ウィルヘルム・ライプニッツ
ライプニッツ著作集|全10巻
工作舎 1988~1999
ISBN:4875023065
Gottfried Wilhelm Leibniz
Opera Omnia 1666~1715
[監修]下村寅太郎・山本信ほか  翻訳=原亨吉・佐々木能章・佐々木力ほか

 数学には記号がつきものだとおもわれている。そんなことはない。数学記号がないころから数学はさかんだったし、数式が言明しているメッセージ内容には、必ずしも記号は躍っていない。
 数学的能力と記号的能力も、べつものである。記号の力を借りない数学的思考はいくらでも可能だし、既存の数学に対応していない記号的思考はいくらでもある。急に引き合いにだすけれど、三浦梅園ウンベルト・エーコには記号的能力はあろうが、数学的能力はほとんどないだろうし、ニュートンやホイヘンスは記号的能力に頼る必要がないほどに数学的能力に長けていた。
 しかしいったん記号が定着し、それがしだいに体系性をもっていくと、数学的思考と記号的思考のあいだの峻別はあいまいになっていって、とくに、記号というものがどれくらい実体を指示しているかという議論や、思考はどれくらい記号の助けを借りているかという議論をしているうちに、記号的数学こそが数学だという観念をどこかに押しやることができなくなっていった。
 とくに代数学が記号で表現されてからは、この問題は、大きな謎とも、人間思考の本質を解く鍵とも、逆に、思考を阻む壁とも見えてきた。こうした問題を考えようとするとき、つねにその中央にあらわれてくるのがライプニッツなのである。

 もともと代数学と記号化とは関係がないものだった。アル・フワリズミーの代数学、いわゆるアルジェブラには記号がまったく使われていなかった。
 代数学の呼称のルーツとなったアルジェブラが、プラス・マイナス記号もアラビア数字も使っていないということは、そのころはまだ、文章上のレトリックとして代数を“綴っていた”ということになる。代数は思考の文法に所属していたともいえる。
 それがラテン世界に入ってきて、これを写本するプロセスで省略記号を考案しているうちに、いわゆる代数記号に発展していった。佐々木力が紹介していたのだったとおもうが、たとえばアラビア語で1次元の未知数はシャイといい、それをラテン語ではレースというそうだが、その頭文字のRを独特の筆記文字で書くうちに代数記号になっていったという例が、記録上でも明確であるらしい。
 考えてみれば、文法や文体に所属する代数ならば、地域や国や民族や風習によって、代数は変わっていくものだったのである。
 しかし、それを記号化していくとなると、そこには共通性や共有性が問われることになる。距離と温度と質量をつなげる数学が必要になり、ポンドとドルと円には交換レートが必要になり、それらを“交ぜても”計算できる方法が必要になる。
 こうして未知数がだんだん記号になっていくとなると、ついでデカルト以前に代数学にとりくんでいたヴィエトが既知数も記号化して、幾何学的な解析はすべて記号代数学で展開できるようにした。これを継承したのがデカルトで、そこでは代数によって思考も方法も精神規則も説明できるというふうに、主張されるようになった。
 その代数思考をライプニッツが批判するところから、数理哲学思想史上の思考と数学と記号をめぐる巨大な幕があく。これが知のバロックの開幕なのである。

 ライプニッツが数学と記号のあいだに立っていたとき、その目はまず先行のデカルトに注がれていた。
 デカルトは『方法叙説』で幾何学を重視したのだが、この文章は読みにくいだけでなく、ニュートンが指摘しているように誤りも多いものだった。しかし、その訴えるところには実に大きなものがある。そこで、このデカルトの幾何学論には当時からいくつものコメンタリーがついて、しかもフランス語版からラテン語版にも移し替えられていた。その間に、デカルトが考えていることは「普遍数学」というものだという定説ができあがっていったのである。
 ライプニッツが目を注いだのは、このデカルト的普遍数学の、定まりきらない雄叫びのようなものだった。実はデカルト自身はそこまで考えきってはいなかったのである(と、ぼくは思っている)。
 しかし、ライプニッツはそのデカルト的普遍数学に挑み、そこに量概念しか機能していないという欠陥を見いだした。たとえば、代数的な離散量と幾何学的な連続量をそのままごっちゃにして扱っているという欠陥である。ライプニッツは、もし普遍数学というものがあるのだとしたら、そこには量だけではなく、もっと広くて多様なカテゴリーが扱われるべきだと考えたのだ。「質」や「関係」だって扱われるべきだと考えたのだった。

 マテマティカとは、そもそもは「学ばれるべきもの」という意味である。その原形には、第799夜や『遊学』のプラトンの項目に書いておいたように、マテシスがある。
 マテシスやマテマティカは、想起されるべきすべてのものを学習記憶するための方法なのだ。そうだとすれば(まさに、そうなのだが)、そのマテシスやマテマティカは、いったん“記号の森”を通過して、そのうちから最も適切な記号群を連れ帰ってもよかったのである。そういうことをしても、平気なはずなのだ。
 こうしてライプニッツは当時の普遍数学の欠陥を前にしつつ、そこに記号をもちこんで、これを普遍記号学として確立する構想をもつにいたったわけである。

 1666年はライプニッツがまだ20歳。しかしこの年に執筆された『結合法論』(デ・アルテ・コンビナトリア)には、その後のライプニッツの構想がいろいろなかたちで発露した。こんなに独創に富んだ仮説は、当時も今日も、めったに見られない。それにしても20歳。
 ライプツィッヒ大学でアリストテレス哲学とユークリッド幾何学を学んでいたライプニッツは、すでにいくつもの問題が対比的に自分の前に聳え立っていることに感づいていた。神の語り方と人間の語り方の対比、普遍の論理と個別の論理の対比、名前をもつ力(唯名論)とそこに物事がある力(実在論)という対比――。
 これらを前にしていたライプニッツは、はやくも二人の教師からすばらしいヒントを引き出していたようだ。哲学のヤーコプ・トマジウスからは幾何学と精神の関係と「モナド」の意味を、数学のエアハルト・ヴァイケルからは哲学と科学の和解の方法とその和解のための論証の方法を――。
 このときすでにライプニッツの胸中には、新たな「普遍学」を確立するという思いがいっぱいに膨らんでいたようだ。キーワードは「コンビナトリア」。すなわち「結合」である
 かくて哲学の修士・法学の学士を得たライプニッツが、つづいて哲学の教授資格のために書いたのが、「結合に関する算術的論議」という論文と、それを一冊の書物にまとめた『結合法論』(著作集第1巻)だった。ここに、ライプニッツをして有名にさせた「人間思想のためのアルファベット」というアイディアが開花する。

 新構想にとりくみたいライプニッツに一番大きな示唆を与えたのは、おそらくライムンドゥス・ルルスのアルス・コンビナトリア(結合術)だったろう。
 ルルスはこれを「アルス・マグナ」(大いなる術)とよんでいた。ライプニッツも「アルス・マグナ」を作りたい。

 13世紀のカタロニアでこの秘策を構想したルルスのアルス・コンビナトリアは、まさに三浦梅園にこそ見せたかったものである。
 ルルスは6系列からなる一種の範疇表を作成して、そこにBからKまでの9個の文字を用いて、絶対的述語・相対的述語・問い・主語・徳・悪徳などのプラトン的な9個の範疇(カテゴリー)を動かそうとした。とくにそのうちの絶対的述語と相対的述語は字母Aと字母Tの円に配当されて、概念が主語から述語へ、述語から主語へ置換できるようにした。
 驚くべきは、第四図と称されたクアルタ・フィグラが3つの同心円で構成されていて、そのうちの内側の2つの円が回転することによって、3個ずつの文字のすべての組み合わせが得られるようになっていることだ。なんだか遺伝アルゴリズムを思わせる。
 ルルスが構想したのは、限定されたいくつかの用語(テルミエ)をつかっての、あらゆる問いに応じ、そこから各種の学を構成することが可能な「ローギッシェ・マシーネ」(論理機械)なのである。それゆえ、それは論理術にも普遍術にも記憶術にも使えそうなものだった。けれども、その根幹にあったのは、なんといってもアルス・コンビナトリアという編集術なのである。

 ルルスのアルス・コンビナトリアは梅園の条理学のようには孤立しなかった。各方面に猛烈に吸収されていった。ライプニッツ以前、それは多くの学術と神秘思想と記憶術に採用されている。
 とくに、ニコラウス・クザーヌス、ピコ・デッラ・ミランドラ、アグリッパ、ジョルダーノ・ブルーノ、カンパネッラ、パラケルスス、ヨハン・ハインリッヒ・アルシュテート、アタナシウス・キルヒャーに特有された。
 この顔ぶれでわかるように、アルス・コンビナトリアはしだいにスペインからイタリア・ルネサンスへ、それからフランス・イギリスへ、そしてそれらが瀘過され尾鰭をつけて、ついに最も濃いものがドイツへと波及していったことが見てとれる。
 ドイツにルルスが色濃く波及した理由には、ひとつには、クザーヌスの『知の無知』とアグリッパの『学の不確実さと空言』のあいだでアルス・コンビナトリアをめぐる熾烈な論争があって、それがアルス・コンビナトリアを新たな論理マシーンとして議論できる素地にしていたことであろう。
 もうひとつには、おそらくルルス主義がカバラ思想と結び付いたことである。カバラでは、もともとセフィロートというフォーマットによって神の知の流出の組み合わせの可能性を追求していたし、そこではヘブライ文字のローテーションによる「文字と瞑想との対応関係」も重視されていた。それがもともと文字を重視するドイツの風土で新たな可能性への転換がはかられる契機ともなっていったのではないかと、ぼくは思っている。

 一方、むろんルルスに対する容赦ない批判もあった。ブルーノのばあいは9個の文字が不足きわまりないとして30個の文字を持ち出して、それをギリシア文字とヘブライ文字の混合セットにしたくらいだから、批判というより批判的継承をしたほうであったけれど、ベーコンとデカルトになると、批判は痛烈になっていた。
 とくにデカルトは、自身で普遍数学を標榜するに至っていたところだったから、ルルスのような“魔法”には断固として与(くみ)しようとはしなかった。
 このとき、若きライプニッツが『結合法論』をひっさげて登場してくるのである。
 さきほども書いておいたように、ライプニッツはデカルトの普遍数学に疑問をもっていた。あんなものは「普遍」の名にふさわしくないと考えていた。ライプニッツは書いている、「申し上げておきますが、私はデカルト主義者ではありません」。
 では、ライプニッツは何をめざしたのか。アルス・コンビナトリアを論理学まで高め、そこに普遍的な記号代数を関与させ、「発見の論理学」ともいうべきを確立することをめざしていた。それが「人間思想のためのアルファベット」というアイディアだったのである。

 さてところで、さきほどからのぼくは、こうしたライプニッツが提示した知のバロックの周辺についての何かの感想を書こうと思って、1階の書棚から取り出した工作舎の『ライプニッツ著作集』を3階の書斎の机上にずらりと置いて、あれこれ考えをめぐらしていたのだった。
 一冊開いては、また別の一冊を開き、そこでちょっと文章を打ち、また一冊を開いて読んでは、また別の一冊を読む。そんなことをしていた。そのうち、この著作集にちりばめられたライプニッツの思索の痕跡や、それこそ草稿に残響する手の痕跡などが、造本やページネーションの隅々から潮騒のような音を立ててせりあがってきて、はからずもこの著作集に遠い日にかかわった記憶が蘇ってきたようで、いささか感傷的な気分にもなっていたのだった。
 そこでここに、この著作集の誕生をめぐるエピソードを、ごく少しだけだが、挟んでおくことにする。

ライプニッツの手稿「加法」

ライプニッツの手稿「加法」

 それはずっとずっと以前、逗子の下村寅太郎さんの居宅をお邪魔していたころのことである。
 そのころのぼくは“日本の偉大な祖父たち”に出会うことを自分の仕事の重大な課題のひとつにしていて、すでに第178夜の龍胆寺雄さんや第348夜の野尻抱影さんのところ、あるいは第828夜の湯川秀樹さんや第987夜の白川静さんのところに書いたように、祖父たちを訪れては、その話を聞いていた(もし、ライプニッツが新宿か仙台にでもいたら、会いに行っていたにちがいない)。
 いまおもえば、いったい何が世界や思想や人間を見渡し見通す視野になるかということについての、それぞれの独得の言葉による示唆や叱正を受けたかったのであろう。そういう話は、ぼくが憧れた祖父たちからのみ受信したかったのだ。むろん、叱られたくて、祖父たちのそばに行きたかったともいえた。
 下村さんもその一人だったのである。1902年の生まれだから、73歳をこえていた。

 ぼくに下村さんのところへ行くといいよと背中を押したのは、そのころはまだ京大の教授をしていた田村松平さんだった。松平さんはこう言っていた、「もう下村さんだけかな、ギリシアもラテン語もできて、西田と田辺の両方の精神を受け継いでいるのは、ね」。
 下村寅太郎は、京大の学生として西田幾多郎と田辺元の両巨頭に師事した人である。たしかに、そういうことを体験できた人は、1972年前後にはもういなくなっていた。
 下村さんは最初は数理哲学と科学史を専攻していたのだが、その後は宗教にも美術にも日本文化にも、その研究領域を広げた。冒険もした。河上徹太郎の司会で、亀井勝一郎・小林秀雄・三好達治・林房雄らが呼ばれての大座談会になった昭和17年の「文学界」掲載の『近代の超克』では、ただ一人、機械をめぐる精神についての発言をしていたのが下村さんだった。
 そのほか、アッシジのフランチェスコやレオナルド・ダ・ヴィンチの研究にもとりくんだ。前夜に紹介した三枝博音の何代かのちの、科学史学会や科学哲学学会の会長も引き受けている。

 その下村さんに会うのだから、何かのきっかけがいる。『遊』にレオナルドについての原稿をお願いすることにした。
 こうして逗子に伺うと、家中が書棚と本なのである。ほとんどが戦前の書籍と洋書であった。痩身で小柄だったから、下村さんはまるで書棚の隙間から話かけてくるようだった。ついつい読書や書籍の話題になった。話はたちまちギリシア科学やラテン哲学の話に、西田哲学や科学の歴史の話題などに飛び火して、ある夜には、夫人手作りの食事をいただきながらのライプニッツの話になったのである。
 その食卓で、いつかライプニッツ全集が日本でも出るといいですねとうっかり言ったところ、「君ねえ、本場のドイツでもまだ100年くらいかかるんだよ、そんなこと無理だよ」と笑いながら言われてしまったのだ。

 ぼくはこうした祖父たちとの出会いを、帰ってくるとスタッフにもあれこれ話すようにしていた。スタッフたちもその話をたのしみにしてくれていた。
 その夜かその翌日だかも、その話を工作舎の十川治江にした。どうも十川さんの目が輝いている。
 そのころの彼女はバートランド・ラッセルの階梯理論を読み終わっていて、ぼくの勧めでラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』とヴィトゲンシュタインの論理学を読んでいて、何かを深々と思案しているようだった。
 もともと早稲田の吉坂隆正のところで建築を学んだのだが、数学がめっぽう好きで、そのころよく巷に出回っていた「これが3日で解けたら、あなたも天才」といった矢野健太郎出題の数学パズルを、30時間か1時間ほどで解いてしまう女性だった。その後、工作舎を訪れてきた広中平祐が彼女の数理能力に感嘆したこともあった。
 それなのに彼女は建築よりも数学よりも、ずっと編集が好きだったのである。自由の編集を建築に、数学の自由を編集にしたかったのであろう。あるいは論理や記号による編集アルス・コンビナトリアをやろうとしていたのかもしれない。本意のところは知らないが、ぼくが工作舎時代をたっぷり科学や数学で遊べたのは、一に彼女のこの才能を目の前にしていた僥倖によっている。

 そのうち、その十川治江が、「松岡さん、やっぱりライプニッツは著作集にしてでも出しましょうよ」と言い出したのである。無責任なぼくはそいつはいいやと相槌を打ったけれど、話はそのままになっていた。
 それからの十川さんは何度もそういう会話をぼくにぶつけながら、ついに『ライプニッツ著作集』の設計図にとりかかったのである。ぼくがしたこといえば、下村さんにお出まし願うことと、ぼくが十川さんを信頼していることを伝えることだけだった。
 こうしてわれわれが数年にわたって秘めてきた計画は、彼女がほぼ自力で想像を絶する努力のすえに、実現してしまったのである。工作舎はぼくが出遊させた編集集団だったろうものの、『ライプニッツ著作集』は十川治江が“編集出産”したものだった。
 けれども第1回配本から10年がかかり、そのあいだに下村さんは亡くなられ、ぼく自身もそれ以前に工作舎を退くことになってしまった。それだけに、この著作集を眼前にしていると、説明できない感慨がこみあげるのだ。

 『ライプニッツ著作集』は、そのいっさいの造本からエディトリアルデサインまでを、杉浦康平さんに委ねた。いつまでも胸騒ぎが去らないライプニッツの知層の脈絡そのもののような造本造頁は、いま、こうして見ていても、何かがやたらに迫ってきて、世界で最も緻密で品格のある動乱をおこしそうな気配に満ちている。
 タテ組の一冊もヨコ組もあり、一冊のなかでタテ組とヨコ組が配置されていることもある。まことにアルス・コンビナトリアをひっさげて登場したライプニッツの、その日本語化をはたしたばかりの著作集にふさわしい。
 ここには、ドイツ・バロックが秘めた数理的本来の歓声と、人間が到達できそうな思索の光陰の速度と、そして、その「ライプニッツ日本語化計画」を下村さんの旗のもとに参集して、いっさいの細部を知の装甲車のように充填していった人々の、吐息のようなものが結晶しているにちがいない。
 それがいま、稠密華麗な函入り10冊として、ぼくの書斎の机上に列坐しているのである。まことに個人的な話をしてしまったけれど、ぼくにはこのことが、なんだか奇蹟のように思えてしまうのだ。

ルルスの「第四図」

 では、気をとりなおして話を戻すことにする。
 20歳のライプニッツが『結合法論』で提案した「人間思想のためのアルファベット」は、せいぜい25、6個くらいの単純概念の記号化によって、ありとあらゆる「発見の論理学」を湧出させるシステムがつくれるのではないかということだった。
 ただし、ライプニッツはルルスや梅園のように円盤の上に概念や記号を置こうとはしなかった。円盤を動かすのではなく、概念や記号そのものを動かすこと、すなわち「計算」によって複雑な複合概念をつくりだすことを考案した。円盤の構造は、その動きの集積によって与えられると考えたのだ。
 いま、『結合法論』やその後に書かれた『普遍的記号法の原理』などを見てみると(いずれも著作集第1巻)、数をあらわす数字と概念(名辞)をあらわす数字を区別していること、定義のメンバーにクラスをつくり可付番集合にしていること、いろいろの情報概念を分母の上に乗せてその総和が一定になるようにしていること、冠詞のないラテン語にギリシア語からの借用をおこしていることなど、独得の工夫があったことが伝わってくる。
 いかに先行する成果を点検したうえでのこととはいえ、よくぞ、そんなことまで考えたものである。とくに思考や論理を「計算」の対象にしたことは、ライプニッツにおいてこそマテマティカが(そして今日に至ったコンピュータをめぐる計算技術思想が)、ここに初めて自立したとさえ、いいたくなる洞察だった。
 とりわけ、概念の結合のために円盤を動かすのではなく、概念を動かすことが結合を生むのだという着想こそは、そこでギイッと音がして、全ヨーロッパの思索の歴史の転換がいま、そこで、おこったかのようだった。

 ところが、ライプニッツはこれを完成させはしなかった。「思想のアルファベット」は実行に移されなかったのだ。
 ニュートンと競った微積分や、パスカルのものより性能が高い四則演算器を作成したライプニッツが、アルス・コンビナトリアのためのシステム設計に着手もしなかったのは、まことに残念である。
 若すぎて気移りしたのかもしれないし、ルルスの延長では限界があると思ったのかもしれない。また、批判的であれ、これ以上はデカルトにかかわりたくないと思ったのかもしれないが、ひょっとすると、ライプニッツにはニュートンやパスカルのような対抗者や好敵手がどうしても必要だったのかもしれない。そんなふうにも思える。
 そう思いたくなるのは、その後のライプニッツはまるで新たな好敵手を探すかのようにして、ジョン・ロックに正面から対抗して『人間知性新論』(著作集第4・5巻)を書き、また晩年には、なかなか出会えなかったバルーフ・スピノザ(842夜)に自ら近づき、その接近の度合いに応じて大胆な神学的形而上学を次々に仮説していったからである。
 しかしながら、では、これでライプニッツが発見論理学や普遍記号学を捨てたのかというと、むろんまったくその逆である。このあとのライプニッツは実に多様な領域で、この実現にこそ向かっていく。
 ライプニッツの全思索のなかでつねに一貫していたのは、人間の本性や知性に合致した認識というものがあるとすれば、それは直観的認識だけでできあがっているのではなくて、必ずや記号的認識を随所に交えているものであるはずだというものなのである。

 いろいろの理由によって、青年期のライプニッツは、人間の知は神の知に近づこうとしているという確信をもっていたはずだった。本当なら、人間は神のような直観的世界像をもったままでいられるはずだとも想定したはずだ。当然だろう。
 そうであるからこそ、人間は神に近寄るためにアルス・コンビナトリアとしての道具を使ってでも、その可能性に向かうべきだと考えたのであったろう。だから、当初のライプニッツにとっては「思想のアルファベット」は道具にすぎなかったのである。記号は援用されるべきものだった。さらにいうなら、このころまでのライプニッツは、数学や科学が神の知に匹敵しないまでも、十分に自立しうるシステムになれるとも確信していなかったようだ。
 けれども、ここからがやっぱりライプニッツらしいのであるが、1672年から1676年までにわたったパリ滞在期において、ライプニッツは大きな転換をとげ、さらにさらに長躯躍動することになる。ここではのべないが、かの「微積分の発見」をしたのもこの時期だった。ライプニッツはこのパリ滞在期のあいだのどこかで、記号法が普遍数学や普遍論理学になりうることを、一挙に悟ってしまったのである。
 そのころもうひとつ、ライプニッツが躍動したことがある。それは百科全書についての構想が芽生えたことだった。

 ライプニッツには当初から、人間が世界のなかでふれうる全知を通過したいという普遍計画のようなものがあった。それを百科全書の実在への計画というなら、ライプニッツはずっとその計画の手を休めたことはない。
 けれども実際に百科全書の役割を明確にし、その構想がどのようなものであるべきかを提示したのは、パリ滞在以降になってからのことである。『ブルス・ウルトラ』という計画書も書いている。
 それは驚くべきことに、われわれが知るチェンバースやディドロが編集構成したような百科全書ではなかった。いわば、その百科全書のアーキテクチャそのものが、「思想のアルファベット」に対応できるエンジン機能をもつような、そういうエンジン付きのデータベース構造の提案だったのである。
 その計画は、第1部門が「普遍学の基礎」として、第2部門が「普遍学の範例」ととして機能するようになっていて、のちの『普遍学の基礎と範例』や『普遍的記号法』(著作集第10巻)を読むとわかるのだが、知の目録と、それを使う方法と、その構造全体が見せる枠組の意味とが、相互に対応できるものに按配されていた。しかもそれぞれの要素は、つねに記号対応をはたしているというような、そういうものだった。
 ここにおいてライプニッツは、今夜の冒頭に書いておいた数学的思考と記号的思考の「あいだ」を、埋めきったのである。少なくとも、どうすれば埋めきれるかを読みきった。
 すなわち一言でいうのなら、ライプニッツが構想した百科全書とは、「方法の知」のための百科全書構造だったのである
 これをぼくならば、ライプニッツにおける「エディトリアル・エンジンを搭載したリレーショナル・エンサイクロメディアの計画」の発表などとよびたい気がするのだが、仮にそんなふうにふざけて名付けたとしても、ライプニッツはまだまだそんな程度の発表で満足はしなかったのだ。まったくもって手がつけられないバロックの天才である。
 このライプニッツの「方法の知」は、1937年に著された下村寅太郎の『ライプニッツ』(現在はみすず書房で刊行中)では、「それは一つの領域ではなく世界の、ある存在ではなくすべての、存在の原理の探求なのである」と書かれている。

 まだまだ、感想を綴っておきたいことがつづくのではあるが、今夜はこの程度にしておきたい。ただ、気分的にいくつか付け加えたいことがある。弁解もふくむ。べつだん順序はないけれど、なんといっても数理派ライプニッツの話なのである、番号順に列挙する。

 第1に、ぼくは長いあいだにわたって『単子論』(モナドロジー)を読みまちがってきたということだ(著作集第9巻)。岩波文庫の河野与一訳で読んだのだが、あまりにも注解が本文に押し寄せるように介入していて、そうとうに読みにくかった。
 それで思いきって自分なりのノートを作った。のちにそれにもとづいて『モナドロジー・ダイジェスト』を書いたのだが、いまだに納得できないでいる。今夜はそれを試みようかとも思っていたのだが、やめた。いつか再挑戦したい。
 第2に、いまもなお『人間知性新論』(著作集第4・5巻)よりも『弁神論』(著作集第6・7巻)のほうに圧倒的に惹かれてしまうのだが、その理由を考えていない。前者がロックに対する反論で、後者がゾフィー・シャルロッテの思い出を前提にしていることもあるだろうが、ぼくとしては『弁神論』こそが、その後のゲーテから手塚治虫におよんだ「悪」の扱いの原型に見えるからでもある。
 なお『弁神論』については、ぼくはその扉に「共可能」という、なんだか“京狩野”や“鏡花能”に通じる音の3文字をいたずら書きしたものだった。
 第3に、これはちょっとばかり重要なことだろうが、ライプニッツが生涯にわたって主張を譲らなかったこと、「主語はすべての述語を包摂し、すべての述語は主語に内属する」という考え方には、半分は賛成するとしても、残り半分をのちのゴットフリート・フレーゲの「述語が主語を包摂する可能性」のほうにも賭けておきたいのである。

計算器のためのライプニッツよる製図(1692年)

計算器のためのライプニッツよる製図(1692年)

 第4に、「千夜千冊」にデカルトを採り上げそこなったので(いずれ入れたいが)、ここではあえてライプニッツとの比較を書いておくことにする。
 わかりやすくいうのなら、デカルトがつねに「混乱」に対して「明晰」を、「不明瞭」に対して「判明」もって臨んだとすれば、ライプニッツは「不十分」に対しては「十全」をもって立ち向かい、「直観」と「経験」に対しては、「原初性」と「記号性」をもって、その行く手の世界像の掴まえ方を大きく変えたのである。
 このデカルトとライプニッツの分かれ目がヨーロッパ近代の思潮を大きく分けていく。
 第5に、さっき書き忘れたことだが、たしかにライプニッツは前半期にあっては、人間の本性や知性を神に近づけるという構想も発想ももっていたけれど、結局は人間の知性に限界を感じたはずなのである。そうでなければ、このバロックの天才があんなにも多彩大量の情報発信をしなかったのである。また、二進法を発明しようともしなかったはずなのだ。そのことも付け加えておきたい。
 第6に、その二進法についてだが、これはどこから眺めても傑作中の傑作である。この著作集にも収録された『0と1の数字だけを使用する二進法算術の解説、ならびにこの算術の効用と中国古代から伝わる伏羲の図の解読に対するこの算術の効用について』(第10巻)は、今日のコンピュータ屋が全員読むべきだ。もうひとつ付け加えると、このライプニッツの発想と三浦梅園の発想を、そろそろ誰かが徹底的に比較してみるべきだろう。
 第7に、ライプニッツにおいては、「調停」もしくは「折衷」こそが、最も勇気のある科学であって哲学なのである。大いに縮めていえば、ぼくがライプニッツから教わったことは、このことに尽きるのかもしれない。なぜなら、「調停」と「折衷」とは、つまり「編集」のことなのだ。

ライプニッツの四則計算器

ライプニッツの四則計算器
長さ80cm、幅30cm、高さ15cm

 第8に、『ライプニッツ著作集』の各巻の栞に紹介されていることを書く。
 ゲーテは、ライプニッツがモナド(単子)という用語を、ときには平然と「蟻のモナド」とか「モナドの霊魂」というふうに使うのを読んで感動した。ディドロは、ライプニッツが一人でプラトンとアリストテレスとアルキメデスを演じられることにたじろいだ。二人とも自分の専門をさておいたところでライプニッツを称賛した。
 いっときライプニッツは、カトリックとプロテスタントの統合を構想していたことがあるのだが、このような高邁ではあるが無謀なライプニッツに拍手を送ったのは、量子力学者のマックス・プランクだった。プランクはライプニッツから自然神学を読みとったのである。

 どうやらライプニッツを語ろうとすると、その当人が専門をさておいて自分が知らないライプニッツのほうへ横超してしまうようになるらしい。
 これはノヴァーリス宮沢賢治を語ると、誰もが青い花めいたり、交流照明電燈めくということではない。バッハヴォルテールを語ると、ついついフーガになったり、カンディドっぽくなるということでもない。ライプニッツに幾何学や社会論があって、それを眺めてきた専門の数学者や社会学者たちが、数学以外でも存分に輝くライプニッツや社会哲学を逸脱してなお大胆に遊ぶライプニッツに、我知らずに別の本分をさぐろうとしてしまうということなのだ。
 数学者の彌永昌吉がライプニッツの幸福感を述べ、宗教社会学者のフォイエルバッハがライプニッツにひそむ結晶構造を語ろうとしたのは、そういうせいだった。
 こういう魅力がライプニッツだけにあるとは言わないが、専門家たちからお門ちがいの数々の矢に射られながら、その矢を300年にわたって受けつづけ、なおいっこうにライプニッツ像が確定しないというところに、やはり「途方もないライプニッツ」があったのだ。

 こういう例は、ライプニッツ以外にはなかなか思いつけない。これはレオナルドの天才とはちがっている。両者とも万能は万能だが、その奥に分け入ってみると、その細部の脈絡から突如として天才的な発想が躍り出てくるというような、そういう才能をもっているのがライプニッツなのである。レオナルド・ダ・ヴィンチの才能はすべて外側にあらわれている。

 最後に、付録の第9として、この一文にぼくはずっと参っているということをあげておく。「一八九四年九月二二日 土 雨。ライプニッツの如くなるべし。禁茶禁烟、大勉学す」。
 これはこの年月日に、南方熊楠が記したメモである。大変な決断である。「ライプニッツの如くなるべし」だなんて、さすがに熊楠をもってしか言いえないことだろう。
 ただし、ちょっと変なのは「禁茶禁烟」である。まるで飲茶喫煙などしているとライプニッツが帰還する彗星のように遠のくとばかりに、二つのあいだの因果関係を暗示している。これは、困る。ライプニッツを追うには茶も煙草も禁断しなければならないというのは、困るのだ。ぼくは飲茶と喫煙だけで生きているような男なのである。この件については、熊楠先生といえども、抗議をしておきたいたい。

 今夜は以上だ。このライプニッツをほぼ生涯にわたって静かに受けとめた一人の男について、次夜に書くことにする。ああ、あと6冊じゃないか。

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