ウィリアム・バトラー・イエーツ
鷹の井戸
角川文庫 1953・1989
ISBN:4042126014
William Butler Yeats
At the Hawk's Well 1917
[訳]松村みね子

 葛原妙子にこんな歌がある。
 「にっぽんの詩人ならざるイエーツは涸井に一羽の鷹を栖ましめぬ」。イエーツが日本の能に影響されて『鷹の井戸』を書いたという感動をうたったものだ。
 ケルトの若き英雄クーフリンが永遠の生命を求めて井戸にたどりつき、そこで水を求めたところ、井戸のかたわらにいた老人がこの水は涸れていて、これまでもたった三度しか水は湧いたことがないと言う。二人が問答をしていると、井戸を守るとみえていた女がはげしい鷹の声をあげ、打ち震えはじめる。老人はこれは水が湧く前兆だと言っているとまもなく、女は黒い衣裳を払って立ち上がり、鷹となって移り舞を始める。
 クーフリンはその鷹を追い、老人は眠りこむ。舞のテンポがはやくなり、それもやがて歌い収められると、あたりはまったく元のままで、いったいクーフリンはそこに来たのかどうか、女は鷹になったのかどうか、何もわからない。すべてはひょっとして老人が見た一場の夢だったかもしれないという物語である。
 では、なぜイエーツはこんな"ケルト能"をおもいついたのか。そのことをめぐるのがなんとも心地よい。

 あれこれのことを想うと、アーネスト・フェノロサが平田禿木に伴われて、梅若実に能を教わったのがことのはじまりである。さすがに能仕舞ではなく謡を習った。6回分の稽古料が18円。
 そのフェノロサが1908年にロンドンで客死したのち、フェノロサ未亡人が能に関する草稿と訳稿をエズラ・パウンドに届けた。日本語が読めないフェノロサに訳稿があろうはずはないから、これは平田禿木の試みだったろうが、パウンドはこれらを読んで驚いた。そこでフェノロサの能楽論に自分の見解を加え、『卒塔婆小町』『通小町』『熊坂』などを英文ブラッシュアップして、これらの成果を共著『日本の古典演劇の研究』として発表した。これが1916年のことである。
 一方、ウィリアム・バトラー・イエーツは1914年くらいからグレゴリー夫人が集めたアイルランドの神話や伝説をこつこつと調べていた。そのイエーツのもとで1913年から秘書をしていたのがパウンドである。さっそく「日本には能というとんでもない芸術がある」という話がイエーツの耳と目に入った。
イエーツも驚いた。なんだ、アイルランドの幻想と能の幻想は通底しているではないか。そこで能とケルトの同時調査をしながら書きあげられたのが『鷹の井戸』である。1915年に執筆開始、1917年に出版された。
 この作品は1916年に、出版を前にロンドンで上演された。海運王レディ・モード・キュナードの客間に皇太后・首相をはじめとする紳士淑女がずらりと集まり、エドマンド・デュラックの仮面と装置で、鷹の女には伊藤道郎が扮して舞った。伊藤は千田是也・伊藤熹朔の兄で、ぼくがずっと追いかけているダンサーである。ここでは詳しいことを省くけれど、東西の文化をつないだ人物として天心・フェノロサに匹敵するものがある。石井漠とも深くつながっているし、千田兄弟の一員として日本の演劇界ともつながっている。

 その伊藤道郎が1939年に日本に帰ってきたとき、『鷹の井戸』が九段の軍人会館で上演された。
 しかし西洋能『鷹の井戸』は日本人から見ると力が入りすぎていて、抜けがない。複式夢幻能としても破綻が目立つ。そこで横道満里雄がこれを改作し、翻案新能『鷹の泉』という日本の能にした。舞台もアイルランドから波斯国に、前シテが老人に、後シテを老人の霊とした。1949年、喜多実が初演した。
 しかし横道はこれも気にいらなかったとみえ、さら手を入れてシテやワキを捨てた斬新な構成にしていった。これがぼくも見た『鷹姫』で、観世寿夫が1967年に初演した。曲も寿夫さんが書いた。この『鷹姫』はさらに高橋睦郎によって発展させられ、フェノロサと梅若実の出会いは、かくて一世紀にわたってその翼をのばしつづけたのである。
 それにしてもイエーツもおそろしい。たちまちにして能のエッセンスを吸いとって、これをケルトの幻想にまぶして遠い蓬莱の国の香りに加上した。

 いまイエーツといえば、ノーベル賞をとったのちの老いた聖者の風格のあるイエーツ像がいちばん近しいものになっている。しかしイエーツの生涯はなまやさしいものではなかった。何度も鷹の井戸のそばにまで辿りつきながら、鷹が舞い上がって自分を嘲っているのを見ている。
 そのイエーツの多様な蒼穹ともいうべき「抉られた世界像」をいくつもかかえる複合魂の発芽は、ダブリンとロンドンの最も感じやすい世紀末のなかにある。イエーツは、新生アイルランド運動とケルト神話とモリスやワイルドらとの交流を通した神秘主義とともに、その多感な青年期をおくったのである。
 時期が時期、場所が場所だっただけに、それだけでも十分の青春だったはずだが、1890年には英国心霊協会に、さらには「黄金の暁」協会に入って、みずから魂の移動や浮上や転換の行方に目を凝らした。
 イエーツは現実の時と場だけにはいられなかったのだ。
 こうしたイエーツと神秘主義の結びつきは夙に有名だが、それがいわゆる心霊術的なオカルティズムなのか、その背後に光と闇を深めるケルトの心性にもとづくものなのか、生涯にわたって度重ねて劇的な恋愛をつづけた女性たちとの愛の深淵によるものなのか、それともイエーツの傷つきやすい詩魂のせいなのか、多くの可能性はあまりにもフラジャイルな複相的に組みこまれ、泡立ち、逆巻いていて、それらを何と名指されることを拒否しているかのようである。
 とくに背の高い美女モード・ゴンとの出会いは決定的だったようで、何度も求婚して断られ、それがために52歳までを独身で通した。やっと結婚したときは27歳年下の女性を選んでいる。
 ぼくは『フラジャイル』(筑摩書房)に『鷹の井戸』の紹介をかねたイエーツの印象を書いたとき、おもわずその本質的な「はかなさ」に言及し
たものだった。そしてわれわれが、日本人の心の歴史にこそ根付いていたとおもってきた「はかなさ」が、かえって、このアングロ・アイリッシュの詩人によって、もっと象徴的に表象されていることを指摘した。

 ともかくも民族主義者なのか、神秘主義者なのか、政治活動者なのか文学活動者なのか、時代に先んじているのか、時代に背を向けているのか、わからない。それがウィリアム・バトラー・イエーツなのである。
 卓越した詩人であることはまちがいないにしても、その方法は自動筆記は試みるは、能に埋没するは、すべてを月のヴィジョンに託するはで、一様ではない。ながらく、ろくなイエーツ論がなかったありさまなのも、この掴みがたい精神性のせいであろう。
 しかし、このような複合的な活動と好奇心と熱情をもった詩人こそを、ぼくはただの一枚のレッテルさえ貼らずに滔々と語りあう日々をもつべきではないかと、ずっとおもってきた。とくに日本人はイエーツを語るのがよい。こういう、揺れ動きつづけながら、誤解をしようとおもえばすぐに放逐できそうな詩人の魂をこそ、われわれは大きく内包する「余情」をもつべきなのである。
 それはイエーツが能を含んだぶん、能の国に生まれたわれわれがイエーツを含まなければならない「ほど」というものだ。

 ところで、いまさらいうまでもないことだが、イエーツの『ヴィジョン』(=幻想録)は、20世紀において最初に月知学を告げる最も重要な宣言の一冊だった。そこには『月の沈黙を友として』という有名な透徹がある。
 このことについては『ルナティックス』(作品社)でさんざん書いたことなのでくりかえさないが、われわれの思考や表現にはどこかで月か、月にあたるような、何の役にもたたない領分をもつべきなのである。それがぼくが名付けた月知学というもの、すなわちルナティックスというものである。
 このルナティックな領分を魂や想像力の裡にもっていないと、われわれはついつい現実の場から逃避をしたくなる。自分でそこがいいと思ってそこにやってきたのに、別の現実がそろそろほしくなって、そこへ逃げたくなる。むろんどこか別の現実を巧みに選んだところで、またそこが自分にふさわしくないと気になるのは必定で、結局は現実からの総撤退をいずれ迫られる。
 イエーツが拒否したことはまさにこのことだった。ときに鷹のごとく高く舞いあがり、ときに井戸のごとく深く沈潜していくところとは、もともと現実などにはありはしないのである。それは魂や想像力の奥に想定される「月の山水」でなければならず、その「月の山水」というものを、日々の現実を通して、どのように多様に、多彩に描いておくかということなのだ。
 しかし、そこは現実の役にはたたない領分でもあって、何かの拍子に照らされてキラリと光ることはあるにせよ、やはり決して自分では光ろうとはしない月的なるものなのである。
 ウィリアム・バトラー・イエーツの、この舞い上がる鷹と沈みこむ井戸とのルナティックな関係こそは、ぼくがこの10年ほど追いかけてきた日本数寄の、隠れた次元というものである。

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