才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ジョゼフ・コーネル

箱の中のユートピア

デボラ・ソロモン

白水社 2011

Deborah Solomon
Utopia Parkway:The life and work of Joseph Cornell 1997
[訳]林寿美・太田泰人・近藤学
編集:岩堀雅己
装幀:三木俊一

今夜はクリスマス・イブだ。ぼくは日本人のクリスマス主義ともいうべき祝い方や遊び方が子供の頃から大嫌いだった。だからついついクリスマスめいた話からいつも遠のいてきたのだけれど、この夜に生まれた一人のオランダ系アメリカ人のアーティストは過越祭(すぎこしのまつり)を背負ったかのようにイブに生まれていて、ぼくの想像したいノーマルスティグマを伴うクリスマス・スートリーにふさわしく想えていた。そのアーティストの話をしてみたい。

 今夜はクリスマス・イブだ。ぼくは日本人のクリスマス主義ともいうべき祝い方や遊び方が子供の頃から大嫌いだった。だからついついクリスマスめいた話からいつも遠のいてきたのだけれど、この夜に生まれた一人のオランダ系アメリカ人のアーティストは過越祭(すぎこしのまつり)を背負ったかのようにイブに生まれていて、ぼくの想像したいノーマルスティグマを伴うクリスマス・スートリーにふさわしく想えていた。そのアーティストの話をしてみたい。
 父親は小売商人でテキスタイルデザインが得意だった。母親は幼稚園の先生で何かを想像するのが好きだった。そのうち本人は手持ちの素材でアートすることになるのだが、その時期はアメリカにシュルレアリスムと新ロマン主義とアクション・ペインティングが踵を接してが流れこんできた時期で、それらはやがてことごとくポップアート化していった。
 しかし、本人はそのいずれにも傾かず、ひたすら静かな作品を端然と制作し、ユートピア・パークウェイの一隅の木造ハウスに住み続けた。その容姿は鳥人めいていた。美術界からは「箱」のアートを先駆したと評価されたのだが、実は女優のローレン・バコールやクリスチャン・サイエンスの創始者や、スーザン・ソンタグ(695夜)や草間彌生に憧れていながら、その夢が叶わなかった男でもあった。

コーネルの生家と両親

コーネルの家族

 クイーンズのハドソン河沿いにナイアックがある。オランダ移民の家が多い。その一隅にユートピア・パークウェイと呼ばれる一画がある。そこの木造ハウスで、生涯の大半を母親のヘレンと障害をもった弟のロバートと一緒に送ったアーティストがいた。
 1903年のクリスマス・イブに生まれた。69歳でぽっつり死んだ。ぼくが「遊」を創刊してまもなくだ。稀代の引きこもりアーティストだった。ジョゼフ・コーネルである。
 稀代のアーティストと言ったけれど、本人には奇抜なところや異様なところはまったくない。だからといって平凡だなどとはとうてい言えないが、徹底して「地味」だった。いつも母親と口ゲンカをし、庭のカケスにピーナッツを配り、近くのコーヒーショップに入り浸り、綺麗なウェイトレスに夢中になった。
 ローレン・バコールとロマンティックバレエの踊り子と行く先々のカフェのウェイトレスに憧れたが、ほとんどの女性と交わることがなく、夜は不眠症のままほぼ童貞のような日々をおくった。極端に口数が少なかったけれど、これはアーティストにはよくありがちなことだ。
 作品も斬新とか図抜けているとか時代精神を抉ったというものではない。壁に掛けておきたくなるような箱状アートばかり作った。箱の中には切り抜きの鳥、星座、コルクの栓、ガラスの小瓶、小さく仕切られた棚、文字の切れっ端、ビーズ、大小の球などがアッサンブラージュされて、ひたすら佇んでいるだけである。しかしそのユートピア・パークウェイには、その箱とコーネルの暮らしぶりを見たくて、マルセル・デュシャン(57夜)やマックス・エルンスト(1246夜)やペギー・グッゲンハイムらが引っ切りなしに訪れた。
 1967年の「ライフ」12月5日号は12ページにわたってコーネルを特集した。記者はこの「ユートピア・パークウェイの謎めいた独身者」がどうやってベッドから抜け出たのか理解に苦しむほどおとなしいことに驚いた。

ジョゼフ・コーネル

(左)無題(ピアノ)(1947-48年頃)
(右)アナレマ(1948-50年)

 ぼくがコーネルの作品群に出会ったのはMOMAでのことで、ダブルデイがぼくの本を出したいというのでニューヨークに招かれたときだ。副社長と編集長がぼくの半年前の講演「イメージとマネージ」をワシントンの議会図書館フォーラムで聞いて、こいつをスターにしようと思ったらしい。
 東洋人がアメリカンな思想をずたずた切っているのがおもしろかったようだ。サンプルテキストを1章ぶん書いてほしいというので送ったところ、さらに気にいられた。それでいよいよ本格的な打ち合わせをしようということで佐藤恵子と出向いたのだが、お断りをした。アメリカ人のくどいカルチュラル・マーケティングのお仕着せが気にいらなかったからだ。気分なおしに恵子と自然史博物館やMOMAを回った。
 MOMAの「ジョゼフ・コーネル」展のカタログは1980年開催時のもので、手にとる前から懐かしかった。大事にそのカタログを買って、近くのカフェで沛然として静謐きわまりない作品群を眺めた。「ああ、こういうやりかたはみんなコーネルが試みたことなのだ」と得心した。ハーチガンの評伝が載っていた。
 やがて日本でもセゾン美術館や鎌倉の近代美術館や川村記念美術館などでコーネル展が次々に開かれ、ぼくのまわりはコーネル・フリークでいっぱいになった。勝本みつるちゃんをはじめ、多くの作家が箱づくりを見せた。
 しかし、コーネルの箱は(それが箱だとしたら)、追想しないほうがいいのではないかと思う。それにあれは「箱」ではなく「枠」なのである。

『JOSEPH CORNELL』Kyhaston McShine
1980年 The Museum Of Modern Art, NEW YORK MOMA

日本で開催された「ジョゼフ・コーネル展」のポスターとカタログ
1992年から93年にかけて、神奈川県立近代美術館、滋賀県立近代美術館、大原美術館、川村記念美術館で開催された。

無題(カラヴァッジオの少年)(1953年頃)

 いったいわれわれは、子供の頃に箱をほしがっただろうか。だいたいの男の子は箱というものにフェティッシュになる気質をもっているけれど、そのフェチ箱は昔の長櫃や古い写真機や大工道具箱のようなものだ。箱をつくるという癖はあまりない。
 箱は「すでにそこに何かが入っていたもの」なのだ。このことを、かつて物質の想像力似圧倒的な分析を加えた哲人ガストン・バシュラールが「箱の稠密性」と言っていた。
 だからぼくはコーネルが「箱をつくった」とはどうしても思えない。コーネルの作品はフェチ箱ではないし、コーネル自身にもフェティシズムを感じない。選んだオブジェはフェティッシュというより、ノスタルジックなのだ。
 コーネルがしたことは「箱で囲んだ」というべき行為なのである。地面に棒で四角を描きそこに秘密の基地を感じるような、部屋の一角を段ボールなどで囲ってそこに大事なものをこっそり入れるような、そういう「囲われた箱」をコーネルは作りたかったのではないか。それゆえその箱には「枠」が必要だったのだ。

ガストン・バシュラール
フランスの哲学者、科学哲学者。科学的知識の獲得の方法について考察し、空間の詩学の研究でも多くの業績を残した。

セイゴオ・マーキング〈1〉
本書p10-11

(左)無題(ホテル:太陽の箱)(1956年頃)
(右)無題(星ホテル)(1956年頃)

 少年期のコーネルはボードビルやサーカスに目を奪われている。マディソンスクウェア・カーデンのバッファロー・ビル、タイムズスクウェアのアクロバット街頭劇、六番街のヒッポドロームでの奇想天外、コニーアイランドのルナパークの夜の陶酔、そしてハリー・フーディーニの目の眩むマジックショーだ。とくにフーディーニだった。
 少年はこれらをミニチュアのように手元に置きたくなる。それには箱のような劇場もほしくなる。箱はそういう「動向のための劇場」でもあったのである。

ハリー・フーディーニのマジックショー
「脱出王」の異名を取り、アメリカ合衆国で名を馳せた奇術師。超能力や心霊術のいかさまを暴露するサイキックハンターとしても知られる。

 しかしここまでなら、少年レイ・ブラッドベリ(110夜)や少年ポール・オースター(243夜)もそうだったように、アメリカンボーイならたいてい夢中になってきたものだ。コーネルはそれをうんと小さく「隠し立て」にするほうに夢中になったはずである。
 その「隠し立て」がどのように芽生えたのか、そこにこそぼくはずっと関心をもってきたのだが、数あるコーネル論はやたらにロマンチック・コーネル論や美術論コーネルに走りすぎていて参考にならない。やっと本書を読んで、コーネルの気分の細部が見えてきた。
 本書はコーネルが暮らしてきた住所そのものをあらわす『ユートピア・パークウェイ』という原題で、サブタイトルもロマンチックな「箱の中のユートピア」などではなく、淡々たる「ジョゼフ・コーネルの日々と仕事」なのである。
 その本書のなかで、ぼくは少年コーネルを包んだであろう次のことが気になった。母親がベッドに寝ているコーネル少年に、自動販売機で買った小さな「占いカード」「測り図解」「マッチ箱」「安物の銀の飾りもの」を持ってきてくれるのだ。これがコーネルをときめかせた。コーネルはそこに「本物ではない別物」のときめきを感じ、「生命のないオブジェ」に夢のような可能性を感じた。
 この母親がコウノトリのように運んだ世界の「小ささ」は、コーネルの隠し立ての制作作法のヒントになったはずだ。もうひとつ、コーネルの劇場に加わったことがあった。コーネルが6歳になったとき、弟のロバートが生まれたのだが、ロバートは先天性の脳性麻痺を負っていた。少年コーネルは人間の宿命のなにがしかがその当初から決まっていることを実感させられた。
 これはとても大きな隠し立てだった。コーネルが最後までロバートの世話をしていたことはよく知られたことだ。

原著『Utopia Parkway: The Life and Work of Joseph Cornell』Deborah Solomon

小鳥のそばのジョゼフとロバート
ナイアックにて(1915年頃)

(左)貿易風 第2番(1959年頃)
(右)無題(帆船)(1961年頃)

 全米で一番古い寄宿学校のアンドーヴァーに入ったのも、コーネルにとってはアンティークなことだったろう。とくにトマス・ド・クインシーを読んだのがコーネルの日常行為を伏せがちにさせた。『ジャンヌ・ダルク』『イギリスの郵便馬車』『アヘン常用者の告白』はコーネルの隠し立てのための読書だったように想われる。
 ただ、コーネルはそもそもが臆病で照れ屋で、かなりの意気地なしでもあった。ド・クインシーを読んでブランキに共鳴した撥ねっ反りのボードレール(773夜)のようには「悪の華」には向かえない。そのかわり、なんとクリスチャン・サイエンスに嵌まったのだ。メアリー・ベイカー・エディによって創始されたこの霊的キリスト教団体については、ぼくはほとんど知るところがないのだが、コーネルがこの集団信仰者の群れに準じたのは、よほど寂しかったからだろう。とくにアメリカではめずらしい女性によって創始された宗教とつながることは、あとでのべるコーネルの女性感覚を深めさせたのではないかと想う。

(左)トマス・ド・クインシー
(右)ボストンにあるキリスト教会(クリスチャン・サイエンス本部)

カシオペア 第1番(1960年頃)

 1931年の秋、ジュリアン・レヴィ画廊がオープンした。スティーグリッツの「291」画廊に魂を奪われたレヴィがハーバードを中退して、25歳で乾坤一擲した画廊だ。シュルレアリスムをアメリカに導入した画廊になった。
 ちょうどそのころ、27歳のコーネルはアメリカの書店に初めて並んだマックス・エルンスト(1246夜)の『百頭女』に魂を奪われていた。『百頭女』を脇にかかえてユートピア・パークウェイに帰ったコーネルは食卓に坐ると、さっそく古本の山を次々に切り抜き画用紙にあてがい、モノクロなコラージュに耽った。おそらくコーネルの最初のアートワークはこのエルンスト紛いのコラージュ制作だ。 
 こうしてレヴィとコーネルが出会ったのである。レヴィはたちまちコーネルの人物としての不思議度とコラージュの質の低さとを見抜き、シャドーボックスの中をコラージュしてはどうかと奨めた。画期的なサジェスチョンだった。
 初めて美術者からのヒントを貰ったコーネルは、さしあたってはピルボックスを相手にコラージュにとりくんだ。薬が詰め合わされている箱から薬を取り出し、代わりに貝殻、赤いスリガラス、切り抜いた各種の絵、模造ダイヤモンド、ビーズ、黒い糸などを入れこんだ。
 出来はよくない。すこぶる乙女チックなものだ。しかし、そこへレヴィ画廊による「シュルレアリスム」展の準備が始まると、コーネルの作為は一気に隠し立てに向えたのである。この展覧会はアメリカ美術史を画期したもので、初めてマン・レイ(74夜)、エルンスト、ピカソ、マルセル・テュシャン(57夜)、ジャン・コクトー(912夜)、ダリ(121夜)らがずらり顔を揃えた。
 これでコーネルが本気にならなければおかしい。おまけにダリからの酷評も受けた。ダリは美術も映像も編集可能であることを発見したと自負していたのだが、コーネルがその手法を盗んだと酷評したのだ。しかしコーネルにはコーネルなりに忽然と理解できたことがあったのである。それは「自分はシュルレアリストでない」ということだ。

ジュリアン・レヴィ画廊

無題(名前のない物語―マックス・エルンストに)(1930年代)

4つのピルボックスのオブジェ(1933年)

ユートピア・パークウェイの自宅の庭のコーネル(1969年)

ユートピア・パークウェイのジョゼフ・コーネルのアトリエ(1969年)

 ここから先のコーネルが今日のコーネルの母型になっていく。とくにジュリアン・レヴィが創立したニューヨーク・フィルム・ソサエティに出入りするフィルムたちにピンときた。コーネルのコラージュには「動的な関与」が未然に了っている必要があったのだが、そのことを切り出された一枚一枚のフィルムが暗示してくれたのだ。とくにレジェの『バレエ・メカニック』とデュシャンの『アネミック・シネマ』に刺戟を受けた。
 コーネルも『フォト氏』や『ローズ・ホパート』という映像作品を編集した。以下にお目にかける。なんとも切ない映像だ。

 1936年夏、最初の箱作品ともいうべき『シャボン玉セット』が出来た。はたして「動的な関与」が未然に了っているように仕上がったかどうか疑問だが、コーネル自身はこれで勢いを得て、自分の表象する世界が言葉や文芸ではどういうものかを感知するため、ネルヴァル(1222夜)やマラルメ(966夜)に没頭し、自分がめざすべき表象は「仄めくもの」であって「暗示的なもの」でなければならないことを確信していった。
 これなら、コーネルはアーティストとしてあきらかに高踏的な作品づくりに存分に徹することができたはずである。ところがそこがコーネルの最もコーネルらしいとろなのだが、彼はそれとは別の趣向にも踏み込んだのだ。それは憧れの女性たちを表象するということだった。

無題(シャボン玉セット:コペルニクスの体系)(1940年末-1950年初頭)

(左)シャボン玉セット(1947年)
(右)シャボン玉セット(月の虹:宇宙のオブジェ)(1959-61年頃)

 コーネルの中のアニマとアニムスの相克はなかなか取り出しにくい。一説ではコーネルは生涯にわたって童貞だったということになっているし、それがゲイ感覚や女性嫌いからきたものではなく、まったく逆の、女性偏重のハイパーフェミニズムからきているとももくされてきた。またインポテンツだったと断言する評伝もある。欲望が高まれば高まるほど、自身の勃起から見放されてしまうというのだ。
 しかし、この手の読み取りはどうか。ジョゼフ・コーネルは密かなペニスナイドの持ち主で、もともとの静かな意気地なしがエロティックなマトリズムに貫かれていったのではなかったか。そんなふうにも想いたくなる。だからこそローレン・バコールやロマンチック・バレエのスターたちへの想いはそのシンボル化の手法と仕上がり具合をアートにまで高めてしまったのだ。いまではこの表象力はマリリン・モンローをシルクスクリーンにしたアンディ・ウォーホル(1122夜)に先駆したものだとさえ評価されている。
 本書のデボラ・ソロモンはこんなふうに推理した。「コーネルには女性に自己を同一化するところがあった、まもなく彼は自分自身が女性の芸術家や俳優の分身であるとしばしば空想するようになり、女性の衣裳について想像して興奮したりした。彼の欲望の対象はいったい、崇拝する女性なのか、自分がなりたい自分がなのか、はっきりしないこともあった。女性との強い同一化は同性愛者によくあることだが、それがゲイであることとは同義ではない。私の考えでは、コーネルは同性愛者ではなく、女性に強く同一化してしまっていたのではないかということだ」。
 まずまず当たっているだろう。ともかく女性嫌いなのではないことはあきらかだ。あまりに憧れていて、息ができないほどの畏敬を抱いていたはずである。それは自分の勃起しにくいペニスから流出するものだったにちがいない。60代になってようやく女性と交わったようだが(それが若い草間弥生だったという説もあるが)、そんな関係がいつまで続いたのか、いまや万人が想像すら適わないものになった。たいへん結構なことだ。
 スーザン・ソンタグの美しさには心臓がとまるほどに憧れたらしい。ニューヨークでこれほど「知」と「美」が合体できた女性はほかにいなかった。スーザンのほうもこのひょろ長い紳士アーティストとおしゃべりするのはオーケーだったので、かなり何度も付き合ったようだが、作品についてはあまり評価していなかった。セイゴオ、どう思う? あの人は存在がアートなのよ、それがダリには気に食わなかったのね、そうスーザンは言っていた。

コーネルと草間彌生
コーネルと草間弥生とは親友で、彼女に捧げた作品を複数発表している。

コーネルによるソンタグの作品

食料貯蔵庫のバレエ(1942年)

(左)ロマンティック・バレエ讃(1947年)
(右)ロマンティック・バレエ讃(1958-62年頃)

 レヴィ画廊から離れたコーネルが、ヒューゴー画廊、イーガン画廊、ステイプル画廊でかなりもてはやされていったことは、このアーティストが地味な対応をすればするほど美術界が騒いでくれたということである。
 こうした美術社会との自己撞着は、コーネルに「鳥小屋」シリーズをもたらし、作品に「空漠」をつくりあげさせた。これらは今日のコーネル評価につながるものだが、ぼくに言わしめれば、これは「隠し立て」がいよいよ『作庭記』に近づいてきたということだ。
 そもそもコーネルが人生というものを送ったのかどうかも、はっきりしない。生涯のほとんどを母親と弟と一緒に、クイーンズのユートピア・パークウェイの木造小屋で暮らしたが、ずっと夜は不眠症だったし、昼間は母親のグチと諍いをしていたし、たまにグランドセントラルに行っても駅の待合室のベンチで人と鳩を眺めるだけなのだ。
 けれども何かがひらめき、誰かと会ったりすると、部屋に帰って夢中になることはその世界を箱で囲むことだったのである。そうすれば、その箱は必ずやコンティンジェントな別様の可能性を見せてくれた。クリスマス・イブに生まれたアーティストして、こんなふさわしい人物はいない。

(左)無題(オウムと蝶の住まい)(1948年頃)
(右)見棄てられた止まり木(1949年)

(左)無題(鳩小屋:アメリカーナ)(1950年代初め)
(右)無題(鳩小屋)(1950年代初め

ユートピア・パークウェイの自宅の庭でくつろぐコーネル

⊕『ジョゼフ・コーネル — 箱の中のユートピア』⊕
 ∈ 著者:デボラ・ソロモン
 ∈ 訳者:林 寿美、太田泰人、近藤 学

 ∈ 装丁:三木俊一
 ∈ 組版・本文レイアウト:中川麻子、小川弓子
 ∈ 発行者:及川直志
 ∈ 発行所:株式会社白水社
 ∈ 印刷:株式会社精興社
 ∈ 製本所:青木製本所
 ⊂ 2011年 1月20日 初版発行

⊕ 目次情報 ⊕
 ∈∈ はじめに
 ∈  第1章  1903‐17 組み合わせチケット
 ∈  第2章  1917‐21 フーディーニを夢見て
 ∈  第3章  1921‐28 セールスマン暮らし
 ∈  第4章  1929‐32 ジュリアン・レヴィ画廊
 ∈  第5章  1933‐36 サルバドール・ダリの消えない記憶
 ∈  第6章  1937‐39 新ロマン主義者の登場
 ∈  第7章  1940‐41 バレエの一夜
 ∈  第8章  1942 異邦からの声
 ∈  第9章  1943‐44 “ベベ・マリー”、または視覚的な所有
 ∈  第10章 1945‐49 ヒューゴー画廊
 ∈  第11章 1949 鳥小屋
 ∈  第12章 1950-53 イーガンでの歳月
 ∈  第13章 1954-55 鳥たち
 ∈  第14章 1956-57 ステイブル画廊
 ∈  第15章 1958-59 ビックフォードで朝食を
 ∈  第16章 1960-63 ポップ、美術界を行く
 ∈  第17章 1964 ジョイス・ハンターの生と死
 ∈  第18章 1965 さようなら、ロバート
 ∈  第19章 1966 さようなら、コーネル夫人
 ∈  第20章 1967 グッゲンハイム展
 ∈  第21章 1968-71 「バスローブで旅する」
 ∈  第22章 1972 「日の光が差してきた……」
 ∈∈ 訳者あとがき
 ∈∈ 図版一覧
 ∈∈ 人名索引

⊗ 執筆者略歴 ⊕
デボラ・ソロモン
1957年生まれ。コーネル大学で美術史、コロンビア大学大学院でジャーナリズムを学んだニューヨークっ子で、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記者を経て、現在では『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌で、毎週、「クエスチョンズ・フォー」という人気のコラムを担当している敏腕のジャーナリスト、美術評論家である。マンハッタン在住