中原中也
山羊の歌
文圃堂 1934 日本図書センター 1999
ISBN:4820519956

 この詩集は次の最後の一行でおわる。「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ」。
 この一行が紹介したくて、『山羊の歌』を選んだといっていい。詩集なら『在りし日の歌』のほうをよく読んだのに、あえて一冊となってこれにしたのは、この最後の一行のせいである。
 まさに、ぼくも夕刻に一切の存在の印画紙が何かに感光してくれればそれでいいと確信するものがある。ところが、なかなかそうはいかないのである。中原中也にして、やはりそうだった。

 中原中也が17歳で長谷川泰子と同棲した大将軍の下宿の跡を、17歳のぼくが訪ねたことがある。
 中也はそのころ立命館中学にいて、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』を読んで瞠目し、大空詩人の永井叔を知って影響をうけ、そして永井の演芸仲間のマキノ・プロの大部屋女優・長谷川泰子と同棲をはじめた。ぼくは九段高校にいて富士見町教会に通い、演劇部の女生徒に憧れながらも、離れた京都が無性に恋しくて、こっそり京都に通っていた。
 その直後、中也は富永太郎を知る。ぼくが最も畏怖した詩人である。こんなすごい奴はいないと思った。どうも中也もそう思ったらしく、東京に泰子とともに出てきてからは、早稲田界隈に止宿して富永の影響下に入った。ぼくは中学時代に親しくなったT泰子が大阪の帝塚山学院に行ったのを知って、ある日、中村晋造という友人を伴って帝塚山に会いに行った。泰子は天使のように朗らかに迎えてくれたが、一緒に会ったKという女学生が何か憂愁を漂わせていて、そちらが気になった。

 中也は富永に紹介されて、東大生の小林秀雄に出会った。小林の才能も凄そうだった。
 ところが富永はあっけなく病没してしまった。その直後、小林が泰子と同棲を始めた。みんな18歳である。大正時代が終わろうとしていた。中也は「むなしさ」を書く。ぼくは「比叡おろし」という歌をつくった。ピアノもギターもなかったので、ハーモニカで作曲し、採譜した。これは九段高校の新聞部にいて、高校を出てすぐに伊藤忠に入ったIFに贈った。
 中也は「山繭」に富永を追悼する「夭折した詩人」を書き、アテネ・フランセに通いはじめた。昭和2年、20歳。中也は河上徹太郎を知って、河上が諸井三郎らと組んでいた音楽集団「スルヤ」の準同人になった。中也は「朝の歌」「臨終」を作詞した。ぼくは早稲田の学生になっていて、素描座という劇団と早稲田大学新聞会とアジア学会に入った。
 20歳の中也に、こんな詩がある。賢治の『春と修羅』を購入した記録がのこっているから、その影響もあるだろうが、すでに中也自身にもなっている。

   宇宙の機構悉皆了知。
   一生存人としての正義満潮。
   美しき限りの鬱憂の情。
   以上三項の化合物として、
   中原中也は生息します。

 21歳、中也は小林秀雄の自宅で成城高校の学生の大岡昇平を知り、生涯の友となるが、酔えば小林をも大岡をも殴るように批判した。そんなとき小林が失踪し、泰子とも別れた。22歳、渋谷の神山に移り、阿部六郎・大岡・河上・富永次郎(太郎の弟)・古谷綱武・村井康男らと同人誌「白痴群」を出した。古谷は高田博厚を紹介してくれたが、そこには泰子が出入りしていた。
 ぼくはTKという女優に迫られて逃がれ、村松瑛子という女優の家に通った。村松剛の妹だった。そこで三島のことをさんざん聞いた。なぜか女優に縁が多く、坪内ミキ子を早稲田大学新聞で取材して、気にいられて坪内逍遥を語りあう日々をもった。しかし舞台上の女優では、バーナード・ショーによるジャンヌ・ダルクを演じた岸田今日子にまいっていた。
 思想的には埴谷雄高と中村宏と、ぼくの3年上級でその後は東大出版会に行った門倉弘の影響をうけた。読んだものではトロツキーアインシュタイン鈴木大拙にショックをうけた。毎晩早稲田に泊まって、新聞紙をホッチキスでとめて掛け布団にして、眠った。1週間に30枚ずつ原稿を書いたが、すべて破棄した。

 23歳のとき中也は「汚れちまった悲しみに」を書いた。京都に遊んだあと、奈良にまわって教会のビリオン神父を訪ねた。戻って中央大学予科に編入している。
 そのころ長谷川泰子は築地小劇場の演出家の山川幸世とのあいだに子供をもうけていた。ぼくはIFと1カ月にわたって西海に遊んで、帰ってきてT泰子にふられた。
 24歳のとき東京外語の夜学に入り、中也は青山二郎に出会う。これがまた強烈な個性だった。どうも中也は自分の強烈な個性を上回る個性を選んでいく。そして精神の決闘をする。翌年、『山羊の歌』を自分で編集し予約募集の案内をつくるが、予約者は10名にとどかない。父親、弟についで祖母が亡くなった。ぼくは父を亡くし、借金を抱えることになった。仕方なく銀座のMACに入り、広告をとりはじめた。最優秀の成績だった。

 中也26歳。『山羊の歌』を芝書店にもちこんで断られ、江川書店で失敗し、ランボオの翻訳にとりくんだ。ぼくは広告とりのかたわら東販からの依頼で「ハイスクールライフ」という書店で無料配布する高校生向けの読書新聞を編集することになった。表紙を宇野亜喜良のイラストレーションで大きく飾り、そこに石原慎太郎・倉橋由美子谷川俊太郎らに"青春の一冊"を綴ってもらい、組みこんだ。創刊号が朝日新聞で採り上げられた。
 『山羊の歌』は2年がかりでやっと文圃堂に決まった。小林秀雄の肝入りだった。装幀を高村光太郎に依頼した。中也は27歳になっていた。ぼくは中上千里夫に資金を貸してもらって『遊』を創刊した。高橋秀元をはじめとするたった3人の仲間に、十川治江が手伝いにきていただけだった。
 28歳、小林が『山羊の歌』の書評を「文学界」に書いた。それから3年後の30歳で、中也は死んだ。昭和12年、1937年である。『在りし日の歌』の原稿が小林秀雄の手元に残った。

コメントは受け付けていません。