才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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岩波文庫の赤帯を読む

門谷建蔵

青弓社 1997

 本を読むには、ふつうは最初に本を選ぶことから始まると思われているが、ぼくのばあい、そういうことは少ない。食事や旅行と同じことで、まず何かを食べたい、どこかへ行きたいという気分が先行する。
 だから、何を読むかという自分の気分の状態がある程度は鮮烈にかつ繊細に見えてくる必要がある。食べたいのだが、中華かイタ飯か鮭茶漬か油っこいものなのか。どこかにぶらっと出たいのだが、上海なのか温泉なのか、東北なのか、まだ行ったことがないところなのか。
 食べ物ならだいたいの分類が誰もが見えている。ラーメンを食べたいという衝動があることが自分でわかる。変わったものを食べたい、いままで食べたことがないものを食べるということもある。旅のばあいは、行き先のことをたいていの人が調べる。不思議なことに、まだそこに行っていないのに、その行き先のことを事前に知っていく。
 このような食衝動感覚や旅行事前感覚ともいうべきものが読書にもあるわけで、実は本を読む前に読書は始まっているというべきなのだ。

 こうして、やっとどの本を読むかということになるのだが、これも大半は読む前か、読み始めの瞬間で決まる。
 かなり慣れてくると、何冊もの候補本に目が近づくか、それらのうちの何冊かをちょっと手にとって読み始めたとたんに、この本がいま読むべきものかどうかがすぐわかる。おいしい店かどうかが店構えでわかってくるようなものと思ってもらえばよい。さらに熟練してくると、読む前に何に手を出せばいいか、つまり、どのあたりに行けばおいしい店にぶつかるかということがわかってくる。
 これらのほかに、どんな時期に、どの時間に、どこでその本を読むかということも大きなフィルターになる。ぼくのばあいは、自分が読書をするときのコンディションがおそらく数十通りに分かれていて、たとえば一日を目覚めから就寝まで分けるとすると、きっと14、5回の分節に区分けできるのではないかとおもう。紅茶を飲むとき、庭の百日紅を見たあと、チャイコフスキーを聴くとき、そろそろ眠くなってきたときで、本の読み方などいくらでも変わりうるのである。
 読書にはそうした複雑多岐な動機といくつものフィルターとふだんの習慣の積み重ねが生きているのだが、しかしまた、これらとはまったく別の目的でしゃにむに読書に突っ込んでいくということもある。たとえば研究者がその領域のことを知る必要があって何十冊もの研究書や原書にぶつかっていくばあいなど、そういう例である。
 けれども、もっと純粋に、読書という世界に埋没したいために読書をするということもある。本書は、その「しゃにむに」という読書の大成功例だった。

 著者がどういう人かは知らない。1940年群馬県生まれで、東京工業大学理工学部卒業としか著者紹介はない。
 が、本書はずばり『岩波文庫の赤帯を読む』という、まさにそのためだけの読書計画に取り組み、これを首尾よく完遂した稀有な記録なのである。それだけで、この未知の読書家に心からの祝杯を捧げたい。
 祝杯をあげる理由は、計画を完遂したというだけではなく、表題にふさわしい内容になっていて、赤帯一冊ずつの感想もさることながら、どのようにその赤帯を入手したか、その赤帯から別の赤帯にどのように連結していったか、そういう読書人にとっては欠かすことのできない「手続き情報」もちゃんと書いていることにもよっている。赤帯本はどこにでもあるものではないから、それらを探し出すという手間も必要で、そのことも書いてある。冒頭には、

   読書開始 一九九六年一月
   記録開始 一九九六年十月
   完  了 一九九七年四月

というデータも記されている。読み出したらつまらなかったので放棄したということも、そのまま記録されている。こういうところが祝杯に値する。

 それにしても、この著者、短期間でよくも赤帯を渉猟しきったとおもう。
 周知のごとく、岩波文庫の赤帯は中国文学をふくむ海外文学のことで、それだけで約1000冊になる。ちなみに岩波文庫は、青帯が日本思想・東洋思想・仏教・歴史・地理・哲学・教育・宗教・音楽・美術・自然科学、黄帯が日本文学古典、緑帯が日本文学近現代、白帯が法律・政治・経済・社会になっている。したがって赤帯以外の色分けは必ずしも厳密ではないし、うまい分類ともいえない。しかし、柔道ではないが、赤帯に挑むとか白帯に向かうというのは、日本人の何かの挑戦性をくすぐっているのかもしれず、ぼくはそういうことをしたことはないのだが、なんだかおもしろそうな挑戦なのであろう。
 けれども読書は、乱取り100回とか、ベンチプレス300回というふうにはいかない。そこには「理解」というものが待っている。だから、どこまで読みこむかは別としても、約1000冊を1年ちょっとで通過するには(この著者は15カ月)、よほどの集中力が必要だと想像されるにちがいない。
 たしかに次から次へと文庫本を読むなんて、そうとうの手際か暴走か必要だろうと思われるであろう。むろん覚悟はいる。しかし、こういうことは、えてして覚悟だけではムリなのだ。実は、覚悟や熟練以外の別の手があるものなのだ。それは「自分で分類と関係を発見したい」という好奇心というものだ。
 著者は次のような理由と動機と楽しみをもって臨んだ。

①赤帯は国別のバランスも、小説に偏重しないジャンルのバランスもいい(その黄金比率のようなものを感じたい)。
②現代作家がほとんど入っていないのがいい(現代作家が交じっていると、現実を呼びさまされるようで、うるさい)。
③しかも読んでいなかったものが95パーセントもあり、読みたかった作家がほとんど入っている(体力トレーニングやピアノ・レッスンに似て、挑戦的な気分になれる)。
④ほかの文庫本より訳がよさそうだし、保存状態のよい古本が手に入りやすい(部屋のインテリアも変化する)。
⑤入手した赤帯を並べてみると美しく、いろいろ並べ替えているといつまでも遊べる(書物への愛情のようなものがつねに満足させられる)。

 ふつうなら、この程度の動機や条件でこの前代未聞の計画に着手できるとはおもえないが、実は昆虫採集や鉱物採集のことを思い出してみれば、不可能ではないことが見当もつく。ただし、⑤がとくに重要で、読書というもの、つねにこうした「読書まわりの趣向」が付随するものなのである。

 本書には書いてはいないが、この計画が完遂できたもうひとつの理由は、自分でさまざまなベスト10を選ぼうという決断をして臨んだことだろうとおもう。
 あるいは最初は決断していなかったのが、途中に計画を続行させるためにベスト10を選ぶという動機付けを加えたのであったろう。まさに「分類と関係を自分で発見する」というものだ。
 そのベスト10だが、これがなかなかふるっている。いくつか紹介すると、こうなっている。ただ羅列するのも失礼だろうから、ぼくもささやかなチェックをほんのすこし入れておいた。(!)はぼくの同感マーク、(?)はあれっそうかなマーク、(#)は参ったマーク。もっとも、こういう評定は数寄者どうしが気楽にしているものなので、あまり目くじらをたてることはない。

喜劇ベスト10+1
①アリストパネース『アカルナイの人々』、②ゴーゴリ『検察官』(!)、③クライスト『こわれがめ』(!)、④モリエール『タルチュフ』、⑤シェイクスピア『ヴェニスの商人』、⑥ボーマルシェ『セヴィラの理髪師』(!)、⑦シング『西国の伊達男』(?)、⑧シェリダン『悪口学校』、⑨ワイルド『嘘から出た誠』、⑩シュニッツラー『輪舞』、⑪ティーク『長靴をはいた猫』(#)。

悲劇ベスト20
ソポクレス『オイディプス王』(!)、②シェイクスピア『リア王』、③クライスト『ペンテジレーア』(#)、④ラシーヌ『フェードル・アンドロマック』(!)、⑤イプセン『野鴨』、⑥チェーホフ『桜の園』、⑦トルストイ『生ける屍』、⑧イプセン『ヘッダ・ガーブレル』(?)、⑨オニール『楡の木陰の欲望』、⑩ドーデー『アルルの女』(!)、⑪オニール『喪服の似合うエレクトラ』、⑫ロマン・ロラン『愛と死の戯れ』(?)、⑬ホセ・エチェガライ『恐ろしき媒』、⑭ヘッベル『ギューゲスと彼の指輪』(?)、⑮アイスキュロス『アガメムノン』、⑯ヘッベル『ユーディット』(!)、⑰エウリピデス『ヒッポリュトス』、⑱メーテルランク『対訳ペレアスとメリザンド』(!)、⑲ハウプトマン『織工』、⑳ストリントベルク『令嬢ユリェ』。

長編小説ベスト24
(長編の意味がややわかりにくいが)
ノヴァーリス『青い花』(!)、ホフマン『牡猫ムルの人生観』(!)、バルザック『従兄ポンス』、フローベール『ブヴァールとペキュシェ』、リラダン『未来のイヴ』(!)、アレクセイ・トルストイ『白銀公爵』(#)、⑦バルザック『ウジェニー・グランデ』(?)、⑧バルザック『「絶対」の探求』、⑨老舎『駱駝祥子』、⑩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』、⑪ブラスコ・イバーニェス『血と砂』(!)、⑫バルザック『暗黒事件』、⑬アナトール・フランス『神々は渇く』(#)、⑭レニエ『生きている過去』、⑮ホーソーン『緋文字』、⑯アナトール・フランス『赤い百合』、⑰ゲーテ『親和力』(?)、⑱フローベール『ボヴァリー夫人』(!)、⑲ゴンクウル兄弟『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』、⑳モーパッサン『女の一生』(!)、㉑ジイド『法王庁の抜け穴』、㉒スティーヴンスン『二つの薔薇』、㉓チャペック『山椒魚戦争』、㉔ニェムツォヴァー『おばあさん』。

ドイツ文学ベスト9A
①パウル・ハイゼ『片意地娘』、②クライスト『ミヒャエル・ コールハースの運命』(!)、③ホフマン『黄金の壷』、④ノヴァーリス『青い花』、⑤ゲーテ『ファウスト』、⑥『ニーベルンゲンの歌』(!)、⑦『ゲーテ詩集』、⑧ハイネ『流刑の神々・精霊物語』、⑨『グリム童話集』(#)。

◆ドイツ文学ベスト9B
①クライスト『O侯爵夫人』(#)、②ヘッセ『漂泊の魂』、③シュニッツラー『ベルタ・ガルラン夫人』、④ホフマン『牡猫ムルの人生観』、⑤クライスト『ペンテジレーア』、⑥クライスト『こわれがめ』、⑦ゲーテ『西東詩集』、⑧カロッサ『ルーマニア日記』(!)、⑨ヘーベル『ドイツ炉辺ばなし集』。

 

 ドイツ文学を一般選抜Aと高級選抜Bに分けるあたり、この著者は読書というものの楽しみ方をよく心得ている。ぼくもこういう方法を『遊』9号・10号の「存在と精神の系譜」このかた、何度も遊んできたものだ。
 正確を期してはいけない。読書はどこまで勝手を貫くか、その勝手がしだいに説得力をもってくるところに醍醐味がある。自分の勝手の量が足りなかったり、その勝手が貫けないのだったら、それはまだ読書のうちには入っていないと思ったほうがいい。ラーメンを10杯くらい食べたからといって、ラーメン通になれるわけではないのである。『情報の歴史』を編集構成したときも、ぼくがいかに勝手を貫き通すか、その貫きかたがどこにもないものにまで達するかということが、ただひとつのエネルギー源だったのである。

 では、もうすこし紹介しておく。
 この著者の徹底した遊びを紹介することが、今夜のぼくのように、 時ならず息たえだえのコンディションになっている者を鼓舞してくれるからである。

◆イギリス文学ベスト9
モーム『雨・赤毛』、②ハーディ『日陰者ヂュード』(!)、③ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』(!)、④シェイクスピア『リア王』、⑤シェリダン『悪口学校』(?)、⑥『オシァン ケルト民族の古歌』、⑦『バーンズ詩集』、⑧シング『アラン島』、⑨イエイツ編『隊を組んで歩く妖精達』。

◆フランス文学ベスト9
①モーパッサン『メゾン・テリエ』(#)、②メリメ『コロンバ』、③バルザック『ウジェニー・グランデ』(?)、④リラダン『未来のイヴ』(!)、⑤デュマ『モンテ・クリスト伯』(!)あるいはユゴー『レ・ミゼラブル』(!)あるいはラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(!)、⑥ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』、⑦ボードレール『悪の華』あるいは『ヴィヨン全詩集』(?)あるいは『ヴァレリー詩集』、⑧アナトール・フランス『昔がたり』(#)、⑨サンド『フランス田園伝説集』。

◆大長編小説ベスト22 ①ゴーティエ『キャピテン・フラカス』(#)、②メルヴィル『白鯨』(!)、③サンド『笛師のむれ』(?)、④スコット『アイヴァンホー』、⑤バルザック『農民』、⑥ゴーゴリ『死せる魂』(!)、⑦バルザック『従妹ベット』、⑧ドストエフスキー『白痴』、⑨スタンダール『パルムの僧院』、⑩スターン『トリストラム・シャンディ』、⑪ゴンチャロフ『オブローモフ』(!)、⑫スタンダール『赤と黒』、⑬ハーディ『日陰者ヂュード』、⑭ゾラ『ジェルミナール』、⑮スコット『ミドロジアンの心臓』、⑯ゾラ『大地』、⑰ケラー『緑のハンリッヒ』、⑱フローベール『感情教育』(#)、⑲フィールディング『トム・ジョウンズ』、⑳マリヴォー『マリヤンヌの生涯』。以下略。

◆大々長編小説ベスト14
①トルストイ『戦争と平和』、②ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(!)、③セルバンテス『ドン・キホーテ』、④ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(!)、⑤ユゴー『レ・ミゼラブル』(!)、⑥デュマ『モンテ・クリスト伯』(!)、⑦ショーロホフ『静かなドン』、⑧ディケンズ『デイヴィド・コパフィールド』(!)、⑨トルストイ『アンナ・カレーニナ』(#)、⑩『紅楼夢』、⑪ロラン『ジャン・クリストフ』(?)、⑫ハシェク『兵士シュヴェイクの冒険』、⑬ル・サージュ『ジル・ブラース物語』(!)、⑭『カサノヴァ回想録』。

 ところで、本書には「なかじきり」「中休み」「文庫本に関する本」「赤帯を読むとは」「年金生活者の理想的読書生活」「文庫中毒の井狩リストから」といった間奏曲が自由に入る。
 これも、こうした長期計画を持続的に記録していくには必要なもので、こういう視点変化や余談を入れずに、ひとつの文体フォーマットやコンテンツ抽出主義にこだわると、たいていは挫折することになる。読書には、また読書ノートには、ありとあらゆる工夫が必要なのである。
 さて、この著者はあろうことか、このあと休むひまもなく『岩波文庫の黄帯と緑帯を読む』を続刊した。日本文学系文庫本だ。これには参った。脱帽だ。
 しかも、格別の工夫をおもいついた。「しおり」に涙ぐましい努力をしたようなのである。なんとアイドル写真のしおりを徹底して使ったのだ。
 たとえば倉田百三には倉田まり子を、斎藤茂吉には斎藤由貴を、北原白秋には北原佐和子を、夏目漱石に夏目雅子というふうに同名しおりを入れ、つづいて内田百間(山口百恵)、徳田秋声(秋ひとみ)、蒲原有明(柏原芳恵)、広津柳浪(広末涼子)あたりは一字重なりアイドルに頼ったというのだ。
 これで、いったいどれほど読書欲が増強されるのかは、ぼくにはわからないのだが、きっとこの著者にとってはこれこそが絶対のコラボレーションであったのだろう。しおり作戦である。ところが、芭蕉に倍賞姉妹をつかおうとおもったあたりで挫けそうになったらしい。そこで、なにくそとここで踏ん張って芭蕉は松尾だから松田聖子とし、それからは大胆にも、広瀬淡窓のところで「広」のアイドルがなくなったので「瀬」に切り替えて、山瀬まみを登場させ、佐藤春夫のときもたんに「サ」があるというだけで桜田淳子を起用するという、あくまでアクロバティックな手法で一貫性を切り抜けていったのである。

 門谷建蔵さん、「千夜千冊」の片隅から岩波文庫総制覇が完了することと、いずれは他社の文庫本制覇に乗り出されるであろうことを見守っています。