才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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デザインの小さな哲学

ヴィレム・フルッサー

鹿島出版会 2009

Vilém Flusser
Vom Stand der Dinge 1993
[訳]瀧本雅志
編集:川尻大介
装幀:伊藤滋章

デザインの語源は「計画する」だ。
それは先行する「しるし」を生かして、
その周辺を前方に脱出することだった。
つまりデザイン(構成化・意匠化)とは
「脱しるし化プロジェクト」のことなのだ。
いま、そのようにデザインを
前方にプロジェクトしているデザイナーが、
どこに、どれくらい、いるだろうか。
ヴィレム・フルッサーと松岡正剛が、そこを問う。

 昭和の半ばまでは図案だった。これでは建築デザインやファッションやインテリアは入らない。工芸も工業デザインも図案とは言いがたい。これらをみんな含む日本語はおそらく意匠や工匠だろうけれど、こちらはどちらかというと装飾をほどこすという意味だ。デザインにあたる日本語には、ぴったりしたものがない。
 デザインがどういうものであるかということは、「デザイン」という呼称の由来にヒントがつまっている。デザイン(design)という言葉は、ラテン語のデシグナーレ(designare)から派生していた。「表示する」「指示する」「計画したことを記号にあらわす」といった意味をもつ。デザインは指示や計画に始まるのだ。またこの言葉はその綴りの中に「しるし」(signum)を含んでいる。サイン、シーニュ、記号、図標を含んでいる。が、早合点をしてはいけない。
 多くが勘違いしているようだが、「しるす」ことがデザインなのではない。そうではなくて、de-signareは語源的には「脱・しるし化する」ということなのである。「しるし」によって何かから脱却していくということだ。この「脱・しるし」に「デザインする」の最も母なるところがあらわれる。
 ラテン語のdesignareで「指示」や「計画」とみなされているものは、けっこう多義にわたる。予定的な計画、意図、狙い、プランニング、陰謀、形にしようとする作業、基本的な構成をする、などなどを含む。そのためこの言葉を動詞的につかうと、つまり
「デザインする」というふうにつかうと、下絵を描くとか、何かを考え出すとか、装うとか、スケッチする、策略や詐術を用いる、戦略的に処置するといったニュアンスになる。下絵を描くことと作戦を練ることは、まったくの同義だったのだ。

 デザインにはもともとトリック的な策略や詐術を肯定するものが動いていた。ピラミッドや観音菩薩像やトロイの木馬をつくりだして、これによって見る者を視覚作戦的に驚かせること、それがデザインだった。孫子も空海も運慶も、ヘロンもミケランジェロもポンパドール夫人もデザイナーなのである。
 デザインが策略や詐術にかかわっているなんてひどすぎると感じたり、そんなことは納得がいかないという意見も多いことだろう。気持ちはわかる。気持ちはわかるが、それでは狭すぎる。そのような意見には数学や科学や戦争や機械が入っていないだろうし、「意図」や「意表」が軽視されている。
 ピタゴラスが直角三角形の定理を見いだしてこのかた、インド数学が「ゼロ」を導入して以来、数学は自然についての理解の計画を数学記号におきかえるということをしてきた。これはエディティング=デザインとしての数学的なレトリックであって、トリックである。他方また、赤い皮をつけた甘い果実を「リンゴ」と名付け、それを人類がヘビに唆されて食べ、ニュートンがリンゴを月に見たてて万有引力を発見し、そのリンゴのイメージをニューヨーク市やアップル社のシンボルにしていることも、すべて「意味の作用」のヴァリアントであってデザイン・トリックなのである。
 かつてデザインが魔術や呪術であったことを、いまなおそうでありつづけていることを軽視してはならず、曲解してもいけない。文明と文化の歴史はかつてもいまもポイエーシス(制作)の歴史だ。このことはDNAからスマートフォンに至るまで、神仏のイコンからゴジラや初音ミクに至るまで、ことごとくあてはまる。それらはずっと「脱・しるし」のための表象的な歴史だった。
 万事も万端も「意味の制作」の歴史なのである。こういう事情は、自然の脅威に神々の名と肖像を付与したときから始まっていた。世界中の民族が文字という絵柄と字柄を手にしたときから始まっていた。「意味の制作」と「意表の提示」は、人間が自然にかかわって、そこに「ルル三条」(ルール・ロール・ツール)を打ち立てるために必要な本来的な策略であり、工夫に満ちたエディティング=デザインであり、文明文化のコミュニケーションのための創造的行為だったのである。

分節とは何かを追究し続けたパウル・クレー
『造形思考』より「宇宙のリズム」のスケッチ。

 構成化と意匠化を志してきたデザインには、いくつもの歴史的なルーツがあった。だからこそそれが建築にも家具にも、鉄道車両にもファッションにも、工業製品にも広告デザインにも、ショップやパッケージにもなってきた。
 そのルーツも多岐にわたる。生命体がもつ形態や色彩に発するものはおおむねデザインの起源だし、山川草木や水の流れにヒントをもらった意匠や意表は数知れない。アルタミラの洞窟や幾何学に発する輪郭の獲得のプロセスも、道具や機械の機能の力のモデルをあらわす模型たちも、脳の認知運動や身体の動作との関係から生ずる動的プロフィール性も、基本モジュールが組み合わさってデザイン的到達をめざしてきた。われわれが毎日寝起きしている部屋だって、もとはといえば墳墓や家屋や家具の間仕切り感覚がもたらした到達点のひとつなのだ。シャネルやプラダやルイ・ヴィトンの旗艦店がことごとく半透明めくショップビルになっているのだって、もとはといえば擬似生命多様体からの借り物だ。

1879年に発見されたアルタミラの洞窟壁画(MatthiasKabel,CC BY 2.5)

 けれどもこれらにルーツをもつデザインも、20世紀がたそがれるにしたがってさまざまな変遷を被らざるをえなくなり、しだいに変貌をとげた。
 それでどうなったかというと、昨今のデザインは、(1)生産と売行きの曲線のなかで問われ、(2)各種のメディアとの相克のなかで期待され、(3)獰猛なマーケティング理論の跳梁のなかで追われ、(4)アートとポピュリズムの接近と葛藤とのあいだで恰好をつけ、さらには(5)クリエイターぶるデザイナーの自意識のなかで紆余曲折をくりかえしながらさまよってきた。
 かくしていまや、多くのデザインは商品に接する消費者の欲情を触発することにめっぽう熱心になってしまった。それなのに時代社会はソーシャル・ネットワークの網目に覆われてきてしまったので、消費者の欲情すら複雑な物語回路を通過しながらしか意思決定できなくなって、ついにはアクセスランキングによるリコメンデーションに頼らないと購買衝動すらおこらなくなっている。大枚かけた広告デザインの美と説得力などには目もくれなくなったのである。
 けれども、ここで迷ってはいけない。どんなデザインにも、そのデザインをデザインたらしめてきた母型たちが関与したはずなのである。この母型はデザインの歴史のなかで何度も出入りをくりかえし、その時代社会ごとの表現者のイメージングにかかわってきたはずだった。

 母型というのは、デザインの起源にひそむマザータイプあるいはマザーコードというものだ。デザインを生み出してきた「母なるものたち」である。歴史・民族・社会・衣食住・心理などの奥にうごめくデザイン原郷のようなものだ。
 どんなデザインにも、このデザイン原郷としてのデザインマザーともいうべきものがあった。海、樹木、太陽、顔、家、机、椅子、ベッド、食器、紐、みのり、果実、花、流れ……。これらはどんなデザイナーたちもどこかで自分のデザインワークに借りてきたデザイン母型というものだ。土偶、古代文字、土器文様、埴輪にも、どんな民族のテキスタイルにも、それらは刻印されている。
 デザインは、このようなデザインマザーにひそむタイプやコードをもとに、そこからスタイルやモードを誕生させていった。コードをモードに変えていった。「しるし」の束を「脱・しるし」の様式にしていった。そんなことはデザインと文様の歴史を見れば如実にあきらかだ。問題は、この母型が何をもたらしてきたかということである。そこを読み違えていくと、いつしかデザインは消費者の欲情すら刺激できないものになっていく。

日本の形代(かたしろ)である埴輪と土偶。(Public Domain)

 母型にもとづいて、そこに何らかの意匠を与えていくイメージングやデザイニングの方法は、一方では太陽や波や顔の形象を保存するように母型のマザーコードをそのまま継承するのだが、他方では母型を骨法だけのこしながら、きわめてマジカルで、かつまたトリッキーな造形に転じた。花の形態や色付け、魚類の大胆なフォーム、昆虫の擬態、神々に異形が多いこと、結びの意匠……。母型を生かしたデザインはすこぶるトリッキーで、そこそこマジカルにならざるをえなかった。なぜそうなのか。「目立つ」必要があったからである。あるいは「隠す」必要があったからだった。

 ふりかえって、生物の世界にはその特質があらわれるにあたって、2つの継承と発現の方法があった。遺伝型と表現型である。ジェノタイプとフェノタイプという。
 遺伝子が組み上げる遺伝型のプロセッシングに対して、表現型は環境や他生物との相互作用がつくる特徴の決定的な表出になる。遺伝型が失われるのではない。ゲノムコードの継承はそのままに、そのうえで表現型が生物の“見た目”のモードをエピジェネティックに特徴づけていく。ニッチをめざしていく。エピジェネティックというのは「後成的に」という意味だ。自然界や生物界では、このエピジェネティックな表現型において形態決定の最大のもくろみが発揮されてきた。
 ほぼ同様のことが、母型から「脱・しるし」をおこしていったデザインの歴史においてもおこってきた。いくらでも例がある。
 古代ギリシア様式はいったんヘレニックな転換をうけて古代ローマ様式がまざったあとにグレコローマン・モードになっていったわけだし、インド発祥の仏教がシルクロードを進んで敦煌あたりに達したときに浄土教モードが発現したのもそうだった。キリスト教がアフリカに届いたときに開花したコプト・モード、真名(漢字)から仮名が生じたのちの左右非対称の和風表現モード、ジンギスカン型イスラムが16世紀にアクバル大帝を得て発現させた突然のムガール様式、ヴェネツィアやジェノヴァの遠洋貿易がアントワープをへてロンドンに転換されたときの市場カンパニー様式、光の粒子説の再沸騰による点描法や印象派の勃興、ロシア革命の噂がなだれこんで以来の日本のアナーキーな浪漫主義様式……。
 このような例は、それこそ何度も何度も品を替え形を変えてあらわれたことだった。それは何かを目立たせ、何かを隠してきた様式の歴史だった。

グレコローマン・モードの一つであるドリス式のゼウス神殿
紀元前5世紀、アテネに建立した。(A.Savin,CC BY-SA 3.0)

 フランスとブラジルを背景にしながら、主としてドイツ語で思考するヴィレム・フルッサーの著書については、そのちょっと風変わりな思想風土も興味深く、「情報」や「コード」の扱い方にもたんなるコミュニケーション屋ではない視点もあったので、20年ほど前からときどき目を通してきた。
 翻訳されている主著はドイツ法学に強い村上淳一による『サブジェクトからプロジェクトへ』『テクノコードの誕生』(東京大学出版会)、意外な視点からの『写真哲学のために』(勁草書房)、および本書『デザインの小さな哲学』である。
 フルッサーは、プロジェクトを「知性が状況を変えるためにそこへ投じる網」というふうにみなした。網とは知的ネットワークのことをさす。プロジェクトというのは、知的ネットワークを投げ網ふうに投じておいて、その糸の結び目ごとに、計画を前に(pro-)進めていくことをいう。プロ・ジェクトする。そうすることが、紙の上で静止的になりがちなサブジェクトを次々に動的なプロジェクトに変えていく。そういう見方だ。フルッサーは、世の中の「計画」がサブジェクトで埋められすぎて身動きできなくなり、その後にデザインの場面が後発的に登場していることに懸念を表明したのだった。
 こういう見方は特別に新しいものではない。グランドデザインへの当初からの参画を強調しているにすぎないし、あるいは「世界・内・存在」のありかたを考究したハイデガーが重視したドイツ語の「投企」を、一般英米語の「プロジェクト」に発展させたにすぎないともいえる。それにあたってサブジェクトを「主題」から「従属者」に読み替えたにすぎないともいえる。
 そうではあるのだが、このようにプロジェクトをとらえることが「デザインする」ことだと頑強に言い張ってきたのは、そこそこ頼もしい。『サブジェクトからプロジェクトへ』では、「都市をデザインする」「身体をデザインする」「技術をデザインする」というふうに、都市・家・家庭・身体・性・子供・技術・労働という8つの領域をプロジェクトすることを、すべて「デザインする」とみなしていた。性も労働もデザインなのだ。フルッサーは、プロジェクトにおける仕事上のコミュニケーションの成立は、何らかのデザインフレームがネットワーク状の網目を通過するときに、やっと本物になると言っているわけなのである。

 フルッサーはカフカ同様プラハのユダヤ人の家に育ち、カレル大学で哲学を専攻していたのだが、1939年3月、チェコスロバキアがナチスによって解体されたため、最初はロンドンに逃れ、その後はブラジルに亡命した。親族のほとんどはユダヤ人収容所で死んだ。
 サンパウロ大学で写真・アート・メディアをめぐるジャーナル活動と教授活動をしながら、フルッサーは表現の歴史のなかで「世界」がどのように表示されていたのか、考えた。「世界」が文字や言語やテクストによって多くをあらわしてきたことは言うまでもないが、絵柄や服装やアクセサリーやコンポジションなどにも「世界」はあらわれてきた。とくにカメラ・オブスクラや写真が誕生してからは、のちのニュース写真がそうであるように、画像が「世界」を表示するようになった。新聞や雑誌の出現によって、メディアも「世界」をあらわすようになった。
 写真や雑誌のメディア、その後の映画やテレビなどのメディアには技術が組みこまれている。フルッサーは、これらには従来にない「テクノコード」や「テクノ画像」が動いていると見た。また「テクノ・イマジネーション」が動いていると見た。世界のあらわしかたを議論するには、このようなメディアに乗った画像たちの力についても考えなければならない。母型は文字や言葉のテクストによっても進捗していったのだが、画像やメディアによっても変化していったのである。
 それだけではない。フルッサーはテクノ画像は言語テキストに影響を与えてきたのではないかと考えた。テクノ画像は言語テキストが確立しようとしてきたサブジェクトを、新たなプロジェクトにしていく作用になったはずなのだ。

 フルッサーはこうした見方を何冊かの本に著していったのだが、あまり話題にならない。亡命後、数十年ぶりに戻ったヨーロッパでも、話題にならない。画像哲学など、哲学の領域ではわかりにくく、デザインや写真の領域では難しすぎたのだ。
 1989年、東西冷戦が終結し、ベルリンの壁が取っ払われることになった。2つのドイツが歩みより、プラハにも「春」が来た。1991年11月、やっと故郷のプラハに戻ったフルッサーは不慮の自動車事故で亡くなった。
 それからのことだった。まるで記憶時計のゼンマイが逆転するかのように、フルッサーのドイツ語著作群が読まれはじめ、一躍、注目を浴びるようになったのである。知識人たちも議論するようになった。
 フルッサーが読まれるようになったことと、ベルリンの壁が崩壊したことがほぼ同時であったということは、何かの大事な符牒を感じさせる。フルッサーは人間が洞窟に絵を描いたり、ある光景を写真に撮ったりすることは、そこで画像が「異境化」され、魔術的な力をもつことだとみなしていた。その画像のそれぞれが「世界」と対向しうるものになったとみなしたのだ。いいかえれば、世界の母型が画像によって解読可能になるのである。このことがベルリンの壁の崩壊という「異境化」によって、きっと多くの知識人の目をフルッサーの解読に向かわせたのではないか。ぼくはそんな感想をもったものである。

 ぼくの仕事は編集である。エディティングである。そこにはフレーズやテキストが渦巻くが、それとともにデザインも写真も図像も躍如する。そこではエディターにとってもデザイナーにとっても、文明文化の母型は一緒である。エディティングワークが古代ギリシアこのかた「アナロギア(類推)、ミメーシス(模倣)、パロディア(諧謔)」を主要な技法としてきたことは、すっかりデザインワークにもあてはまる。
 とはいえ、やがてエディティングワークはその母型のなかに独自に内包していた言語性を全面的なエンジンとするようになり、もっぱらリテラルな構成と表現を担当した。一方のデザインワークのほうはヴィジュアルな構成と表現に向かうようになった。これは編集とデザインが同じ母型をルーツとしながらも、その表現型においてはそれぞれ独特の構成表出力をもっていったということだ。
 このとき、編集は歌や物語というモードとそのための韻や反対語や比喩などのレトリックを発揚し、デザインはその技法に輪郭検出、明暗描法、トロンプ・ルイユ、遠近法などのトリックを用いるようになったのである。編集もデザインも、母型をそのまま後代で援用するのではなく、そこにリテラル・レトリックやヴィジュアル・トリックをくっつけることに、すこぶる長けていったのだ。「もどき」の活躍である。それはどちらもきわめてマジカルな方法の発現だった。こうして、神話・説話・文学が言葉による呪能を発揮したように、デザインもはなはだ呪能的になっていったのである。
 それにしても、多くのデザイナーは、自分がしていることが感覚や直観のおかげだなどと思っているのだろうか。デザインは個人のセンスを磨けば事足りるものだ、それなりのアピール力が増すものだと思っているのだろうか。そうだとしたら、ずいぶんおめでたい。仮にそういうところがあったとしても、すぐれたデザインは昔も今も文明と文化にかかわる魔術や呪術の発揚だと思うべきなのだ。
 すでにメキシコのとびぬけた遊学詩人オクタヴィオ・パスが断言していた。「インスピレーションとは歴史的物語の起爆をうながす一撃のことであり、民族や歴史や社会の記憶にもとづかない表現なんてありっこないものなのだ」というふうに。どんな思いつきであれ、そのエディティング=デザインはその時代ごとのテクノコードにもとづいていたのである。

 

⊕デザインの小さな哲学⊕

∃ 著者:ヴィレム・フルッサー
∃ 訳者:瀧本雅志
∃ 装幀:伊藤滋章
∃ 編集:川尻大介
∃ 発行者:鹿島光一
∃ 発行所:鹿島出版会
∃ 印刷・製本:荘光舎印刷
⊂ 2009年12月25日 第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ 1.基礎から
∈∈ デザインという言葉について
∈∈ デザイナーの眼差し
∈∈ 形と定式について
∈∈ 神学としてのデザイン
∈∈ インダストリアルデザインにおける倫理
∈ 2.物のありようへ
∈∈ 戦争と物のありよう
∈∈ デザイン:障害の除去のための障害
∈∈ 傘とテント
∈∈ 梃子は反撃する
∈∈ いったいなぜタイプライターはカタカタいうのか?
∈ 3.形成されたものと建設されたもの
∈∈ 潜水艦
∈∈ 製作の場
∈∈ 裸の壁
∈∈ エメンタルーズのように穴だらけになって
∈∈ ヴィトゲンシュタインの建築
∈∈ ブラジリア
∈∈ 都市計画
∈ 4.地平の彼方へ
∈∈ シャーマンと仮面の踊り手
∈∈ 形相と資料
∈ 5.物ならぬモノ
∈∈ 物ならぬモノI
∈∈ 物ならぬモノII
∈ 訳者あとがき

⊗ 著者略歴 ⊗

ヴィレム・フルッサー
哲学者。1920年チェコスロバキア生まれ。ユダヤ人の家庭に生まれ、ナチスの迫害を逃れ、1940年にブラジルに亡命。写真をはじめとするメディアに関する哲学を展開した。講演のため亡命後にはじめてプラハを訪問した帰途、自動車事故により1991年没。

⊗ 訳者略歴 ⊗

瀧本雅志(たきもと まさし)
岡山県立大学デザイン学部准教授。表象文化論、哲学。1963年生まれ。京都大学文学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学博士後期課程修了。