父の先見
おとぎ話が神話になるとき
紀伊国屋書店 1999
Jack Zipes
Fairy Tale as Myth/Myth as Fairy Tale 1994
[訳]吉田純子・阿部美春
この手の本が最近15年ほどふえているのだが、なかで骨を感じたのは2、3冊しかない。
この手の本というのは、童話や昔話、とくにグリム童話の機能を扱って、その“本当の狙い”を暴くといった趣向のもので、多くは「ナラトロジー(物語学)」にさえなっていないし、神話分析を下敷きにしたというほどでもなく、どこか文芸屋たちの“脅し”のように終わっていた。グリム童話は本当は残酷なんですよという見え透いた脅しである。
が、なかにはロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』(岩波書店)やアラン・ダンダスの『赤ずきんの秘密』(紀伊国屋書店)などの、メルヒェンの本質や都市民俗学に介入し、ナラトロジーの底辺に降りるものもあって(ようするに昔話の編集過程の本質を指摘するものもあって)、本書はそういう読みごたえがあるほうの1冊。
著者のザイプスはいまはミネソタ大学にいるドイツ文学や比較文学の専門家で、すでに『グリム兄弟』(筑摩書房)、『赤頭巾ちゃんは森を抜けて』(阿吽社)などが邦訳されている。最近は本書にも反映されているように、ストーリーテリングやジェンダーの研究に介入しているようである。
かつてロラン・バルトは、「神話というものは、文化の産物には見えないような様相を呈して社会がつくりあげた集合的な表象のことだ」と書いたものだった。
この「見えないような様相」ということが、本当は「見えない」からこそ重要な継承をすべきなのだが、今日の社会では事態は逆になってしまっていて、「見えない」ものはダメなもの、わかりにくいものとして一掃されるか、いかがわしいものだと決めつけられて、どうも文化として継承されないようになってしまった。
その代わり、なにもかもが見えていさえすれば、ディズニーのシンデレラも白雪姫もハリー・ポッターも、ユニバーサル・スタジオさえもが同じ“癒し効果”をもつに至っている。しかもそれが新たな神話化の現代的な兆候だという。まったくもって馬鹿馬鹿しい。少なくともハリー・ポッターなど、子供に見せないほうがいいに決まっている。魔法を誰もが使えるなんてことを、子供に見せてどうするか。
こんなことが新たな神話化なのだろうかというのが、著者の問題意識である。
著者は古典的なおとぎ話の多くが“アメリカ化”したことを分析し、どうもその責任を感じているようなふしがある。結構なことである。遅すぎるほどだ。
大阪はユニバーサル・スタジオでダメになっているのだし、東京文化はディズニーランドでとっくにダメになっている。ロスアンゼルス郊外にディズニーランドができた1955年、日本では船橋ヘルスセンターがオープンしたものだった。なんとも温泉家族的で、ごった煮のような施設だった。
しかしぼくはこちらこそがその後の日本にも継続的に愛されるべきだとおもって、『情報の歴史』(NTT出版)にはこの二つの施設のオープンの事項をタテのヘッドラインに並列併記したのだが、その後、常磐ハワイアンセンターとともにしだいに凋落していった船橋ヘルスセンターは「ららぽーと」というくだらない名前になって、さらにぼくが愛していた豊島園や二子玉川園も没落し、結局はディズニーランドばかりが集客を伸ばしつづけて今日に至ってしまった。
こんなことなら、みんなミッキーマウスになっちまえばいい(ぼくはミッキーマウスが大嫌いなのだ)。
てな話ばかりでは、気分が過激になりそうなので矛先を元に戻すが、そこで本書は、昔話の現代化に関する再検討に着手したわけである。この事態に異議申し立てをしたわけだ。あまりにもすべてが「ディズニーの呪文」にかかってしまったのではないか、それでいいのかというふうに。
ところで、「ディズニーの呪文」に文句をつける前に、われわれが知っておくべきことがある。それはシャルル・ペローやグリム兄弟によって近代文芸化された童話には「消毒」はなかったのかということだ。
結論からいえば、ペローやグリムも昔話をかなり「消毒」していた。その理由は簡単である。それ以前の昔話は子供向けとはかぎらなかったわけで、17世紀の文芸化されたお伽噺でさえ、ドーノワ夫人の『妖精物語』であれ、ラ・フォルスの『物語の物語』であれ、シュバリエ・ド・メリの『挿絵入りおとぎ話』であれ、どれも子供向けにはなっていなかった。17世紀まではヨーロッパの子供たちは両親がそうであったように、家庭教師や召使いや仲間から口承の昔話をじかに聞いたのだ。
そこをあえて子供向けにしたところがペローやグリムの功績なのである。当然そのぶんの「消毒」をした。しかしこの消毒は物語を子供向けにするかぎりの編集であって、それをさらに解毒させるというものではなかったのである。
それがディズニーでは子供向けのグリムやアンデルセンをさらに消毒し、解毒した。そこが違っていた。
で、「ディズニーの呪文」であるが、ザイプスによると従来の昔話はヨーロッパ中心に発生し、近代化を迎え、そのヴァージョンをふやしていったのだが(アジアでも南米でも昔話は育っていることは無視されている)、それらが「神話化」していったのはアメリカであったということらしい。
これは頷けるものがある。たしかにアメリカはネイティブ・アメリカンの昔話をもっていながら、それらは長らく放置され、もっぱらハリウッドや出版業界によってヨーロッパ型の昔話を下敷きにしたアメリカン・ドリームへの転換が精力的におこなわれてきた。その結果どうなったかというと、子供たちはディズニーの『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』しか知らなくなってしまったのだった。
これをジョルジュ・メリエスがつくった『シンデレラ』『青髯』『赤頭巾』とくらべると、ルイス・ジェイコブスも指摘していたように、メリエスが既存のおとぎ話に“動く挿絵”をつけたにすぎないのに対して、ウォルト・ディズニーは持ち前の正義感と右よりの思想とアメリカン・ドリーム主義をもって、まったく別の物語をつくってしまったのだった。
たとえば『長靴をはいた猫』である。
1697年に書かれたペローの童話では、抜け目のない猫が命をおびやかされ、生き延びるために知恵をしぼって王様と鬼をだますという筋書になっているのだが、ディズニーの初期アニメ映画では、主人公は王の娘に恋する若者であって、それと平行してメスの黒猫が王様のお抱え運転手の白猫に恋をするというふうになっている。
猫が長靴を入手するところはそのままなのだが、ディズニーの情熱的主題はどんな犠牲を払っても成功しようとしている若者に注がれた。
ディズニーの改変が「ゆゆしいもの」に向かっているなら、事態はそれほど問題ではない。そうではなくて、ディズニー童話のほうが明確な目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至るというふうになっているから問題なのである。つまり「ディズニーの呪文」とは、苦難を乗り越えて成功するというアメリカのための神話に結びつきすぎているところにあるわけなのだ。
もともとおとぎ話というものは、見捨てられた者がふと抱いた想像力を、別の者が搾取したり捏造しようとする苛酷に対して、想像力がこれを越えてしまうというところに本来の作用があった。
中世、魔術や魔法や錬金術は“常識”だった。それが近代になって科学や合理や平等の理念が登場すると、こうした魔法的な作用は放置されていくことになる。ペローやグリムが試みたことは、この中世的な魔法を近代化された社会のなかでいかに辻褄をあわせて復活させるかということだったのである。
ディズニー・アニメがこうしたことをまったく試みていないわけではない。しかし、筋書の多くがアメリカン・ドリームとあまりにも合致しすぎているため、そこからペローやグリムの狙いを読み取ることはほとんど不可能になっている。
これが「ディズニーの呪文」というものなのである。