。

 1967年、イスラエル軍が超低空飛行によってエジプト・シリア・ヨルダンの空軍基地を一斉攻撃した。第三次中東戦争の勃発である。
 聞きしにまさる奇襲作戦で、たった6日間でシナイ半島、ガザ地区、東エルサレム、ヨルダン川西岸、ゴラン高原を制した。イスラエルという国はなんという国なのか、この圧倒的な軍事力はいつ組み上がったのか、異様なユダヤ人国家がいつのまにかモーセとイエスの国で怪物化してしまっているんだという印象が拭えず、以来、ぼくは現代イスラエルをどこかで疑うようになった。
 他方、60年代後半はPLO(パレスチナ解放機構)がゲリラ部隊ファタハを呑んで暗躍した。ファタハはエジプトでパレスチナ出身の青年たちが結成した反イスラエルの武闘組織だが、のちのちの中東テロの原型になっている。
 PLOが現代史上ではたした役割を言い当てるのもけっこうな難問である。第2代議長となったヤーセル・アラファトのめざましい活動力や政治手腕も、もともとゲリラとテロを内側に秘めた言動がなぜ国際社会で話題を集められるようになったかという問題とともに、あらためて思想化しておいたほうがいい。

第三次中東戦争
シリア前線にて、大砲の音に耳を塞ぐイスラエル軍。

 PLOの理念はパレスチナ人の民族自決と離散パレスチナ人の帰還の権利を獲得することにある。その後にパレスチナ国家の確立をめざす。粗筋はそういうものだ。ともかくアラファトの作戦は独特のものだった。PLOをパレスチナ亡命政府とし、拠点をヨルダンのアンマンに置いた。
 70年代に入ると、長すぎたベトナム戦争とニクソン政治の疲労によってアメリカは新たなストラテジーをたてることになった。ひとつは変動相場制に移行してドルを防衛すること(ドルショック)、もうひとつは石油価格を有利に誘導することだったのだが(オイルショック)、こちらは中東の産油国が連動して先手を打った。
 これで米ソの冷戦の様相ががらりと変わってきた。中東介入で鎬を削るようになったのだ(この方針がのちのソ連のアフガニスタン介入とビンラディン、またアメリカのサウジ介入とビンラディンという、あの図式にまで続いた)。
 こうしたなか、ファタハを含むパレスチナ・ゲリラのテロ活動が国際社会とアラブ社会の不興を買うようになり、ヨルダンのフセイン国王がPLOの退去を命じた。パレスチナ・ゲリラのテロ行為は1967年は145件だったが、3年後に789件に、その2年後には2390件にまでなっていたのだ(この大量連打が中東テロリズムの本質だ)。
 しかし、こうした事情の張本人であって、どんな犯罪行為も委細知っていたはずのアラファトはさっさとレバノンのベイルートに拠点を移すと、一転して好感度増育作戦を見せていったのだ。作戦は功を奏してアラファトの国連演説にまで化けた。そのころぼくは工作舎で雑誌「遊」を編集しながら、国際同時通訳チーム(=フォーラム・インターナショナル)とも毎日仕事をしていたのだが、当時のリーダー木幡和枝にはのべつまくなくPLO関連の相談がきていたので、何度も何度もアラファトをめぐる議論をしたものだった。木幡はアラファトの魅力は欧米の価値観では説明できないと言っていた。
 アラファトはエルサレムきっての名門フセイン家の御曹司である。カイロ大学で土木工学を専攻し、卒業後はエジプト軍隊の予備将校をしていた。クウェートでは技師にもなっている。同じく土木工学を専攻した下河辺淳さんが「中東のゲリラには土木が、イスラエルに対抗するには工学が必要でしょうね」と言っていたのを思い出す。

ヤーセル・アラファート(1929-2004)
長らくパレスチナ解放運動においてイスラエルに対するゲリラの指導者として活躍し、幾度もの挫折を経ても復活したことから「不死鳥」と呼ばれていた。

アラファト議長の模擬棺をかつぐ青年たち
アラファトの葬儀がカイロで行われた2004年11月12日、ベイルートの難民キャンプでは大規模な擬似葬送行進が行われた。

 もう少しだけエルサレムの現代史をかいつまんでおくが、1973年からの第四次中東戦争になると、いよいよ米ソ代理戦争の様相が強くなり、担い手もガラリと変わっていく。とくにエジプトではナセルが没してアンワル・サダトが大統領として登場し、ナセルのソ連寄りの外交をアメリカ寄りに変える。
 サダトは長らくナセルの黒子として活動をしていたのだが、ようやくリーダーとなると、少年のころから読書や文章を書くのが好きだった文人肌が前に出て、アラブ社会の平穏をつくりだしたく思い、イスラエルとの和平に乗り出したように見える。イスラエルが占領しているシナイ半島から撤退し、パレスチナ人の自治を認めればエジプトもそれなりの対応すると申し出た。
 ところがイスラエルはこれを一蹴した。サダトはやむなくスエズ東岸のシナイ半島に数キロにわたる橋頭堡をつくると対戦車ミサイルを打ち込み、表向きは一戦を交えるのだが、他方でかねて準備の停戦交渉を走らせ、その仲人をアメリカに一任する。動きまわったのはかの天下の間諜ヘンリー・キッシンジャーである。エジプトとイスラエルを往復して交渉をまとめた。
 ついで1977年、サダトは電撃的にエルサレムを訪問し、イスラエル国会で演説、アル・アクサモスク(神殿の丘の銀のドーム)にも礼拝をする。この機運のまま翌年にはカーター大統領がキャンプデービッドにサダトとイスラエルのペギン首相を招いて、和平合意文書の調印にこぎつけた。
 大ニュースになったキャンプデービッドの合意だが、これは甚だ相務性に乏しいもので、エジプトが単独でイスラエルと和すという奇妙なものだった。イスラエルはシナイ半島から撤退してみせただけなのである。これでエジプトは国際ゲームから失墜した。サダトもやがて暗殺された。サダトの悲劇はパレスチナ問題がいかに深部において矛盾をかかえているかということを示していた。

左から、アンワル・サダトとヘンリー・キッシンジャー
サダトは貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。キッシンジャーはアメリカ国籍のユダヤ系ドイツ人。

キャンプ・デービッド合意
1978年9月5日から9月17日にかけて、アメリカ大統領のジミー・カーターが、エジプト大統領のアンワル・サダト、イスラエル首相のメナヘム・ベギンをメリーランド州にある大統領山荘(キャンプ・デービッド)に招待する形で三者会談が行われた。左からサダト、カーター、ベギン。

エジプト・イスラエル平和条約締結(1979)
前年9月のキャンプデービッド合意により、エジプトのサダト大統領とイスラエルのべギン首相が、カーター米大統領の仲介でサインした。しかし、81年にサダト大統領は暗殺され、82年にはイスラエルがレバノンに侵攻するなど、和平実現はしなかった。

 80年代になると、イスラエルに「大イスラエル主義」を掲げる右派のアリエル・シャロンが台頭した。シャロンは82年には国防相としてレバノン侵攻の指揮をとり、あからさまなPLO壊滅を発動させた。ベイルートが爆撃されて2万人が死に、3万人以上の負傷者が出た。
 こんな暴挙を平気でやってのけるのがシャロンだが、アラファトはアラファトで15000人のゲリラを引き連れてチュニジアへ脱出し、ここで組織の再建をやりとげた。これで予想がつくように、その後、イスラム過激派や民衆蜂起がおこっていく中東各地には初期にPLOを中心にしたパレスチナ・ゲリラが拠点活動をしたところがそうとうにあったわけなのである。
 シャロン・イスラエルの狙いはシリア軍をレバノンから追い出し、親イスラエル政権を促成してしまうことにあった。狙い通り次期大統領にジェマイエルが選出されたのだが、何者かが仕掛けた爆弾によって爆死してしまった。怒ったシャロンは治安維持を名目に西ベイルートに侵攻、南レバノンに駐留しつづけるという挙に出た。このとき、近郊の難民キャンプでキリスト教右派の民兵による難民虐殺がおこっている。
 こうした事態に二つの新たな動きが立ち上がっていった。ひとつはイスラム・シーア派のテロ活動である。なかでも「ヒズボラ」(神の党)の活動はトラックに爆弾を積んだままイスラエル軍の施設に突っ込むという、その後の自爆テロの前哨にあたるような過激力を見せた。
 もうひとつは「インティファーダ」(民衆蜂起)の動きである。1987年の暮、ガザ地区でイスラエルの軍用車両とバスの衝突でパレスチナ住民4人を轢き殺したのをきっかけに、抗議の波がうねっていった。イスラエル政府は容赦なく弾圧したため、このうねりは国際世論を巻き込み、政府も西岸をヨルダン行政から切り離さざるをえなくなった。アラファトがこれに呼応して武装闘争の蜂起とパレスチナ国家の独立を宣言したのは、このときだった。
 インティファーダは2000年9月にもシャロンが武装チーム1000名を引き連れてアル・アクサモスクに入場したときにもおこっている。21世紀のSNS時代になって、「アラブの春」をはじめとする民衆蜂起が連続していったのは、このインティファーダの再燃だった。

アリエル・シャロン(1928〜2014年)
イスラエルの第15代首相を務めたシャロンは、イスラエル史上、最もパレスチナに強硬姿勢を貫くタカ派政治家と言われているが、イスラエルの歴史上初めてパレスチナ国家の独立を明言した首相でもある。

旗を掲げて敬礼するヒズボラ兵

第1次インティファーダ(1987〜1993年)
1987年12月6日、イスラエル国防軍のトラックがパレスチナ人4人がを轢殺ことに端を発する民衆蜂起は、パレスチナ自治政府が設立される1993年まで続く。「石の闘い」ともいわれる。

 本書は1989年の刊行なので湾岸戦争以降のことにはふれていないけれど、やはりこの戦争がもたらしたことについても一言カバーしておきたい。
 湾岸戦争は図式的にいえば、8年に及んだ泥沼のようなイラン・イラク戦争に消耗したサダム・フセインがその代償を求めてクウェートに侵攻し、アメリカとNATO型多国籍軍の過剰な介入を招いた「読みちがえた戦乱」である。
 しかし、この戦争の意味はむろんその程度のものではなかった。その後のフセインの失脚とバース党の凋落が中東全体とエルサレムの21世紀にもたららした影響が大きかっただけでなく、マフディ・エルマンジェラ(720夜)が「第一次文明戦争」だと名付けたように、これはアラブ・イスラム世界と欧米世界との「文明」を賭けた戦いの戦端が開かれたというべきものだった。
 イラン・イラク戦争は、ホメイニ(シーア派)のイラン革命でパーレビー国王による親米政権を失ったアメリカとフセインのイラクを近づけた。アメリカはイスラム革命(つまりはシャーリア・コンプライアンス)が湾岸諸国に広がるのを惧れて、武器貸与をはじめとした硬軟の援助をフセインに惜しまなかったのだが、イ・イ戦争の負担を帳消しにするためにフセインがクウェートを併合しようとしたことは、アメリカ優位の石油保有バランスを狂わせると見たアメリカを危惧させた。
 もうすこし穿っていえば、フセインが湾岸戦争を受けて立つことに積極的だったのは、イスラエルを巻き込めると読んだからだった。そうなればイラクを盟主としたアラブ・イスラム文明(イラクはもともとオスマントルコ帝国の孫)と、ユダヤの価値観を統括するイスラエルを盟主としたユダヤ・欧米文明との総力戦になると予想したのだが、これが読みちがえだった。イラクは軍事力の桁外れの相違によってあっけなく崩れ、あまつさえアメリカがイスラエルの参戦を封じたことが大いなる誤算となった。
 誤算はそれだけではなかった。フセインはパレスチナ問題の解決力がイラクにあることを示そうとしてPLOを認め、PLOもヨルダン・スーダン・イエメンとともにイラクを支持してしまっていた。これも失策だった。
 湾岸戦争の結果、イラクは中東の盟主である可能性をもがれ、PLOは国際的信用を失って資金源を断たれた。民衆もハマス(イスラム原理主義組織)などを支持するようになっていった。

サダム・フセイン(1937〜2006年)
イラク共和国の大統領、首相、イラク軍最高司令官などを歴任。イラク戦争の敗戦後、逮捕され裁判の結果死刑に処された。

湾岸戦争(1991年)
アメリカ率いる連合軍の死者数は合計368名に対し、イラク戦闘犠牲者数は20000〜35000人であると見積もられている。

 湾岸戦争後の中東は欺瞞と陰謀とテロリズムに満ちていく。ブッシュ・アメリカの中東製作も歴史上最悪のものになった。パレスチナについては1993年に「オスロ合意」によって今後の自治問題の解決案が示されたのだが、そこで示された「暫定自治」は空しいものだった。
 『ユダヤ国家のパレスチナ人』や『ヨルダン川西岸』を書いたディヴィッド・グロスマン(398夜)は、こうしたパレスチナにひそむ空しさを「プレゼント・アブセンティーズ」と呼んだ。文字通りは「存在する不在者」だが、パレスチナにおいては「国内に居住する不在者」という意味だ。オスロ合意はプレゼント・アブセンティーズだったのである。
 このことについては、エドワード・サイード(902夜)も早くから適確な指摘をしていた。サイードはアモス・エロンよりも少し若く、1935年にパレスチナ人としてエルサレムに生まれた。アラビア語・英語・フランス語の入り交じる町で育ったので、3つの言語に堪能になった。アメリカに移住してからはプリンストン大学、ハーバード大学に学んで、ジョセフ・コンラッド(1070夜)の研究を足場にかなり知的エリートとして活躍をした。このあたりはエロンとはかなり異なる経歴だが、イスラエルについての見方やパレスチナ問題の見方は、さすがに一日の長がある。
 サイードは長年にわたってパレスチナ民族評議会の一員だったのだが。オスロ合意に断固反対して、アラファトと決裂した。こうしたサイードの予想はほぼ当たっていた。これ以降、イスラエルとパレスチナの関係は合意どころか、さらに激越な殺戮をくりかえすようになる。
 ちなみにサイードはかなりのピアニストでもあって、一貫してグレン・グールド(980夜)の熱烈な支持者でもあった。親友のダニエル・バレンボイムとともに「ウェスト=イースタン・ティヴァン管弦楽団」をつくって、イエラエルとアラブ諸国の双方から音楽家たちを集めて音楽会を開くという心を続けた。バレンボイムも1952年からイスラエルに移住していたピアニストだった。

オスロ合意(1993年)調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長。中央は仲介したビル・クリントン米大統領
オスロ合意はイスラエルとPLOの間で同意された一連の協定。主な合意内容は2つ。①イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。②イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。というもの。しかしオスロ合意および後の協定で明文化されたイスラエルとアラブ国家の関係正常化の期待は未だ解決されていない。

エドワード・サイード(1935〜2003年)
パレスチナ系アメリカ人の文学研究者。キリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれた。アラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきとの「一国家解決」論を主張した。著作に『オリエンタリズム』(1978年)『パレスチナ問題』(1979年)、『パレスチナとは何か』(1986年)など。

 このくらいにしておこう。エルサレムをめぐる歴史はあまりに過剰なのである。とうてい追いきれないし、論議しきれない。
 そこには目眩くほどの「聖なる集中」がありそうで、どんな時代のエルサレムも「俗悪な対立」に苛まれてきたからだ。ユダヤ人の歴史(アシュケナジーとスファルディーの歴史)の解明にも深い洞察を示したアーサー・ケストラー(946夜)は、ずばり「エルサレムはカタルシスがない悲劇に見舞われている」と書いている。
 本書を読んでいると、エルサレムではいつ何どきタイムマシンが作動して、予想もつかない時と場所があらわれ、「世界」は諸君が想像していたようなものとはまるっきり違うんだよと囁かれているような気に、しょっちゅうさせられる。アモス・エロンはその「触れなば落ちむ」という感覚を、しばしば詩的な表現を駆使してまことに微妙に描き切った。
 最初にも書いたように、こんな本はほかにはない。しかし、本書はいっさいの歴史的記述をしていない。ぼくとしてはエロンとともにエルサレム・ブルースの合奏に加わるような感想だけを綴っていてもよかったのだが、ついついそうしなかった。だからいろいろな本の記述も参考にした。
 なかでマーティン・ギルバート『ユダヤ人の歴史地図』(明石書店)、同『エルサレムの20世紀』(草思社)、立山良司『エルサレム』(新潮選書)、高橋和夫『アメリカとパレスチナ問題』(角川書店)、ウリ・ラーナン『イスラエル現代史』(明石書店)、田中宇『イラクとパレスチナ』(光文社)などが参考になった。歴史地図は月本昭男監修の『聖地エルサレム』(青春出版社)などから借用させてもらった。
 以上、「肺男の肺語によるエルサレム事情」は少しは届いただろうか。『情報の歴史を読む』(NTT出版)、『17歳のための世界と日本の見方』『国家と「私」の行方』(春秋社)、千夜千冊398夜『ユダヤ国家のパレスチナ人』にも関連事情を織り込んであるので御参考に。

⊕『エルサレムー記憶の戦場』⊕
 ∈ 著者:アモス・エロン
 ∈ 訳者:村田靖子
 ∈ 発行所:財団法人 法政大学出版局
 ∈ 印刷所:三和印刷
 ∈ 製本所:鈴木製本所
 ⊂ 1998年 3月30日 初版発行

⊕ 目次情報 ⊕
 ∈∈ はじめに
 ∈ 第1章 死海からエリコ街道をのぼる
 ∈ 第2章 聖なる都
 ∈ 第3章 諍いの都
 ∈ 第4章 憑かれた者の都
 ∈ 第5章 巡礼の都
 ∈ 第6章 城壁めぐり
 ∈ 第7章 エルサレムはいま
 ∈ 第8章 現在のない都

⊗ 執筆者略歴 ⊕
アモス・エロン(あもす・えろん)
ユダヤ/イスラエル近現代史研究者、主流紙「ハ・アレツ」論説委員(欧米問題担当)。ウィーンに生まれ、1933年英国委任統治領パレスチナへ移住。ヘブライ大学、ケンブリッジ大学で歴史及び政治学を専攻。イスラエルを代表する知識人の一人であったが、歯に衣を着せぬ筆致で、イスラエルの政策も容赦なく批判。晩年はイタリアのトスカナに居を移した。主要著書『憑かれた大地を行く・二つのドイツ』、『イスラエルびと・建国者と息子達』、『敵意の狭間で』、『ヘルツェル伝記』、『エジプトへの飛行』、『エルサレム・鏡のまち』、『初代ロスチャイルドの肖像とその時代』、『血みどろの中東便り』など多数。

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