ほんほん

年の瀬は『電子社会』とヤマザキマリ

ほんほん47

◆年の瀬だというのに、やっと千夜千冊エディションの『電子社会』の入稿原稿の赤入れがおわったばかりだ。仕事が混んだ時期の作業だったので、かなりフーフーした。気も焦って急いだけれど、発売はだいぶんあとの4月中旬なのである。年末年始の入稿は版元から先取りを迫られるのだ。
◆千夜エディションの仕事は外科医が手術プランに向かうような気分で、そこそこ大胆な構成作業から始まる。当初のプランは3倍くらいの過剰ボリュームを相手に組み立てるのだが、これを1冊の文庫に収まるように断捨離するうちに、だんだん1冊の狙いが確定してくる。そこで、選んだ千夜を構成順に出力して次々に手を入れる。これはまさに手術をするように心掛ける。章立てをし、1本ずつに仮のヘッドラインをつけ、目鼻立ちを仕上げると、これを太田香保が入念に整理し、造本デザイナーの町口覚スタジオの浅田農君が設計フォーマットに変換して、松岡事務所に戻してくれる。この段階ではまだページがオーバーしていることが多いのだが、これをぼくが本気で悪戦苦闘して推敲しまくって確定原稿にする。このあたりで初期の千夜千冊はそうとう様変わりする。
◆確定原稿が角川編集部に送られると、次は規定通りに初校・再校というふうに進むのだが、途中に徹底したプロの校正が入り(なかなか優秀だ)、さらに原著の引用チェックを大音美弥子が担当し、全体の文章の流れを太田がくまなくおさらいする。これがようやく初校ゲラになり、ぼくはこの見違えるような1冊を虚心坦懐に読み、またまた赤を入れまくる。他方で町口君や編集部(伊集院元郁・廣瀬暁春の二人)と松岡事務所で字紋、カバーデザイン、口絵を検討する。たいてい町口側から何案ものデザイン案が出る。ここに和泉佳奈子も加わる。
◆ざっとこんなふうに1冊のエディションが仕上がっていくのだが、これを数十冊のシリーズにしていく初期の準備は和泉が角川の伊達百合さん、町口君とともに練った。けっこうなブックウェア仕事だった。
◆ついでながら、最近ぼくがどんな本を依頼されているのかという話をしておこう。某社から自伝を頼まれている。とうとう来たかという注文だが、さあどうするかと考えた。もし引き受けるとしても、幼児から最近までの出来事を順に通した編年的な自伝を書く気はほぼないので、きっと工夫をすることになる。また。米アートマガジン日本版の創刊時からの長期連載も頼まれた。これは担当編集者と話してみて引き受けようと決めたのだが、やはりスタイルをおもしろくしたい。おそらくアーティストたちと一緒に組み立てることになるだろう。
◆『試験によく出る松岡正剛』(仮称)という本の準備も進んでいる。入学試験や模擬試験にぼくの文章が使われるたびに、後日その問題が送られてくるということが40年近く続いた。試験問題のすべて見ているわけではないけれど、ときどき自分で解いてみて手こずったり、まちがったりするのが愉快だった、そこでこういう企画が立ち上がったのだが、すでにイシス編集学校の師範の諸君の力を借りて、太田が構成案をつくっているので、1年後くらいにはお目にかけられるのではないかと思う。
◆それと少し似ているかもしれない企画として、松岡さん流の「書く力」を伝授してほしいという依頼も来ている。いつか「書く」とはどういうことかというぼくなりの考え方やスキルをまとめようかなと思っていたので、とりあえず引き受けたのだが、どういう構成にするか悩むところが多く、まだラフ案もできていない。いわゆる「文章読本」にはしたくない。このほか津田一郎さんとの数学をめぐる対談本も進行中で、これはいったんゲラになったのだが、ぼくの怠慢で渋滞中なのである。
◆本を出すという行為は誰にだって可能だ。編集者や版元が動いてくれれば、どんなものも本になる。そうではあるのだが、そうやってつくった本が書店にいつも並ぶかというと、すぐにお蔵入りすることがほとんどだと思ったほうがいい。現在の書店状況では、発売から2~3カ月で売行きが少なければ、刊行された本の約80パーセントが書店からさっさと姿を消す。本は自転車操業の中の泡沫商品なのである。
◆どう読まれるのか、どのくらい売れるのかということも、事前にはまったくわからない。出版業界は告知を除いてプロモーションや宣伝はめったにしないので、その本が世の中に出ていることすらなかなか伝わらない。空しいといえばなんとも空しい事情だけれど、それが本というものの昔からの実情であり、宿命だ。そのことにめげていては、本には着手できない。
◆ぼくはこれまで100冊以上の本を世に出してきたが、たいへん幸運だったと思っている。この幸運はすべて編集者との縁によっている。ぼくに関心のある編集者がいてくれなければ、本は出せなかった。雑誌の依頼を別にすると、単行本の最初の声をかけてきてくれたのは春秋社の佐藤清靖さん(→『空海の夢』)だった。
◆ぼくは、自分がもともと雑誌編集の仕事をしていたので、本は「編集作業の延長」として出来(しゃったい)するものだと確信していた。椎名誠君、いとうせいこう君、安藤礼二君なども同じ出自だ。つまりぼくは最初から「著者」であろうとはしてこなかったのだ。さしずめ「エディターソングライター」なのだ。それがよかったかどうかはわからないが、最近はこの手がとみにふえてきたように見受ける。
◆この「ほんほん」を読んでくれている諸君に一言申し上げたい。本を出してみたいのなら、以上のゴタクはいっさい気にしないでひたすら構成や内容や文章に邁進することをお勧めする。どんな著者も実はそうしているのだ。売行きや読者のことを心配したり考慮するのは「編集ナースのお仕事」なのである。
◆ところで、千夜千冊について画期的な読み筋「おっかけ!千夜千冊ファンクラブ」なる企画が密かに始まっていて、大いに愉しませる。これはイシス編集学校の「遊刊エディスト」というメディアのラジオ番組になったもので(→https://edist.isis.ne.jp/just/otsusen15/)、千夜坊主の吉村堅樹と千冊小僧の穂積晴明とが妖しくも親しい対話をしながら進める。千夜千冊がアップされるたびにリリースされている。すでに15回目だ。これが実にいい。千夜千冊を書いている本人がそう言うのだから信用してもらっていい。ぜひ年末年始に聞かれるといい。
◆大晦日に、本物のラジオに出る。「ヤマザキマリラジオ~2021忘年会~」というNHKのラジオ番組で、ぼくは先だって本楼にマリちゃんが来て収録したのだが、暴言悪口を二人で交わしてたいへんエキサイティングだった。紅白直前番組です。よかったら盗聴してください。では、よいお年を。

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ジョゼフ・コーネル

箱の中のユートピア

デボラ・ソロモン

白水社 2011

Deborah Solomon
Utopia Parkway:The life and work of Joseph Cornell 1997
[訳]林寿美・太田泰人・近藤学
編集:岩堀雅己
装幀:三木俊一

今夜はクリスマス・イブだ。ぼくは日本人のクリスマス主義ともいうべき祝い方や遊び方が子供の頃から大嫌いだった。だからついついクリスマスめいた話からいつも遠のいてきたのだけれど、この夜に生まれた一人のオランダ系アメリカ人のアーティストは過越祭(すぎこしのまつり)を背負ったかのようにイブに生まれていて、ぼくの想像したいノーマルスティグマを伴うクリスマス・スートリーにふさわしく想えていた。そのアーティストの話をしてみたい。

 今夜はクリスマス・イブだ。ぼくは日本人のクリスマス主義ともいうべき祝い方や遊び方が子供の頃から大嫌いだった。だからついついクリスマスめいた話からいつも遠のいてきたのだけれど、この夜に生まれた一人のオランダ系アメリカ人のアーティストは過越祭(すぎこしのまつり)を背負ったかのようにイブに生まれていて、ぼくの想像したいノーマルスティグマを伴うクリスマス・スートリーにふさわしく想えていた。そのアーティストの話をしてみたい。
 父親は小売商人でテキスタイルデザインが得意だった。母親は幼稚園の先生で何かを想像するのが好きだった。そのうち本人は手持ちの素材でアートすることになるのだが、その時期はアメリカにシュルレアリスムと新ロマン主義とアクション・ペインティングが踵を接してが流れこんできた時期で、それらはやがてことごとくポップアート化していった。
 しかし、本人はそのいずれにも傾かず、ひたすら静かな作品を端然と制作し、ユートピア・パークウェイの一隅の木造ハウスに住み続けた。その容姿は鳥人めいていた。美術界からは「箱」のアートを先駆したと評価されたのだが、実は女優のローレン・バコールやクリスチャン・サイエンスの創始者や、スーザン・ソンタグ(695夜)や草間彌生に憧れていながら、その夢が叶わなかった男でもあった。

コーネルの生家と両親

コーネルの家族

 クイーンズのハドソン河沿いにナイアックがある。オランダ移民の家が多い。その一隅にユートピア・パークウェイと呼ばれる一画がある。そこの木造ハウスで、生涯の大半を母親のヘレンと障害をもった弟のロバートと一緒に送ったアーティストがいた。
 1903年のクリスマス・イブに生まれた。69歳でぽっつり死んだ。ぼくが「遊」を創刊してまもなくだ。稀代の引きこもりアーティストだった。ジョゼフ・コーネルである。
 稀代のアーティストと言ったけれど、本人には奇抜なところや異様なところはまったくない。だからといって平凡だなどとはとうてい言えないが、徹底して「地味」だった。いつも母親と口ゲンカをし、庭のカケスにピーナッツを配り、近くのコーヒーショップに入り浸り、綺麗なウェイトレスに夢中になった。
 ローレン・バコールとロマンティックバレエの踊り子と行く先々のカフェのウェイトレスに憧れたが、ほとんどの女性と交わることがなく、夜は不眠症のままほぼ童貞のような日々をおくった。極端に口数が少なかったけれど、これはアーティストにはよくありがちなことだ。
 作品も斬新とか図抜けているとか時代精神を抉ったというものではない。壁に掛けておきたくなるような箱状アートばかり作った。箱の中には切り抜きの鳥、星座、コルクの栓、ガラスの小瓶、小さく仕切られた棚、文字の切れっ端、ビーズ、大小の球などがアッサンブラージュされて、ひたすら佇んでいるだけである。しかしそのユートピア・パークウェイには、その箱とコーネルの暮らしぶりを見たくて、マルセル・デュシャン(57夜)やマックス・エルンスト(1246夜)やペギー・グッゲンハイムらが引っ切りなしに訪れた。
 1967年の「ライフ」12月5日号は12ページにわたってコーネルを特集した。記者はこの「ユートピア・パークウェイの謎めいた独身者」がどうやってベッドから抜け出たのか理解に苦しむほどおとなしいことに驚いた。

ジョゼフ・コーネル

(左)無題(ピアノ)(1947-48年頃)
(右)アナレマ(1948-50年)

 ぼくがコーネルの作品群に出会ったのはMOMAでのことで、ダブルデイがぼくの本を出したいというのでニューヨークに招かれたときだ。副社長と編集長がぼくの半年前の講演「イメージとマネージ」をワシントンの議会図書館フォーラムで聞いて、こいつをスターにしようと思ったらしい。
 東洋人がアメリカンな思想をずたずた切っているのがおもしろかったようだ。サンプルテキストを1章ぶん書いてほしいというので送ったところ、さらに気にいられた。それでいよいよ本格的な打ち合わせをしようということで佐藤恵子と出向いたのだが、お断りをした。アメリカ人のくどいカルチュラル・マーケティングのお仕着せが気にいらなかったからだ。気分なおしに恵子と自然史博物館やMOMAを回った。
 MOMAの「ジョゼフ・コーネル」展のカタログは1980年開催時のもので、手にとる前から懐かしかった。大事にそのカタログを買って、近くのカフェで沛然として静謐きわまりない作品群を眺めた。「ああ、こういうやりかたはみんなコーネルが試みたことなのだ」と得心した。ハーチガンの評伝が載っていた。
 やがて日本でもセゾン美術館や鎌倉の近代美術館や川村記念美術館などでコーネル展が次々に開かれ、ぼくのまわりはコーネル・フリークでいっぱいになった。勝本みつるちゃんをはじめ、多くの作家が箱づくりを見せた。
 しかし、コーネルの箱は(それが箱だとしたら)、追想しないほうがいいのではないかと思う。それにあれは「箱」ではなく「枠」なのである。

『JOSEPH CORNELL』Kyhaston McShine
1980年 The Museum Of Modern Art, NEW YORK MOMA

日本で開催された「ジョゼフ・コーネル展」のポスターとカタログ
1992年から93年にかけて、神奈川県立近代美術館、滋賀県立近代美術館、大原美術館、川村記念美術館で開催された。

無題(カラヴァッジオの少年)(1953年頃)

 いったいわれわれは、子供の頃に箱をほしがっただろうか。だいたいの男の子は箱というものにフェティッシュになる気質をもっているけれど、そのフェチ箱は昔の長櫃や古い写真機や大工道具箱のようなものだ。箱をつくるという癖はあまりない。
 箱は「すでにそこに何かが入っていたもの」なのだ。このことを、かつて物質の想像力似圧倒的な分析を加えた哲人ガストン・バシュラールが「箱の稠密性」と言っていた。
 だからぼくはコーネルが「箱をつくった」とはどうしても思えない。コーネルの作品はフェチ箱ではないし、コーネル自身にもフェティシズムを感じない。選んだオブジェはフェティッシュというより、ノスタルジックなのだ。
 コーネルがしたことは「箱で囲んだ」というべき行為なのである。地面に棒で四角を描きそこに秘密の基地を感じるような、部屋の一角を段ボールなどで囲ってそこに大事なものをこっそり入れるような、そういう「囲われた箱」をコーネルは作りたかったのではないか。それゆえその箱には「枠」が必要だったのだ。

ガストン・バシュラール
フランスの哲学者、科学哲学者。科学的知識の獲得の方法について考察し、空間の詩学の研究でも多くの業績を残した。

セイゴオ・マーキング〈1〉
本書p10-11

(左)無題(ホテル:太陽の箱)(1956年頃)
(右)無題(星ホテル)(1956年頃)

 少年期のコーネルはボードビルやサーカスに目を奪われている。マディソンスクウェア・カーデンのバッファロー・ビル、タイムズスクウェアのアクロバット街頭劇、六番街のヒッポドロームでの奇想天外、コニーアイランドのルナパークの夜の陶酔、そしてハリー・フーディーニの目の眩むマジックショーだ。とくにフーディーニだった。
 少年はこれらをミニチュアのように手元に置きたくなる。それには箱のような劇場もほしくなる。箱はそういう「動向のための劇場」でもあったのである。

ハリー・フーディーニのマジックショー
「脱出王」の異名を取り、アメリカ合衆国で名を馳せた奇術師。超能力や心霊術のいかさまを暴露するサイキックハンターとしても知られる。

 しかしここまでなら、少年レイ・ブラッドベリ(110夜)や少年ポール・オースター(243夜)もそうだったように、アメリカンボーイならたいてい夢中になってきたものだ。コーネルはそれをうんと小さく「隠し立て」にするほうに夢中になったはずである。
 その「隠し立て」がどのように芽生えたのか、そこにこそぼくはずっと関心をもってきたのだが、数あるコーネル論はやたらにロマンチック・コーネル論や美術論コーネルに走りすぎていて参考にならない。やっと本書を読んで、コーネルの気分の細部が見えてきた。
 本書はコーネルが暮らしてきた住所そのものをあらわす『ユートピア・パークウェイ』という原題で、サブタイトルもロマンチックな「箱の中のユートピア」などではなく、淡々たる「ジョゼフ・コーネルの日々と仕事」なのである。
 その本書のなかで、ぼくは少年コーネルを包んだであろう次のことが気になった。母親がベッドに寝ているコーネル少年に、自動販売機で買った小さな「占いカード」「測り図解」「マッチ箱」「安物の銀の飾りもの」を持ってきてくれるのだ。これがコーネルをときめかせた。コーネルはそこに「本物ではない別物」のときめきを感じ、「生命のないオブジェ」に夢のような可能性を感じた。
 この母親がコウノトリのように運んだ世界の「小ささ」は、コーネルの隠し立ての制作作法のヒントになったはずだ。もうひとつ、コーネルの劇場に加わったことがあった。コーネルが6歳になったとき、弟のロバートが生まれたのだが、ロバートは先天性の脳性麻痺を負っていた。少年コーネルは人間の宿命のなにがしかがその当初から決まっていることを実感させられた。
 これはとても大きな隠し立てだった。コーネルが最後までロバートの世話をしていたことはよく知られたことだ。

原著『Utopia Parkway: The Life and Work of Joseph Cornell』Deborah Solomon

小鳥のそばのジョゼフとロバート
ナイアックにて(1915年頃)

(左)貿易風 第2番(1959年頃)
(右)無題(帆船)(1961年頃)

 全米で一番古い寄宿学校のアンドーヴァーに入ったのも、コーネルにとってはアンティークなことだったろう。とくにトマス・ド・クインシーを読んだのがコーネルの日常行為を伏せがちにさせた。『ジャンヌ・ダルク』『イギリスの郵便馬車』『アヘン常用者の告白』はコーネルの隠し立てのための読書だったように想われる。
 ただ、コーネルはそもそもが臆病で照れ屋で、かなりの意気地なしでもあった。ド・クインシーを読んでブランキに共鳴した撥ねっ反りのボードレール(773夜)のようには「悪の華」には向かえない。そのかわり、なんとクリスチャン・サイエンスに嵌まったのだ。メアリー・ベイカー・エディによって創始されたこの霊的キリスト教団体については、ぼくはほとんど知るところがないのだが、コーネルがこの集団信仰者の群れに準じたのは、よほど寂しかったからだろう。とくにアメリカではめずらしい女性によって創始された宗教とつながることは、あとでのべるコーネルの女性感覚を深めさせたのではないかと想う。

(左)トマス・ド・クインシー
(右)ボストンにあるキリスト教会(クリスチャン・サイエンス本部)

カシオペア 第1番(1960年頃)

 1931年の秋、ジュリアン・レヴィ画廊がオープンした。スティーグリッツの「291」画廊に魂を奪われたレヴィがハーバードを中退して、25歳で乾坤一擲した画廊だ。シュルレアリスムをアメリカに導入した画廊になった。
 ちょうどそのころ、27歳のコーネルはアメリカの書店に初めて並んだマックス・エルンスト(1246夜)の『百頭女』に魂を奪われていた。『百頭女』を脇にかかえてユートピア・パークウェイに帰ったコーネルは食卓に坐ると、さっそく古本の山を次々に切り抜き画用紙にあてがい、モノクロなコラージュに耽った。おそらくコーネルの最初のアートワークはこのエルンスト紛いのコラージュ制作だ。 
 こうしてレヴィとコーネルが出会ったのである。レヴィはたちまちコーネルの人物としての不思議度とコラージュの質の低さとを見抜き、シャドーボックスの中をコラージュしてはどうかと奨めた。画期的なサジェスチョンだった。
 初めて美術者からのヒントを貰ったコーネルは、さしあたってはピルボックスを相手にコラージュにとりくんだ。薬が詰め合わされている箱から薬を取り出し、代わりに貝殻、赤いスリガラス、切り抜いた各種の絵、模造ダイヤモンド、ビーズ、黒い糸などを入れこんだ。
 出来はよくない。すこぶる乙女チックなものだ。しかし、そこへレヴィ画廊による「シュルレアリスム」展の準備が始まると、コーネルの作為は一気に隠し立てに向えたのである。この展覧会はアメリカ美術史を画期したもので、初めてマン・レイ(74夜)、エルンスト、ピカソ、マルセル・テュシャン(57夜)、ジャン・コクトー(912夜)、ダリ(121夜)らがずらり顔を揃えた。
 これでコーネルが本気にならなければおかしい。おまけにダリからの酷評も受けた。ダリは美術も映像も編集可能であることを発見したと自負していたのだが、コーネルがその手法を盗んだと酷評したのだ。しかしコーネルにはコーネルなりに忽然と理解できたことがあったのである。それは「自分はシュルレアリストでない」ということだ。

ジュリアン・レヴィ画廊

無題(名前のない物語―マックス・エルンストに)(1930年代)

4つのピルボックスのオブジェ(1933年)

ユートピア・パークウェイの自宅の庭のコーネル(1969年)

ユートピア・パークウェイのジョゼフ・コーネルのアトリエ(1969年)

 ここから先のコーネルが今日のコーネルの母型になっていく。とくにジュリアン・レヴィが創立したニューヨーク・フィルム・ソサエティに出入りするフィルムたちにピンときた。コーネルのコラージュには「動的な関与」が未然に了っている必要があったのだが、そのことを切り出された一枚一枚のフィルムが暗示してくれたのだ。とくにレジェの『バレエ・メカニック』とデュシャンの『アネミック・シネマ』に刺戟を受けた。
 コーネルも『フォト氏』や『ローズ・ホパート』という映像作品を編集した。以下にお目にかける。なんとも切ない映像だ。

 1936年夏、最初の箱作品ともいうべき『シャボン玉セット』が出来た。はたして「動的な関与」が未然に了っているように仕上がったかどうか疑問だが、コーネル自身はこれで勢いを得て、自分の表象する世界が言葉や文芸ではどういうものかを感知するため、ネルヴァル(1222夜)やマラルメ(966夜)に没頭し、自分がめざすべき表象は「仄めくもの」であって「暗示的なもの」でなければならないことを確信していった。
 これなら、コーネルはアーティストとしてあきらかに高踏的な作品づくりに存分に徹することができたはずである。ところがそこがコーネルの最もコーネルらしいとろなのだが、彼はそれとは別の趣向にも踏み込んだのだ。それは憧れの女性たちを表象するということだった。

無題(シャボン玉セット:コペルニクスの体系)(1940年末-1950年初頭)

(左)シャボン玉セット(1947年)
(右)シャボン玉セット(月の虹:宇宙のオブジェ)(1959-61年頃)

 コーネルの中のアニマとアニムスの相克はなかなか取り出しにくい。一説ではコーネルは生涯にわたって童貞だったということになっているし、それがゲイ感覚や女性嫌いからきたものではなく、まったく逆の、女性偏重のハイパーフェミニズムからきているとももくされてきた。またインポテンツだったと断言する評伝もある。欲望が高まれば高まるほど、自身の勃起から見放されてしまうというのだ。
 しかし、この手の読み取りはどうか。ジョゼフ・コーネルは密かなペニスナイドの持ち主で、もともとの静かな意気地なしがエロティックなマトリズムに貫かれていったのではなかったか。そんなふうにも想いたくなる。だからこそローレン・バコールやロマンチック・バレエのスターたちへの想いはそのシンボル化の手法と仕上がり具合をアートにまで高めてしまったのだ。いまではこの表象力はマリリン・モンローをシルクスクリーンにしたアンディ・ウォーホル(1122夜)に先駆したものだとさえ評価されている。
 本書のデボラ・ソロモンはこんなふうに推理した。「コーネルには女性に自己を同一化するところがあった、まもなく彼は自分自身が女性の芸術家や俳優の分身であるとしばしば空想するようになり、女性の衣裳について想像して興奮したりした。彼の欲望の対象はいったい、崇拝する女性なのか、自分がなりたい自分がなのか、はっきりしないこともあった。女性との強い同一化は同性愛者によくあることだが、それがゲイであることとは同義ではない。私の考えでは、コーネルは同性愛者ではなく、女性に強く同一化してしまっていたのではないかということだ」。
 まずまず当たっているだろう。ともかく女性嫌いなのではないことはあきらかだ。あまりに憧れていて、息ができないほどの畏敬を抱いていたはずである。それは自分の勃起しにくいペニスから流出するものだったにちがいない。60代になってようやく女性と交わったようだが(それが若い草間弥生だったという説もあるが)、そんな関係がいつまで続いたのか、いまや万人が想像すら適わないものになった。たいへん結構なことだ。
 スーザン・ソンタグの美しさには心臓がとまるほどに憧れたらしい。ニューヨークでこれほど「知」と「美」が合体できた女性はほかにいなかった。スーザンのほうもこのひょろ長い紳士アーティストとおしゃべりするのはオーケーだったので、かなり何度も付き合ったようだが、作品についてはあまり評価していなかった。セイゴオ、どう思う? あの人は存在がアートなのよ、それがダリには気に食わなかったのね、そうスーザンは言っていた。

コーネルと草間彌生
コーネルと草間弥生とは親友で、彼女に捧げた作品を複数発表している。

コーネルによるソンタグの作品

食料貯蔵庫のバレエ(1942年)

(左)ロマンティック・バレエ讃(1947年)
(右)ロマンティック・バレエ讃(1958-62年頃)

 レヴィ画廊から離れたコーネルが、ヒューゴー画廊、イーガン画廊、ステイプル画廊でかなりもてはやされていったことは、このアーティストが地味な対応をすればするほど美術界が騒いでくれたということである。
 こうした美術社会との自己撞着は、コーネルに「鳥小屋」シリーズをもたらし、作品に「空漠」をつくりあげさせた。これらは今日のコーネル評価につながるものだが、ぼくに言わしめれば、これは「隠し立て」がいよいよ『作庭記』に近づいてきたということだ。
 そもそもコーネルが人生というものを送ったのかどうかも、はっきりしない。生涯のほとんどを母親と弟と一緒に、クイーンズのユートピア・パークウェイの木造小屋で暮らしたが、ずっと夜は不眠症だったし、昼間は母親のグチと諍いをしていたし、たまにグランドセントラルに行っても駅の待合室のベンチで人と鳩を眺めるだけなのだ。
 けれども何かがひらめき、誰かと会ったりすると、部屋に帰って夢中になることはその世界を箱で囲むことだったのである。そうすれば、その箱は必ずやコンティンジェントな別様の可能性を見せてくれた。クリスマス・イブに生まれたアーティストして、こんなふさわしい人物はいない。

(左)無題(オウムと蝶の住まい)(1948年頃)
(右)見棄てられた止まり木(1949年)

(左)無題(鳩小屋:アメリカーナ)(1950年代初め)
(右)無題(鳩小屋)(1950年代初め

ユートピア・パークウェイの自宅の庭でくつろぐコーネル

⊕『ジョゼフ・コーネル — 箱の中のユートピア』⊕
 ∈ 著者:デボラ・ソロモン
 ∈ 訳者:林 寿美、太田泰人、近藤 学

 ∈ 装丁:三木俊一
 ∈ 組版・本文レイアウト:中川麻子、小川弓子
 ∈ 発行者:及川直志
 ∈ 発行所:株式会社白水社
 ∈ 印刷:株式会社精興社
 ∈ 製本所:青木製本所
 ⊂ 2011年 1月20日 初版発行

⊕ 目次情報 ⊕
 ∈∈ はじめに
 ∈  第1章  1903‐17 組み合わせチケット
 ∈  第2章  1917‐21 フーディーニを夢見て
 ∈  第3章  1921‐28 セールスマン暮らし
 ∈  第4章  1929‐32 ジュリアン・レヴィ画廊
 ∈  第5章  1933‐36 サルバドール・ダリの消えない記憶
 ∈  第6章  1937‐39 新ロマン主義者の登場
 ∈  第7章  1940‐41 バレエの一夜
 ∈  第8章  1942 異邦からの声
 ∈  第9章  1943‐44 “ベベ・マリー”、または視覚的な所有
 ∈  第10章 1945‐49 ヒューゴー画廊
 ∈  第11章 1949 鳥小屋
 ∈  第12章 1950-53 イーガンでの歳月
 ∈  第13章 1954-55 鳥たち
 ∈  第14章 1956-57 ステイブル画廊
 ∈  第15章 1958-59 ビックフォードで朝食を
 ∈  第16章 1960-63 ポップ、美術界を行く
 ∈  第17章 1964 ジョイス・ハンターの生と死
 ∈  第18章 1965 さようなら、ロバート
 ∈  第19章 1966 さようなら、コーネル夫人
 ∈  第20章 1967 グッゲンハイム展
 ∈  第21章 1968-71 「バスローブで旅する」
 ∈  第22章 1972 「日の光が差してきた……」
 ∈∈ 訳者あとがき
 ∈∈ 図版一覧
 ∈∈ 人名索引

⊗ 執筆者略歴 ⊕
デボラ・ソロモン
1957年生まれ。コーネル大学で美術史、コロンビア大学大学院でジャーナリズムを学んだニューヨークっ子で、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記者を経て、現在では『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌で、毎週、「クエスチョンズ・フォー」という人気のコラムを担当している敏腕のジャーナリスト、美術評論家である。マンハッタン在住