才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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偶然性と運命

木田元

岩波新書 2001

かつて偶然は、時と夢のまにまに
ふいに訪れるものだった。
またかつて運命は、人知では如何ともしがたく
ひたすら甘んじるべき宿命をあらわしていた。
しかし19世紀、理性主義を脱した哲学は、
統計学と確率論とが登場した同時期に、
ついに偶然や運命を、
新たな生と存在の思索のうちに
深々と捉えるようになった。
たとえばシェリング、ショーペンハウアー、
ニーチェ、ジンメル、ハイデガー、ベルクソン。
けれども木田さんもぼくも、
九鬼周造こそが偶然を思索した
近代哲学最高の哲人だと思っている。

 最近でこそ「たまたま」は、数学的な確率論や社会経済的なリスク論の舞台のなかの主人公のふりをしているし、そのふるまいもあたかもコントロールされているかのように見えているが、その正体が何かといえば、あいかわらずとんとわからない。

 もともと「たまたま」は得体の知れないものだった。虫の知らせや気配のようでもあり、出会いや遭遇や奇瑞のようでもあった。それは「無常」や「はかなさ」や「生と死の宿命」とともに人の住む界隈に頻繁に出入りし、またしばしばたゆたっていた。これらはまとめていえば「偶然」もしくは「運命」というものであろうけれど、人知のまったく届かないものだ思われてきた。
ときに微妙、ときに果敢、ときに幽玄。場合によっては魑魅魍魎じみもしたし、また頻りに人間どもに悪戯をしたり試しごとをするものでもあった。だいたい偶然と運命を同じものと扱っていいのかどうかさえ、見当がついていなかった。
だからこういうものは、詩や歌や散文によっていくらでも文芸的に扱われてはきたものの、本気で思想化されることは少なかった。ロジックの対象にもならなかった。偶然や運命を本格的哲学するようになったのは、やっと19世紀に入ってからのことなのである。
そこで今夜は木田さんの『偶然性と運命』をとりあげて、ぼくがリスク社会の多岐多様な問題の深みに立ち向かう前のいまのうちに、かつてはどんなふうに偶然や運命が哲学されたのかを、少々覗いておくことにする。木田さんについては、その現象学研究、フッサール研究、ハイデガー研究、メルロ=ポンティ研究など、ゆっくり案内するべきものが多いのだが、今夜は本書の中身にもとづいたところだけを扱うことにする。あしからず。

 18世紀までのヨーロッパの哲学や思想がもっぱら「理性」を重視していたことは、前夜にもふれた。そこでは偶然や運命を扱うことなど、もってのほかだった。
たとえばスピノザ(842夜)は『エチカ』のなかで、「あるものが偶然と呼ばれるのは、われわれの認識に欠陥があるからにすぎないのであって、それ以外のいかなる理由でもない」と書いていたし、カントも『純粋理性批判』で、「幸運とか運命とかいった概念は、不当に獲得された概念だ」と述べていた。「たまたま」なんてものは、しょせん認知や思索の対象外だったのだ。不届者(ふとどきもの)だったのだ。
ヘーゲルはもっと過激で、『世界史の哲学についての講義』では「哲学的考察は偶然的なものを排除するという以外の意図はもたない」と言いきった。現象の大半を許容するはずの現象学者フッサールでさえ、その理性主義の立場上、「現象学の領域にはいかなる偶然も存しない」と『イデーン』のなかに書いている。
数少ない例外はライプニッツ(994夜)で、「偶然的真理」を持ち出して、神の創造は「自由と対立しない運命」なのだという説明を試みていた。ライプニッツはモナドの属性として欲求と表象をあげていたので、内的原理と外界からの創造原理をうまくつなげられたのであろう。ライプニッツ思想が、のちの18世紀的な理性主義や機械論的解釈に足をとられることなく現代に直結しうるのはそのせいではないかと、木田さんは述べておられる。

 ライプニッツのような例外がいくつかあったにせよ、18世紀までの哲学の大筋は、やっぱりデカルトの物心二分的な合理主義か、もしくは一辺倒の理性主義に到達することこそが目標だったので、偶然や運命など毫も扱うわけにはいかなかったのである。
ところが19世紀になると、偶然や運命がやっと哲学の課題になってきた。まずは前夜に案内したように、ナポレオンのヨーロッパ統一の野望とネーションステート(国民国家)の開闢の鐘が打ち鳴らされるとともに、確率論や統計学が「たまたま」と「ばらつき」と「かたより」を正面に取り上げるようになった。19世紀ヨーロッパは“調査の世紀”でもあったのだ。
哲学のほうはどうだったのかといえば、確率論や統計学が「たまたま」を扱った方向とは正反対の思索の深みのほうへ向かっていった。そこには、19世紀哲学の新たな真骨頂が次々にあらわれた。
今夜はそのうちのごく代表的な例のみにとどめるが、たとえばシェリングは人間存在の根源に「最古の原始偶然」を認めようとし、ショーペンハウアー(1164夜)は世界意志にひそむ超越的思弁を追って、「個人の運命に宿る意図らしきもの」を感じた。ニーチェ(1023夜)が『ツァラトゥストラはかく語りき』で、危難からの転回こそは運命であると書いて、「運命愛」(アモール・ファティ)を称揚したことなど、とくに有名だ。
ではざっと、その系譜をスキップしておく。このあたりのことに暗い諸君には、ちょっとした近代哲学抄史となるだろう。

 フリードリヒ・シェリングは早熟だった。チュービンゲン大学でヘーゲルやヘルダーリン(1200夜)と神学寮の同じ部屋で起居をともにして、卒業するなり早々にフィヒテ(390夜)とゲーテ(970夜)に推薦されてイェナ大学の助教授になった。ヘーゲルをイェナに推挙したのはシェリングだ。
けれどもヘーゲルが処女著作『精神現象学』を書くと、シェリングはヘーゲル哲学に対する批判者に転じ、独自の思索をするようになる。とくにヘーゲルが「理性的なるものは現実的であり、現実的であるものは理性的である」と説いたことには断乎として譲らず、この世には理性では処理も解決もできない“非合理な事実”があるはずだという観点から、一途に『人間的自由の本質』を書いた。
この、人間的自由と名付けられた自由とは、むろんのこと20世紀後半の新自由主義(ネオリベ)が標榜したフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンの言うような「選択の自由」のことではない。存在するものの根源にひそむ原始偶然のようなものだった。のちのち稲垣足穂(879夜)はこれを好んで「根本偶然」とも書いていた。
木田さんはこうしたシェリングの“非合理な事実”についての新たな指摘に、近代ドイツが生んだ「生」(レーベン)の哲学の発祥があると見る。19世紀哲学は人間の「生」そのものに直面することによって、偶然や運命にも手を伸ばしたのである。

 シェリングの「生」にまつわる“非合理な事実”をもっと直截に凝視したのがショーペンハウアーだ。
1164夜にも縷々書いておいたけれど、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』(1819)は、デカルトやカントが物質界とか物自体とかというふうに見たものを、きわめて大胆にも「意志」とみなした。
さかのぼってカントは、デカルトが世界を「物質界と精神界」(物心二分論)に分けた区分をほぼ踏襲しながらも、これを「感性界と悟性界」に言い替え、物自体が属するのは悟性界であるとした。物自体は現象の背後に隠れているもので、認識の限界をこえていると見たわけだ。さらに知りえないものはとりあえず「ヌーメン」(可想体)として別格に扱った。
ところがショーペンハウアーは、その物質界や物自体のほうをこそ意志とみなしたのである。老婆心で言っておくが、これは物活論や近代アニミズムなのではない。見えている世界を含む感知できない世界そのものに意志があって、その一部を人間はたんに切り取っていると考えたのだ。
人間が切り取った意志は、人間が目的に応じてコントロールできる意志である。それは合目的的なものだ。しかし切り取りできないそれ以外の意志は、きっと世界のどこかにたんまり蓄積されたままになっている。ヌーメンもおそらくそこにあるだろう。ショーペンハウアーはそういうふうに考え、そこにこそ本来の「生」の源泉があると見た。
そう考えてみると、その原意志ともいうべきものは、そもそもが母なる世界意志なのである。それは原因も目的もたない意志で、世界が世界自身をあらわす力(表象)としてはたらいている。それゆえ偶然の本質や運命の本質というものがあるのなら、そこにはに世界意志が「生」の源泉とともにかかわっていそうだった。
こうしてショーペンハウアーは、世界が意志としてあらわれる(表象する)ひとつの力としての宿命(運命)にとりくみ、そこに論証可能な宿命と超越的な宿命の種族たちを見いだし、後者から高次な意志が導きうると考えたのだ。さらに、高次な意志には説明不可能な「秘められた力」としてのファトム(ファントム)めいたものがあり、それが「生の意志」となって、しばしば摂理のような社会的理念を動かした。と見た。
ちなみに、ぼくはそういうショーペンハウアーの哲学からは、共苦と共感が同時にともなう「ミットライト・ペシミズム」の思想の香ばしさにこそ肩をもちたいのだが、そのあたりのことは今夜の話からはずれるので、ふれないでおく。1164夜を読んでもらいたい。

 ショーペンハウアーの意志の哲学をまるごと継いだのは、なんといっても運命の哲人ニーチェである。そもそもニーチェがショーペンハウアーに出会ったことが、まさしく運命的だった。
青年ニーチェはボン大学に入って「フランコーニア」という学生団体に入会したり、娼婦を買ったりして青春躍動謳歌の日々に甘んじていたのだが、大好きな先生リッチュルの転勤に従ってライプツィッヒ大学に移ったのをきっかけに心機一転、そのとき古本屋でショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』と出会った。
家に帰ったニーチェはソファに身を投げ出して大著を読みはじめ、「2週間もつづけざまに夜中の2時まで読み耽った」らしい。のちに述懐して、“運命的な出会い”を感じたと書いている。
その後のニーチェは大学を卒業すると、すぐにバーゼル大学の助教授となり、そこで処女作『悲劇の誕生』を書くのだが、それもまたショーペンハウアーの「意志」と「表象」を、「ディオニソス的なるもの」と「アポロン的なるもの」に継承させていた。「生」(レーベン)は悲劇において深まっていくことが宣言されたのだ。
そういうニーチェが1880年代に入ると、この「生」をさらに深い暗闇に宿るような生命衝動に運ぶようになった。『ツァラトゥストラ』や『力への意志』だ。ここに、ニーチェの運命や宿命をも永劫回帰させる超人的構想が聳え立つ。
こういうニーチェの哲学を誰が継いだかといえば、いまもってこれははっきりしない。超人が「運命愛」を問うあまりの態度に、ニーチェ信奉者ですらたじたじとなったというのが正直なところだろう。しかし「生」(レーベン)の哲学を受け継ぎ、これを存在の根本において「偶然」を契機に解きあかしていくという試みは、その後もジンメル、ショルツ、ハイデガー、ヤスパース、ベルクソンというふうに発展していく。

 ゲオルグ・ジンメルについては、どこかで千夜千冊しなければならないと思ってきた。放ってはおけない。哲学者ではあるが、そのエッセイ的文体がいいし、きわめて多才多様であり、つねに体系性を拒否し貫いた。“生の哲人”と呼ばれてきたが、そこにはユダヤの影も社会主義の影もある。
なにより「自由」「個人」「個性」の分析に立ち向かって挫折した。ぼくはそこが好きだ。なぜ挫折したかといえば、個人の自由や個性の開花を追求すればするほど、近代社会の主知的な傾向にぶつかって、それが社会と個人の対立を促すことに気がついたからだ(今日のグーグル・アマゾン社会と引きこもりやニートとの関係などと、くらべてみるといいだろう)。
かくてジンメルはこの問題(自由・個人・個性の挫折)の鍵を握っているのは、きっと経済主義や通貨や流通市場の問題だろうと考えて、ついに『貨幣の哲学』(1900)を書いた。この勇気がすばらしい。いずれふれたい。
が、本書ではジンメルはあくまで“生の哲人”であり、遺稿に『運命の問題』を書いたジンメルである。
そういうジンメルは、「生」を取り扱うべき哲学が「愛」や「体験」を俎上に乗せないのはおかしいという判断から、『生の直観』(1918)を書く。そして、生は「より以上の生」として現実を超えようとする超越の契機をもつが、同時にこの超越は完全には不可能だから(誰もニーチェの超人にはなりえないのだから)、それぞれの生はそのつど「生より以上」の歴史とぶつかって、その相対性をさまざまな文化にしていくと見た。
「生」にはもともと本来の超越性が内在しているのだが、それがなかなか取り出せない。せいぜい文化となってあらわれるにすぎない。ジンメルはこれを「文化形式の悲劇」とも名付けた。それにしても「より以上の生」から「生より以上」へというのは、なかなかの含蓄がある。
その後ジンメルは、『学校教育論』から『社会学の根本問題』に進んで、歴史・社会・哲学の総合化の可能性に向かうのだが、その最後の遺稿が『運命の問題』と題されたものだったのだ。

 ジンメルは「運命」が哲学のなかで看過されてきたのは、観念論や合理主義とあいいれないからだとみなした。
観念論とは、世界を主観によって構成されたとみなす考え方をいう。しかしながら認識されるものすべてが精神のもつ作用が生み出したとみれば、世界は観念の中に収まってばかりになる。そこでは観念の外にある偶然や運命の作用はまったくはたらかない。介入してこない。このような観念論は、運命にはつきものの暴力的なものを受け入れる余地はない。ここが観念論の限界なのである。
合理主義もまた、理性によって把握できないものを排除せざるをえない。よくって数理か法理論、ひどければ形式的いい子ちゃんどまり。エロスや暴力やタナトス(死)はむろん、理屈やロジックで解明しがたいものは受け入れない。
それなら、偶然や運命の作用を入れた哲学はどのようにつくれるか。ジンメルは「個体的な主観」と「外的な出来事」の両方の相互作用を考えるような哲学が必要だろうと考えた。主観がどうであれ、それとはべつに外的におこっている出来事がある(来気候や不景気やウイルスや流行)。この出来事のうちのいくつかは、どこかで必ずや主観に影響を及ぼすはずだ。そうだとすれば、「個体的な主観」と「外的な出来事」二つの関係のあいだに運命というものがあるだろう。というのだ
ジンメルは、なかなか微妙ではあるが決定的な「運命の閾値」というコンセプトを持ち出した。「個体的な主観」による認識の形成のプロセスと「外的な出来事」による体験の形成のプロセスとの重なりぐあいの、そのどこかに運命の閾値があると推断したのだ。
いったいそんな運命はどこからくるのかといえば、ルーツなどがあるわけはない。ジンメルはそれは世界の暗いものや解きがたいものが「意味」として個人にかかわるときにあらわれると考えた。
こういうふうに書いている。「好意的なものであれ破壊的なものであれ、われわれが運命らしいと思っているもののうちには、悟性によっても捉えられず、生の志向によっても同化されることのない何ものかがひそんでいる。このことは、われわれの生の徹底した必然性がなんらかのかたちで偶然的なものであるという不気味な感情に対応している」。
必然と偶然とは、互いにけっこういい勝負をしているということなのだ。こうしてジンメルはニーチェと同様に、この偶然的なものを徹底した必然だと感じさせる芸術様式こそ、「悲劇」の本質だとみなしたのである。

 木田さんはウィルヘルム・フォン・ショルツにも、ちょっと気がかりな『運命の先行形態としての偶然』という著作があると示唆した。ショルツは父親にビスマルク内閣最後の大蔵大臣をもつ劇詩人であるが、しばしば哲学的断片も発表した。
ショルツは偶然こそ運命の関与の証しであると見て、そこに「関わりあるものが互いに引きあう力」を想定した。それをゲーテ(970夜)に倣って「親和力」と呼んだ。親和力でわかりにくいなら、のちの心理学でいう「連合」でもいいが、それよりショルツがユニークなのは、そこに「われわれが知りえない包括的な意識」というものを持ちこんで、「われわれが見る夢ではなく、われわれが夢見られる夢」というものがあるにちがいないと言ったことだったろう。
これはシェリングの“非合理な事実”との関連も思わせる。もっとも「われわれが夢見られる夢」というのでは、まるで荘子(726夜)の胡蝶の夢でもある。むろんそれでもいっこうにかまわないけれど、しかし、ここまでくるともはやノヴァーリス(132夜)でおおいに充分、ということになる。哲学の冒険とはいいがたい。

 かくていよいよ黒森の哲人マルティン・ハイデガー(916夜)の登場ということになる。たとえば『存在と時間』の第74節「歴史性の根本的構成」に、次のような一文がある。「本来的であると同時に有限的でもある時間性だけが、運命といったようなものを、つまりは本来的な歴史性を可能にすることができる」。
ここに表明されているとおり、ハイデガーは、時間の本質が運命とかかわっているという指摘をしたわけだ。「たまたま」の正体を時間の正体に結びつけたのだ。なんとなくは頷けそうな話である。
しかしハイデガーがそもそも『存在と時間』でどのように時間をとらえたかということは、ぼくも千夜千冊をしておいたものの(かなり気にいっている一夜だと自負はしているものの)、こと時間については、何度立ち戻ってもわかりにくかった。わざわざわかりにくく書いたのかと思わせるほどなのだ。今夜はそこを木田さんの解説に託して、急ぎ足で要約しておく。

 ハイデガーは時間を、時計のように等質的に流れる通俗的時間と、人間の意識に属しているとおぼしい根源的時間とに分けた。
この根源的時間は、人間という存在(Sein)そのものに作用しているのだから、「自分を時間化」(sich zeitigen=ジッヒ・ツァイティンゲン)することによって動きだしていると考えられる。動物はおそらく現在にしかいないだろうけれど、人間は大脳や言語を発達させて、過去も現在も未来も連続してとらえるようになった。ハイデガーはこれを「時間化作用」(Zeitigung=ツァイティグング)と名付けた。
これが「時熟」である。青い柿が赤く熟していくようなものとして、自身の存在をとらえているということだ。
なぜ人間存在にこのようなことができるかといえば、現在の意識の渦中に微妙なズレや差異を感知し、そこをこじあけるかのように認識世界を拡張していったからだった。
一方、人間はそういう現在をとりまいている「世界」にも属している。この世界とは、たんなる地理的な環境でもないし、生態系としての世界でもない。それらを含めての、さまざまなアスペクト(局面)として構造を相互に表出しあっているような、そのような高次な世界のことをいう。いわば「構造の構造」であり、「関係の関係」であるような世界だ。
このように人間存在が現在とともに世界にそのまま属することを、ハイデガーは「世界-内-存在」と呼んだ。それとともに、現在に生きているという意識は過去や未来とともに生きるということでもあるから、この「世界-内-存在」としての人間は、未来という時間から逆照射されているわけでもあった。これをハイデガーは「現存在」(ダーザイン)と呼んだ。

 ところが他方、もとより人間は永遠ではない。どこかで必ず死ぬ。そのことをうすうす知っている。
ということは、われわれは自分自身の死についての先駆的覚悟のようなものをもっていて、いわばその覚悟のうえで現在の時間を生きていると言える。
病気をしたり挫折をしたり、大事なものを失ったり老いたりしていけば、なにがしかの覚悟をするのは当然だろう。むろん覚悟しなくとも現在を生きることは可能であって、べつだんぐたぐたとしていたっていいわけである。実際にもそういう日々のほうが断然多い。
ということは、現存在としてのわれわれには、先駆的な覚悟をするような根源的時間につながる本来的な時間意識を感知しているとともに、そうではない非本来的な時間意識もつねに持続されていて、この非本来的な時間意識がついつい日々の通俗的時間をつくっているのだろうということになる。
さてそうだとすれば、この非本来的な時間から本来的な時間に現存在を転換させること、そのことが新たな「たまたま」のはたらきとして重要だということになる。
これをハイデガーは「投企」と呼んだ。自分を自分の他端にプロジェクトするということだ。わかりやすくは自身の転換をおこすかもしれないほうへ自分を投げるということだ。これを現存在のほうから見れば、私は世界に「被投」されているということになる。投げ出されているということになる。
こうして話は、さきほどの『存在と時間』第74節の、「本来的であると同時に有限的でもある時間性だけが、運命といったようなものを、つまりは本来的な歴史性を可能にする」というところにさしかかる。ここでいう運命とは、投企によった他者と出会える機会のようなものであり、そのことによって共に根源的時間を生きられる実感をもつということだったのである。
偶然の正体は、こうして、難解きわまりない時間の正体のままに、存在の運命的根底にくみこまれていったのである。

 ハイデガーの存在と時間と運命をめぐる哲学は、さまざまな影響と波紋を呼んだ。ページ数の少ない岩波新書である本書ではそのことをあれこれ俯瞰する紙幅はないので、木田さんはそのなかを代表してヤスパースを例示した。
カール・ヤスパースも「現存在」を重視した哲学者である。ただしヤスパースの現存在はおおまかには“生命体としての人間”といった意味で、その現存在を投企して脱出した“可能性にある存在”は、別して「実存」と呼ばれることになった。このネーミングはキルケゴールからの援用で、のちにサルトル(860夜)らに受け継がれた存在概念だ。
ところでヤスパースは「実存」(Existenz)の意義を規定するときに、興味深い条件を持ち出した。それは「限界状況」というものだ。
現存在としてのわれわれは「動揺」「争い」「苦悩」「罪」「死」といった限界状況につねに立ち会わされていて、そのなかでときに想像を絶する苦境に立たされることもある。これらはときに自身を襲う偶然ではなく、自身を他者や愛に結びつける偶然との一体化をもたらす。そのとき、現存在は実存に向かって解き放たれるというふうに、ここに偶然の重視を入れこんだのだった。
このヤスパースの実存はのちにジャン・ポール・サルトルによって「自由の問題」に、アンリ・ベルクソン(1212夜)によって「意識の持続と瞬間の問題」へ発展させられた。偶然は自由の契機にも意識の契機にも高められていったのだ。
ベルクソンが『時間と自由』で、流れた時間を過去に、流れる時間を未来に振り分け、その“あいだ”に現在という持続の意識をおいたこと、それが「エラン・ヴィタール」(生の飛躍)という「生」(レーベン)の哲学の再生開花につながったことについては、1212夜を読まれたい。
一方、サルトルより3歳年下のメルロ=ポンティは、『シーニュ』(みすず書房)のなかの「人間と逆行性」という論文で、実存をめざす人間はそもそもが「偶然の場」におかれているのだから、人間にとっての生の充実は、その「偶然の場」から“意味”を見いだすかどうかにかかっているのだろうとみなした。
メルロ=ポンティの研究者でも翻訳者でもあった木田さんは、この「偶然の場」から“意味”が立ちあらわれてくるところは、ショーペンハウアーやニーチェやジンメルが捉えようとした「運命」の関与するところと通じると解釈している。

 だいぶんはしょったけれど、ざっと以上が18世紀までの哲学が放逐した「偶然」や「運命」などの「たまたま」類を、新たに19世紀から20世紀にかけて掬いあげてきた哲学の流れの一端だ。
よくも突きつめて考えたなと思うところもあるけれども、どうも隔靴掻痒をまぬがれないという気分ものこる。「では、偶然の哲学って何かのですか」ということを求めようとすると、これらには何かが物足りない。そう感じざるをえないものがある。
そこで木田さんはここで一転、われらが九鬼周造(689夜)の偶然論をもって、木田さんなりの仕上げに向かったのである。

 九鬼周造についてはぼくも「千夜千冊」や『日本という方法』(NHK出版)などに、あれこれ書いてきた。九鬼は初代アメリカ全権大使の九鬼隆一男爵の息子で、子供時代すでに芝や花柳界に遊んでいる。はなっから「粋」の感覚をもっていた。
日露戦争のさなかに一高に入って、岩下壮一・和辻哲郎・谷崎潤一郎らと交わり、東大哲学科のときはキリスト教に入信するのだが、同級の岩下の妹に激しい失恋をして大学院を途中で放棄すると、痛恨の「恋しさ」や「寂しさ」をかかえたままハイデルベルク大学に行った。そのまま8年間の留学や遊学をおくる。
ドイツではハイデガー、リッケルト、フッサールに学び、現象学や実存の思想の萌芽を知った。さすがにドイツの哲学はすばらしい。しかし九鬼は満足していない。フランスにも行って、当時は学生だったサルトルの通訳でベルクソンにも学んだ。まさに19世紀の「生」と「存在」の哲学頂上に出会えたのである。だがここで、九鬼ははたと考えこんでしまったのだ。
当時のヨーロッパ最高の哲学といえども、どうも「同一性」の回復ばかりをめざしているのではないか。みんながみんな、そこばかりを思索しているようだ。
しかし自分がとても大事なことだと思ってきたのは、実は「恋しさ」や「寂しさ」だ。これは他者との同一性を得られないという感情だ。この感情は、おそらく“対象の欠如”によって生じる根源的なものへの思慕というものだろう。それは異質の芽生えでもあろう。だからこそ自己同一性もままならなくなるのだろう。そうだとすれば、重要なのは「同一性」ではなくて、むしろ「異質性」というものではないか。
そう考えた九鬼は、異質性をとりこむには、東洋思想やその底流にある「無」の思想のようなものを混ぜたほうがいいのではないかと思い、禅にも関心をもっていたハイデガーにもう少し詳しいことを聞こうというのでふたたびドイツに戻るのだが(1927~28)、けれどもハイデガーからは期待したほどの説明がない。
たしかに時間の話はあった。必然性が過去に、可能性が未来に属するという意見も、それなりにわかった。しかし九鬼は、それなら偶然性は現在にこそ出入りしなければならないのではないかと感じてしまったのだ。

 最新ヨーロッパ哲学からこれ以上を学ぶことを断念した九鬼は、日本に戻ってくる。そして「何かを失って芽生えること」「そこに欠けているものがあって生じるもの」を説明しうる現在感覚の作用の解明に、独自に立ち向かうことにした。
九鬼にとっての独自な現在とは、日本である。九鬼は日本において、喪失や欠落が生む場面を考えた。社会の存在の系譜のなかの異質性においてこそ発露するものを考えた。昭和5年(1930)、この考察は『「いき」の構造』となっていった。
『「いき」の構造』は大評判になった。ヨーロッパ哲学一辺倒の日本の知識人が、初めて日本の「失われたもの」を扱ったからだ。しかし九鬼自身はこの著作では、ハイデガーたちが回答しなかったものは書きえなかったとわかっていた。九鬼は異質性の取り込みのためには、やっぱりそこに偶然性が必要だということを痛感する。
こうして『講義・偶然性』(1930)、『偶然性の問題』(1935)、『偶然の諸相』(1936)を矢継ぎばやにまとめていったのである。ついに、ついに、「偶然」が哲学されたのだ。

 九鬼の偶然論は、偶然の反対語の必然の洞察から始まっている。必然性とは「必ずそうであること」「そうでないことがないこと」である。つまり、その反対になることが不可能なこと、それが必然だ。
必然が自分の反対のものになるのが不可能だということは、これを人間の存在のありかたにあてはめれば、自分自身のうちに存在の根拠をもった自己が、そのまま自己でありつづけることを意味する。つまりは必然ばかりを追えば、自己同一的に自分でありつづけることになる。
ということは、必然性はたえず自己同一性のなかにとりこまれていって、ここから脱することがない。では、どうするか。脱出ができるのは、そこに偶然性が感知させることなのだ。
このように出発した九鬼は、ついで偶然の分類を企てる。①論理のなかにあらわれる偶然、②経験のなかにあらわれる偶然、③思惟のなかにあらわれる偶然、というものだ。これらをそれぞれの特色で分け、3つの偶然をロジカルに比較しながら説明しようと試みた。
だが、惜しむらくは、このあたりの九鬼の分析と説明は贔屓目にみてもうまくない。九鬼が好きで好きでしょうがないぼくにさえ退屈で、これではフッサールやハイデガーの延長に偶然の概念を強引に入れこんだとしか思えない。
しかしそれでも、その退屈な区分けと比較を過ぎてからの九鬼は、冴えていく(だから九鬼が好きなのだ)。「偶然は遭遇または邂逅であろう」から、そこには「独立せる二元の邂逅」があるのだろうと見て、そこから偶然の気質のようなものに向かったのだ。ここにこそ九鬼周造の面目が躍如した。
それはこういうものだった。ぼくの言い方であえて一行にまとめるが、「本来の偶然とは、何かであることさえできず、それゆえ何かと何かが出会うことによって、きっと稀にしかおこらないような、そういうものである」。
九鬼の偶然論は「偶然の存在学」だったのである。それは最後の最後になって、まことにフラジャイルな存在学に転じていったのだ。ぼくは「千夜千冊」の九鬼の夜に、求龍堂版全集では、次のようにヘッドラインを入れてみた。「偶然と異質のために粋になる」。

 近代哲学には、その一部において偶然と運命についての独創的な思索がさまざまに陶冶されていたのである。19世紀に芽生えた「たまたま」の思想が、確率論や統計学とはべつに、ショーペンハウアーといいジンメルといい、またハイデガーといい九鬼周造といい、なんともきわどいものに向かおうとしていたこと、少しは伝わったのではないかと思う。
しかし、しかしながら、これらはあくまで19世紀の哲学や20世紀初頭の試作であって、20世紀後半の存在学がどのように偶然を相手にしたかということとは、ちがうものだと見たほうがいい。
また、確率論や統計学が当初のラプラス(1009夜)にとどまらずに大きく変化し、またベイズの定理がいったん歴史の中に沈んでいながら、たとえばビル・ゲイツが「マイクロソフト社の戦力はベイズ・テクノロジーである」と言ったとたんに一挙的に再生したように、これからの「たまたま」がどう議論され、どうシステムと対応していくかも、まだまだ予断を許さないとも言うべきなのである。
それゆえ他方においては、心の「たまたま」や神秘の「たまたま」がまたぞろ復活して、それが突発的な宗教になったり、ニセ科学になったりすることも、また予断を許さないのである。まして、これらのどこをリスクとし、どこをリターンとするかは、まだまだ決着がついていない。
このあとの年の瀬と正月を挟んだ数夜の連環は「連塾」を挟みつつ、そのあたりにだんだん分け入っていく。おたのしみに。

【参考情報】
(1)上記の近現代哲学史の個々の原典や参考書、およびその流れをめぐった参考図書については、いまさら記しておかなくてもいいだろう。気が向けば、いつでもショーペンハウアーやジンメルや九鬼周造に当たられたい(ジンメルはいずれ千夜千冊する)。念のため岩波新書の誼みでいえば、熊野純彦の『西洋哲学史』上下(岩波新書)は最近のものではよくできていて、何かを寄与してくれるのではないかと思う。

(2)木田元さんの著書には、『現象学』『ハイデガーの思想』(岩波新書)を筆頭に、『ハイデガー』『メルロ=ポンティの思想』『哲学と反哲学』『ハイデガー「存在と時間」の構築』(岩波書店)、『反哲学史』(講談社)、『哲学以外』(みすず書房)、『わたしの哲学入門』『哲学の余白』(新書館)などがある。もっともさらに突っ込みたいのなら、大森荘蔵に進んでいくというのが、実はお薦めだ。

(3)本文では省略したが、本書は最後の章をドストエフスキーにあてていて、『悪霊』のスタヴローギンとマトリーシャの出会い、『カラマーゾフの兄弟』のコーリャ・クラソートとイリューシャの出会いに、「偶然と運命」のもうひとつのヒントを暗示している。途中の、森有正の「コーリャ・クラソート」についての言及も示唆に富む。