ハンス・ブルーメンベルク
世界の読解可能性
法政大学出版局 2005
ISBN:4588008315
[訳]山本尤・伊藤秀一
編集:稲義人・平川俊彦
ハンス・ブルーメンベルクという、
とんでもない知の巨人がいる。
ドイツで沈思黙考しつづけて、17年前に亡くなった。
メタファー学の秀れた提唱者にして、
知の読みに画期的な方法をもたらした思想史家だ。
世界がどんな読解可能性をもってきたのか、
その可能性を広汎縦横に世界読書と重ねてみせた。
実は、ぼくにも世界読書のための試みがある。
イシス編集学校「離」のインターテキスト「文巻」で
9年間にわたって未公開に試みてきたことだ。
今夜は、その世界読書の一端の開示を
ブルーメンベルクに託しつつ、洩すことにした。

 今夜はハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』という、世界書物と世界読書をめぐるすばらしい一冊を提示しようと思うのだが、その前に、ぼくが初めて当事者以外にリークする話をしておきたい。
 ずっと伏せておこうと決めていたのだが、いささか思うところあって、以下のこと、少々ばらすことにした。

 ぼくには、ぼくが死ぬか、それに匹敵する事情があるまでは公開したくない格別の“文書”がある。べつだんウィキリークスにすっぱ抜かれるような秘録でもなく、ペリカン文書ふうのものでもない。ぼくが10年前に書いたテキストだ。ただけっこう長い。「400字×約1200枚=約50万字」ほどがある。中身を絶対の秘密にしているわけではないが、一般公開しているわけでもない。
 非公開なのに、このテキストは閉じていない。いまなお成長しつづけていて、しかもそのテキストを読んだ者たちによって相互編集されつづけるようになっている。

 これは「文巻」(ぶんかん)とぼくが名付けたテキストで、イシス編集学校「離」(り)のネット上でのみ提示されてきた。指導陣にあたる火元組(ひもとぐみ)と、生徒にあたる離学衆(りがくしゅう)だけがこれを読むことができるテキストである。
 ふつうにいえば「離」というコースウェア・プログラムの教科書なのだが、世の中にあるどんな教科書を想像してもらったとしても、それらとはそうとうに違うものだと自負できる。どんなものなのか、いろいろ勝手な想像をしてもらっていいけれど、おそらくまったく見当はつかないだろう。
 内容が特異なだけではなく、テキストそのものが全篇にわたって有機的な空白性と編集的な充当性をもっているからだ。ぼくが書いたのに、すこぶる可変的なのだ。
 なぜ、このようなテキストを限定された諸君のために書いたかということを説明するには、イシス編集学校の「離」の狙いを少しだけ知ってもらわなければならない。

イシス編集学校は、基本コース「守」、応用コース「破」、松岡正剛直伝「離」、コーチングプログラム「ISIS花伝所」、専門コース「遊」など、様々なコースが用意されている。
(外部リンク:イシス編集学校) 

 「離」を受講することを「離学衆になる」という。離学衆になるにはまず4カ月間の入門コース「守」を卒門し、さらに応用コース「破」を突破して、それなりの応募資格を得なければならない。すでによく知られているように、「守」も「破」もネットラーニングするようになっている。「離」もそうなっているのだが、「守」「破」とはいろいろ異なる。
 離学衆になるには「守」と「破」を了えなければならない。ついで、然るべき申し込みをして、ある課題文を提出すると「離」の受講が認められる。離学衆になると2院に分かれ、そのどちらかの所属になる。2院は、たとえば「玄黒院」「悠窓院」「連條院」「放恋院」「観尋院」「構肖院」などというような名がついていて、各期、原則30人(1院15人)だけが“入院”を許される。
 院では、火元組の方師・別当・別番・右筆・半東・師範代・総匠らが指南にあたる。毎年、約12~15週間だけが開講時期だ。これまでの9年間で9期が実施され、18院が設けられ、都合約300人が“退院”してきた。

第八季「離」の退院式の様子
2013年9月21日には第九季の退院式が実施される。

 このような「離」において、文巻は開講日から数日ずつに分けてネット配信される。離学衆はこれを各自の端末上で読むのだが、その量が膨大であるだけでなく、文巻が配信されるたびに、のべつ問題や課題が出るので、これに次々に応じていかなければならない。
 文巻のテキストの随所に多種多様な“お題”型の指示がアンカリングされていて、離学衆たちはこれに従いつつ文巻を読まなければならないからだ。“お題”は約500種にのぼる。この“お題”のところがテキスト空白部であってテキスト充当部なのだ。
 “お題”はかなり予想外のものが多い。これまで“退院”した離学衆のほぼ全員がまったく予想がつかないものばかりだったと感想をのべている。

 このような「離」にはむろんプログラムの正式名称がついている。松岡正剛直伝「世界読書奥義伝」という。独特の多重多岐なプログラムによって世界読書(!)を通過してもらおうというものなのだ。
 このプログラム名で、今夜の千夜千冊がブルーメンベルクの世界読書と世界書物をめぐる『世界の読解可能性』を提示しようとしていることに、ちょっと合点がいったかもしれない。
 そうなのである、このプログラム名には「世界を読書すること」「世界読書についての本を読書すること」「世界を書物とみなして解読すること」「どんなことも世界の“読み方”とみなすように思考すること」「文巻を読むことが世界読書になること」といった意図がこめられている。
 ぼくは離学衆たちに、こんなふうな“世界読書”をしてもらうために文巻を書いたのだった。もっともぼくが文巻を書いたのはブルーメンベルクの本を読むずっと前のことだったが、それはそれ、本書を読んでみて、ここにはかなり重大な共通性があることを知った。

イシス編集学校 世界読書奥義伝「離」

 ぼくがブルーメンベルクのいう「世界の読解可能性」にあたるものを先取りできたことについては、いくつもの理由があるが、手短かにいえば、次のようなことだ。
 テキストを書くだけなら空海(750夜)やダンテ(913夜)のような、あるいはオックスフォードやハーバードふうの教科書を書けばいいのだが、まずもってはそうはしたくなかった。テキストを「読む」ということがどういうことなのかを、読んだあとではなく、読んでいる渦中で確認したり、調査したり、合点したり、飛躍したり、迷ったり、留まったり、抉(えぐ)ったりできるようにしたかった。
 また、リテラルな“読み”が、ときに触知的になったり、深い記憶の想起となったり、視覚連想の束になれるように、したかった。

 それには、文巻はテキストが多重多層多岐になっているだけでなく、そこを辿る者がテキストに入ったり出たりしながら、世界読書者としての内属性と外包性を自分なりに入れ替えできるようになっていなければならなかった。
 つまり文巻は多重なインターテキストであって、かつ外の世界書物と鍵と鍵穴のように組み合わさっていなければならなかったのである。外の世界書物とは、自然科学・社会科学・人文科学・芸術・芸能・社会現象などのすべてを含む。
 それゆえ文巻を読む者は、このように外部世界と連動するインターテキストの重層的展開にしたがって、世界はこのように織り成されたり、開示されたり、閉じたりするということを“実感”できるようになるわけである。

 もともとどんなテキストも「一文には多文が殺到している」というものだけれど、一般的な読者というもの、なかなかそのようには“実感”できない。そこで、文巻の各所にはあらかじめ何十冊・何百冊もの書物が隠れん坊のごとくインストールされていることを、明示あるいは暗示した。
 ぼくのテキストを順に読み進めさえすれば、そのインストールされていた参照書物群が文巻の途中から跳び出たり、手を伸ばさないと取れないようにしたわけである。それには主要な千夜千冊とハイパーリンクしておけば、隠れん坊たちが起動を待つキーブックとなって、さまざまな「知」が撥ねまわったり蹲(うずくま)ったりするだろう。そう、考えた。

 実際にも「離」には2院のラウンジとはべつに「離れ」という部屋が設けられていて、隠れん坊が遊びまわっている。
 そこでは、ぼくが文巻のパラグラフごとに提示する数冊~十数冊ずつの千夜千冊キーブックが、世界を読解するための参考図書群としてさまざまに解説されているのだ。これを「離」第1期以来担当してくれているのは、イシス編集学校の師範代だった太田眞千代である。
 かくて文巻を連続的に読むことは、そこにぶらさがる何百冊もの書物の世界読書と次々に立ち会うことにあたるというふうになった。その読み方を文巻にもとづいて方師や別当、別番・右筆・半東たちがナビゲートする。
 ちなみにこれまでの「離」で不動の役割を担ってきたのは太田眞千代と、方師の倉田慎一、総匠の太田香保である。その他の指導陣は少しずつ入れ替わってきた。現在の別当は明大教授の田母神顯二郎とカネカの塩田克博だ。第9期の別番には、横浜国大の応用化学者・迫村勝と筑波大のタンパク質研究者・白木賢太郎が当たってくれている。

「離」の指導陣
左上から、太田香保、太田眞千代、方師の倉田慎一、
別当の田母神顯二郎、塩田克博。

 こうして生まれたのが50万字の文巻だったのである。正確にいえば“プロトタイプとしてのインターテキスト”だ。
 なぜプロトタイプかというと、このテキストはつねに編集されつづけてい

るからだ。ぼくは文巻を書いたけれど、そしてそれは毎年ヴァージョンアップされるのだけれど、それはまた離学衆たちが毎期ごとに次々に書き込む余地をのこしたテキストなのでもある。すなわちこのテキストは「読解可能性」がいくらでも付加でき、相互編集をしつづけることができるテキストだったのだ。
 実際にも、これまですでに膨大な加筆・解説・実証・推理が文巻に加えられてきた。まだ数えたことはないけれど、おそらく9年間で5億字あるいは10億字を優に超えていることだろう。プロトタイプとしての文巻には、すでに夥しい子や孫や曾孫や従兄弟や親族がくっついているのだ。
 それでも、このテキストが大筋どんな中身なのかということは、まだ明かす気はない。やはりぼくに何かの不測の事情がおこるまでは、門外不出にしておきたい。あくまで、わが離学衆たちのためだけのものとしておきたい。
 どうしても中身を知りたいというのなら、まずは「守」と「破」を了えて「離」に来てもらうことだ。門戸はいつでも開いている。

 さて、お待たせした。今夜の千夜千冊である。
 いきなり本質的な紹介をするけれど、ハンス・ブルーメンベルクは20世紀後半のドイツの深遠な哲学者にして高度な神学者であって、類いまれな「メタファー学」(metaphorogie)の提唱者であった。たんにメタファーの効用を提唱したのではなく、メタフォリカル・アプローチでしか世界読書はできないと見た。そこには、「空白の中にとびこんで、理論的には満たされないもののタブラ・ラサに自らの輪郭を描く」という基本姿勢が貫かれていた。
 ブルーメンベルクが前提にしたことは、端的にいえば「世界は本である」ということ、「世界は読まれることを待っている書物の群である」ということだ。世界は書物をめざすようにできていて、書物は世界のようにできてきたものなのだ。
 そうだとしたら、世界を“書く”こととその世界を“読む”ことのあいだには、それなりのエクリチュールの自由領域があるはずで、それをメタフォリカルな時空が埋めているのである。そうであるのなら、世界を“読む”ことは世界を新たに“書く”ことでもあったわけである。

 このような世界読書あるいは世界書物についての見方は、ブルーメンベルクのいう「読解可能性」をきわめて高くて深い水準にしている。
 ただ、ブルーメンベルクはこの水準を比類のない読解力をもって一人で構築してしまった。
 ぼくは、そこを文巻によって「離」を受講した誰もが相互複合的に編集できるようにした。いいかえれば、ブルーメンベルクが一人で立ち向かった「タブラ・ラサ」を、世界が読まれることを待っている多くの書物の「文中」と、それを文巻に独自に並べなおした「文脈」というふうに捉えなおすことによって、離学衆それぞれにメタフォリカルな世界読書ができるように仕組んだのだ。

 このようなことがぼくに思い付けたのは、そもそも編集工学が「伏せて、開ける」を方法の根幹においてきたからだった。ブルーメンベルクのように世界読書をして、そこに読解可能性を感じられるようにすることは、もともと編集工学の根本的な方法であったのだ。
 ブルーメンベルクのほうは、そのような方法を「メタファー学」の組み立てから入っていった。この哲人がそのような構想と計画を実行に移したのは1978年からだったようだが、その20年ほど前に、ドイツ学術協会の会長ゲオルグ・ガダマーに勧められ、その研究部会で最初のメタファー学の概要を提示していたようだ。
 そのようにブルーメンベルクがなっていったのは、独自の編集的百科全書の構想をもっていたエーリッヒ・ロータッカーの考え方に刺激をうけたからだったらしい。とくに主著『人間と歴史』(1950)の影響だった。ロータッカーは「意義律」を唱え、読書というものには認知心理学でいうゲシュタルトに近い「意義の読み取り」が動いていると見抜いたのである。ロータッカーについては『人格の成層論』(法政大学出版局)を読まれるといい。
 ブルーメンベルクはこれにヒントを得て、世界読書がメタファー上に進むということに確信をもった。

 しかし、ブルーメンベルクが「意義律」をもってヨーロッパにおける世界読書に分け入ってみると(本書では東洋思想についてはまったく触れられていない)、そこには「その書物を神が書いたとみるのか、そうではない何者かによって書かれたとみるのか」という分岐点ばかりが何度も交差し、絡みながら錯綜していた。
 それは、端的にいうのなら、ヨーロッパの世界読書の歴史の多くは「聖書を読むか、アリストテレスに従うか」ということを執拗に考えてきた歴史だったということだ。ヨーロッパの主要な知性の歴史は、煎じつめればこの二つの書物のあいだを逡巡してきたということだ。
 こんな主題論理的な二分法だけで書物と世界の関係を固定するのは、ばかげたことである。書物が世界をあらわしているのなら、そして世界がたえず書物になってきたというのなら、その書物世界=世界書物にはいくらだって「読解可能性」の隙間があっていいはずなのだ。聖書とアリストテレス(291夜)はそのうちのひとつの読解系譜にすぎない。

15世紀にグーテンベルクによって、世界で初めて印刷された聖書。

 ならば、もっと広範囲にわたる世界読書における読解可能性とはどういうものであるべきなのか。ブルーメンベルクは、ここにメタフォリカル・リーディングの可能性を差し挟んでいったのだ。
 そもそも言葉というものは、言語や国語の共役力という下敷きの上にのっている。ソネットや和歌はオラリティとリテラシーを結ぶシラブルの上にのっている。グーテンベルク以降の活版本はそれ以前の音声言語の上にのっている。コンピュータの情報はOSという下敷きの上にのっている。
 ちょうどそのように、書物の世界には古代このかた「読解可能性」というOSがありつづけたはずなのである。“書物世界=世界書物”にとっては、パソコンのメタファーがデスクトップ・メタファーであるように、読解可能性という世界メタファーが作動しつづけていたはずなのだ。

 こうしてブルーメンベルクはメタフォリカル・リーディングあるいはメタフォリカル・シンキングには、3つの様態や方法があると見ることになる。
 第1には、発言や文意の装飾あるいは暗示のためのメタファーの駆動だ。これは古代ギリシアが「アナロギア・ミメーシス・パロディア」と呼んだものや、古代ローマのキケロの時代に確立されたレトリック(修辞感覚)に近いものである。一般的には「比喩的な解釈と表現」というものにあたる。しかし、たんに比喩的に世界や世間や現象や心理を解釈するというだけでは、へたをすると「わかりやすさ」のほうへ理性や感性を押し込めることになる。

 第2には、概念(カテゴリー)を形成する手前でおこる「言語の先取り」として、あえて不正確な思考を進めていくときのメタファーの駆動である。このメタファー作用はたいへん重要なもので、とくに芸術や芸能では最大の効果をもたらすものではあるのだが、またときには科学上のヒューリスティックスにおいても効果を発揮することも少なくないのだが、ひとつ、欠陥がある。
 それは、このような独自な「言語の先取り」はやがて研究や学問によってほとんど新たな定義規定を与えられてしまうため、当初の「先取り」の意図が忘れられてしまうということだ。「でたらめさかげん」が熱力学によって「エントロピー」という定義規定になってしまうと、当初の「ぐちゃぐちゃ」感が希薄になってしまうのだ。
 日本文化を支えてきた「見立て」は、こうした概念規制を巧みに免れてきた。 

 第3のメタファー作用は、ブルーメンベルクが本書で最も重視した読解可能性に向かっている。こう説明している。
 「これは絶対的なメタファーとでもいうべきもので、その発言に含まれる独自の意味は既存の概念性によっては解くことができず、論理性に連れ戻すことができない本来的なものに向かっていくものである」。
 ブルーメンベルクは、これこそが「答えることができないかもしれない問いへの答え」として、世界の読解可能性をつないでいくものだろうとみなしたのである。まさに文巻が狙ったものだった。ただし、ぼくはこれが「絶対的なメタファー」だとは思わない。

 ブルーメンベルクの世界書物と世界読書をめぐる読解可能性は、初々しいものではない。歴史上、これまでも何度か指摘されかかってきたものに近似する。プラトン(799夜)もプロティノスも、ダンテ(913夜)もハイネ(268夜)も、うすうす感じてきたものだった。
 20世紀以降にも、読解可能性に近いものを探求しようとした連中はいた。たとえば、ヴァルター・ベンヤミン(908夜)の「伝達の不可能性を超えていくパッサージュ」、スーザン・ソンタグ(695夜)の言う「ときに沈黙や逸脱がもたらす反解釈性による通達感」、ロラン・バルト(714夜)の「言語の前記号的状態がもたらす解釈力」、ジュリア・クリステヴァ(1028夜)の「異なるテキストにまたがるインターテクスチュアリティの相互性」、ジャック・デリダの「非場所をや非知識が様態によって変化していくだろうときの脱構築性」などなどだ。

インターテクストの代表例であるジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』。完全版は1922年にパリで発売された。

 これらはすべて、ぼくが編集工学的思考性として親近感をもってきたものだった。そうではあるけれど、ぼくはこれらを卓抜して、やっぱりブルーメンベルクこそが決定打を放ったと思っている。

 世界をどのように読むかという世界読書法には、そもそも相互編集性が必要だった。このことを暗示してきた文章や文意をもつテキストも、古代からさまざまな才能によって試みられてきた。
 たとえば、アウグスティヌス(733夜)はギリシア語の写本とラテン語訳の聖書とが一致している箇所に「各人にとって」という語句を加えていた。トマス・アクィナスはメタファーの行く先を「神の国」にとりあえずぶちこんでおくことにした。ジャン・ジャック・ルソー(663夜)は『告白』の冒頭で「書く神」に対して「分かる社会」が対応できることを挙げ、そこに一般意志というOSめいたものを想定した。
 また、複数の地球を想定したジョルダーノ・ブルーノや複数の異神を想定したバールーフ・スピノザ(842夜)は、書物が一文字ずつが読まれるのではなく、その世界観が位相をもって観相的にとびとびに読解されことに気がついていたし、フランシス・ベーコンにおいては、世界はそれが表出された当初から「二つ以上の書物」の平行処理によって語られてきたと考えられていた。
 こうした相互編集的世界読書法を最も象徴的にまとめようとしたのは、何といってもウィルヘルム・ライプニッツ(994夜)の「アルス・コンビナトリア」という方法だった。

ライプニッツが著した『アルス・コンビナトリア』

 他方、神秘主義者たちが、未知な想像性と既知の文章や論理をもっとメタフォリカルに(アレゴリカルに)重ね合わそうとしたことも、よく知られていよう。そこでは論証よりもはるかに“暗合”が特筆されたのだ。
 しかし本書においてブルーメンベルクが多くのページをさいてそのメタフォリカルな読解可能性を駆使しただろうとみなしたのは、時代順いえば、まずはノヴァーリス(132夜)やシュレーゲル兄弟に代表されるロマン主義者たちと、その総合化としてのゲーテ(970夜)であり、ついではアレクサンダー・フォン・フンボルトやエドガー・ポオ(972夜)による万物照応力であって、そしてポール・ヴァレリー(12夜)とステファヌ・マラルメ(966夜)が見せた“書物=世界”の知的方程式だったのである。
 まさにその通りだと思う。ブルーメンベルクの指摘する通りだが、ま、このへんのことは千夜千冊にもさんざん案内してきたことなので、とくに説明することもないだろう。

 それにしても、よくぞブルーメンベルクは本書を書き上げたものである。
 とくにそのことが顕著なのは、最後のページ近くになって、シュレディンガー(1043夜)の生命科学観が正解を求めるのではなく、あえて読解可能性の“周辺連打”に徹していたことに言及していること、ゲノムの解析がこれまでの文化学を超える共同読解可能性にならないかぎりは生命科学の可能性が社会的に挫折するだろうと述べていることである。
 こんなこと、これまで語れる“知学者”はいなかった。多くの研究者は「知」そのもののコンテンツの検証性に向かいすぎてしまうからだ。
 ブルーメンベルクはそんなことよりも、つねに「方法による相似性」に関心を向けたのだ。その相似性が世界に読解可能性をもたらしていると喝破したのだった。

 こんなところで今夜のぼくの意図が伝わっただろうか。「離」のしくみの一端をばらす気になった意図が伝わっただろうか。
 もっとブルーメンベルクの知的総合力をサービス案内してもよかったが、それは諸君が直接に当たるか、もしくは「離」に入ってきてからのことにしたいと思う。
 それでもブルーメンベルクに急いで迷いこみたいという世界読書派がいるのなら、神話派の諸君は大著『神話の変奏』(法政大学出版局)を、歴史派の諸君はさらなる大著『近代の正統性』全3冊(法政大学出版局)を、読むというよりむしろハイパーゲシュタルト的にスキップすることをお勧めする。きっと目が眩むような読書となるだろう。
 しかしあえて言うのだが、ブルーメンベルクはやっぱり『世界の読解可能性』の一册にその方法の魂の大半を注ぎこんだのである。離学衆の諸君なら、深く頷いてくれることだろう。

 

⊕ 世界の読解可能性 ⊕

∃ 著者:ハンス・ブルーメンベルク
∃ 訳者:山本尤/伊藤秀一
∃ 発行所:財団法人 法政大学出版局
∃ 製版・印刷:三和印刷/鈴木製本所
⊂ 2005年11月30日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 本書について
∈∈ 経験可能な全体のためのメタファー
∈∈ 書物世界と世界書物
∈∈ 書物としての天上、天上の書物
∈∈ 字母の比喩
∈∈ 啓示の書物と自然という書物、後者の台頭と遅滞
∈∈ 世界という書物の読者としての文盲の俗人
∈∈ 神の二つの書物は一致する
∈∈ 読解可能性の不均衡
∈∈ 人間世界の暗号化と解読
∈∈ 世界の年代記、あるいは世界の公式
∈∈ ロビンソン世界対ニュートン世界
∈∈ 十九世紀への接近における諸傾向
∈∈ ハンブルクの自然という書物と
   ケーニヒスベルクでのその反映
∈∈ 額のしるし、天上のしるし
∈∈ 「どのようにして自然という書物が
   私にとって読解可能になるのか・・・」
∈∈ 「世界はロマン化されなければならない」
∈∈ 絶対的書物の理念
∈∈ 自然という書物のような自然についての書物
∈∈ 空虚な世界書物
∈∈ 夢解釈の準備
∈∈ 夢を読解可能にする
∈∈ 遺伝子コードとその読者
∈ 訳者あとがき
∈ 原注
∈ 人名索引

⊗ 著者略歴 ⊗

ハンス・ブルーメンベルク(Hans Blumenberg)
1920年ドイツのリューベックに生まれる(母はユダヤ人)。パダボルンとフランクフルトで哲学と神学を学ぶ。1950年キール大学で教授資格を取得。60年ギーセン大学正教授、この頃ロータッカーの推薦でマインツのアカデミー会員となり、独自の〈メタファー学〉の構想を発表、63年〈詩学と解釈学〉の設立メンバー、65年ボッフム大学に移り、70年から85年に退官するまでミュンスター大学教授を務めた。クーノ・フィッシャー賞やドイツ言語文芸アカデミーのジークムント・フロイト賞を受賞。96年死去。『近代の正統性・全三冊』『コペルニクス的宇宙の生成』(以上は法政大学出版局)、『難破船』(哲学書房)、『真理のメタファーとしての光』(朝日出版社)などが邦訳されている。

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