吉田一穂
吉田一穂大系|全3巻
仮面社 1970

 吉田一穂は、熱情といふものは砂すら燃やすものだ、と一人で呟いた。「砂」という文章の劈頭におかれた一文である。自我系の暗礁めぐる銀河の魚。コペルニカス以前の泥の擴がり‥‥睡眠の内側で泥炭層が燃え始める、とも謳った。「泥」という詩の冒頭である。垂直の声、無の対立、意識の天体が好きな詩人だった。ふる郷は波に打たるる月夜かな。こういう俳諧も詠んだ。
 こんな詩人はもういない。加藤郁乎は「北原白秋ですね、次が西脇順三郎で、そして吉田一穂ですよ。日本の詩人はこの三人ですべてです」と言った。この評定は、西の知と東の無をひとしく重ねられた詩人としての本質を穿っている。郁乎さんらしい評定だ。たしかあと二人加えると、そうですねえ、滝口修造と飯島耕一でしょうかねえとも言っていたように記憶する。郁乎さんの好みと他の詩人のことはともかく、一穂はたしかに西としては幾何精神の詩人であり、同時に東としては半眼微笑の詩人だったのである。

 ぼくはぼくで、早くから「ブラキストン線の向こう側の詩人」というふうに『遊学』で名付けていた。北海道上磯に網元の子に生まれ、札幌北海中学で読書に耽っていた詩人だったからである。ブラキストン線とは津軽海峡の地質学的別名のことをいう。西と東を重ねたというより、北にいて東西南北を引き寄せた詩人なのである。
 こんなエピソードがあった。北海中学で友人を殴った不良を代わりに殴ったあと、13歳の一穂がどうしたかといえば、積丹(しゃこたん)半島の鰊場(にしんば)で漁師と暮らしていたのである。
 いや、この小さなエピソードを膨らませようというのではないのだが、こんなふうに一穂のように何かがあればさっさと北方の座標に座りこんでしまうような詩人はいなかった、そのことを言いたかったのである。しかも、このことをこそもっと強調したいのだが、その北方性は、一穂の詩語そのものの究極成分でもあったのだ。

  月しづむ境(はて)に眠らん。
  深夜の朱金、商ふあり。
  虚しきと抗ふ、わが渇き。
  太古を降(くだ)る砂鉄の滸(ほとり)。

 これは『暗星系』のなかの「天隕」という作品である。月が沈む境涯を凝視して、そこに深夜の朱金を思う。それが存在の渇きのごとく高じて、そこから自分の精神が太古をくだる砂鉄の滸(ほとり)に向かうというのだ。
 なんという詩語であろうか。いやもっとわかりやすくは、暗星系といい、天隕といい、こんな凍てついた言葉の一つや二つですら、吉田一穂にしかない吐けなかったものだった。文章も、そうである。こんなふうに、書く。「道元は坐れといふ。人間的連続の切断に於ける表現停止である。それは絶対の場を示唆する。不立文字の無位の相として、混沌に背骨をまつすぐたてることは、一つの天体たることである。人は社会的に憑れかかつて、歴史必然に流されてゆく。生とは強引にふりむいた時の意識である」。
 これは『古代緑地』のなかの「あらののゆめ」の一節だ。道元禅師を語っているのに、その奥から一穂の手が星座を動かしている。その動かしている座標の中心はゼロではない。座標の中心がすでにして極北なのである。いわば、偏極することが座標の正位置なのだ。そこから道元をひょいとつかまえる。とんでもない方法だ。
 このように一瞬にして「系」というものを動かしてみせる一穂の幾何学神楽のような詩には、独自の詩語が分布されている。こういう詩語に、ぼくは後にも先にもいまだお目にかかったことがない。

『暗星系』のなかの「鴉を飼ふツァラトストラ」の1節

『暗星系』のなかの「鴉を飼ふツァラトストラ」の1節
縦横無尽なセイゴオマーキング

 思い出してみると、ぼくが吉田一穂の詩を最初に集中して読み耽ったのは27歳の春だった。仮面社の西岡武良君が加納光於装幀の函入り『吉田一穂大系』全3巻を刊行した直後のこと、まだ印圧の籠もる詩語たちを、貪るように、呑みこむように、眼光に射られるように、読んだ。そのときの一穂の詩語たちは、いまもってぼくの脳裡から聖刻文字のごとくに消え去らない。
 のちのちのことだが、実は一穂に関するある作業をしたことがあった。田中泯に頼まれて、白州アートフェスティバルの土舞台で上演するための舞踏台本『古代緑地』を創作したのだ。舞踏台本ではあったが、ぼくは複数のダンサーたちに言葉を与えた。一穂の言葉を、である。このとき、あたかも鋲打ちをするかのように久々に『吉田一穂大系』のなかの言葉の数々を精査することになったのだが、そんな"言葉の大工仕事"をしているときも、27歳の春に読んだときの詩語が脳裡からまだ消えてはいないことを知ったのだ。
 それほど一穂の詩語は聖刻的なのである。たとえば、たとえばであるけれど、『未来者』では、こんなふうだった。

  これは神と我れとの對話である。
  竟(つひ)に彼は答へず、我れの獨白に了(をは)る。
  詩は垂直の声であり、絶對者の言葉である。
  それは紙や石に書くが如きものではなく、
  ユークリッド星座とも謂ふべき、言語に據る一體系としての、
  獨立な次元、まさしく人間現極に於ける自然荘厳の、
  ディオニソス全圓でなければならない。

 これは詩というよりも詩語そのものの座標分布である。未来者、神、我れ、獨白、垂直の声、絶對者、ユークリッド星座、一體系、獨立な次元、人間現極、自然荘厳、ディオニソス全圓‥‥。
 ここに冒頭からあげてきたいくつかの詩語たちをさらに加えてみるとよい。熱情、自我系、暗礁、銀河の魚、コペルニカス以前の泥の擴がり、睡眠の内側、泥炭層が燃え始める、垂直の声、無の対立、意識の天体、波に打たるる月夜、月しづむ境、深夜の朱金、太古を降る、砂鉄の滸、暗星系、天隕、人間的連続の切断、表現停止、絶対の場、一つの天体、時の意識‥‥。
 これで歴然とするだろうように、一穂の詩語はすべからく「全きポーラリゼーション」をおこしている概念群なのである。座標に突き刺さる名辞なのである。それらは絶対意思を秘めたままに天空の各点に氷結しているかのようなのだ。

 ポーラリゼーションとは、地球が北極や南極のような極性をもつことをいう。一穂は北海道という自身の生まれ立つ原郷を偏愛して、その地質学的叙情に多くの想像力をめぐらし、その原郷がもつ無窮の時空に多くの思索を費やした。そして、かつて地軸が30度傾いていたころ、地球は現在とはまったく異なる相貌をもっているはずであることを確信して、そこに「古代緑地」や「黒潮回帰」という壮大な詩的構想を得た。白鳥伝説にも心をくだいた。
 それを一穂自身は「現極論による詩の原理」とか「偏極的方法」などとよんでいた。傑作『古代緑地』には次のようにある。「地球を太古へと三〇度傾けた極の心軸に描かれる緯度の位相差は、現亜寒帯の凍土や氷雪の地蔽を透して、旧温帯の燦たる緑地を現像する」。
 吉田一穂とは、このように、存在自身を現極者としたかったポラリゼーションそのものの詩人なのである。吉田一穂の詩語は、地軸の傾斜に抗して生まれ出てくる生ッ粋の測定概念なのである。

 どうだろうか。こんな詩人がかつていただろうか。
 いるわけはない。自身で「詩法の幾何学」に達しようとした詩人なんて、日本のどんな現代詩壇においても招かれざる客だったのだ。僅かに西脇順三郎や鷲津繁男がいたばかりだろうが、そのような名をぼくが示そうとしていること自体、それを示すべき天空の渡り鳥の線そのものが詩天の空から消えかかっているのだから、ここに誰をどのように持ち出しても説明にならないのである。
 だからむしろ、一穂はただ一人の孤絶の立脚者だったというしかないのだが、ふつうならそのくらいの孤絶者ならば、もっと地鳴りのような噂が立っていたはずなのである。それなのに吉田一穂はかくも忘られたままにある。なぜ、こんなふうになったのかは、ぼくにはさっぱりわからない。おそらく世の中では「極限」というものがあまりにも辛いと思いすぎているためだろう。みんながみんな「極限」から逃げ出しているからだろう。本当は「極限」だけが重要なのに。
 しかし、こんなふうに切り上げては、またまた吉田一穂を極北に置いてけぼりにしてしまうことになる。ぼくは一穂が一見、極北や極限を離れているように見えたときも、なお一穂でありつづけたことを、以下にごくごく簡略に紹介しておくことにする。

 先にも記したように、吉田一穂は明治31年に北海道上磯に生まれた。8月15日である。早くから老子・陶淵明・鴨長明に惹かれていた。一穂はその存在の当初から「無」が好きだったのだ。
 札幌に出て中学校を途中までおくるのだが、大正12年に北原白秋の『桐の花』一冊をかかえて出奔、白秋の詩語が響く早稲田界隈に吸い寄せられるように下宿して、予備校に通った。ここでアイルランド文学を知った。ケルト神話やダンセーニやイエーツやパウンドだ。はやくも西の知と東の無とが、北海道とアイルランドという北方軸で交わったのである。
 やがて早稲田英文科に入ると、級友の佐藤一英・横光利一・中山義秀と胸襟をひらく仲になり、ボート部に所属して舵手をつとめ、短歌を詠んで若山牧水を紹介された。こうした一穂はきっとわかりやすいはずである。しかしこのころ家業が急速に没落し、送金が絶えたのを機に早稲田を放逐してしまう。そして自活のために著作に専念する決意をした。このときに詩歌や随筆を推敲して綴る一方で、実業之日本社や研究社の「中學生」「女學生」などの雑誌に、心ばかりの童話や童謡を書いた。これが、のちに知る人の知る一穂の童話作品群の礎になっている。名作『海の人形』『氷島漂流記』の原型はほとんどこの時期にできていた。
 これはちょっとホッとする一穂だろう。一穂の童話はこの『大系』第3巻にも35篇ほど収録されているのだが、いずれも優しく、寓意と飛躍に富んで、そこにちょっぴり異常が挟まれている。その最も初期の『もも』は、子供が桃を食べながらお父さんに「桃太郎ってほんとうにいるの?」と聞くところから始まって、お父さんがその種をまいて育てれば桃太郎になると言うので、それを楽しみにするという、ごく短い物語になっている。ところが桃の木が育つよりも子供のほうが大人になるほうがずっと早い。成長した子供はそれでも父の話を確認したくて、お父さんに聞く。父が笑って「おまえが桃太郎なんだ」と言うと、子供は「あ さうか とうなづいて あたまを かきました」というものだ。

 そんな日々を送っていた一穂がやっと小田原の白秋を尋ねたのは24歳のときだった。これが機縁で、つづいて島木赤彦や岩波茂雄に紹介されるのだが、まだ出版界は一穂の才能を認めようとはしなかった。今日同様に、あまりに難解、あまりに形而上的に映ったらしい。岩波茂雄もさっさと逃げた。
 しかし一穂は世間との交信がうまくいかないことなど、すでにどうでもよかったようである。そのかわり、3人の詩人たちとの交信だけは絶やさなかった。
 吉田一穂が白秋に兄事しようとしたことは一穂の起爆を知るうえで特筆される。白秋はのちに岩波文庫の詩集の解説を一穂に頼んだのだが、そこに一穂はこう書いた。「開版、匂ふばかりの『桐の花』は、霙(みぞれ)ふる夜の津軽海峡を、北へ渡る少年の手にあつた。これが北原白秋を知る始めであつたが、新鮮な触感は装幀ともに感覚の分光彩(スペクトラム)として、私に詩集であるとの錯覚を与えた」。
 少年期の一穂が白秋に憧れた事由を語っているとともに、その『桐の花』が歌集であったことを語ろうとしている。この、わざわざ歌集を詩集だと錯覚したということを書いているのが一穂なのである。また、こうも書いていた、「内から噴き溢れる生命の歓喜に虹の圓光を放つて明るく豊かな童心白秋は、黄金の楊子を銜へて生れてきたと云はれるほどの天恵の詩人であつた」「この美の享受者は、基督教徒に非ずして邪宗門のエキゾティシズムに惑溺し、浪漫主義の火酒に酔ひ、無頼に非ずして江戸情緒のデカダンを装ふ」と。
 美辞を並べてはいるが、白秋の詩語を褒めているわけではない。ただひたすら、白秋の先駆性が自分にとってありがたかったということを述べた。しかし、それが一穂なのである。またここには、一穂が世渡りが下手だった雰囲気も吐露されている。恩義のある白秋に、あえて詩集と歌集のとりちがえなど語らないほうがいいに決まっているのに、そんなことをした。では、これはどういうことか。つまりは、一穂にとって白秋は桃太郎の話を最初にしてくれたお父さんだったのだ。一穂を鼓舞させた支柱ではあったのだが、詩質という点では一穂は白秋とはかなり異なっていたことを知っていたわけである。けれども一穂は最後の最後まで白秋を評価し、擁護する。

 白秋とともに一穂が私淑したのは福士幸次郎だった。福士幸次郎は鉄の古代を推理した『原日本考』の思索者であって、時代を切り裂く詩人であった。
 福士幸次郎のことを知る人は、これまた、いまはまことに稀少だが、絶対に忘れてはならぬ思想者であって、日本詩人だった。化石学者で地球科学者の井尻正二がその弟子筋になる。だから井尻さんは終始一貫して福士と一穂とを称えた。称えたのは仲間だったという理由だけではない。福士が日本人らしからぬ弁証法的思考をもっていたこと、一穂が「地軸の変動」についての詩人らしからぬ大胆な科学的仮説をたてたことに、それぞれ驚嘆したせいでもあった。しかし、一穂が福士幸次郎に傾倒したことは、その後の一穂をますます孤独にしていくことになる。福士幸次郎もまた、いっさいの学説にもいっさいの詩壇にも背を向けた孤立者だったからだった。

 もう一人、一穂が交信しつづけた詩人がいた。金子光晴だ。大正11年、24歳になっていた一穂は、この年に金子が主宰して創刊した「楽園」に加担して詩を発表した。また、28歳のときは金子と組んで「日本詩会」を結成したりした。その後、白秋と福士が企画主宰した「新詩論」の編集を一穂は34歳のときに引き受けるのだが、このときも金子は良き相談相手になっている。
 けれどもこの金子との真摯な友情の重なりも、一穂のポピュラリティを奪うほうにはたらいた。金子はその後、第165夜に案内したように「絶望」と「異邦性」を歌う詩人になって、日本が飽食でいぎたなくなったときにはそのデスペレートな発言が話題になった。日本を捨てた金子は日本の社会に受け入れられたのだ。しかしだからといって世間に向かって何も言う気がなく、ひたすら極北の詩語を座標に点滴することだけが仕事であった一穂のことをメディアが理解するはずはなかったのだ。メディアは、金子の奔放な無頼性だけをよろこんだ。
 というわけで、こうした3人との交信は続いたものの、しかし、吉田一穂は生涯にわたって孤絶を貫いたとみたほうがいい。が、そう言ったきりでは、やはり一穂を知るにはまだ不足していよう。

 では、そろそろ決定的な"一言解説"が必要だろう。吉田一穂には比類なきアナキズムがあったのである。アナキズムといってびっくりするのなら、もうちょっとだけ正確にいえば「無位の思索」があったのだ。
 これは、「どこにも属さない意味を発見するために、いまはここにいる」という思索のことをいう。そのことを最後にごく少々、付け加えおきたい。
 吉田一穂の詩で最も有名になったのは「母」である。澁澤龍彦がやけに好きだった。この『大系』第1巻の冒頭に収録されている。こういうものだ。

  あヽ麗はしい距離(ディスタンス)、
  つねに遠のいてゆく風景‥‥

  悲しみの彼方、母への、
  捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。

『母』吉田一穂

『母』吉田一穂

 この詩は「遠のくディスタンス」と「打点するピアニッシモ」が併存しているところが独特である。そして、そこに「母」がいる。最も弱々しい打点が奏でる風景は、つねに遠のいていく風景なのである。しかし、それをいま「母」と呼ばずして、どうして現在などあるものか、どうして時空はあるものか。そういう詩である。
 これが一穂のすこぶるアナーキーな、しかし座標を失わない「無位の思索」の表現なのだ。無始と無終のあいだに座りこむ表現なのだ。最弱音は消えるのではない。全き否定に向かいつつあるかのようで、最も微細な音を鳴らしつづけて、その微かな音量によってこそ広大無辺なディスタンスを呑みこんでいるのである。
 了解してもらえるだろうか。了解してもらわなくたってかまわないけれど、せめて、「どこにも属さない意味を発見するために、いまはここにいる」という思索のために、いったい何をするべきかということを感じてもらえば、多少は吉田一穂が「母」にも「座標」にも「古代緑地」にも見えてくるのではないかと思う。こんな歌もある。ぼくもそうなのだが、この一点が、誰だってほしいはずなのだ。

  水底の静かなるかも一點のノスタルヂアは魚のごとくも

附記¶吉田一穂についてはもっといろいろのことを書きたかったのだが、どこかで難渋してしまった。実は一番書きたかったのは、たとえば『火をめぐる歌』などに精緻に展開されている日本語の詩歌にひそむ音律や日本思想についての思索だった。が、その話をするには未知の読者に吉田一穂を案内しなければならず、それにはそれほどの詩人の思索がなぜ見失われているかということを説明せねばならず、そんなことをすると腹が立つばかりだと思ううちに、結局、肝心なことを書かないですましてしまった。まあ、いいだろう。そのうちどこかで提供したい。
 これも腹立たしいことだが、一穂の著作はあまり手に入らない。ここに紹介した『吉田一穂大系』(仮面社)も版元そのものがとっくになくなっている。のみならず、これは一穂が怒っていたことだが、この大系によって御本人にはビタ一文も入らなかった。いま確実に入手できるのは小沢書店の『定本吉田一穂全集』全3巻と別巻、それに思潮社の現代詩文庫『吉田一穂詩集』と岩波文庫の加藤郁乎編『吉田一穂詩集』である。一穂論も少ないが、かつて井尻正二さんが構成した『詩人吉田一穂の世界』(築地書院)、添田邦裕『詩人吉田一穂・詩と童話の世界』(一穂社)、吉田美和子『吉田一穂の世界』(小沢書店)がある。また2000年に雑誌「江古田」44号が「102年目の吉田一穂」というすばらしい特集を組んだ。
 なお、『火をめぐる歌』などに見られる一穂の日本表現思想論については、かつて「現代詩手帖」で渋沢孝輔が「吉田一穂の日本語論」という出色の連載をしていたことがある。あれはどこかの本に入ったのだろうか。

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